【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第39話 見果てぬ夢、ココに万雷の喝采を(前編)

 早朝から茹だるような暑さの日であった。時候は既に真夏のそれに久しいがここ数日は一際で、連日の真夏日に全国各地で熱中症警戒アラートが発令される始末。地方でもその有様なのだから東京も言うに及ばずだ。都心の無彩は澱のような熱を孕み、夜を経る度に累積するような心地であった。最早、都心で暮らすうえで冷房を点けないというのは不可能とすら言えよう。

 

 だが今、真野邸の一角、玄関のほど近くに位置する和室が怜々たる空気を湛えているのは、決して先刻まで冷房を点けていたからだけではないだろう。或いはそれは、静謐の中、仏壇を前に黙する彩歌が纏う気配がそうさせているのだろうか。

 

 未だ反響を続けるりんの音。鼻腔を擽る線香の白煙。そして、飾り気のないフレームの中で永久に静止する笑顔の母。それらは彩歌にとって毎日の事で、しかし心境までルーチン化している訳ではない。最早習慣の域にある行動でも、彼は一度とておざなりにしたことはなかった。

 

(今年も、この日が来たよ。母さん)

 

 返事はない。生者がどんなに想おうと、死者はあくまでも死者のまま。その静止と断絶が生者の時間と交わる事は無い。それが絶対の理だ。声が届くかどうかも分からず、だが彼の声音に衒いはない。ただ只管に真っ直ぐ、物言わぬ母の残影と相対している。

 

 生者の思いとは、まさに線香の煙に同じ。明確な輪郭も持たずに立ち昇っては霧散し、その先を追う事はできない。況や回帰をや。故に全ては生者の自己満足に過ぎず、それは彩歌も分かっていた。何しろ4年もの間向き合い続けた断絶だ。それだけの時間があれば、嫌でも理解するというもの。だがそれでも良いのだ。彼はそれ以上を求めない。これは彼が果たすべき責任で、自ら選択したけじめなのだから。

 

 学園で行われた合宿が終わってから、幾日か。その時間の殆どを、彩歌はピアノに捧げてきた。時に独りで。時に詩音に教えを請いながら。それも全ては、今日という日──ピアノコンクール、その全国大会のためだ。その練習量はきっと、嘗て事故後に彼が自らに課したそれに近しかろう。だが、明確に異なる点がひとつ。永劫不変たる生死の隔絶は鏡のように、相対する者に己が姿を自覚させる。(たの)しかった、と彼は自然と独り言ちた。

 

 この1年で、きっと〝真野彩歌〟は大きく変わったのだろうと、彼は思う。回帰でも、ましてや棄却でもない。時間はいつだって逆進せず、そして過去は現在(いま)と不可分だ。故にどんな己も自分自身であるのなら、それは変化と言う他ない。

 

 だがその変化とは、決して彩歌がひとりで為したものではない。むしろ彼はいつだって不出来で、独りでは彷徨してしまうから。多くの人に支えられて、彼は今、〝彼〟として()る。ならばその胸の裡にて煌々と燃える夢とは、彼ひとりのためだけのものではない。

 

 夢の炎を胸に、決意と感謝はまさに血肉の如く。開かれた孔雀青の瞳に宿る星のような光輝はその裡より溢れ出さんばかりで、そこに虚飾の翳りは一分とて在りはしない。

 

「今度こそ、俺は夢を叶えてみせる。他の誰でもない、俺自身の音で。だから……そっちから、見ていて欲しい」

 

 今度は独白でなく、明白な言葉として。それを聞き届ける者は彩歌自身の他にはおらず、反響は虚空に呑まれて消えていく。仏はただそこに在るだけで、少年に答えを返さない。だが、声音は厳然としたそれであった。無いものねだりをするつもりは、彼にはもう無い。

 

 答えは要らない。これは誓いだ。誓いに対して即座に応報があるなど、そんな事は在り得ない。そうして礼の姿勢を解き、傍らの鞄に手を伸ばした彩歌の耳朶に声が触れる。

 

「さっちゃーん? もう出るわよー?」

「うん、今行く!」

 

 襖を隔ててもなおよく通る詩音の催促に(いら)えを返し、彩歌は立ち上がる。正座をしている間についてしまった小さな皺を手で伸ばして、そうして最後にもう一度母の遺影に向けて笑顔を投げ掛けた。凡そありとあらゆる虚勢を押し退けた、真性の笑みを。何を為すべきかは、既に分かっている。今は前を見て突き進むのみ。もしも彼の生命に答えが与えられるとするならば、それはその果てにしかないのだから。

 

「それじゃあ……行ってきます!」

 


 

 地区大会こそお台場からそう遠くない沿岸の市民ホールで行われたコンクールであるが、その全国大会は場所を移して都心の音楽堂(コンサートホール)で開催するのが毎年の恒例であった。ひとえに収容人数(キャパシティ)の問題である。市民ホールも相当な規模ではあるが、全国各地から人が集まるが為により多くの収容人数が必要となるのだ。

 

 自宅を出てからいくつかの路線を乗り継いで、暫く。彩歌らが音楽堂に到着した頃には既に、エントランスは人で溢れかえっている有様であった。彼らとて遅れてきたわけではないが、音楽堂付近に宿を取っている方に地の利があるという事なのだろう。毎年(いつも)の事であった。受付にも難儀する事だけではない。この後に起きる事も含めて、だ。

 

 群衆の内より誰かが彩歌らの存在に気づき、彼らの許に皆が寄ってくる。だが、目当ては彩歌ではない。群衆の視線は殆どが世界的ピアニストである詩音や元トップアイドルである陽彩へと向けられていて、彩歌はその添え物程度。むしろ冷たく粘質な目を向けられるのが、彼の常だ。

 

 矢代詩音の弟子。〝神才〟と〝カラフルスター〟の息子。にも関わらず毎年2位にしか至れぬ落伍者。群衆の視線をあえて言語化するなら、そんな所だろう。彼に付けられた〝出涸らしの子〟や〝万年二番手(ルイージモドキ)〟とは、群衆の落胆の顕れでもあった。

 

 さしもの彩歌と言えど不快に感じる取扱いだ。だが慣れた空気でもある。向けられる侮りの目に、しかし彩歌が返すのはより挑戦的な瞳。快くはないが、これで良い。そうでなければ張り合いがない。会場の熱気にあてられて自らの熱もまた高まっていくのを、彼は自覚していた。

 

 しかしいつまでも足止めを食ってもいられない。群衆の対処を父と師に任せて人込みをすり抜け、手早く受付を済ませてしまう。そうして後続のためにその場を離れた直後──彩歌の視界が、唐突に黒く染まった。

 

 異常事態である。少なくとも、前兆は何もなかった。あまりに突然の事に彩歌の思考に僅かな空隙が生まれ、その空白を埋めるように、背後から声。

 

「だ、だーれだ……?」

「は……?」

 

 ──いや、誰だも何も。

 

 思わずこぼれそうになった無粋な反駁を、彩歌は既の所で堪えた。その頃になればもう思考も正常に戻っていて、視界を塞ぐそれが両の掌であることは疑いようも無い。その主が少し背伸びをしているせいか、彼我の距離があまりに近い。熱を感じるどころか、最早密着の域だ。

 

 声と、背中に感じる感触。それだけの材料があれば彩歌がその主を察するなど造作も無い。鎌首を擡げる悪戯心に見なかったふりをして、彩歌は答えを返した。

 

「ふふ、愚問だね。俺がキミのコトを間違えるハズないだろう? 優木さん」

「……! はい! せつ菜です!」

 

 えへへ、とせつ菜。彼女の掌が眼窩より離れて彩歌の視覚が正常に還り、背中から温かさが離れる。そうして踵を返してみれば、やはりそこにいたのは照れ隠しめいた笑顔を浮かべるせつ菜であった。つられるようにして、彩歌もまた表情を綻ばせる。

 

 地区大会の時と異なり、全国大会は応援を約束されていた訳ではない。半ば予定調和じみているとはいえ、しかしせつ菜はこうして観に来てくれた。彩歌にはそれがたまらなく嬉しくて、それ故の笑みであった。

 

 だが、先の悪戯は些かせつ菜らしからぬ行動だ。気まぐれと言われてしまればそれまでだが彩歌はどうにもその違和を流せず、自然と軽く目線を巡らせていた。そして、すぐにその孔雀青が一点で留まる。小動物めいた紅色と目が合ったのだ。相手──かすみもそれに気づいたのか、傍らにいたしずくの背に隠れてしまう。璃奈は相変わらずに能面だが、呆れているのが彼には手に取るように分かった。

 

「中須さん!? それに、桜坂さんと天王寺さんまで……」

 

 吃驚の声音。だが、合点がいく思いでもあった。先のせつ菜らしからぬ悪戯は、かすみの入れ知恵なのだろう。態々隠れなければわからなかっただろうに隠れてしまうというのが、いかにもかすみらしい。それを責める気など、彩歌にはないというのに。

 

 だがこの場に1年生が揃っているという状況自体は、そう簡単に流せるものではない。胸中を過った予感めいたむず痒さのままに彩歌は首を巡らせようとして、けれどその刹那、背後から大きな質量が彼にのしかかった。彩歌の首に片腕を回し、肩を組む形である。自身よりも上背のあるそれの正体を、分からぬ彩歌ではなかった。瞳だけを少し横に向けてみれば、そこにあるのは紅葉よりもなお深く華麗たる唐紅。

 

「よう。ふたりだけで仲良しこよしか? オレのコトも忘れないでくれよ、キョーダイ」

「大雅! いや、忘れてたワケじゃないけど……」

「あれ? 優木の時と反応違くね? まぁイイけどよ。

 オレだけじゃないぜ? 全員、とっくに集合済みだ」

 

 そう言いながら目線を彩歌から外す大雅。それにつられるように唐紅の先を追い、そこにいた人々に気づいた彩歌が驚愕めいて息を呑んだ。そんな親友の反応に、予想通りとばかりに大雅が笑む。

 

 もしかしたら、とは彩歌も思っていた。1年生が全員揃っていた時点で、それは容易に想像できた事ではあろう。だが実際に目の当たりにするとやはり感じ入るものがあって、それ故の驚愕であった。

 

 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の総勢10名。その全員がこの場にいる。他でもない、彩歌の演奏を聴くために。嬉しくて、涙さえ流れるようであった。

 

「皆……」

「あれ? 彩歌先輩、もしかして泣いてるんですかぁ? そうですよねぇ、可愛い可愛いかすみんが観に来てくれたら、嬉しくて泣いちゃいますよねぇ」

「泣いてなんて──いや、違うな。……あぁ、嬉しいよ、すごく」

 

 彩歌の様子から好機を悟ったのかここぞとばかりに揶揄を投げるかすみに反射的に否定を返し、けれど彩歌はそれを途中で呑み下した。照れ隠しのために否定してしまうのは簡単だ。けれど、それでは嘘になる。かすみに対しての嘘であり、何より己に対しての嘘に。

 

 対するかすみはからかうつもりが素直に返された事に驚きつつも、それは一瞬の事。素直に応えるならばそれはそれで不満はなく、満足そうに吐息を零した。

 

 或いは余人がそれを見れば、大袈裟だと彼を嗤うだろうか。たかだか友人が観に来たからとそこまで喜ぶものか、と。事実彩歌の周辺には彼を奇異の目で見る人もいて、けれど彼はそれに気づいていながら無視を以て一蹴する。嬉しい物は嬉しいのだ。そこに他者の意思など、立ち入る余地はない。

 

 だが目元に浮かんだ涙を、流れるより早くに乱雑に拭ってしまう。確かに、嬉しいのは事実だ。その高ぶりのために涙腺が緩んでしまいそうな程に。けれどそれに流されてしまうのは、まだ気が早すぎる。本番はまだ先であるというのに。

 

 傍らの大雅には親友のそんな思考が透けて見えるようで、悪戯に笑む。

 

「少し見ねぇ内に、随分ダチが増えたな、彩歌?」

「……うん。本当、俺にはもったいないくらい良い友人達だよ。だからこそ──」

 

 拳を握る。知らず、ひどく力が籠っていた。

 

「──情けない所は見せられない」

 

 大雅は知っている。その言葉は彩歌が地区大会でも見せたそれで、けれど以前とは様相を大きく異としていた。飄軽であった声音は硬く、眦は刃のように。ならば孔雀青の奥に宿る眼光は闘志のそれか。

 

 いっそ好戦的、獰猛ですらある彩歌の表情。そこに、大雅は(いつか)の彼を見る。寂寞めいた既視感に思わず目を見開き、しかしそれはすぐに不敵に取って代わられる。故にこそ、背中を押して前に叩きだしたのは必然であった。

 

 対する彩歌は押し出された瞬間こそ困惑した様子であったが、引き延ばされた刹那の内、それだけで彼は親友の意図を理解する。つんのめらずに身体を支え、大雅へと苦笑をひとつ。そうして、同好会の人々へと向き直る。

 

「皆、今日は来てくれてありがとう。スクフェスの準備で忙しいだろうに……」

「あはは、気にしないで。友達の晴れ舞台だもん、そのくらいへっちゃらだよ! まぁ、私が観たかったのもあるけど……それに、明日からはさいちゃんも協力してくれるんでしょ?」

「……! あぁ、勿論。任せて。これでも、筋力には自信あるからさ。力仕事でもどんとこいだよ!」

 

 冗談めかした物言いの侑に応えるように、自信もまた少しだけおどけてみせる彩歌。だがおどけているとはいえその言葉に嘘はなく、そして侑に気を遣われてしまっている事も、彩歌は分かっていた。

 

 合宿が終わってから今に至るまで、彩歌はスクールアイドルフェスティバル──スクフェスの準備にあまり参加できていないというのが実情であった。全く不参加という訳ではないが、それでもあまり貢献できていないのは事実だ。

 

 スクフェスの日取りが決まるより先に全国大会の日程は決定していたのだから、致し方ない事ではあるのだろう。侑達がそれを気にしていない事も、自分がただ一方的に罪悪感を覚えているだけというのも、彩歌は分かっている。分かっていながら十全に正道であろうとしてしまうのが、真野彩歌という少年なのだ。不完全な完璧主義者と言う他ない。

 

 情けない所は見せられないなどと言っておきながら、舌の根の乾かぬ内にこの有様。己の不出来に辟易とするようで、けれど不思議と嫌悪はなかった。それはこんな己を信じてくれた人々に対する最大の不敬であるが故に。

 

 吐息をひとつ。弱気の虫を追い遣って、彩歌は皆と目を合わせる。同好会の仲間達に、親友。さらには、ようやく群衆から解放されたと思しき父と師。そうして目線を巡らせている中で、それよりも聊か離れた壁側から静かに、だが確かに彼に注がれている視線に気づいた。東雲の制服を着ているその姿が誰であるのか、見紛う彩歌ではない。いつかの夕刻は返事も聞けずに別れてしまったけれど、彼女は来た。そのことに、彼は喜びすら覚えていた。

 

「俺が今、こうしてここにいられるのは、皆のおかげ。本当に……感謝してもしきれない」

 

 言葉を区切る。伝えるべき事に窮しているのではない。実態はむしろその逆。伝えたい事は彩歌の胸中に溢れてくるようで、けれど彼はその全てを口にしようとはしない。今何を言い募ろうと、それはきっと陳腐になってしまうから。故に、言うべき事はひとつ。

 

 深呼吸。既に、迷いはない。

 

「頑張ってくるから……俺を、見ていて」

 

 口だけでなら何とでも言える。本音でも、嘘でも。全ては言葉にしなければ伝わらず、けれどそれだけでは不完全だ。彷徨の結論は、まずは行動を以て示してこそ。そうでなければ、何を口にしても嘘だ。

 

 その宣誓に、明確な返答はない。誓いはあくまでも誓いであるのだから。だからこそ、これはその代わり。何事かを思いついたかのように、悪戯な笑みと共にかすみが手を挙げる。集中する瞳に、答えは得意げであった。

 

「果林先輩の時と同じですよっ。彩歌先輩に、かすみん達からパワーのおすそ分けですっ!」

 

 果林の時。ダイバーフェスの裏側を彩歌らは知らないが、この流れの中に在って察する事も出来ない程、彼らは鈍感ではなかった。かすみに応えて同好会の面々が次々に軽く挙手をしているのを見れば、尚更に。

 

 結果的に陽彩や詩音まで悪戯な表情で手をひらとさせて、彩歌が苦笑を零した。軽く笑声を漏らし、皆に応えるようにして彼もまた手を挙げる。

 

 そうして、どちらからともなく打ち合わされる手と手。その度に小気味良い音と共に確かな熱が彩歌の掌に伝わり、互いに笑顔を交わす。陽彩と詩音。しずくと璃奈。愛に歩夢。果林、彼方、エマ。かすみ。侑。よどみなく、けれどひとりとしておざなりでなく。掌を通じて感じる熱は本来在るべき散逸を忘れ、心底まで染み入ってくるようだ。感慨は累積し、次は大雅。

 

「そういえば、オマエ、見つけたのかよ。〝誇れる(オレ)〟ってのは」

「分からない」

「あ!?」

 

 即答であった。それも肯定ではなく不在の解で、けれどそれを口にする彩歌の表情は笑顔。思わず大雅が驚愕を漏らしてしまったのも無理からぬ事だろう。だが驚愕が呆れに代わるに先んじて、彩歌が口を開いた。

 

「だから、()()()()()()()。今日、ここで」

「は──そうかよ。なら、行ってこい!」

 

 確かめてくる。見つけてくる、ではなく、彩歌はあえてそう口にした。眼光は揺るがず、声音は明解でありながら確固として。ならば、それは彩歌なりの責任なのだろう。確信し、大雅は彩歌の掌ではなく背中を叩いた。

 

 いってぇ! と彩歌。鼓舞にしてはあまりに強いそれは内臓まで響くようであったが、その威力に反して彩歌も悪い気はしなかった。背中を押すと評するにはあまりに直接的に過ぎようが、それが大雅の気持ちの顕れであるならば、これ以上に頼もしいものもない。

 

 そうして押し出された先、バランスを立て直して顔を上げた彩歌の目前にはせつ菜。快活な表情の彼女に、対する彩歌は照れ笑いだ。それでも彼女に応えるべく手を挙げ、しかしそれこそ彼女が狙っていた隙に他ならない。そして半ば油断していたが為に、彩歌はそれに反応できなかった。

 

 既に挙手していたせつ菜に答えるように、手を挙げる彩歌。それを認め、だがせつ菜はそれに乗るでもなくにんまりと笑う。或いは不可解とも言える表情だ。けれどそれに彩歌が首を傾げかけたその刹那、彼の鳩尾を軽い衝撃が打った。同時に身体を包む柔らかな熱と、背に回された細腕。──抱擁されたのだと、彩歌は一拍遅れて気づいた。

 

「信じてます、彩歌くん」

「うん。応えるよ、絶対に」

 

 交錯は一瞬にも満たぬ須臾の内。離れていくせつ菜の体温に、だが不思議と名残惜しさはなかった。信じている。たった一言だけで、それだけでも十分に過ぎる。そこに誤解などはない。互いに、その確信があったのだ。

 

 煌々と燃える夢の大火は、今もなお彼の胸に。だがその体に満ちる熱は、決して彼の裡から生まれたものだけではない。皆より受け取ったそれは少しの翳りも無く血潮のように巡り、その感慨に彼はひとつの理解を得た。

 

 ステージに立てば、彩歌はひとり。彼我の距離は否応なく絶対で、誰も触れ合えはしない。それはさながら孤独めいた隔絶で、それでも彼の胸には皆の思いがある。ならばきっとステージの上、ひとりでも、独りではない。

 

 踵を返す。己を送り出してくれる人々へ告げる言葉を、彩歌は既に持っていた。或いは聊か気が早いかも知れないけれど、それが彼の気持ちだから。

 

「咲かせてくるよ、俺の(にじ)を!」

 


 

 幼い頃、舞台袖から見える景色というものが彩歌は好きだった。グランドピアノだけが鎮座する舞台のうえ、客席に人々は様々な表情で空の席を見つめている。ある者は期待、またある者は厳明、はたまた値踏み。視線に込められた感情は一様ではなく、だがその全てが彩歌の演奏を待っている事には違いない。そう思うと、ひどくワクワクしたのだ。

 

 自分が演奏を始めたら、人々の表情はどのように変わるのか。笑顔になってくれるだろうか。そんな不安はあれど、それを糧にするだけの研鑽と夢が、彼にはあったが故に。

 

 しかし、過去形だ。幼童であった頃に抱いた純粋で高潔な思いはいつしか形を変え、夢は呪いへと変わった。そのきっかけはきっと、己に向けられていた視線の総てが〝真野彩歌〟ではなく〝陽彩と愛歌の息子〟に対するものだと気づいてしまった事だったのだろう。〝出涸らしの子〟。それが、彩歌が背負った評価(カルマ)であった。

 

 だから、彩歌は価値を求めた。人々に自らの存在(〝真野彩歌〟)を認めさせるだけの価値を。母の命に相応しいだけの価値を。夢に呪われたままに走り続けるその有様は、まさに執念と言う他ない。

 

 そんな徒労を繰り返して、幾年か。彩歌は再び、この全国の舞台へと戻ってきた。薄暗がりの舞台袖、目前にはスポットライトに照らされるグランドピアノ。そして、目線を少し横にずらせば客席が見える。

 

 虚空の席を見る観客の気配は様々だ。連年全国2位を取り続ける彩歌の演奏を期待する者もいれば、いつまでも2位止まりの彼の音に飽き飽きとして欠伸を零している者すらいる。どうせ今年も変わらない。そう言いたげな態度であった。あまりにも無体な態度に、しかし彼は憤らない。むしろ、笑ってすらいた。片頬を吊り上げ、歯を見せて。その様はさながら、物陰より獲物を狙う肉食獣の笑みだ。高揚している。久方ぶりに、彼はそれを自覚した。

 

 だが、これはあまりにもはしたない。司会に名を呼ばれ彩歌は能面の下に獰猛を隠した。返事はあくまでも凛然と。スポットライトの下に1歩を踏み出す。

 

 瞬間、集中した万にも等しき双眸に空気が粘性を帯びる。無論、それは錯覚だ。けれど彩歌にとっては現実であり、それでも彼は歩調を緩めない。あくまでも洒脱を装い、彼は舞台を進む。ピアノの横にて正中を客席へ。そうして向き合った人の群れに、彼は見知った瞳を見つけて穏やかな笑みを送った。

 

 果たして彼らがそれに気づいたのか否か。確認を放棄して、彩歌は礼を執る。返答として頭上より降り注ぐ拍手もそこそこに、彼はピアノと向き合った。社交辞令の拍手などに、最早興味はない。それほどまでに心が逸っていた。

 

 そうして、瞑目と共に鋭い呼気。もうルーティンは要らない。故に愛歌のヘアゴムは髪ではなく右手首に。余分な熱を体外に追い出すと、世界が遠くなった気がした。それが総て。鍵盤に手を這わせ、一息に目蓋を開く。

 

 ──刹那、星が生まれた。観客の遍くが、それを確信する。

 

 錯覚だ。ここは東京、地球の上。星など、生まれる筈がない。少し考えればわかる筈の真理だ。揺るぎようのない絶対だ。だが人間は己の感覚によってしか外界を認識できず、しかるに、それは錯覚であると同時に観客にとっての現実だ。

 

 在り得ない現実。成立しようもない幻想。だがそれを確とするだけの力が、彼の旋律にはあった。無彩の舞台にて踊る十指は機械の如く正確無比でありながら、それぞれが独立した生物のように躍動を放つ。そんな矛盾を成立させるだけの力。ただ只管な研鑽のみに因って立つ超抜技巧。彩歌の持ち味たるそれはより切れ味を増し、ピアノはその全てを音色に変える。いっそ律儀の過ぎる程、愚直に。ならば今、ピアノは紛れもなく少年の身体の一部、器官のひとつなれば。奏でられる音色は、他ならぬ彼そのもの。己が全存在を音に変え、彼は旋律を放つ。

 

 己が魂の輪郭(カタチ)を無造作に押し出して、彩歌は躍動する。熱も、感情も、全て総て分け隔てなく。それだけが彼の可能な唯一であり、その熱量を前にしては絶対たる世界すら入り込む隙は無い。そうしてできた空白に、彼は自らの演奏(せかい)を打ち立て、観客は誰ひとり逃れられない。心も、魂も、全てが否応なしに魅せられる。

 

 故に、その裡に人々は見る。真野彩歌という人間の在り様を。彼が持ち得る全てを。あらゆる防備を喪った剝き出しの心には、理屈も無いままそれが理解できるようだ。ありのままの心で、彼の演奏(せかい)を見ていた。

 

 楽しい。嬉しい。それだけではなく、辛い。苦しい。歓喜と辛苦。願望と諦念。愛情と憎悪。ありとあらゆる両儀が渦巻きながら、その総てを許容する。故にこそ、それは太極。彩歌という存在の根源が、音色の裡には在った。

 

 そして、その気づきを前にして諸人は理解する。これこそが、彩歌の音。音楽を心の底から愛していながら一度はその気持ちに背を向け、それでも再起したからこそ奏でられる旋律。己が全てを否定せず、ただ〝在る〟事を肯定する極彩色の音色。それは最早、世界そのものへの祝福にすら等しく。ともすれば()()()()()()()()()()()()()()かのような、そんな凄みさえ、それにはあった。

 

 いっそ暴虐めいてすらいる〝祝福〟の音色。それがあまりにも鮮烈に過ぎたからだろうか、彩歌の手が止まり残響が虚空に溶けても、その場に拍手と歓声が満ちる事は無かった。だがその静寂すらも気にせず、席を立った彩歌は客席を睥睨すると恭しく礼を執った。まるでそれが合図であったかのように人々は忘我より立ち返り、一拍遅れて去来した万感に満たされる。

 

 己が夢を否定せず、さりとて憎悪や後悔すらも否定せず。ただそこに在る総てを肯定し、遍く色彩を束ねてひとつの星にするかの如く。故にこその祝福。これが、出涸らしの子。否、真野彩歌────!!

 

 天地を(どよ)もす喝采の拍手。祝福への応報たる歓声。その波濤に彩歌は存分に浴し、仮面は壊れた。最早この場に笑顔でないものはひとりもおらず、その光景に泣いてしまいそうですらあった。

 

 ──もっと練習して、もっともっと上手くなって、みんなを笑顔にしてみせるんだ!

 

 幼き日に抱いた、見果てぬ夢。天地を満たす万雷は、紛れもなく、その顕現であった。

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