スクールアイドルフェスティバル。主催たる虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会によってそう銘打たれた祭典は、前日に至るまでの入念な準備と周到なリハーサルの甲斐もあって特段の問題もなく定刻通りの開場を迎えた。
皆それぞれが己の為すべきを為した結果である。生徒会も、一般生徒も、同好会の面々も。平穏とは当然の在るものではなく努力の結実であると知らぬ彼らではなく、それが共通の目標を抱いての事ならば尚更に。彼らひとりひとりが可能な限りの最善を為したのだ。
そしてそれは、彩歌もまた同じ。新参者であるとはいえ彼もまた同好会の一員であり、スクフェス実行委員でもあるのだから。殆ど名目上の役職であるといえど、実行委員が働かないのでは他に示しがつくまい。それに何より、昔日の残影に囚われ続けていたからこそ、彼は平穏裏の尊さを知っている。熱意は責任感だけでなく、過去の踏破でもあった。
故に、その歩みは悠然と、しかしまるで凱旋のようだ。今にも走り出してしまいそうな熱情を、歩を進めるごとに地に吐き出していく。それでも些かも気勢を減じていないのは、或いは会場全体に満ちる熱気に宛てられての事だろうか。今日のお台場は朝から真夏日の様相で、だがそれだけではない熱量がこの場には満ちていた。冷静を気取っていても影響されないという方が無理があろう。
彩歌はこれまで、ピアニストとして多くのステージに立ってきた。舞台上の景色と裏側に充溢する混沌には、誰よりも身を晒してきたと言って良いだろう。だがそんな彼をして、これは初めての感触だった。静的な熱烈と、動的な熱狂。決してどちらが優れているというのではない。そこに貴賤はない。受け留める側である彩歌が、その差異に慣れていないというだけの事。
故にこの場において、彩歌は全くの無防備。血液が過剰な暖を帯び、伽藍の躰が過熱する。それはまるで、酩酊のように。知らず、口元が笑んだ。それは挑戦者のみに許された、虚勢と獰猛が同居した笑みであった。
ならば、その在り様はともすれば凱歌の先触れめいてもいよう。すれ違うスタッフらは皆、この祭典を準備する間に知り合った生徒らだ。今はステージ衣装とオリジナルTシャツとで着衣こそ違うが、それは些末な差異だ。志が同じである事は疑うまでもなく、交錯の一瞬で互いを鼓舞するように短く言葉を交わし合う。その中に彩歌を急かすものが混じるのは現状当然の事で、彼は苦笑するしかない。
そうして、その果て。細く長い通路の先に在る階段を昇った先は、一際の熱量が集う場であった。それもその筈だ。そこはスクフェスにおける中枢とも言える、メインステージの舞台裏であるのだから。今は開幕セレモニーが進行中で、事前の予定通りならば各校の紹介が行われている筈だ。
彩歌が視線を巡らせると、すぐに深紅の瞳と目が合った。恐らくは彼と同様に辺りを見回していたのだろう、接触の刹那、相手──かすみが声をあげる。
「あーっ! やっと来た! もーっ、遅いですよっ、彩歌先輩!」
「ごめんね、待たせてしまった。実行委員の仕事で、色んな所に呼び出されてさ」
「あっ、実行委員のお仕事ですか、それなら仕方ないですね。……って。騙されませんよっ。どーせ、呼び出された先で、あれもこれもと頼み事引き受けてたんでしょー?!」
こっちはいつ来るのかとヒヤヒヤだったんですからねー!? とかすみ。だが決して遅れるとは思われていないのは、或いは彩歌が築いた信用の顕れであろうか。尤も彼からすれば行動の全てを言い当てられ、その上で憂慮させてしまった事に平謝りするばかりだ。いかに確実に間に合うように計画を立てて動いていたとはいえ、心配させてしまった事は事実なのだから。
己に可能な限りを全力で行うのは彩歌の美徳であるが、それが独り善がり気味であるのは悪癖であろう。それを自覚するが故の謝罪でもあり、かすみもまたその性質を理解しているからこそ深追いはしない。不満げに鼻を鳴らすのは、むしろ気安さの証明でもあった。
その表情のままかすみが彩歌の腕を掴み、半ば無理矢理に輪の中に連れていく。容易に抗えるだろうに彩歌もまた微笑のままにそれを受け入れて、これで輪は11人。傍らのせつ菜に彩歌が言葉を投げた。
「そうだ、せつ菜さん。
「本当ですか? ふふ、ありがとうございます! じゃあ、後から私の方でも確認しておきますね!」
「? “アレ”?」
何ひとつ具体的な事を言っていないにも関わらず即座に通じている様子に侑が疑問を投げかけるが、ふたりはそれに答えず微笑のみを返した。真面目なふたりの事であるから心配はないものの、それでも疑問は疑問である。侑が首を傾げたのも仕方のない事であろう。
だが歩夢がそれに追随する事も無く、侑は疑問を棚上げする。何事にも全力な彼らであるから、たとえ内容は知らずとも決して不利益な事ではない。それを信じるが為の判断であった。それを見て取った彼らがあまりに柔和な表情であったことには、視線を外していたから気づかない。
そうして、円を描くように立つ。無言のまま目を見合わせて、頷き合った。言葉はなくとも、思惟の交感に不足はない。描く夢は異なろうとも、同じ目標、同じ熱を共有しているから。
「ふっふっふ……それじゃあ、いっきますよー!」
鬨のような、かすみの音頭。それに応えるようにして少女らは手を伸ばした。そのまま重ねられる十の掌。間隙は僅かに残された懊悩による最後の抵抗のようで、けれどそれを振りきって彩歌もまたその上に手を重ねる。お為ごかしの遠望は最早用済みだ。それは、彼の覚悟でもあった。
重奏する呼気。あえて確かめるまでもなく、祝詞は既に決まっていた。
────私/俺たちの虹を咲かせに!!
熱。炎が満ちていく。歌声は天に突き抜けるようで、五体の躍動は世界に己が存在を刻み付けるかのように。それらの合一たる質量はあまりにも圧倒的で、唯一絶対たる筈の世界は真実を降りて仮初にその座を譲る。
故にそれは、偽であると同時に真。元より人は己の感覚を通してしか世界を認識できないのだ。そしてその場に集った全ての人が同じものを見ているのならば、いったい誰がその瑕疵に気づけようか。諸人が世界をそのように認識する共通幻想。三千世界を染め上げる圧倒的な色彩。ならば、それは最早真実と大差ない。
在り得ぬ事だ。在ってはならない致命的な確執だ。だがその不条理を不条理のまま押し通すだけの力が、ステージ上の少女──優木せつ菜にはあった。彼女が躍動を放つ度に常世はその膝下に傅き、本来持ち得る絶対性の全てを以て少女を礼賛する。
炎よ、燃えよ。熱よ、満ちよ。万象に光あれ。鼓動が熱量を高め、観客たちの共鳴がよりボルテージを上げていく。その偶像めいて圧倒的な偉容を前にしては諸人は熱狂するより他になく、憧憬の火は無慈悲なまでに平等だ。熱量の源泉は、心に灯った極彩色の炎であった。
そして観客のひとりである以上は、彩歌もまたそれに等しく。壇上で舞う想い人の躍動に心奪われ、目が離せない。嘗てより胸中で疼く憧憬と尊敬はよりその存在を強め、けれど。また異なる熱が生まれつつある事を、彼は自覚していた。馴染み深くて、けれどあまりに冒涜的で、そして甘美。
喰らい合う相克の炎。それを齎す少女の光輝に、少年はただ、魅せられていた。
「ハイ、これ」
メインステージを除く全てのステージでのライブを終えてから迎えた、幾許かの休憩時間。手頃なベンチを見つけて伸びをしたせつ菜の頭上から、そんな声が降り注いだ。
前置きも脈絡も無い、あまりに唐突な事であった。だが最早その声の主に気づかぬせつ菜ではなく、であれば突然であっても彼女が驚くには値しない。むしろ彼らしいとさえ、せつ菜は納得する。彼の律儀な気質はせつ菜にとってもよく知る所であるし、誰何すら要らぬその言葉は彼女自身、期待していたものであったから。
目を開けば、やはりそこにいたのはせつ菜が期待していた通りの真野彩歌その人だ。言葉と違わぬ労いの微笑を湛えて、彼女に向けてスポーツドリンクのボトルを差し出している。恐らく買ってからそう時間が経っていないと見えて、ボトルは結露の雫に包まれつつあった。まだ冷えきっている証拠だ。
「ありがとうございます、彩歌くん! でも、いいんですか? お代は……」
「いいのさ。これは、そうだな……俺からのおひねりみたいなものだと思ってよ。だから、受け取ってくれると嬉しい。もう他の皆には渡してきちゃったし」
卑怯な物言いだ。彩歌自身もそれを自覚しているが故の苦笑いであり、せつ菜もまた笑声を漏らす。強引と言うが良いか、或いは臆病と評すべきか。どちらであれ不器用である事には違いあるまい。如何に彼がその在り様を移ろうてもそれは変わらない部分のひとつで、そう言われてしまえばせつ菜には受け取る以外の選択肢が無い。遠慮などではなく、そのいじらしさがひどく可愛く思えたから。
故に礼の一言と共に彩歌からボトルを受け取り、それを受けて彼の口元が綻ぶ。何処か幼気ですらある、それは安心の表情だ。彼は既にせつ菜以外には渡してきたと言ったけれど、きっとこの顔が見られるのはせつ菜だけ。根拠は無いけれどそれは確信めいて、せつ菜の裡にこそばゆさにも似た疼きが奔る。崩れてしまいそうな表情を、ドリンクに口を付ける事で誤魔化した。
この疼きの名前を、今のせつ菜はもう知っている。彼の素直で幼気な姿にさえそれを覚えてしまうのだから最早重症と言う他ないけれど、それさえ悪くないとすら、彼女には思えた。だがこの場には人の目もあるのだから身を任せるのは止めにして、代わりに隣に腰かけた彼にさらに一歩だけ近づく。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、彼が口を開いた。
「さっきのライブ、見てたよ。やっぱり……せつ菜さんは凄いね。歌やダンスの腕前もそうだけど、それだけじゃない。キミの”熱“が真っ直ぐ胸を貫くようで、まるで炎みたいだ。全てを燃やし尽くすんじゃなくて、見る人皆を温めるような……そんな、優しい炎」
無明から表現を探すように、或いは言祝ぐように。彩歌の言葉は決して気勢に溢れたそれではないけれど、それは何も世辞というのではない。きっと、実態はむしろその逆だ。胸の裡に感情が溢れ返って、気を抜けばその全てが混沌として零れてしまいそう。だから、言葉を探している。
けれど短い形容で悉くを吐き出しきれる筈も無くて、彩歌の声音はまるで熱に浮かされているかのようだ。過分な熱が言葉では収まりきらなくて、外に溢れてきている。瞳は地面に向けられているけれど、きっとそこに映っているものは
だが視線がせつ菜に移り、同時に焦点が現在に合う。照れ隠しのような微笑は、或いはらしくもなく感傷的な表現をした事によるものか。その表情に、心拍が逸るのをせつ菜は自覚する。
「今もまだ”熱”が冷めない。心臓がドキドキして、俺が俺じゃないみたいだ。あぁ、キミは凄い。キミだけじゃなくて、皆も。侑さんに言わせれば、きっとこの気持ちがトキメキなんだろうね」
「えへへ、べた褒めですねぇ。なんだか照れちゃいます……」
「ふふ、照れるコトないじゃないか。俺は正直な気持ちを言ってるだけだよ。本当の俺はそこまで器用じゃないから、こうして言葉にする事しかできないけど……」
少し前まで、彩歌はずっと自らを偽って生きてきた。他者に対してだけではなく、自分自身に対してすらも。けれど自分自身すら騙しきれないものだから、ずっとその心は軋み続けてきた。致命的なまでに嘘の才能が欠けた、最悪の大噓吐き。それが真野彩歌という少年だったのだ。
だが曲がりなりにもそんな生き方をしていたものだから、彩歌は不器用なままになってしまった。如何に心変わりしようとも、人はそう簡単に変われない。積み上げた時間は彼を裏切らない。良くも、悪くも。だからそれを是正するためにも、彼にできるのは自らの心を正直に表現する事だけだ。
今日だけではない。ダイバーシティ東京でのライブを見た時、或いはそれよりもずっと前から、彩歌の裡には光輝が焼き付いていた。それはせつ菜らスクールアイドルが放つ光であり、そして更に古くは彼の両親が放つ光でもある。焼き付いた光輝は夢を生み、憧憬を生み、だが今になってそれが変異しつつある事に、彼は気付いた。
「でも、どうしてだろうね。皆のライブを見ていたら、こうも思ったんだ。……
「……!」
負けたくない。彩歌の口からそれが零れた刹那、せつ菜が思わず目を見開いた。誤魔化すようにはにかむ彩歌に、だがせつ菜は首を横に振る。
「ヘンなんて、そんなコトないです! むしろ……へへ、彩歌くんがそう思ってくれて、嬉しいというか。それは、彩歌くんももうスクールアイドルが大好きってコトじゃないですか。きっと、だから負けたくないんです。”大好き”だから、負けたくない。その気持ちをヘンだと思うワケありません! だって、私も同じなんですから! ……なんて、えへへ。これじゃあ、私のエゴみたいですけど」
それでも、せつ菜は彩歌の気持ちを肯定する。たとえそれが彼女のエゴであろうとも、彼女自身の気持ちもまた間違いではないと思っているから。そこにライブをした経験の有無は関係ない。好きな事で誰かに負けたくないと思うのは、自然な事だ。自らの在り様を自身で規定するのならば尚更に。
そしてその答えを受けて、彩歌の裡でヴィジョンが巡る。それは昔日の記憶。嘗てピアノコンクールに初めて出場して入賞すらできなかった彩歌は、悔しくて涙を流した。負けたくなかったのに負けてしまったから。大好きな事で負けてしまったから。
それと同じだ。ピアノとアイドルでジャンルこそ違うけれど、それでも同じなのだ。好きだから負けたくないという
だが負けたくないというのなら、それには在処が要る。何において負けたくないのか。何を以て負けたくないのか。だから、これはそのための問いだった。
「ねぇ、彩歌くん。彩歌くんは、どんなアイドルになりたいんですか?」
「どんな? それは……夢って意味じゃなくて?」
「はい。どんな表現がしたいか、でもいいですね。どんなアイドルとして、夢を叶えたいんですか?」
夢でなく、在り方。どんなステージをしたいかと問われた事はあったけれど、それは謂わば夢それ自体。であれば、せつ菜の問いは夢の叶え方だ。夢はあくまでも個人的な問題であるのだからそこに勝敗を求めるのも無粋だが、在り方となれば話は別だ。
だが彩歌はそんな問いを投げられるとは思っていなかったものだから、即答できずに回答に窮してしまう。顎に指を当てて小さく唸るその姿はともすれば情けなく映るものであろうが、せつ菜はそうは思わなかった。彼女の前において、彩歌は嘘を吐かない。責任感の強い彼はその約束を破らない。ならば、それは自己の輪郭を検めるための逡巡に他ならない。
どんなアイドルになりたいか。それはつまり夢を叶えるための方法論であり、同時に夢とは異なる自己定義にすら等しい。故に軽々に答えることはできず、彩歌がひとつ吐息を漏らした。焦点を切り替え、自己の内側へと潜航するが如くに。
そうして、幾許か。彩歌の瞳に光が戻ってきたのはせつ菜から見ればさして長くない時間を挟んでの事であったが、果たして彩歌当人にもそうであるのか否か。
「……きっと、俺は肯定したいんだ」
「肯定……ですか?」
「そう、肯定。──俺は多分、これから先ずっと、音楽を心の底から音楽を楽しむ事はできない」
唐突に何を言い出すのか。何の脈絡もなく、かつ衝撃的な告白に思わずせつ菜が息を呑んだ。音楽とは音を楽しむと書くのだから、まずは自分自身が音を楽しまなければならない。それは彩歌が母から受けた教えで、彼女はその教えを旨に生きていた彩歌を知っているが故の驚愕であった。
だが、分かっていた事だ。改めて彩歌自身の口から聞かされたから驚いてしまったが。彩歌が音楽を愛しているのは紛れも無い事実だけれど、同時に母を喪う切っ掛けとなった音楽や自分自身に対する憎悪があるのもまた確かなのだ。人はそう簡単に変われないというのなら、嘗ての残滓があり続けるのもまた道理。自らを偽り続けていた彩歌が音楽への愛を残していたのと同じだ。
けれど、だからこそ。その答えを、彩歌は口にする。
「俺は矛盾した人間だからさ、どうしようもない奴かもだけど……でも、最近はそんな”自分”を楽しめるようになってきたんだ。こんな俺でも、生きていていいんだって。だから……どんな命だって生きていていいんだって、笑っていていいんだって、俺は肯定したい」
それこそが、彩歌が至った回答。音楽を愛する彼も憎悪する彼も等しく彼自身であるのなら、それはどちらも真だ。否定する事はできない。精神の雨景で乖離した己を喰らった時に、彼はそれを理解した。そんな矛盾さえ己であるのなら、最早そんな己自身を楽しむしかない。ただ“在る”事を肯定する。逃げでなく、お為ごかしでもなく、それこそが彩歌の至った真理。
だから肯定なのだ。矛盾を矛盾として受け入れ、それを叫ぶ。これこそが己という命であるのだと。こんなどうしようもない命でも生きていて良いのだと。器用に生きられない彩歌には、それしかできない。それだけで構わない。あえて愛歌の教えに則るのならば、それは己が命を音楽として放つに等しい。
あまりにも不器用で、愚直な結論だ。けれど彩歌の孔雀青はあくまでも真っ直ぐで、それが嘘でないのは疑うまでも無い。比類なき熱量。自己の質量全てを転化した、それは恒星の如く。彩歌が獲得した形而の引力が、そこには顕現していた。
だが“熱”が籠っていたのはどうやら無意識で、冷静が入り込んだ時になってようやくそれに気づいたようだ。はぐらかすように、彩歌がはにかむ。
「自己肯定で、他者肯定。命を肯定する……それが、彩歌くんが目指すアイドル像なんですね。えぇ、それはきっと、素晴らしい事だと思います!」
「そう? ありがとっ。キミにそう言ってもらえて嬉しいよ。俺がこの気持ちに気づけたのは、キミのお陰だから」
「私の? ……あっ」
あえて明言するまでもなく彩歌が示す所を了解したのか、思わずせつ菜が声を漏らした。しかし、彩歌はあえてそれを確認する事をしない。そうするまでもなく同じ昔日を想起していると、そう思えるが故に。
以前、せつ菜は云った。どんな彩歌でも大好きなのだと。まるで告白めいた思いだが、その言葉があったからこそ彩歌は自身の真理を得る事ができたのだ。矛盾する己を受け容れ、相反する自我の衝突を力と成したのだ。それはさながら、自己の新生であった。
侑と歩夢がせつ菜のステージから新たな夢を獲得したように、彩歌はせつ菜との交流を通して新たな自我を獲得した。故にこその感謝であり、視線は真っ直ぐに。逸らす理由など無いのだから。対するせつ菜は自らの発言とあまりにも熱量を孕んだ視線に思わず顔が赤くなるのとを自覚するが、決して相対を放棄しない。
「だから、ありがとう。せつ菜さん。俺はずっと、キミに救われてばかりだ」
「えへへ……どういたしまして。
なら───絶対に見逃しませんからね、彩歌くんの
「あぁ。期待していてよ。絶対に、後悔はさせないから!」
己が決意を示すのなら、言葉だけでは不足だ。決意も、感謝も、熱も……愛も。全ては、ステージの上で。自らもまたスクールアイドルとして立とうとするのならば、それこそが正道だ。だから、宣誓。それは、最早何度目になるかも分からない約束だった。
せつ菜が突き出した拳に、自らのそれを突き合わせる彩歌。それは祈り。互いの健闘を祈るための、聊か儀式めいたそれ。最早これ以上に言葉は要らず、ふたりは共に笑声を零した。
───けれど、彼らは知らない。知る由も無い。獄炎の如きこの夏日の下、目くるめく熱量の集うこのお台場より遥か西方で、この渺々とした碧天を隠す文字通りの暗雲が立ち込めつつある事を。
誓いは確と。だが因果は彼らに頓着せず、自儘に回っていく。いっそ、残酷なまでに。
「随分バッチリ仕上げてきたみてぇだな」
各ステージこそ高校生主催の学校行事の域を超えた完成度を誇るスクールアイドルフェスティバルであるが、必要な施設全てが手製で十全に用意されている筈も無い。そもそも屋外を主要な開催地としているのだから必然として校舎内の部屋は手つかずのままであり、内いくつかの部屋は各校のスクールアイドルのために控室兼更衣室として供されていた。
故に出番を目前に控えた彩歌が教室内で準備をしているのも当然で、そんな彼に声が投げられたのはおおよそ全ての行程を終えた頃の事であった。
服飾同好会謹製の専用衣装には皺のひとつも無く、ステージ用の薄いメイクは自然体でありながら彩歌の魅力をより引き立てるように。少なくとも、見てくれに瑕疵はない。残る準備は彩歌の心に居座る緊張の虫と如何に折り合いをつけるかといった、そんな具合。大きな深呼吸をひとつして、それと殆ど同時の出来事だ。だが彩歌は驚かず、振り返るより早くにその正体を察する。
「大雅。やっぱり分かる? 凄いんだよコレ。こんなに暑そうなのに、実は意外と涼しくて……」
「あぁいや、そういうコトではなく。確かに衣装もスゲェし、馬子にも衣裳ってカンジだが……オレが言ってんのはオマエ自身のコトだ」
彩歌の応えを途中で遮り、悪戯な表情で彼を指す大雅。だが発言を中断されたものだから、彩歌は些か不満顔だ。衣装自慢を邪魔されてしまった事か、或いは馬子にも衣裳などと心にも無い──無論、照れ隠しめいて──事を口にした事か。どちらにせよ、あえて言葉にするまでもない。どちらであれ、大雅は見抜いている。
故に不満に代わって、彩歌は首を傾げる事で大雅に応えた。我が意を得たりとばかりに、大雅が笑む。
「オマエ、かなり鍛えてきただろ。分かるぜ。
「! ……ホント、キミって奴は……洞察力が強すぎて、時々気味が悪いくらいだよ」
「そりゃどーも。これくらいしか取り柄が無いモンでな。だが、オマエくらいだぜ、見ただけで分かるのは。どれだけ一緒にいたと思ってる?」
何故かいじけめいた気配を覗かせる大雅の言葉に、そういうものか、と彩歌。彼自身はあまり鋭い方ではないが、大雅に何らかの変化があれば気づける程度の自信はある。ならば、人一倍に洞察に優れた大雅であれば変化への知覚はより敏感となろう。些か奇妙ではあるが、大雅はこれまでも人の行動を先読みや誘導する事があったのだから、不思議な事ではない。
大雅が推察する通り、陽彩によるレッスンは苛烈極まるものであった。精々数週間という短期間で
だがそれは彩歌自身の意思で行った事で、陽彩はそのやる気に応えただけだ。父子の間だけで完結する全て。それは大雅も了解している筈だ。だのに、何故あえて言及したというのか。何故、軽薄な表情に剣呑な色を滲ませているのか。察されている事を察知したのか、大雅が苦笑する。
「けど、意外だな。……本当に良かったのか?」
「良いも悪いも無いさ。これは誰に強制されたワケでも、義務感でやってるワケでもない。俺が、俺の自由意志の下でやってるんだから」
「そりゃ分かってる。分かってんだ。だが……オマエがアイドルをやるってコトは、それは……」
笑みが崩れる。貼り付けていた仮面が剥がれ、奥にあった本音が漏れてくる。声にはならずとも、彩歌にはそれが分かった。あまりにも今更な事だ。問う機会ならば、今までもいくらでもあった。それでも今になってしまったのは、それは大雅自身が自制していたからなのだろう。
彩歌の父、真野陽彩は嘗てのトップアイドルだ。昭和一のスーパーアイドルだとカラフルスターだのと渾名されていたその知名度は、ひとつ世代を遡れば凄まじいものがあろう。同年代ばかりに囲まれたこの
そして、大雅は知っている。学校生活とは離れた世界で、彩歌が受けてきた扱いを。出涸らしの子などと侮られてきた過去を。下手を打てば、彩歌を待っているのはその再演どころかより輪をかけて酷い坩堝だ。母の名声だけではなく、父の威光まで追いかけてくるのだから。そうなってしまえば、全てが台無しになってしまうかも知れない。大雅の憂慮は当然のものでもあった。
けれどそれを悟ってもなお、彩歌は微笑む。どうしようもなく空回りし続けたこの4年間だったけれど、その中でも幸運があったとするのならば、それは間違いなく宗谷大雅という親友を得られた事を置いて他にない。それを改めて認めればこそ、解は決まっていた。
「大丈夫だよ。大雅」
「……?」
「忘れちゃったの? 云っただろう。──実力で黙らせるから、って」
解に挟まった間隙は瞑目のそれ。瞬きの後、大雅が息を呑んだ。彩歌の答えが昔日のそれであったから? 彼の眼に宿る煌星を見たから? 大雅自身ですら、そこを切り分ける事はできなかった。けれど、何故だろうか。反駁が溶けていくようであった。
大言壮語だ。あまりにも思い上がりめいている。彩歌は精々が幼い頃から積み上げてきた10年程度を取り戻しただけで、半ば伝説に近しい父に追いつける要素など、只のひとつも無い。それが現実だ。理性では分かっている。分かっているのに、彼の瞳には有無を言わせぬ異様な重力があった。或いは本当に実現してしまうのではないかと、そう錯覚させてしまう圧力だ。
初めて見る
「そうかよ。なら……オレが何を言っても、オマエは止まらねぇんだろうな」
「勿論。俺はもう、前の俺じゃない。望んで変わったんだ。望まれて変わったんだ。……キミにも」
「そうだな。……あぁ、そうだ」
なら、と。大雅が彩歌の肩を叩く。
「最後まで付き合ってやるよ。それが、オマエお得意の“責任”って奴だろ?」
「……言質は取ったよ?」
悪戯な表情であった。おおよそこの遣り取りの締めとしては相応しくないような、そんな笑み。それを前にして、大雅は己の失策を悟る。失策であり、そして幸運でもあった。向かい合った大雅を彩歌が振り返らせ、そして肩を組む。足取りは前へ。控室を出ていく。
その間に大雅へと浴びせかけられる言葉の雨は、彩歌のやる気を体現したかのようだ。リハーサルでも一度行った演出の一部を、何と大雅に動かして欲しいと彼は云う。無茶振りだ。大雅は演出の専門でも何でもないのだから。だが大雅が否を突きつけなかったのは言質もあるが、彩歌があまりにも楽しそうだったから。彩歌が、無茶ではあっても無理な事を言わなかったから。親友に対する信認が、そこにはあった。
最後まで付き合ってやると言った手前、舌の根の乾かぬ内にそれを撤回する程、大雅は薄情ではないつもりであった。分かって言っているのなら、あまりにも卑怯。だがそれさえ悪くないと思えてしまうのだから、始末が悪い。彩歌の信認を、大雅は受容する。あれがどうだ、これがそうだと、議論を交わすふたりの口元が緩んでいる。
──故に、それはあまりにも無粋な横槍。ふたりが校舎を出たその刹那、冷たいものが彩歌の鼻先に触れた。あまりにも馴染みのある冷やかさによもやと感覚を研ぎ澄ませて、微かなペトリコールに気付く。
だが、遅い。屋内にいたのだから仕方ない事ではあろうが、因果は彼らを待ってはくれないのだ。事態は何もかも遅きに失して、予報を裏切った災厄は何も知らぬ群衆ごと碧天を吞み込んでいく。
空を見上げれば、既にそこに在るのは分厚い鉛色。陽光は翳り、代わって地上へと降り注ぐのは滂沱の如き───
「───雨……!?」