【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第37話 ソレは、きっと初めての

 泥濘を思わせる粘性の暗闇と、反芻めいた虚像の雨音。そして、自己と外界の境界すらも判然としない茫洋とした浮遊感。体肢の存在は知覚すれども自己から切り離されているようで、故に身体は他人のよう。彩歌が目を開いた時、それが彼の周囲に在る全てであった。

 

 異様な感覚であった。自覚し得る限りの意識はこの上なく清明であるというのに、脈絡のある思考がまとまらない。それどころか記憶すらも不鮮明で、無明の内に揺蕩するという非現実を目の当たりにしてさえ、当惑を抱く事も無い。

 

 混濁し果て、意味性を喪失した世界。自分のものである筈なのに、心から切り離されたかのような身体。全く以て現実感の無い状況だが、彩歌にはひとつの確信があった。あえて形容するならば卵の殻と雛鳥が逆転したかのようなものだが、彼に疑いは一片もありはしなかったのだ。

 

 

 理屈を飛び越え、彩歌は理解する。これは───〝死〟だ。

 

 

 だが、それは心臓の摩耗、細胞小器官(オルガネラ)の停止による生命の終着ではない。一度は事故により限りなくそこに近づいた経験のある彩歌なのだから、そこを間違える筈も無い。しかし生命の終着ではないのなら、何であるのか。答えは、考えるまでもなく明白だ。それ自身の生命を除けば、人間が死ねる要素はただひとつ。

 

 詰まる所、それは意味性、実存の死なのだ。彩歌の身を包む(くら)い泥濘はその顕れに他ならない。息はある。呼吸も同様だ。過度な細胞死も無いが為に生命活動の継続に支障はなく、けれどそこには〝中身〟が無い。本来それが在るべき場所に広がっているのは果ての無い虚無のみ。この暗闇が、その証左だ。生命はあれど、中身が死んでいる。それを実存の死と言わず、何と言おうか。

 

 故に、分かる。この暗黒は紛れもなく彩歌に内在する〝死〟そのものであり、嘗ての彼にとって不都合なものを打ち捨ててきた虚数(見ないふり)の洞──廃棄孔の正体。心象という表層(テクスチャ)より底に隠れた、虚無たる安寧の領域。ならばこの逆転は、ある種の反逆と言うべきであろうか。

 

 ここに堆積しているものは、彩歌が切り捨てようとした総て。澱のように降り積もった〝黒〟。累積を続けた歪みは心を改めたとて消えず、執念の触手を精神へと伸ばす。それはさながら、蜘蛛糸に群がる亡者のように。

 

 けれど、これは明確な矛盾だ。虚無に執念が存在するなどと、それでは無は無足り得ない。主をその裡に入れた事で無は観測を許し、虚空はただの黒へと成り下がった。詰まる所、最早この領域に空虚は在り得ず、その証明を以て彼は己が輪郭を確立する。

 

 明確な自己の再定義。それを許してしまった以上は黒に為す術はなく、遍く虚飾は無価値へと堕ちる。虚構の壁は崩れ、そうして天頂から現れたのは日輪を思わせる虹色の光。絶対零度を否定するその輝きに、彩歌が手を伸ばす。

 

 白む視界。崩落する幻想。天球に咲く虹色に手が触れ、虚無たる孔は逆説の前に役目を奪われる。冷たい総身に熱は律動のように満ちて五感は薄れ──それでも、その声は確かに彼の耳朶に届いた。

 

 ──許さない。忘れるなんて、絶対に。

 

 まるで地獄の釜に堆積した煮凝りたる怨嗟を声としたかのような、或いは豪雨を束ねた波濤のようなそれ。恩讐の具現めいた惆悵に彩歌は思わず何かを返そうと振り返り、しかしそれを為すより早く、意識が白に塗り潰された。

 


 

「さ──ん、お──。──き──!」

 

 揺籃を思わせる心地の良いヴェールに包まれた意識の中、その間隙に割り込むようにして聞こえてくる声。躯体の底に残存する疲労が微睡を手繰るも、その声の前に在っては必死の抵抗も全くの無力。少しずつ、彩歌の意識が浮上していく。

 

 それはさながら、鈍重な泥の中から身を起こすように。夢幻に繋がっていた精神の糸がゆっくりと現に結び直され、思考回路に火が灯っていく。それに伴って五感の処理もまた再開され、流入する情報は引き裂かれた微睡を押し流していく。

 

 必定、覚醒は不可逆に。感覚が正常に同期され、緩慢に瞼が開いていく。容赦なく飛び込んでくる暁光に目が眩み、けれど叩き起こされた神経は律儀に役目を果たす。輪郭さえ不確かな世界が一瞬で統制を取り戻して、そうして見えたのは一面の天井でも質素な壁でもなく、苦笑めいた表情で彼を覗き込む黒い瞳とかち合った。未だ回りきらない頭でも、その目を間違える彩歌ではない。

 

「ん……優木さん……?」

「はい、せつ菜です。……ふふっ、おはようございます、寝坊助さん?」

「うん……おはよ……」

 

 悪戯な声音に、太陽を思わせる笑顔。明らかに意図して声量が抑えられているのは、或いは未だ茫洋としている彩歌のためであろうか。瞳と同様に声色もまた上の空としていて、しかし笑顔は明確にせつ菜へと向けられたそれ。挨拶を交わし、緩慢な動作で彼は身を起こす。

 

 繰り返された身動ぎにより乱れた着衣に、寝癖がついたままの亜麻色の髪。孔雀青の瞳は夢現の端境を揺蕩い、緩んだ唇からは欠伸が洩れる。──せつ菜ですら初めて見る、寝起きの彩歌。その姿があまりに無防備なものだから、ただ眺めているだけでも背徳感が過るのをせつ菜は自覚する。或いはそれは、油断している彩歌を独り占めしているという状況のためか。

 

 せつ菜が彩歌の部屋を訪れたのは他でもない。朝食の予定時刻間際になっても姿を見せなかった彩歌を起こすため。遅刻という訳ではない。幾らかの余裕を持った行動は彼女の生真面目さの顕れで、だがそこに全く個人的な欲求が無いかと問われれば、彼女は答えに窮するだろう。尤もそれは彩歌には預かり知らぬ事であるし、知った所で拒絶する理由にもならないけれど。

 

 茫洋たる視線のまま、再び窓の外を一瞥。鮮やかな朝焼け空に、彩歌の口元が綻ぶ。まだ正確な時刻を確かめた訳ではないが、起き抜けにいつもより明るい空を見れば、半覚醒の頭でもおおよその事情を察せよう。──詰まる所、彩歌は寝過ごしかけたのだ。

 

「……ありがとう、優木さん。起こしに来てくれたんだね」

「えへへ、どういたしまして。……でも、意外です。彩歌くんでも寝坊するんですね」

「いつもなら、しないんだけどね。昼寝はさておき、朝に誰かに起こされたのは久しぶりだよ。……昨日、遅くまで練習してたのが響いてるのかな」

 

 何気ない彩歌の物言いに、思わずはっとするせつ菜。脳裏を過るのは昨日、侑を探している時に見た彩歌の姿だ。それに予感めいたものを感じて2階に上がったせつ菜は彩歌を見つける事こそできなかったものの、音楽室で侑を見つけたのだ。

 

 それ自体に思う所は無い。侑と彩歌が音楽室で何を話していたかは気になるけれどそれは彼らだけの事情であるし、せつ菜にとっても侑との時間は得難いものであったのだから。

 

 だがせつ菜が彩歌の姿を目撃している以上彼が遅くまで練習していた事を疑う余地は無く、そしてかつての彩歌が抱えた懊悩を知るのだから、せつ菜が心配してしまうのも致し方ない事だ。だが再び欠伸をひとつ、彩歌が言葉を続ける。

 

「弾いてる間は楽しくて夢中になっていたから気づかなかっただけど、結構疲れてたみたい。自己管理にはそれなりに自信あったんだけど、俺もまだまだだね」

「……!」

 

 自律と克己の天才たる彩歌が、疲労さえ忘れて夢中になっていた。自罰や自傷ではなく、ただ楽しいからというだけの理由で。それを口にする彼の表情は自嘲的でありながら清涼でもあり、せつ菜の表情にもまた笑みが宿る。

 

「なら、もう少し眠りますか? 皆には私から言っておきますから」

「ううん、これ以上キミに迷惑はかけられないよ。すぐに着替えて追いかけるから、先に行ってて。

 ──あぁ、でも……」

 

 何かを思いついたかのように呟き、しかし彩歌が一度言葉を区切る。奇妙な間隙だ。せつ菜が首を傾げたのも当然であるが、あえて促すでもなく言葉の続きを待っている。

 

 単純な感慨だ。いつもであれば脳裏を過りこそすれ口にするまでは至らないような、些細なもの。或いは柄ではないと自省し、思考から切り離していたかも知れない。だが今は口にしてしまったのは、未だ目覚めきっていないためか。寝惚けたままの彩歌は、いつもより聊か素直であった。

 

「起き抜けにキミと会えるなら、たまには寝坊するのも悪くないね」

「なぁっ……ななな、何言ってるんですかっ!? もう! ヘンなコト言ってないで、早く着替えてくださいっ!」

「ふふ、うん。そうする」

 

 〝中川菜々〟なら、にべもなく切って捨てていただろうか。〝優木せつ菜〟なら、慌てず笑顔で返していただろうか。だが彩歌の前にあっては、彼女はその中庸であるが故に。好感と感謝が、心の正中を射る。

 

 動揺。或いは含羞。茹蛸めいて顔を赤くしているせつ菜に対し、しかし彩歌は朗らかな笑顔のままだ。それも洞観などではなくむしろ自然体のそれ。半覚醒とはいかないまでも目覚めきっていないためか、いつもより幼い印象さえ受ける。素朴とでも形容すべきその表情に、せつ菜は胸中で羞恥が萎んでいくのを自覚する。

 

 故に、一旦の別れを告げると共に返したのは笑顔。踵を返し、後ろ手で襖を閉める。そうして彼我の距離は全く分かたれ、ひとつ息を吐く。最早、互いの顔は見えない。ならば───この想像が悟られる事も、ない。

 

 彩歌の言葉を受けてせつ菜が赤面したのは、何も彼のそれがあまりにも気障ったらしかったからだけではない。彼女自身、聊か遅れて気づいた事だけれど。それは、彼女の中に生まれた夢想(ヴィジョン)によるものでもあった。

 

 今日と同じように寝坊した彩歌を、せつ菜が起こす。或いは、その逆。大切な人の声で夢から覚め、柔らかな陽光を浴びながら互いの顔を見合わせて笑い合う。そんな、”今はまだ”在り得ない朝の光景を、せつ菜は──

 

「……えへへ」

 

 ──きっと、幸福だろう、と。そう思ったのだ。

 


 

 早朝のランニングを日課とする彩歌にとって、そのために充てる時間というのはある種の自己対話にも等しいものであった。

 

 〝走る〟という行為は脚をもつ生物の基本行動だ。時には獲物を狩るために、或いは脅威から逃れるために生物は地を駆ける。現代においてはそのどちらも縁遠い位置にいるヒトにとっても、それが基本機能のひとつである事は疑うまでもない。

 

 だが基本であるが故に、それは突き詰めれば何処までも奥深い。筋肉の収縮を円滑化し、全身に巡る血液を感じ、呼吸のペースを最適化する。常に体力の残量を把握すると共に距離を考慮し、消費配分は流動的に。公式に数値を当て込み、解を導くようなものだ。自らの肉体と対話し続けるその時間が、彩歌は好きだった。

 

 久方ぶりに寝坊してしまった今朝を除き、それを何年も。故にその過程は彩歌にとってルーティンに近しく、ならばその全行程を破棄させるだけの要因は積年の質量さえ上回るエネルギーの証明だ。

 

 ──体力が残り少ないために明滅し、ノイズが混じる視界。酸欠により早鐘を打つ心臓。だが何度も繰り返された事だ。呼吸の制御に注力し、取り込んだ酸素で意識の輪郭を押し広げる。その反復の中、背後から声。

 

「今日、は、私の勝ち、ですねっ……!!」

「あぁ、そうだね。でも、次は、負けない……!」

 

 吐息は絶え絶えで、けれど声音は好戦的に。遣り取りを交わすふたりはどちらも疲労困憊といった有様であるが、それを上回るだけの喜色が表情に滲んでいる。額や頬には少なくない汗が浮かんでいるが、せつ菜はそれもお構いなしで彩歌の背に重みを預けている。最早彩歌が重心を調節する必要もなく、そこに暗黙や慣れの気配を漂わせている。

 

 体力増強を目的としたランニング。基礎練習のひとつであるそれにかこつけてふたりが時折競争を行うようになったのは、いつ頃の事であったか。少なくとも彩歌が初めて参加した日からの事であるのは確かで、それは両者の間で不定期に行われるひとつの習慣のようになっていた。

 

 時にはふたりだけで。時には皆で。体力がすっからかんになるまで競い合って、その結果にこうして背中合わせで一喜一憂する。たったそれだけの、何という事も無い時間。だが、彼らはその時間が好きだった。同質の目標をもつ友との切磋琢磨は、彼らにとってひとつの幸福だ。

 

 総身が水分を欲するままにボトルからスポーツドリンクを流し込み、一息。一度で半ば以上が無くなってしまったそれに栓をして、刹那、背後でせつ菜が笑声を漏らした。

 

 首を傾げる彩歌。気配のみでそれを察し、せつ菜が口を開く。

 

「何でもないんです。ただ、嬉しくて。えへへ」

「ふふ、(なぁに)それ」

 

 要領を得ない答えだ。或いは答えとさえ言えないのかも知れない。殆ど同時に水を飲んで、吐息のタイミングが一致した。そのことに彩歌は気付かなかったけれど、せつ菜の楽し気な声音を聞けば、それ以上は要らなかった。

 

 呆れ等ではない。せつ菜が楽しいのならば、彩歌も楽しい。幸福の共有などと、傲慢な事を言うつもりはない。ただ、せつ菜が幸福である事に彩歌が勝手に幸福を感じているという、それだけの事。

 

 故に彩歌はそれ以上何も言わず、代わりに水をもう一口。ふたりが完走してから、そろそろ数分が経つ。後続はさして離れていなかったのだから、これは違和感だ。背後でせつ菜も疑問を抱いた事を感じ取り、けれどその直後、せつ菜が声をあげた。

 

「あっ、侑さん! お疲れ様です!」

「うん、せつ菜ちゃん、それにさいちゃんも。お疲れっ」

 

 遠目に近づいてくる侑の姿を見つけ、立ち上がるせつ菜。離れていく重みに彩歌の胸中を一抹の寂寞が過るが、あえて表情には出さなかった。そうして彼も立ち上がろうと足に力を込め、だがその瞬間、慮外の声が耳朶を打つ。

 

「はい、ターッチ! これでせつ菜ちゃんも鬼の仲間入り!」

 

 鬼。せつ菜の掌を両手で包み込み、侑がそう言う。だがあまりにも唐突だ。いきなりの事であったからせつ菜と彩歌は咄嗟に言葉の意味を理解できず、しかし侑はそんなふたりを置いて小走りで戻っていく。その途中、せつ菜に向けて不格好ながら何度もウインクを投げかけたのは何の意図があっての事か。

 

 そうして侑が去り、その場に残されたふたり。嵐のように過ぎ去った状況に思考の間隙が生まれ、思わず目を合わせた。漆黒と孔雀青の間で光が奔り、空白が摺りあわされていく。

 

 侑が放った〝鬼〟という言葉。接触によって増えるという性質(ルール)。ルートに沿って戻ってこないメンバー達。去り際に侑がウインクした意図までは、彩歌にはわからなかったけれど。それ以外の要素が示す所とは、つまり。

 

「逃げるっ!」

「あっ、ちょっと! 逃がしませんよっ!!」

 

 ──増え鬼。ふたりがその結論に辿り着いたのは殆ど同時であったが、行動は僅かに彩歌の方が早かった。侑に触れられたのはせつ菜のみだが、巻き込まれたのは彩歌も同じ。であれば、逃走者側は逃げなければ失礼というものだろう。そこに、リベンジの心意気が無いと言えば嘘になるだろうけれど。

 

 砂浜で互いに様子を伺いながら駆けるような生温い児戯は、彼らの間には不要。何であれ、やるからには全力で。それこそが共に夢を追う朋友(ライバル)に対する最上の経緯であり、幼馴染でも例外ではない。互いにそれを知ればこそ、逃走と猛追は全霊だ。

 

 ペース配分など、最早度外視。数分の休憩で戻った体力を急激に燃焼させるように、ふたりは走る。いっそ千切れてしまいそうな程に四肢を躍動させ、臓腑を弾け飛んでしまいそうな程に駆動させながら。そんな有様でありながら、彼らの表情には笑みが浮かんでいる。

 

 だが自身の体力を無理矢理に絞り続けるような無茶がいつまでも続く筈も無い。ただでさえふたりはランニングを1セット熟して間もないのだから、それは猶更だ。そして、今日の彩歌は些か寝不足気味である。

 

 全く以て因果応報。けれど極限の応酬に情状酌量の四文字が介在する余地など無い。故に次第にせつ菜と彩歌の距離が詰まっていくのは半ば自然な事であり、彼の身体が間合いに入った事を認めたせつ菜が笑みを深くした。今だ、と言わんばかりの不敵な表情である。

 

「ここは──!」

 

 全速の姿勢を解き、右腕を引き絞る。

 

「私の距離で──うわぁ!?」

「へ──ひょわぁっ!?」

 

 捕まった──その事実を認識するより早く、彩歌の身体が後ろに引っ張られた。急な制動に重心移動が間に合わず、視界には一面に広がる空。予想していなかった緊急事態に、体感が引き延ばされていく。

 

 故にそれは、相対的には咄嗟の判断となるのだろう。引っ張られた右腕を渾身の力で引き戻し、その勢いで体勢を整えつつ右手首に繋がった()()を受け留める。──地面に接触するまでの僅かな間、それが彩歌に可能な精一杯だ。

 

 無論そんな形であるから、自身の被害などは勘定外の事。だが彩歌にとって幸いであったのは、倒れた先が芝生であった事か。或いはそれを知っていたからこそ、思い切った判断ができたのかも知れないが。

 

「イテテ……大丈夫かい、優木さん? ケガはない?」

「はい……ありがとうございます、彩歌く──あっ」

 

 彩歌の手を掴んだ拍子に勢い余って転倒した筈なのに、痛みが無い。代わりに感じたのは何かの、安心する温度。不可思議な状況に恐る恐る目を開けながらせつ菜は礼を口にして、しかし言い切る前に頓狂な吐息が洩れた。交錯する黒と青。呆け顔のまま、互いの頬が疲労のそれとは異なる桜色に染まる。

 

 ふたりの間に言葉はなく、流れていくのは環境音ばかり。だが、それも致し方ない事であろう。半ば反射的な事であったとはいえ。せつ菜は彩歌に抱き竦められるような形で倒れているのだから。

 

 つまりは、ふたりの距離は全くの無。汗ばんだ肌から体温が共有され、硬い胸板に触れた手から彩歌の心拍が伝わる。転倒の衝撃からせつ菜を守るべく背に回された筋肉質な腕が、今も彼女を離さない。

 

 密着しているが故の体感。初めて感じる〝真野彩歌〟にせつ菜は動揺を禁じ得ず、だがそれは決して彼女だけの事ではない。

 

 何しろ密着である。自らの腕の中にせつ菜がいるという、その事実だけでさえ思考が茹だってしまいそうなのに。引き締まっていながらも曲線を帯びた肢体が触れていて、長い睫毛に縁取られた大きな漆黒の瞳も、吸い寄せられてしまいそうな程に近くて。今まで他者との接触を避けてきた少年にとって、それは洪水にも等しい情報量であった。意識するな、という方が無理な事。むしろそんな有様でありながらいち早く平静を取り繕えることこそ、彼の只人ならざる自律の証明であろう。

 

 細波立つ情動の水面を鋭い呼気のひとつで鎮め、せつ菜の肩を掴んで身体を起こす。──離れていく熱への名残惜しさは、感じなかったふりをしながら。

 

「えぇと……ごめんね、優木さん。緊急事態だったとはいえ、こんな……その、抱き締めるめみたいな……」

「そんな、謝らないでください。彩歌くんが私を守ろうとしてくれたのは分かっていますし、それに……別に、嫌じゃないというか。むしろ……」

 

 むしろ、何だというのか。せつ菜らしくもない躊躇と空白。不自然な間隙の先をせつ菜は言葉にせず、しかしその空白に内在する意図を汲み取れぬ程、彩歌は愚鈍ではないつもりであった。思い上がりではないかという逃避も、反証の前にその勢いを減じてしまう。

 

 不合理な感傷だ。せつ菜に捕まった瞬間に止まれなかった彩歌が原因で両者とも転倒し、咄嗟に受け留めた。結果としてふたりとも怪我はなく、彩歌もまた、目出度く鬼の仲間入り。ただそれだけの事。それ以上でも、以下でもない。

 

 抱き合うようになってしまったのも、それ以外に手段が無かったからだ。転倒の原因を作ってしまったのは彩歌なのだから、せめてそれによる負債は全て彼が負わなければ道理が通らない。そのためにあの段階で執れる最善手があの形だった。その判断に否は無く、そもそもとして密着というならば……

 

 早鐘を打つ心臓を鎮めんと脳裏を過る思考の数々。けれどその全てが言い訳じみていて、その情けなさに思わず自嘲しそうになってしまう。結局、目が合えば逸る心拍に思考を中断させられてしまうというのに。

 

 ドギマギとした空気。けれどふたりは気配の前に全く押し黙り続ける程に軟弱ではなく、何事かを言いかけて──

 

 

「────先輩、かすみんの時と反応違くないですかー?」

 

 

「うわぁ!? 中須さん!?」

「かすみさん!? いつからそこに!?」

 

 或いはデジャヴとでも言うべきか。かすみにとってはこの手の空気を打ち破るのは最早慣れたものだ。不機嫌を全面に押し出した声音で背後から話しかけてしまえば、狙った通りの反応が返ってくる。半ばオーバーなリアクションに、かすみが悪戯な笑みを浮かべた。

 

 だが、不機嫌が全く演技かと問われれば、それは否。特に他意は無かったとはいえかすみも彩歌にくっついた事があるというのに、彼の反応があまりにも違うものだから。悪戯は、溜飲を下げるためでもあった。

 

 まんまと目論見を成功させ、満足気な吐息を零すかすみ。そんな彼女の目前で先輩ふたりは顔を赤くしている。目撃したタイミングは二の矢として取っておくつもりであったけれど、この様子では不要な準備であったようだ。

 

「鬼から逃げながらイイ感じの隠れ場所を探してたんですよー。そしたら、たまたま先輩方がイチャついてる所を目撃したってワケです。生きてるだけでこんな特ダネが手に入っちゃうなんて、きっとかすみんの日頃の行いが良いんですねっ」

「イチャ……!?」

 

 あえてわざとらしくコケティッシュに振る舞ったかすみに、しかしふたりはそこに潜んだ玩弄の意図に乗せられてしまう。打てば響く、とはまさにこの事。あまりにも初心な反応に、毒気を抜かれるようですらある。

 

 かすみとて、何も初めからふたりの逢瀬(アクシデント)を見ていた訳ではない。何しろ偶然の出来事だ。そんな都合の良い事は無い。故にかすみは経緯の総てを知る訳ではないが、ふたりの反応を見れば意図的でない事は明白だ。

 

(ホント、じれったいというか、もどかしいというか……)

 

 傍から見ていれば彼らが互いをどう思っているかなど明白であるというのに、当の本人たちがそれを自覚していない。或いは、それを避けている。そしてそれに気づいているのは、恐らくかすみのみ。

 

 性質は違えども共に真面目なふたりであるから、納得する部分はかすみにもある。だが、納得すればこそ。これだけの場面を見逃すという選択肢は、かすみには無かった。

 

「せつ菜先輩、せつ菜先輩」

「はい……?」

 

 せつ菜の肩を軽く叩き、その耳元に口を寄せるかすみ。気軽な所作であるが、手には絶対に触れないように。何故ならかすみは未だ逃走者側であるから。

 

 そうしてそのまま、不思議そうな表情のせつ菜に耳打ちをひとつ、ふたつ。するとかすみの思惑通り、みるみるうちにせつ菜の顔色が赤く染まっていく。かすみの言葉に、思わずその光景を想像したのだろうか。何も卑猥な事など、彼女は一言も言っていないのだけど。

 

「なっ……か、かすみさんっ!」

「キャー、せつ菜先輩コワ~イ! あっ、かすみんまだ逃走者側でしたっ。逃げなきゃ~!」

 

 きゅるん、とでも擬態語が見えそうな仕草でせつ菜の身体から離れ、かすみが踵を返す。逃走者と鬼。であるならば、その先の行動など明白であろう。せつ菜もまた、負けじと立ち上がる。

 

 だが目の前で内緒話をされていた彩歌からすれば、半ば状況に置き去りにされたようなもの。どうやら再びかすみがせつ菜を揶揄っているらしいとは分かるけれど。故に反応は一拍遅れ、その間にせつ菜が振り返る。

 

「ホラ、彩歌くんも! かすみさん……いいえ、残りの逃走者全員、ふたりで捕まえてしまいましょう! 手始めにかすみさんです!」

「う、うん!」

「えぇ~っ!? 2対1は卑怯ですよ~っ! ただでさえふたりとも体力オバケなのにぃ〜っ!!」

 

 せつ菜の宣告に、悲鳴のような声をあげるかすみ。そんなふたりの様子に苦笑し、彩歌もまた困惑を振り切るように地を蹴った。

 


 

 途中から鬼ごっこへと形を変えた午前中の基礎練習を終え、暫く。ボイストレーニングやMC練習など事前に決定されていたローテーションに従って行われた午後の練習が終わったのは、既に陽が傾きつつある頃合いであった。

 

 それから夕食を済ませ、食後に腹ごなし程度の軽い運動をして、1日のおおよそのスケジュールは終わり。練習場所こそ変わらないものの合宿と銘打っているだけはあり、相当なハードスケジュールである。

 

 しかしスクールアイドルでなくとも幼い頃から自己研鑽を積み上げてきた彩歌であるから追随するに何の支障がある筈も無い。1日の行程を終えてから翌日の朝食の準備を行う時間さえ、彼にとっては至福であった。

 

 そうして全ての行程を済ませ、自身に割り当てられた部屋へと戻るべく廊下を往く。その途中、見知ったウェービーな茶髪を見つけて、彼は足を止めた。殆ど同時に彼方も彩歌に気づいたようで、朗らかに笑う。

 

「おや、さいちゃん。お疲れ様。朝ごはんの準備してたのかな~?」

「近江先輩。お疲れ様です。今日の朝食は近江先輩に作っていただきましたから、俺も腕によりをかけて作りました。自信作です」

「おおっ、それは楽しみだねぇ」

 

 全員の共作である夕飯とは異なり、朝食は事前に決めていた当番制。明日の担当が彩歌であるように、今朝の担当は彼方であった。

 

 ライフデザイン学科生として食育を専攻している彼方と異なり、彩歌はごく普通に家事の一環として料理を習得しているのみ。とはいえ特技と自認している以上簡単に負けを認めるつもりもない。故に自信ありげな声色は、若干の対抗心の顕れでもある。

 

 幼気な感傷だ。それを受け取める彼方はさながら子供の駄々を受け流す大人か、挑戦者の宣戦を聞き届ける王者のよう。軽妙ではあれど、無視ではない。そんな塩梅である。

 

 そして挑戦を受けたならば、二言以上は要らない。そうだ、と前置きして、彼方は話題を変える。──彩歌の性格上、どんな答えが返ってくるかを、半ば確信しながら。

 

「今、こっちではプールに入ろうって話になってるんだけど……さいちゃん、水着は持ってきてたりするかな~?」

「水着……?」

 

 まるで、異文化の言語に初めて触れたかのような。ナニソレ、とでも言うかのような、困惑の声音。予想と寸分違わぬ回答に、彼方が困ったように笑んだ。

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