【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第44話 生存証明:ミンナの夢を叶える場所(スクールアイドルフェスティバル) Ⅱ

「副会長!」

 

 いかに人がその智慧を以て文明の質量を増していこうとも、結局の所、自然の暴威というものの前に人はいつだって無力だ。天災は無慈悲なまでに平等で、只人は翻弄される他ない。必定、彩歌が足を踏み入れた時、舞台裏の様相は混迷を極めていた。

 

 致し方ない事だ。何しろ突然の降雨である。それが事前に想定されていたならば対策もしていようが、早朝の予報では1日中降水確率は0%を高らかに喧伝していた。それでも辛うじて対応の体を為しているのは、一応の取り決めとして降雨時の行動を組み入れていたからだろう。温暖化の甚だしいこの時代、夕立、ゲリラ豪雨というのは何も不自然な現象ではないのだ。

 

 だがそんな中にあって唯一幸運であったのは、運営の中枢でもあるこの舞台裏に現状の最高権力者たる副会長が残っていた事だろう。彼女が残っていなければ指揮系統が統制されず、混迷は混沌へと姿を変えていた筈だ。せつ菜がこのスクフェスで”せつ菜”として活動していられるのは、彼女の有能さ故でもあった。

 

 たとえ半ば想定外の事態であっても、決定と指示は迅速に。即断すべき事項は全て指令までを済ませ、吐息をひとつ。最早、後は人事を尽くして天命を待つ事しかできないといった、そんな時。副会長たる少女の耳朶を、焦燥と動揺が打った。反射的にそちらに視線を移し、副会長が驚愕する。

 

「真野さん!? 来ていたんですか!? というか、そんなずぶ濡れで──」

「──ステージはっ!?」

 

 副会長の言葉を遮るか、ともすれば意識の端にすら引っ掛かっていないような、そんな気勢。突然の災厄にすら冷静を失わなかった彼女をしてそれに気圧されてしまったのは、彩歌の表情があまりに鬼気迫るそれであったからであった。副会長と彩歌は個人的な親交がある訳でこそないが、菜々を介する形で多少は知っている。彼女から見て彩歌は温和な印象のある人物で、そんな彼がひどく取り乱しているのだ。押し黙ってしまうのも当然である。

 

 或いはそこにあったのは驚愕だけではなく、同情でもあるのだろうか。だが黙っていても事態が好転する訳ではない。副会長の眼光はあくまでも役職に相応しい冷厳なそれで、彩歌もまた思考が冷却されるのを自覚する。この状況において最も重大な責を負っているのは彼女だ。そんな彼女が努めて冷静であろうとしているのだから、彼もまたそう在ろうとしなければ不実というものだ。彼の自省を見て取り、副会長が現状を言葉にする。

 

 曰く、ステージでのパフォーマンスは中断。この天気ではスピーカー等の電子機器は使えないのだから仕方のない事で、その電子機器も屋外に配置していた分はおおよそ撤収済みだ。再配置をするとしてもそれなりの労力がいるだろう。

 

 何より、一番の問題点はこの天気がいつまで続くか分からないという点。原状復帰に要する時間もあってステージの使用時間には刻限があって、けれどこの雨がいつ止むかは分からない。止みさえすれば再開もできようが、その間の予定(プログラム)は全て中止とするしかないというのが、彼女の弁であった。

 

「勿論、私も学校側にステージ使用の猶予延長を申し入れるつもりですが、それもこの雨が止まない事には……」

「そう、だよね……ありがとう、副会長。それと、ごめん。こんな時に、慌てて訊ねてしまって……」

「いえ。驚きこそしましたが、真野さんの立場を考えれば仕方のないコトだと思います。それに、私だって……」

 

 私だって、何だというのか。不自然な所で途切れた副会長の吐露に彩歌が疑問の瞳を向けるが、彼女はそれを首を横に振る事で流した。けれど、彼女とて嫌なのだ。このまま降雨が続き、スクールアイドル同好会、とりわけせつ菜のパフォーマンスが見られなくなるのは。彼女はせつ菜のファンであった。

 

 だが同好会のパフォーマンスは日程の最後に配置されていて、まだいくらかの希望は残されている。副会長自身の対応と天候次第では、実行可能ではあるだろう。しかし彩歌の場合、そうもいかない。彼が本来壇上に立つ筈だった時間までには最早幾許もなくて、けれど天候は変わらない。西の空は、未だ鈍色のままだ。同情はそれ故の事であった。

 

 雨の中で外から駆け込んできた彩歌にはその現実がより如実なものとして感じられて、一度冷却された思考が焦燥に加熱していくのが傍目からも分かるようだ。よりによって、何故。そんな懊悩が気配として滲むようで、思わず気休めを口にしてしまうのも自然な事であった。

 

「真野さん……まだ希望が無くなった訳ではありません。学校側の回答次第では、もしかしたら……」

「違う、それじゃあダメなんだ……! 俺だけ良くても、それでは集まってくれた人が……皆が繋いできた”熱”が……!!」

 

 解っているのだ、そんな事は。彩歌だけではなく、この場にいる誰もが。ここにいるのは副会長や彩歌、彼についてきた大雅も含め、スクフェスの開催と完遂に向けて尽力を続けてきた者たちばかりなのだから。故に気休めは無為で、反駁は今更であった。既定路線の遣り取りは、お為ごかし以上の意味を持たない。

 

 けれど、だからとて何をする事もできない。無力なヒトは災厄に抗う術を持たず、できるのは只管にそれが過ぎ去るのを待つのみ。過ぎていく時間と空白になっていく努力の跡を肌に感じ、絶望を呑み下しながら。冷却されていく熱を前にして、それを見過ごすだけが人間に許された総てだ。

 

(でも、まだ何か……何かないのか、俺にできるコトは……!!)

 

 それでも、何か。或いは何かできる事はないかと思考してしまうのもまた、どうしようもないヒトの(さが)だろう。這い寄る絶望を色濃くするのは、いつだって反抗の意思だ。光があればこそ、染み入る闇はよりその存在を強める。そうして少しずつ懊悩が脈絡を喪って、最早いっそ雨の中に飛び出してやろうかとさえ、彩歌が考え始めた。そんな時の事であった。焦慮の喧騒と失意の気配を断ち割るように、舞台裏に甲高く乾いた音が響く。

 

「あっ、ごめんなさい……!」

 

 或いは天気予報でも見ようとしたのだろうか。音の正体は、スタッフのひとりがスマホを床に落とした事によるそれであったようだ。平時ならば誰も気に留めないような事でも、現状にあっては話が別だ。おおよその視線が集中し、彩歌の双眸もまたそのひとつ。申し訳なさそうに、スタッフがスマホを拾い上げる。

 

 それだけの事だ。この異状の中では雑念ではあっても些事である。大半の人々は即座に流して再び徒労に戻り、しかし彩歌はそのまま固まったまま。まるで魂でも抜けてしまったかのように、先程までスマホがあった床を見つめている。

 

 その姿があまりにも奇異であったものだから、傍にいた大雅が眉根を寄せた。彩歌の親友を自称し、また他称される彼でさえ、何を考えているかが計り知れなかったが故の事であった。

 

「おい、彩歌……?」

「──スマホ。そうか、まだこの手があった……!!」

 

 果たして大雅の声が聞こえているのか否か。再起動の切っ掛けが大雅であった事は確かであろうが、しかし彩歌は要領を得ない呟きをした次の刹那には大雅に一瞥もせず駆け出していた。丁度先程来た道を引き返すように。一応の失礼に対する謝罪と共に犇めくスタッフの間を縫い、あっという間に見えなくなってしまった。

 

 これでは副会長と大雅は殆ど置き去りというもので、思わず顔を見合わせるふたり。しかし少しずつ諦念が染み入ってくるこの状況にあって、駆け出していく彩歌の口元は笑みのそれであったのは両者の共通認識だった。ならば、特段の確認もなく、彼らが待つ選択をするのは自明の事であった。

 

 そして彼らの予想通り、彩歌は再び戻ってきた。時間にして10分にも満たない程度の間隙だが、この降雨の中を全力で駆けてきたのだろう、息は完全に上がりきっていて全身は先程よりも濡れている。しかしそんな様子に反して、気勢は未だ衰えぬまま。いっそ泥酔めいた熱の宿る目で大雅に押し付けたのは、彩歌の折り畳み傘とスマホであった。画面ロックはとうに解除されていて、表示されているのはL()t()u()b()e()()()()。”()()()()()()()()()()()()

 

 思わずスマホを受け取った大雅が画面を確認し、目を見開く。まだ彩歌は何も言っていないが、彼の意図におおよそ気づいたのだろう。その様子から副会長もおよその察しがついたようで、表情が驚愕に変わる。

 

 学校側から貸し出されている配信用の機材は防水仕様ではないから、雨の中では使えない。虹ヶ咲のスクコネアカウントは彩歌の一存では動かせず、またよしんば動かせたとてステージに立った事が無い彼では満足な関心を集める事もできまい。けれど、これならば。

 

「彩歌、オマエ……」

「この状況でも、まだ皆諦めてない。自分たちの夢を叶えようと、会場の”熱“を繋ごうとしてる。まだ終わってなんてないんだ。……なら、俺もできる事をしないと」

「セリフと表情が合ってないぜ、彩歌。他の奴は誤魔化せても、オレだけは誤魔化せねぇ。このサイアクな状況をひっくり返してやろうって、サイコーにワクワクしたツラしてやがる。……やるんだな?」

 

 あえて問うまでもないとは、既に分かっていた。この状況にあって、真野彩歌は決して退かないだろう。たとえ大雅や副会長が引き留めようと、どうにかして実行に移す。大雅にはその確信があった。何故ならどんな状況でも全力を尽くすのが、今の彩歌がであるから。

 

 故に、大雅は否定を口にしない。止めても無駄だと分かっているから。最後まで付き合うと、既に言ってしまったから。何より、現状を打開したいのは彼自身も同じであるから。大雅だけではない。周囲の全員が反論の声をあげないのが、何よりの証明だ。

 

 集中する無数の双眸。その重みを感じて、だが彩歌は真っ向から親友を見る。雨に濡れた髪が張り付き、化粧などとうに落ち切ったその面貌に、いっそ獰猛なまでの笑みを浮かべながら。

 

「あぁ。()()()()()()()()()()()()()()()()。頼まれてくれる? 兄弟(キョーダイ)

「応さ。頼まれてやるよ、兄弟(キョーダイ)

 

 言葉を交わし、ここに約定は成った。未だふたりで握ったままのスマホをひったくり、大雅は彩歌の前に掲げてみせる。操作は既に把握している。彩歌の要求に対し、少なくとも最低限度の応答はできる筈だ。そうでなくても、調べながらでさえやってのけるだけの思いが、彼にはあった。

 

 そんな彼らの遣り取りに呼応するようにして、スタッフらの動きが変わる。懊悩するのでも、彼らの企てを引き留めようとしているのでもない。自分にもできる事を探し、考える人々の姿がそこにはあった。

 

 髪を掻き上げ、雨水を払う。たとえ後から今以上に濡れてしまうとしても、それはせめてもの身嗜みとして。面持はこの上なく晴れやかで、彩歌が副会長の方へと向き直った。何を問われるかは明白で、彼女が苦笑する。

 

「いいかな、副会長?」

「後でどうなっても知りませんよ……と言っても、聞かないのでしょう? ……ご武運を」

「うん。……行ってくる」

 

 たったそれだけの短い遣り取りだけで、彼らに必要な事項は完結した。これ以上に言葉は要らず、3人はそれぞれに為すべきを為すべく踵を返す。今はただ全力で、事に当たる。この場にいる全員が、その意志を共有していた。

 

 慈悲無き災厄の空、それは細やかな希望の蠢動であった。

 


 

 西方より湧き出した鈍色の雲がお台場の蒼穹を呑み込んだ頃、せつ菜を初めとした彩歌を除く同好会の面々はメインステージより少し離れた待機場に集っていた。特に示し合わせた訳ではない。ただそこがライブ中のメンバーも集まりやすい場所であったという、それだけの理由だ。それ故に雨が降り出した時に、退避場所として全員が参集した。

 

 だが、そんなものは一時凌ぎだ。少なくとも濡れる心配は無くなっただとか、相談はしやすいだとか、そんな事は問題ではない。より根本的な問題が解決していないのでは彼女らの表情は晴れず、必然、失意の蔓延は舞台裏と同様の様相であった。

 

 直接連絡をした訳ではないが、全員がスクフェスの要項を熟知している以上、この天気を前にして出す結論は変わらない。雨天の場合はパフォーマンスを一時中断したうえで、長引けば予定の組み直し。だが刻限(リミット)は19時までで、それを過ぎてしまえば何もかもが終わりだ。未だ雨が上がる気配を見せないのなら、希望的観測も無意味というもの。

 

 そして同好会にとっては、失意の原因はそれだけではない。テントの隙間から空を見上げるせつ菜の背後で、かすみが声を上げた。

 

「あーっ、もーっ!! どうしてこんな時に雨なんて降るんですかーっ!! これじゃ彩歌先輩がパフォーマンスできませんよーっ!」

「かすみさん……」

 

 らしくもなく柔らかな栗色を掻き毟りながら、それは憤懣の咆哮であった。半ば普段の自制すら忘れかけた、不条理への怒り。テントの中ではひどく響くけれど誰を咎めないのは、きっとこの場にいる全員がかすみと同じ気持ちを抱えているからだ。何故よりにもよってこのタイミングなのか、と。

 

 本来であれば今頃はメインステージに彩歌が単独で立っている筈で、せつ菜らはそれを客席から見ている手筈だった。だが、現実はこれだ。スクフェスの進行は何もかもが中断していて、人々の間には失意が伝染しつつある。諦念は毒となり、やがては全ての熱を奪っていくだろう。人々はそれを眺めている事しかできない。

 

 彩歌のステージを絶対に見届けると、約束したのに。これでは約束が果たせない。せつ菜も、彩歌も。そもそも舞台に立てないのなら果たすものも果たせず、移動が制限されていては見届けるも何もない。いつもは明朗なせつ菜の面持ちにすら影が差すのも自明の事であった。

 

 そうして緩やかに、だが確実に絶望がその主張を強めていく。──せつ菜のスマホからメッセージの受領を告げる通知が鳴ったのは、その最中であった。

 

「……?」

 

 こんな時に、いったい誰が。殆どの人員はこの場に集っているというのに。様々な感情を内包した視線の総てが集中するのを感じながらせつ菜がポケットからスマホを取り出し、光を感知したスマホが自動的に点灯する。そうして表示された発信者の名前に、せつ菜の眼が見開かれた。

 

 メッセージの送付元欄に表示されていたのは”彩歌くん“の4文字。それを認識した途端、殆ど自動的に指が動いていた。画面ロックを解除し、直接トーク画面に遷移する。けれど、不可解だ。彩歌から送られてきたのはそれ自体が意味ある言葉ではなく、LtubeのURLであったのだから。

 

 それが何を意味するのかをすぐには察せず、いつの間にか彼女の肩越しに画面を覗き込んでいたかすみや侑と目を見合わせるせつ菜。だが何の文面も伴わないのは奇妙であるとはいえ、この状況で彩歌が全く無意味なメッセージを送るとは思えない。それだけは、全員の総意であった。

 

 故に、その決断は必然。彩歌の行動を疑問に思いながらも素直にURLをタップする。そうして何の確認も挟む事無く画面はLtubeのそれに遷移して、同時に3人が驚愕の声を漏らした。それを不思議に思ったのか他のメンバーも次々に集まってきて、皆彼女らと近しい反応を見せる。

 

 その在り様たるや、まさしく打てば響くといった様子である。些か過剰(オーバー)な反応だ。だが、致し方ない事ではあろう。彩歌から送り付けられたURLから飛んだ先、Ltuber“さっちゃん”のリアルタイム配信画面に映っていたのはスクフェスのメインステージであり───その中心には、雨に打たれながら壇上に立つ、メッセージの送り主である筈の少年がいたのだから。

 

「彩歌くん……!?」

 


 

 それは、全く以て指定から外れた行動であった。勝手にせつ菜と彩歌の個人トーク画面を開いてしまった事に何も思わない程大雅は図太くはないものの、何も過去の履歴までも辿った訳ではないと己を納得させる。それはあまりにもデリカシーに欠けるというものであるし、何より、そんな個人的興味を優先しているような時間は無い。

 

 彩歌のSNSアカウントから大雅がした事と言えば、配信のURLを送り付けたというだけだ。即座に既読が付いた事だけを確認し、返信も待たずに彼はスマホの画面をLtubeのそれに戻す。配信開始をタップする指は淀みなく、数秒の後に処理が完了する。

 

 既にステージに昇っている彩歌を画面の中央へ。”さっちゃん”の知名度は相当なものと見えて、客席だけではなくコメントからも困惑と動揺の声が上がっているのが、大雅には詳らかだ。今まで彩歌は配信を開始すればきちんと挨拶をしていたのだし、そもそも顔出しすらしていなかったのだから当然だ。事情を知らぬ視聴者からすれば、この配信はあまりに異質に過ぎる。

 

 その困惑に共感できるのも、釈明をできるのも、世界中でただひとり。だが大雅は何も言わない。ネタバラシにはまだ早い。そもそもそれでは面白くない。この配信が丁と出るか、はたまた半と出るかは彼にも分からないけれど、確かな事がひとつだけある。この会場に集った人々と、配信を訪れた視聴者たちはこれから、無力な少年による一世一代の大勝負を見届ける立会人になるのだと。

 

 その仕掛け人のひとりとして、大雅は笑う。声ならずとも、内心で親友への鼓舞(エール)を送りながら。

 

(さぁ、お膳立てはしてやったぜ。ブチかましてやれよ、彩歌!!)

 


 

 態々今までにない程の変装をしてまで真野陽彩と矢代詩音の両名がスクフェスの会場を訪れたのは、他でもない、彼らの身内たる彩歌のステージを見るためであった。

 

 尤も、それが主目的であるというだけで、他のステージには興味が無いというのではない。特に陽彩は彼自身の仕事内容もあって、元からスクールアイドルに関心はあったのだ。主に商売敵、或いはマーケティングの参考として、であるが。そもそも陽彩はプロデューサー以前に元アイドルであるが故に、”アイドル”というものに対して一種の拘りがあった。

 

 故に、直に観る事で陽彩は理解した。スクールアイドルとは、”アイドル”とはまた異なる存在なのだと。彼自身がアイドルであったから、その光輝に在る差異が分からぬ筈も無い。分かったからこそ、彼はこの1日を想定以上に楽しんでいた。有り体に言えば、彼もまた”スクールアイドル”の輝きに少なからず魅せられていたのだ。──そんな調子であったものだから、雨に気付いた時の動揺もまた一入であった。

 

 雨。またしても、雨! 彼の愛息が歩む道程に、いつだって雨は不吉の象徴として立ち現れてくる。そして災厄の雨天において、いつも陽彩は無力だ。今も彼はたったひとりの観客に過ぎず、できる事は何もない。どうか、どうか、と。絶念からの気休めめいて信じてもいない神に祈るだけが関の山だ。

 

「──おい、アレ……」

 

 果たしてそれを口にしたのは誰であったのか。あまりに呆気に取られた声音であったものだから陽彩も顔を上げてしまって、観客らの視線が一点で固定されている事に気付いた。そのままつられるように彼もまた瞳を辿り、そこにあった光景に思わず吐息を詰まらせた。

 

 だが、致し方ない反応であるのだろう。空は未だ分厚い無彩に覆われていて、乱打する雫は無力な人間を嘲笑するかのよう。色鮮やかなステージもこの薄暗がりにあってはむしろ虚しい程で、だがその中央に濡れ鼠な愛息がマイクも持たずに立っていたとなれば。

 


 

 ……その感覚を憶えている。冷え切った身体を激しい雨滴が打ちのめす残酷も、濡れそぼつ髪が顔に張り付く不快も、そして、遠巻きな人々からの奇異が肌を突き刺す倦厭も、全てが嫌に鮮明だ。あの時、彩歌は半死半生といった有様であったというのに。あまりに鮮烈な想起は彼の脳裏に未だ焼き付いて、離れてくれそうにない。幻覚こそ脱したけれど、恐らく彼は死ぬまでそのままなのだろう。

 

 地上を押し流すような雨滴の乱打が、耳朶の奥で反響する。人々は雨天に身を晒す彩歌に注意を遣ったまま、彼に聞こえないように何事かを囁いている。この小さな世界にあって彩歌は中心で、何より隔絶していた。その光景に、網膜の裏で昔日が残響する。照応する荒天は、いつかの再演だ。

 

 その冷酷が懐かしい。侵食する冷感が恨めしい。容赦のない降雨により体温が奪われていく感覚はまるで郷愁のようで、明確な”死”の気配だった。────だが、そんな絶対たる終局でさえ、彩歌に宿る”熱”は奪えない。

 

 前髪を搔き上げ、水を払う。立ち位置を確認し、己が所在を検める。その所作は無造作であるようで、同時に儀式めいてもいよう。そうしてついぞ手放すことができずポケットに忍ばせ続けていた母の形見たるシュシュの存在を確かめて、彩歌は笑声を漏らした。

 

 睥睨する。眼下には困惑する客席の人々。空はどこまでも暗く、鏡合わせの海もまた同様だ。

 

 もう抑えきれない。抑える必要などない。胸の裡で暴れ狂う熱量を放り投げるように、客席に向けて諸手を差し出した。

 

 いざ、やらいでか。

 

「これが俺の────再生(はじまり)の歌だ」

 

 その宣告と共に、世界が崩落する。集った諸人がそれを確信する程の壮絶であった。万象の極点を認めるに足るだけの自意識を残したまま、けれど全てが崩れて混ざる。絶対たる世界がその座を追われ、そうして出来た虚無の裡、混沌が収束していくようだ。故に、それは再誕にして再定義。空位の神に代わってヒトが新たな(のり)を敷く中に、彼らは極限の熱量を垣間見る。

 

 極点の一(ビッグバン)

 そして、創世の熱(インフレーション)

 即ち────其は、真野彩歌という宇宙(いのち)の始まり。

 

 生と死。欣幸と銷魂。愛情と憎悪。真実と幻想。現と夢。希望と絶望。あらゆる両儀が流転しては溶けて混ざり、そして再び生まれゆく。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。ならば、その根源たるは太極に相違なく。この新生において、それは真野彩歌以外に在り得ない。

 

 無論、それらは全て錯覚だ。余す所なく幻想だ。この場は東京のお台場に他ならず、世界は変わらず此処に在る。だが在り得ざる幻を確とするだけの力が、少年の舞台にはあった。あらゆる防備を引き剝がし、剝き出しになった魂の輪郭(カタチ)。偽らざるありのままを、存在の躍動として放つ。感情も、熱も、遍くを分け隔てなく。ピアノもアイドルも変わりない。それだけが、彩歌に可能な唯一。

 

 故にその歌声は(こころ)咆哮(さけび)であり、駆動する五体は精神(キモチ)波動(ねいろ)。矛盾する己をその矛盾ごと押し出し、真野彩歌という土台の上で合一したそれらが比類なき熱量を生む。いっそ暴虐めいた光輝が、地に満ちていく。光を失った三千世界の裡、それは無彩を祓う新たな光だ。

 

 虚飾を許さぬ舞台(せかい)の中、諸人は否が応にも理解する。ともすれば無造作ですらある、これは祝福の音色。己が内包する全てを否定せず、ただ〝在る〟事を認め、肯定する極彩色の躍動。詰まる所、それは“真野彩歌”そのものだ。拓かれた宇宙の裡で燦然と輝くひとつの(いのち)だ。

 

 それが齎す凄烈の前にあっては最早時間すらも曖昧模糊としていて、甚だしい熱量に意識が混濁するようだ。そんな在り様だったせいだろうか、歌声の残響が()()に解けきるまで、世界が正しい容を取り戻した事に彩歌自身ですら気づかなかった。

 

 けれど、不意の日差しに目が眩む。地面から立ち昇るジェオスミンの匂いが鼻腔を突く。間隙は須臾であったか、或いはより長かったのか。それすらも判然としない中で、誰かが呟いた。

 

「通り雨、だったのか……?」

 

 恐らくは、それが真実。自儘に巡る自然の因果など、人間ひとりにどうにかできるものではない。何しろ元より予報に反して発生しただけの夕立だ。俄かに生まれ、そして矢庭に去っていく。それが在るべき形。それが絶対の理。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 しかし────。

 

 観客の視線が、彩歌に集中する。乾坤一擲以上の力を1曲に込めたが為に酸欠に陥り、朦朧とする意識であっても、それだけは実感できた。皆が、彩歌の言葉を待っている。幻想の終止符を歓待している。ならば、それに応えねばなるまい。

 

 大きく息を吸い込むと、少しだけ思考が鮮明になった。曖昧と化していた思考が精彩を取り戻し、内側から激情が噴き出してくる。それに抗わずに口の端に笑みを浮かべながら、彩歌は天高く拳を突き上げた。天頂に咲いた虹の架け橋に、己が(こえ)を届けるように。

 

()()()()()()()()()()()()()()──真野彩歌ッ! 曲は〝福音彩景〟! でしたッ!!」

 

 この雨は、きっと只の夕立。自儘に巡る自然の暴威を前にして人間はあまりにも無力で、無慈悲な黒雲は今頃海を弄んでいることだろう。この瞬間に雨が止んだのは、ただの偶然。或いは天文学的な巡り合わせ。この結果に、ヒトの力は一片とて介在の余地は無い。

 

 けれど、舞台の上で未だ巨星が光っている。エンジェル・ラダーの降りる天へと拳を掲げ、己が存在を主張するかのように。幻想が終焉を迎えてもなお確としたその姿に、人々は理屈を超えた直感を共有していた。この結果はただの偶然。そんな真理など、この場にあっては意味を持たない。逆境に抗うヒトがその光輝を以て手繰り寄せた、いっそ都合が良すぎるまでの因果を何と形容するかを、彼らは既に知っているから。───奇跡。たとえ陳腐な感慨だとしても、観客は一様にそれを確信する。

 

 不可抗の理不尽によって無彩に塗り潰された舞台(せかい)に立ち、以て闇を祓ってみせたその姿。矛盾する己の全存在が秘めた質量を解き放ち、比類なき熱量が生む福音(ひかり)で地上に色彩を与えた星芒。その在り様に、諸人は心底より熱狂する。

 

 雨上がりに轟く喝采の万雷。再誕を祝福する不協なれど甘美な音色に、少年は浴する。夕空を彩る虹を見上げ、誰に届けるでもなく独り、思いを零して。

 

「少しは俺も、キミに追いつけたかな……せつ菜さん」

 

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