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彩歌と大雅は彼らが中学校に入学した時分に出会いその頃からよく行動を共にしていたため、両者ともこの数年間で最もよく一緒にいた相手は互いという事になろう。そこまで来ればもう彩歌にとって昼休みは大雅と行動するのが普通とも言える程で、彼がいない時間は聊か手持ち無沙汰であった。
とはいえ、何も彩歌は大雅に依存している訳でも、行動の決定を彼に委ねている訳でもない。ひとりで過ごすしかないというのなら、それはそれで相応の過ごし方というものがあろう。そもそもとして彼は友がいなければ何もできない程、孤独に弱くはないのだ。
弁当と水筒、それから楽譜を挟んだクリアファイルと筆記用具を小さめの手提げ鞄に詰めて、昼餉の喧騒に背を向けるようにして教室の外へ。それから幾許か逡巡して、彩歌が足を向けたのは中庭に続く方面とは逆。いつもの場所でひとり静かに過ごすのも悪くはないが、たまには趣向を変えてみるのも悪くはないだろうと考えたのである。
仲の良い数人で固まって歓談に興じる者や我先にとカフェテリアの方へと駆けていく者、或いは彩歌と同じようにどこかに向かっているであろう者、廊下には様々な生徒がいて、その殆どは彼にとり名も知れぬ無貌に等しい。それはきっと相手から彩歌も同じことで、しかし確かに例外はある。そういった知り合い、或いは友人と短い挨拶を交わしつつ生徒の間を抜けて、階段を昇った先の扉を開け放った。
瞬間。吹き込んできた風が彩歌の肌を撫で、強い日差しに思わず目が眩む。果たして、彼が出た場所とは学校の屋上であった。現代では多くの学校において屋上は立ち入り禁止になっているものであろうが、彼が通う虹ヶ咲学園ではその自由な校風のためか、徹底的な安全対策が為されているからなのか、生徒に対して屋上の利用が許されているのである。詳細な理由は彼の知る所ではないが、利用できるというのなら利用したくなるものであろう。
それは何も彩歌だけの心理ではないようで、屋上には既にそれなりの数の生徒の姿があった。しかし昼休みに入ってから比較的早くに移動したためか、ベンチの空席にはまだ幾分かの余裕がある。その空席の中から小さな木の影が落ちている席を見つけると、彼はそこに腰掛けた。そうして鞄から弁当を取り出し、いただきます、と一言。蓋を開けようとしたその刹那、不意に聞き覚えのある声が彩歌の耳朶を打った。
「あれっ、彩歌くん?」
「……おや。こんにちは、高咲さん、上原さん。昨日ぶりだね」
彩歌の視線の先、そこにいた先程の声の主とはつい昨日知り合ったばかりの相手である女子生徒、高咲侑であった。その隣には侑の幼馴染である上原歩夢もいて、思わず昨日の醜態を目撃されてしまった事実を思い出して羞恥で赤面しそうになるも彩歌はそれを押し殺して人当たりの善い柔和な笑みを浮かべる。
「珍しいね、ここに彩歌くんがいるなんて。いつも大雅くんと一緒に食べてるって聞いたけど」
「アイツは今日、部活の昼練でね。だからいつもとは違う場所で食べようと思ったんだ」
「そうなんだ。……あっ、隣いいかな? 折角会えたんだし、ちょっと話したいことがあって」
侑のその言葉に、えっ、と声を漏らす彩歌。その態度はまるで侑の提案を嫌がっているようにも見えてしまうが、実際の所はそうではない。侑から視線を移し、彩歌が一瞥したのは歩夢である。
本人からの接触という切っ掛けがあるまでせつ菜が菜々であると気づけなかった彩歌だが、それはあくまでも例外的な事であり、彼は基本的に人をよく見ている。それ故、彼は昨日出会った時点で歩夢が侑とふたりでいる時間を何よりも大切にしていると気づいていた。であればいくら彩歌が言い出した事ではないとはいえ、余人がその場にいる事は彼女にとって快くはないだろうと思ったのだ。
だが彩歌の予想に反して、彼に返された歩夢の視線はあくまでも強かだ。その反応から恐らく侑の言う話したい事というのは歩夢にとっても何らかの関わりがあるのだろうと、彼は察する。尤も、彼らの間にある共通の話題など、片手で数えられる程しかないだろうけれど。
「キミ達がそれでいいなら、俺に拒否する権利はないよ」
「そっか。ありがとっ。じゃ、座ろっか、歩夢」
「うん、そうだね」
その短い遣り取りの後に彩歌は自らの身体を横にどかし、ふたりの座るスペースを確保する。元から十分な空きがあったのにも関わらずそうしたのは彼女に対する恭順の態度か、或いは単純に距離を取っただけであるのか。
だがどちらであるにせよ、それは侑と歩夢には関係のない話だ。いただきます、と手を合わせて食前の挨拶をするふたりを横目に、彩歌はほうとひとつ溜め息を漏らす。それなりに付き合いのある相手ならばともかく、本当に数える程しか会話をしたことがない相手と昼食を共にするなど、考えてみれば奇妙な状況だ。少なくとも高校進学以後殆ど親友と行動していた彩歌にとってはおおよそ始めての経験であろう。
しかし、だからどうという訳でもない。ほとんどあった事もない相手との会話に困窮する程、彩歌はコミュニケーション能力が低くはないつもりであったし、深い関わりが無いのならそれ相応の付き合い方というものがあろう。弁当箱の中からピーマンの肉詰めを摘まみ上げて口内に放り込み、幾度かの咀嚼の後に呑み下す。
「……それで、俺と話したい事っていうのは?」
「うん、それなんだけど……
「えっ……!?」
おずおずと、様子を伺うような表情。続けて繰り出された予想もしていなかった質問に、彩歌が驚愕の吐息を漏らす。彩歌が、せつ菜の友人であるのか否か。それは至って普通の質問でありながら、しかし決して在り得べからざる問いである。まず以て優木せつ菜という名の生徒は実在しないのならば、その友というのもまた実在しないというのは自明だ。ただひとつ、中川菜々こそが優木せつ菜であるという事実に気付いている相手からの質問であった場合を除いて。
しかし侑と歩夢の様子からするに、彼女らはせつ菜の正体に気付いていない。であるならば考えられる要因としてはその情報自体が正体に気付いている者から正体については知らされぬまま齎されたという事のみだが、少なくとも彩歌の知り得る限りにおいてその立場と成り得るのは親友である大雅のみだ。彼以外、彩歌と侑らの両方に既知である人物がいない。
だがもしもそうであるならば、大雅は何故せつ菜の正体に気付けたのか。少なくとも彩歌はそうだと言った覚えはない筈であった。今すぐにでも練習場所に押し掛けて問い質したい気持ちを堪え、彩歌はふたりに答えを返す。
「そう、だね。確かに俺は優木さんの友達……ってことでいいんだと思う。でも、キミ達がきっと知りたがっているようなコトは……話せない」
「うん。分かってる」
「なら……」
何故態々問うたのだ、と。そう言いかけて、しかし彩歌はその前に口を噤んだ。それは禁句という訳ではないにせよ、口にしてしまえば半ば侑や歩夢に対しての愚弄となろう。彼女らは間違いなくせつ菜の引退や同好会の廃部について既に知っているのだろうが、その理由までは知らないのだろう。知りたい、とも思っている筈だ。だが彼女らはそれがせつ菜にとってどれだけ重大な決断であったのかも分かっていて、だからこそその理由を知るであろう者に対しても無理に聞き出そうとするような真似はしない。
故に、彼女らが彩歌に先の確認をしたのは全く別の所に意図がある。だがその意図が分からずに彩歌は押し黙って、その沈黙をどう受け取ったのか、侑はあくまでも穏やかな笑みのまま口を開いた。
「別にせつ菜ちゃんが辞めた理由が訊きたかった訳じゃないんだ。まぁ、知りたくないって言ったらウソになるけど……ただ、彩歌くんがせつ菜ちゃんの友達なら、もしかしたらどうすればスクールアイドルになれるか知ってるんじゃないかなと思って」
「どうすればって……なるのかい、スクールアイドルに?」
「私はアイドル志望ってワケじゃあないんだけどね。ただ、歩夢を応援したくて。それに、歩夢の夢を一緒に見るって約束もしたし。ね?」
「うん!」
侑の一瞥に、華のような笑顔を咲かせる歩夢。きっと彼女は侑と共に夢を追いかけたいと願い、侑はそんな幼馴染の思いに応えた。それは彼女らにとって当たり前の事であるのかも知れないけれど、どうしてか彩歌にはひどく眩しく見えて、思わず目を細めた。
幼馴染同士であろうとなかろうと、互いが互いを想い合い幸せでいて欲しいと願う姿は美しく、尊いものであろう。或いはそれは、大雅が彩歌に語った在り方のひとつの体現と言えるのかも知れない。
翻って、自分はそう在れているのか。彩歌はそう考えそうになって、すぐに思考を中断した。何を莫迦な事を。そう在れているか否かなど、決まっている。否だ。彼は誰かの為に何かをしたいと考えているだけで、まだ何もできていないのだから。それなのに答えを求めるなど、あまりにも莫迦げている。鎌首をもたげる自己嫌悪。だが同時に、このふたりの力になれないものかと、彼は柄にもなくそんな思いを抱いた。
「そっか。頑張ってね。余計なお世話かもだけど、俺も応援するよ」
「本当? ふふっ、ありがとう、彩歌くん」
応援する、という彩歌の言葉は紛れもなく本当に彼の心底から出てきた言葉で、しかしあまりにも白々しい。真に彼が応援したいと思った相手はもういなくて、ずっと彼は何もできなかったというのに、別の誰かを応援などできるものか。
だがそんな彩歌に対してでも歩夢が向けたのは微笑みだ。そこに偽りの気配はなく、彩歌の言葉を純粋に嬉しく思っているようである。思えばこれが、歩夢と彩歌の間で交わされたおよそ初めての遣り取りであった。
「それで、どうすればなれるかだけど……言うまでもないだろうけど、部活として活動するのが一般的だと思う。個人でできない事もないけど、長期的に活動する場合を考えるとね……」
「やっぱり、そうだよねぇ……」
スクールアイドルとは広義では学生活動の一環としてアイドル活動をしている者を指すが、基本的には部活動としての形をとって行うのが一般的だ。彩歌が言うように個人でも活動するのは不可能ではないものの、衣装やライブ会場の確保などにも少なくない費用がかかる以上、その費用を部活動費として処理できる方が都合が良いのである。そもそも一般的な一高校生が自由に扱える金額など高が知れているというのもある。
しかし今、その肝心の受け皿であった同好会は廃部されてしまっている。虹ヶ咲学園においては部や同好会の設立には最低でも5人のメンバーが必要とされるが、現在、この場にいるのは侑と歩夢のみ。元メンバーも再始動に向けて動いている可能性はあるが、合流できていない現状、人数として計上するのは難しいだろう。悩まし気に小さく唸り、幾許か。ふたりの視線が、殆ど同時に彩歌へと向けられる。瞬間、彩歌は何か予感めいた感覚を覚えるも、それに何か反応をするよりも早く侑が彩歌の手を取った。その奥で、明らかに驚いている様子の歩夢が彼からは見える。
「彩歌くん、スクールアイドル、やってみない?!」
「やっぱり! いや……悪いけど、俺自身がスクールアイドルになる気はないよ。というか、どうして俺にそんなコトを?」
「え? だって、昨日見かけた時、楽しそうに歌ってたから……歌うのが好きなのかなって」
「楽しそう……?」
譫言のような呟きであった。楽しそうという侑の印象を、それが自らに対してのものであるというのにまるで受け入れられていない、或いは自身でない別の誰かへの言葉を聞かされているかのような。
だが、侑のそれは紛れもなく彩歌への評価だ。先程から微妙な表情をしている歩夢も侑と同様に彩歌の方を見ていたという事は、口にしてこそいないものの凡そ同じ印象なのだろう。
だが肝心の張本人である彩歌自身が、その評について受け入れ切れていない。現実感の欠落、或いは浮遊感。そして、雨音の幻聴。それらはやはり過去からの残響で、だが彩歌はそんなものなど聞こえていないかのように──事実として実在の音ではないが──振舞う。ふふ、という薄い笑声。
「彩歌くん?」
「ううん、何でもないんだ。ただ……キミ達も、優木さんと同じコトを言うんだなって、そう思っただけさ」
「せつ菜ちゃんと……?」
その問いに、彩歌は無言で首肯する。侑と歩夢が彩歌の歌声を楽しそうだと評したように、菜々/せつ菜は動画投稿サイトの配信を通した彼のピアノの音色を〝大好きが詰まっている〟と評した。それが示す所はつまり、彩歌の音は周囲にはそう聴こえるという事なのだろう。彼自身がどう感じているかは全く置き去りにして。
追想するかのような、同時に何かしらの含みがある彩歌の気配を前にして、侑と歩夢は戸惑いにも似た様子を見せる。それは彼らの前に会話の間隙として現れて、そこに彩歌はそれまでと異なる、それでいて〝優木せつ菜〟というその一点においてはある程度の連続性がある話題を差し挟んでしまう。この話題を続けていては、余計なことまで口走ってしまいそうだから。
「ところで、ふたりは優木さんのライブを見てたんだよね? そのライブを見て、どう思った?」
「どうって……」
あまり要領を得ない彩歌の質問に、顔を見合わせるふたり。だが彼女らを見る彩歌の目はあくまでも真剣で、彼がただ先の話題から逃れるためだけにその問いを発した訳ではないのは明白であった。
それが何故であるかまでは、ふたりには分からない。態々それをふたりから聞き出してどうするつもりなのかも全く分からないものの、彼女らの善性はその目を裏切る事を良しとしなかった。
「私は……凄いと思ったなぁ。自分の気持ちをあんなに真っ直ぐに伝えられたら、どんなに素敵だろうって……」
そう言う歩夢の瞳に宿る輝きを形容するのならば羨望、或いは憧憬だろうか。宙へと向けられたその目に映っているのはきっと青空ではなく、彼女の脳裡に焼き付いた過去の光景、せつ菜のライブをはじめとしたスクールアイドルの姿なのだろう。
自分ではない別の誰かに憧れ、そのようになりたい、そのように在りたいと思うのは、ある意味では人間として当然の欲望であろう。だが当然であるのだとしてもそれは自己変革の端緒である以上容易に起こり得るものではない。つまりは歩夢にとって、優木せつ菜というスクールアイドルとの出会いはそれだけ大きな出来事であったのだろう。
そして、そういった自己変革、或いは自己の在り方における将来的な展望を実現せんとする欲望を、人は他の欲望と区別して特別に〝夢〟と呼称する。そういう意味では、せつ菜は歩夢に夢を与えたのだとも言えよう。
「私は歩夢と違ってまだ夢はないんだけどさ、夢に向かって頑張っている人を応援したいって、そう思った。
それと、これは私のワガママかもだけど……あのライブが最後じゃなくて、始まりだったら最高だろうなって」
「始まり……?」
「うん。……正直な事を言うとね、私は今でも思ってるんだ。せつ菜ちゃんに、また歌って欲しいって」
「そっか。……そっか」
一度目は理解。二度目は、賛意。嗚呼、ここにもいたのだ、優木せつ菜にまだ終わって欲しくないと願う者が、ふたりも。それはその発端や理由こそ違うのかも知れないが、意味としては彩歌の願いと全く同じものであった。
そして、或いは彼女らならば、と。それはもしかすると自らの責任から逃れようとする裏切りに等しい行為であるのかも知れないけれど、結果は同じだ。むしろ彩歌の嘗てからの理想を果たさんとするのならば、こちらの方が良い。
つまりはここにせつ菜/菜々の〝大好き〟を理解し受け止めようとする者がいる、という状況こそが、彩歌にとっては希望であり、それに気づいた瞬間、彼の中にあった惑いは霧散した。
彼女らが彼女らの目標に向けて動くのならば、同じように彼は彼の為すべきを為す。その思いを胸に一度瞑目し、数拍。再び開かれた孔雀青の瞳は決意の輝きに満ちていて、それなのにそれを見た侑はどうしてか、悲壮だと、そう感じた。
「訳の分からない質問だったと思うけど、答えてくれてありがとう。代わりというのも変だけど……俺にできる事があれば、言って欲しい。きっと、力になるから」
自分に何ができるかは、まだ分からない。もしかしたら何かしたいと願いながら、また何もできないのかも知れない。
それでも──光が見えたのならば、それに向けて進むしかない。たとえその果てにその光を再び失うことになるのだとしても、己の責任を果たせるのならば構うものか。彩歌は、そう決意したのである。