舞台は終わり、世界は元の容を取り戻した。最早その絶対性を揺るがすものは存在を許されず、此処に在るのは冷厳な現実のみ。幻想が閉じてしまえば1柱の偶像は無力な人間に立ち戻るしかなく、それは彩歌とて例外ではない。彼は何ら特別なものの無い只のヒトでしかないのだから。
ならば或いは、それはある種の罰であるのだろうか。在るべき法則を歪め、生まれた空白を自らの夢幻で以て染め上げた罰だ。揺り戻しと言っても良いだろう。共に雨に濡れ果てた観客たちの拍手に見送られて舞台を降りたその刹那、緊張の糸が途切れるのが手に取るように分かった。同時に責を切ったように粘性の疲労が立ち現れ、空洞の體を満たしてしまう。
そうなってしまえば最早立っている事すら難しく、彩歌の意に反して不意に彼の身体が頽れる。だが、その膝が床に打ち付けられる事は無かった。片腕を掴まれ、それを支点に吊られている。朧げな意識の中でそれを認めた彩歌がゆっくりと振り返ってみれば、そこにいたのは大雅であった。這う這うの体といった状態の親友を前にして、気遣うように苦笑している。
「気ィ付けろよ。折角やりきったってのに、ガス欠で怪我したんじゃ笑い話にもならねぇ」
「あぁ……まったくだね。ありがとう、大雅」
常ならば皮肉めいた軽口に対して同様に軽妙な応答もできたのだろうが、今は素直に受け入れるばかりだ。それだけ消耗しているという事なのだろう。先刻までは星光が如く煌めいていた瞳は茫洋として覚束ず、言葉には荒い吐息が混じる。それで肩で息をしているものだから、今の彩歌は傍目には半死半生の病人とそう大差ない。
だが、それも致し方ない事ではあるのだろう。ただ雨に打たれていたというだけならばいざ知らず、その状態で限界以上の力を出し続けていたのだから。己が全力を以て命を燃やし尽くすような光輝を放ち、ならば後に残されるのは文字通りの出涸らしだ。現状、彩歌の身体は
そうして親友の助けを借りて歩く彩歌を、スタッフ達が見ている。その目は一様に心配の色を浮かべているけれど、その奥に彼は見て取った。光の残滓めいたそれは、紛れもなく先の舞台によるそれ。彼のパフォーマンスの最中に客席の人々が宿していたそれと、全く同質のものだ。乱れた意識の裡、一種の確信にも近しい感覚であった。
故に、彩歌の口の端に笑みが浮かんだのは半ば当然の事。伽藍と化した総身にあってもなお未だ燃える身を焦がすような残火のまま、それは半死人には似つかわしくない獰猛だった。
「大雅……」
「あ?」
「やっぱり……最高だね。ステージに立つっていうのはさ……!」
「はッ。そーかよ。オレにゃ分かんねー感覚だが……そう思うなら、まずは持久力くらい付けとけ。折角体力だけはあるんだから。次死にそうになっても、オレは助けてやんねーぞ」
違いない。大雅の憎まれ口にそう返し、彩歌は自嘲する。今回は特殊な事例であったとはいえ、毎回1曲を歌い終える度に半死半生になっていたのではあまりに情けなさ過ぎる。周囲に面倒をかけてしまうし、何より舞台上からの景色を短時間しか味わえないのは、あまりに勿体ない。そう思ってしまう程、彼はその光景に魅せられていた。
今もまだ耳に残っている、万雷の喝采。瞼の裏には観客たちの笑顔が焼き付いて、目を閉じるだけでも意識が過去に遡ってしまうようだ。集まった人々が皆笑顔を咲かせるその光景はいつかのコンクールと同じ、彩歌の夢の具現であった。
だが、何も今回の景色だけに拘る必要はないのだ。蔑ろにするというのではない。この気持ちを抱えたまま、先へ進めばいい。今度はもっと、皆を笑顔にするために。一度叶えたとて、夢はまだ終わらない。むしろもっと貪欲になるようですらある。それは彩歌にとって、生きる理由にすら等しく感じられた。
そのためにも、今は身体を休めなければ。学内のシャワーを借りて汗と雨を流し、来るせつ菜たちのステージに備える。だがそのためにはまず満足に歩くだけの体力が必要で、大雅は彩歌の身体を手近な椅子に放り投げた。手荒ながら確かな気遣いを感じるそれに、礼を投げる彩歌。直後、馴染みのある声が彼の耳朶に触れた。ずっと待っていたかのようにすら感じる声であった。
「彩歌くんっ!」
「──! やぁ、せつ菜さん、皆」
果たしてその声の主とはせつ菜を初めとした、スクールアイドル同好会の面々であった。次のパフォーマンスに備えてだろうか、侑を除く全員がそれぞれの衣装に着替えている。その表情が笑顔のような、或いは心配のようなそれであるのは、或いは今の彼を見ての事であろうか。
だから彩歌も、せめて笑ってみせる。虚勢ではなく、今できる精一杯として。丁度、それなりに体力も戻ってきた所であったから。やってやったぞと誇る気持ちと、どうだっただろうかと期待する気持ち。それは両者が綯い交ぜになった、幼童のような笑顔であった。
けれどそれに応えを返す事無く、せつ菜が駆け寄ってくる。そのまま速度を緩める気配もなかったものだから彩歌も慌てて、だがそれを回避する手段も必要性も、彼には無い。飛びつくような抱擁を、彼は正面から受け入れた。露出が多いものだから必然的に彩歌の手は素肌に触れてしまうけれど、それに気を遣る余裕は彼らにはない。それすら些事となってしまうだけの感情が、胸の裡で渦を巻いていた。
「せつ菜さん、皆見て──」
「──最高のライブでしたっ! 彩歌くん!」
彩歌が苦し紛れの反駁を口にするよりも早く、それは激情の発露であった。抱擁もまた等しく、故に彩歌は口を噤む。照れ隠しであるのだとしても、最早この場にあって反駁はむしろ無粋に過ぎる。より強まった懐抱に応えるようにせつ菜の麗しい黒髪を手で梳いたのは、その代わりであった。──視界の端で硬直する副会長に、今だけは見ないふりをする。
互いの衣装越しに密着する胸板からは鼓動が伝わるようで、それに合わせて熱が広がっていく。冷気に凍結する身体を温める生命の息吹だ。冷酷の縛鎖に戒められた空洞の躯体を解き放つ存在の波動だ。その感覚に、無彩の五体が色彩を取り戻していくような心地であった。
最高だった、と。せつ菜の言葉はそれだけであり、だが彩歌にはそれでも十分に過ぎる。その一言はきっと、彼女の万感から零れたそれであるから。彼女の胸中で暴れる感情の総てがそこには詰まっていて、それを分からぬ彩歌ではない。だから、彼が返すのもただ一言だけだ。夜空のような漆黒の双眸を正面から見据え、それを口にする。
「ありがとう、せつ菜さん」
「えへへ。はい!」
彩歌がただ一言だけでせつ菜の思いを受け取ったのなら、その逆もまた然り。彼の感謝はあまりにも純粋で、故にこそ、せつ菜は破顔する。優木せつ菜の前において、彩歌はもう嘘を吐かない。その約束を彼は破らない。それを疑うせつ菜ではないけれど、彼がそのように在る事に彼女は喜びを覚えていた。
そうして、彩歌は理解する。せつ菜が”優木せつ菜”として再誕を遂げたあの夕景、侑から愛を告げられた彼女もきっと、こんな気持ちだったのだろう。様々な感情が胸の裡で渦を巻いて言葉にできなくて、けれど伝えたいから全てを一言に凝縮する。本当の万感とは、きっと何と評しても言い表しきれぬものなのだろう。それでも、口にしなければ伝わらないから。だから言葉にするのだ。
そうして交わされる思惟はまるでふたりだけの世界のよう。けれど嘗てのせつ菜がそうであったように彩歌もまた彼らのためだけに歌った訳ではなく、そしてこの場にいるのもふたりだけではない。故に、夢想を断ち割る声があるのもまた必然だ。
「いやぁ、相変わらずラブラブですなぁ……」
「かすみん、もうツッコむ気も失せてきましたよ……」
「ラブっ……!?」
駆け出したせつ菜の後に続くようにして来たのだろう、同好会の面々が彼らを見る目は微笑ましいものを見るような、或いは呆れのような、そんな中庸だ。予め想定できた反応ではあるけれど感情に任せてしまったものだから今更になって気づいて、ふたりが顔を赤くする。
だが決してかすみ達も咎めている訳ではないのだ。むしろ彼女らも好意的ではあるけれど、ふたりがあまりにも毎回明け透けなものだから。それに、彼女らだってライブの感想を言いたかったのだ。それを抜け駆けされてしまったのだから、呆れが混じるのも当然だろう。
誤魔化すように咳払いをして、いそいそと彩歌から離れるせつ菜。だが今更だ。仲間たちの視線は揶揄うかのようで、けれど今更と言うならばそれもまた同じ。傍から見れば日々の練習でも互いに好意を隠していないようにしか見えていないのだから、その延長線上でしかない。
彩歌の肩に手を置いて明朗に笑む侑と、未だ頬の赤みが引かぬ顔でそれでも応えてみせる彩歌。何も言わずとも皆、気持ちはせつ菜と同じであるのだと。侑は目だけでそう語っていて、そうして彼女はかすみと頷き合った。侑の合図を受けたかすみが一歩前に踏み出し、仲間たちを見回す。
「よーし、皆さん! 彩歌先輩に負けていられませんよー!! かすみん達も、パワー全開で会場を夢中にさせちゃいましょー!!」
「おー!!」
かすみの鬨に応えるように拳を突き上げ、咆哮を呼応させる。その声音に覇気が充溢しているように感じたのは、決して彩歌の気のせいなどではないだろう。何も皆、彩歌のライブに感動していたばかりではないのだ。彼ら彼女らは仲間であると同時に、好敵手でもあるのだから。相手が全力を尽くしたのならば、自らもまた全力を尽くす。それこそが好敵手への礼儀でもあるが故に、情熱は輪をかけて燃え滾っていた。
その光景を前にして、歓喜で打ち震えるのを彩歌は自覚する。ともすれば賞賛の言葉を貰った時と同等か、それ以上に。彼女らの熱意の充溢は、詰まる所それだけ彩歌の舞台が影響を与えたという事なのだ。彼もまた好敵手であると自認するが故に、その事実が嬉しい。
だがそれに続く視線は彼にとって全く予想外であった。かすみの、何かを期待するような瞳だ。期待しているならば、素直に言えば良いのに。呆れのようにそう思いながらも、彼の口の端は綻んでいる。期待される事は嫌いではない。それが出涸らしの子ではなく真野彩歌に対するものならば。その点において、かすみらには疑いの余地すらない。
けれど期待されてはいても、彩歌から彼女らに言うべき事はそう多くない。そもそも彼は未だ彼女らに追いつけたとは思っていないのだ。そんな人間が下手な事を言ってしまえば、それは白々しくもなろう。これは同好会からの心証ではなく、彼自身の自認の問題だ。
故に、言うべきはひとつだけ。椅子から立ち上がると、ようやく真っ当に立つ事ができた。せつ菜に倣って片手の拳を突き出し、勝気に笑んでみせる。挑発のように。或いは、鼓舞のように。
「魅せてきなよ、スクールアイドル!!」
声音は発揚に。それと共に突き出していた拳を解き、頭上へと掲げた。それだけの仕草で、せつ菜らは彩歌の意図する所を悟る。以前彼自身がそうしてもらったように、今度は彼からも。直接背中を押すでもなく、さりとて共に舞台に立つのでもなく、それは彼に可能な最大限のエールであった。
だからせつ菜らもそれに応え、ひとりひとり掌を打ち合わせていく。全国大会の朝、貰った熱をただ返すだけではない。その全てに、彩歌自身の熱を上乗せして。誰かから恩を貰って、そして今度は貰ったものを返す。等価交換ではなく、自らの気持ちを乗せて返すのだ。その相克の裡に人の生がある。この場にあっても、己の確信に彼は疑いを挟まない。
そうして手を合わせること、都度九度。舞台袖の陰に隠れて見えなくなるまで手を振る仲間たちに彼もまた最後まで手を振り返して、だから残された静寂が少しだけ物寂しい。自らの掌を見下ろしてから視線を上げると、侑と目が合った。彼の内心を見抜いたのか、揶揄うような光がその緑翠色の瞳にはあった。
「私ともやっとく? さいちゃん」
「ん、いいのかい? じゃあお言葉に甘えて」
侑は舞台に上がる訳ではないだろう、だとか。彩歌と同じで今は送り出す側だろう、だとか。そんな言葉は無粋だろう。そも彩歌から見れば、侑とてスクールアイドルだ。ただ舞台上でパフォーマンスをしないというだけで。口にすればきっと彼女は否定するだろうから、今は告げる事はしないけれど。
悪戯な笑みで侑とも掌を打ち合わせて、これで十。そのまま、ふたりとも踵を返す。侑は客席へ。彩歌は控室へ。着替えだけではなく彼は雨と汗も流さなければならない。少しばかり仲間たちのパフォーマンスを見られない事は心苦しくはあるけれど、身なりを整えないまま無理して観るのはむしろ失礼というものだ。
だがその前に、せめて礼は告げなければ。舞台に上がっていたから彩歌は連絡を聞けなかったが、状況を見れば副会長が学校側との交渉を成功させたのは明らかだ。学校行事中における個人アカウントを通した無断配信が途中で止められなかった事も、或いは彼女の交渉によるものだろうか。ならばそのまま素通りするというのは、あまりに非礼でありすぎる。
故にそのまま、彩歌は副会長の許へ。未だ声も出さずに戦慄いたまま、様子がおかしい事は気になるけれどそれはそれ。深々と頭を下げる。
「ありがとう、副会長。キミに助けられ──」
「──ま」
「……ま?」
ま。それに続くのは、何だというのか。思わず顔を上げて首を傾げてしまった彩歌に、直後、副会長が掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。あまりに予想外。この上ない想定外。凄まじい瞬発力と鬼気迫る表情に、彩歌がたじろいでしまう。
もしかして何かしてしまっただろうか。副会長の不興を買うような事は、した覚えもないけれど。そんな彩歌の動揺など頓着するような様子もなく───副会長が、問いを放った。
「真野さんは会長とせつ菜ちゃん、どっちが好きなんですかっ!?」
「───はい?」
彩歌は知らない。よもや副会長がせつ菜の
「いやぁ、思ったよりも長くかかってしまった……」
同好会の面々が壇上に上がって、暫く。着替え等を済ませた彩歌が客席の関係者エリアに現れたのは、
先までの演目によるものか、侑は遠目にも興奮しているのが見て取れる。その勢いたるや、許されるならば9本のペンライトを振り回していそうな程だ。人体の構造上不可能であると分かってはいても、それを予感させるだけの気勢が侑にはある。
そんな微笑ましい姿に表情が綻ぶのを自覚しながら、彩歌は侑の隣へ。そうしてようやく侑も彩歌が来た事に気付いたようで、頬を膨らませた。
「あっ、さいちゃん! もう、遅いよっ! ホント、凄かったんだから、皆のステージ! ……というか、どうしたの? なんかすごく疲れてるけど……大丈夫?」
「え? あぁ……ダイジョブダイジョブ。ちょっと、宥めるのに苦労したってだけだから……」
あまりにも要領を得ない回答だ。侑が首を傾げたのも当然で、だが彩歌は気づいてはいてもそれ以上を答えない。あえて答える必要も無い。侑を軽んじるのではなく、正確に答えるのが憚られるというだけの事ではあるが。せつ菜の正体を知らない副会長の前であの遣り取りを見せてしまったから質問攻めに遭っていた、などと。説明するのも面倒であった。
迂闊だったと反省すると共に、普段の自身を顧みて彩歌が自嘲する。初め、副会長はせつ菜と共に菜々の名を挙げた。せつ菜に関しては目の前で抱擁していたのだから自然であるが、菜々までもをだ。それはつまり、彼が普段の態度からして菜々への気持ちを隠しきれていなかったという事ではないか。当然の自省であった。
そう思うとあれもこれもと普段の己が脳裏を過って、羞恥で頭を掻き毟りたくなる思いであった。人前でそれはみっともないと自制できるだけの冷静さが残っているのが今はかえって恨めしく、だがそのお陰で擬態できていると考えれば彩歌は自らの理性に感謝するべきなのだろう。
彩歌が独りで悶々としているうちに、ステージに再び光が灯る。湧きあがった歓声に迎えられるようにして現れたのは、同好会の9人。
「あっ、来た! みんなー!」
これまでも散々とはしゃいでいただろうに未だ体力が有り余っているのか、はたまた疲労を忘れているだけなのか。両手に握ったペンライトの色を短い、しかし周囲の迷惑にはならない程度のスパンで切り替えながら、侑が声をあげる。対して彩歌のペンライトは紅一色だ。同志としてではなくファンとして客席にいるのなら、これ以外に在り得ない。それは己の心に正直になった結果であった。
だが果たして、今ここにいながらも彩歌は完全な観客と言えるのかどうか。9人が定位置に立ち、スピーカーが駆動する。同時に、侑は何かに気付いたようであった。──BGMが予定と違う。だが壇上では特に戸惑う様子も無く、MCが始まる。
──虹ヶ咲スクールアイドル同好会は何も、発足から今までを順風満帆で歩んできた訳ではない。むしろその道程には困難ばかりで、だからこそ今がある。ソロアイドルという形式だって、その困難を乗り越えた先の回答だ。ひとりひとりがやりたい夢を叶えるために、この在り方を選んだ。
だがその在り方とは何も、孤独を示すものではない。独りで夢を追う事は決して簡単ではなくて、挫けそうになる度に誰かが背中を押して、支え合ってここまで来た。スクールアイドルフェスティバルは、夢の結実でもあった。
そこまでの歩みの大半に、彩歌の姿はない。彼は今でこそ仲間であるけれど、彼女らの足跡にその影は殆ど現れない。けれど、同じだ。彼だって夢を追って、その中で数えきれない程の人々に支えられてきた。そしてきっとそれは、この会場に集った人々皆がそうなのだ。誰かを支えて、誰かに支えられて、歩み続ける。その相克たる歩調をこそ、人は生命と呼ぶ。
故に───。
歩夢が一歩前に出る。その瞳が彩歌の隣、侑へと向けられたのは、決して彼の気のせいではないだろう。
「これからも、躓きそうになるコトはあると思うけど……あなたが私を支えてくれたように、あなたには、私がいる!」
侑はこれまで、多くの人の夢を支えてきた。幼馴染である歩夢は言うに及ばず、同好会の全員がそうだ。無論、彩歌だって。彼が名実共に所属になったのはつい最近の事だったけれど、侑との関わりはそれ以前からある。その笑顔と言葉にどれだけ救われていたか、きっと表しきる事はできまい。
彩歌は今、舞台の上にはいない。けれど、気持ちは同じだ。だから、でき得る限りを尽くした。侑が作った楽譜を元に音源に起こし、メンバーの詩を乗せたのもそのひとつ。
壇上から差し出される掌。侑が息を呑んだのが、見るまでもなく彩歌には分かった。
「この思いはひとつ! だから、全員で歌います!」
───”あなた”のための歌を!!
刹那、世界が拓いた。濡羽色に沈む街の中、それはさながら虹の如く。夜の闇に咲いた、9色の虹霓だ。思いはひとつ。その言葉に違わず総力たる全身全霊を以てひとつの曲に己が全てを込めながら、されど混ざらず、少女らの色は褪せず、夜空へと伸びていく。ならばそれを形容する言葉は”虹”以外にあるまい。その色彩は、彼女らの在り方そのものだ。
歌声は万象に語り掛けるようで、そして高らかに。躍動は一挙手一投足に至るまでが乾坤一擲。それらは輝きの中で合一し、比類なき思いの質量を以て広がっていく。その熱量を前にして、万物の存在基盤たる世界すらも少女らを礼賛する。その在り方は、ともすれば9柱の女神のようだ。
歌よ、轟け。虹よ、咲き誇れ。夢よ、煌めけ。三千世界の悉くに、届けたい人々に、この声が届くように。この気持ちが、皆の心に届くように。その一念を旨に女神たちは躍り、故にこそ人はその光輝に魅せられる。剝き出しの魂が放つ躍動に心を躍らせるのだ。
故にその中で、人々は理解する。この歌は彼女らの在り方そのものであり、そしてエールなのだと。彼女らもまた己が夢を追うからこそ、夢の在処を認め、邁進する事を肯定する。それこそが命の所在であると信じているから。支えて、支えられて、背中を押しては押されて。そうして未来へと進んでいく。恐怖を否定するのではなくその存在を許し、けれど前に進んでいく。なれば、それは勇気を言うが相応しい。夢と勇気の賛歌。それこそがこの歌──〝夢がここからはじまるよ〟なのだ。あらゆる防備をかなぐり捨てた心で、人々は、侑は、それに魅せられる。
最早、時間の感覚に意味は無い。やがて女神たちの歌声が止み、その残滓が虹霓の裡に溶けていくまで諸人はまるで夢幻の裡に揺蕩っているかのようですらあった。熱は未だ冷めず、だがユメは有限であればこそ。ユメは終わり、そうして人は夢に戻っていく。自らの足で夢を歩み、そして叶えるために。
いつの間にか、壇上には同好会のメンバー達だけではなく東雲学院や藤黄学園、スクフェスの参加メンバーほとんど全員が集っていた。彩歌は侑に背中を押され、だが彼はその手を掴んで共に舞台へ引き上げる。侑はステージで躍るスクールアイドルではないけれど、スクフェスの発起人なのだ。ならば、今だけは彼女こそ壇上にいなければ。
そうして初めて舞台へと昇り、侑は見る。スクフェスに集った観客たちの顔を。彼女と同じくスクールアイドルに魅せられた人々の表情を。その光景に腹の底から歓喜が立ち現れてくる心地であり、だから、言うべき事は決まっていた。壇上の皆で手を繋ぎ、そして叫ぶ。
「スクールアイドルフェスティバル!! でしたッ!!」
閉幕の宣言。それと共に侑たちは深々と礼をして、観客たちは拍手を贈る。その礼賛を満身に浴びながら、侑は目尻に涙を湛えながら笑んだ。
(あぁ……やって、よかった……!)
スクフェスが閉幕を迎え、一応の片付けを終えて解散時間を迎えた頃には、既に空は星の海であった。都会の不夜城が放つ光によるものか星彩はひどく疎らだが、そこに寂寞は無い。彼らは今日、それに勝るだけの星を見ていたのだから。地上に咲いた、スクールアイドルという名の輝きを。
無論、閉幕してから今までの間に全ての撤収が済んだ訳ではない。今日のうちにできたのは精々が公共の交通に影響が出ない程度に片付ける程度で、本格的な撤収作業は明日から行う事になっている。或いはそれは、今日ばかりは余韻に浸ることを許す学校側からの配慮でもあるのだろうか。
海から吹き付ける潮風はこの熱帯夜にあってもなお、火照った身体に心地良い。いかに都心に面しているとはいえ、地上に比べて温度変化に乏しいのは東京湾とて変わりないのだ。夢想の熱に沸騰した思考を冷却するには好都合で、酩酊は抜けない。
水平もまた既に
「終わっちゃいましたね、スクールアイドルフェスティバル」
唐突な声であった。だが、彩歌に動揺は見えない。既に街は闇に沈んで久しいのだから元より彩歌と声の主──せつ菜は校門前の渚で落ち合うと約束していたのはあるが、タイミングまでは指定していなかった。せつ菜には生徒会長としての仕事もあるからだ。けれど彩歌が驚かなかったのは、ある種の予感めいた感覚があったからだった。
あまりにも
呼びかけに応えて彩歌が振り返るより早く、せつ菜が彼の隣に並んだ。彼女もまた柵に体重を預けて、横並びで虚空の海原を眺める。その暗黒に、せつ菜は何を見出しているのだろうか。それを知る術は彩歌に無く、彼はただ応えるのみ。
「そうだね、終わってしまった。楽しくて、賑やかで……まるで、ユメのような時間だった」
「でも、絶対にユメなんかじゃありません! だって、思い出はちゃんと
せつ菜の弾むような声音に、微笑と首肯で以て応える彩歌。せつ菜の言に、彩歌は否を差し挟まない。客観的事実があるが故ではない。彼もまた己が胸の裡に残留する熱と記憶のために、彼女の思いを肯定したのだ。この記憶がユメであるのなら、これほど熱くなる筈がない。心地の良い酩酊に揺蕩う筈がないのだ、と。
せつ菜がそうであるように、彩歌もまた今も目を閉じれば容易に思い出す事ができる。今日という日、ステージの上から見た景色を。彼自身だけではなく観客たちもまた雨に濡れながら、それでもなお満開の笑顔であった人々を。その度に、たまらない熱量が彼の裡を焦がすのだ。それは文字通り、存在への欲動だった。
そんな彩歌の内心を見て取ったのだろうか、彩歌の左手にせつ菜の右手が重ねられた。快活な笑顔に、照れ隠しめいたはにかみを以て返す。らしくもなく逸っている。それを認識するが故であり、だがそれさえせつ菜にはお見通しだ。
「彩歌くんもすっかり、スクールアイドルですねっ」
「そう、なのかな? ……いや、そうなのかも知れない。俺はもう、ステージの上から見える景色の味を知ってしまったんだから」
自覚する。ステージ上で躍動する彩歌の光輝に観客たちが魅せられたように、彩歌もまた壇上からの景色に魅せられたのだ。今もなお彼の総身の裡で猛る熱量はその証明に他ならない。ステージから見える観客の笑顔と、会場全体を包む一体感。それらの合一たる高揚は、この上ない快感であった。
いつの日か、自分の音楽で皆を笑顔にしたい。それは幼い頃から続く彩歌の夢であり、ならば先の景色はその結実だ。ピアノコンクール全国大会とスクールアイドルフェスティバル、彼はこの短期間に二度もそれを味わった。彩歌の夢は、既に叶っているのだ。
それなのに、何故だろうか。とうに夢は叶っているというのに彩歌の胸中で激情は消えず、それどころかよりその存在を強めているようですらあった。既に叶えたけれど、まだ足りない。足りる筈がない。だから、これからも叶え続けていきたい。その情念が、彼の心臓を動かしている。確信めいた感覚に、彼が自嘲の笑みを浮かべた。
「困ったな。俺は、自分がこんなに強欲だって知らなかった。俺の夢はとっくに叶っているハズなのに……まだ叶えたいって、またステージに立ちたいって思ってる。俺、いつの間にか欲張りになっちゃったみたいだ」
「いいじゃないですか、欲張りでも。だって、それが生きてるってコトでしょう? きっと皆、
「フフ、そうだね。あぁ……そうだ。俺は今、生きてるんだ。だから、明日が欲しいんだ」
4年前の雨景から、真野彩歌はずっと半死人だった。心臓が鼓動し、血潮が巡ってはいても。その生は
けれど今、彩歌は生きている。世界には色彩が満ち、鼓動は明日を求めて逸っている。命は生命としての意味を取り戻し、だから真野彩歌という人間は在り続けるのだ。己という命を楽しみ、遍く生命を肯定するのだ。それこそが彼が得た己自身の意義であるから。
生きていればこそ、ヒトは明日を求める。彩歌はその意義を取り戻し、そしてせつ菜もまたこの意義に例外ではなく。触れ合う肌から伝わる体温が齎す希求は生徒会室にて寄り添い合った時のそれと同じであり、その事実を以てせつ菜は定義を追認した。───この日を以てこの感情に決着を付けるのだと、彼女は決めていた。
「ねぇ、彩歌くん。私……あなたに、ずっと伝えたかったコトがあるんです」
あぁ、言ってしまった。遂に言ってしまった。らしくもなく躊躇うような声音を自覚しながら、せつ菜は内心でそう零す。拍動はこれまでになく早くて、まるで心臓が頭蓋に移ってしまったかのようだ。夜では暗くて判じにくいけれど、きっと顔は紅潮しきっているに違いない。自ずとそう知れる程、彼女の身体は熱を放っていた。
そのせいだろうか、認識が遅延する。そのくせ時間は不確かで、いつの間にか横並びではなく向かい合う形になっている事にせつ菜は目が合ってから気づいた。街灯が作る朧気な白光の淵、漆黒と孔雀青はお互いを捉えて離さない。だがそんな曖昧な認識の中にあっても眼光の交感には不足なく、刹那、彼女はひとつの事実を了解する。
故に続きを阻むように微笑と共に彩歌の人差し指が唇に触れた時でさえ、せつ菜に驚愕はなかった。だが、せっかく覚悟したのに、と。不満を顕すように彼女は頬を膨らませて、そんな表情すら愛おしくて彩歌が笑声を零した。
「ふふ、ごめんよ。でも、それは俺から言わせて欲しい。ワガママかも知れないけど、そうでなければ俺はひとりの人間としてキミと向き合えない気がするんだ」
それは理不尽で一方的な物言いではあるのだろう。彩歌自身、それは分かっている。言葉にはしなかっただけで、互いの気持ちは既に分かっている。どちらから言い出そうとも、結果は変わらないのかも知れない。
だが、変わらないからこそ。今まで、彩歌は自らの気持ちにすら満足に向き合えていなかった。そんな当たり前の事すら、皆に支えられてしかできなかった。人間未満の半死人が、今までの彼だったから。
これは
最早躊躇いはない。息を吸うと、全身に酸素が満ちる気がした。触れ合った掌から伝わる体温は内実を伴い、これが現実だと知らしめている。その体感はこの上なく確かなもので、その全てを込めるようにして彼は心を言葉にする。
「───キミが好きだ、せつ菜さん。俺は、真野彩歌は、キミを愛している」
声音は厳然と。視線は小動もせず。それはともすれば少年にとってステージにすら等しい一世一代の勝負であり、そして、少女の答えは初めから決まっていた。
彼の身体を引き寄せるように、或いは自らの体重を預けるように、せつ菜が彩歌の背に腕を回す。それがあまりに唐突であったからか彩歌が声をあげて、だがそんな応えとは裏腹に対応は早かった。体勢を崩す事も無く少女の重みを受け留め、抱擁を返す。それは先のそれと同じようで、だが込められた意味はあまりにも異なる。
制服越しに感じる体温が心地良い。預け合う重みが愛おしい。早鐘を打つ鼓動は次第に同期していくようですらあって、ならば気持ちは同じ。けれど、人には言葉が必要だ。思っているだけでは不確かな事もあるから。故にこそ、人は言葉を交わす。思いの総てを相手に伝えるために。
「はい! 私も、大好きです! へへ、両想い、ですねっ!」
果たしてその感情は初めから会ったのか否か。あまりにも長すぎる時間がかかってしまった。出会いは偶然で、一度は分かれた彼らの道は再び交わり、そして”今”はその道が続く先。ならば嘗ての思いを再認する事を、彼らはしない。”今”と、その連続としての”未来”。それこそが彼らに与えられた全て。
そう、彼らの道はここで終わりではない。道は彼らの前に未だ続いていて、そしてその上を共に歩んでいく事を彼らは望み、選んだ。きっと、辿り得る道は他にもあったのだろう。ヒトの前には常にいくつもの道があり、彼らはそれを選び、辿りながら歩く。まるで迷路のように先は分からず、それでも歩くのはきっと、その先に願ったものがあるのだと信じているからだ。
故に、彼らは選んだ。ならば後は歩くのみ。
充足する歓喜のままに緩んだ口元を隠すように彩歌の胸板に額を押し付けて、幾許か。彼の腕の中に在るまま、せつ菜が顔を上げた。
「そうだ、彩歌くん。私からもひとつ、ワガママを言ってもいいですか?」
「勿論。俺だってワガママを聞いてもらったんだ。なら、キミのワガママにも応えないと」
まるで取引めいた言い様だ。ともすれば冷淡とさえ受け取られてしまうような。だがそれは彩歌なりの誠実であるとせつ菜は知っていて、故に不満は抱かない。だが、言質は取った。彼に最早退路は無く、せつ菜の要望を受け入れる他に道はない。尤も、それはせつ菜とて同じだけれど。
なら、と。悪戯な笑みでせつ菜は言葉を続ける。
「これからは、私のコトも呼び捨てで呼んでくださいねっ、彩歌くん?」
「それがキミの望みなら。……というか、そんなコトでいいのかい? 俺はてっきり……」
「そんなコト、なんかじゃありません! ずっと羨ましかったんですから!」
抱擁を解いて彩歌の腕から脱しながら、せつ菜は大袈裟に怒ったふりをしてみせる。そっぽを向いて、腕を組みながら。誰がどう見てもあえて過大に振る舞っているのは明らかであったが、それでも不満は事実。ごめんよ、と彩歌が平謝りしたのはそれを知るが故だ。
ずっと大雅が羨ましかった。その事実を、せつ菜は認めよう。ピアノコンクール地区大会の日、彩歌が隠していた事実の全てを知っていた大雅にせつ菜が懐いた感情とは詰まる所、嫉妬であったのだ。好意を自覚し、道程の帯同を決意すればこそ、せつ菜にとってそれは明らかであった。
極めて個人的な欲動。不必要な欲求。ならばそれはワガママに他ならず、だがそれの内包する自儘な気配とは裏腹にふたりの間には闊達の様があった。何しろ互いに帯同を望み、決意したのだから。ワガママを口にして、言われて。受け入れて、受け入れられて。最早そんな当たり前すら、彼らには愛おしく思えた。
底の見えないその感慨に、思わず浮足立ってしまう。これまで続いてきたこれまでの”いつも通り”と、これから歩んでいく新しい”いつも通り”。それはきっと少しずつ違っていて、いつだって変化を続けていくのだろう。未来はいつだって不確かで、夢の行く末すら彼らには未だ見えない。夢の羅針に確実の二文字は在り得ず、だが今、せつ菜の胸を満たしているのは紛れもない希望であった。
たとえ不確かな未来であっても、皆となら。ふたりでなら。夢はいつだって輝きを放っている。そんな確信が、せつ菜にはあった。
「えへへ、改めて、これからもよろしくお願いしますね、彩歌くん!」
「あぁ、こちらこそよろしく。───
差し出された左手に、自らの右手を重ねる。強く握り合ったこの手を、もう二度と離さない。それは彩歌にとって、新たな夢にも等しい決意であった。
次回、