【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第34話 アナタに冒されていく

 この少子高齢化の時代にあってもなおマンモス校という形容が相応しい生徒数を誇る虹ヶ咲学園だが、そんな超が付く程大規模な学校であっても長期休みの前には終業式があるものだ。

 

 全学部の生徒全員が講堂に集めれて取り行われるそれは、しかし参加人数の他には取り立てて特徴の無い至って普通の儀式だ。校長や理事長は彼らの教本に載っているものをそのまま抜き出してきたかのような中身の無い長話を展開し、生徒指導の教員が既聴感に塗れた熱弁を揮う。或いは形骸とも揶揄されるような、形だけの式典。そんな有様であるから多くの生徒が密かに意識を手放している事も菜々は知っていて、だがそんな空気の中であっても壇上で話をする事が菜々は好きだった。正確にはそれを含めて、彼女は生徒会長の職務が好きなのだ。

 

 菜々にとって、生徒会長の身分とはある種の隠れ蓑だ。厳しい両親に隠れてスクールアイドルをするための隠れ蓑。だがそれは決して生徒会長の職務を軽視しているのではなく、むしろそれも好きだからこそ。大好きでいっぱいの世界を創らんとするのに、態々嫌いな事を率先してやるものか。誰かのために活動できるこの仕事が、彼女は好きなのだ。そして式典というのは、スクールアイドルとはまた違った形で壇上(ステージ)から生徒の顔を見る事ができる機会だ。

 

 少し視線を巡らせれば、様々な生徒の姿が見える。真面目な面持で菜々の話を聴く者もいれば、必死に眠気に抗う者、大胆に眠る者、隣に座る友人と小声の駄弁に興じる者、その他諸々。菜々は彼ら全員の名前を知っていたが、あえて特定するような真似はしなかった。そのまま何気なく視線を滑らせ、だが唐突にそれが止まる。

 

 その交錯が偶然であるか否かは、菜々にも分からない。生徒たちを見ている中で偶々そちらに目線が言ったのかも知れないし、生徒たちの並びから無意識に法則性を見出して探し出したのかも知れない。しかし正解がどちらであれ、菜々の漆黒が幾人もの中で唯一の孔雀青とかち合ったという交錯の事実は変わらない。

 

 詰まる所、目が合った。それだけの事だ。何の益体もない、只の偶然か気まぐれと、そう切って捨ててしまえる出来事だ。だがその瑣末が何故だかひどく嬉しくて、思わず緩んでしまった口元を菜々は咄嗟に長話の締めにかこつけて誤魔化す事に成功する。

 

 そうして、一礼。壇上から降りて舞台袖へと隠れ、全ての目から解放された、何でもないその刹那。全ての役を脱ぎ捨てた少女は、喜色も露わに呟きを零した。

 

「えへへ、彩歌くんと目が合っちゃいました」

 


 

 かすみからの誘いにより彩歌が同好会の活動に参加するようになってから、3週間余り。当初は部室までの道程に少なからず伴っていた筈の緊張感も、それだけの時が経てば勢いを減じていた。

 

 しかしそれは何も、彩歌は自らを同好会の一員と自認しているというのではない。彼は未だ書類上では部外者に近しく、それを知りながら仲間を名乗る程に彼は高慢ではないつもりだった。故に彼の心境の変化というのは、言うなれば相対的なそれ、緊張を上回る快然があるだけの事。それだけでも、彩歌には大きな変化であった。楽しい。だからやりたい。あまりにも単純で根源的(プリミティヴ)な理屈だが。それさえ彼は忘れてしまっていたのだから。

 

 足取りは迷いなく、軽やかに。3週間前は未踏(アウェー)のようであった部室棟も、今となっては慣れたものだ。半ば忘我のままであっても道程に支障はなく、この後の日程に彩歌は思考を遣って歩く。彼らしからぬ油断は、或いは浮き足立っているという事か。

 

 しかしあまり浮かれてばかりもいられない。平時は半部外者なりの誠実として早めに部室に来るよう心掛けている彩歌だが、今日は些か遅れてしまっているのだ。偏に終業式中に菜々が送ってきた視線について邪推した友人達から質問攻めに遭ってしまったためであった。

 

 故に思考は扉の前で切り上げ、気持ちを切り替えて手をドアノブへ。ガラス窓のないドア越しでは中の様子は見えないが、聞こえてくる声の数からして彼以外は参集しているように思われた。

 

「こんにち──」

「えーん! 助けてください、彩歌せんぱーい!」

「中須さん!? どうしたんだい、いきなり!?」

 

 衝撃。あまりに唐突な事から来る精神的なものではなく、文字通りに物理的なそれだ。だが全く予想外であっても咄嗟に受け留める事ができたのは、或いは日々の鍛錬の成果であろうか。

 

 密着した衣服越しに伝わってくる体温はいつかの夕景の中で感じたそれにも似ていて、けれどせつ菜ではない。いかに突然であろうとも、彩歌がせつ菜と他者を間違えるものか。そもそも正面から突進されたのだから、その栗色を彼が見間違う筈も無い。

 

 しかし部室に入ってきたばかりの彩歌にはその経緯までを推察できない。彼女の赤く大きな瞳には薄く涙が浮かんでいるようだが、彩歌は彼女が感情に対して素直であるのを知っている。軽く侑に視線を送るが、苦笑めいた目線で返されるのみだ。何らかの事情はあるようだが、彼の困惑を解消するには足りない。けれど彼が問いを重ねるより先に、かすみが顔を上げる。

 

「しず子が、しず子がぁっ、22点でにゃんにゃんって言ってくるんですーっ!!」

「22点……?」

 

 22点。数字だけであったものだからすぐには合点がいかずに彩歌は復唱してしまい、それがかすみには気に食わなかったらしい。赤い瞳に不満げな色が宿る。それに気づけばこそ、困惑は確信に変わるというものだ。

 

 詰まる所、22点というのはテストの点数であるのだろう。虹ヶ咲は基準(ボーダー)を30点に設定しているから、紛れも無く赤点だ。尤も単位は期末だけではなくその他の要素も加味した最終成績から可否が決定されるのであり、試験の点数が全てではない。補修の対象にはなるけれど。故にしずくに想定外があるとすれば、それはかすみがしずくが思っていたよりもその点数を気にしていた事だろう。

 

 仕方のない事ではあるのだ。かすみが22点を取った科目は彩歌には教わっていないもので、元来、彼女は勉強がそれほど得意ではない。だが教わったからには他の科目も情けない姿を見せる訳にはいかないと頑張り、けれどできなかった。気にするな、という方が無理があろう。

 

 その経緯の全てを察する事はできずともおおよそを推察する事はできて、彩歌がかすみの頭を撫でる。それで失礼の総てが償えるとは思っていないが、せめてもの罪滅ぼしに。そうしているうちにかすみも落ち着いてきたようで、それに気づいた彩歌は彼女の身体を剥がして中腰になり、目線の高さを合わせた。

 

「ごめんね、中須さん。お詫びに……なるかは分からないけど、今度また分からない所教えてあげるから。機嫌直してくれると嬉しいな」

「ぐすっ……ホントですかぁ?」

「約束する。言っただろう? 俺はもう嘘を吐かないって。ね?」

 

 果たしてその宣誓を彩歌が口にするのは、これが何度目であったか。まるで投げ売りだ。宣誓は厳格であるからこそ宣言なのであり乱用すれば価値が落ちるとは、彼も分かっているのだ。だがそれ以上に、口にするべき場面においては自己の体裁よりも責任を重視するというだけの事。それだけが彼に果たせる誠実なれば、須らく全霊だ。

 

 故に見るならば正面から、逸らさずに。そうして幾許か、かすみが小さく頷きを返した。だが視線は念押しのようで、微笑みつつ彩歌もまた首肯する。元よりかすみには心底から彩歌を疑う気は無かったが、これでは表面上疑うのですら馬鹿らしい。ゆっくりと彩歌から離れ、しずくと璃奈の許へ戻っていく。互いに口にしているのは誤解に対する謝罪だろうか。不意に侑と目が合い、微笑まし気なその色に照れ隠しめいて彼の笑う。だがしずく達と戯れるかすみに向けられた瞳はひどく穏やかであり、その様はまるで──

 

「なんだかさいちゃん、かすみちゃんのお兄ちゃんみたいだねぇ」

「そうですか? もしそうなら、嬉しいですね、ふふ。俺、一人っ子だから」

 

 一連の様子を見守っていた彼方からの言葉に、笑みを以て彩歌は是を返す。或いはそれは烏滸がましい是認であるのかも知れないが、客観的な形容として最も適切なそれでもあった。何しろ妹がいる彼方が言うのだから。

 

 互いに密着を許容する程度には気安く、その寛容を形作るのは純粋な信用と信頼だ。かつては無自覚にすら他者と距離を執っていた少年の変化としてはあまりに絶大で、それだけに明白でもある。

 

 であればそれは、ある意味では当然の反応であったか。不意に袖口を引っ張られ、彩歌がそちらを見る。いつの間に接近していたのかそこにいたのはせつ菜であったが、思わず彩歌は吐息を零してしまった。驚愕ではない。ただ微かに頬を膨らませたその姿に、柄にもなく動揺してしまっただけの事。

 

「ど、どうしたの? 優木さん……?」

「……彩歌くん、やっぱりかすみさんと仲良しですよね」

「え? まぁ、そうだね……?」

 

 いつも直截なせつ菜らしからぬ、要領を得ない物言いである。肯定の返事である筈なのに彩歌の声音が疑問めいてしまったのはそのためであり、しかしせつ菜の(いら)えは無く袖口を掴む力がより強まったのみ。いじらしささえ漂わせるその仕草に、彩歌は何も言う事ができない。

 

 不可解である。いっそせつ菜自身にすら自己の全てを解体できないまでに。彼女の中に渦巻くそれは羨ましさにも似ていて、しかしそれだけではない。輪郭も分からないのだから名前も判然とせず、最早()()()()と形容する他ない有様であった。

 

 友人同士が仲良くしているのが嬉しくないというのではない。むしろそれは跳び上がってしまいそうな程に嬉しいのだ。だがせつ菜は自身の心情に素直であればこそ、不明(モヤモヤ)を無視する事も出来ない。

 

 だがせつ菜も、彩歌も、以前に言った筈だ。自分の事を知って欲しい/相手の事を知りたいのだと。そのために心の中に在る小さなことでも話すと決めた筈なのだ。なれば、()()も。そうしてせつ菜は口を開こうとして、しかしそれに先行するものがあった。

 

「──さて、これで全員揃ったね! テストも終わったし、これで1学期は終わり!」

「明日からはいよいよ、待ちに待った夏休み!」

 

 侑の音頭を引き継ぎ、歩夢が言う。瞬間、銘々に過ごしていた全員の注意がふたりに向けられ、必定、せつ菜も忘我から現へと立ち戻る。その時点で自身の事情を一度棚上げしてしまうのは、彼女の生真面目さ故だろうか。

 

 侑へと注がれる、10人分の視線。だがその中に在っても彼女は物怖じひとつせず、それどころか不敵に笑んでみせる。

 

「待望の夏合宿──始めるよっ!!」

 

 快然にして朗々たる宣告。それに続くように、気勢に満ちた鬨が部屋に響いた。

 


 

「学内に研修施設がある、とは聞いていたけど……」

 

 侑による合宿開始の宣言から幾許か。目の前に広がった光景に彩歌がそう独り言ちたのは、食料品等の必要物品の買い出しと搬入を終えて宿泊場所である大部屋に入った時の事であった。

 

 実のところ、彩歌は宿泊場所についてはさして期待していなかったのだ。或いは、さして重要視していなかったと言うが正確だろうか。学内に研修施設があると彼に言ったのはせつ菜だが、いくら虹ヶ咲でもそこまで充実してはいないと思っていたのだ。

 

 だが結果論的ではあるが、彼はあまりにも己が母校を侮っていたと言わざるを得まい。今、彼の目前にあるそれは平均的な旅館と比しても遜色ない程に立派な和室であり、およそ合宿用の施設とは思えない。布団等備え付けの物品にも問題は無く、面積は彩歌が中央に大の字に寝転んで入ってもなお余裕があるのだから、当然ではあるが。

 

「この広さをひとりで使ってもいいのかぁ……」

 

 寝転んだままそう呟いて声は天井に昇り、だが彩歌以外の誰に聞き届けられもせずに音としての形を喪っていく。部屋の中には彼しかいないのだから、当然の事だ。だがそれに寂寞を感じてしまうのは、ひとりで使うには広すぎるこの部屋のためだろうか。

 

 だが、仕方のない事なのだ。いくら虹ヶ咲の設備が充実しているとはいえ個室などある筈もなく、そして参加メンバーのうち、男子は彩歌のみ。いかに性別による区別が曖昧化しつつある昨今であっても順守すべき規範(モラル)はあろう。少なくとも真野彩歌という少年は、そこを誤る手合いではなかった。

 

 しかし本来は複数人で使う場所をひとりで占拠しているものだから、手持無沙汰を感じてしまうのも半ば自然な事だろう。時計を見れば次の予定まではまだ幾分かの時間があるようで、数拍の逡巡の後に彩歌は身体を起こした。そうして鞄に手を突っ込み、手に取ったのはスマホとイヤホンだ。ケースからイヤホンを取り出して装着すると、スマホの音楽アプリを立ち上げる。

 

 画面を操作する手つきはよどみなく、呼び出したのは陽彩が歌う楽曲が纏められたプレイリスト。そのままシャッフル再生をタップしようとして、だがその直前、唐突に彩歌の指が止まる。

 

「……」

 

 果たしてそれは、何の間隙であったか。シャッフル再生の表示を押すはずだった指はそのまま『戻る』のボタンにスライドし、代わりにそれとは別のプレイリストを表示する。だが余人がそれを見れば、きっと奇妙に思った事だろう。思い直した事が、ではない。彩歌が再度開いたプレイリストの楽曲はその全てにジャケットの表示が無く、それどころかいくつかは曲名の欄すら非表示(NO DATA)であったのだ。

 

 だが彩歌はそれに頓着せず、リストの最も深部に位置する曲名をタップした。前奏が流れるより早くに一時停止し、起立。スマホを机に放置し、足元の感触を確認する。畳であるため安定性には不安があるが、素足であれば問題ない程度だ。

 

 そうして軽い準備運動で身体を解し、深呼吸。新鮮な酸素が血流にのって末端まで満ちる感覚と共に雑念を体外に押し出し、意識を変革させる。さながら自己暗示めいて自縛であり、しかしそれはむしろ解放に近しい。そして、彩歌が耳元のイヤホンを操作する。

 

 紡がれる旋律。彩歌のみに聞こえるそれに追随するようにして、彼の五体は躍動する。それを踊るのは実に数年ぶりの事であるから技術的には粗削りも良い所といった塩梅だが、今の彼にそれを惜しむ気持ちは無かった。今はただ、全霊をこの躍動に注ぎ込む。拍動する心臓はまるで止まるなと叫んでいるようですらあり、故に躍動はさながら世界をその威容で以て染め上げるかの如く。

 

 ある種の自己対話。内省。外界との隔絶、或いは溶解。自己を心象に満たし、内界と外界の境界を押し退ける。それを錯覚する程の専心であり、それを可能としているのは総身に満ちる情熱だ。心底で燃える混濁の炎が、五体を駆動させる。

 

 故に残心は形而の放熱にも等しく、幻の熱量が現の虚空に放散されていく。それに伴って意識と感覚の焦点が目前に合っていき、彼はようやく自身へ向けられた拍手の音に気付いた。イヤホンを剥ぎ、弾かれるように襖の方へ視線を遣る。

 

「優木さん!? 見てたの……?」

「はい! まぁホントは、彩歌くんがなかなか出てこないので様子を見に来ただけなのですが……でも、これは役得ってものですね。えへへ……」

 

 そう言い、嬉しそうにはにかむせつ菜。特別な事など何もない、ただ様子を見に来たせつ菜の事にも気づかない程彩歌が練習に集中していたという、それだけの事。しかし彼がそれに夢中になっていたという事実がせつ菜は嬉しく、そし彼女の笑顔に彩歌が息を呑む。まだ名づけないと決めた筈の感情が胸の奥で疼く。

 

 しかし、今はそれに構っている場合ではない。半ば無理矢理に彩歌は幻痛をねじ伏せる。それよりも今、せつ菜は聞き捨てならない事を言ってはいなかったか。時計を見てみれば、所定の時刻は目前に迫っていた。

 

 遅れている訳ではない。だが日頃から時間には厳格な彩歌が出てこないものだから、不思議に思ってせつ菜が部屋に来たのだろう。その図式が脳内で組み上がると同時、彼の裡に焦燥が顔を出す。

 

「わっ、ホントだ。もうこんな時間! ごめんね、すぐに準備するから!」

 

 所定の時間に遅刻していないとはいえ、せつ菜らを待たせてしまっているのは事実。何より時間を潰すためにしていた事のために遅れるなど、これでは本末転倒だ。故に声音は謝罪一色であり、だが慌てた様子の彼の動作は鞄を開けた時点で一度停止する。首を傾げるせつ菜。

 

「……? どうしました?」

「あぁいや、その……野郎の半裸なんて見ても何にもならないだろうけど、着替えたいので一応閉めてもらえると……」

「あっ! すっ、すみません!」

 

 現在、せつ菜の恰好は私服であるのに対して彩歌は制服。学内で行っているのだから何らおかしな部分は無いが、部活の一環であるのだからそれに相応しい服装があろう。尤も先に着替えていなかった彼の落ち度ではあるが、それは結果論というものだ。

 

 彩歌の要請に、慌てて襖を閉めるせつ菜。前後の扉が閉ざされた薄暗闇の中、彼女はひとつ息を吐いた。これで両者の間には視覚的な断絶が生まれ、不安要素は何もない。そのための安堵であり、だがそれは油断に他ならない。

 

「───」

「……?」

 

 襖越しに聞こえる彩歌の吐息。それに続くノイズのような音は、或いは衣擦れだろうか。当然の事だ。今、彩歌は着替えているのだから、静寂の中であれば遮蔽物越しであっても聞こえても不思議ではない。

 

 つまりは全くの道理。しかし衣擦れはノイズの内にあって不可解な程明瞭にせつ菜の耳朶に触れ、瞬間、彼女自身に依らずその脳裏に鮮明なヴィジョンが過る。それは彩歌。但し、ただの彩歌ではない。或いはたった今、背後の襖の先に在るかも知れない、あられもない彼の姿だ。

 

 そんなものは無いと、どうして否定できようか。何しろ見えないのだ。事象は観測しなければ確定せず、なればこそ可能性は無限。万象の重ね合わせだ。それを否定するのは不可能であり、せつ菜の幻想(ヴィジョン)すら無限は包含する。

 

 例えばそれは、未完の肉体美。線の細い顔立ちに似合わず直線的な身体付きはスポーツマンではないが為に完熟してこそいないが下着の下に覗く腹筋は十二分に発達したそれであり、その遥か上、浮き出た鎖骨に流れる汗が──

 

(──って、何を考えてるんですか、私は!?)

 

 須臾を際限なく拡張した忘我より立ち戻り、せつ菜はそう自問する。いくら襖の先は見えないとはいえ、衣擦れひとつを頼りにあまるにも明瞭な想像を作り上げるなどと。これでは彩歌にも失礼だ。だがどれだけ(かぶり)を振ろうとも一度生まれた幻はそう簡単には消えてくれず、頬に熱が集まるのを彼女は自覚する。

 

 制御を離れた埒外の自我。悶々(ドギマギ)とする胸中。そんな有様であったものだから、背後の襖が開いたその瞬間、せつ菜は思わず肩を跳ねさせてしまった。

 

「お待たせ。……どうしたの? なんか顔赤いけど……」

「い、いえっ、何でもないですよっ!? さぁ、着替えも終わった事ですし、皆さんのところに行きましょうっ!!」

 

 動揺。赤い顔で手をばたつかせるその様では何かを誤魔化しているのは誰の目にも明らかであったが、彩歌が何か言うよりも早くにせつ菜は部屋を出て行ってしまう。差し出された手は虚空を掻くばかりだ。

 

 取り残される彩歌。照明を点けていない下駄箱の光源は和室から注ぐ白色光のみ。退出するためにスイッチを操作すれば周囲は薄暗く、手探りに彩歌は靴を探し出した。そうなれば後は機械的な行程であり、故に反芻に支障はない。

 

 彩歌の袖口を掴んだままそっぽを向くせつ菜。或いは彼の質問に答えず、赤い顔のまま逃げるように部屋を出ていくせつ菜。どちらも普段のせつ菜らしからぬ姿であるというのに────それさえ〝可愛い〟と思ってしまうのは、彼の悪癖に他ならなかった。

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