【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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断章Ⅰ もっともっと、ワタシを

 〝if(もしも)〟の話というものが、宮古美律は嫌いだった。もしもあの時、こうしていれば。もしもあの時、この選択をしていなければ。最早遠い過去に通り過ぎた分岐に思いを馳せ、ありもしない虚像(いま)を夢想する。だが実際にはそんな都合の良い光景は無くて、人々の前に在るのは無慈悲で無遠慮な現実のみ。つまり〝もしも〟というのは態々存在しない落差を自ら生み出し、虚構と現実を比する無意味で救いの無い行為なのだ。故に美律は、もしもの夢想を嫌っている。或いは、憎悪してさえいた。

 

 無論美律とて、初めからそうであった訳ではないのだ。幼い頃の彼女は人並みに将来の夢を描きもしたし、相応に失敗を重ねてきた。そのたびに過去を振り返っては自らの努力不足に憤りもしたものだ。だが今の彼女に、それだけの情熱は無い。そのための熱量を過去に置き去りにしてしまったような気さえしていた。

 

 しかしそんな美律をして、今日の邂逅を振り返ってしまえば思わざるを得ない。どうして、と。或いはいつもと帰りの道程と時間を変えていれば、出会わずに済んだのではないか。それは彼女が嫌っているはずの〝もしも〟に他ならない。

 

「……ダメだ。余計なコトを考えてる、うち」

 

 一度動揺を鎮めるために、自宅に帰ってすぐに眠気に任せて意識を手放しさえしたのに。目を覚ましてみれば午睡の残滓より再び雑念は立ち上がり、美律を放そうとしてくれそうにない。

 

 かつての美律であれば、この鬱憤の総てをピアノにぶつけて代わりに希望を心に詰め込む事でこの懊悩の解消を図っていただろう。だが今の彼女に、それだけの熱意は無い。精神の底に灯る仄暗い情念を原動力に、この3年間は毎日のように研鑽を重ねてきたけれど、それも先日のコンクールで彩歌に負けてからというもの、ぱったりと途絶えてしまっていた。

 

 彩歌。そう、彩歌だ。全てはあの男が悪い。この五体を駆動させていた希望が黒々とした情念に変わってしまったのも、今、雑念のために正常でいられないのも。──そうして何もかもを彼のせいにできるままでいられたならば、きっと楽だっただろう。今でもそうして全てを片付けようとする自分がいる事を、彼女は自覚していた。

 

 しかし、それは本当に正しいのか? いまさらになって、美律の内には迷いが生じていた。最早彼女にはその資格も、権利も、有りはしないというのに。

 

「分かってる。分かってるんだ、そんなコトは」

 

 その呟きを聞き届ける者はいない。両親は既に床に就いていて、万が一にも彼女の部屋に入ってくる事は無い。故に独白は独白のまま、白色光が満ちる人工の明かりの中に溶けていくだけだ。

 

 この3年間、美律は彩歌を打倒するためだけにピアノを続けてきた。敬愛する師に庇われて命を繋いでおきながらその教えに背を向けた彼を打倒し否定することで、自身の音楽に見切りをつける。自分達を縛っていたのはこの程度のものだったのだと、自分が恋していた相手はこの程度だったのだと、過去を陳腐化し、踏み躙る。そのためだけに、3年の時間を費やした。

 

 だが、結果はこれだ。美律は彩歌を打倒できず、あまつさえ情けなくも3年前と同じ醜態を彼に叩きつけすらした。まるでそれが嘗ての再演でもあるかのように。──その癇癪が何を招くかを、想像すらしないまま。

 

 ──ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……!

 

「っ……」

 

 再演と言うのならば、確かにそれは再演であったのだろう。だが、美律が彩歌に決別を告げた日のではない。それは正しく4年前の日、気が遠くなる程に白い病室で繰り広げられた悲劇の再演だった。引き起こしたのは、美律だ。

 

 それが現実。今度こそ、気づいていない振りなどできなかった。自らが引き起こした結果を目の前にして、どうしてそれを否定できようか。詰まる所、その瞬間こそは彩歌の仮面が剥がれた端緒であり、美律の欺瞞が迎えた終焉でもあった。

 

 師の教えに背を向けた彩歌が許せなかった? ただ只管に無機質であろうとする彼が許容できなかった? ───何を、馬鹿な。音楽を愛し、楽しんでいた筈の彼をそうまで変えてしまったのは、いったい誰だと思っているのか。そんなことは、考えるまでもない。美律達、同門。それ以外にいるものか。あの時に彩歌が死んでいれば、などと。そう最も強く思っていたのは、彩歌自身だっただろうに。

 

 だがそれを認めた所で何が分かる事も無い。もしもは無意味。後悔は無価値。美律はとうに被害者を演じる加害者で、彩歌に加害者の役割を着せた。その過去(げんじつ)が変わる事は、決して在り得ない。

 

 分かっていた筈だ。分かっていなければならなかった筈だ。けれど美律は気付いていない振りをした。そうしなければ、自身の情念が前提から崩れてしまうから。何という浅ましさ、何という卑怯か。だがそうして自らを責める事すら、あまりにも白々しい。

 

 だからだろうか。先刻、家路にて彩歌と遭遇するという偶然を前にして、美律が覚えたのは恐怖だった。自身の全てを壊した加害者を前にして被害者が何を考えるかなど、あまりにも明白だ。

 

 けれど、それでいいとも思ったのだ。美律は加害者で、彩歌は被害者。それでやっと、道理が通る。在るべき形に戻れば、きっとお互い楽になれる。その過程が報復の形を執ったとしても、それは仕方のない事だ。そう思っていたのに。

 

 ──ごめん。

 

 あろうことか、彩歌は謝罪さえ口にした。彼には自身の立場を取り返し、報復する権利だってあった筈なのに。自らの咎にやっと気づいた道化に対する憐みすらもない純粋な声音で、復讐を放棄すると云ったのだ。そんな安易な赦しは与えないと、宣言したのだ。

 

 代わりに彩歌が与えたのは、ひとつの宣誓。いっそ眩しいまでの光輝を瞳に宿し、厳然とした態度で彼は言ってのけた。その姿はいつかの、美律が好きだった彼のようで。彼女は、何も返す事ができなかった。

 

 ──次の全国大会、俺は必ず優勝してみせる。だからキミにも来て欲しい。絶対に……後悔はさせないから。

 

「うちは、どうすれば……」

 

 道化は懊悩する。無明の中、たったひとりで。その孤独こそが、彼女に与えられた唯一の罰だった。

 


 

 彩歌にとって、大雅の教導とはまるで魔法のようなものであった。どんな難しい問題でも大雅に教われば立ち所に解けるようになる。事象を言葉にすればそれだけの事だが、彩歌は大雅以外からその感覚を味わった試しがない。

 

 解法を示して無理矢理に解かせるのではない。大雅はただヒントを与えるのみ。大雅の教導とは地図ではなく明かりだ。にも関わらず、気づけば解答(ゴール)を導出できるようになっている。故にこその魔法。尤も大雅に言わせれば、それは彩歌自身が基礎は完璧にできているからこその事でもあるけれど。

 

 そして大雅が操る魔法の効力は通話越しであろうと健在であり、緊張が解けると共に彩歌が大きく息を吐いた。目前のノートには膨大な数式の数々が、大雅が語った内容と共に整然と並んでいる。それは今夜の彼が積み上げた努力の可視化であった。

 

 彩歌の吐息からおおよその様子を察したのか、自らもまた黙々と自己学習に取り組んでいた大雅の手が止まる。電話口から聞こえていたペンの走る音が途絶えたのだ。

 

『その様子だと、無事に解けたみてぇだな』

「うん。ありがとうね、大雅。急に訊いたのに、電話までしてもらっちゃって……」

『構わねぇよ。最近は互いに忙しくて、ロクに話す機会も無かったからな』

 

 そうだね、と彩歌。大雅は所属しているサッカー部が出場する大会のための練習。彩歌は体験入部とコンクール全国大会に向けての練習。それぞれに事情があり、春先に比べて会話の機会は減っているのが実情だ。

 

 両者共に親友を自称するからにはしばらく話せていないからとて友情を疑う程に生半であるつもりもないが、だからとて機会をみすみす逃す訳でもない。そんな中での彩歌からの相談は渡りに船であり、口にこそ出さないが大雅にとっても嬉しいものであった。でなければ態々自分から通話の提案などする訳も無い。

 

 だがただ駄弁に興じるには彩歌の抱える難敵──今回のそれは難関国立大の過去問に類似したそれ──が邪魔で、それを打倒するための教鞭にも熱が入った。大雅にとってはそれだけの事であった。

 

『ンで、どうよ? 後輩たちの前でカッコつけたクセに、今親友(ダチ)から教えてもらってる感想は?』

「ぐっ……イイじゃないか。後輩の前でくらい、カッコつけたって。それに、訊ける相手なんてキミくらいだし」

 

 揶揄うような大雅の声音。電話越しであるというのに彩歌には親友の表情までもがありありと想像できるようで、不機嫌そうに唇を尖らせた。彩歌にとっては、分からない問題について訊ねられるのは教師等を含めても大雅ひとり。奇妙な認識ではあるが、彼がそれに気づく事は無い。それだけの信頼が、彼にはあった。

 

 しかし持ち主自身が気づかないのだとしても、客観まで同様とは限らない。それは当の信認の対象とて同じ事。故に唐突に投げつけられた直截な信認に大雅は思わず息を呑み、だが電話越しであるためにそれを隠しきることに成功した。

 

『ハッ、まぁそうだろうよ。学部関係ない必修の成績でオマエに張り合えるのはオレか会長ちゃんくらいだろうが……好きな女に、弱みは晒したくねぇもんな?』

「っ……!? 今更だよ。弱みなんて、呆れるくらい知られてる。……しっかし、相変わらず、シレッと他人(ひと)の心理を読んでくるね……」

(さが)なモンでな。知ってるだろ?』

 

 彩歌だけが知っているいくつかの弱点を除けばおよそ万能の才人めいている大雅だが、彼の真髄とはその万能性に非ず。その万能性を支える宗谷大雅最大の才とは事物に対する並外れた洞察力であるのを、彩歌が知っていた。何しろ彼はそれに何度も助けられたのだから。

 

 宗谷大雅という少年の前において、隠蔽とは無価値だ。何かを隠そうとした所で、彼はその魂胆すら見抜く。他者の理屈(ロジック)や不確定な揺らぎ(ファクター)すら織り込みその先を読むが故に、彩歌はここまで強固な繋がりを同好会との間に得るに至ったのだ。

 

 その大雅が言うのだから、否定は無意味だ。あえて事実に即さない事を口にしているのでもない限り、彼は本質を言い当てる。だがどちらにせよそこには大雅なりの考えがある筈で、それを知らぬ彩歌ではない。

 

『でもよ、そう返すってコトは、マジなのか?』

「ノーコメントで。……分からない。そういうコトにしておいて」

『なるほどねぇ。その心は?』

 

 解っているクセに、とは言わなかった。言うつもりもない。そういう事は自ら言葉にするからこそ意味を持つのだと、彩歌とて知っている。そして真意はあえて探すまでもなく、すぐ近くにある。

 

「俺はまだ、俺が誇れる〝俺〟じゃない。これは納得の問題なんだよ、大雅。俺はまだ〝俺〟に納得できてない。それなのにコレに名前を付けてしまったら俺はきっと、色んなコトを一緒くたにしてしまう。そんなのはダメだ」

『納得か。だが、それは……』

「自罰じゃないよ。自責でもない。ただの自己満足さ」

 

 彩歌も分かってはいるのだ。せつ菜/菜々と一緒にいるだけで感じる充足、笑い合えるだけで得られる幸福。それらは全て、彼の胸中に在る単一の感情に由来するものである事は。それはきっと彼は自己より前に菜々に対して抱き、そして事故より後は〝余分〟として切り捨てた筈のそれと同質なのだろう。

 

 故に知っている。その感触も、名前も。或いは菜々の側もそれを感じている可能性にすら彩歌は気付いていて、だが未だ彼はそれを認めない。その資格が無いというのではない。ただ、このまま名前を付ける事に彼自身が納得できない。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 自己満足とはそういう事だ。これは道理や責任の問題でもなければ、菜々に対する義理の問題ですらない。彩歌の裡から発し、そして彩歌自身の中で完結する過程。これを自己満足と言わず、何と言おうか。

 

(オレ)が誇れる(オレ)……ね。傲慢だねぇ。今日日そんなの持ってるヤツ、大人でもなかなかいねぇだろ。

 だがまぁ、オマエらしいよ。そういうヤツだもんな、オマエは。曇っていようがいまいが、心底めんどくせぇ』

「一言余計だよ」

 

 いっそ清々しいまでの罵倒だ。けれど彩歌が不快を示す事はなく、電話越しにふたりは笑みを交わし合う。態々憤る気にもならなかった。その程度の領域、彼はとうに通り過ぎている。

 

 面倒くさい。確かにその通りだと、彩歌は笑う。この行為には何の意味もない。無意味な事に拘るのだから、それの形容としてはこの上なく適切だ。自覚した所で、それを矯正する気は彼にはないけれど。

 

『まぁオマエはオマエが思ったようにやればいいさ。オマエのことだ、どうせ算段はついてるんだろうし。高咲達から聞いてるぜ。体験入部、随分楽しんでるみてぇだな?』

「──! ……勿論。こんなに楽しいのは久しぶりだよ。それだけに……」

『皆まで言うな。言葉にするのは大事だが、オマエはそれだけじゃねぇだろ?』

 

 やはり、見抜かれ(バレ)ている。驚きはなかった。大雅とはそういう少年だが、何より彼は彩歌のそういう一面を最も近くから見続けてきたのだから。彩歌がどういう人間であるかを、大雅はよく知っている。

 

 彩歌は未だ懊悩を抱えている。脱ぎ捨てた所で仮面はすぐには消えはしないのだ。むしろ脱いでしまったからこそ仮面の様相は詳らかで、その虚空の眼窩を以て彼にその在り方を示してくる。

 

 もしもそれを言葉にしたならば、大雅はきっと応えるだろう。だが、それでは駄目なのだ。悩む気持ちはあれども、彩歌には誓いがあるのだから。故にこそ、真に示すべきは決まっている。

 

「あぁ、分かってるさ」

『そうかい。……次に話せるのは全国の時か? 暫く先だな』

「そうでもないよ。すぐそこさ。……じゃあ、また」

 

 大雅が発した終了の意を汲んで大雅はそう告げて、大雅もまた別れの挨拶にて通話を終わらせる。そうした後に残るのはイヤホンによって齎される人工の静寂だ。その中に、少年は呟きを零した。

 

「大丈夫さ。分かってる。俺がすべきコトも、したいコトも」

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