以前の己が今の自分を見れば、いったい何を思うだろうか。彼以外に人影のない男子更衣室の中、此処に至るまでの自身の在り様を顧みた彩歌の脳裏に、不意にそんな疑問が過る。
全く以て無意味な問いだ。そんな事はわざわざ問うまでも無い。人はそう簡単に変われない。元より変革がそんな軽々なものであるのなら、彩歌はこうも苦しむ事はなかっただろう。故に、彩歌の裡から滅私の残滓は消えず、むしろ未だ色濃く息づいている。無意味というのはそういう事だ。問うまでもなく、
それを自覚していながら幾許かを無意味な思索に費やしてしまったのは、或いはここ数週間があまりに激動であったからなのかも知れない。ひとつの区切りを前にして、自然体で在りきれない。気負う己がいる事を、彼は否定できない。
ピアノコンクール東京大会の会場にて起きた騒動に端を発する一連は一旦の終結を見せたと言って良いだろう。そして現在はその終結から伸びた過程の中。かすみによる鶴の一声により、彼は同好会に再び体験入部という形でかかわろうとしている。
入部する気はないと、そう父に言い切ったのはいったい誰であったか。制服を放り込んだ鞄の口を閉め、彩歌が自嘲的に笑う。身嗜みは特に問題なし。念のために鼻を近づけて、汗の匂いがしないかを検める。──少なくとも、彼の嗅覚の上ではそれらしい匂いはない。自身の体臭に慣れ過ぎている可能性は、排除できないけれど。
『彩歌せんぱーい! まだですかー? 遅れちゃいますよー?』
「ごめんね、今終わった所だから!」
ノックの音。それに次ぐかすみの声。急かすようなその声に彩歌は身嗜みのチェックを切り上げ、手早く荷物を手に取る。教科書が入ったメインの鞄に、サブバッグ。その他、貴重品等々。全て、問題なし。
更衣室の端から出入口までの短距離を速足で駆け抜け、その勢いのままにドアを開く。そうして目前にいたのは先程までの制服姿ではなく、黄色を基調とした練習着姿のかすみだ。恐らく、彩歌が更衣室で着替えている間に、部室で着替えていたのだろう。
「やっと出てきた。遅いですよっ、彩歌先輩!」
「ごめんごめん。ちょっと身嗜みにね……」
彩歌の物言いはその言葉だけを見れば至極真っ当ではある。だが体験入部事態が急遽決まった彼が真面な道具を持っている訳もなく、けれどかすみはそこを指摘せずに流した。彼の瑕疵に気づいているのか否か。彩歌にとっても、かすみにとっても、どちらでも良い事だった。
身嗜みというのも嘘ではないが、半ば詭弁だ。だがかすみの前で口にするのはあまりにも不用意に過ぎ、かすみは顎に手を遣り彩歌を睨めつける。頭の先から、足の先まで。いっそ質量すら伴いそうなそれに、彩歌が無意識に居住まいを正す。
そうしてそのまま幾許か。彩歌の全身を検分し、かすみが重々しく頷いた。どうやら彩歌の恰好は、かすみの眼鏡に適ったようである。若干不服そうであるのは、或いは学校指定のジャージのままであるからだろうか。
「まぁ、
「ははは、手厳しいなぁ……でも、中須さんは練習着姿でも可愛いね」
「当然ですっ! なんたってかすみんですからね! かすみんは常に、1秒前のかすみんより可愛いのですっ!」
自信に満ち満ちた声音でそう言い切り、ポーズを執ってみせるかすみ。あまりにも大それた宣言だ。毎秒〝可愛い〟は進化し続けるなどと。だが彩歌はかすみのかすみたる一端を知るが故に、それを大言壮語と切って捨てる事はできない。むしろそれを現実とするかの如き偉容さえ、そこにはあった。
彩歌は〝中須かすみ〟の総てを知る訳ではないが、その信念こそがスクールアイドルたる〝中須かすみ〟、彼女の〝音〟であると知っている。だからこそ彩歌はかすみを尊敬しているのだ。
おほん、とかすみが咳払い。それを合図とするかのように彼女は踵を返し、彩歌がその後に続く。とはいえ部室は階段を昇ればすぐそこだ。到着の前に、彼には言っておくべき事があった。
「中須さん」
「んー? なんですか?」
「ありがとね」
「────」
刹那、かすみが息を呑んだのが、気配を通して彩歌にも伝わった。一時のみ彼女の足が止まり、しかしすぐに再び歩き出す。
「なーに言ってるんですか。彩歌先輩は乗せられただけですよ? このかすみんの完璧な計画に」
「それでも、だよ」
柔和な、それでいて厳然とした声音であった。およそ虚飾や糊塗などとは全く無縁の、彩歌に為し得る最大限の誠実。かすみは何も返さず、その表情もまた彩歌の位置からは窺い知る事ができない。それでも、彩歌は構わなかった。結局のところ、これは彼の自己満足なのだから。
或いはそれは、言わぬが華というものであったか。かすみが首謀者で、彩歌はその計画に乗せられた者。そのままでいれば、彼は大した責任を負う事もない。だが彼はかすみの物言いの裏に潜む真意に気づかぬほどの愚鈍であるつもりもなく、そして気づいてしまったからには彼に無視という選択は許されない。
詰まる所、真野彩歌という少年はひどく不器用なのだ。のらりくらりと立ち回れば何でもなく済ませられようものを、正面からぶつかる以外の処方を知らない。不意に純粋な感謝をぶつけられてドギマギとする中で、かすみはそう理解する。いっそ生真面目、潔癖に過ぎる在り様。しかし彼女にはそれが好ましいものに思えた。
そんな遣り取りをしているうちに、気づけば部室の扉は目の前。その取っ手に手を掛けて、かすみが振り返る。言葉は無い。だがその視線は何よりも雄弁に彼女の意思を伝え、彩歌は首肯を以て返した。それに応え、かすみがドアを開け放つ。
「皆さーん! 体験入部希望者を連れてきましたよー!」
どうぞ! とかすみ。その一声だけで視線が集中するのが、彩歌にも分かった。無形の熱量に、肌が焼け付くのを感じる。だが、それが何だというのか。未知、好奇、何するものぞ。覚悟を決めて、一歩を踏み込む。
ぐるりと見回してみれば、事前に知っていた1年生とせつ菜以外が皆一様に驚愕の表情を浮かべている。後から入部した2名を除き大半はせつ菜の一件で面識があるが、よもや彩歌が来るとは思っていなかったのだろう。そんな一同の前で、彩歌が笑んだ。
「既に顔見知りの方もいますが、改めて自己紹介を。音楽科2年、真野彩歌です。体験入部という形ではありますが、何卒よろしくお願いします」
スクールアイドル。それはその名の通り学生活動の一環としてアイドル活動を行う者達の総称であり、その活動の形態は部活動としての形を執っているのが殆どだ。その隆盛は精々が十数年を遡るのみの非常に若い文化ではあるが、昨今では枠は少ないながらも大規模な音楽フェスにも出演を果たすなど、社会の中で一定の地位を獲得しつつあると言えるだろう。
しかしそんな一大ムーブメントを誇るスクールアイドルだが、本質的に部活動に過ぎないが故にプロと比して冷笑を向ける者は少なくない。スクールアイドルは所詮アマチュア。それは紛れもない事実だ。だがアマチュアであるが故にプロとは異なる性質を内包するのもまた事実。間口の広さはその最たるものだ。
プロのアイドルとは異なり、スクールアイドルはなりたいと願うのなら学生であれば誰でもなる事ができる。それは取りも直さず競技人口増加の要因であり、今や高校であれば一校に1グループはあると言われる程だ。スクールアイドルのインターハイとも言える〝ラブライブ〟がある以上、その競争は熾烈であり、結果としてその練習はプロのそれと比しても見劣りしないものとなるのは、半ば自然な事と言えるだろう。
そしてそれは、ラブライブ出場を意図しない虹ヶ咲とて同じ事。彼女達は決して、怠慢のためにラブライブ出場を断念したのではないのだから。それ故にその練習量は並大抵のものではなく、昨日今日始めたばかりの者が付いていくのは難しい。──だが、殊〝アイドルたるべき練習〟というのであれば、彩歌には少しばかり覚えがあった。
「ふたりとも、お疲れー!」
中庭に響く侑の声。放課を迎えてさして経っていないためか他部活の喧騒で姦しい環境の中に在っても一際よく通る、澄んだ声だ。その直後、それを受け取った2人の人影が服が汚れるのも厭わずに半ば倒れこむようにして芝生に寝転んだ。
その人影その正体とは誰あろうせつ菜と彩歌のふたりであり、人目も憚らず大の字になっている彼らの額には玉のような汗が浮かんでいる。胸は激しく上下しており、ふたりがひどく体力を消耗しているのは誰の目にも明らかだ。
惨たる有様である。だが彼らがしていたのは何ら特殊な事ではない。体力向上を目的とした走り込み。それだけだ。途中から、出来心のために競争を始めてしまった事を除けばの話ではあるが。
酸欠による澱のような倦怠を振り切り、呼吸の制御のみに注力して幾許か。新鮮な酸素が全身に充足し、狭窄していた意識が正常な輪郭を取り戻していく。そうして五感に籠った熱が排出されていく中で彩歌は笑顔でスポーツドリンクのボトルを差し出す侑を捉え、身体を起こした。礼を言ってからボトルを受け取る。
総身が水分を欲している。今更ながらにそれを自覚し、ボトルを開栓。そうして中身を一気に呷ろうとボトルを傾けようとして、しかしその直前で背中に弱い衝撃を感じて彩歌は一旦手を止めた。首だけを巡らせればせつ菜が彼の背に重みを預けていて、視線の交錯に合わせて笑みを交わす。
せつ菜に負担を掛けないように体勢を調整する彩歌。それから一息でボトルの中身を飲み干して、ひとつ大きな吐息を零したのはふたり同時であった。それだけの事がおかしくて、ふたりで笑い合う。
「とうちゃーく! んーっ、イイ汗かいたーっ!!」
「お疲れ、愛ちゃん。これ、どうぞ」
「おっ、ありがと、ゆうゆ!」
さながら地上より照らす陽光のような、明朗快活を絵に描いたような声である。思わず引き寄せられるようにしてそちらを見れば、そこにいたのは長い金髪を高い位置でポニーテールで纏めた、笑顔が眩しい少女であった。
彩歌にとっては今日の初対面だった相手。だが彼は以前から名前は知っていた。それは他メンバー同様に虹ヶ咲のスクールアイドルであるからという事もあるが、大雅から何度か聞き及んでいたからでもあった。
大雅曰く〝部室棟のヒーロー〟。スクールアイドルとしては〝ガチギャル系〟もとい〝スマイル系〟を自称する彼女の名は〝宮下愛〟という。せつ菜のゲリラライブに心を動かされて璃奈と共に入部した比較的新参でありながら、総合的な実力は同好会でも指折りだと彩歌は聞き及んでいた。
少し後に続く歩夢を迎える侑と一度別れ、視線を巡らせる愛。そうして芝生の方へ目を遣った所でせつ菜らに気づいたようで、大ぶりな仕草で手を振りながら笑顔を投げかけた。
「あっ、いたいた。おーい! せっつー! さいちゃーん!」
「愛さん。お疲れ様です」
「お疲れ様、宮下さん。……さいちゃん?」
せっつーというのは、十中八九せつ菜の事だろう。ならば〝さいちゃん〟とは自分の事か。そういった意の問いを込めた疑問符であった。首を傾げる彩歌に、愛が何の衒いも無く首肯を返す。
「そだよ! 彩歌だから、さいちゃん。良くない?」
屈託のない笑顔である。快活な声音の印象はあれど、その笑顔だけでも愛はまるで地上に咲いた太陽のようであり、その圧倒的なまでの光輝の前に彩歌は思わずたじろいでしまう。何故か頬を膨らませながらせつ菜が背を押し付けてこなければ、彼はそのまま愛のペースに呑まれてしまっていただろう。
彩歌から転じて、さいちゃん。渾名としては実に明解で分かりやすい
故に彩歌の返答が一拍遅れてしまったのは愛の雰囲気に呑まれかけただとか渾名への疑問だとか、そういう事に依るものではない。強いて言えば、それは愛の距離感に依る所が大きかろう。最近まで自ら他者と広く距離を置いていた彼には、無防備への踏み込みはあまりにも強烈だ。対応が遅延するのも無理はない。
だが元来彩歌は人付き合いが苦手な方ではなく、理解してしまえば調整は容易だ。そうして口を開きかけたところに、歩夢を伴った侑が戻ってくる。
「なになに、何の話ー?」
「愛さんに渾名で呼ばれて、彩歌くんがとっても嬉しいって話です」
「ちょ、俺は別に嬉しいとは──」
言ってない。そう言いかけて、しかし彩歌は口を噤む。確かに、彼は嬉しいと直接口にしてはいない。だが全くその気が無かったのかと問われれば、それは否だ。たとえそれが相手にとって何でもない事であろうと、好意的な応答を不快に思う者などいまい。
しかし彩歌が途中で口を噤んでしまった事が何らかの不興を招いてしまったのか、せつ菜が彩歌の背により強く体重を預ける。普段から鍛えている事は同じだが体格差のために彩歌にとっては苦ではなく、余裕があるだけに不可解な行動に困惑してしまう。
頬を膨らませて少年の背に精一杯の重みを押し付けるせつ菜と、それを平然と受け止めながらも困惑の表情を見せる彩歌。彩歌が出来心で背を動かせばせつ菜はそのまま芝生に背中を叩きつけてしまいそうな体勢だが、彼に邪心の様子はない。むしろせつ菜が滑らないように体勢を調整しているのは、或いは無意識の事であろうか。時折侑らに助けを求めるような視線を送るが、彼女らはそれを微笑ましく見守っているだけだ。
「渾名かぁ……ちなみに、どんなの?」
「さいちゃん!」
「さいちゃん、ね……イイね。何かカワイイ。私もそう呼んじゃおっかな?」
「えぇっ!?」
何気なく侑が零した言葉に思わず驚愕が口を突いたのは、侑自身と愛を除いた3人。全く同時の事であった。だが忘我からの復帰はそれぞれであり、最も早かったのは歩夢。無邪気に笑む侑と驚いたままの彩歌の間で何度か視線を右往左往させ、存在を主張するように手を挙げる。
「じゃ、じゃあ私も!」
「上原さんまで!?」
聊か唐突にも思える歩夢の同調にまたしても驚きを見せる彩歌だが、それは彼女の行動というよりもむしろその指向性に対する所が大きかろう。彼女が真に憂慮する所が侑の変化である事に彼は気付いていて、それ故にその変化に彼女自身が追随するという選択をしたのが意外だったのだ。或いはそれは、短い付き合いの中で彼が築いた信用の一応の顕れなのだろうか。信頼と言うには、非常に怪しい所だ。
そんな遣り取りをしているうちに次第に体力を回復してきて、休憩の最後とばかりにボトルを傾ける。だがその刹那、不意に背後の重みが離れて、彼はその手を止めた。振り返ってみればなぜかせつ菜が正座で彼の方に向き直っており、それに気づいた彼もまた姿勢を正す。
首を傾げる侑達。彩歌は何事か分からないまでもただ事ではないと思わず唾液を呑み下し、数拍。顔を上げたせつ菜の瞳に宿る感情をあえて言語化するなら、覚悟だろうか。
「さ、さい……さいちゃ……うぅっ、やっぱり駄目です……恥ずかしい……」
生徒会長モードを思わせるあまりにも鋭い眼光を前に強張らせていた彩歌だが、そんな彼の緊張に反してせつ菜の口から零れたのは先程話題になっていた彼の渾名。しかし何度か言いかけたものの最後まで言い切る事はできず、遂には耳まで赤くして俯いてしまう。
静寂。数瞬の時を置いて、侑達はせつ菜の意図を理解する。詰まる所、彼女もまた彩歌を呼んでみようとしたのだろう。真に呼び名を変えるつもりだったのか、或いは只の戯れであったかは4人の知る所ではないが、それはさして重要ではない。それよりも強く4人の胸を貫いたのは、言い切る前に恥じらいのために俯いてしまったという点であった。
だが、それだけだ。それだけの筈だ。それを理解していながらまるでせつ菜の内心が伝播したかのように彩歌もまた顔を赤くして伏し目がちになってしまう。両者ともに赤面してしまったが故に会話も無い、いっそ気まずさすらある状況。だがそれを砕き割るように、横合いから声。
「んーっ! 恥ずかしがるせつ菜ちゃんも可愛いよーっ!」
「えっ、侑ちゃん!?」
「侑さん!? ──うわぁ!?」
もう辛抱たまらない。そんな調子で侑がせつ菜に抱き着き、そしてせつ菜は全く油断していたが為にそれに抵抗できない。距離を詰めてきた侑に為されるがまま、頭を撫でられるばかりだ。その後ろでは歩夢が先程にもまして頬を膨らませていて、そんな歩夢を見て愛が笑んでいる。
或いは空気を読めていないと詰られ得る行動だ。だがそれが侑なりに気を遣っての事であると分からぬ彩歌ではなく、彼も笑ってしまう。せつ菜の頬は依然として赤いままだが、先のそれとは性質が異なるようであった。
そうして気が済むまで侑はせつ菜を撫でて、やがて歩夢によって半ば強引に引きはがされる。何処かシュールな絵面だが、弛緩した空気が元の形を取り戻したのは事実だ。
「でも、せっつーとさいちゃん、ホント仲良しだね! いや、もうラブラブ?」
「ラブッ……!? 何を言うんですか、愛さん!?」
「えー? でもさいちゃんと一緒に走ってるときのせっつー、めっちゃ笑顔だったよ? ね、歩夢!」
「うん、そうだね。いつも素敵なせつ菜ちゃんの笑顔が、もっと素敵だったもん!」
見たかったなー、と呑気な侑。だが爆弾を投下された側としてはたまったものではなく、落ち着いてきた所であったというのに再び紅潮してしまっている。自身の心臓が耳元で早鐘を打っているかのように錯覚する程、それは甚だしいものであった。
恐らく愛に彩歌らを揶揄う意図は全く無いのだろう。彼は普段の練習の様子を知っている訳ではないが、少なくとも宮下愛という少女は心にもない事を口にする人ではないように、彼には思えたのだ。彼は人を見る目には、自信があった。
だがそれだけに愛の言葉が内包する質量を回避する術を彩歌は持たず、故に正面から受け留めるより他にない。気にしない、などは無理な話。たとえ不完全だとしても、彼は誠実を旨とするが為に。
「そ、それは……そのぉ……」
常に明朗たるせつ菜らしからぬ、何か言い淀むような物言いであった。その異質のために彩歌は自然とそちらに視線を送ってしまい、結果、彼の方を一瞥したせつ菜と目が合ってしまう。
交錯する視線。跳ねる心拍。訳も分からず恥ずかしくなってしまい、ふたりは大袈裟な所作で目を逸らしてしまう。そんな彼らを生暖かい眼差しで見守る侑らにも気づかない程、今の彼らからは余裕が消えていた。
何と言う事は無い。いつも通りだ。自らの心境を言葉にするなど、常にしている事だ。せつ菜はそう自らに言い聞かせるが、動揺は沈んでくれない。先刻、かすみと彩歌の遣り取りを目撃した時と同じだ。理性と感情が解離している。それでもどうにか両者の手綱を手繰り寄せ、言葉の続きを紡ぐ。
「彩歌くんと一緒に部活ができたことが嬉しくて……はしゃいでしまっていたんです」
「優木さん……」
再び交錯する瞳。だが、今度は互いに目を逸らす事は無かった。気恥ずかしさが無くなったというのではない。それは依然として彼らの裡にあって、同時にそれと同等の熱量が均衡している。名状し難いそれの適切な名前を探し、そのうちに彩歌は自然とせつ菜に答えを返していた。
「……うん。俺もだよ。俺も……キミと一緒に活動できて、嬉しい」
──充足。せつ菜の吐露に応えると共に、彼に内在する未明よりその言葉が立ち上がる。そしてその瞬間、彼は自覚した。自身の中に在った不明こそは充足に違いなく、柄にもなく昂揚があったのはそのせいなのだと。
何故充足しているか。そんな事は、この際重要ではない。疑問をかなぐり捨ててしまう程、彼はたったそれだけの事で満たされていた。それはきっと、せつ菜も同じ。そんな幻想めいた交感を、今の彼らは体現していた。
一緒にいるだけでも楽しい。微笑みかけてくれるだけで嬉しい。些細な交感だけでも満たされる。訳が分からないながら、それだけは分かる。感慨を共有し微笑みを交わすふたり。まるで、それだけで完結した世界。
「おーい、戻ってこーい」
「何と言うか、ごちそうさまって感じだね……」
おほん、と咳払い。自分達から仕掛けておいて、とでも言いたげな目で彩歌は侑らを見て、しかしそれもつかの間、何故かおかしくて5人は笑声を漏らす。態々文句をつけるような事ではない。ただの戯れとして流せる事だ。
特筆するような事は何もない。けれど、彩歌は久しく忘れてしまっていた感情でもあった。大雅以外の者であろうと、友人と駄弁に興じるのは得難い幸福であるのだと。かつては彼もまた、それを知っていた筈なのに。
「さて、じゃあそろそろ休憩は終わりにして……次はどうしよっか。さいちゃん、何かやりたい事ある?」
「え、俺? うーん……いきなり言われても、パッとは思いつかないなぁ……」
ごく自然に侑からさいちゃんと呼びかけられてもそれ自体には一切突っ込みを入れず、彩歌は頤に手を遣って考えを巡らせる。アイドルたるべき練習には彼も覚えがあるが、彼はあくまでも客人に近い立場である。希望は考えていなかったのだ。
発声練習。或いはダンス練習。すぐに彩歌の脳裏に浮かんだのはそれらであったが、今はそれぞれ3年生と1年生が行っている。今挙げるものとしては、聊か不適切であろう。
そうして彩歌が思考を巡らせ始め、幾許。彼の視界の端で愛が何かを思いついたかのように挙手をする。
「ハイ、宮下君。発言どうぞ」
「
……って、そーじゃなくて。愛さん、さいちゃんの歌が聴いてみたいな!」
「俺の歌?」
何でまた、とでも言いたげな彩歌に、愛はさらに言葉を続ける。
「だって、ゆうゆも歩夢もせっつーも、さいちゃんの歌聴いたコトあるんでしょ? なのに愛さんだけ聴いたコトないなんて、不公平だぞー?」
「不公平って、そんな大袈裟な……まぁ皆がそれでいいなら、俺は構わないけど……」
そう言ってから目線を侑らの方に遣る彩歌。彼女らはそれだけでも彼の意図を察したようで、同様に言外に答えを返す。即ち、期待の籠った眼差しである。それを受け取ってしまった以上彼に拒否権はなく、苦笑を漏らす。
歌。一言でそう表しても、その形は様々だ。何であれ彩歌に手を抜くつもりはなかったが、ただ歌うだけでも愛の要望を反故にしたことにはならないだろう。歌以上の指定がない以上、それも間違いではない。
しかし、此処はスクールアイドル同好会である。たとえ間違いではなかったとしても、その場にふさわしい形というものがあろう。それを知ったうえで無視するつもりも、彩歌には無い。
ならば、やる事は決まっている。観客のようにベンチに座った4人の前に立ち、深呼吸をひとつ。シュシュは更衣室に置いてきてしまったが、問題はない。
(──いや)
完了直前であった工程をその一言のみで停止させ、全過程を破却する。
ならば、如何とするか。未だ彩歌はそれを知らず、だが知らずともやりようはある。知らぬというのなら、知らないなりに。つまりは全くの手探りだ。暴投にも等しかろう。
数年に渡って積み上げてきたやり方を放棄するが如き蛮行だ。だが、できる。彩歌にはその確信があった。曲は先刻中庭で聴いていたそれ。瞑目し、自問する。或いは、再認する。
必要であるのは歌詞だけではない。ダンスの振りに、曲の音程。そしてそれらを合一しひとつの作品と化さしめる極まった自律。──全て、問題なし。明確な根拠は無い。ただ、その確信だけがあった。
振りは全て覚えている。たとえ数年のブランクがあるのだとしても、テレビの中で只管に輝きを放っていた父の動きは、全て彼の脳裏に刻まれている。光は、彼の網膜に焼き付いている。感動もまた彼の裡で色褪せず、故に解はひとつだ。今はただ、己が魂の
「っ……!」
刹那、息を呑んだのは果たして誰であったか。大堡礁を思わせる孔雀青の瞳の中に、淡く、しかし確かな燐光が瞬く。まるで、星のような。それが嘗て彼が見せた欠落の凶星と似て非なるものだと気づいたのは、せつ菜だけだ。
鋭い吸気。そして。
「────!」
──世界が崩落する。或いは、神羅万象がその内側より砕け割れ、在るべき容を喪う。それが錯覚であると、忘れてしまう程の壮絶であった。
蒼穹に伸びる少年の歌声。大地を踏みしめ厳然と、しかし軽快に躍動する五体。そして、その瞳の裡で燦然と輝く吉星。それらは真野彩歌というひとつの土台の上で束ねられ、圧倒的な暴威を以て地に満ちる。その前にあっては絶対たる世界すら屈服し、真理たる法を引き剥がされる。そうして空白と化した天地の
コンクールの時と同じ、気づけば呼吸すら忘れている程の壮麗。少年が齎す衝撃に、諸人は正常な認識を奪われる。だが、その中でもせつ菜らにはひとつの確信があった。
そうして彩歌の歌声が止み残響が陽光の中に溶け果てるまで、世界は静寂の裡。しかし塗り潰された世界もやがて元の容を取り戻していき、彩歌が恭しく礼を執ると共に完全に回帰する。次いで、初めに動いたのは言い出しっぺでもある愛であった。
「すっ──ごい! さいちゃん、めっちゃ上手いじゃん!
「さ、さい……? あぁ! 才能と彩歌で──」
「わ、わーっ!? ダジャレの解説は禁止ー!!」
一拍遅れて愛のダジャレが意味するところを理解し思わず口にしてしまいそうになる彩歌だったが、愛は慌てながらも両手で彼の口を塞ぐ事で難を逃れた。もがもが、と言葉にならぬ吐息を零してから、了解を込めた首肯。そうして、彼の唇が自由を取り戻した。
尤もダジャレという形ではあれど愛の賛辞が紛れもない本心である事を疑う彩歌ではなく、故に下手な謙遜が失礼である事は、彼にも分かる。無論、反省点はある。しかしそれは内心に留め置き、代わりに口にするのは賛辞に対する礼のみだ。
「やっぱり凄いね、さいちゃんの歌! ね、歩夢!」
「そうだね、侑ちゃん。でも、ダンスもできたんだね、彩歌く……さいちゃん」
「無理に渾名で呼ばなくても……
まぁ、うん。ダンスは父から習ってたんだ。歌と一緒にね。だから父の曲なら一通り歌えるし、踊れる」
その答えだけで侑は合点がいったようだが、対して歩夢は引っ掛かりを覚えているようであった。彩歌の父が元アイドルであると知っているのはこの場ではせつ菜と侑のみであるのだから、当然の反応である。
彩歌がアイドルたるべき練習に覚えがあるというのは、詰まる所それが要因であった。数年のブランクがある為に実際のパフォーマンス全体の完成度としてはせつ菜らに比べて数歩遅れを取ってしまうのは否めないけれど。
しかしそれでも賛辞を受け取るのは嬉しくて、彩歌が笑みを零す。そんな彼の所作にせつ菜も笑い、それに気づいた彩歌が今度は恥ずかしそうに後ろ髪を掻いた。
「よーし、愛さんも燃えてきたー! アタシ、もういっかい走ってくるね!」
「イイね。俺もそうしようかな」
「おっ、じゃあ今度は愛さんと競争するー?」
望む所! 彩歌がそう返答した直後、ふたちは示し合わせたかの如く周囲の了解も所要時間計測開始の合図も待たずに駆け出してしまう。今度は途中の流れではなく、初めから競い合い。その成果、残された3人が気づいた時には彼らは既に遥か先だ。
「愛ちゃん!? 彩歌くん!?」
「これは負けていられませんね! 私たちも行きましょう、歩夢さん!」
「せつ菜ちゃんまで!?」
先に駆け出したふたりに追随するように走り出すせつ菜と、勇みすぎにも見える3人に驚きつつも結局は彼らに倣って走る歩夢。4人を笑顔のままに見送って、残された静寂に侑は微かな寂寞を見出す。
すぐに搔き消される静謐だ。彼らの様子を見ればきっと10分も経たないうちに先頭のふたりが戻ってきて、さして間を置かずに残りの2人も戻ってくる筈だ。それを分かっていても、どうしても物寂しさはある。何故なら、皆と過ごすこの時間はとても───
「楽しいなぁ……!」
充実した1日だった。1日のうちにやるべき事を全て済ませ、身体に伸し掛かる心地の良い疲労感を噛みしめながら彩歌はそう実感する。かすみから誘われた時、不安が全く無かったと言えば嘘になるけれど、それは全く杞憂であったと今ならば断言できる。
そして、これは今日だけで終わるものではない。具体的にいつまでと決めている訳ではないが、少なくとも明日は3年生の練習に同行する手筈となっている。緊張はあるが、同時に彩歌は楽しみでもあった。
この活動の先に、果たして彩歌が求めるものがあるのかは彼自身にも分からない。けれど、今はただ、この甘美な楽しさに身を任せていたい。彼は、強くそう願っていた。
──だが、楽しんでいるだけでは、あまりにも不実だ。
「……よし」
短く言葉を漏らし、椅子を引いて学習机と向き合う。そうして引き出しを開けて、取り出したのは
これが本当に返礼に値するものであるか、彩歌には分からない。ありがた迷惑になる可能性も全くないとは言えないだろう。しかしそれはこの先に考慮すべき事で、今考えるべき事ではない。
今すべきことは、この気持ちを楽譜に落とし込む事。その一念の下、彩歌は楽譜にペンを走らせ始めた。
──何を楽しそうに。
まるで、雨音のような。そんな嘲笑と怨嗟の声を、聴かなかった事にして。
完璧で究極でなくとも、キミは。
この度、苗根杏さん(https://syosetu.org/user/216522/ X:@Rhythm_Johannes)に本作主人公である真野彩歌の絵を描いていただきました。苗根杏さんには、この場を借りて改めてお礼申し上げます。
【挿絵表示】