【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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断章Ⅱ あるがままの姿で、オレのままで

 これは幻想だ。初めから、その確信があった。

 

 あまりにも奇妙な話だ。幻覚でも夢でもなく、幻想。それも初めからそれを悟っているなどと。彩歌自身もそれは不可解に思っているが、分かっているのだから仕方ないという諦めもあった。或いは、総身を打つ雨の感覚がそうさせるのだろうか。

 

 見上げれば空は分厚い雲に覆われ、鉛色を呈している。降り注ぐ雨粒は上機嫌にアスファルトの上でタップダンスを踊り、巻き上げられた無機質な匂いが嫌に現実的(リアル)だ。遠方に見える市民ホールもまた彩歌の記憶にあるそれと寸分の違いも無く、五感に入力される全てが現実と遜色ない色彩を伴っている。

 

 だが、これは決して現実ではない。現実にはなれない。何故なら、この場所はあまりにも空虚であり過ぎる。五感に訴えかけてくる全てが新鮮であるにも関わらず、此処には生命の存在が致命的に欠けている。本来そこに蟠っていた筈の群衆は影も形もなく、此処に生者は彼ひとり。足元に広がる希釈された血溜まりが、否応なく彼にその事実を突きつける。

 

「──これが(キミ)の原風景だ。忘れられるとでも思ったかい?」

 

 唐突に、背後から声がした。まるで地獄の釜底に堆積した煮凝りたる怨嗟を声として結実させたかのような、そんな有様だ。しかしそれを投げかけられても彩歌に衝撃は無い。一瞬驚きこそすれ、それはすぐに納得に取って代わられる。

 

 分かっていた事だ。この辺獄の内景が嘗ての雨景であるならば、それは必ず()るのだと。だが本当にあるとなれば、彩歌が苦笑を漏らしてしまったのも致し方ない事であろう。諦念めいたため息を零し、半ばのみ踵を返す。

 

 果たして、そこに()るのは〝闇〟だった。まるでその空間に空いた虚無のような、黒々とした闇。そんな在り得べからざるものが、人の形を執っている。無貌のために人相の特定は不可能だが、背格好は中肉中背といった所だろうか。奇怪極まる容貌だ。

 

「忘れられるなんて思ってないさ。……忘れたいと思ったことは、何度もあるけどね」

「でも、それはできない。それは責任の放棄だ」

 

 その返答と共に無貌が足元に視線を向け、つられるようにして彩歌もまた目線をそこに投げる。その瞬間に彼の耳朶を貫いたのは嘶きのような異音であり、だが最早それにも彩歌の表情は崩れない。堅牢極まる鉄面皮が、彼の内心を覆い隠す。

 

 真野彩歌が犯した罪の顕れ。彼が背負った責の総体。彼の瞳が捉えたのは、そういうものだ。一身に浴びるにはあまりに強すぎる衝撃のせいか四肢は軟体のように折れ曲がり、皮膚と生地を突き破って骨が見えている箇所すらある。愛用だった洒脱なスーツは赤黒く染まり果て、血と雨の小川に千切れた亜麻色が流れていく。

 

 想像の力とはげに恐ろしきもの。彩歌自身はそれの有様を伝聞以外には知らない筈なのにそれは仮想の域には無い質量を以て彩歌に訴えかけてくる。微かに匂う鉄臭さは血のそれだろうか。死人は死人のまま、自身を墓標としてそこに在った。吐き気は無い。苦悶も無い。だが反射的に口元を押さえ、それを見た無貌が嗤う。

 

「そうだ。もっと苦しめばいい。(キミ)にとって音楽とはそういうものだろう?

 中川菜々に救いを見たか? 高咲侑に希望を見たか? スクールアイドルに光を見たか? 音楽は楽しかったか?

 ……全てまやかしだ。捨ててしまえ、そんなもの」

 

 それが〝真野彩歌〟の責任だ。嘲るような問いの連続と共に、無貌は彩歌にそう言い切る。その声音に怒りすら滲んているように聞こえたのは、きっと彩歌の気のせいではないだろう。無貌は怒りを抱いている。他でもない、彩歌に対しての怒りを。

 

 無貌は許さない。それどころか憎悪してすらいるだろう。彩歌がこの雨景から目を背け、全てを忘却の淵に沈めてしまう事を。それは責任を放棄し、過去の全てを無価値としてしまう行為であるが故に。

 

「母を死なせたのは(キミ)だ。そんな奴が、母の教えに殉じるなんて片腹痛いにも程がある。残された命の全てを以て自らの価値(そんざい)を示し続け、その果てに無意味に死ぬまで……夢を語る権利なんて、(キミ)にはないんだよ。本当は分かっているんだろう?

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 無貌の言葉に、彩歌は何も言わない。だがその沈黙こそが何よりの答えだ。彩歌は無貌の物言いを否定できない。何故なら、それは彩歌自身が最も強く実感していた事だったのだから。

 

 体験入部初日、愛の頼みで披露したパフォーマンスにおける反省点とはつまりそういう事だ。自らの魂を押し出すようなものだったにも関わらず、あの歌はあまりにも綺麗過ぎた。それはきっと、彼に内在する無意識の否定のため。

 

 本当は分かっていたのだ。確かに、同好会の人々との日々は彩歌にとって楽しいものだった。けれどその気持ちが強くなるほど、否応なしに自覚してしまう。自らの裡に吹き溜まる黒々とした感情を。

 

 詰まる所、音楽を愛する心と同様に、怨嗟もまた彩歌と不可分なのだ。まるで光と影のように。故に、返答は決まっていた。

 

「さっきからキミキミって、そればかりだ。……誤魔化すなよ」

「──え……?」

 

 動揺。相変わらず表情は見えないが、彩歌には無貌の感情が手に取るように分かった。だが、それも当然だ。無貌が彩歌を理解できているのに、彩歌が無貌を理解できないのでは道理が通らない。

 

 故に無貌は最早無貌ではいられず、そのためか人型を成す闇が端から解けていく。その下に見えるのは土や血で汚れた正装であり、自身の正体が詳らかになる事に、ソレは何の抵抗も見せない。

 

 再び身体の向きを変え、今度こそ正面から向き合う。その目前で闇は完全に掻き消え、双眸からは雨のそれとは異なる雫が落ちる。無貌は既にそこに無く、立っているのは過去の具現に他ならない。

 

「キミは俺だ。ずっと自分を鎧で隠し続けて、その重みで自分自身を殺し続けた俺自身だ」

 

 だから、分かる。今の自身よりも少しだけ身の丈が小さい自分に、彩歌は言う。対する無貌、否、過去は何も言わず、泣き腫らした目で彩歌を見上げるばかりだ。最早、何も言う事は無いのだろう。そんな己自身に、彩歌は一歩踏み出す。

 

 ずっと辛かった。ずっと悲しかった。厚顔無恥にもそんな思いを抱えていた事を、彩歌は認めよう。そしてそれと同時に、ずっと願っていた。願い始めた時点で叶わないと決まっていた、そんな夢が彼にはあったのだ。

 

 そうして彩歌が間合いに入っても、過去は何も言わない。その目の前で彩歌はひとつ溜息を吐くと、何の躊躇いも見せずにその首に両手を伸ばした。締め上げた首の体温は、あまりにも冷たい。ずっと雨に打たれていたせいか、感触はまるで死人のようだ。

 

「分かっているさ。この夢は決して叶わない。そんな都合の良い現実はやってこない。だから、全てを諦めて折り合いをつけようとした」

「……分かってるじゃないか。なら、その諦めをかなぐり捨ててまで、(キミ)は何処に行く? 何を為そうというんだい?」

 

 首を絞められているというのに、過去の声は先のそれとは何も変わらない。あまりに強く締め上げているために爪がその首筋に突き刺さり、冷えきった血が流れ出ても。過去は彩歌に問いを投げるのみ。

 

 彩歌も理解してはいるのだ。死人に音は届かない。死人の時間は死んだ時点で終わりであり、それ以上先に進む事は無い。故に、彼の音が母に届く事は、もう決してない。そんな夢を抱えたまま走り続ける道は、きっと昏迷の闇そのものだ。自責と断罪で己を焼き続けたのは、きっとそれもあるのだろう。

 

 首筋を締め上げる手に、より力が籠る。問いへの答えは、既に決まっていた。

 

「捨てないさ、〝大好き〟も、苦しさも。何処に行くかは、まだ分からないけど。それでも俺は、過去(おれ)を抱えたままでも、前に進む……!!」

「そうかい。それが……(キミ)覚悟(こたえ)か」

 

 過去は半ば呆れの滲む表情で笑い、そして彩歌はまるで接吻でも落とすかのように、その喉笛に歯を立てた。

 


 

 ──ピアノの音色が、月光に溶けていく。照明も点いていない部屋はひどく薄暗く、しかしその中に人影がひとつ。グランドピアノの鍵盤に指を這わせたまま、残響を惜しむように瞑目している。

 

 しかし旋律はやがて完全に夜闇の裡に溶け消え、余韻は空虚と化す。そうして、吐息をひとつ。瞼を上げ、晒された孔雀青の瞳はさながら一等星の如き輝きを放ち、全身に満ちる感情を吐き出すように、彩歌が言葉を漏らした。

 

「これが……俺の音」

 

 雨音はもう、聞こえない。




 真野彩歌:ライジング
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