泥中から這い上がるかの如き、重く苦しい目覚めであった。比較的朝に強い方である彩歌にとっては久方ぶりか、或いは初めて感じる二度寝への誘惑を振り切るように意識は現に移行し始めて、五感に火が灯っていく。視界は仄暗く、カーテンの隙間から陽光は差し込んでこない。未だ日が昇っていないのだろう。
いつも通りの光景。いつも通りの朝。枕元の時計を一瞥してみれば、時刻は午前4時程であった。一般的な男子高校生の起床時刻としては聊か早かろうが、これが彩歌にとっての平常であった。そんないつも通りの中で、しかし彩歌は不景気に大きな溜め息を吐いた。気が重い。身体が重い。それだけならば風邪か何かのようでもあるが、熱はない。であればそれらは心因性のものなのであろう。
原因は分かっている。先日、せつ菜が彩歌の許を訪れた際に彼女の口から語られた内容、それがずっと彩歌の脳裡で巡っている。今日がそのライブの日である事もあろう。女々しいとは、彩歌自身理解している。だが、事が事だ。彼の心境も、ある意味では致し方ない事ではあろう。
だがいつまでも考えているだけではいけない。全身に纏わりつく倦怠感を振り払うように布団を身体から引き剥がしてベッドから脱出し、寝間着を脱ぎ捨てる。露わになった身体はシャツの上からでも彼がそれなりに筋肉質である事が分かる。長年の筋トレの成果であろう。それからジャージに着替え、畳んだ寝間着を一か所に纏めて、彩歌は部屋を出た。日課であるジョギングに出るのだ。無心で走れば、このモヤモヤとでも形容すべき感覚も少しは晴れるだろうと。
父である陽彩はまだ起きていない。できる限り足音を立てないように階段を降りて、しかし彩歌はすぐに玄関に向かうのではなく、階段を降りて玄関の方へと曲がったすぐ右手側にある襖を開けた。鼻腔を突く井草の臭い。壁に取り付けられたスイッチを操作して照明を点け、すぐ右に視線を遣る。
果たしてそこにあったのは、
瞑目し、仏前で手を合わせる彩歌。その内心は如何様か。彼以外に命在らぬこの空間でそれを慮る者はいないし、仮にいたとしてもその全てを子細に把握するのは恐らく不可能であろう。ただひとつ確かであるのはその礼は断じて形だけのものなどではなく、或いは故人の冥福を祈る以上の〝何か〟があるという事だけだ。
そうして、どれだけの時間が経っただろうか。漸く礼の仕草を解いた彩歌が仏壇よりも更に上、天井と壁の接合部辺りに視線を遣り、その顔に微笑みを浮かべる。傍から見れば聊か奇怪な仕草ではあるが、彼は何も虚空に向けて微笑んでいるのではない。その視線の先に在るのは、額に収められた一枚の写真。それに写っているのは、亜麻色の髪を長く伸ばし、浅葱色の瞳が印象的なひとりの女性であった。
妙齢と言うには聊か年齢を重ねたような印象があるものの、その含蓄すらも魅力に転換するかのような、間違いなく美人と言える女性である。衒う事ないその快活さは彼女の太陽の如き人柄を見た者に伺わせるに十分で、しかし写真に写る過去の像となった今では永劫不変である事も寂寥を誘う。その意味合いこそ違えどその笑顔は彩歌のそれともよく似ていて、ふたりの繋がりを考えればそれも当然の事であろう。〝
「母さん。俺は……どうすれば良かったのかな」
微笑みを沈め、俯きながらそう言葉を漏らす彩歌。けれどその声を聞き届ける者はおらず、遺影はいっそ残酷なまでに過去の残影を少年に投げかけるだけだ。或いは彩歌自身、誰に聞いてもらいたいとも思っていないのかも知れない。遺影を通し己の中に在る母の面影に問うているだけの、ある種の自問自答。だが自身が惑う内の自問自答に、答えがもたらされる筈もない。それは彩歌自身も分かっていた筈だ。だのに問うたその姿は、跪いたままである事も相まって憐れな求道者か、告解に訪れた咎人を思わせる。
だが黙っていた所で答えは出てこないし、此処には彼の罪を聞き届ける神も在りはしない。仏はただそこに在るだけで、少年に悟りを与えたりはしない。彼はただひとりで立ち上がるしかなく、最後にもう一度母の遺影に向けて笑顔を投げ掛けた。凡そありとあらゆる感情を押し殺した、虚勢の笑みを。どうすれば良かったかなど、何を莫迦な事を。過去の自分が
「ごめんね、変な事言って。それじゃあ……行ってきます」
最後にそれだけを告げて、彩歌は踵を返す。香煙は既に不可視であり、されど遺香は僅かに彼の身体に纏わりついて朝の静寂の中に溶けていく。玄関でシューズを履いて、外へ。カーテンの隙間から覗いた通り街並みは未だ暗く、けれどコンクリート・ジャングルの隙間から見える空際では朝の気配がその顔を覗かせ始めている。
甲高い軋みをあげながら開放される門。それから手慣れた動作で施錠して、彩歌は大きく息を吐いた。それは胸中に蟠った悶々を体外へと追い出すか如く。けれど彼を苛む懊悩はそれだけで消える筈もなく、振り払おうとするかのようにいつもより速足で駆け出していく。その頭上では星が未だ輝きを放っていて、白み始めた空際からも空が晴れているのだと分かる。恐らく彩歌の頭上は、雲ひとつないのだろう。だというのに、何故だろうか──
──雨の音が、ひどく煩い。
時は少し遡る。
まるで至近距離から弾丸を側頭部に撃ち込まれたかのような、凄まじい衝撃であった。無論それが錯覚である事は、彩歌自身分かっている。もしも実際にそれだけの衝撃を受けていたのであれば、今頃彼の頭蓋は原型を留めない程に破壊し尽くされて脳漿をぶちまけていたであろうから。だが錯覚ではあっても彩歌にとっては現実と大差なく、前後不覚に近しい感覚に陥る。けれどそれで行動不能になるほど彩歌は愚鈍ではなく、ある種の仕切り直しとしてせつ菜を自宅に招き入れたのであった。
せつ菜/菜々が彩歌の家を訪れるのは、何もこれが初めての事ではない。彼らがまだ小学生であった頃、稀ではあったものの何度かこの家を訪れていた事を、彼女は覚えている。中学高校に進んでからは互いに多忙になって来ることもなかったから、4、5年振りであろうか。だが此処に来た時の事を彼女はよく覚えていて、だからこそまず初めに感じたのは精神的な余裕の無い現状でも漠然と分かる違和であった。
彼女がこの家を訪れた回数はそう多くはないものの、その多くにおいて入り口にまでピアノの音が届いていた。彩歌の母である愛歌は自宅でピアノ教室を経営していて、生徒にピアノを教えていたのだ。それが休みの日はせつ菜が来ると必ず出迎えてくれたもので、どちらにせよ愛歌が家にいないという事は一度もなかった。だからだろうか、せつ菜は半ば無意識の内に首を巡らせていて、そこに含まれた意図を察したらしき彩歌が言葉を投げる。
それから彩歌はせつ菜をリビングに通し、その中央に鎮座するダイニングテーブル、それに隣接したチェアに座るように促すと自身はキッチンへと入り食器棚からマグをふたつ取り出した。片方は彼専用のそれで、もう片方は彩歌も陽彩も使っていない、客人用のものだ。暫く誰も使っていなかったそれをスポンジで洗っていると、せつ菜が訥々と言葉を漏らし始めた。彩歌は作業の手を止めず、しかしせつ菜の話に耳を傾けている。
──簡潔に言えば、せつ菜が語ったのは同好会の暫定的な空中分解とその経緯であった。方向性の違いと、そう言ってしまえば陳腐に堕ちよう。だが実際に起きたのは自分の『大好き』しか見えていなかったがための独断専行と、それによる他者の『大好き』の忽略。堆積した軋轢は沈黙の引火点と化し、遂には爆発したのである。
「そっか。……そんなコトが、あったんだ」
そう呟いた声音はひどく無味乾燥で、しかしそれは彩歌が何も感じていないという事ではない。事実はむしろその逆。胸中で渦巻く混沌とした感情の坩堝をホットミルクで臓腑の奥底に流し込みどうにか内心を悟らせまいと絞り出したが故の声であった。
彩歌の内に巣食うそれを無力感と表現してしまうのならば、あまりにも傲慢というものだ。無力感というのは何かできたにも関わらず何もできなかった者のみに許される感情であって、ただの部外者、それも変装しているとはいえ大切な友の姿にも気づけなかった愚者などには過ぎたものだ。同情や、憐憫も同じ事。
故に──これからせつ菜が何を言うのであろうと、それを止める権利は彩歌にはない。優木せつ菜というスクールアイドルにとって、真野彩歌という人間は一部外者でしかない。無力感や憐憫、胸中で渦巻く一切を掻き消して、押し込めて、彩歌は『いつも通り』という仮面で混沌に蓋をする。そんな少年の前で、せつ菜は俯いていた顔を漸く彼の方に向けた。その表情に表れているのは、覚悟であろうか。その悲痛の色が、彩歌の胸を貫く。
「彩歌くん。私のお願い、聞いてくれますか?」
「……何だい?」
せつ菜の言う〝お願い〟。聞くまでもなく彩歌はまるで予感のようにその正体を感じ取ってしまって、けれど何も言わない。言うな、と。それは駄目だと、言ってしまえればどれだけ良いだろうか。だが、せつ菜の経験も心も彼女だけのもので、それに対して介入する権利を、彩歌はきっと持っていない。
そして何より彩歌がせつ菜に対して結んだ誓いがある。何があっても、彼女の味方でいるのだと。約束したのだから、彼にはそれを果たす責任がある。それがたとえ子供が軽々しく結んだ口約束なのだとしても、それが偽りない両者の誠実の上に結ばれたものなのだとすれば、子供の戯言などと一蹴できるものではないのだ。そして今、その約束の許に彼が執るべき行動は、ふたつにひとつ。
嗚呼、分からない。不明だ。耳元ではざあざあと現ならざる雑音が喧しく鳴り響き、彼の思考を妨害する。そもそもとして自分の心の在処さえ定かではない者に目前に広がる不明の暗闇を解き明かすことができる筈もなく、少女は少年の目の前に立ち彼の目を真っ向から見据えながら、言葉を吐き出すのであった。
「──見届けてくれませんか? 『
「今日はいつにも増してクソ辛気
辛辣な物言いである。しかしそれとは裏腹に憂懼の滲む表情の大雅が彩歌に向けてそう言い放ったのは、いつも通りふたりが中庭で共に昼食を摂り始めた時の事であった。天候は快晴。風は強くもなく、しかし汗ばむほど弱くもなく、外で食事をするにはまさしく最適と言える具合だ。
何の前置きもない言葉であった。彩歌自身も親友との食事の間くらいは余計な事を考えるまいと平静でいるつもりであったから、完全に予想の外からのものでもある。故に彩歌の反応は一拍遅れ、情けなくも素っ頓狂な顔を晒してしまう。だがすぐに忘我から復帰すると、冗談めかした声音で返した。
「そんなにヒドい顔してる?」
「あぁ、してるな。なんつーか、この世の不幸は全部自分のせい、とかフザケた事ぬかしそうな顔だ。……まぁ、
あの時。それ自体は何か具体的な時期を指す言葉ではないにも関わらず彩歌は大雅の言わんとする所を察したようで、苦笑のような、或いは何かを観念したような薄い笑みを漏らす。大雅が『あの時』とあえて明言しなかったのはある種彩歌への配慮であり、かつ守秘のためでもある。彼らが共に想起した出来事について、この学校にいる人間で既知であるのは彼らふたりだけであった。
そしてその出来事について、大雅は彩歌の目の前でも滅多に口にする事はない。彩歌の知る所ではないが、無論他人の前では話した事すらもない。そんな大雅がそれを引き合いに出すというのは余程な事であり、彩歌は自らが傍から見てどんな様子であったのか自認する。
視線を落とした先に在るのは彩歌が自分で作った弁当。白米とそれに乗った梅干し、甘さを抑えた味付けの卵焼きに、焼き魚と、小松菜のおひたし。冷凍食品はひとつもないが、それ以外は至って普通の弁当だ。何という事はない。その視界の外から、大雅の問い。
「何があった?」
「うぅん、一言で言うのは難しいけど……約束をね、破っちゃったかも知れないんだ。友達とした、大切な約束だったのに」
「友達? ……あぁ、もしかして会長ちゃん? オマエ、会長ちゃんと仲良いもんな」
会長ちゃんとは菜々の事で、大雅は彼女の事をそう呼ぶのだ。彼女が現生徒会長である事から来る聊か安直な渾名である。しかし、大雅の予想を正解と言うべきか、或いは間違いと言うべきか。返答に窮し、彩歌はあえて何も言わない事にした。わざわざ解答を投げ渡すまでもなく、大雅は殆ど確信しているのだから、あえて告げる必要性もなかろう。
彩歌の言う友達が菜々の事であると大雅が即座に確信したのは、何も彩歌に友達が少ないから、などではない。特筆して多いという訳ではないが、彩歌にも人並みに友人はいる。だが大雅は知っているのだ。彩歌がそうまで気に掛ける友であれば、大雅と菜々のどちらかしかいないのだと。そこからは消去法で答えが導き出せる。彼自身には彩歌との約束を破られた覚えなどはないのだから。
しかしそうであるならば〝かも知れない〟などという煮え切らない言い方をしたのはいったい何故か。約束は履行するか反故にするか、そのどちらかである筈で、かも知れない、などというどっちつかずは基本的に起こり得ない。大雅は彩歌の言葉の続きを待って、紙パックのいちご牛乳を吸い込んだ。中身が少なくなっていたのか、ズズ、という間抜けな音がする。
「ねぇ、大雅。誰かの味方をするって、どういうコトなんだろうね」
「は?」
「うわ、ヒドいなぁその反応。流石の俺でも傷つくよ……」
「流石の、って。オメーは自分で思ってるよりよっぽどナイーブだわ。……いや、
親しき中にも礼儀あり。想定外な内容であったとはいえ反射的に漏らしてしまった失礼な反応に、大雅が謝辞を述べる。だが彼の反応も致し方ない事であろう。何の前触れもなくそんな問いをされてしまえば、彼でなくとも似たようないらえを返したであろう。しかし今までの会話の流れからそれが彩歌の言う約束とやらに関係しているのを読み違える大雅ではない。
誰かの味方をするというのは、別な誰かと敵対するという事。そんな答えを投げ渡すほど、大雅は安直ではない。そもそも世界が敵と味方の二元論で語れる程単純な場ではない事はまだ高校生である彼ですら知っている事だ。まず以て味方の定義すら曖昧なのだから、そんなもので語り尽くせるものであって欲しくないという思いもある。
思考を切り替えるように大雅は白米を咀嚼する。それを何かの意図と取ったのか、或いはただの偶発的なタイミングの一致か、彩歌が口を開いた。
「そうだよね。ごめん。変なコト訊いた」
「いや、気にすんな。オレの反応もなかなかアレだったから、お互い様だ。……しっかし、妙なコト訊くモンだな。誰かの味方……ねぇ。何でまた?」
「……悪いけど、詳しくは話せない。でも、俺は分からなかったんだ。あの娘の心と行動、どちらの味方をすればいいのか。
……いや、そもそもその心だって、俺の勝手な想像でしかないかも知れない。心なんて、目には見えないんだから。そう考えたら……どうするのが正しいか、分からなくなって」
「ふぅん……ま、
どっかの誰かさんみたいに。その思いを、大雅は口にすることなく内心だけで呟く。心は目には見えない。その通りだ。他人が推量する心などどこまで行っても自己満足に過ぎず、真実と言えるものは見えないのかも知れない。そもそも時として人間は自分自身で自身の心さえ見失ってしまうのだから、他人が核心に迫るなど土台無理な事であるのだ。
だが、だからとて大雅はそれを否定したくはない。もしも、誰かがまた別の誰かの心に味方するのが自己満足と独善という舞台の上で踊り狂う間抜けな
ひとつ笑みを漏らし、大雅は未だ食べかけの弁当箱を横に置いて親友の肩を抱き寄せる。まさか彼がそんな事をするとは思っていなかったのだろう、彩歌がうわぁ! と驚きの声を漏らす。それに構わず、大雅は続けた。
「オマエは色々難しく考え過ぎなんだよ。もっと気楽にいこうぜ、
「大雅……」
冗談めかした声音とは裏腹に彩歌へと向けられる視線には親友に対する最大限の信任があり、それを受けて彩歌は気付く。誰かの味方をする、その何たるか。誰もが認める解答は大雅にも分からないけれど、彼は彼が思う正解を彩歌に対して示したのだ。他でもない、彩歌の味方をするのだと告げて。
心は目には見えない。それはそうだ。故にどれだけ他者の心について考えようが結局は自己満足で、それでも良いではないかと大雅は言うのだ。たとえどこまで行っても自己満足なのだとしても、誰かに幸せでいて欲しいという願いは美しいものである筈だ。だから大雅は勝手に彩歌の心を決めつけて、勝手にその味方をする。彼は彼が思ったように行動する。それだけだ。その思いはある種の熱のように彩歌に染み入り、彼は口の端に笑みを浮かべた。──懊悩は未だ消えない。それでも、気持ちは軽くなったのだ、と。
「あぁ、そうだね。ありがとう、大雅」
「いいってコトよ。
抜けるような青空であった。東京はお台場、その東京湾にほど近い土地に存在する総合商業施設ダイバーシティ東京プラザ。その正面に位置するフェスティバル広場にはいつにも増して学生たちが集い喧騒を作り出していて、しかし耳をすませば遠方から波が押し寄せてくる音が聴こえてくる。
振り返り、視線を少し上へ。そこには可能性を象徴する巨大な白亜の人型が水平を見据えて屹立していた。とある長寿ロボットアニメシリーズに登場する人型機動兵器、その実物大立像である。数年前に初代主人公機から代替わりした現行のそれは所定の時間になると変形、もとい変身する機能を備えているが、どうやらこの時間は変身前の姿であるらしかった。
彩歌の周囲では集まった観客たちがお披露目ライブへの期待を口々に語っている。この場において、このライブが実質的な『優木せつ菜』の終わり──つまり引退ライブである事を知っているのは、恐らくは本人を除けば彼だけなのだろう。改めて現実を認識し、追い遣り切れなかった後悔が鎌首をもたげる。
懊悩は未だ消えない。後悔は未だ色濃い。在り得ざる『
それを認めた観客たちが漏らしたのは戸惑い。それを受け止めるようにせつ菜は観客たちを視線でなぞり、刹那、それが一点で停止する。目が合った、のだろうか。彩歌には分からず、けれどせつ菜は笑って。ひとつ静かに、されど何処か荘厳に、大きく息を吸い込み──
──瞬間、
「──ッ……!」
息を呑む。それに込められている感情は驚愕か、或いは感嘆か。きっとどちらでもあって、けれどそれだけではない。せつ菜の声が、ダンスが、彼女の存在、そして何よりも万民の心を揺さぶるが如き情熱の上で合一し、気炎となって地を覆う。
それはさながら燃え尽きた灰に再び火を灯すように。或いは岩戸に自らを封じた者に光を届けるように。訳も分からず、彩歌は己の胸元を強く握り締めた。彼の中で、錆びついた何かが軋みをあげてでも廻ろうとする音が聴こえる。目が逸らせない。全身全霊で、存在が釘付けになる。そのせいだろうか、自身ですら制御しきれぬ強い情動の前では時間の感覚さえあやふやで、ライブが終わってからも暫くの間、彩歌はその場から動くことができなかった。
せつ菜に願われた通り、彩歌は彼女の終わりを見届けた。良いライブだった筈だ。有終の美と言うに相応しい、優木せつ菜の集大成と言えるものであった筈だ。だが──魅せられた。その輝きに。その煌めきに。だからだろうか、我知らず、彩歌は言葉を漏らした。
「これが……終わりだって……?」
──そして。せつ菜の輝きに魅せられた者は、何も彩歌だけではない。彼がいる観客スペース、その一角にてふたりの少女が手を取り合っている。いや、より正確に言うならば片方の少女がもうひとりの手を取り、胸中を支配するトキメキのまま瞳を爛々と輝かせている。
大きな緑翠色の瞳が印象的な、緑色がかった黒髪をツインテールに纏めた少女である。もうひとり、ツインテールの少女の連れと思しき女生徒は桃色の髪を片方で纏めた、何処か気弱そうな気配を漂わせる少女だ。団子髪の少女はツインテールの少女に若干気圧されているようであるが、確かにふたりの瞳には同じ光がある。
「カッコよかった! 可愛かった! ヤバいよ、あんな娘いるんだね! 何だろう、すっごいトキメキ!!」
全身を満たす昂りのままツインテールの少女は矢継ぎ早に言葉を吐き出し、次いで団子髪の少女の手を引いて案内板の前に走っていく。そこに貼られている、今日のライブのポスターを見つけたのだ。食い入るようにそれを見つめて、主催の名前を声に出して読み上げる。
「虹ヶ咲学園、スクールアイドル同好会……」
「虹ヶ咲って……」
「ウチの高校だぁーっ!?」
青空に突き抜けていくような、少女たちの声。
──物語は、廻り始めた。