本来は虹ヶ咲スクールアイドル同好会のお披露目ライブであった筈の、しかし実質的なせつ菜の引退ライブとなったイベントの後の事。彩歌はすぐにその場から立ち去るような事はせず、未だダイバーシティの広場からそう遠くない場所にいた。
頭上を見上げてみれば、広がっているのは遥かな蒼穹。どこまでも広がっているかのような碧天より降り注ぐは鋭い日差しであり、それを受けて世界は彩りを帯びている。当たり前の物理現象。何ということはないただの日常。だがそこから逃げるように、彩歌がいるのはダイバーシティの巨大な建物が造り出す影の中だ。東京湾の方角から吹き付けてくる潮風が、彼の亜麻色の髪を揺らす。孔雀青の瞳に宿る物憂げな光と線の細い顔立ちも相まって、その光景を永遠に閉じ込めてしまえばひどく画になろう。しかしどうあっても自身を外部から観測できない以上そんな事は彼の知る所ではなく、また興味もなかった。そんな事への興味よりも彼の心を支配してやまないものがあるのだから。
カバンを挟み込むようにして背を壁に預けたまま眼球だけを動かして視線を遣った先は、ダイバーシティ正面のフェスティバル広場。ほんの数刻前までそこでは虹ヶ咲学園のスクールアイドルたる優木せつ菜のライブが行われていて、彩歌は観客たる有象無象のひとりであった。目を閉じれば、未だ目蓋の裏に焼き付いた残影が見える。
現ならざるが故に一切の実在性を内包せず、けれど記憶の再想であるにも関わらずまるで本物のそれであるかのようにすら感じられる炎の海。その中に、少女がいる。小さな身体を目一杯に躍動させ、歌声に感情を乗せて己の〝大好き〟を叫んでいる。それもまた彩歌の記憶の中にある幻にしか過ぎないというのに、嫌に鮮明であった。ならば記憶の中でのみ、全ては実在性如何に関わらず全て真と言えるのだろうか。
であればその光景を前にして彩歌が抱いた感覚に真偽を問う事もまた不毛だ。彼の意識の中でそうだと記録されているのなら、それ以上でもそれ以下でもない。故に彩歌がせつ菜のパフォーマンスに魅せられたのも、もう変え様の無い事実なのだ。
或いは岩戸に閉じ籠る者に初めて音楽が届いた時の感覚とはこういうものなのだろうかと、少年は場違いな色すらある思いを抱く。感傷と言い換えても良いかも知れない。エモーショナルとセンチメンタル。相反する情動が彩歌の裡でマーブル模様を描いていて、その混沌のせいか、関係のない言葉が這い出てくる。
「音楽は音を楽しむもの……か」
脈絡のない呟きだ。傍から見れば奇異に映る事だろう。けれどその言葉は常に彩歌の心底に仕舞われていて、だから不意の切っ掛けで度々顔を出してくる。今回は偶々、それがせつ菜のライブであっただけだ。
音楽は音を楽しむもの。逆を言うのならば、音を楽しめないのならば音楽ではないのかも知れない。或いはそれは対偶と言うが正しいか。命題の逆は正しいとは限らないが、対偶は正しい。尤も、先の言葉を命題と定義するのならばの話だが。
そしてその命題に従うのならば、せつ菜の歌は間違いなく音楽だ。あの時間、あの瞬間、彼女はスクールアイドルであることを、自分の大好きを叫ぶ事を、本気で楽しんでいた。たとえそれが、桜の散り際に美しさを見出す終わりの美学めいたものなのだとしても。それに比べれば、
「……あぁ」
らしくない自虐だ。在り得ざる冒涜だ。彼と、彼女。比較することすら烏滸がましいというのに。その行為は、その感傷は、彼女に対する最低最悪の非礼だ。故に罪人は感動も感傷も再び岩戸に押し込んだ。たったひとつの思いだけを手元に残して。
ハッ、と誰に対してのものか分からない冷笑を飛ばし、彩歌は壁に預けていた背を自らに引き戻す。目蓋を上げて視線を巡らせ、彩歌はようやく咽の渇きを自覚する。長時間水分を摂っていなかった事もあって、水分不足に陥っていたのだ。今までそれに気付かなかった原因は心因性のものなのだろうか。
ともあれ、咽が渇いたのなら水を飲まなくてはいけない。彩歌は視線を巡らせ、手近な所に自動販売機を見つけるとその前まで歩み寄った。財布から硬貨を取り出し、投入口に滑り込ませる。カラン、コロン。渇いた音を立てて数十のボタンに光が灯る。そうして何か適当なものを選ぼうとして、横合いから声。
「彩歌くん!? 帰ってなかったんですか!?」
「や。ゆ……中川さん、お疲れ様」
途中で言い直したのは、その呼称が適切ではなかったから。〝優木せつ菜〟はもういない。そこにいるのは〝中川菜々〟というひとりの少女のみ。彩歌は今まさに押さんとしていたブラックコーヒーのボタンからスポーツドリンクに指をスライドさせ、落下してきたボトルを菜々に向けて放り投げた。菜々は何度か取り落としそうになりながらもそれをキャッチする。その表情に表れているのは疑問。それはそのボトルの存在か、それとも彩歌がまだこの場に残っている事に対してか。彩歌は、勝手に前者だと判断する。もう一度硬貨を自販機に投入し、今度こそコーヒーを購入する。──意識が冴えるような、苦味であった。
「俺の
「ありがとうございます。……ふふ。何だかデートのお誘いみたいですね。個人的には魅力的な提案ですが、生徒会長的にはナシです」
「ありゃ、残念。でもデートかぁ。そうかな。……そうかも」
ならば失言だったかと、彩歌は己の短慮を自省する。同時に菜々の言う魅力的な提案というのは全く何のことはない、ただの友人としてのそれなのだろうとも、彼は一切の感慨もなくごく自然に了解していた。そこに妙な衒いや欺瞞はない。ただそこに在るものを、そうなのだと受け入れる程度の所作であった。
彩歌が再びコーヒーを喉に流し込むのを、菜々がペットボトルの栓を開けて口を付けたのは殆ど同時。それは先の話題の終了を意味する。味蕾を貫く鋭い苦味と、渇きが癒えていく充足を感じながら彩歌は思考を巡らせて、それに先んじて菜々が口を開いた。
「驚きました。てっきり、彩歌くんはもう帰っているものかと」
「俺ってそんなに薄情者かなぁ……それとも、そんなに俺に会いたくなかった?」
「い、いえ! そんなコトはないです、絶対に!!」
「フフ。分かってるって。冗談だよ、ジョーダン」
本当ですかぁ……? と菜々。その
だが嘘は吐かずとも、言及を避ける事はある。それは彩歌だけではない。菜々も、それ以外の人間も同様だ。たとえばそれは自分にとって不都合な事であったり、或いはその逆に相手への思いやりであったり。既に過ぎ去った、夢のような過去の事であったり。共に口にしないのであれば、それは暗黙の了解とでも言うべきであろうか。
それが今、両者の間にあるのかは定かではない。どちらも言及する気が無いのか、避けているのか、はたまた片一方がもう一方の配慮している気になっているのか。そこに結論はない。無意識であるのなら、そこから確定を掘り起こすのは至難だ。不実への弾劾も、隠匿に対する糾弾も、
「でも、丁度良かった。彩歌くんに渡したいものがありましたので」
「俺に渡したいもの? 何?」
彩歌の問いに菜々は言葉ですぐに解答を投げ渡すような事はせずに、肩下げ鞄を開けてその中に手を突っ込んだ。まさぐるような仕草でそうする事、数秒。菜々が取り出したものとは、一冊のノートであった。生真面目な彼女らしい、飾り気のないそれである。タイトルの記載はないが、名前の欄には優木せつ菜とだけ書かれている。或いはそれは、その名前がある意味で中身そのものを表しているからなのだろうか。
すぐに合点がいった訳ではない。それでも彩歌の中には漠然と予感めいたものがあって、それを唾液と共に呑み下した。その予感が何を意味するにせよ、彩歌に受け取らないという選択肢はない。菜々ではなく、彼自身がそう定義し、排除したのだ。厳かにも思える動作で受け取り、表紙を捲って、視界に飛び込んできたものに彼は息を呑む。
──なんだ、コレ。ノートを開いた瞬間に彩歌に奔った衝撃を言語化するならば、そんな所だろうか。何もおかしな内容が書かれていた訳ではない。だが、これを彩歌に渡すという行為自体が、彼にとっては不可解であった。
「中川さん、コレ……」
「貴方だから持っていて欲しいと思ったんです。『
「っ──」
その言い方は、ズルい。卑怯だ。そう思うも、彩歌はそれを口に出せない。言ってしまえば、それは裏切りにも等しい行為になってしまうから。真野彩歌という不実の徒をそれでも信頼してくれた彼女への裏切りだ。第一、卑怯と詰られるならばそれは彩歌の方であるべきだ。観念し、彼はノートを閉じる。
ふたりの行為は、まるで形見分けだ。優木せつ菜という少女の残滓。それを、彩歌は受け取ったのだ。或いはそのノートの内容を考えれば、残滓などという枠には収まらないかも知れない。それを、彩歌は引き受けた。ならば彩歌はその選択に対する責任を負わねばならない。
耳の奥で、雨音が反響している。それは聞き慣れた
「……分かった。キミがそう言うなら」
「はい。そうして下さい。……じゃあそろそろ帰りましょうか」
「うん、そうだね」
ふたりの家は決して近いとは言えないが、それでもそう離れている訳ではない。何しろ同じ小学校の学区内だ。故にこの場から帰るにしても途中まで帰路は同じである。だからだろうか、自然とそこまでは共に帰る流れになっていた。
彩歌よりも先に歩み出した菜々。その背中が、彩歌には嫌に小さく見える。いや、元から彼女は彩歌よりもかなり身長が低いのだから視覚情報としてそれは正しいのだが、今、彼の胸中には単純な比較として以上の意味を持ってそれが居座っているのだ。そして予感する。あの日以来、大雅から見た彩歌もそうなのだろうかと。
無論、今の菜々と自身を同類扱いするなどというのが許されざるだとは彩歌は理解している。それでも、自分の心に鍵をかけて封殺し、耳を塞ぐ彼女の姿を、彼は見ていられない。
──もっと気楽にいこうぜ、兄弟? オマエはオマエが思ったようにやればいい。
再想するは親友の声。ここにいない彼に応えるように、彩歌は呟く。
「あぁ、そうだね。……そうだった」
「……? どうかしたんですか、立ち止まって?」
「ううん、何でもないんだ。帰ろう」
振り返って尋ねていた友に首を横に振ってそう返し、彩歌は小走りで菜々に追いつく。当たり前の事だがやはりふたりの影は平行線で、何処まで行っても交わらない。それで良い、と彼は切り捨てる。
彩歌はせつ菜の正体を知ったうえでライブを訪れ、願われた通りにその終わりを見届けた。そして何の因果か彼女の残滓の一部は彼の手にあって、それが自身の決断によるものである以上、彩歌には果たさなければならない事がある。誰かに願われただとか、そんな事は関係が無い。誰が何と言おうと、自ら下した決定には責任が伴うのだから。故に。
──優木せつ菜をこのまま終わらせない。終わらせたくない。
遍くを心底の不感に閉じ込め、それでもなお手元に残ったその
「とはいえ、どうしたものかな……」
夕刻。先日の出来事を想起していた彩歌が漏らしたのは、弱音とも形容できるそんな言葉であった。その呟きはあまりにも小さく、教室の窓から滑り込んでくる朱に洗い流されて消えていく。
教室の中に、他の生徒の姿はない。もうとうに帰っているか、部活動に勤しんでいるか、大方はそのどちらかだろう。そんな中、帰宅部であるにも関わらず教室に独り残る彩歌は異質だろうか。机上には一寸とて書き進められていない五線譜。それに皺を刻まないように天板に肘を立て、頬杖を突いて外を眺めている。
どうしたものか、と先程口にしたが、実際、彼には何の方針もないという訳ではなかった。むしろ実情はその逆。彼はもうとっくに方針を定めていて、しかしその終端にまで己が辿るべき
「……帰ろう」
立ち上がる。事情もないのにいつまでも校舎に居座っている訳にもいくまいと、白紙の楽譜を回収して彩歌は己の席を後にした。彼は彼としてしなければならない事の他に、学生という立場のためにしなければならない事もあるのだ。義務を果たさなければ、権利は主張できない。目前の事象に囚われて他を疎かにするなど言語道断である。
音楽科のエリアに彩歌以外の気配はない。廊下の窓は閉め切られていて、それ故に外から運動部の掛け声や連れだって帰路に就く者らの談笑は聞こえてこない。日常と地続きでありながら、同時に隔絶された異界のよう。
黄昏の絶界。しかしそれは彩歌の心象風景とは遠くかけ離れていて、そのせいか勝手知ったる場所であるのにも関わらず未知の領域に踏み込んだようでもある。そのせいだろうか、知らず、彼は歌い出していた。
「──────」
少年の歌声が茜色に染み入り、離断の世界を満たしていく。その声色は跳ねるようでもあり、かつ歌詞に込められた遍くを解体し呑み込んでやろうとする堅実さも内包している。何処か相反するものが同居したそれであった。
果たして、彼が歌っている曲とは〝CHASE!〟。つまりは彼の友が作り上げた彼女だけの曲であり、転じて彼がそれを歌うというのは先日のライブにて見たせつ菜、その内心を自身の裡に
足取りは軽やかに。歌声は厳かに。敬虔な信徒が讃美歌を歌いあげるが如く、少年は自らが発した一言一句を呑み込んでいく。もしもそれを傍で聞いている者がいたとすれば、足を止めてその歌声に耳を傾けていただろう。多くの学生が通う虹ヶ咲学園、その音楽科にて特待生の枠を維持しているのも、ネット上で人気の歌い手たるのも、伊達ではないのである。
だがそれは彩歌の歌を客観から捉えた場合の話。客観も所詮は周囲の主観の集合に過ぎないものだが、それでも主観と客観は別物だ。よって彩歌の歌声に、彼自身だけが全く酔えないというのも荒唐無稽ではなく、少年は深酒に遁走する堕落者のように更に熱を入れる。それこそ、遂には周囲の人間の存在すら考慮に入れられなくなってしまう程に。
──故に。一曲を歌い終えて足を止め、ひとつ大きく息をしたその直後に拍手が投げ掛けられるまで、彩歌は途中から観客がいた事にも気づいていなかった。
「えっ……?」
迂闊だったと言わざるを得ない。いくら音楽科の教室には人がいなかったとはいえ、校舎全体がそうであるとは限らないのだ。そんな簡単な事にも気づけなかったのは、詰まる所歌い始めた時点で彼は歌以外の機能を削ぎ落された装置か深淵に落下する探究者のようなものになっていたからなのだろう。
観客はふたり。リボンの色からして、彩歌と同じ2年生であろう。片方は緑がかった黒髪をツインテールにした小柄な少女で、もう一方は桃色の髪を側頭部で団子に纏めた少女。何処かで見たような、と彩歌が既視感を抱いたのも束の間、黒髪の少女が爛々と目を輝かせながら彩歌へと猛進してくる。
「ねぇ! 今歌ってたのってCHASE! だよね!!」
「うん、そうだけど……」
凄まじい勢いでのパーソナルスペースの詰め方である。しかしそれでも相手が──あくまでも彩歌は、という事だが──不快感を抱かないのは、或いは少女が纏う雰囲気がそうさせているのだろうか。
しかし不快ではないとはいえ困惑してしまうのは致し方ない事であろう。そんな彩歌の内心を知ってか知らずか少女の瞳に宿る輝きはより増して、語勢は強まっていく。同行の士を見つけてはしゃぐその姿は微笑ましいものの彩歌はどう対応したものか思案して、しかし答えを出すよりも早くに団子髪の少女がツインテールの少女の肩に手を置いた。
「侑ちゃん、落ち着いて? その人、困ってるよ?」
「あっ、ごめんね!」
またやっちゃった、と侑と呼ばれた少女ははにかむ。そんな侑に対して彩歌は気にするなとばかりに無言で首を横に振り、微笑を投げた。団子髪の少女が言う通り彩歌は困惑こそすれ、迷惑とは思っていなかったのもまた事実だ。
それよりも彩歌の意識の端に引っ掛かったのは団子髪の少女からの遠慮ともまた別の何かともつかない気配で、けれどそれも一瞬で霧散してしまう。気のせいだったのだろうかと彼は首を傾げて、直後、侑が彩歌に問いを投げた。
「そうだ! キミ、もしかして真野彩歌くん?」
「あぁ、そうだよ。……でも、どうして俺の名前を?」
やっぱり! と侑。
「クラスメイト……大雅くんが言ってたんだ。せつ菜ちゃんのファンの友達がいて、歌とピアノがすごく上手とか、胃袋を掴まれてるとか……」
「アイツ、俺がいない所でそんなコトを……」
自分がいない場所で自分の話をされていたと知り、恥ずかしそうに彩歌は苦笑する。けれどその苦笑は少しも不服そうな気配を漂わせずむしろ嬉しそうで、その様子に侑は彩歌と大雅の仲の良さを悟る。〝アイツ〟と、見るからに温厚そうなこの少年がそう雑に言い捨てるのは、きっとそれだけ気心の知れた相手だからなのだろう。
大雅は彩歌を無二の親友だと思っていて、それは彩歌も同じ事。ふたりの間には決して友愛以上の感情はないけれど、こと友愛という点で言えば極点にあると言って良い。尤も、どうしてそこまで仲が良いのかは侑には全く関係のない話だ。侑と歩夢の仲の深さが彩歌の関知する所ではないように。
ともあれ彩歌が知らぬ前に相手に名前を知られていたのは紛れもない事実で、だからといって初対面の挨拶を欠くのは礼節と品位に欠けた行いだ。ひとつ息を吐き、彩歌は改めて礼を取る。
「そう。俺の名前は真野彩歌。キミ達と同じ2年生。学科は音楽科だけどね」
「彩歌くん、ね。私は〝高咲侑〟! それでこの娘が……」
「〝上原歩夢〟です。よろしくね」
「うん、よろしく。高咲さん、上原さん」
高咲侑と上原歩夢。そして、真野彩歌。これまで関わり合いが無かった筈のふたりの少女と少年はこの日、優木せつ菜という縁の下で邂逅を果たしたのであった。
車道を往く車の音。空には夜の帳が落ちていて、けれど地上は光の海に水没している。行き交う雑踏はまるで蟻の行軍のようで、しかし比べるまでもなく無秩序だ。皆が皆社会という共同体の一単位で、見えているのは己ひとり。彩歌もまた、取るに足りないただの
今日は何という事もない一日だった。少しいつもよりも長く学校にいて、不覚にも調子に乗って歌など歌って、それを聞いていた女子生徒ふたりと知り合った。特筆すべき事柄はあるけれど、それだけだ。
無心で歩いて、気づけば雑踏を抜けていた。家々が立ち並ぶその最中は人の姿もまばらで、それは俗に言う高級住宅街の方へ行くにつれてより減っていく。その途中に、真野邸はある。
陽彩はまだ仕事から帰ってきていないのか、明かりは点いていない。土地のひとつひとつが大きいために隣家のライトも朧気で、街灯はあれど街はその高級さとは裏腹に黒々としている。だからだろうか、彩歌はおもむろに頭上の光源を振り仰いだ。
空を塞ぐ天蓋。不夜城めいた都心の文明に犯されたその中で、月はひとりぼっちでその美麗な白貌を衆愚に晒している。
「────」
思わず、溜め息を吐いた。
今夜は、こんなにも月が綺麗で───
───けれど、夜空に虹はない。