星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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29.いま、あいにいく

 

 

 澪は魂こそミオ・ジョースターとしての記憶を有しているが、血縁的にいえば欠片も繋がりがない。

 

 肉体的な因縁が存在していないため、ジョセフや承太郎、そしてDIOのように互いの位置関係をぼんやり把握するという不思議感覚の持ち合わせがないのも当然である。

 置いてけぼりを喰らった澪にできるのは、彼らの発する戦闘音を聞き取り、その方向へ足を進めることだけだ。

 ビルの上から街を睥睨し、当たりをつけて、歩道脇にあった自転車を無断借用して。

 

 ガタガタのハンドルを命綱みたいに握って歯を食いしばってこいで、こいで、こいで。

 

「──ッ!」

 

 がっしゃあッ!

 

 派手な音を立てて自転車が横転する。

 凄まじい衝撃に耐えきれずハンドルから手が離れてしまい、あっけなく投げ出された。ごろごろ道路を転がる。からからから、と空転する車輪がむなしい音を立てた。

 建物の間から切り取られた夜空と、月。青天井ならぬ夜天井だ。街灯のにぶい光が目にあたってしぱしぱする。

 

「いってぇ……」

 

 腕と足の痛みに顔をしかめ、首をぐりっと動かすと拝借した自転車はタイヤが潰れていた。よくよく見れば、鋭い小石が突き刺さっている。パンクして、つんのめったのか。

 DIOとの勝負は一分一秒が勝敗を分ける。そんなの分かってる。みんなも分かってるからこそ、この距離だ。

 

 この距離はみんなの好意で、親愛で、きっと愛情だ。分かってる。みんなわかってる。

 

 それでも、しんどいと思ってしまうのは、許して欲しい。

 

 立ち往生している時間も惜しいのだ、本当は。

 澪は一度大きく頭を振って身体を起こし、膝に手を当てたらひどく痛んだ。見れば手の平のマメが潰れて擦り切れていた。

 赤茶色になった手の平を握り込んで、今度は拳でおさえてすっくと立ち上がった。どうぶつみたいにきょろきょろ周囲を見回すが、もうアシに使えそうなものが残ってない。

 

 それなら自前のものを使うしかない。

 一度かがんで靴紐を強く結び直す。じくじくする両手でぱんッと頬を張れば気合いが入った。

 

「よっし」

 

 暗い、騒がしい夜の中ひとりで走る。走り出す。

 

 人のいない方へ、喧噪がない方へ、少しずつ平和な街並みが物騒になっていく。

 破壊のあとが道しるべだ。

 

 走る走る、走る。

 

 あそこの街灯が不規則に明滅している。本能に従って道路を曲がった。

 無残にひしゃげた車がちらりと視界をよぎる。よろけそうになる足を根性で持ち直す。ぼこぼこになった道路は走りにくくてたまらない。

 けれどそれは近付いている証明だ。早く早くもっとはやく! 心が急かす。身体のあちこちが痛い。脇腹がじんじんして、息を吸うと土埃が喉に入ってひりひりする。

 

 噴き出す汗を拳でぬぐう。塩気が手の平にしみて、ぴりぴり痛んだ。泥臭くてみっともなかった。なんだか笑えてしまう。いつでもそうだ。前もそうだった。それはそうだ。構図はほぼ同じなのだから。

 

 澪は行きたい。みんなは行かせたくない。

 

 でも澪は意固地で馬鹿で人の言うことなんかてんで聞かない、いやなやつだから。引き留めきれないから、だから周りは悩んで、妥協して、策を弄して遠ざけて。

 状況が違っても感情が似通えば、帰結はそうなってしまう。今回は怪我が少ないだけマシかもしれない。でもそのぶん、以前のように援軍が期待できない。ここにシュトロハイムはいないのだ。大丈夫、こんなくだらないことを考えられる。今はまだ。

 

 自分の息と足音ばかりが聞こえる。

 

 生かすのはつらい。

 

 殺すのは、きっと痛い。

 

 ここまでの旅路で抱いてきたのは、そんな相反する感情。

 大きな矛盾を孕んだまま、それでも譲れないことがある。果たさなければならないことがある。

 

 それだけを支えに、ここまで来たのだ。

 

 ランナーズハイなのか現実逃避なのか、脳裏にこれまでの旅路があぶくのように浮いて、弾けて、消えていく。

 

 小舟。くろぐろとした海と、星。

 

 泣きそうな空。別離の気配。

 

 強いニコチン。ぐるぐる回る天井と煙。

 

 死者の街。腐敗と濃霧。

 

 赤子と悪夢。硬くこわばった背中。

 

 酸素のない世界。珈琲の香りと丸い窓から覗いた景色。

 

 骨色の砂漠。コバルトブルーの空と跳ねる水。

 

 消毒液の臭い。焼けるようなコンクリートの熱さ。

 

 忌まわしい記憶と、嬉しい再会。

 

 博徒の館。チョコレートとお酒の苦い味。

 

 死にそうな頭痛とか、ぱちぱちするコーラの炭酸。

 

 そうだ、そういえば。

 

 未来を描く絵本。──あなたの未来はおおはずれ。DIOの部下なのに、へんなの。

 

 

『誰もしあわせになれないのに』

 

 

 それはまぁ、そうだね、そうかも。たぶんそう。

 

 でも、でもさ。

 

「ふは」

 

 息が笑みの形に漏れる。

 

 こんな状況でも自分勝手な性分に呆れてしまう。否、この状況だからか。

 ここまで来れば素直になれる。

 

 自分に正直に、わがままに。

 

 しょうがないよね、他に思いつかないんだから。

 

 ディオ、DIO。

 

 澪にとってディオはずっと『おとうと』なのだ。大事なのはその一点のみだ。

 

 今も、昔も。

 

「でぃお」

 

 食いしばったくちびるで、呼気を落とす。

 

 ねぇ、ディオ。

 

 ひとりぼっちはさびしいよ。

 

 ぼくはそれをしってる。みんなが教えてくれたから。

 

──だから、だからさ。

 

 つんと鼻をつく鉄錆と炎と油の臭い。赤茶けた液体のあとがいくつも続く。

 壊れた壁が目について、瓦礫の山につまづきそうだ。

 

 それでも澪はいっさんに駆けていく。

 

 壊れそうな膝を叱咤して、一秒ごとに痛む肺を無視して。

 ただ、ただ、目的の場所へと己を運ぶ。

 

 そして、()()()()

 

「ディオ!」

 

 紅玉の瞳。それが微笑んだ。

 大型の肉食獣をそのまま人の形にしたような、天下の名工が人生全てを賭して作ったような肢体を奇抜なファッションで包んで。

 

「澪」

 

 声は甘い囁きで、毒薬のそれ。

 片手にはその辺でねじ切ったらしい、超重量であろう道路標識なんぞを持って。

 離れた位置には嘘みたいな血溜まりの中、全身からナイフを生やしてハリネズミみたいになった承太郎がぶっ倒れている。死んでいてもおかしくない。

 

「きたか」

 

 今の今まで殺気しか纏っていなかったくせに、もう片方の腕をゆるりと上げる動作は自然だった。

 承太郎はもとより、DIOの後方でそういうオブジェみたいになっているのがポルナレフであることに澪は気付いたし、少なからず思うことはあったけど、なにか、本能の奥の奥で大丈夫という確信めいたものがあった。

 

 だから正直、あんまり目に入ってなかった。

 

 この場にいない花京院やジョセフ、シーザーの安否なんかもぜんぶぜんぶ、ふっとんでいた。

 

 だって、ずっとずっとずっと、会いたかった。

 

 誰も邪魔できないところで、こうやって。

 

「ッはは! ごめんね、待たせちゃって!」

 

 全ての状況を頭から消去して屈託なく言って、ボロボロに崩れたガードレールに足をかけて両腕を伸ばし、そのまま全身の()()でDIOにむかって跳んだ。

 

 悪意の一滴、敵愾心の残滓すら存在しない、大好きなひとを見つけた子供の表情だった。

 

 あちこち泥だらけで傷までこさえて、でも飼い主を見つけて一瞬で痛みを忘れた犬みたいな、着地のことなんか欠片も頭にない動作にさしものDIOも片腕のみならず、握っていた道路標識を放り出して、腕を伸ばした。

 

 抱き留めることになんの疑問も浮かばなかった。

 

 普通の人間なら無様にひっくり返っていただろうが、そこはさすがに吸血鬼の膂力。慣性の法則まで味方につけた勢い全てを受け止めて、なお余裕がある。

 ちいさな身体。熱さと吐息。魂の底から百年以上求めていた存在がようやく腕の中にいることに満足を覚え、くつりと喉の奥を鳴らした。

 

「んッん~、随分と熱烈じゃあないか」

 

 上機嫌で満足げな動作に、表情に、言葉に、澪の笑みが深くなる。

 星屑のような輝きを瞳に押し込めて、紅潮した頬で浮いた汗もそのままに、てらいなく淳良な笑顔だけがそこにはあった。

 

「そりゃそうだよ、めっちゃ探したんだから!」

 

 ジョースター家専用の便利センサーは残念ながら搭載されていないのだ。

 

「小汚いのはそのせいか」

「まぁ、こけたしね」

 

 からりと言ってのける澪は、あちこちに泥と傷が目立った。布地越しに伝わる妙に高い体温と、湿った汗の感触。

 身長差からぶらぶらと足を宙に浮かせながら、ぎゅーっと太い首に抱きついた。ぐるりと囲むぎざぎざの傷痕と脈打つ血管。低い体温、鉄板みたいな筋肉。

 

 ここから下はジョナサンのからだで、ここから上がディオのもの。

 

「あー……ディオだぁー」

 

 安心しきった声で、しみじみとつぶやいた。

 そうして澪は、ディオの顔の形を確かめるみたいにぺたりと触れてから、ぎこちなく金糸の髪に指先を滑らせて、梳いて。

 

 

「──やっと、あえたね」

 

 

 心の底からあふれる、万感の思いが籠もった声だった。

 首から上の頭を抱きすくめる手を好きにさせていたDIOが、聞きとがめて眉を跳ね上げる。

 

「さっきも会ったではないか。もうろくには早いぞ」

「そうだけど、いいの、いいの」

 

 澪の返答はどこまでも気が抜けて眠たげな、安堵そのものの声だった。

 

──ああ、やっと、『ディオ』に会えた。

 

 さっきはだめだった。ポルナレフがいたからだろうか、頭から爪先までが『DIO』だった。

 

 用があるのは、DIOじゃない。

 

 澪が会いたかったのは、人を捨てて傲岸不遜な吸血鬼の『ディオ』であることは確かだけど、それは世界を支配するスタンドを有した完全無欠な『DIO』じゃあダメなのだ。

 

 

 でも、やっとだ。

 

 

 ここで澪が抱き締めているのは紛れもないディオ。それはさっきの行動で確信が持てた。

 自分を視認して、承太郎を潰すために手に入れたはずの大事な得物を放り出した瞬間、DIOはほんの束の間『ディオ』だった。

 本人でも気付いていないだろう僅かなものだが、それさえ分かればじゅうぶんだった。

 

 DIOは、ちゃんとディオだった。

 

 それが澪には何より嬉しい。

 

 ようやく言える。約束を果たせる。

 そう思ったら自分でも形容できない熱が全身を支配して、何も考えられなかった。

 もたれるようにDIOの髪に頬をのせて、あたたかい声で。

 

「ディオ」

 

 心の時計が音を立てて巻き戻る。

 ぐるぐる回って過去へ、過去へと。それは承太郎が生まれるずっと前、柱の男たちと死闘を繰り広げるよりもっと前に。

 

 邯鄲の夢と片付けていたはずの夢ではない、夢の時へ。

 

 DIO。

 

 ディオ。

 

 ディオ・ブランドー。

 

 

──誰より弱い、よわい、だいじなぼくの、おとうと。

 

 

「ぼくは、あなたにあいにきたんだ」

 

 そう。

 

 澪にとって、ディオは恐るべき力を持った悪のカリスマでなければ、倒すべき因縁ですらなかった。

 

 ディオは、この世でなによりも()()()()だった。

 

 人を越えたのではなく、その実、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()義弟。

 遠い昔、「おれは人間をやめるぞー!」と石仮面を装着したその時から、澪にとってディオはそうだった。

 それはジョースター家はもとより、DIOに頭を垂れる者たちが抱いている認識を根底から覆す思考である。

 

 だから、この旅路で抱いてきたのは怨嗟でも義憤でもなく、孤高を貫き続けている義弟への深い憐憫の情。

 

 憎悪なんて、するはずがなかったのだ。

 

 百年の孤独を越えてなお、死にきることすらできなくなってしまった『人でなし』。人としての生を全うする勇気すらなくした化け物。

 

 諦めが人を殺すというなら、諦めを殺し、人を殺し、身の裡に孕んだ嫉妬という種を育て、花開いた憎悪に食い散らかされてしまった『かいぶつ』。

 

 実を結ぶこと叶わぬ吸血鬼。人を『踏破せざるを得なくなってしまった』存在。

 

 人であることから逃避して、乖離して、それでも人の世界から離れられない、自分みたいなちっぽけな存在に執着している、さびしがりの吸血鬼。

 

 そんなディオだから──言いたいことがある。

 

 伝えなくてはならないことがある。

 

「ねぇ、ディオ」

 

 ずっと秘めてきたことを、大切に仕舞ってきた言の葉をようやく舌に乗せて。

 

 遙かな過去に自分が殺した義姉が、義弟へと贈る言葉は、

 

「ここまで、よくがんばったねぇ」

 

 異国の地でたったひとり過ごしてきた家族を労う、ごくありふれた賞賛だった。

 

 それを紡ぐ澪の表情はどこまでも嬉しそうで、まっすぐで、誇らしげですらあった。

 

「えらいよ、すごい」

 

 DIOの辿った運命を反芻する。

 見聞きした事実と推測を照らし合わせて、考える。

 

 棺の中でたったひとり、長い長い月日を過ごしてきたのなら、それはどれだけの孤独だったのだろう。

 身動きひとつ取れない海中の底で、引き上げられることを虎視眈々と待っていたのだろうか。

 

 今か今かと切望して、ひゃくねん。

 

 なんて途方もない時間だろう。

 

 ジョナサンの身体があっても、それは『いる』ということじゃない。会話もできない、物言わぬ『からだ』があるだけだ。

 海中に没した棺が偶然発見される確率はどれくらいだろうか。

 それを推察できないほど、DIOは愚かじゃない。希望より絶望の比重の方がずっと大きかっただろう。

 狂いもせず、こうして対話ができるほどの自我を保ち続けるためには、努力というだけでは表しきれないものが必要だったはずだ。

 

 澪はそれを尊ぶ。

 

 どんなにドス黒い目的のためであろうと、生にしがみつき続け、ついに地上へと帰還を果たした努力と成果を誇りに思う。

 

 だから、面と向かったら絶対に言おうと決めていた。

 

「ありがとね、ディオ。ここまで生きててくれて、生き延びててくれて、よかった」

 

 ああ、ようやく伝えられた。くたびれた。

 

「これがね、ずっと言いたかった」

 

 言われた意味が噛み砕けなかったのか、訝しげに眉をひそめるディオに、澪は未練などひとつもない顔で──本当にいとおしいものをみるようにあかるく、わらった。

 

 周囲に散らばる瓦礫と、血達磨で倒れ伏す仲間たち。

 

 噴煙と血錆の臭いがする地獄のような場所でこぼす言葉はひどく優しく、どこまでもいびつだった。

 

 

 

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