人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、人間というものはとかく噂話というものを好む。無論拡散速度の差異はあるが本質的に話の善悪は直接の関係を持たず、であればそれは人間の根本的な性質のひとつであるのだろう。昨今の情報化社会においてはこの性質もひどく顕著であり、ひとつの情報がたった数分でコミュニティ内全域に知られているという事も少なくない。
詰まる所、情報とはいつ何処で誰に知られているか分からぬもの。彩歌もそれは知識としては知っていて、だが何処か他人事のように捉えてもいた。或いは呑気とも言える有様だが、今まで彼は
故にこそ、彼は想像してもいなかったのだ。彼がスクールアイドル同好会の面々と行動を共にしていた事を、その翌日にはクラスメイトに知られている、などと。
しかし彩歌自身は想定していなかった事とはいえ、仕方のない事ではあるのだ。見学などであるならいざ知らず、昨日は二度の走り込みの上、中庭の中心でパフォーマンスまでしたのだから、目撃者は相応に生まれよう。必定、彩歌は朝からクラスメイトからの質問攻めに遭う羽目になっていた。
いったいどういう経緯で、だとか。スクールアイドルになるのか、だとか。時折、おまえには生徒会長というものがいながら、などという言葉もあったが、彩歌はあえてそれを聞かなかった事にした。彼はクラスメイト達と普段から良好な関係を築いているためそれは尋問というよりもむしろ友人同士の戯れの様相を呈していたが、それだけに遠慮というものが無い。結局半ば無理矢理に質問を切り上げ、這う這うの体でその場を後にする事となってしまったのは彼の失態であると言えよう。
活動開始前に余計な体力を消費してしまった我が身の不出来を嘆きつつも、早々に思考を切り上げる彩歌。反省は重要だが、今彼がすべきことはそれではない。早くしなければ活動が始まってしまう。所定の時刻までは幾分かの猶予はあるが、あくまでも彼は客人のようなものだ。面倒をかけてしまっている立場なのだから、せめて到着は早めにしているのが道理というものだろう。
故に足取りは早く、しかし規律は破らない程度に。そんな絶妙な速度で歩く彩歌の姿は周囲からすれば聊か奇異であった事だろう。だが彩歌は気にせず、そうして中庭の間を通り抜ける渡り廊下の半ば辺りまで差し掛かった。
「……ん?」
既に通りなれた道である。景色など季節の移り変わりを感じた時に注意を向ける程度で、急いでいる時に態々敢えて見遣るには、彩歌にとってその場所は日常であり過ぎる。
しかし見慣れた景色であるだけに、そこに生まれた異質に気づくのは容易だ。視界の端に映ったそれのために思わず足を止め、視線を中庭の中央の方へ。そうして彼は、自らが見たものが幻覚などではなく確かな現実である事を知る。
──眠り姫。自然と、そんな形容が彩歌の脳裏に過った。ともすれば過剰ともなり得る表現であろうが、彼の目前に在る光景はむしろ、それと比してもなお言い尽くせぬようですらある。場所は彼もよく知る中庭に相違ないというのに、まるで御伽噺の一場面をそのまま切り出したかの如く。故にこその眠り姫。
彩歌は彼女の名を知っている。〝近江彼方〟。ライフデザイン学科に所属する3年生であり、〝マイペース系〟を自称するスクールアイドルだ。そんな彼女が、木陰のベンチにて愛用の枕をお供に夢の世界に旅立っていた。
「起こした方がいいのかな……?」
そう呟きながら、彩歌は自身の腕時計に目線を落とす。活動開始まではまだ幾分かの余裕があるが、それまでに自発的に目覚めるか否かはかなり怪しいと言わざるを得まい。
見なかった事にする。これは彩歌にとって、最もナンセンスな選択肢だ。偶然であるとはいえ、見てしまった以上は彼にはその責任がある。全てを無かった事にするなど、責任の放棄に等しい。
しかし、起こすにしても方法というものがあろう。最も手っ取り早いのは揺り起こすというものだろうが、気安く触れるのも失礼だ。となれば呼びかけて起こすよりほかにないと彩歌は結論するが、同時に彼には躊躇いもあった。
自身にその権利があるのか、という事もある。けれどそれ以上に遠目から見ても彼方は非常に熟睡しているようで、そこから強引に現実に引き戻す判断について、前例を知らぬ彼には正否を判ずる術がない。そもそも屋外のベンチで眠ってしまう感覚というのは、彼にも覚えがあった。
だが、ここで何の努力もせずに悪い結果に繋がるというのも寝覚めが悪い。そう決し、彩歌は一歩踏み出そうとする。だが。
「眠り姫を起こす定番と言えば、やっぱり王子様のキスかしら?」
何の前触れもなしに横合いから投げかけられる声。しかし、何という事は無い。彩歌が思案している最中に彼の存在に気づいて声をかけたというだけであり、故に彼もさして驚かずに声の主の方へ振り返る。
そうして彩歌が向き直った先、そこにいたのは2名の女子生徒であった。両者共にリボンタイの色は3年生である事を示す緑。片や紺のウルフカットと同色の瞳が印象的な少女であり、もう一方は襟足でふたつの三つ編みにした赤毛といっそコケティッシュなそばかすが特徴の少女だ。即ち、〝セクシー系〟こと〝朝香果林〟と〝癒し系〟こと〝エマ・ヴェルデ〟の両名である。
「Ciao! 彩歌くん」
「こんにちは、朝香先輩、ヴェルデ先輩。……やりませんからね? セクハラ野郎になっちゃいますよ」
「勿論分かってるわよ。……ふふっ、赤くなっちゃって、可愛いわね」
揶揄われた。そう理解した彩歌はぐぬぬと言わんばかりに歯噛みするが、返す言葉は無い。彼とて多感な男子高校生である。全く動揺しないという方が不可能であり、それを自覚すればこそ反論は無意味というものだ。
何より、彩歌を見る果林の目だ。長い睫毛に彩られた青色の瞳はまるでその眼光のみで彼の内面を探っているかのようですらあって、無意味に姿勢を正してしまう。そんな彼の様子に、果林が再び笑みを零す。
「そんなに緊張するコトないじゃない。ふふ、本当にせつ菜の言っていた通りなのね、貴方って」
「優木さんが……? 何て言ってたんです?」
「気になる? 結構ダイタンなのね、貴方」
「もう、果林ちゃん? あんまり困らせちゃダメだよ?」
動揺。或いは、気後れ。彩歌を揶揄う果林の所作は煽情的というよりもむしろ蠱惑的なまでにミステリアスであり、距離を詰められる度に同じだけ後退ってすまう。あまりにも初心に過ぎる応答だ。打てば響くを具現したかのようですらあり、ならば果林がそれを楽しんでしまうのも仕方のない事であろう。見かねたエマが静止し、距離が元に戻る。
目前の事象に対し、真野彩歌は正面から受け留める以外の処方ができない。或いはそれしか知らない。故にこそ、打てば響く。伝聞の上から果林が見ていた彩歌の人物像はそんな所で、実際にその通りの反応をされてしまえば手応えを感じてしまうのも無理はない。
しかし自身が相手を見ている時、相手もまた自身を見ているが道理というもの。果林の所作の中に、彩歌は確かな自律の気配を見る。感触としてはかすみのそれに近いか。尤も、気取る事ができたからとて全く流し続ける事ができる筈もない。咳払いを零し、意識を切り替える。
「……それで、おふたりはどうしてここに?」
「わたしたちは、彼方ちゃんを探してたんだぁ。いつもは来てる時間になっても来ないから、多分お昼寝してるんだろうなって」
「それで彼方のお昼寝スポットを巡っていたら、たまたま貴方もいたのよ」
「あぁ、なるほど……確かに、あそこのベンチは気持ちいいですからね。俺もたまに昼寝してるから、気持ちはわかります」
そうなのよねぇ、と果林。その横ではエマが無言で何度か首肯をしている。そんなふたりの様子を見るに、この場所か、あるいはまた別の場所でふたりは彼方のペースに呑まれてしまった事があるのだろう。口元に笑みが浮かんでいる所を見れば、彼女らにとってそれが良い思い出であるのは明らかだ。
起こしに来た身までもが眠気に誘われて眠ってしまう。まさしくミイラ取りがミイラになるといった事態だ。だがそれを情けないと詰るのは、あまりにも無常に過ぎよう。見る者を眠りに誘う魔力めいたものを彼方が放射しているのは、彩歌が遠目から見ても明白であった。或いはそれこそが彼女のスクールアイドルたる魅力の一端であるのかも知れない。元々自身が持つ世界観に他者を引き入れる力だ。
それによるものか欠伸が誘引されるのを自覚しつつも果林とエマは中庭に踏み出し、彩歌もその後に続く。彼方が眠っているのは中庭の中央に屹立する、校地内で最も大きな樹が落とす影の中。愛用の枕に頭を預け幸せそうに眠る眠り姫の肩を、エマが優しく揺する。
「彼方ちゃん、起きて? 同好会始まっちゃうよ?」
「んぅ……」
身じろぎ。その光景がいかに幻想的であろうとも、眠り姫の目覚めに特別な事は何ら必要ではなく、ゆっくりと瞼が開きその内側に在る紫水晶の輝きを宿す瞳が白日の下に晒される。それから、ゆっくりと伸びをひとつ。目を擦り、柔らかな笑みを零す。
「おはよぉ、エマちゃん、果林ちゃん。おっ、今日はさいちゃんまでいるんだねぇ」
「おはようございます、近江先輩」
彼方までもがさいちゃんという渾名を使う事に、彩歌は最早突っ込みを入れる事も無い。いつの間に広がったのかという疑問はあれど、既に呼称として定着してしまっている以上、今更その所以を尋ねても詮無い事だろう。
何より、彩歌は渾名で呼ばれる事が嫌いではない。さいちゃんであれ、さっちゃんであれ。気恥ずかしくて、とても口には出せないけれど。故にあえて指摘する事も、言及する事も無い。
「おはよう、彼方。……なんて、悠長に挨拶している場合? 遅れちゃうわよ」
「あっ、本当だ。急がないとねぇ。ありがと、起こしてくれて」
彼方の礼に、柔和な笑みを以て返す果林とエマ。そこには確かな信頼と友愛の色合いがあり、言葉が無くとも思惟の交感は容易であるようだった。こんなやり取りを、彼女は何度もしてきたのだろう。
飽和した仮想の質量。三者のみで構成された世界。当然ながらそこに彩歌の居場所はなく、だが無用な疎外感が無いのは、彼女らがそれぞれに持つ色のためだろうか。思わず、彼の口元にも笑みが浮かぶ。
眠っている間についてしまった木の葉や土を払い落とし、鞄を手に立ち上がる彼方。そうして彼女は勇んで駆け出し、果林とエマもまたそれに続く。その光景はまるでいつかの夕焼けの再演のようで、なればそれに続くのもまた既視めいている。駆け出すのが数拍遅れた彩歌の方に果林が振り返った。
「ホラ、彩歌も、置いて行っちゃうわよ?」
「すみません、今行きます!」
「それじゃあ、そろそろ一度休憩しましょうか」
広大かつ巨大な校地を有する虹ヶ咲学園、その一角に存在するダンススタジオにて。果林が放った号令と共に、彼方とエマ、そして彩歌の3人が半ば脱力するようにしてその場に頽れた。一様に滝のような汗を流し、胸を激しく上下させているその姿は練習がどれだけ厳しいものであったかを物語っていよう。
元々無所属であるとはいえ、彩歌は虚弱な方ではない。むしろ毎日のランニングと筋トレを欠かしていないのだからそれに見合った体力はある筈で、それは昨日の練習でも証明されている。だがそれでもついていくのがやっとといった有様であるのは、ダンスに対する練度の差によるものだろうか。年単位のブランクがある彩歌では、どうしても食らいつくのが精々だ。
壁際に放置していたタオルで簡単に汗をぬぐい、水の入ったボトルを傾ける。半ば脱水に陥っている身体に水分が染み渡っていく感覚が心地よい。漸く供給された恵に細胞のひとつひとつが歓喜しているかのような錯覚さえ起こしてしまいそうで、彩歌が苦笑する。
「彼方ちゃん疲れたよぉ~。すやぴしたい……」
「うふふ、彼方ちゃん、今日も頑張ってたもんね。良かったら、わたしのお膝使う?」
「いいの? じゃあ、お言葉に甘えて……」
よいしょ。そんな気の抜ける言葉と共に彼方が促されるまま頭をエマの膝に乗せ、対するエマは微笑みを浮かべながら彼方の柔らかな茶色の髪を撫でる。微笑ましい光景に、彩歌が表情を綻ばせた。
それは果林も同様であり、しかし彼女は彼方に続かない。エマの無言の視線を受け留め、彼女もまた無言のままに首を横に振る。両者の交感はそれで十全とはいかずとも単純な応答には不足もなく、そうして果林が彩歌の方に向き直る。
「彩歌、貴方筋が良いのね。できるとは愛やせつ菜から聞いていたけれど、正直想像以上だわ」
「そうですか? ふふ、ありがとうございます。〝スクコネ〟のアーカイブを見て研究してきた甲斐がありました!」
彩歌のその返答に、3人の表情が同時に代わる。それぞれに程度や細部の違いはあれどそれは皆一様に彩歌の返答が意外であるようで、しかしそれも自然な事であった。
スクコネ。正式名称をスクールアイドルコネクトというそれは、最近になってリリースされたばかりの新規動画配信プラットフォームだ。その名の通りスクールアイドルをメインコンテンツとしたサービスであるが、リリース間もないが故に利用者は未だ少ないのが現状であった。転じて、現在スクコネを利用しているのは取りも直さず一定以上の熱量でスクールアイドルの活動を追っている証左とも言える。
「彩歌くん、スクコネの配信観てくれてるの?」
「はい。とはいえ存在を知ったのは最近ですし、毎回観ている訳ではないのですが……」
「それでも嬉しいよぉ。彼方ちゃん達の頑張りを見てくれている人がいるのは。ね、果林ちゃん?」
「そうね。決して、見てもらうためだけにスクールアイドルをやっている訳ではないけれど……ファンがあっての私達でもあるもの」
ファンがあってのスクールアイドル。彩歌自身はスクールアイドルではないが、果林のその言葉には彼も大きく共感するところがあった。彼も
しかし、である。近しい部分があればこそ、差異もまた詳らかになるというもの。とりわけ彩歌はこうして近くでスクールアイドルを見ているが故に、断絶はあまりにも明白であった。
彼女らには〝自分の音〟というものがある。それは彩歌の確信であり、であれば配信はその音を広げる一環だ。では翻って、彩歌は? 未だ〝自分の音〟を見つけられずにいる彩歌は、何のために配信をしているのか。かつては見てもらうためだけ、ひいては自身の
そんな思索の大海に漕ぎ出していく彩歌の耳朶を、果林の声が打つ。
「彩歌の体験入部は昨日からだったわよね? 研究と言っていたけれど、そんなにすぐ何とかなるものなの?」
「む、まぁ、寝る前に少々……作曲もしていたので、寝不足なんですよね……」
「む~? それは良くないよ~。寝不足は、美容の大敵なんだぜ~?」
ひとつの事に夢中になり、睡眠を疎かにする。それだけならば何の変哲もない事ではあるが、彩歌には珍しい事でもあった。生まれついてより自律と克己の人であった彼に取り、
だがそれだけに、昨夜の彩歌の集中力は過去に類を見ないものでもあったのだ。それこそ、眠るのも忘れてしまう程度には。結果として若干寝不足気味になってしまったのは間違いなく失態ではあるけれど。
それだけの熱量を、彩歌はこの活動に傾けている。3人は平素の彩歌の事はよく知らないけれど彼が嘘を吐いていない事は彼女らの目にも明らかであり、なればこそ問いは半ば当然のものであった。
「そう……でも、彩歌? 貴方はどうして、ここまで真剣にこの活動に取り組んでいるのかしら?」
「えっ……?」
当惑。彩歌の吐息に混じった感情をあえて形容するのなら、それだけで事足りよう。あまりにも唐突であったものだから果林の真意を測る間もなく反射的に彼女の方を振り返るが、彼女の眼光はあくまでも鋭いそれであり戯れなどは伺わせすらしない。
だが問いを投げかけられた刹那こそ虚を突かれた形となった彩歌だが、数拍も置けば当惑からの復帰に支障はない。果林の瞳を、真っ向から見つめ返すのみ。故に彼方やエマがどんな表情をしているか、彼が伺い知る事はできない。
「貴方はスクールアイドルじゃない。今後は分からないけれど、今はそう。だから貴方にはここまで真剣にやる理由はない筈よ。たとえそれが、かすみちゃんからの誘いであってもね」
果林の言う事は全く道理だ。反論もせずに彼女の物言いを聞き届け、彩歌はそう断じる。同時に彼は果林が問うた理由にも合点がいったけれど、それを一旦棚上げする。果林の真意がどうあれ、それは彼に向けられて然るべき問いである事に違いはない。
真野彩歌はスクールアイドルではない。歌やダンスはできても、それが現時点の現実だ。故に本来であれば真面目に取り組む必要はないのだ。それがかすみの顔に泥を塗る事になるのだとしても、自分本位に言えばそれに間違いはない。
にも関わらず彩歌は自身の睡眠を削っても惜しくない程度にはこの活動に入れ込んでいる。それは、何故か。かすみへの義理? そうしなければ同好会の面々に失礼だから? 理由としてはそれらは尤もだ。筋は通る。しかし、違う。それが答えではない事を、彩歌は知っていた。
確かにきっかけはかすみに誘われた事であったのかも知れない。だが、切っ掛けがあくまでも切っ掛けだ。解答としては不足であり、不適。自身の裡を吟味し、彩歌は答える。
「これが今、俺がしたい事だからです」
「したい事?」
「はい。確かに、俺はスクールアイドルじゃない。切っ掛けは中須さんの誘いですし……目的だって、スクールアイドルになる事ではありません。……でも、それとは別に、俺はこの活動を楽しいと思った。だからやりたい。これでは不足ですか?」
答えはあくまでも真っ直ぐに、毅然として。果林は言葉を濁しもせずに正面から問うたのだから、彩歌もそうしなければ非礼だ。それに、彼には目を逸らす理由も無い。嘘を吐いているのでも、虚仮脅しでもないのだから。
楽しいと感じたが故に、やりたい。この上なく
空白。果林と彩歌は何も言わずに視線をぶつけ合い、彼方とエマは口を挟まない。そうしたまま幾許か、先に口を開いたのは果林であった。まるで何かを懐かしむように、或いは慈しむように笑んでいる。
「やりたい事……ね。その答えが聴けて良かったわ」
「ふふ、果林ちゃん、嬉しそう」
「ある意味、お仲間だからねぇ。……っと、ごめんねぇ、さいちゃん。果林ちゃん、こういう所あるから……」
「ちょっ、それどういうコトよ!?」
果林に抗議に「こういう所はこういう所だよぉ」と彼方。ともすれば悪罵とさえ誤解されかねない物言いだが、果林の紅潮は憤怒というよりも羞恥のそれだ。それを微笑ましく思いながらも、彩歌は彼方に向けて首を横に振る。
「大丈夫ですよ。朝香先輩が
「優しい!? 私が!?」
よもや彩歌からそう言われるとは思っていなかったのか、今度は彼に赤い顔を向ける果林。詰まる所それは彩歌にとって不意打ちの意趣返しのようでもあり、だが彼はそのチャンスを放棄する。ここであえて手玉に取ろうとする趣味は、彼には無かった。
「そうです。だって朝香先輩、俺が同好会の活動に参加するのがダメとは一言も言っていませんから」
「それは……せつ菜やかすみちゃんが貴方を信頼しているから……」
「それでもですよ。それに、さっきの質問は初めにされていてもおかしくなかった。でもそうしなかったのは、朝香先輩が優しいからでしょう?」
何故同好会の活動に熱を注ぐのか。或いは、そもそも何故かすみの誘いを受けたのか。そもそもそれを初めに問われていたのなら、彩歌は今と全く同じ答えを本心から返せていたか分からない。そうなればどうなっていたか、彼は想像もしたくはなかった。
だが事実はそうならなかった。果林の問いは拒絶ではなく確認であり、彩歌がここに在る事を否定するものではなかった。それが全て。果林が優しいと断じるのに、彩歌にとっては不足ではない材料だ。
或いは揶揄っているのかと彩歌の視線を探る果林だが、彼の孔雀青はあくまでも誠実と正直の光を湛えている。邪推はおろか、あえて探るまでもない。見れば分かる、とでも言うべき領域であった。
「おぉ~、果林ちゃんが真っ赤だ。これは珍しいものが見れましたなぁ」
「うぅ、揶揄わないでよ、彼方……彩歌も、変に真面目というか……ある意味、せつ菜から聞いていた通りね……」
また、それだ。彩歌が内心で独り言ちる。既に確信できていた事ではあるが、せつ菜は相当に同好会で彩歌の話をしているようであった。それも、彼と会った事が無い相手の裡にも彼の像を作ってしまう程度には。
尤も、それ自体は良いのだ。だがせつ菜による伝聞で形作られた像というのはどうやら本物の彩歌と対面して結ばれる像と大きな差異が無いようで、つまりはそれだけの情報量がせつ菜から発信されている事になる。
それが彩歌には嬉しいやら、気恥ずかしいやら。そんな混沌めいた心情が表情に顕れていたのか、彼の方を見てエマが笑む。
「ふふっ。彩歌くんのコト、大好きなんだね、せつ菜ちゃんは」
「なぁっ──うぅ……」
エマの言葉に思わず得意の自己否定が口を突いてしまいそうになる彩歌。しかしそれは寸での所で霧散し、代わりに彼が零したのは声ならぬ声だ。あまりにもみっともない姿だが、彼が浴びた衝撃の程を見ればそれも自然な事であるのだろう。
エマのそれを文字通りに解釈するのなら何という事は無い、せつ菜は彩歌に好感を抱いているという、ただそれだけの事。小学生の時分、彩歌も言った筈だ。友達なのだから、好きなのは当然なのだと。文面だけならばそれと大差ない。
それなのに、どうしてだろうか。今の彩歌は心穏やかではいられず、しかし不快ではない。むしろ、所感はその逆ですらあった。心穏やかではないのに、何処か心地が良い。ひどい矛盾の中に、彼はいた。
名状の難しい情動。けれどいつかの日にこれと同じものを抱いた気もしていて。堂々巡り。或いは迷宮のような。自身の心の所在すら判然とせず、先の冷静は最早見る影もない。その有様たるや、先程までは照れていた果林が彼とは反対に冷静を取り戻した程だ。
「それにね! 前にせつ菜ちゃんが言ってたんだぁ。〝スクールアイドルになった自分の歌を聴いて欲しい、大切な人がいる〟って。それって多分、彩歌くんのコトじゃないかなぁ」
「いやぁ、愛されてますなぁ」
「あ……う……?」
「ふたりとも、もうその辺にしておきなさい? そろそろ彩歌がパンクしそうになっているもの……」
彩歌には預かり知らぬことを矢継ぎ早に悟るエマと彼方を諫めようとする果林だが、その言葉とは裏腹にその端正な顔には笑みが浮かんでいる。そも彩歌は既に少々
しかしそんな頭でも嫌に冷静な部分は残っているもので、彩歌のそれは記憶からそれらしい情報を拾い上げる。それはいつかのゲリラライブの後の事。彼は彼方から言われた筈だ。〝可愛い後輩の大事なヒミツ〟とやらを。
だが何故それを今になって開示したのか。それについて考えを巡らせるだけの余裕は、今の彼には無い。一方的に投げつけられた情報による混沌が彼を支配し、思考が熱にやられていた。
嬉しくて。恥ずかしくて。むず痒くて。心地良くて。それだけに留まらない種々の感情が彼の裡で綯い交ぜになり、輪郭を逸脱して鮮やかな
このままではマズい。彩歌は本能にも近しい領域でそれを悟り、そして、彼はこの混沌を吐き出す方法についても幾らかの心得があった。矢庭に立ち上がり、3人に頭を下げる。
「すみません、ちょっと音楽室で1曲弾いてきます!」
すぐに戻りますから! それだけを言い残し、ダンススタジオを駆け出していく彩歌。あまりにも思い切りのよい行動に呆気にとられ、だが3人はすぐに顔を見合わせて笑い合った。あまりにも素直な後輩に、彼らが思う所はひとつ。
「青春ですなぁ」
「──何かいいコトでもあった?」
それは、彩歌が3年生達と共に活動した日の夜の事。ピアノコンクール全国大会に向けての練習の一環として課題曲を引き終わった彼に、開口一番に詩音が投げかけた質問がそれであった。
演奏を聴いた直後の問いとしては、およそ不可解な問いではあろう。機嫌が音色に出る事はあるとしても、若干の具体性が伴った質問が返ってくるというのはあまりに穿ち過ぎている。しかし共感覚を有する詩音だけは例外であることを彩歌は知っていて、故に首を傾げたのは詩音に対するものというよりは、自身の裡に向けられたものであった。
「俺の音、そんな色してた?」
「モチのロンよぉ。鮮やかでフワフワな青ってカンジ。
「そっか。昔から……ね」
何らおかしな事は無い、ただの駄弁に近しい遣り取り。だが彩歌にとって、それは変化の証明でもあった。自身すら気づいていない感情が音色に表出するなど、意図的に心を封じているのでは在り得ない事なのだから。
即ち、自身の感情と行動の一致。ある種の自己同一性。その片鱗さえ彩歌にとっては久方振りのものであり、数拍の間隙を彼はそれを検めるために費やす。そうして確かな実感と共に、彼は答えを吐き出した。
「……うん。あったよ、嬉しいコト。ここ最近は……毎日ね」
「そう。ホント、さっちゃんは周りに恵まれてるわね」
「そうだね。本当に……その通りだ」
今の彩歌があるのは、決して彼自身の力のみによるものではない。むしろ彼の力など微々たるもので、彼はいつも誰かに助けられてばかりだ。その点で言えば、確かに彼は周囲の人々に恵まれているのだろう。
そして助けられているのならば、彩歌はその責任を果たさなければならない。だが彼は無力で、何が他者の助けになるかも未知数だ。
それでも、せめて〝答え〟だけは。自分自身の答え、自分の音を見つけ、それを示す。それこそが、無力な彼にできるたったひとつの恩返しだ。改めてそう決意し、彼は再び鍵盤に十指を這わせた。