参加を表明している学校合同による丸一日をかけた
昼間には生徒らが忙しなくしていた校内にも、最早人影は見当たらない。皆無というのではない。だが広大な校舎内では出会う方が希少であり、彩歌の靴音と歌声ばかりが静寂を塗り潰す全てだ。踊るように、少年は往く。その足取りに迷いはない。
故にそれは、いつかの夕景が如く。夜闇に濡れた離断の世界に、少年の歌声が染み入っていく。隠しきれない疲労が滲むそれは、しかし名減るような歌声だ。廊下はステージ。誘導灯はスポットライト。ならばそれらの合一とは、まさしく花道の凱旋に他ならない。
喝采はなく、声援はなく、それどころか観客すらもない。彩歌を包むのは、只管な暗闇のみだ。けれど暗闇など、彼にとっては慣れたもの。黒とは虚ではあれど無ではなく。暗澹たる空白に彼は不可視たる光輝を放ち、己が版図と為す。その有様はまるで、永劫たる宇宙を往く箒星だ。
だが花道に果てがあるように、彩歌の道行にもまた終着はある。彼の歌声が止み元の
そうして彩歌が苦笑したのはこの扉の先にいる筈の少女が持つ生真面目さに対してか、はたまた己が愚昧に対してか。三度のノックに応えるようにして、入室を促す返答があった。柔らかで厳かな声音は、彩歌がよく聞き知ったものだ。
「彩歌くん。お疲れ様です。……お仕事は終わりましたか?」
「お疲れ、菜々さん。……うん。こっちのタスクは一通り済んだから、報告に来たんだ。
また軽口を、と呆れた様子の菜々。ともすれば軽薄な彩歌の物言いに憤慨したようであるが、その口端が笑んでいるのを見逃す彩歌ではない。この場にはふたりしかいないというのに、何と白々しい会話である事か。だが、半ば自然な事でもある。それが詭弁と知ればこそ、それを了解する行為には意味がある。これは彩歌が、彩歌自身の意思で行っていると示すのだ。
──スクールアイドルフェスティバル実行委員会。その名の通りスクフェスの運営を行う組織だが、これが殆ど建前であることを彼らは知っている。何しろスクフェス自体が夏休みに入ってから立案され、急ピッチで進められている企画なのだ。全校から編成している暇などある筈も無く、事実、不要論も挙がってはいたのだ。それを菜々が少々職権乱用気味に押し通した。メンバーは生徒会長兼委員長である菜々と、彩歌のふたりだけだ。
だからこその建前。目的がスクフェスの運営である事は間違いないが、正鵠でもない。菜々は“菜々”であり“せつ菜”なのだから、その二輪の維持はまさしく薄氷の上。容易ならざる二重存在を支えるのが、実行委員としての彩歌の仕事であった。あえて彼が詭弁を通したのはそういうコトだ。
だが彩歌が菜々を知っているように、菜々も彩歌を知っている。その自負が、彼らにはある。故に彼の飄然とした笑顔の下、明確な疲労の気配があるのは疑いようもない事であった。
故にもう一度。念押しのように、菜々は言う。
「
「────」
それは余人からすれば不可解な反復だった事だろう。けれど彩歌は息を呑み、不満顔を経てはにかむ。強情な人だと、何処か諦めたように呟いて。彼らは共犯だ。ならばその功罪も共有されるべきであると、彼は知ってはいるけれど。
そうして身を投げ出すようにして、彩歌がソファーに腰を下ろした。普段であれば生徒会の面々が忙しく座している横長のそれは独りで座るにはあまりにも大きくて、けれど彼にそれを気にしている余裕はない。疲労を押し付けるように体重を預け、ソファーが悲鳴めいて衣擦れを零す。
瞑目。続く吐息。──そして二度目の衣擦れと、隣に感じる微かな熱。一瞥し、彩歌が笑んだ。
「おや。いいのかい、仕事は?」
「いいんですよ、私も今ちょうど終わった所なんですから。だから、今から私はただの“菜々”です」
「……?」
何処か挑発めいて含みのある菜々の言葉に、だがその真意を量りかねて首を傾げる彩歌。或いは背信めいたその応えも、菜々にとっては狙い通りの事だ。都度呼称は変われど彩歌にとってはどんな
だからこれは菜々なりの宣誓であり、自己暗示。彩歌お得意の、独善めいたそれ。故にそれは一種の仕返しにも近しく、彩歌はそれに気づかない。気づけない。そんな彼の様子に内心でほくそ笑んで、菜々はそれを実行に移した。上半身を支える力の全てを破却して、最後に恣意的にそれを投げ捨ててやる。それだけの事で、決心は完遂された。菜々の頭上で、彩歌が息を呑んでいる。菜々の耳元で、彩歌の心臓が早鐘を打っている。尤も、それは彼女も同様だ。
けれど大仰な決意とは裏腹に、菜々の行動とはそれほど大それた事ではなかった。彩歌の横に座って、彼に体重を預けた。ただ、それだけ。位置こそ違えどこれまでも何度かしてきた行為である。だのに、内実が異なるというだけで、感覚はあまりにも鮮やかであった。
「……俺、まだ汗臭いと思うんだけど」
「制汗剤、してないんですか?」
「そういうワケじゃないけど、そうじゃなくて……だから……あぁ、くそっ──」
何と言ったらよいか、と。動揺のせいか彼らしくもなく毒づいて、彼は言葉を探している。その表情は菜々から見えないけれど、見えずとも手に取るように分かった。彩歌は今、耳まで赤くなっている。理由は明らかだ。
だから、拒絶は無い。身動ぎは脱走を図ってのそれではなく、菜々の負担を少しでも軽くしようというそれ。いつかの放課後、背中合わせになった時と同じだ。転んだ菜々を受け留めた時と同じだ。真野彩歌は、中川菜々/優木せつ菜を拒絶しない。他者を恐怖していた時でさえ、彼はついぞその選択だけは執れなかったのだから。
菜々の心にらしくもない迷いがあった事にあえて原因を求めるのなら、きっとそれだ。彩歌が優しいから、それに甘えているだけなのではないか。本当にらしくない懊悩にらしくない解決策だとは、彼女自身も分かっていた。自他を疑うなどとは。
けれど、それはもう過去の事だ。だって、触れ合う熱がこんなにも心地よいのだから。彼女は中川菜々というひとつの人格として、その熱に安堵している。彼はここにいるという
以上の感慨を以て、菜々はその感情を定義した。ひとつの個として。ひとりの
「ねぇ、彩歌くん。彩歌くんは、私の夢を覚えていますか?」
「覚えてるよ。忘れる筈がない。“大好き”でいっぱいの世界を創る──だろう? 小学生の頃、よく話してた」
「ふふ、正解ですっ。本当に……覚えていてくれたんですね」
何をいまさら。彩歌が笑う。
「約束したからね。それに、キミだって俺の夢を覚えてくれている。なら、俺も忘れない」
約束。嘗ての彼らは幾度となく交わしてきたそれに、いったいどれを指しているのかは菜々にも分からない。確かであるのは、彼はこの上なく律儀であるという事。それなのにいつかの夕刻まで曖昧な態度を取り続けていた事実には、流石の菜々も不満を覚えてしまうけれど。彼女の
“大好き”でいっぱいの世界を創る。或いは、“大好き”を世界中に溢れさせる。どちらにしても意味合いは同じだ。それを知っていたのに、彼は一度、その完遂を阻んだ。己を欠けさせる事によって。
ならばこの問いは、ともすれば尋問めいてもいよう。咎人に、今一度問うのだ。それを口にしてしまえば最早後戻りはできないと知りながら、菜々に躊躇いは皆無だった。
「彩歌くん。──私の夢を、一緒に見てくれますか?」
静寂はさながら、世界そのものが停止したかのように。だがそれは刹那か、或いは須臾か。返答はあまりにも早かった。初めから、そこにあったかのように。
「それはできない。俺にだって夢がある。俺は、俺の夢しか見れない。でも──」
熱。制服越しのそれでもなく、形而のそれでもなく、もっと確かな、素肌同士が触れ合っている。それが彩歌の掌から伝わるものだと気づくのにそう時間は要らず、そして菜々の応答は既に決まっていた。微笑んで、彼女は己が五指を彼の五指に絡める。
可笑しな話だ。彩歌は否を口にしたというのに、掌はひどく温かい。彼もまた菜々と同じように体重を預けて、寄り合う。そうしなければ立ち行かぬのではなく、そうしたいから。ならば、それが答えの全てだ。
「──一緒に、叶えたい。この気持ちは、間違いなく本物だ」
それが或いは一笑に伏され得る答えだと、知らぬ彩歌ではない。共に夢は見れないと言っておきながら、舌の根の乾かぬ内に一緒に叶えたいなどと、あまりにも矛盾している。都合の良い幻想だ。三文芝居めいた御伽噺だ。けれど、それが彼の本心であるのだから、仕方ない。
どれだけ足掻こうとも、人には限界がある。それは能力の問題ではなく、摂理の限度だ。人間はその一生において、同時にひとつの夢しか保障できない。ひとつの命として、ただ己自身のみを殺す権利を持つように。その枠組みを超えてしまえば、それこそ自らの命を差し出す他なくなってしまう。彩歌は、身を以てその事を実感している。
故に彩歌は彩歌自身の夢しか見れず、菜々は菜々自身の夢しか見れない。彼らが人間である限り、それは道理だ。だが、それでもだ。異なる
だから彩歌は、この矛盾を肯定する。そんな彼の答えに、菜々は手に込めた力を強くすることで答えた。
「その
あまりにも非合理な彩歌の
菜々/せつ菜は嘗て、大きな過ちを犯した。己の在り方のみに囚われ、他者の在り方を否定してしまった。その罰として自らの本質を封じ、だがその罪罰ごと是認された彼女だからこそ。己が夢と誰かの夢の最果てを共に叶えられるのなら、それは幸福だと思うのだ。
何と傲慢で非合理で理不尽な願望であるか。それを彼らは理解し、その上でなお欲している。たとえ非合理で理不尽でも、不可能ではないと信じているから。
手を握る。
「叶えましょうね、絶対に」
「うん。俺達、皆で」
それは、新たなる約定だった。地続きの宣誓だった。そして、永劫たる願いだった。これ以上に言葉は要らず、彼らは甘美な沈黙の中で互いの熱を感じ合う。暗黙の決意を反芻するように。
──来るスクールアイドルフェスティバルを、絶対に成功させる。
更けていく夜の裡、その熱情だけがまるで星のように世界を照らしていた。
──遠くで、花火の音が鳴っている。それは謂わば開幕の狼煙。晴れ渡った夏空の下、祭典の決行が認められた合図であった。朝方に確認した天気予報も一日中の快晴を宣言していて、まさしく祭典日和といった有様だ。
その炸裂音を確かに認めながら、彩歌は姿見に映る己を前にして黙々と手を進めていく。その手つきは恰も宝物でも扱うかのような丁重さで、彼がどれほどの思いでをそれを行っているかを物語っていた。
彩歌が完成したソレを着用するのは、これが三度目の事だ。故にそれはまだまだ新品同様で、その質量に身が引き締まる思いだ。最後に手袋に指を通し、彼は改めて鏡に映る己を見る。
あえてそれを一言で表すのなら、やはり“王子様”という形容が相応しかろう。白を基調としたそれは彩歌の瞳と同じ孔雀青を差し色とする事で鮮烈な印象を与え、そして金の縁取りと青いマントで過美ならずとも豪奢に。顔以外が露出していないそれはとても真夏に着るものではないが、素材などの工夫でそれを解決しているのは作り手の職人技と言えるだろう。
製作者たる服飾同好会に曰く、銘は〝
身嗜みは万全。初めて施された化粧も、特に崩れてはいない。そして胸中に灯った
踵を返す。目指す先は、既に決まっていた。
「さぁ───行こうか」
己を鼓舞するように、たった一言だけ。それは、祝詞の如く。
〇星の王子様(ザ・スタープリンス)
彩歌の依頼により服飾同好会が作成した、彼のための衣装。彼らが男性アイドルに抱くイメージを下地としてデザインされたためか『王子様』というデザインコンセプトを有する。本衣装の作成にあたってはこれまでの衣装作成にあまり深く関わらせてもらえなかった男子部員の意見が多分に反映されており、その憂さ晴らしめいた熱意のためか短期間での完成でありながら他の衣装にも勝るとも劣らない完成度を誇る。
名称については完成させた生徒がその場のノリと勢いで付けた。デザインそれ自体に星や"星の王子さま"要素は薄いが、名付け親曰く『衣装は人に着られて初めて完成するものだから、着用者に対するイメージ込みで名前を付けるのは当然。ちょっと違うかもだけど、カービィにわざわざ"星の"ってつけるようなモノ』とのこと。また、名称決定の場には彩歌も居合わせており、
「スタープリンス? "星の王子さま"が由来なら、リトルじゃないのかい?」
「だってリトルって見た目じゃないでしょきみ。けど、"ザ・プリンス"では味気ない。だからスタープリンス。イイだろ? そもそも名前以外に要素無いし。それとも何、アッチの方がリトルだったりするのか、きみは?」
「な、なんだとぅ!」
という会話があったとかなかったとか。