【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第33話 アナタは他にいないのに

 詰まる所、それは音を通じて世界ひとつを丸ごと織り上げるようなものなのだ。せつ菜らスクールアイドル達の在り様に触れ、そして独善の自己定義を破却して自身の原初に立ち返った今、彩歌は音楽についてそう結論する。

 

 あまりにも大袈裟な物言いだ。ともすれば荒唐無稽とすら嘲笑され得る感慨だ。音色や旋律が世界であるなどと、事物の接続が飛躍しすぎている。無論、彩歌とてそれを知らぬ訳でもなければ、本当に物質的な世界を創世していると考えている訳でもない。だが、彼の思うそれも、形を持たないながらも紛れもなく創世だ。

 

 物質としての形を持たず、しかし確かに人によって創られる世界。あえて形容するのならば、それは心象と言うが良いか。人がその心の裡に潜在させる、ある種の原風景。人が奏でる音というのは、それを外界に響かせる色彩だ。

 

 己が心を以て自らの身体を支配し、その心の総てを旋律に変える。楽器の音色か歌声か、その差異はさして重要ではない。要は、全ては心が躍動するままに。全霊であればこそ、それによって創られた世界は聴き手の心を動かすに足る質量を持つのだ。

 

 そして、それは自己表現であると同時に自己との相対だ。何しろ創世手とて聴講者なのだから、そこに例外はない。創世手は自身の音の裡に、否応なく自らの在り様を見る。精神を縛る鎖を破った今、彩歌にもそれが詳らかに知覚されるようだった。

 

 故にこそ、分かる。自身より伸びて世界を織り上げる線の中、決して何物にも染まらぬ黒々としたものがある事も。それの根源は確かに彼の胸中に在り、少なくない位置を占めている。昔日の雨音と共に、名状し難い〝黒〟は彼を作っているのだ。

 

 今もこうしてピアノを前にして戯れに鍵盤を弾き、単調な音が部屋に響いても、それはある。現世に響く、矛盾した色彩。魂に振り続ける、豪雨の残響。あまりにも不都合な、生の感情。それらの存在を改めて自認し、彼は部屋を満たす月光に呟きを溶かす。

 

「俺の答え……やりたい事は──」

 


 

 学生にとって、試験とはある種の死活問題だ。試験それ自体は本質的に日々の学習成果の確認でしかなく、しかしそれだけに結果次第では様々な不都合が付きまとう事さえある。逃げようとして逃げ切れるものでもなく、その拘束力はいっそ宿命、宿業とさえ言えよう。

 

 勉強こそ学生の本分。それは紛れもなく事実であるが、同時に全くの理想論でもある。学生とて人間だ。その人生は勉学のためだけにある訳ではないのだから自身の自由(リソース)を如何に割り振るかは個人の裁量次第であり、そこに善悪の問うのは全くの徒労と言うべきだろう。

 

 だが彼らがどう振る舞おうとも試験はいつか降りかかるものであり、それを前にしてどう対応するかもまた、各人の意向に依る。日頃から努力を積み重ねるか、或いは一夜漬けで賭けに出るか。既に習熟した者に教えを乞うのもまた手段のひとつであり、来る期末試験を前にして中須かすみが執った方策とは、まさしくそれであった。

 

「やっと終わったぁ……かすみん疲れちゃいましたよぉ……」

「お疲れ様、中須さん。頑張ったね」

 

 虹ヶ咲学園にほど近い場所に位置する大型商業施設。その一角にある喫茶店のボックス席にて、そんな言葉と共にかすみが半ば倒れこむようにして突っ伏せる。声音もまたそれに違わず疲労困憊といった有様であり、腕の下敷きになった問題集のページが縒れるのもお構いなしだ。最早それを気にしている余裕もないという事だろう。

 

 しかしそんな半死半生といった状態でありながら所作の総てが〝中須かすみ〟であるのは、流石の矜持と言うべきか。彩歌にとっても公然となりつつある事ではあったが、それでも感心するばかりであった。

 

 彩歌とかすみ、そしてしずく、璃奈。彼らが一堂に会し顔を突き合わせているのは、謂わば勉強会のためであった。季節は既に学期末。彼らは期末テストを間近に控えており、それ故に部活時間も制限されている。その終わり際、彩歌はかすみに請われたのだ。分からない所があるから教えて欲しい、と。

 

「すみません、彩歌さん。かすみさんだけでなく、私達まで教えてもらって……」

「気にしないで。どうせ教えるなら、2人や3人でもそう変わらないさ。

 でも、俺の教え方はどうだった? 分かりにくかったりしなかったかな?」

「大丈夫。すっごく分かりやすかった。璃奈ちゃんボード『感謝』!」

 

 ボードがなくとも璃奈の表情を読み取るには困らない彩歌だが、それは璃奈も承知の上。それでもあえてカオを持ち出したのは、それは彼女なりの礼という事なのだろう。そこに世辞や忖度の響きはなく、彩歌が安堵の溜息を吐く。

 

「そっか。良かった。親友の真似事だったけど、俺も捨てたものじゃないね、ふふ」

 

 誰かに勉強を教えるという経験は、彩歌にとってそう頻繁にある事ではない。精々クラスメイトから軽く尋ねられ、手短に解説する事が時折ある程度だ。だが反対に人から教わるという経験だけは、彼は人並み以上に覚えがあった。

 

 物心ついた頃より愛歌や陽彩、詩音から彼らが得意とする音楽を学んでいたが、それだけではない。事故後の入院生活で大雅から必修科目を教えてもらっていたのも彩歌にとっては大事な思い出であり、殊勉強会というのであれば、そちらの記憶の方が重要であろう。

 

 つまり彩歌の教え方とは大雅の見様見真似。彩歌だけの力という訳ではなく、しかしそれを告白する彼の表情はひどく穏やかだ。或いは彼らの感謝を自身の手柄と考えていないにも関わらず、それを喜ぶかのように。

 

 だがあまりにも柔和な笑顔であったものだからしずくもつられて笑み、それは璃奈も同様であるように彩歌には見えた。その横では突っ伏していたかすみがだらしない顔のまま起き上がって、そんな後輩の様子に苦笑しながら彩歌がその絹のような栗色の髪に手を伸ばす。

 

「……! えへへ、仕方のない先輩ですねぇ。トクベツに、もっと撫でてくれてもいいんですよ?」

「撫でて欲しいなら、素直にそう言えばいいのに」

「むぅ……そんなんじゃないですもん」

 

 揶揄うような声音の彩歌に唇を尖らせながらかすみは一応の抗議を零すが、それとは裏腹に彼女は彩歌の手を払う様子を見せない。素直ではないが、素直。かすみの内にあっては、それさえ愛嬌だ。

 

 柄でもない事をしているのは、彩歌自身も分かっている。他人の頭を撫でるなどこれが初めてで、これが失礼にあたるものか、そもそもこれで良いのかさえ彼には未知数だ。だがかすみは満足そうで、ならばこれは少なくとも間違いではない。まるで人に成れた子犬を思わせる懐っこさだ。

 

 掌を通じて感じ仄かな温かさ。丁寧に手入れされ続けた髪の手触り。それらすべてが彩歌の記憶にはないもので、きっかけはただの気まぐれだ。見切り発車の行為では終点を見つけられず、適当な所で彩歌が手を放す。──不意に途絶える熱。残滓が霧散するのも瞬きの間。自然な事だ。かすみにも慣れた事であり、だが何故だろうか。胸騒ぎめいた感慨が胸中を過ったのを彼女は自覚する。

 

「……? 中須さん、どうかしたかい?」

「い、いえっ、何でもないですよっ!?

 それよりかすみん、お腹空いちゃいました! 何か食べてもいいですか?」

 

 あまりにもあからさまな話題の変更だ。彩歌にもそれが分からない筈もないが、彼にはあえて詮索するような理由もない。相手が尋ねられたくない事を深追いして暴き立てる趣味も、彼は持たないつもりだった。

 

「いいよ。何なら、俺が奢ろうか? 頑張ったご褒美だ」

「いいんですか!? じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらいますねっ! かすみん、挑戦してみたいものがあったんです!」

 

 挑戦。およそ小洒落た喫茶店には似つかわしくないかすみの表現に、しずくと璃奈は彼女の意図を即座に察したのだろう。驚いた様子でかすみを見るが、数拍の間で意を決したようで頷きを返す。

 

 これで三者合意。何も知らぬ彩歌は蚊帳の外。だが彼もそれに文句をつける程狭量なつもりもなく、3人が注文を告げた後にコーヒーのおかわりを注文する。彩歌好みの、舌が痺れる程に苦いコーヒーだ。

 

 数分もしないうちにスタッフは回収した空のカップに代わる種々の飲み物を彼らの許に運び、4人はそれぞれに礼を口にしつつ注文の品を受け取る。そうしてコーヒーを傾けてみれば激しい苦味はまるで神経を焼くようで、疲労が薪として焚べられるのを知覚するようだ。

 

「それ無糖(ブラック)ですよね? よく飲めますね、そんな苦いの……」

「苦いのがいいんじゃないか。中須さんもどう?」

「へ? いや、要りませんよっ!? かすみんの可愛い顔がしわしわになっちゃいますっ! というか、それじゃあ……」

 

 半ば理解できないものを見るかのような表情のかすみに、手元のカップを差し出しながら勧める彩歌。その言葉と所作が示す所を、理解できないかすみではない。苦いものが得意ではないかすみにとって、否決は必定だ。

 

 けれどただ味の趣向によってのみ拒否したのであれば、どうしてその頬が僅かに赤くなっているのか。決して唐突な提案に対する驚愕から来るものだけではない。対面に座るしずくと璃奈の目に、それは明らかであった。

 

 しかし果たして自身の言葉が示す所について、彩歌は意識しているのか否か。少なくとも少女らが見る限りでは彼に邪心は無いようだが、それだけに厄介だ。これでは反感を抱く余地も無い。

 

「かすみさんがタジタジになってる……彩歌さん、あれ天然でやってるのかな?」

「意外と小悪魔。末恐ろしい子っ……!」

 

 彼女らからすれば、かすみが翻弄されているというのはそう珍しい事ではない。かすみは平素の所作こそ俗に言うぶりっ子のそれに近いが、根底は真面目な少女である。普段の振る舞いも自身の信条のままに自らを律すればこそであり、想定外を前にしたときなどは素が出てしまう事も少なくない。尤も、それさえ〝可愛い〟の内にしてしまうというのだから、その才覚はまさに天性のそれだろう。

 

 だがかすみの素を全くの自然体で引き出せる手合いというのはしずく達の知る限りでもそう多い訳ではなく、驚愕はそれ故の事であった。それも、ともすれば()()()()()とも取られかねない態度であるというのだから、かすみがたじろいでしまうのも仕方ない事だ。

 

 しかし少女らの内心を彩歌は知る由もなく、慌てた様子で忙しなく注意を彷徨わせるかすみを微笑ましく見ているのみだ。下心や計略などとは程遠い、さながら慈父か慈兄のような。それを前にしては動揺しているのも馬鹿らしくて、統制外の熱をかすみは溜息と共に吐き出した。

 

「何と言うか、彩歌先輩もツミなヒトですねぇ……でも、ちょっとホッとしました」

「ホッとした? 何がだい?」

 

 或いは何処か呆れのような、それでいて確かに言葉に違わぬ安堵を覗かせる声音でかすみは言う。だが彩歌はそんな感慨を向けられるとは思ってもみなかったようで、素っ頓狂な顔で首を傾げた。彼からすればあくまでも自然に振る舞っていたつもりで、そこに安心する要素は無いように思えたのだ。

 

 そんな彩歌の所作はいっそあざとくすらあり、だが不思議とそれは彼の裡に在っても違和にはならない。かすみが見た変化とは、まさしくそれに類するものであった。

 

「うーん、何と言うか、前より笑い方が穏やかになった? 自然になった? みたいな? うまく言えないけど、そんな感じです」

「笑い方が……そうなのかな。自覚はないんだけど……」

 

 彩歌としては数日前と比してかすみ達との接し方を変えたつもりはない。あえて変えるような理由もなく、そもそもとして彼はもう自己欺瞞を捨てる過程に在るのだから、彼にとっては常に裸の自分を見せているつもりであった。

 

 それでも変化があったというのなら、それは彩歌自身ですら自覚し得ない領域に起こったものであるのだろう。或いはかすみの言葉に近しい表現をするのならば、回帰と言うべきだろうか。

 

 たった数日。されど数日。何年も彩歌を苛んできた自縛はそう易々と断ち切れるものではなく、しかし変革は些細でも確実に在る。であればそれは、彼にとってその数日が得難いものだった証明でもあろう。

 

「でも、そうなんだね。……ならそれはきっと、キミたちのおかげだ。

 キミ達といる時間は、とても楽しかったんだ。音楽が、誰かと一緒に高め合う事が、こんなに楽しいだなんて、久しく忘れていた気がする。俺だって、元は知っていたハズなのにね」

 

 この数日、彩歌は同好会の人々と決して少なくない時間を共に過ごし、そして見た。彼女達の在り様を。スクールアイドルという形で、自身の夢を叶えようと只管に努力を重ねる姿を。その熱気にあてられてしまえば、彼とて思いださざるを得なかったのだ。自らの夢に向かって頑張るという行為は、楽しいのだと。

 

 彩歌も嘗ては知っていた事だ。当たり前に持っていた感情だ。彼とて元は愛歌の許でピアノを習い、門弟たちと切磋琢磨していたのだから。だが事故を切っ掛けとした自責の日々の中で、彼はそれを切り捨ててしまっていた。音楽を楽しむ資格など無いと、そう思って己を殺してきた。

 

 だが心とは殺そうとしても殺しきれるものではなく、その破片は確かに精神の奥底に堆積した無明に埋もれていた。それを探し出して、繋ぎ合わせて、再び名づける。この数日は彩歌にとって、それを可能とするだけの活力を与えてくれるものであった。

 

「だから、改めてにはなるけど、ありがとう。キミ達のおかげで、俺は少しずつ『俺』を取り戻せている……そんな気がする」

 

 何が本当の自分であるかを、彩歌は確信を以て答える事はできない。何しろ自己に対して常に義務論を振り翳し自我をすり減らし続けたのが彼なのだから、そんな意味論的な自傷を繰り返してきた者に自らの輪郭など分かるものか。

 

 けれど音楽を楽しみ──その中に確固たる辛苦を孕みながら──、誰かと共に在る自分の方が、()()()()()()()。それだけは、彩歌自身にも明白だ。そして彼がそう在れるのは彼の力によるものではなく、同好会の人々を始めとした周囲との関わりに依る所が大きい。

 

 故に彩歌の笑みが内包する感謝は真摯にして真正のそれであり、疑うまでもなく真っ直ぐな言葉に少女らも喜悦を滲ませる。

 

 しかし、これではまるで終わりのようだ。状況としても、会話としても。そんな空気を打ち破るかのように、かすみが不敵に笑う。

 

「ふっふっふ……なーに終わりみたいな雰囲気出してるんですか、彩歌先輩? まだかすみんの計画は終わってなんていません! 合宿だってあるんですから!」

「合宿……?」

 

 なんだ、それは。まるでそう言いたげな彩歌の表情を前に、かすみは得意げな顔から一転して間の抜けた声を漏らす。認識の相違。または、暗黙の欠如。その間隙を悟る術が彩歌にある筈もなく、彼はただ首を傾げるばかり。

 

「かすみちゃん、まさか……説明してなかったの?」

「……そうかも。忘れちゃってました、てへ」

「もう、かすみさんったら……」

 

 自身の失態に気づいて苦し紛れのポーズを執ってみせるかすみと、そんな友人に呆れめいた視線を注ぐしずくと璃奈。だがしずくらも憤慨している訳ではないのだろう。それについて言及していなかったのは彼らも同様であるし、かすみもただ忘れていた訳ではないのだ。

 

 有り体に言えば、かすみも楽しみにしていたのだ。彩歌を同好会に引き込み、一緒に活動する事を。かすみと彩歌はそれほど付き合いが長い訳ではないが、それでも一時的にせよ現同好会の立ち上げに向けて尽力した仲である。加えて彼女の可愛さを一目で認めた者のひとりであるのだから、かすみは彩歌をそれなり以上に信頼していた。故に気持ちが先行して、段取りが抜けてしまっていたのだ。

 

 しかしそれらの事情を逐一説明するのはあまりにも気恥ずかしい。故に全ては咳払いのひとつで済ませて、かすみは話を先に進める事にした。しずくと璃奈には、全て見抜かれているだろうが。

 

「えっとですね、テストが終わったすぐ後、かすみん達は合宿をする予定なんですっ。彩歌先輩、コンクールまでは少し余裕ありますよね?」

「うん。ある……けど。もう暗譜は済んでるし。でも……いいのかい? 俺も参加して」

「勿論! というか、参加してください。部長命令ですよっ!」

 

 満面の笑みと共にそう申し渡し、かすみは悪戯に彩歌の鼻の頭をつつくなどしてみせる。こうなっては、もう断れる筈もない。元より断る理由も、彼には無いけれど。偏りきった男女比を彼が知らぬ筈もないが、些細な事だ。同好会と共に活動している今となっては、あまりに今更だろう。

 

 何より、かすみ達も気にしている様子は無い。意識外にあるという訳ではないのだ。ただ、その懸念と彩歌を全く縁遠い所に置いているというだけで。ならばそれに応えないのは、いっそ裏切りめいてもいよう。

 

 全国大会に向けての練習もあるが、学校には音楽室もあるのだから、不可能ではない。それにこの合宿は彩歌にとっても得であろうし、何より彼自身もそれをやりたいと感じている。断る理由は無く、承諾する理由はある。故に、判断は早かった。

 

「部長命令か。それなら仕方ないね。……うん、俺も予定を合わせておくよ」

「ホントですかっ!? へへっ、言質は取りましたからねっ! 嘘吐いたらハリセンボン呑ませちゃいますよ?」

「それを言うなら針千本じゃない? まぁどちらにせよ、要らぬ心配だよ。俺はもう、嘘は吐かない」

 

 決意。或いは、覚悟だろうか。かすみの笑顔に応える彩歌の瞳にはそれを思わせる強烈な光があり、そこには虚飾の気配は一分として介在しない。もしもあったのならばそれは翳りとして立ち現れてきたはずだが、実際には無いのだから、そんなたらればは無意味だ。

 

 ただの口約束を前に、あまりにも大仰な心持である。ともすれば自己陶酔であるかのようだが、それは否。大袈裟であるのは彩歌とて自覚している。だが彼はどうしようもなく弱くて、気を抜けば再び嘘に逃げてしまうかも知れないから。故に、それは自他への宣誓でもあるのだ。

 

 そして宣誓であるからには、それを見届ける者がいなければ成り立たない。その立場は宣誓を受けたかすみ達をおいて他にないのだから、それは彩歌が懐くかすみ達への信頼の証明にも等しい。それが嬉しくて、かすみは笑顔を浮かべた。だがその直後、笑みが内包する感情が切り替わる。視線は彩歌よりも後ろに投げかけられていた。

 

「あっ、来ました来ました! 彩歌先輩も、一緒に食べましょー!」

 

 かすみの口振りからして、先程注文したものが運ばれてきたのだろう。彩歌は廊下側からかすみの方を見ているから、背後の様子に気が付かなかったのだ。けれどそれ故にはしゃいでいるかすみもよく見えて、その様子に微笑しながら振り返る。──刹那、硬直。笑顔のまま固まったその姿は、彫像のようだ。

 

 一言で表すのならば、それは〝山〟だった。汚れのひとつもない程に磨き上げられた白い丸皿の上に屹立する、七色の山。麓から山頂に至るまでの斜面は段々畑を思わせる均整だが、流れているのは農業用水ではなく噎せ返るほどのメープルシロップの川だ。

 

 それを前にしてようやく、彩歌は理解した。確かに、これは挑戦だ。明らかに普通ではない。こんな、ともすれば小山にも見紛うような大量のパンケーキを食べよう、などと。

 

「これより少し小さいやつは3人で食べちゃいましたからね。今回はこっちに挑戦ですっ。

 ……あれっ、彩歌先輩、食べないんですか?」

 

 いつまでも硬直したまま、ナイフすら握らない彩歌を不審がってかすみが声を投げる。そうしてやっと彼は忘我から復帰したものの、やはり微妙な顔をしたままパンケーキの山と向き合うのみでなかなか手を出そうとしない。

 

 しかし、これはどうしたものか。逡巡と懊悩が脳裏を過るが、そんなものは無意味だ。何故なら、彼は確かに誓ったのだから。もう嘘は吐かないと。それを、舌の根も乾かぬうちに反故にするなど、彼の信条が許さない。

 

 その前に、物は試しとばかりに小さく切り分けたそれを自らの口へ。だが咀嚼は繰り返される度にその勢いを減じていき、それを見てしまってはかすみも察するには充分だった。向き直った彩歌の表情は笑顔だが、それにしては額には汗が浮かび、顔色は白い。つまりは──

 

「──実は俺、甘い物が苦手なんだ……」

 


 

 かすみ達が注文した巨大パンケーキとの格闘は彩歌にとって、ともすれば実際の登山よりも辛く険しい道程のようでもあった。単純に量が多いというのもある。だがそれだけでは飽き足らず過剰な程の甘さは食べ進める程に舌に蓄積していくようで、コーヒーが無ければどうなっていたか分からない。総じて、一種の苦行にも等しい。あまりに青い顔で食べ続けていたものだから、途中で涙目のかすみに止められて休憩せざるを得なかったのが、彼唯一の失態であった。

 

 しかし道のりが険しいだけ達成感も増すというもので、かすみ達と別れ家路に就いた今となっても彩歌はさながら凱旋気分だ。尤も、互いに健闘をたたえ合う戦友は既にこの場には無く、甘い物は当分視界に入れるのも嫌になってしまったけれど。

 

 途中のコンビニで買った最小サイズのコーヒーをお供に、彩歌は雑踏を歩く。名も知らぬ人々に紛れてしまえば、彼も他愛ない背景のひとり。腹の異物感と偉業の達成感が綯い交ぜになった平常心を抱えながら、日常の中に溶けていく。蟻の行軍。雑魚の回遊。それらに近しい何か。

 

 故にその邂逅は、彼らを背景より切り離す偶然だ。付近のバス停に降りた人物と、不意に目が合う。

 

「っ……!? 宮古さん……?」

「彩歌……!?」

 

 東雲学院の制服を着ている姿は彩歌も初めて見るものだったが、その顔を他ならぬ彼が見間違える筈も無い。彼の目の前に現れたのは彼の同門のひとりである宮古美律その人に他ならなかった。

 

 しかし、これはあまりにも唐突だ。互いに全く予期していなかった再会を前に彼らは忘我に陥り、後続の客たちがふたりに奇異の目を向けながら去っていく。それらの視線さえ、今の彼らには注意の外だ。

 

 そうして、幾許か。ようやく状況を飲み込めた美律が踵を返してその場を足り去ろうとするが、一拍遅れてそれに気づいた彩歌が口を開く。

 

「待ってよ、宮古さん」

「……何。うちはもうあんたの顔なんて見たくもないんだけど。あんただって、トラウマほじくり返したヤツとなんて、話したくないんじゃないの?」

 

 およそ数秒前まで全くの偶然に固まっていたとは思えない厳然を宿した、彩歌の声音。対する美律はやはり拒絶と皮肉も露わで、しかしどうしてだろうか、彩歌には彼女の声が震えているようにも聞こえていた。

 

 そもそもこの短い間にさえ、美律の言動は矛盾している。本当に彩歌と話す気が無いというのなら、わざわざ足を止めずに無視してそのまま行ってしまえば良い。なのに、そうしなかった。話す気はないと言いながら、応えた。これは明らかな矛盾だ。

 

 それが如何なる心境によるものか、彩歌には分からない。何しろ東京大会以来の再会で、それまでは数年も会っていなかったのだ。いくら嘗ての友人であれ、それだけ経てば考えを読める筈もない。

 

 だが答えは分からずとも、気持ちならば読める。震えていた声は何よりも雄弁で、最早疑いようもない。それを分かっていながら、彼は声ではなく催促するような目に従う事にした。

 

 言外の虚勢に応え、彩歌は頷く。

 

「分かった。じゃあ、言わせてもらうけど。

 ……ごめん」

「────」

 

 狐につままれるとは、まさしくこの事か。一瞬の静寂。思考の間隙。美律の理性は現実に追随できず、生まれた空隙を感情が占有する。その状況の中に在って、彼女が彩歌を叩かず両腕を掴むのみに留めたのは一種の軌跡であった。空の紙コップが、アスファルトに落ちて乾いた音を立てる。

 

「──んなっ……ふざけんなっ!! それは……その言葉は……!!」

 

 ──自分が言うべきものだった。本来責められるべきは、自分の方だった。思わず出かかったその言葉を、美律は(すんで)の所で堪えた。言ってしまえば、全てが台無しになる。それだけは、彼女にも理解できた。

 

 美律とて分かっているのだ。分かりたくはなかったけれど、分かってしまう。東京大会の日、彼女の悪罵のために心的外傷を再発させた彩歌の姿を見てしまっては、嫌でも。

 

 確かに彩歌は愛歌の教えに背いた。自分の音を打ち捨て、実力と成果のみを求める修羅となった。だが、彼をそうまで追い込んだのは誰か。心的外傷を決定的にしたのは、果たして誰であったか。考えるまでもない。美律たち、同門だ。

 

 だが彩歌はそれを責めず、それどころか謝罪さえ口にした。それが自分の在り方を曲げたことに対してのものか、或いは同門たちに悪罵を吐かせてしまった事に対してかは、彼は言葉にしない。

 

 どちらにせよ、これはあまりに卑怯だ。責めて楽になる報復も、責められて楽になる逃避も、彼はたった一言で封じてしまったのだから。

 

「宮古さん。今度の全国大会……良かったら、キミにも来て欲しい」

「どういう風の吹き回し? まさかまた、あんなお粗末な演奏を聴かせようって魂胆じゃ……」

「違う」

 

 虚勢も反抗も、横暴すら最早無意味だ。皮肉すら彼の前には用を為さず、せめてもの一刀もにべもなく切って捨てられる。そうなってしまえば、残されるのは無力な()害者ただひとり。彩歌の腕を掴む手に籠る力も勢いを減じ、だが今度は彩歌がその腕を掴んだ。

 

 痛みは無い。しかし、解けない。彩歌は無用な苦痛を与えず、自他に安易な赦しを与える事も無い。それは悪罵を以て責め立てるよりもなお甚だしい、十字架を背負い続けるが如き蛮行だ。それだけの覚悟が、彼にはあった。

 

 故に、美律は目を逸らせない。この夕景の内に在っても色あせる事を知らない大堡礁の瞳が、それを許さない。ならばこれより続く言葉を彼女が違えられる道理が、ある筈もなかった。

 

「次の全国大会、俺は必ず優勝してみせる。だからキミにも来て欲しい。絶対に……後悔はさせないから」

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