いかに広大にして充実した設備を有する虹ヶ咲学園といえど10人程度の生徒が一度に利用できる調理場は家庭科室くらいのものであろうが、彩歌は入学してこの方、家庭科室に立ち入った事が数える程しかなかった。何しろ音楽科のカリキュラムには家庭科の授業が無いというのだから、以前に入った記憶は入学時の校内案内にまで遡る。そんな有様であるから備品の位置が分からず準備に手間取ってしまったのも、致し方ない事ではあるのだろう。
しかし一度準備を済ませたのなら、そこからは彩歌の領分だ。これまで繰り返してきたレシピ通りに材料に手を加え、道具を操る。多人数での会食故の配慮も彼にとっては障害ですらなく、鼻歌など歌いながら手順を進めていく。それが〝DIVE!〟であったのは、フライパンの上で油が跳ねる音にかき消され誰に悟られる事も無い。
そうして、暫く。程よい焼き目を呈し芳香を漂わせるソレを皿に盛り、付け合わせのソースを種類別に小皿へ。一旦の完成を迎えて彩歌が満足気な溜息を吐き、それと殆ど同時、彼の横から声。
「わぁっ……! それ、もしかしてハンバーグ? 美味しそう……!」
「高咲さん。ふふ、イイ
「え、いいの? じゃあお言葉に甘えて……」
唐突に声を掛けられたものだからその瞬間こそは面食らった彩歌だが、表情は変わらず微笑みを湛えたままだ。演技ではない。彼が作った料理を見る侑の目があまりに輝いていたものだから、そんな友人の姿を見れば驚きも引っ込むというものだ。
彩歌が作ったそれをあえて形容するならば、一口ハンバーグといったところか。多人数で共有するためにひとつあたりのサイズを小さくしたそれのひとつに、彩歌は棚から取り出した爪楊枝の1本を突き刺した。ソースは自信作でもあるデミグラスソースだ。
そうして彩歌が差し出したそれを、しかし侑は手で受け取るでもなくそのまま勢い良く頬張った。器用にハンバーグのみを抜き取り、用済みになった楊枝を彩歌がゴミ箱に投擲する。彼の手を離れたそれは美しい放物線を描き、何に阻まれる事も無くゴミ箱の虚空に消えた。
「美味しーい! さいちゃん、料理も上手なんだね!」
「気に入ってもらえたようで何よりだよ。
ところで、高咲さんはどうしてここに? さっきまで近江先輩たちとピザ作ってなかったっけ」
「うん、そうなんだけどね。今は焼いてる最中で、私は手出しできそうにないから皆のヘルプに回ってたんだぁ。さいちゃんには必要なかったみたいだけど……」
なるほど、と内心で独り言ちる彩歌。道具探しに難儀しつつも彼が調理を開始した時点で侑は既に彼方や歩夢と共にピザ作りを始めたのは彼も把握していたが、今はその大詰めという事なのだろう。
しかし焼き加減を3人で監視しているというのも奇妙な話。故に侑は一度持ち場を離れて皆の手助けに回り、その一環で彩歌の許へも来たという事であるらしかった。けれどその時点では既に彼は行程を終えていたために手伝う事ができなかったのだ。
申し訳なさそうに微笑する侑。だがそんな友人を前に、彩歌は首を横に振る。
「必要なかったなんて、そんな事は無いさ。その笑顔が見れただけでも、俺にとっては得だよ」
「そう? へへ、何だか恥ずかしいなぁ……でも、ありがとっ」
歯の浮くような物言いだ。ともすれば軽薄、気障の詰りを免れ得まい。しかしそれとは裏腹に彩歌の声音は常と変わらぬ誠実に満ちており、彼があくまでも実直であるのは疑うまでもない。
事実、彩歌には何ひとつ嘘や誇張を口にしているつもりもなかった。先に侑が彼の前で見せた笑顔というのは彼の料理によって齎されたものなのだから、それは彼がひとつの失敗もなく完成されたこの上ない証明だ。
そして何より、自分が作り出したものが人を笑顔にしている事が彩歌には嬉しく思える。だからこその得。彼の意思は全く言葉通りで、そこに他意は介在しようもない。
「それに、キミは考えてるコトがすぐ顔に出るからね。見ているだけでも楽しいよ」
「え、なにそれ! もしかして、揶揄われてる?」
「からかってなんてナイナイ。表情がコロコロ変わって可愛いってことだよ」
ふふ、と。顎に手を遣り、彩歌は笑う。或いは不敵にも見えるその仕草がただの彼の癖である事は侑は既に知っていたが、それでも不服は不服だ。彼女が軽く頬を膨らませたのは、そのためであった。
ドギマギしたというのではない。しかし謙遜というのでもない。ただ手玉に取られているかのようであるのは誰しも悔しいという、それだけの事。余人からすれば戯れのようでも、当人らは戯れにも全力だ。
故に侑も彩歌を揶揄ってやろうと思考を巡らせ、数瞬。何事か言おうと口を開きかけ、しかしそれは叶わなかった。
「侑さん、度々ごめん。今いい?」
「璃奈ちゃん? うん、い──」
いいよと、璃奈からの呼びかけに対してそう返そうとした侑であったが、さらに声が重なる。
「侑ちゃーん! ピザ焼けたよー!」
彼方の声である。それは言葉通りに侑たちが作っていたピザが焼き上がった合図であり、同時に再び侑自身の仕事が手元に戻ってきたことを示す知らせでもある。それを全く無視できる程、彼女は薄情ではないつもりであった。
しかし今は璃奈からの要請もある。自身の割り当ては無視できないが、かといって自身を頼ってきた後輩を無下にもできない。二律背反めいた逡巡。それに割って入ったのは、先程から状況を見ていた彩歌であった。
「行きなよ。ヘルプは俺が引き継いでおくから。……天王寺さんは、俺でも大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「分かった。ふたりとも、ごめんね!」
彩歌にも調理器具等の片づけが残っているが、それは後でもできる事。対して侑のそれは今しなければならず、であればどちらが優先であるかなど明白だ。提案はそれ故の事であった。
そして侑もそれに引き下がらず、申し訳なさそうな表情をしつつも自身の持ち場に戻っていく。それを見届け、彩歌が璃奈に向き直った。
「さて、俺は何を手伝えばいいのかな、天王寺さん?」
「えっとね、実は……私じゃないんだ」
璃奈の返答を受け、首を傾げる彩歌。璃奈が頼みに来たが、問題があるのは璃奈ではない。道理が通らない話ではないが、奇妙ではあろう。璃奈もそれを分かっているのか、無表情の中に気まずさが見て取れた。
しかし彩歌の疑問が言葉ではなかったのだから璃奈の返答もまた言葉ではなく、踵を返した璃奈に彩歌も続く。そうして彼女が足を止めたのはせつ菜のすぐ近くであり、刹那、彼は璃奈が言わんとする所を察した。
──混沌。或いは、魔女の釜。ふたりの前に立ち現れてきた光景を形容するのなら、そういった所であろうか。それを見れば璃奈が言葉にしたがらない理由も自ずと知れるというもの。だが彩歌の笑みはあくまでも柔和で、せつ菜と目が合う。
「彩歌くん、丁度いい所に! 彩歌くんもお味見いかがですか?」
「そうだね。じゃあ、そうさせてもらおうかな」
逡巡はなかった。それはつい数刻前にも行われた遣り取りで、しかし今度は彩歌が味見側。彼の承諾にせつ菜は喜色を滲ませ、鍋の中で煮立つ紫色の液体をスプーンで一口分だけ掬い取ると、何度か息を吹きかけて冷ました。
そうしてせつ菜が差し出したそれはスプーンの上にあってもなお濃厚な紫色を呈し、だが彩歌は一切の躊躇もなくそれを一口にて啜りきった。迷いなど介在し得ない、全くの自然体である。
そのまま、数拍。吟味するように彩歌は瞑目しながら咀嚼し、せつ菜がそれを期待の籠った眼差しで見つめている。やがてその全てを臓腑の底に流し込み、彩歌が笑んだ。
「……うん。いいんじゃないかな。
でもね、優木さん。俺はこの料理をもっと美味しくする方法を知ってると言ったら……どうする?」
「なっ……!? それは、本当ですかっ……!?」
いっそ不敵ですらある彩歌の言葉に驚愕を見せるせつ菜。だが、それも致し方ない事であろう。せつ菜にとってみれば既にそれなりの自信作だったというのに、それをより上へ押し上げる方法を知っているというのだから。
相手が相手であれば失礼ともなり得る提案だ。しかしせつ菜は料理において彩歌が相当な実力の持ち主であることを知っていて、故に不快はなかった。むしろ彩歌と共に事を為せて、結果、より完成度が上がるのなら、これほどに喜ばしい事も無い。
故に、返事は快諾。せつ菜の了承を得て鍋の前に立ち、彩歌はその中身を見下ろした。その底は見えず、それどころか放り込んだ食材さえ判然としない。見た目に違わず味もまた珍妙であり、多くの者は感想を求められれば一考を要するだろう。だが、彼はその味が嫌いではなかった。奇怪な見た目に、まとまりの無い味。彼にとっては懐かしさすらあるそれを前に、言葉にせず独り言ちる。
(誰にでもこういう時期はあるよね。……俺もそうだったし)
昼間は煉獄めいて苛烈な夏の気温も、夕刻ともなれば多少は落ち着くというものだ。気湿が飽和した都心のコンクリート・ジャングルではそれでも蒸し風呂にも近しいだろうが、その点において東京湾に面した虹ヶ咲学園は比較的良好な立地であった。
昼中と夜半の
中庭に響く喧噪は、その只中で夕食を楽しむ同好会の面々によるもの。それに背を向けて、彩歌は少し離れた所で重くなった腹を摩っている。吐息は満足めいて、だがそれを割くように声が耳朶を打った。
「──隙ありっ!」
「んみゅっ。……何度目だい、こういうの?」
天丼ってやつ? と呆れたように、けれど同時に微笑しつつ問う彩歌。対する下手人──かすみは幾度目かの悪戯成功に、彩歌の頬に指を突き立てたまま得意な笑みを浮かべている。
「にっひっひ。隙だらけな方が悪いんですよーだ!
それより、こんな所で何してるんですか、彩歌先輩?」
「ん。ちょっとお腹いっぱいになっちゃって……食休みだよ」
「あー……彩歌先輩、せつ菜先輩にいっぱい食べさせられてましたもんね」
先ほどまでの彩歌の様子を思い出しての事か、半ば同情めいた声音でかすみは言う。同時に彼女の指が頬から離れ、彩歌が返したのは苦笑だ。情けない姿を後輩に見られてしまった事による自嘲の笑みである。
無論彩歌とて、初めからせつ菜達より遠くにいた訳ではない。夕食の席には彼もいて、せつ菜とは隣であった。そのためか喜び勇んだせつ菜に次々と勧められ、元々あまり食が太くない彩歌はすぐに満腹になってしまったというのが事の顛末であった。
しかし思いのほかすぐに満腹になってしまった彩歌だが、彼に不満はない。むしろある種の満足感さえ、彼にはあった。いつか自分を弁当を作ってくる、と。少し形は違うけれど自分との約束を果たせたことをせつ菜が喜んでくれるというのだから、それを彼が迷惑に思う筈も無い。
尤それで満腹になったからと態々席から離れる必要も薄かろうが、彩歌という少年が1歩引いた形で空気を読みがちな事をかすみは知っていた。それ故に半ば呆れられている事に彩歌は気付いていて、しかしかすみは呆れはすれども認否を定義しない。互いにそういうものと受容する事で成り立つ距離が、彼らの適正であった。
「ホント、お腹いっぱいだ。こんなに満腹になったのは、やたらおっきなパンケーキを食べた時以来かな」
「うぐっ……その節はどうもご迷惑を……って、あの時は先輩が意地張ってたんじゃないですかぁ! かすみん達は止めたんですよー!?」
やたら大きなパンケーキ。彩歌の言うそれは、以前の勉強会後に注文したそれであると気づいたのだろう。思わず謝罪が口を突いたかすみであったが、すぐに思い直して抗議する。確かに注文したのはかすみだが、1年生3人が白旗を上げた後で静止も聞かず無理と意地を押し通したのは彩歌の方であった。
にも関わらず咄嗟に誤ってしまったのは、知らなかった事とはいえ甘い物が苦手な彩歌にパンケーキを食べさせることになってしまったからか。結果的にかすみの物言いがノリツッコミめいてしまい、彩歌が笑声を漏らす。
そのまま少しの間笑い続けて、彩歌はひとつ伸びをしてから芝生に背を沈める。空は先刻よりもいくらか暗み、東方には薄く月の輪郭がめいた。いっそ実在すら不確かにも思える、朧の月輪だ。
「楽しいね、中須さん」
「かすみんはフクザツな気分ですよ……でも、そうですね。かすみんも楽しいです」
自身の負い目が半ば杞憂であったことはフクザツな心境であるものの、それでも楽しいものは楽しい。かすみの声音は不服そうでこそあったが、同時にそれは紛れも無い彼女の本心でもあった。そして、彼の心境でもある。
慊焉とせぬ時間と、その共有。それは何も彩歌の錯覚や思い上がりではなく厳然たる事実であり、だが故にこそ彼はそこにある種の感慨を見る。
以前、彩歌は自らの心を精神の奥底に封じていた。自身には夢を見る資格も、何かを楽しむ権利も無いと、そう信じてずっと自らを抑圧してきた。それなのに今、彼はこの時間を楽しいと感じている。それどころかその気持ちを誰かと共有してさえいるのだ。
あまりにも大きな差異。ならば彩歌の胸中に巣食う
「あまりにも楽しくて、幸せだから……まるで、ユメみたいだ」
今まで幸福から逃げていた筈の自分が、今こうして幸福を感じている。幸福の刃は彼を切りつけていた筈なのに、いつの間にか幸福が疵を癒している。ひどい落差だ。現金にも程がある。あまりにも慣れなくて、いっそ現実感が無い。
だからこその、在らずの月。隠せば残滓すら無くなるそれのように、或いはユメより醒めれば何も残らないのではないか。それこそ在り得ざる妄言と分かっていながら、そんな不安さえ覚える程の幸福であった。
しかし、これは聞くに堪えない戯言だ。それをかすみに聞かせてしまった事に謝罪を口にしようとした彩歌だったが、それより先にかすみが彼の横に腰を下ろした。直後、彼女が軽く振り下ろした手刀が彼の額に接触する。
「あだっ。……中須さん?」
「なーに急に
それは赦しというよりもむしろ、憤慨の如き応えであった。この時間がユメ、などと。この合宿を含めて彼らが過ごした時間とその中で感じた気持ちの総ては、決して虚像などではないというのに。
なればこそ、かすみは彩歌の感傷を否定しない。彼の浮遊感が真性のそれではなく彼が負う影に由来する事には気づいているが、それでもだ。むしろ猶更、認める訳にはいかない。過去に今を潰されるなど、あってはならない。
暗黙の受容の空いた、一分の否定。彩歌は投げつけられた一瞬こそ虚を衝かれたかのようであったが、すぐに茫洋の裡に喜色が滲む。身体を起こし、再びかすみに視線を投げた。
「そうだね。ごめん、変なコト言った。確かに、全部現実だ。俺の気持ちも、勿論、
「そーです! かすみんの可愛さも……えっ?」
それがあまりに自然な返答であったものだから、一度は何気なく聞き入れてしまったのだろうか。一拍を置いてかすみが頓狂な声を漏らすが、彩歌は照れ隠しめいた微笑ひとつを応えとするのみだ。そのまま立ち上がったかと思えば踵を返したのは、逃げるかのよう。
しかし、それでは勿体ない。半ば不意打ちめいていたが為に気づくのが遅れ、それきりなどとは。ならばもう一度、或いは何度でも呼ばせなければ。その発想に至るまでには数秒もかからず、かすみが彩歌に追い縋る。
詰まる所、先程は聞き逃しかけたからもう一度、と。素直に聞き入れれば最上だが、そうでなくても普段は飄々としている彩歌を揶揄えるのだ。かすみにとっては千載一遇の
しかし彩歌も強情なもので、何度かすみに煽られても先の再演をしようとはしない。一回限りの方が特別感がある、というのではない。単純に恥ずかしいのだ。
何としてでもかすみんと呼ばせたいかすみと、気恥ずかしさを抱える彩歌。そのうちにかすみもむきになってきて、皆が談笑しているテーブルの辺りまで戻ってきたころには駄々をこねながら腰に組み付いたかすみを彩歌が半ば引きずる形にまでなっていた。テーブル上の料理は既にほとんどなく、皆が銘々に話題に華を咲かせている。そんな中でふたりを初めに見つけたのは侑であった。
「あっ、ふたりとも戻ってきた。……えっと、どういう状態?」
「まぁ、何と言うか……意地の張り合い?」
さながらコアラか、或いはナマケモノか。彩歌と不満そうな顔で彼に組み付いたかすみの姿を見て、侑の脳裏にそんな想像が過る。しかしかすみは侑の存在に気づくとすぐに彼女の背に隠れるように移動し、顔だけを覗かせて彼に舌を出してみせる。
一見して奇妙な遣り取りだ。だが侑はそれに既視感を覚えて記憶を掘り返し、そしてそれはすぐに見つかった。あれは現同好会の立ち上げに動いていた頃の事。その時もかすみは彩歌からの呼称を巡って侑に泣きついていた。
だが以前と今回で違う点があるとすれば、それはふたりの距離であろう。以前はかすみにに限らず何者かに接近されれば反射的に一歩引いていた彩歌が、今では密着を許すまでになっている。これは大きな変化だ。
であればかすみの威嚇も一定の信頼と信用の下に在るそれのようで、侑はあえて止めるようなことはしなかった。ただかすみの頭を撫でて宥めるに留め、だがその手の感触にかすみはすぐに表情を綻ばせる。
「そうだ。ふたりが戻ってきたら訊きたいコトがあったんだぁ」
「訊きたいコトですかぁ?」
「うん。……ふたりはさ、どんなライブがしたい?」
ライブ。問い自体は唐突で話が見えないが、この状況で全く察しがつかぬふたりではなかった。彼らが少し離れた所で会話をしている間、テーブルの側ではそういった話題が展開されていたのだろう。元よりこの合宿はそういった話し合いも趣旨のひとつであったのだから、自然な事ではある。看過できない一点を除いては。
そしてかすみは名実ともにスクールアイドルであるからにはその問いに即答できぬ筈もなく、片手を侑の肩に置いたままもう一方の手を振り、小さく飛び跳ねる。
「はいはーい! それならかすみんは決まってます! かすみんのめちゃカワパワーで会場を
「うんうん! かすみちゃんの可愛さ全開のステージ……想像するだけでも、トキめいちゃうよ!
じゃあ、次はさいちゃんの番だね!」
まるで、それがごく自然であるかのように侑は彩歌にもその問いを向ける。彼女だけではない。かすみや、彼らの話に気づいたせつ菜らも彼に侑と同等の視線を向けている。──だが、彩歌はそれに無言で自己完結できない。
難儀な性分であるとは、彩歌自身も自覚している。けれど、彼は何より責任を重視するが故に。思い詰めているというのではない。ただその問いに答えるには、何もかも足りないものがある気がして。
「いいのかい? 俺はスクールアイドルじゃない。それどころか、書類上は正式な部員ですらないのに」
事実、彩歌はスクールアイドルに要求される技術を有してはいる。歌唱力についてはLtuberとして一定の人気を獲得する程であるし、ダンスも元トップアイドルである陽彩の薫陶を受けているのだ。作詞と作曲も自らできるというのだから、十全以上であるとさえ言えよう。
それでも、真野彩歌はスクールアイドルではない。それは他でもない、自認の問題だ。人はいくら
拒絶とも自嘲ともつかない彩歌の言葉を受け、きょとんとする侑。頤に手を遣って何かを考え込むようで、しかし逡巡は一瞬であった。片手の握り拳でもう一方の手を打つ。
「そうだった! でも、うん。
「────」
あまりにも明朗たる宣言であった。緑玉の如く輝きを放つ大きな瞳は真っ向から彩歌を見据え、故に彼は目を逸らせない。侑が纏う不可視の光輝を満身に浴びてしまえば、背信できる者がいる筈も無い。
或いは都合が良すぎる物言いと、切って捨てられ得る言葉。それでも彩歌がそれを信じられると直感できたのは、高咲侑がそういう少女だから、と言う他ない。トキメキの表明において彼女は嘘を吐かないと、彼は既に知っている。
今日に至るまでの4年間において彩歌が何を思って音楽を続けてきたか、最早知らぬ侑ではない。だが知った上でもなお、彼女は云うのだ。それでも、と。彩歌の歌にも、さっちゃんのピアノにも、彼女はトキメキを感じた。それもまた、紛れも無い事実なのだから。
ようやく忘我より復帰した彩歌が周囲を見てみれば、皆が侑と同質の瞳で見ているのが分かる。歩夢を除けば彼女らは〝あの日〟について何も知らず、せつ菜以外は彼のルーツを知らない。だがこの数週間、彼が全霊を練習に注いでいた事だけは、皆が知っている。それだけで理由としては十分であり、彩歌が小さく笑んだ。
「……殺し文句だな」
彼が抱える罪業を知った上でそれでもと言われてしまえば、真野彩歌という少年はそれを拒否する事はできない。それは自身の過去とその選択を否定するのと同義であるのだから。
全てを無条件に肯定するのではなく、さりとて否定するのでもない。ただそれもよしとする受容がそこにある全てであり、だがこれ以上に幸福なことを彩歌は知らなかった。白黒つけるというのではなく、中庸。与えられて初めて彼はそれが己に足りなかったのだと気づき、笑みに自嘲が混じる。
そしてそう言われたからには、彩歌に残された選択肢はひとつだ。胸の内に広がる無明へと手を伸ばし、だが答えは伸ばしきるまでもなくすぐそこだ。届いた訳ではないけれど、それは無明の中にあっても燦然と輝いているものだから、手を伸ばしたくなってしまう。まるで、夜空に浮かぶ星のように。
「俺は……俺は、皆を笑顔にしたい。歌でも、ピアノでも、変わらない。俺は俺の音楽で、皆を笑顔にしたい! それが───俺の、夢だから」
嘗て、彩歌はそれを義務だと言った。母の命と引き換えに自分は生きたというのなら、それを果たさなければならないのだと。だが、それを義務といったのはそもそも何故であるのか。きっと、夢を殺そうとしても殺しきれなかったからなのだ。
あまりにも具体性に欠けた夢であるとは、彩歌自身も自覚している。だがそれが正直な気持ちであるからには同好会の人々が否定する筈もなく、侑が頷きを返した。そうして首を巡らせ、皆をもう一度見遣る。
自分の大好きを叫ぶステージ。或いは自分の魅力で会場を夢中にするステージ。断言たる自己表現のステージ。中継で皆と繋がるステージ。ダジャレをぶちかますステージ。皆で手を繋ぐステージ。リラックスするステージ。以前のライブ以上に全力のステージ。胸がいっぱいになるステージ。そして、自分の音楽で皆を笑顔にするステージ。
あまりにも統一感の無い、あまりにもそれぞれの個性に満ち満ちた在りようだ。だが、何故だろうか。侑が描いたヴィジョンはまるで虹のように輝いていて、故に万感の思いが零れるかのように、彼女は言葉を漏らした。
「皆のライブ……きっと、凄いステージになるだろうなぁ……!」