今より数か月前、侑と歩夢が虹ヶ咲学園高等部に入学して1年が経過した頃の事。季節は盛春を迎えて桜も既に散り始め、その日は抜けるような青空に舞う桜の花弁がひどく美しかった事を侑は覚えている。ある種の
切っ掛けは些細な事ではあったののだ。数日前にダイバーシティ東京でせつ菜のゲリラライブを目撃し、かすみ達と共に同好会再発足のために奔走した事で得た熱が胸中に残っていたのかも知れない。不意に思い立って、ピアノが弾きたくなった。言葉にしてしまえば、ただそれだけの事。詰まる所、単なる気まぐれでしかない。
だが、切っ掛けはあくまでも切っ掛け。過程でもなければ結果でもない。気まぐれであるために短時間で済ませるつもりで利用許可証も持たずに音楽室を訪れた侑は、そこで再び呼吸すら忘れる程の衝撃と出会ったのだ。
それはさながら、いつの間にか異なる世界に迷い込んだかのように。
──故にこれは、その再演。或いはそれに近しくも隔絶したもの。時間帯が違うというのもある。この数か月で唯一の観客も実力をつけたというのもあろう。だがそれらは正しくはあれど、不足だ。音色に魅せられ覚束ない意識の中、侑は直感的にそれを確信する。あえてそれを言葉で形容するならば、奏者自身の心境の変化を置いて他にないと、彼女は知っていた。
だが知っている事と目の当たりにする事とでは絶対的な断絶があるというもの。音色が齎す形而の創世に目を奪われる侑の前で、しかし奏者たる少年は彼女の存在にも気づいていないかのようにただ只管にピアノと向き合い続ける。いや、かのように、などというものではない。今、彩歌の意識に在るのは己自身とピアノのみ。それらを合一させ、彼は旋律で夜闇を染める。背後のガラス越しに見えるのは鏡合わせの月夜と海原。不夜城の光に負けた星々に代わり、音の粒が煌めいて水平を照らす。
その在り方はさながら、観客を飛び越え神羅万象そのものを魅せる
いっそ荘厳でさえあった先の所作とは裏腹の、何処か無防備ですらある様子。それがどうしてかおかしくて、侑が微笑む。ある種のギャップとでも言うが良いか、それは飾り気のない彼そのもの。故に侑に呼応するように返した無垢なはにかみもまた、剝き出しの彼そのものだ。
「高咲さん。……見てたなら、声を掛けてくれても良かったのに」
「えへへ……ちょっと、見惚れちゃってた。いや、聴き惚れちゃってたのかな? まぁ、そんなカンジ」
「そっか。そういうコトなら……ふふ、悪くないね」
侑の入室に気づかないまま夢中で演奏していた事に羞恥しているのか、或いはそんな姿を見られた事にだろうか。夜目が利く中にあっては暗闇であっても彩歌の頬が薄く紅潮しているのは明らかで、だが侑はそれに言及する事はしなかった。紅潮しているのは彼女も同じなのだから、彼の事を言えるものか。
しかしそれ故に侑の言葉が嘘ではない事は疑うまでもなく、頤に手を遣って彩歌が笑む。侑が笑顔でいる。他でもない、彼の演奏を聴いたが為に。全く油断していた姿を見られてしまったとはいえ、それは彼にとってこの上なく喜ばしい事であった。自分の音楽で、皆を笑顔にする。それが、彼の夢であるが故に。
穏やかな笑みであった。侑と彩歌は未だ知り合って数か月しか経っていないが、少なくともその中では初めて見る程度には。或いはそれは、音色の変化と由来を同じくするものなのだろうか。
正常な
「コンクールの練習?」
「うん。……と言いたい所だけど、今は休憩中。最近作った曲があってね、それを弾いてたんだ」
「休憩中に弾いてたの!?」
ピアノ練習の休憩中にピアノを弾く。一見すると矛盾しているようではあるが、彩歌の行動を表すのならばそれが最も適切であろう。それ以上でもそれ以下でもない、文字通りの表現だ。
しかし今では侑もピアノを嗜む身の上であるが故に、その驚愕は一入であった。ピアノを演奏するにも体力が要る。無論熱を入れれば入れる程に要求される体力も増えるのは自明であり、だが休憩と言いながら侑が耳にした演奏は間違いなく全力のそれ。いくら彩歌がスクールアイドルのレッスンに顔色ひとつ変えず追随する程度には体力があるとはいえ、消耗と無縁とはいくまい。
実際に侑の目前にいる彩歌の額には大粒の汗が浮かんでいて、微かに速い呼吸に合わせて肩が小さく上下している。それを見れば彼が体力を消耗しているのは明らかで、けれど表情はそれを伺わせない程に清々しいそれ。
自身の疲労を自覚していないのか、或いは自覚していながらそれさえ心地よく感じているのか。正解がどちらであるか察する術が侑には無いけれど、ひとつだけ分かる事があった。消耗を滲ませながら、それでも楽し気な彼の表情。それがいつかの夕景の中に見たせつ菜のそれと、あまりにも似通っていたものだから。消耗さえ何処吹く風であるのも、それであれば納得ができる。思わず、侑の表情に笑みが過った。
「夢中すぎて、疲れも忘れちゃったんだね。……ふふっ、何だかさいちゃんらしいや」
「俺らしい、か。……うん、俺も、こういう〝俺〟の方がしっくりくる」
自分自身の在り方に対して
彩歌は事故以来、ずっと己を偽り続けてきた。自責と自罰により自らを縛り、本心を奥底に沈めて。そうしていればいつかはそれが本物となり、この身は贖罪を為す機械となる。そうして自らの価値を示し、その果てに死ぬことが自身に許された唯一の生き方だと信じていたのだ。
しかし、それは致命的に〝真野彩歌〟ではない。魂の輪郭を歪めるが如き蛮行だ。自己同一性を放棄するような横暴だ。そんな無理が罷り通る道理はなく、だがそれを止めた所ですぐに何もかもが元通りになる筈もない。〝自分の音〟が分からないとは、つまりそういう事だ。
けれど彩歌は〝楽しい〟を取り戻した。〝夢〟を再定義した。そして、〝好き〟を再認した。心の裡に、拭えぬ〝黒〟を残したまま。それらを全て惜しげもなく晒せばこそ、それは
そして、それは決して彩歌ひとりで為した事ではない。同好会の人々や家族、周囲の人々がいたからこそ、彼は今も〝彼〟として在る事ができている。その事実を改めて認めるのならば、次の言葉は決まっていた。瞑目。吐息は薄暗闇に溶けるように。
「……ありがとね、高咲さん」
「へっ? もう、いきなりどうしたの?」
彩歌の礼があまりにも唐突であったものだから、どう受け留めれば良いか分からずに侑は困り顔だ。尤もな反応である。いかに会話には間隙があったとはいえ、前触れもなく礼を投げ渡されれば理解には時間が必要となろう。
だが彩歌も阿呆ではない。彼とてそれが半ば
侑の問いに対してすぐに応えを返さず、微笑みを投げかける彩歌。そうして彼は席を立ち、海を見遣る。
「電話越しには一度言ったけど、それでも面と向かって礼を言いたかったんだ。……俺が〝好き〟を取り戻せたのは、キミのおかげだから」
電話越し。その一言で、侑は彩歌がいつの事を言っているのか気づいたのだろう。疑問は合点に代わり、次いで刹那の裡に謙遜や自嘲めいたそれに取って代わられる。
「そんな、大袈裟だよ。私はただ──」
「トキメキを伝えたかっただけ、かい?」
「むぅ……先回りはズルいよっ」
言いたかったことを先取りされ、軽く頬を膨らませる侑。だがその仕草とは裏腹に不機嫌という訳ではないようで、さながら小動物のような気配に彩歌が口元を綻ばせる。他者の内面への洞察と、思考の理解。それは彼がこの4年の間に身に着けた、一種の技能であった。
そしてこの洞察が思い違いではない事は、侑の表情を見れば明らかだ。彼女はただ、自らの胸中に生まれたトキメキを伝えたかっただけ。目の前で発作を見せた彩歌を心配しての電話であった事も事実だが、それらの感情が合一しての事だったのだろう。
詰まる所それは、ある意味では彩歌の礼と同じだ。究極的には自己満足に過ぎず、だがそれで良い。それが良い。それが自己満足であればこそ、彩歌は救われたのだから。
言葉を先回りされた挙句に直截な感謝を投げ渡され、侑は二の句を継げずにドギマギとする。そんな友人の様子を知ってか知らずか彩歌は微笑のままに向き直り、侑が思わず息を呑んだ。或いはそれは、彩歌の瞳に宿る光輝のためであろうか。
それはまるで、地上で瞬く星のような。窓ガラスの先で輝く星々の光よりもなお強く、それは輝く。数週間前に中庭でパフォーマンスを披露した時と同じ、それは一切の虚飾から解放された魂の光だ。その内側に隠しきれぬ闇を孕みながら、その〝黒〟のためにより燦然と燃える光躍だ。
「キミにとっては何でもない事でも、俺は嬉しかった。あぁ、嬉しかったんだ。だから……ありがとう」
謙遜は無意味。卑下は不躾。〝私なんて〟は最早無意味へと落ち果て、故に侑にはその感謝を受け取る以外の解は無い。だがもしもその選択肢が残されていても、侑はきっとそうしなかっただろう。それ程までに彩歌の声音は真っ直ぐで、彼に許された誠実の全質量を内包していたのだから。そして、高咲侑とは善性の少女であった。
ありがとう。たったそれだけの言葉でも彩歌が込めた感情は十全に侑に伝わったようで、彼女は照れ隠しめいて頬を掻く。故に間隙は咀嚼のための空白で、侑が返せる誠実の全てだ。
「うん。……えへへ、どういたしましてっ」
その遣り取りはそれこそ通話の焼き増しめいて、けれどそれで充分だ。何ら特別な事は無い。彩歌はただ、直接侑に礼を言いたかった。そこには何の他意も邪心も無いのだから、帰結が変わる筈もない。だが事ここに至り、彩歌は改めて理解する。
高咲侑という少女が優しい人である事は、今更な事だ。同好会の皆から慕われている理由も、行動を共にしている中で彩歌は理解しているつもりであった。
けれど、理解はあくまでも理解。それは何処か無機質かつ他人事の気配を宿していて、けれどこうして言葉を交わし、理解が実感に変わった事を彩歌は自覚していた。あえて形容するのなら、人誑しだろうか。純粋に過ぎる善性は、いっそ魔性でさえあろう。
これでは同好会の事を言えないな、と自嘲めいた吐息をひとつ。少し前までは人と深く関わる事を恐れていたにも関わらず、蓋を開けてみればこの体たらく。己が精神の背後に残り続ける仮面があまりにも現金だと詰ってくるのが、彩歌には詳らかに感じ取れるようですらあった。
けれどそれは自嘲であっても卑下ではなく、むしろ清爽でさえあって、彩歌らしからぬ矛盾の仕方に侑が首を傾げる。それに気づくや彼はすぐに応えを返さず、おどけるように肩を竦めた。
「別に、大したコトじゃないんだ。ただ、俺はいろんなものを貰ってるなって思ってさ。キミや、皆から」
──いっそ、不安になってしまうくらいに。
喉まで出かかったその言葉を、彩歌は寸での所で抑えた。音としての形を得られなかった吐息は微笑として外界に現れ、虚空に解けていく。その声音に何処か無機質な気配があるのは、独白さえ彼にとってはある種の再認であるからだろうか。
この数か月で、彩歌は多くの繋がりを得た。それは何も侑やスクールアイドル達のような新しい縁だけではなく、父や大雅、そして菜々といった既存の縁をも見つめ直し、より強固とした時間だったとも言えよう。得難いものを得たこの時間は、彩歌にとっては事故と同等からそれ以上の転機だ。
詰まる所、不安とはそれ故に。彼らは何も見返りを求めて彩歌と交流を持っているのではないと知っていても、否、知っているからこそ、それで責任を投げ出す程、彼は軽薄ではないつもりであった。それを許容するのは信念や恩義に悖る。貰ったのならば、相応に返さねばならない。或いは、返したい。それは、彩歌が〝真野彩歌〟であるためでもある。
自分から彼らへ何を返せるかは分からないけれど、それでも。それは不安であっても、何処か希望と同質のようで。彼の表情からそれを見て取り、侑が悪戯に笑んだ。
「さいちゃんって本当、頑固というか、律儀だよねっ」
「む……そうかい?」
「そうだよ! さいちゃんのそういう真面目な所、私は好きだなっ! えへへ」
またそうやって、と彩歌。しかし呆れは微笑となって、対する侑もまた快活に。ある種の相互理解と言うべきか、今更侑の言葉で動揺する程、彼は高咲侑という少女の事を知らぬ訳でもないのだ。
さらに一歩を踏み出し、侑は月光のヴェールの裡へ。白光が少女の頭上へと降り注ぎ、彩歌の方に向き直る。
「それにね、さいちゃん。私だって同じなんだ。私も皆から、いろんなものを貰ってる。勿論、さいちゃんからも。ね、
「───」
さっちゃん。その名で呼ばれた上で侑が何を言っているのか気づかない彩歌ではなく、虚を衝かれた呆け顔に次いで照れ臭そうに後ろ髪を掻いた。数拍を置き、彼が首肯を返す。
自分は何もしていないと、どうしてそんな事が言えようか。それを言った侑に、それでもと言ったのは彩歌自身であるというのに。それを自覚するが故に、彩歌は否定を口にしない。それをしてしまえば、自らの思いを否定してしまう事にもなるのだから。
侑の何気ない一言で彩歌が我を取り戻したように、彩歌の演奏もまた侑に
──そしてその相克の裡、結ばれた縁と縁の混沌より新たな思いが立ち現れてくるもまた、ひとつの必然。
「……ねぇ、さいちゃん。ひとつ、お願いがあるんだけど、いい?」
「……? なんだい?」
いつもの侑らしからぬ、歯切れの悪い物言いであった。それは半ば会話の腰を折ってしまう事への後ろめたさか、或いはまた別の要因によるものか。けれど彩歌は気を悪くした様子もなく、侑に続きを促す。
問いと、了承。たった二言の短い遣り取り。けれどそれだけで侑から退路は失われ、彩歌は続きを待っている。その笑みは問うより先に答えを確信させるようで、侑が息を呑む。
解っていた事だ。これを言ってしまえば、きっと彩歌は否を返さない。故に言わなかった。本当は〝さっちゃん〟が彩歌だと分かった時、或いはそれよりも前から思っていたというのに。だが彼の全霊たる演奏に触れ、その世界に魅せられてしまえば、最早言わずにはいられなかったのだ。
「私、今ちょっと考えてることがあってさ。あぁ、その相談に乗って欲しいとかじゃなくてね。……私の決心がついたら、その時は──」
一拍。されど間隙は永遠のように。深呼吸をひとつ、その間に侑は迷いを追い出し、そして決定的な願いを告げる。
「──私に、ピアノを教えて欲しいんだ」
厳然たる声音であった。視線はあくまでも真っ直ぐに。緑翠の大きな瞳が真っ向から彩歌を射抜き、対する彩歌もまた、正面よりそれを受け留める。そうして見つめた緑翠の内、彼が光輝の萌芽を見たのは錯覚ではないだろう。
言語に依らざる交感。ならば、それ以上の意思確認は野暮というものだ。その時点で侑が抱えているという懊悩の正体もまた明らかであろうが、本人が自ら答えを出すつもりであるのならそこに彼が介入する余地はない。彼が口にできるのは、請願への是非のみ。
瞑目。相手にピアノの演奏を教える。いつか、彩歌もまた母からそうしてもらったように。その事に思う所が全く無いと言えば、それは嘘となろう。それでも、既に答えは決まっていた。何を悩む事があろうか。
親愛なる同胞に、目一杯の応報を。そこに、一切の疑義がある筈も無いのだ。
「勿論。他ならぬキミの頼みなら、喜んで」
せつ菜と歩夢が侑の不在に気づいたのは、今より十数分前の事であった。夕食の片づけを終えて人心地つき、消灯までの短い時間を銘々に過ごしていた時、部屋に戻ってきた歩夢がそれに気づいたのである。
ただ不在であるというなら連絡をして呼び戻す事もできただろうが、始末が悪い事に侑はスマホを置いたまま部屋を後にしていたものだから、それもできない。必定、ふたりは自らの足で侑を探す事になっていた。
しかし学園は広い。その中から手がかりもないままたったひとりを探し出すのはそう楽な事ではなく、捜索は半ば徒労の体を成し始めていた。吹き抜けの直下、一度立ち止まって一息を吐く。
ガラス張りの天井より注ぐ月光。それに誘われるようにしてせつ菜は頭上へと視線を移し、その途上、よく知った人影に気づいた。
「あれは……彩歌くん?」
すぐに吹き抜けの内周から曲がってしまったために一瞬しか見えなかったが、その姿をせつ菜が見間違う筈も無い。少しクセのある亜麻色の髪と孔雀青の瞳は、彼女の幼馴染たる彩歌のものに他ならない。
だが、何故彩歌がここに。部屋が違うのだから彼の不在をせつ菜が知らなかったのは自然な事で、しかし何か予感めいた感覚に従うように、彼女は2階に続く階段の方へと歩を進めた。