【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第38話 キミよ、心のままに

 ──何故、こんなことに。

 

 真野彩歌という少年の生において、その問いは何度、彼の前に立ち現れてきただろうか。幼い頃より彩歌は誠実を旨として生きてきたけれど、そんな彼とて懊悩と無縁ではいられないのだ。

 

 例えばそれは、事故による昏睡から目覚めた後。或いは、母の死を知り、記憶を取り戻した後。満足に動かない身体とままならない現実に、思わず問うた事を彼は覚えている。けれど、その問いに解が与えられる事は無い。そんな事は誰も知る筈がないと悟り、煩悶は次第にその形を変えていった。それに伴って問いが脳裏を過る事も少なくなって、最近は殆ど無くなっていたのだ。

 

 故にこれは、久方振りの事。既に捨て去った筈の問いは今もなお彼の裡に在って、けれど彼の知るそれとは随分形を変えているようであった。嘗ては後悔と自罰によって縁取られていたそれ。問いの内実は変わっていない筈なのにそれは今、只管な困惑と動揺に彩られている。そんな中でそれらから成る混沌を表情にまで至らせなかったのは、自律と克己の天才たる面目躍如といった所か。

 

 あまりに情けない有様である。自身の行動とそれによる結果に対して最大限の責任を持つ事を信条とするならば尚の事。それは彩歌も自覚していて、しかし()()()()の動揺は彼の自律を易々と飛び越えてきたのだ。嘘を吐かないと約束した彼だが、思わず寝たふりをしてしまう程に。

 

 しかし、今となってはそれは悪手であったか。苦慮する彩歌。それを知ってか知らずか、頭を撫でられる感覚と共に声が降ってくる。

 

「ふふ、彩歌くんの髪、ふわふわです」

 

 上機嫌で優し気なせつ菜の声音。彼女の細く長い指が、彩歌の亜麻色の髪を梳く。或いは慈しむようなその手つきに、彼は元より早鐘を打っていた心拍がよりその程度を増すのを自覚する。あまりにも単純な反応。けれどその状況にあっては、それも致し方ない事か。

 

 プールの残滓と思しき独特な塩素臭を上塗りするように鼻腔を突く甘い匂い。眠っている振りを続けるために頭を固定しているが故にかえって感覚は詳らかで、後頭部を包む温かで柔らかい感触を無視できない。むしろ感覚を切り離そうとする程、意に反して注意が強く引き付けられるようですらあった。

 

 相変わらず、彩歌の目蓋は閉じられたまま。動揺を隠すべく、呼吸は自然で、かつ規則的に。項では心拍を感じにくいのは、彼にとって幸いと言えるだろう。もし慌てるままに横向きになどなっていれば、速まった心拍が頸動脈を通じて彼女の太腿に伝播していただろうから。

 

 代償として、彩歌は今も目を瞑ったまま。けれど視界は無くとも、これだけの情報があれば彼が己の状況を理解するには充分に過ぎよう。鼻腔を擽る甘い匂い。首筋に感じる温かい柔肌。そして、上方から降ってくる上機嫌な鼻歌。それらすべてが、状況を物語っている。即ち───彩歌は今、せつ菜に膝枕をされているのだ。

 

 ──本当に……どうして、こうなった……!?

 

 どうか、この動揺が表情に出ませんように。そんな、半ば無為な祈りを声ならぬ声で飛ばして。彩歌は自身が眠ってしまう前の記憶を辿り始めた。

 


 

 スターマイン。それが花火大会の終幕を飾るような大規模な花火玉の連射手法の名前である事を彩歌が知ったのは、彼がまだ幼い頃、両親に連れられて都内の縁日を訪れた時の事であった。

 

 尤も、それ以上の事を知っている訳ではない。彩歌は花火師になりたかったわけでも、花火の仕組みに強い興味を持っていた訳でもないのだから。けれど幼心に、彼はその花火が好きだった。

 

 いつの間にかどこからともなく打ちあがっては夜空の黒を自らの色彩で染め上げるかの如く苛烈に輝き、そして一瞬のうちに消えていく。後に残った煙は暗闇の中では見えず、人々が後続の光輝に目を奪われている間にひっそりと霧散するばかり。あまりにも綺麗で、何処か虚しい。そんな盛者必衰の相克から生まれる色彩の変遷が、幼い彩歌にはひどく美しく思えたのだ。

 

 今になってその思い出を振り返り、彩歌は思う。或いは、彼がそれを美しく思ったのは、その在り方が彼の憧れに似ているからではないか。自らが放つ光を以て世界を照らし、けれどその輝きは永続のものではない。ステージを降りれば消えてしまう一時のものだ。だが、だからこそ美しい。刹那の内に己自身を燃焼させるに等しいが故に、人はその光輝に魅せられる。彩歌もまた、足を止めて見つめていたのを覚えている。

 

 ならばこれは、真野彩歌という少年の生にあっては異質な事。彼の背後から聞こえてくる爆発音は、紛れもなく花火のそれだ。海上から打ち上げられているのか断続的にそれは聞こえてきて、その度に地上はその輝きで染め上げられる。これまでの彼であれば例外なく呼吸さえ忘れる程に夢中になって頭上で繰り広げられる軌跡に魅入られていただろう。

 

 だが背後に広がる光景を知りながら、彩歌は足を止めない。むしろ連打する音の群れに負けじと歌声をあげ、光の奔流を上塗りせんと五体を躍動させる。それらの合一たる偉容を以て、己自身で地を満たすように。

 

 長い間休みを執る事も無くそんな有様であるからか、とうに身体は酸欠だ。異質な間隙で脈打つ心臓はまるで頭蓋の裡に在るようで、総身の細胞全てが悲鳴をあげているのが分かる。流れる汗は最早脂汗の様相を呈しつつあり、視界は端から徐々に茫洋としているようだ。そんな、およそ限界と言える惨状。けれど肉体の変調に反して意識だけが明瞭であるのは、或いはひとつの純化めいてもいよう。

 

 疲労と酸欠が蓄積した肉体を、精神が追い越していく。そのせいか既に総身が訴える悲鳴すら遥か彼方のようで、心だけが鮮明だ。ある種の全能感。或いは解放感。伽藍の身体で暴れる欲動を以て、魂の輪郭を広げていく。故に、此処は彩歌の世界。心の熱が実存の法を引き剥がし、そうして出来た空白に彼は心象を築く。

 

 真野彩歌はスクールアイドルではない。それは紛れも無い事実だ。この努力が実を結ぶ事は無く、嘗ての彼はそんな徒労を最も嫌っていた筈なのだ。それを自覚していながら、彼の口元には笑み。これは徒労だ。だがそれでいいと、彼は断じる。だって、こんなにも(たの)しいのだ。この感情に勝るものが、何処にあろう。

 

 視界の端では次々と花火が打ち上げられ、そして一瞬の輝きの後に消えていく。己が舞台の上でその全存在を懸けて自らの色を放つ姿は、まるで彼が知るスクールアイドルのようで。負けじと、彼もまたさらにひとつギアを上げる。

 

 夜空で乱打する光輝。漆黒を追い遣る轟音と閃光を背に、彩歌は躍動に乗せて熱を放つ。(くる)しくて、(たの)しい。両義めいた白と黒。そんな矛盾極まる相克さえ己自身であるが故に、彼は全力を以て空へ飛ばす。文字通りの全身全霊。或いは自らを燃やし尽くさんばかりのその姿は、彼の孔雀青の裡から溢れんばかりに瞬く星のような光輝と相俟ってさながら地上に咲いた一等星(スターマイン)だ。

 

 けれど輝きとは即ち夢幻の如く。長いスターマインを最後に夜空には静寂が戻り、それに呼応するようにして彩歌の歌声もまた虚空へと溶けていく。故に心象は立ち消えて、地上は再び尋常の法の裡へ。ならば残心を解くと同時に彩歌が思わず噎せ返ってしまったのは、絶対の真理を侵害した罰であるのだろうか。

 

「──、────……調子に乗りすぎたかな……」

 

 喘鳴に混じる自嘲。漸く肉体が精神に追いついたが故に、感覚まで正常に戻ったのだろう。酸欠のまま歌い続けたためかまるで心臓が耳元に在るようで、鼓動の度に頭が痛む。既に喉は枯れ果て、それなのに汗は滝のよう。まさしく立っているのもやっとといった有様であった。

 

 しかし足元は芝生だ。後から風呂に入る予定であるとはいえ、倒れてしまえば面倒な事になろう。故に残った気力を振り絞って這う這うの体で最寄りのベンチまで辿り着くと、半ば倒れるようにして彩歌はその場に座り込んだ。そうして現在動員できる全神経を以て呼吸の制御に注力。速く浅い呼吸を、長く、深く。酸欠に喘いでいた細胞が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 

 そうして幾許か、手足の末端まで違和が消え去ると共に彩歌が傍らのボトルを執る。手慣れた動作で開栓し、ひっくり返すような勢いで口元へ。鉄砲水めいた奔流の総てを臓腑の底に収めてしまう。殆ど全量入っていた筈の容器が空になるまでには、1分もかからなかった。

 

 軽くなってしまったそれを元の位置に戻し、けれど次いでその掌は何もない箇所を弄る。何かを探るように手を動かし、何度か。茫洋とした声で、あぁ、と漏らした。

 

(そういえば、タオル持ってきてないんだった……)

 

 元からそのつもりで中庭に来ていたのなら、彩歌もタオルを忘れる事は無かっただろう。少なくとも予め意図していた事について準備を怠る程、彩歌は己を間抜けと自認してはいない。今回のように、ただの気まぐれというのであれば、その限りではないけれど。

 

 今、中庭には彩歌ひとり。虫の声や風で木の葉が擦れる音だけが世界に満ちる全てで、それ以外は完全な静寂だ。天蓋にて月は孤独な白貌を晒し、彩歌は未だ靄がかかったままの頭でそれを見上げている。

 

 今頃、せつ菜達は屋上のプールにいるのだろう。事前に示されていた持ち物に水着はなかったけれど、研修施設の内訳にプールが含まれていたのは彼も把握していた。けれど持ってこなかったのは、全く以て彼の油断と言えよう。尤も事前に示されていたとて、彼が持ってきたかは分からないけれど。何しろ男女比1:10である。

 

 故に彩歌はのらりくらりとその場を抜け出して、中庭まで来た。練習は全くの思い付きであるから、タオルまで持ってきていなかったのだ。

 

「俺も入りたかったなぁ、プール……」

 

 ぼやくような一言。水着を持っていないのだから、望むべくも無い事だ。それでも未練めいた感慨を持ってしまうのは、年頃の青少年ならば多少は致し方ない事なのだろうか。煩悩を捨てられぬ己自身に、彩歌がため息を吐く。

 

 しかし、身体が重い。内心で彩歌が呟く。既に酸欠からは脱しているとはいえ、意識は未だ不鮮明。まるで、全身が泥の沼に引きずられているかのよう。

 

 時刻は既に夜。度を越したオーバーワークで身体は最早限界だ。座っている場所も、時折昼寝をしているベンチである。詰まる所、状況は全て揃っているのだ。

 

 狭窄する視界。弛緩する身体。それに抗う術を、今の彩歌は持ち合わせていない。そのまま全体重を背もたれに押し付けるようにして、彼は全感覚の閉鎖を受け入れた。

 


 

 不用意に夜の中庭で居眠りをしてしまった挙句、それを見つけたせつ菜の膝を借りている。一度の睡眠を経て明瞭を取り戻した思考で記憶を辿り、彩歌はそう結論する。流石に眠っている間の事は推測になるが、この場にそれを否定し得る要素はあるまい。

 

 だとすれば、これは途轍もない非礼だ。行為の責任は己自身によって贖わねばならぬというのに、よりにもよって膝枕などと。彼の個人的な嗜好からすれば、これはあまりにも都合が良すぎる。

 

 しかし彩歌の感慨など、この場において優先されるべきではない。葛藤を置き去りにするのは彼にとっては慣れたものだ。故に彼は目蓋を上げようとして、けれどそれに先んじるようにして何かが彼の鼻を摘まんだ。

 

「ふがっ」

 

 素っ頓狂な声だ。だが、それも致し方ない事。何しろ呼吸を止められたのだ。自ら視界を閉ざしていては、予期もできない。油断と言ってしまえば、それまでであるのかも知れないけれど。

 

「彩歌くん……もしかして、起きてますか?」

「……うん。ついさっき起きた。

 ごめんね、優木さん。また、面倒をかけてしまった」

 

 何故分かった。思わずそんな事を考えてしまった彩歌だが、それは今思案しても詮無い事だ。どちらが先に口を開いたにせよ、彼がすべき事は同じ。謝罪を言葉にして──無視し得ない名残惜しさを振り切りながら──上体を起こそうとする彩歌。だがそれを留めるように、せつ菜の声。

 

「いいですよ、まだ寝ていても。お膝は貸してあげますから」

「む……でも、重くない? それに……」

「ふっふっふ、私だって鍛えてるんですよ? 膝枕くらいへっちゃらです! だから、ホラ、遠慮なさらず!」

 

 そう言って先程まで彩歌の頭があった膝を叩くせつ菜の表情は彼も見慣れた輝く笑顔であり、それを見れば彼女が彼への膝枕を少しも迷惑とは思っていないのは明白である。

 

 いっそ眩しく見えてしまう程の笑顔と、純粋な厚意。真っ向からぶつけられるそれを切って捨てる冷酷や無下にする不敬を彩歌は持ち合わせておらず、しかし逡巡してしまったのは、彼の全く個人的な葛藤によるものだ。さながら、戯画化された天使と悪魔が小競り合いをしているかのような。

 

 尤も、無駄な懊悩だ。事ここに至れば、どちらが勝っても結論は変わらない。故に数拍の後に逡巡を棚上げし、彩歌は腹筋から力を抜いた。失礼します、と申し訳程度の一言。首筋に、再びせつ菜の柔らかい体温が触れる。

 

 瞑目を解く彩歌。その胸中に、数分振りの感慨が去来する。

 

「……? どうかしましたか? なんだか顔が赤いような……」

「……そりゃ、赤くもなるさ」

 

 吐き捨てるような物言いだ。けれど指摘を受けて一層赤く染まった頬とあからさまに逸らされた視線を見れば彩歌が照れているのは明らかであり、ならば素っ気ない言葉はある種の照れ隠しだろうか。しかし普段の飄軽な彼からすればあまりにもかけ離れた姿はひどく露骨で、それは彼自身も分かっていよう。総じていっそ幼気ですらある表情に、思わずせつ菜が笑声を漏らした。

 

「ふふっ」

「わ、笑うコトないじゃないかぁ……」

「あはは、すみません。でも……なんだか、嬉しくて」

 

 せつ菜らしい快活さで、同時に朗らかですらある笑みであった。対する彩歌は紅潮こそ抜けきらぬものの瞳には疑問の色が浮かんでいる。嬉しい? と。思わぬ答えに、言外の問いを送ってきているようであった。

 

 真野彩歌は自律と克己の人である。それは自惚れではなく、そう在れという自戒だ。だが先のそれは戒律の間隙より滲んだ愚弱の発露に他ならず、それ故に不可視の鎧の奥に潜む彼の原型とも言えよう。

 

 嘗て、せつ菜は言った。今の彩歌を知りたい。そして、今の自分を知って欲しい。それは決して一過性の出任せなどではなく心底からの本心であり、今も変わらない。幼気すらもその裡だ。

 

 けれど、それだけではない。未だ赤みの引かない顔に悪戯心すら湧いてくる心地であった。

 

「はい! だって、大好きな人のコトをもっと知れて、大好きなコトが一緒にできて、嬉しくないハズないじゃないですか!」

「だッ……!?」

 

 あまりにも直截な答えだ。隔意も、虚飾もない。それはせつ菜の心底より顕れた真性の言葉に他ならず、なれば彩歌の防備が用を為さないにも詮無い事。あまりにも純粋な好意に、彩歌が驚愕と共に息を詰まらせる。

 

 先刻の焼き直しめいた驚倒だ。少しずつ屈服させられつつあった動揺が再起したのは明らかであるが、この体勢では隠す事もできない。だがそんな彼を目下にして、一瞬、せつ菜が視線を外した。同時にその瞳に過った光は逡巡、或いは懊悩だろうか。彼女らしからぬそれに、動揺が冷や水に沈む。

 

「ねぇ、彩歌くん。まだいつステージに立つか決めていないなら、次のライブ……彩歌くんも、ステージで歌いませんか?」

「俺も……?」

 

 ともすれば慮外とさえ言える問いである。反射的に彩歌が問いを返したのもそのためであり、しかしその刹那、彼は先刻の眼差しが内包していた意図を理解する。下手に首が動かせないため確認はできないが、せつ菜が見ていたのは先刻、彼が踊っていた方だ。

 

 動きを止めてすぐに眠っていたが故に、彩歌は知らないのだ。あまりに熱中していたためか先刻の彼がいたその足元に、僅かではあるがその跡が残っていた事を。彼が寝入ってから訪れたせつ菜の目には明らかに過ぎるものであったけれど。

 

 しかしあえて芝生を荒らすなど、およそ彩歌には在り得ない事だ。加えて眠る彩歌の様子を見れば彼がここで練習していたのは明白で、芝生の跡はその際に刻まれたもの。であれば、彼がそれ程までに夢中であったのは想像に難くはないだろう。

 

 生徒会長という立場からすれば、せつ菜はそれを咎めるべきだ。けれど彼女はそこに、ひとつの光明を見る。目を丸くする彩歌に、せつ菜はさらに続けた。少なからぬ期待を込めながら。

 

「侑さんが言っていたんです。今度のライブは虹ヶ咲だけでなく、スクールアイドルが好きな皆が集まれる場所にしたいって。侑さんったら、すぐに名前まで決めちゃったんですよ? 〝スクールアイドルフェスティバル〟。素敵な名前ですよね」

 

 スクールアイドルフェスティバル。まさしく名は体を表すといった具合だが、それだけで全容が知れる筈も無い。幾許かの間隙を置き、せつ菜はさらに続ける。その表情は微笑めいているが、漆黒の瞳に宿る光はこの上なく熱烈なそれだ。

 

 曰く、それの話が挙がったのは先刻のプールでのこと。皆で銘々に会話に興じる中で侑が発案したのだと、せつ菜は言う。元よりこの合宿はライブのアイディアを詰める目的もあったのだから、それも自然な事であろう。

 

 しかし特筆すべきは侑が提示したその規模だ。せつ菜から告げられた一通りの概略を咀嚼し、彩歌が言葉を返す。

 

「そっか。虹ヶ咲だけじゃなく、東雲や藤黄まで……なんだか、高咲さんらしいや。スクールアイドル好きの皆が集まれるお祭りみたいなライブなんて、きっと楽しいに決まってる」

「へへ、ですよね! それで、思ったんです。そんな場所で、彩歌くんのステージが見たいって! ……どう、ですか?」

 

 熱と期待に満ちた語勢とは裏腹に、語尾はまるで彩歌の様子を伺うように。せつ菜らしからぬ弱気ではあろうが、さもありなん。彼女が語ったのはあくまでも彼女の希望で、そこに彩歌の希望はない。かつては己の熱のままに他者を巻き込んで暴走してしまった彼女だからこそ、慎重になってしまうのは致し方ない事だ。

 

 無論、ここで何も考えずに応じてしまう事も、彩歌にはできる。だがそこには彼自身の意思がなく、何よりせつ菜の望みにも反していよう。問われているのは彼自身の気持ち。彼の希望なのだから。即答できなかったのは、そのためでもあった。

 

 故に、黙考。瞼の裏に広がる暗闇は、さながら己が裡に在る無明のように。ならば思考は自我への潜航だろうか。

 

 見慣れた光景であった。慣れ親しんですらいる。かの降雨の昔日より彩歌の魂はここに在って、しかし今、そこに広がっていた筈の無限はその虚飾を剥がれた。最早、暗澹に趨勢はない。

 

 葛藤は消えない。自らを引き留めるかのように雨音は騒ぎ続け、魂を打っている。その全てを認めたうえで、それでも彼は手を伸ばすのだ。彼の胸を満たす熱の根源──炎のように燃える、虹霓たる光輝に。

 

 瞑目は刹那。けれど彩歌にはひどく長くも感じられて、答えは自然と口を突いていた。

 

「いいのかい? 俺はスクールアイドルじゃ……なんて、こんなのはもう、言い訳にもならないね」

「──! じゃあ……!」

 

 続く返答を予期したせつ菜に、無言で首肯を返す彩歌。そうして、よいしょ、と。何処か間の抜けた気合と共に、彼はせつ菜の膝から身を起こした。せつ菜の隣に腰を落ち着け、彼女と向かい合う。

 

 名残惜しくはないと言えば、それは嘘になるだろう。厚意に甘え、膝を借りたままでいる事もできた。だが、それでは不誠実だ。そう判断すればこそ、こうして正面から彼女と向き合う事を選んだのだ。

 

 そんな彩歌の眼差しから何かを感じたのだろうか。せつ菜は何も言わず、彩歌はそんな彼女の片手に己の掌を重ねた。触れ合う肌から、体温が伝わる。それは最小にして十全の交感であった。

 

「──俺も、そのステージで歌いたい。キミたちと一緒に、夢を叶えさせて欲しい!」

「勿論! えへへ、やったぁ!」

 

 よほど彩歌の答えが嬉しかったのか、いつもの敬語も忘れて片手でガッツポーズなどしてみせるせつ菜。その姿に、彩歌は思わず口元を綻ばせる。それはきっと、喜ぶ彼女がとても愛らしく見えたから。名状し難くも温かいものが胸中に広がるのを自覚する。

 

 せつ菜に対して彩歌が返した答えに、一切の忖度は無い。そうすることで喜んで欲しかっただとか、それすらも。そんな薄っぺらい気持ちでは、きっとせつ菜は見抜いてしまうだろう。故にそれは、偽らざる彼の本心。今、やりたい事なのだ。

 

 無論、それに反する己がいる事も彩歌は自覚している。人はそう簡単に変わらない。内在する〝黒〟たる仮面は未だ呪詛を吐き出し続け、雨音は止まない。そんな矛盾した心境でありながら、不思議と胸中は晴れやかだ。

 

 ならば、この宣誓に後悔があろうはずも無い。それを再認して手を放そうとする彩歌であったが、その掌がせつ菜の手を離れるや否や彼の指を掴むものがあった。えっ、と彼が間抜けな吐息を漏らすうちに、せつ菜は己の指を絡めてしまう。

 

 これでは逃げられない。悪戯な表情のせつ菜に、彩歌は穏やかな苦笑で以て返す。もどかしいこの熱が、彼らの絶対距離。渇望する心を振り切って、彩歌は口を開いた。

 

「俺にも、できるかな。俺の“大好き”を、皆に叫ぶ事が……」

 

 感慨めいた、彩歌の吐露。それを前にしてせつ菜が目を見開いたのは、或いはこの問いに聞き覚えがあったからだろうか。彼女の表情からそれを察し、彩歌が微笑する。いつかの昔日とは立場が逆転しているが、それは偽らざる現在(いま)の姿であった。

 

 不安というのではない。誓いを立てた以上、全力を以てその責任を果たすのが真野彩歌だ。それでも問うてしまったのは、彼の胸に灯る熱のため。かつて夢と希望の悉くを捨て去った筈の彼にいつしか再び灯っていたそれは、きっとせつ菜の炎にあてられたが故のものだと、彼は思うのだ。

 

 そう、ステージで歌うせつ菜の姿に魅せられたのは、何も侑や歩夢だけではないのだ。きっと彩歌もまたそうで、ならば彼女の舞台に炎を幻視した時点でこうなる事は既に決まっていたのかもしれない。

 

 ひとりの少女が燃やした心火はいくつもの分火となり、今や少年の中で虹霓の大火と化した。因果は巡り、いつかと似て非なる所まで来たのだ。故に、それはある種の必然であった。

 

 ともすれば弱気とさえ捉えられかねない問いに、しかしせつ菜は確かな覚悟を見る。それに気づけばこそ、返答は決まっていた。

 

「できますよ、きっと、彩歌くんなら。私はそれを知っていますし、それに……」

 

 不自然な箇所で言葉を区切るせつ菜。だがそれを前にしてさえ、彩歌はあくまでも真剣な瞳で彼女を見つめている。その熱量に、彼女は自らに内在した迷いが消えていくのを感じていた。

 

 或いはこれは、彩歌の問いに対する答えとしては不適であるのかもしれない。少なくとも余人からすればそれは間違いなく、けれどせつ菜には確信があった。この思いは、きっと間違いではない。それは純粋な信頼と親愛より来る信認であった。

 

「どんな彩歌くんでも、私は大好きですから! ……これが答えでは、ダメですか?」

「どんな、俺でも……」

 

 譫言のような吐息。せつ菜の返答は先のそれと近しい好意の表現であったが、対する彩歌に動揺は見られない。むしろ彼女の言葉に何かを見出したかのように、その瞳はせつ菜を真っ向から見つめている。

 

 せつ菜の言葉に、嘘はない。声音や視線からもそれは明らかであるが、それ以前に彩歌には彼女を疑うという選択肢自体がないのだ。理屈に基づくものではない。それを飛び越した位置に、その信認はあった。

 

 故にこその気づき。それはまるで無明に差した光明か、パズルに嵌った最後のピースのように。喉元に蟠っていたものが解け、裡から現れたものが胸の奥に収まる。そんな感覚であった。

 

「……ううん。ダメなんて、ある筈がないよ。

 あぁ、これだけ信じてもらえているんだ。なら、その信頼には、応えないとね」

「……! はい! ふふ、楽しみです!」

 

 互いに信頼を交わし合い、微笑み合うふたり。最早これ以上、言葉は要らなかった。未だ自分の事は信じきれない彩歌だけれど、せつ菜の事なら、皆の事なら、信じられる。この信頼に、嘘はない。

 

 しかし信じられているというのにその己自身を信じられないというのなら、これ以上に不実な事もあるまい。故に、これから。彩歌は未だ出発点にすら至っていない。これから彼は皆に、或いはかつての自分に追いつかなければならない。

 

 だからこそこれは、その決意表明。己には責任を。友には誓いを。未だ虹のかからぬ伽藍の月輪に照らされながら、少年は熱を言葉とする。

 

「そうと決まれば、これからもっと頑張らないと。いつか、キミ達に追いつけるように」

「やる気いっぱいですね! でも、そう簡単に追いつかれたりはしませんよ! 彩歌くんが進化しているうちに、私はその先を行っちゃいますから!」

「望むところだよ。俺だって、すぐに追いついてみせるから!」

 

 勝気な宣告。或いは、好敵手(ライバル)宣言。直後、ふたりの大笑が虚空の夜空に響いた。

 


 

 真野陽彩にとって、愛息のいない家というのは久方ぶりの事であった。その職務のために多忙である彼は朝早く出勤し、帰りが深夜になる事も日常茶飯事だ。故に彼が家にいる時はいつだって彩歌の姿があって、それが当たり前であったのだ。

 

 その姿が、今はない。数日前から同好会の合宿に行っているためだ。それ自体は喜ばしい事だ。今まで自罰と自責にとらわれ続け外を見ようともしなかった彩歌が、ようやく自縛から脱しつつあるのだから。それがある意味で父の背中を見ている部分もあるとなれば、喜びも一入であろう。

 

 けれど彩歌の気配が無い虚空を前にすると、どうしても思い出してしまうのだ。4年前、独りで妻と子の帰りをこの家で待ち続けた時のことを。トラウマと言えば悲壮だが、ただ子離れできていないだけとも言えよう。

 

 尤もこれは騒がしい同居人、もとい居候を計上しない思考だ。夫婦共通の友人兼陽彩にとってはある種の好敵手でもある矢代詩音。陽彩は彼女を嫌っている訳ではなかったが、その友情の成立過程が過程なだけに、家族の話題に計上したくはなかったのだ。

 

 全く個人的な感傷だ。互いに好敵手としてぶつかり合っているうちに友情を感じるようになったと言えば聞こえは良いが、その実態はただの意地の張り合い、椅子の取り合いでしかないのだから。情けなくて愛歌や彩歌にはとても言えたものではない。

 

 そんな相手と自宅でふたりきりなのだ。互いに多忙であるから顔を合わせる時間は少ないが、友人であるとはいえ気まずさはあろう。

 

 せっかく彩歌の帰宅日に合わせて取った有給だというのに夕刻まで趣味のガーデニングに精を出していたのは、きっとそれ故のこと。一通りの家事を済ませ、夕飯も作ってしまえば、あとは無心に耽溺していられるから。そんな中でも耳朶まで届く声があるとすれば、それはひとつしか在り得ない。

 

「ただいま」

 

 土を踏みしめる足音。それに続く声。それらが陽彩の意識を無我より引き戻し、世界は平常へと立ち戻った。反射的に踵を返し、父は子と向かい合う。

 

 数日振りの対目だ。初めに何を言うかは、ずっと考えていた。けれど彩歌の目を見た瞬間にそれら全ては無意味な断片と化して、代わりに陽彩は何らかの確信と共に口を開いていた。

 

「おかえり。……ピアノ部屋の掃除は済んでるから、弾いてくるといい」

「流石。じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな」

 

 合宿帰りの息子と父の会話にしては、それはあまりにも淡泊に過ぎよう。まして子離れできていないような父なのだ。言いたい事は山のようにあった。訊きたい事もあった。けれど陽彩はその全ては棚上げしたのだ。

 

 話ならば後でいくらでもできる。久方振りに夕食を共にしたかったのもあるが、それはあくまでも陽彩の希望。それよりも今は、息子のやりたい事を。それ故の判断であった。

 

 去っていく背中。それが完全に扉の先へと消えるのを見届けてから、陽彩は黄昏空に向けて独白を零す。

 

「男子三日会わざれば刮目して見よ、だな」




彩歌(空が半分くらいしか見えない……)
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