部活の朝練を終え、所属しているクラスの教室に入る。SHRも近いからか、生徒は殆ど全員が揃っていて、皆銘々に過ごしている。高校生という年頃は比較的に男女別にグループが形成されがちなきらいがあるというが大雅が所属するクラスは全員ある程度仲が良く、また彼自身が社交的な性格であることもあってそれなりの数の生徒が彼へと挨拶を投げた。彼もまた挨拶を返し、席に着く。彼の席は窓際の一番前だ。
いつもであれば即座にその日の授業の予習か昨日の復習に入る所であるが、この日、大雅が鞄から取り出したのはスマホとイヤホンだ。端子を接続し、スピーカー部を耳に突っ込んでから動画投稿サイトを呼び出す。真っ先に表示された
イヤホンから流れ出す、初めて聴く歌。小さな画面の中では深紅の衣装を纏った少女が踊っている。全てが合一し少女の存在から放たれる不可視の輝きは、見る者の悉くに存在を刻み付けんばかりだ。成る程これは魅せられるのも納得できる、と大雅は内心で独り言ちる。だがそんな内心とは裏腹に大雅の瞳の奥では知性の光が瞬いていた。思考回路が高速で駆動しているのだ。しかしそれを打ち切りイヤホンを外したのとほぼ同時、彼の耳朶を打つ声があった。
「ねぇねぇ!」
「ん?」
直前までイヤホンを付けていたため接近に気付いていなかったのだろうか、間抜けな声を漏らしてしまう大雅。振り返ってみれば、そこにいたのはひとりの女子生徒であった。
大きな緑翠色の瞳と緑がかった黒髪のツインテールが印象的な、比較的小柄な少女である。名前は〝高咲侑〟。大雅も話した事はあるが特筆して仲が良くも悪くもない、極々普通のクラスメイト同士といった間柄であった。
そんな少女が振り返って目と鼻の先にいたのだから、大雅の驚愕も
「あっ、ゴメン! ビックリさせちゃったかな?」
「いや、気にしないでくれ。気付かなかったオレもオレだ。
で……何の用なんだ、高咲?」
話しかけられた際の侑との距離が近すぎたのも確かだが、それも大雅がもっと周囲に注意を払っていれば容易に気付けたのも事実である。反省反省、と内心で呟き居住まいを正す大雅。そんな大雅に、侑は大きな瞳を爛々と輝かせながら少々食い込み気味に問いを放つ。
「大雅くん、さっき観てたの昨日のせつ菜ちゃんのライブだよね!? もしかして、キミもせつ菜ちゃんのファン?!」
「え、いやオレは──」
別にファンってワケじゃない。大雅がそう答えるよりも早く、侑は興奮気味にせつ菜について捲し立てている。それ自体は大雅にとって不快でも何でもなくむしろ他人が笑顔で好きなものについて語る姿は彼にとって好ましいものではあるが、これでは話ができない。徐々に接近してきた鼻先を大雅が摘まむと、侑がふがっと息を洩らした。
「落ち着け。あと近い」
「タハハ……ゴメンゴメン」
半ば呆れた様子の大雅に諫められ、はにかみながら後ろ髪を掻く侑。大雅はそんなクラスメイトの様子を頬杖を突きながら横目で見ているが、その表情はどこか楽しげだ。少なくとも彼にとって、誰かが楽しそうにしていると言うのは快でこそあれ不快ではないのだ。加えて言うのならば、相手にそういうつもりが毛頭ないのに接近でドギマギする程、彼は初心でもないつもりであった。実際、彼は自身のパーソナルスペースに踏み入った侑のマシンガントークに遭ってもなお全くの平常心である。
「まったく……まぁ、高咲がせつ菜って娘がすげえ好きなんだなってのは、十分伝わったよ。けど悪いな、オレはアンタと語り合えるくらい知ってるワケじゃねぇんだ。今だって、前にダチが話してんの偶々思い出したから観てただけで」
「友達?」
「そ。
侑と大雅の間で交わされた言葉はそのニュアンスこそ聊か異なるものであるようにも思えるが、友誼を結んだ相手という点では全く同じであろう。ただその友誼の程度が甚だしいというだけで。
とはいえ親友を自称するというのも奇妙ではあるが、少なくとも大雅は彩歌をそう思っているし、彩歌もそう思っていなければわざわざ大雅に弁当を作ってきたりはするまい。更に彼らの仲は一部の生徒から邪推されたりもしていて、そういう意味ではその仲の良さは自他共に認めるという表現が正しいとも言えよう。
尤も、そんな事は侑には関係のない事だし、わざわざ口にする程のものでもない。ダチはダチと、それだけで良いだろう。ひとつ息を吐き出し、大雅が侑の方へと向き直る。
「でも、アンタが夢中になるのも分かる気がするよ。なんつーか、すげぇ
「……! だよねだよね! 分かるなぁ……!」
比較的好意的と言える大雅の反応に喜びを漏らす侑。初めてせつ菜のライブを見た時の感動を思い出しているのだろうか、或いは同好の士と成り得る相手が現れた事に喜んでいるのか、
大雅は高咲侑という少女について、多くを知っている訳ではない。精々、幼馴染であるらしい他クラスの女子生徒と行動を共にしているのを時折見かけるくらいか。話した事も数える程しかなかったから、その人となりについてもよく知らなかったのである。
だがこうして話してみて、彼は侑がとても気持ちの良い人柄の少女なのだと感じていた。少なくともこの短い時間でも彼は侑に対して一定の好感と、少しの懐かしさを覚えている。或いはそれは、トキメキに輝くその瞳が在りし日の記憶を想起させるからなのかも知れない。
「気づいてるか? アンタ、今すげぇイイ
「勿論! へへ、でも何だか照れるなぁ」
そう言って、侑は恥ずかしそうに笑う。衒いのないその笑顔に大雅は眩しそうに目を細め、けれどその眼差しは侑へと同時に此処ではない何処かへと向けられているかのようでもある。それは懐古か、或いは亡失への悲哀であるようにも見え、しかし侑が大雅の視線に気づいた時にはすでにその色合いは彼の目から消え去っていた。
「どうしたの? 何か、私の顔に付いてる?」
「いや? 別に、何も付いてねぇから安心しな。ただ、少し……懐かしくなっただけだ」
「懐かしい? 何が?」
要領を得ない大雅の物言いに侑は小首を傾げるが、大雅は何も言わずただ不敵な、それでいてどこか寂しげな薄い笑みを覗かせるだけだ。不可解である。不明である。彼らが出会った、或いは関わるようになったのは少なくともこうして2年生に進級した後の事で、それもつい最近の事だから侑からすれば大雅から何かを懐かしまれるような謂れはない筈なのだ。
だから、大雅が言っているのは侑とは何の関係もない事なのだろう。だが彼は侑の所作の中から何かしら彼の記憶にある事項との類似を見出し、勝手に懐古の情を抱いている。そんなものに侑が合点を付けられる訳もなく、観念したかのように、或いは思いを吐露するように、侑の問いに答えを返す。
「アンタの雰囲気が、昔のアイツと似てるなって、そう思っただけだ」
「アイツ……? もしかして、せつ菜ちゃんのファンだっていう大雅くんの友達? ふふ、じゃあもしかしたら気が合うかも知れないね。私と、その友達」
「あぁ。……そうだな。そうかも知れない」
その大雅の言葉を受け、快活な笑顔を浮かべる侑。彼女の人の善さがそのまま顕れたその所作に大雅は顔を綻ばせ、しかしふたりが次の言葉を紡ぐよりも早くに教室のドアが開かれた。入ってきたのは彼らのクラス担任教師である。それを合図として自分の席から離れていた生徒らが戻っていく。じゃあまたね、と言って、侑も会話を切り上げた。
静まり返る教室。担任はいつもと変わらず退屈な事しか口にせず、大雅は視線だけを動かして窓の外を見遣る。都会の灰色と、大空の蒼色。詩人ならこの味気ない光景にも諧謔のひとつでも詠むのだろうが、生憎と大雅はそこまでロマンチストではなかった。
代わりに浮かんでくるのは、激しく煌めく緑宝玉。その在り様が、過去の記憶とオーバーラップされる。緑翠と孔雀青。似ていないのに、よく似ているように感じられる。少なくともその色の内に秘められた中身は同じで、だからか、大雅は知らず内心だけで言葉を漏らした。それは、原因を知るが故に難しいと理解していながら、それでもなお捨てきれない、純粋な思いの独白であった。
(アイツも……また、あんな風に笑ってくれたらいいのに)
アニガサキ第1話の描写を参考に拙作では侑と歩夢は別クラスという扱いにしております。