【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第4話 オレはずっとキミのトモダチ

 春。それは出会いと別れの季節。──あまりにも使い古され果てた謳い文句だ。手垢に塗れ、陳腐に堕ちきった表現だ。だがそれでもなおこの表現が使われ続けているのは、それが春という季節の一端を適切に表している言葉だからなのだろう。故に春というのはいつも出会いの高揚と同時に別離の寂寥をも運んでくるのだ。それはある種のノスタルジーと言い換えても良いかも知れない。人は、いつだって過去を懐かしむ生物なのだ。そこに、年齢は関係ない。

 

 僅かに開放された窓から入り込んでくる涼し気風は朝である事を告げ、そこから外を覗けば校庭を縁取るように整然と並んだソメイヨシノが桃色の化粧を纏っている。そんな、あからさまなまでの春の早朝の景色。そんな中で桜の円環に囲まれた学校から漏れ聞こえるピアノの音色はまるで不可視の色にて世界を彩るかのような響きを伴い、しかし同時に何処か悲し気であった。果たしてそれはその奏者たる少年……真野彩歌の内心が音色に顕れたものであるのか否か。

 

 今、音楽室にいるのは彩歌ただひとり。観客のいない演奏会。だが鍵盤の上で跳ねる彼の指はまるで舞台にて舞う役者のようですらあり、であるからか鍵盤を押し込む一打一打が彼が裡に抱く感情を、ピアノを己の器官とし、それを通して外界に出力しているかのような印象さえ抱かせる。無論、それは錯覚だ。ピアノが人間の器官である筈がない。だがそう形容するのが正しい程、彩歌の演奏は上達していた。少なくとも、およそ2年前、小学5年生になったばかりの()()()と比べれば、月とすっぽんとでも言うべき上達具合だ。それは彩歌が積み上げてきた努力の結実でもあろう。或いは彼自身はその努力を努力とも思っていないのかもしれないが、どちらにせよ結果としては同じだ。

 

 そして、やがて終端がやってくる。舞台で踊る演者はその動きを止め、音色は虚空に溶ける。現実に上塗りされた幻想(テクスチャ)が霧散して、世界の色彩は元の容へと立ち戻った。ほう、という吐息はある種のスイッチだろうか。視線を鍵盤に置いたまま彩歌は舞台を降り、そこへ耳朶を打つ拍手の音。先程までは自分以外にはいなかった筈、とそう思いながらも、彩歌は驚かなかった。予感か、或いは確信か。兎も角、知らぬ間の観客の来訪を、彼は半ば当然のものとして受け入れていた。

 

「中川さん」

「素晴らしい演奏でした。……けど、音楽室使用の許可は取ったんですか、彩歌くん?」

「勿論。俺だって、ちゃんと学習はするからね」

 

 冗談めかした菜々の問いに、彩歌もまた悪戯な声音で答える。その遣り取りはふたりがこの音楽室にて初めて事務的な事以外の言葉を交わした時の繰り返しのようでいて、しかし完全な再演ではない。少なくとも菜々の意図を即座に察して言葉を返すというのは、当時の彩歌では絶対にできなかった事だ。

 

 そんな彩歌を前にして菜々は堅物で生真面目な自分から快活で天真爛漫な自分にスイッチし、その端整な顔に華のような、或いは燦々と輝く陽のような笑みを湛える。ともすればどちらかが演技とでも錯覚してしまいそうな変化だが、どちらも中川菜々という少女の本性なのだと、彩歌は知っていた。

 

 それきり僅かな間、絶える会話。互いに何を言えば良いか出方を探っているかのような気配さえある沈黙の中で、彩歌が何気なく鍵盤を撫でる。惜しむかのようなその所作を前に、菜々が呟きを漏らした。

 

「今日で、最後なんですよね」

「うん……そうだね」

 

 最後。菜々の言葉はあまりにも胡乱ではあったけれど、何が、とは彩歌は問わなかった。いや、より正確に言うならば問うまでもないと判じたのであろう。他の日ならばいざ知らず、この日──卒業式の日であるならば、何が最後であるかなど態々考えるまでもない。この校舎、この教室に訪れる事、そしてこの逢瀬にも似た邂逅が最後だと言っているのだと分からない程、彩歌は愚鈍ではなかった。

 

 この学校を卒業した後、彩歌は都立の公立中学へと、菜々は虹ヶ咲学園という私立の中高一貫校の中等部へと入学する。つまりはふたりが同じ学校の同じ校舎に通うというのは、この日が最後なのであった。一応両者共に同じ学区内に住んでいるのだから会おうと思えば簡単に会える距離ではあるけれど、それぞれの事情故にこれまでと同じようにともいくまい。まだ高校や大学が同じになるという可能性も皆無ではないけれど、まだ年若い彼らにとって3年、或いは6年という時間の質量はひどく重いものにも感じられて、それ故にその『最後』という言葉は彼らにとって滑稽に堕ちるものではなかった。

 

 彼らがこの音楽室で出会ったのが小学5年生に進級してからすぐの4月中であるから、その付き合いは約2年といった程度であろうか。ある程度の年齢を重ねた者からすればそれは大した意味も生まれ得ないほど短い時間であるけれど、対人関係の濃密さとは何も時間に比例するものではあるまい。少なくとも彼らにとって、互いに互いを得難い友人だと思うにその時間は十分に過ぎた。

 

「これからはこうして話すのも、貴方のピアノを聴くのも少なくなって……寂しくなっちゃいますね」

「ふふ。俺と会えなくなるの、そんなに寂しい?」

「当たり前です! 彩歌くんは、その、大切な友達ですから……友達と離れ離れになるのは、寂しいに決まってます」

 

 揶揄うような、或いは茶化すような彩歌の問いに対してもなお、菜々は真っ直ぐに少年を見つめながら答えを返す。偽りの気配のないそれに彩歌は僅かに動揺したかのように頬を染め、しかしすぐに微笑した。それは常の飄々とした、或いはマイペースな彼らしからぬ年相応の少年のような笑みであった。

 

 大切な友達。直接そう告げられるのはさしもの彩歌と言えど照れが入ってしまうものの、少なくとも相手からそう思われていて気を悪くする程、彩歌は擦れても斜に構えてもいないつもりであった。それは彼が時折菜々を──揶揄うような調子ではあるものの──友達だと口にする事からも明らかであろう。冗談めかしてはいるものの、幼い彩歌は滅多に嘘を吐かない少年であった。大切に思い、思われ。それは人間同士の交友関係として基本であると同時に理想形のひとつでもあろう。

 

 だがそれと矛盾するような思いではあるが、彩歌はいつか菜々から大切に思われなくなっても良いとも思い、それを望んでいるかのようなきらいさえあった。菜々をそんな薄情な人間だと思っている訳ではない。しかし今は菜々の快活な一面を知るのが彩歌だけなのだとしても、いつか彼以外にも多くの人がそれを知る事になる予感が彩歌にはあって、そうなれば彼は本性を知る唯一の人間ではなく、数多くいる友人の、何でもないひとりにまで堕ちる。それで良い。それが良い。彩歌は友達は多ければ多いほど良いとは思わないけれど、友の行く末に幸あれと思えばこそ、そう願わずにはいられなかった。詰まる所、相手を大切に思えばこそ、相手から大切に思われなくても構わない。真野彩歌という少年は、そういう人間であった。

 

 尤も、そうは思っていても彩歌が口にする事はない。彼は未だ幼く、かつ口に出すだけでも恥ずかしいような事を平然と宣う程マイペースではあるけれど、基本的には聡明な所がある。故に自身の思いが一方的で身勝手なものであると理解していて、だから言わないのだ。

 

「そっか。……あぁ、でも、俺も寂しい。こ、こん……そう、コンジョー(今生)の別れってワケじゃないとはいえ、友達に簡単には会えなくなるんだから」

 

 見栄なのか否か或いはこの年頃特有の性質のためか、慣れていない言葉を使うその様は聊か不格好である。だがこの場において体面などは最早大した意味を持つまい。相手が見ず知らずの他人ならばともかく、気心の知れた者であるならば、恰好が悪い面も今更というものである。度が過ぎれば話は別だが、菜々の苦笑は、彼女が既に彩歌のそういう一面を了解しているものと察するには十分である。

 

 そうして、一拍。彩歌は椅子から立ち上がり、菜々の目前に歩を進める。出会った頃は身長がさして変わらなかったふたりであるが、今は少しだけ彩歌の方が高くなっていて、半ば見下ろす形になる。或いはその変化はふたりが出会ってからの時の流れを感じさせるようで、しかし構わず、彩歌は自身のそれで包み込むように菜々の両手を執りながら「でも」と言葉を続ける。

 

「これからも、俺たちが友達であることは変わらない。ホラ、よく言うでしょ? 『離れていても、心はずっと繋がってる』って。まぁ、現実(ホント)に言ってる人は少ないかも知れないけど……でも、きっと嘘じゃない。だから、寂しくてもきっと大丈夫。

 それに……約束したからね。何があっても、俺はキミの味方だって」

 

 歯の浮くような物言いだ。ともすればただの虚言か、自己陶酔(ナルシシズム)に陥った愚者の戯言として捉えられかねない程に。だが真っ直ぐで真摯な色合いに占められた彩歌の声音と視線にそういった不実の陰はなく、ただ只管に純粋で誠実であった。友を前にして虚飾や糊塗を働かぬ、(まこと)の信頼がそこにはあった。

 

 そして、約束。それはいつかの日、彩歌が菜々に告げた宣誓。誰が彼女の大好きを否定しようとも、自分は必ず味方であるのだと。幼いが故のそれが意味する所も履行に立ちはだかる困難も知らぬ無知から来たる思いであり、無垢であるがために堅牢なる決意であった。

 

 外から暖かな風が吹き込み、少年の亜麻色と少女の漆黒が揺れる。その一陣は少年の約束(ことば)を祝福する天命か、或いは猜疑し嘲弄する悪罵の囁きか。自らの行く先すら知らぬ彼らにそれを知る事はできず、また関係のない事でもあった。たとえそれが内包する意味が何であれ、約束と言ったからにはそう告げた責任がある。その責任を放棄する事だけは、彩歌は嫌だった。

 

 彩歌の孔雀青の瞳が射抜くは菜々の漆黒の瞳。それはさながら、青空と夜空が向かい合う相反の具現であるかのようだ。それから幾許かして、一度瞑目してから彩歌が菜々の手を放す。

 

「……なんて。少し、カッコつけすぎたかな?」

「いいえ。……いいえ。そんなコト、ないです」

 

 茶化すようにはにかむ彩歌と、彼の言葉を否定する菜々。彼女の視線は自身の諸手へと注がれている。そこに既に触れる体温は既に無く、けれど残滓はまだ残っている。或いはそれは物理的なものではなく精神的なもの、そうであったら良いと望むが故の錯覚であるのかも知れないけれど、少なくとも中川菜々という少女の意識の上では真実であった。

 

「離れていても、心はずっと繋がってる……だから私たちは離れても、会えなくても、心はずっと傍に。そうですよね?」

「あぁ、勿論。……ふふ。なんだか、ちょっと恥ずかしいね」

「もう! そこで恥ずかしがったら台無しじゃないですかぁ!」

 

 ひどく今更な話ではあるけれど彩歌が微笑みながら紅潮した頬を掻き、そんな友に抗議する。けれど、その頬は彩歌に負けず劣らず朱に染まっていて、であればその抗議も本気のそれではないのだろう。何拍か空いて、視線を交わす。何故だかとても可笑しくて、ふたりは声をあげて朗らかに笑い合った。

 

 だが、それを遮るように天井のスピーカーからチャイムが降り注ぐ。時計を見ればもうすぐ朝礼の時間で、そろそろ音楽室を後にしなければふたりとも遅れて担任から叱責を受けるのは確実であろう。慣れ親しんだ音楽室を離れねばならない事に後ろ髪を引かれる思いを覚えるものの、それを振り払って彩歌は再び菜々に笑みを向ける。

 

「それじゃあそろそろ戻ろっか。先生に怒られるといけないからね」

「はい! でも、もしも怒られそうなら……その時は、一緒ですよ?」

「あはは、そうだね。一緒だ」

 

 そんな会話を交わしながら、ふたりは共に音楽室から出て行く。境界を踏み越えて、外へ。それからゆっくりと扉を閉めて、それきり、彼らがその扉を開ける事はなかった。

 


 

 中天に座す太陽から注ぐ光が世界に色を与え、大地を駆け抜ける風が木々を揺らす。歓談しながら行き交う生徒の声が混ざり合い、一種の喧騒と化している。そんなある日の昼下がり、彩歌は虹ヶ咲学園の中庭、その中央に聳える木に隣接するベンチに座り、自身のスマートフォンの画面に視線を落としていた。その表情は笑顔でこそないものの真顔と言う程無貌ではなく、余人がその感情を定義するのはひどく難しい。

 

 彩歌の瞳の色と似た、青色のスマートフォンである。注がれる視線は真剣と言うには熱量がないけれど、無関心、手持ち無沙汰で見ているにしては流れていく文を具に読んでいるようである。だがそんな彩歌の世界に割り込むように、声。

 

「何見てんだ?」

「うわっ」

 

 集中していたせいか彩歌はその人物の接近に気付いていなかったらしく、唐突に投げかけられた声に驚きの声を漏らす。だがすぐにその声の主の姿を認めると、安心したとばかりに大きな溜め息を吐いた。

 

「なんだ、大雅か。驚かせないでよ……」

「なんだとはなんだ、失礼なヤツめ」

 

 かなり失礼な発言をした彩歌に、しかし笑顔のままそう抗議するかのような言葉を返したのはひとりの男子生徒であった。身長は彩歌よりも幾らか高く、176㎝程はあるだろうか。また体格も同年代の男性と比べると良く、邪魔にならない程度に切りそろえられた黒髪の下では唐紅の瞳が快活の光を放っている。顔の造作は極めて端整と言えよう。総じて精金良玉な気配の彩歌とは対照的に明朗快活な雰囲気を纏うその少年の名は〝宗谷(そうや)大雅(たいが)〟。彩歌とは中学入学後から付き合いのある、所謂腐れ縁とでも言うべき間柄であった。明確な付き合いのある年月を比較するならば、菜々よりも長いだろう。

 

 大雅の来訪に彩歌はスマホをスリープモードにして傍らに置いてあったバッグに放り込み、代わりに取り出した2つの包みのうち片方を隣に座った大雅の前に差し出した。

 

「ハイ、これ。今日の分の弁当」

「おう、サンキュ。……いつも悪いな」

「またそんなコト……大雅が謝るようなコトじゃないよ。俺が好きでやってるんだから」

 

 果たして彩歌が大雅に渡したその包みの中身とは、弁当箱であった。流石に箱自体は彩歌のそれとは別であるものの内容物は彩歌のそれと同じもので、総て彩歌が作った料理である。無論、彩歌は何の理由もなく大雅に弁当を作ってきている訳ではない。大雅の両親は共働きでふたりとも出勤時間が早く大雅に弁当を作ってやるような時間がなく、また大雅自身も所属しているサッカー部の朝練などで忙しいため、代わりに彩歌が弁当を作っているのであった。

 

 ふたりで「いただきます」と食前の挨拶。弁当箱の蓋を開けて、瞬間、大雅の視線が一点で静止する。その先にあるのは弁当箱に収まるように小さくカットされたハンバーグ。早速好物を頬張り、大雅が満面の笑みを浮かべる。友のそんな愛嬌ある表情に、彩歌が笑声を漏らした。

 

「ふふ。大袈裟すぎ。そんなに急がなくても、弁当は逃げないよ?」

「む。そうだな……がっつくのは、行儀が良くねぇ。

 ところで、さっきは真剣な顔して何見てたんだよ? エゴサか?」

 

 エゴサ、というのは彩歌が動画投稿者さっちゃんとして動画を投稿している事を知っているが故の言葉である。菜々と大雅。このふたりが動画投稿者さっちゃんの正体が彩歌であると知っている者達で、しかし彩歌が先程まで見ていたのは動画の反響ではなかった。そもそも彩歌があまり動画の反響を気にしておらず、酷い時には大雅の方が反響についてより把握しているくらいであるから、その無頓着さは大雅も既知である。声音に揶揄うような気配があるのはそのためであった。

 

 大雅の問いに僅かな間、呆けた表情を覗かせる彩歌。だがすぐに合点がいったようで、再び鞄からスマホを取り出し画面ロックを解除した。そうしてブラウザを起動し、履歴から先程見ていたページを辿っていく。

 

「別に特に何を見ていたってワケじゃあないけど……最後に見てたのは、このページかな」

 

 そう言いながら彩歌はスマホの画面を大雅へと向ける。その動作に対して半ば反射的に大雅が画面を覗き込んでみれば、果たしてそこに表示されていたのは生ライブと銘打たれた虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のイベント告知であった。首を傾げる大雅。

 

「虹ヶ咲学園、スクールアイドル同好会生ライブ……ふぅん。グループのお披露目も兼ねてんのか。行くのか?」

「まだ決めてない。一応、この日は用事はないから行こうと思えば行けるけど……どう、大雅? 一緒に行かない?」

「いんや。申し訳ねぇけどオレはパス。オレ、スクールアイドルあんまり知らねぇし……大会も近いのにレギュラーメンバーが易々と部活休むワケにはいかねぇしな」

「それもそっか。ごめんね、無理言って」

 

 気にすんな、と大雅。虹ヶ咲学園はマンモス校とでも形容すべきその生徒数故にサッカー部などの人気部活はその所属人数からして膨大でありその中でも大会などにレギュラーメンバーとして出場できる人数はごく限られているが、大雅はそのひとりとして選ばれるだけの実力を備えているのであった。大会はまだ少し先であるとはいえ、そんな立場の人間が簡単に練習を休める訳もあるまい。

 

 再び彩歌がスマホを鞄に放り込み、大雅は弁当箱の中から卵焼きを掴み上げて頬張る。出汁の風味が効きつつも、甘みを抑えた味付け。より甘い味付けの方が大雅の好みであるが、この具合は彩歌の好みであった。それなりに付き合いの長い大雅は彩歌が甘い物が苦手だととうに知っていて、故に何も言わない。そもそもあまり甘くないとはいえ大雅にとって彩歌の料理はどれも美味しくて、ある種の多幸感と共に嚥下した。

 

 それから半ば掻き込むように白米と野菜炒めを頬張って、一拍。時計を見ればもう少しで昼休みも終わる頃合であった。大雅の隣では彩歌も弁当を食べ終わっていて、もう一度、ふたりで手を合わせる。

 

「ごちそうさまでした」

 


 

 ──開け放った冷蔵庫から洩れる冷気が肌を撫でる。買い置きしてあるミネラルウォーターの500mlペットボトルを開けると、彩歌はそれを一気に傾けた。冷え切った水が喉を潤し、鉄砲水のように胃の中に流れ込んでいく感覚が心地よい。そうして一息で半分程まで飲み切ってしまったペットボトルを再び閉栓すると、冷蔵庫の中に戻した。

 

 夕刻。窓から覗く空は既に黄昏色に染まり切っていて、窓から差し込んでくる西日がひどく眩しい。リビングの窓から見える範囲は自宅の庭だけであるが、その光景はさながらガラス越しに茜色に揺蕩う世界を見ているかのようでもある。今この家にいるのは彩歌ひとりで、そんな静寂にくぁ、と欠伸をひとつ。リビングの出入り口の方に足を向ける。

 

 授業で出された課題、及び予習と復習は既に済ませた。今はそれ故の休憩時間であり、この後はどうしようかと彩歌が思考を巡らせる。授業内容についての自主学習に、新曲の作詞作曲、そしてピアノの練習。選択肢は尽きぬ程あって、しかし結論を出す前に彩歌の意識に割り込んでくるものがあった。インターホンの呼び出し音である。

 

「……?」

 

 こんな時間に来客だろうか。何かしらの宅配という可能性もあるが彩歌は通販で何か注文した覚えもないし、陽彩が注文したという話も聞いていない。今時得体の知れない訪問販売という事はなかろうが、何かしらの勧誘というのは今でも態々家々を回って活動しているものだ。

 

 居留守を決め込もうか、という考えも一瞬彩歌の脳裏を過るものの、彼はすぐにそれを却下する。たとえ相手が何かしらの勧誘なのだとしても断るならばそうきっぱり告げるのが筋であるし、まだそれ以外である可能性も十分にあるのだ。ふむ、と呟き、彩歌はドアホンの画面を覗き込んで──その刹那、満面が驚愕に支配された。

 

 何故、()()が此処に。いや、自意識過剰ではなく諸々の要素からして彼女が此処にいるのは此処に彩歌がいるからという理由しか考えられなくて、だとしてもあまりに不可解だ。この家が彩歌の自宅であると、知っているのは()()()()()()()()。そもそも彩歌と彼女の間にある繋がりなど偶々学園内で遭遇した事、その一点の筈で。その全ての疑問を、泣き腫らした眦が塗り潰していく。

 

 であれば次の瞬間に半ば忘我のまま走り出したのは、それら総ての疑念への解答を求めての事か。どれだけ考えても〝何故〟は尽きなくて、それなのに彼の中で〝解〟は繋がっていく。嗚呼。嗚呼! 何故、あの遭遇で気付かなかったのか! その笑顔も、大好きなものを話す時の声も、彼は全て知っていたというのに!

 

 半ば躓くような恰好で踵を潰しているのも気にせずに靴を履き、叩き壊すかの如き勢いでドアを押し開ける。呼吸音と足音が、嫌に響く。そうして玄関と門の中間辺りで足を止めると、困惑したような、それでいて何か明確な確信の籠った声音でその名を呼んだ。

 

「優木さん……?」

 

 今更、何を。しかし今の彼女に対する呼称であれば、それはこの上なく適切で。呼ばれた少女……優木せつ菜は泣き腫らした目で、それでも笑みを浮かべる。

 

「こんにちは……彩歌くん」

 

 前触れなく唐突に、しかし確実に──運命の影は、少年の前に立ち現れるのだった。

 




 せつ菜がいつから虹ヶ咲学園に通っているか原作で言及はありませんが、『熱心な教育パパママなら中学からでも私立行かせてそう』という解釈で本作では中等部からとしています。

真野(まの) 彩歌(さいか)
性別:男 一人称:俺
身長:172㎝ 血液型:AB型
誕生日:7月21日
星座:蟹座
誕生石:シトリン
誕生花:ルドベキア、ミント、ネムノキ
イメージカラー:孔雀青
所属:虹ヶ咲学園音楽科2年

宗谷(そうや) 大雅(たいが)
性別:男 一人称:オレ
身長:176cm 血液型:O型
誕生日:8月2日
星座:獅子座
誕生花:カンナ
誕生石:アイオライト、ペリドット
イメージカラー:唐紅
所属:虹ヶ咲学園普通科2年、サッカー部
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