「私ね、転科試験、受ける事にしたんだ」
彩歌が約10年の悲願を叶えたピアノコンクール全国大会より幾日か。スクフェスの開催も徐々に近づいてきた、盛夏の様相も色濃い上天気。学園全体が一丸となってスクフェスへの準備を進めているせいか校内は長期休暇中に似合わぬ程の活気で溢れていて、そんな中での告白であった。
唐突である。卒爾である。侑の告白は矢庭に口にするにはあまりに似つかわしくなく、少なくとも荷の運搬中に話題に挙げるにしてはおよそ緊要に過ぎよう。或いはそれは侑なりの照れ隠しであるのか、それとも彼女にとっては既に了解されきった決意であるが故か。彩歌には、それを推察する術がない。
だがそんな有様でありながら、対する彩歌は刹那の内に息を呑むのみで、それもすぐに微笑に取って代わられた。それが予想外であったのか、むしろ疑問めいた表情を浮かべたのは侑の方だ。
「そっか。……決めたんだね」
「うん。もしかして、気づいてた?」
はにかむような問いに、まぁね、と彩歌。
「確信していたワケじゃあないんだけどね。もしかしたら、とは思ってたよ。合宿中のキミの眼が、あんまりにも真剣だったから」
彩歌の答えがいつのことを示しているのか、あえて明言せずとも気づいたのだろう。今度こそ隠すまでもなく侑の頬に朱が差し、彩歌が笑声を漏らした。彼女の仕草が、あまりにも素直だったものだから。可愛らしい友人の反応に思わず洩れた笑みであり、だが彼女からすれば全てを見透かしているようにも見えてしまう。拗ねたように唇を尖らせたのは、せめてもの反抗だ。
けれど彩歌とて、何も確信があった訳ではないのだ。ただ、そうなのでは、と。妄言めいた予感があっただけ。その程度で侑の煩悶を先回りするのであれば、それはこの上ない非礼となろう。
だから、何も言わなかった。侑がただ拗ねるにとどめたのは、或いは彼女にもそれが分かっているが故か。ある種の相互理解。知られているという実感と、知っているという自負。楽しくなってしまって、彩歌が口を開く。
「でも、そうか。侑さんも2学期からは音楽科かぁ……楽しくなりそうだね」
「えへへ、そう? けど、ちょっと気が早いよ? まだ合格もしたワケじゃ──」
「できるさ、キミなら。たとえ今はできなくても、できるようにする。
その宣誓は、どこか諧謔めいて。この返答を以て今まで半ば保留されていた
いつかの月夜、侑は云った。自身の決心がついたら、ピアノを教えてほしい。その決心の正体が詳らかになった今だからこそ、改めて誓うに相応しいのだ。侑が夢を叶えるために、彼もまた力を貸すのだと。
彩歌は今まで多くの人々から、多くのものを貰ってきた。それは侑からとて、やはり例外ではなく。だから彼はこれからの生命をかけて、彼らに報いなければならない。それが彼が背負った責任であるからには。
他人から何かを貰って、その相手に貰った分を返す。そんな螺旋の中に、人間の生命は続いていく。だから、これはその一歩。過去に囚われた半死人の少年に課せられた生命の責務であり、彼の意思だ。
尤もこれだけで自らが受けた恩の全てが返せると確信する程彩歌は思い上がっておらず、けれど侑の表情に浮かんだのは喜悦の色。
「───! うんっ! よろしくねっ、さいちゃん先生? さいちゃんがついてくれるなら、百人力だよ!」
「ふふ、責任重大だ。その方がやりがいもあるってものだけどね。……そうだ、対策用に過去問とか──」
半ば早口めいて捲し立てられた彩歌の思い付きに、あぁ、と侑が吐息を零した。
「実は過去問はもう持ってるんだ。エマさんが音楽科の友達に頼んでくれたみたいでさ」
「──なんですと?」
あまりにも頓狂な返事であった。およそ常の軽薄など抜け落ちた、意識の間隙を突かれたが故の調子外れ。会話それ自体には何の異質もなく、であれば問題があったのは彩歌の方だ。
過去問はエマが友人に頼んで用意してくれたと、侑は言った。それ自体は普通の事だ。過去問を元に傾向を割り出して対策を練るなど、学生であれば当然の事。彩歌もまたそのつもりで話題を振ったのだから。
だからこれは、ただの勘違い。偶然を根拠とした、何の理屈もない張りぼての前提。奏者としての研鑽を侑が重ねている事を初めに知ったのは彼であったから、或いは今回もそうなのではないか。勘違いも甚だしい。
物事には順番というものがある。彩歌はそれを数段飛ばしてしまったのだから、報いがあるのは当然だ。詰まる所、彩歌は今回、最も遅れて侑の決意を知ったようであった。
「なんだ、水臭いなぁ。それならそうと早く言ってくれれば……」
「もっと力になれたのに、って? だからだよ、さいちゃん。先に言ったら、きっとさいちゃんは私に力を貸してくれる。……自分の身を削ってでも。違う?」
「むぐ……」
違う、とは言えなかった。いくら心を改めたとしても、彩歌の根底は“彩歌”のままだ。滅私の才は未だ彼の裡に根付いている。大恩ある相手から頼み事をされれば、彼は全霊を以て答えるだろう。自らの夢も守りながら。……そのために、多少以上の無理を己に強いてでも。
故に言わなかった。己の夢を言い訳にして他者に無理を強いるなど、それは侑の望む所ではない。歩夢やせつ菜が何も言わなかったのも、そんな彼女の意を汲んでの事だろう。全国優勝を目指す彩歌に、更なる荷重を背負わせないように。
そう言われてしまえば彩歌は最早反論できない。実のところ技量のみで言えば、彩歌は何年も前からとうに優勝に足るものを備えていたのだ。故に彼に必要であったのは圧倒的な〝自己〟。遍くを覆して頂点を掴むに足る
だから全ては自己の調整に必要な時間で、だからこその全国優勝。その道程を振り返り、彩歌は思う。自己の完成と侑の教導。以前の彼にはそれらを両立できる
故にこそ、彩歌はそれ以上の反駁をしない。自己の状況が正しく視えているのに、そんな事には何の意味もない。さりとて全てを流す事も出来ず、彼は唇を尖らせたまま。幼童めいたその仕草に、侑が笑みを覗かせる。これでは先刻の逆転だ。
そうしているうちにふたりは部室にまで戻って来ていて、彩歌が器用に肘でドアを開けた。他のメンバーは出払っているから、内部は無人だ。その只中に彩歌は機材の入った段ボールを、侑は必要書類の束を安置する。それが、終わり。侑が彩歌へと向き直った。
「ありがとね、さいちゃん。助かっちゃった」
「構わないさ。個人ステージのない俺は、
侑さんは……これから、歩夢さんの所へ?」
「うん。ちょっと顔を出してくるよ。さいちゃんは……服飾同好会だよね?」
侑からの確認に、彩歌が首肯を返す。
「俺の衣装が完成したから、確認に来いってさ」
事務的な返事だ。だが弾む声音は隠しきれず、言葉選びも相俟って法螺吹きのよう。空に投げかけられた瞳は爛々としていて、彼が胸を高鳴らせているのは誰の眼にも明白であった。
スクフェスの準備に途中参加した彩歌には、その猶予のために個人ステージがない。だが、日程の最後に行われる中央ステージは別だ。複数校の講演が予定されているその中に、彩歌によるステージも組み込まれていた。
そしてステージに立つのなら、それに相応しい恰好というものがあろう。衣装とはそういう事だ。スクールアイドル同好会の衣装を手掛けている服飾同好会に、彩歌の衣装も依頼していたのである。
「完成してたんだ。楽しみだなぁ、さいちゃんの衣装……! ねぇねぇ、どんな衣装なの?」
「ヒミツ。
どれだけ秘匿していたとしても、同好会の
いっそ軽薄なそれに、侑は反駁をしない。そうだね、と一言を返すのみ。侑もまた彩歌の企みにそれほど重大な意義は無いと分かっているが、披露目はより劇的な方が良いと考えたのだ。
故に会話はそれで終幕だ。また後で、と一旦の別れを告げて、侑が先に部室を出ていく。残されたのは彩歌ひとり。大きく息を吐いて、苦笑する。
「なるほど。
呟き、ポケットを弄る。そうして取り出したスマホを操作すると、彩歌はメッセージアプリを立ち上げた。淀みない指捌きで表示したのは最も上のそれ。最新の遣り取りは、歩夢からのものであった。内容は何行かの文字列と、数枚の写真データである。
昨夜のうちに何度も確認した事だ。終ぞ真意は掴めぬままで、けれど今ならば分かる。これは、
無論、それで何が変わる訳でもない。既に引き受けている以上、彩歌は全霊を以て答えるのみ。そこに違いはない。だが、口端が綻ぶ。意味にも意義にも変化はない。それでも、彩歌はその祈りに同意した。それだけは、決定的であった。
「歩夢さんも人が悪い。……あぁ、きっといいものを仕上げてみせるさ」
独白は誓いのように。全てに納得した少年の指が、写真の五線譜に触れた。