澪が目を覚ましたのはベッドの上だった。
つんと刺激する臭いは消毒薬のそれで、目を瞬かせる。薄いカーテンが揺れている。シーツどころか部屋中が真っ白で清潔だった。
身体のあちこちから管が出ていて、でっかい機械が定期的に電子音を発している。鉛でも詰まってるのか、と思うくらい身体がだるくて重かった。
少し息を吸うだけで肺がぎしぎし痛んで、吐くことすら苦しかった。電灯がまぶしくて目がちかちかする。
生きているのだと、ようやく自覚した。
「ああ、ようやくか」
穏やかで、深く、落ち着いた声がした。
聞き覚えがあった。
身体を起こそうとしたら、力が入らなかった。
「動くのは無理だろうな」
衣擦れの音がして、手首を取られた。自分でもびっくりするほど細くてふにゃふにゃだった。なにこれ。
軽く脈を取られ、額に手を当てられる。そこでようやく相手の顔が見えた。
褐色の肌に民族衣装。横に杖。盲目のため瞳は閉じられたまま、唇はゆるく微笑んでいた。
「ん、ドゥール……さん」
呼吸器越しに絞り出した声はがさがさだった。まるで何年も口を開いたことがないみたいに。
たった一言で喉が痛んで、咳き込んだ。唇がひび割れて、腹筋がいたい。
DIOに心酔するあまり自決しようとして、それにむかっ腹が立ってボコボコにしたンドゥールがそこにいた。
澪の咳が落ち着くのを待って、ンドゥールは再び口を開いた。
「澪、お前の義父たちは最悪だ」
なぜかいきなり愚痴を吐かれた。
「お前がわたしを生かしたならわたしはお前のものだ、などと言い切って毎日スタンドの精密化の訓練をさせられたぞ。いい加減腹に据えかねて不意打ちもしたのだがな、悉く返り討ちにあった。あの二人は本当に人間か?」
よっぽど溜まっていたのだろう、暗澹とした声だった。ええと、うちの義父さんたちがすみません。
「……『人殺しが怖くないなら、人を救うことにビビるなめんどくさい』だとさ。おれのようなヤツに、よくもあんな啖呵を切るものだ」
独り言のようにつぶやいて、ンドゥールは少しつよく澪の手を握った。
閉じられた瞳なのに、強い視線を感じた。
「DIO様がいない今、わたしの生殺与奪はお前の手に委ねられた」
DIOからンドゥールが見捨てられ、殺される前に澪がンドゥールを殺す。
「だから、お前を生かすことに手を貸した。まぁ、おれだけの力ではないがな」
それは、彼にとって違えること許さぬ不退転の約束だった。
DIOが滅んだ時に自決したとて、おそらく澪は責めなかっただろう。ンドゥールの心酔を誰より理解しているのはおそらく澪だ。
けれど、そうはしなかった。
なぜなら、
「それに……DIO様は、お前を生かそうとした。ならば、守らねばなるまいよ」
DIOは己が破れる前に澪へ血を与えた。
仮に吸血鬼化したとてDIOに問題はまったくなかっただろう。むしろ望んですらいたはずだ。だからこそ、明確な澪の救命行為に他ならない。
それならば、残ってしまったDIOの配下が澪を守るのは、ある意味DIOの遺志を守るようなものといえた。
くすりと笑い、ンドゥールはどこか安堵したように。
「お前が目覚めたことを、嬉しい、と思う日が来ようとはな」
そこまで言って手を離し、ンドゥールは席を立って杖を手にする。
「お前が目覚めることを、首を長くして待っている連中を呼んでこよう」
澪の視界からンドゥールがいなくなって、ドアの開く音がした。
自由にならない腕をもどかしく、ゆっくり、自分でも呆れるほどにゆっくりと動かして、自分の首に触れた。
ただの肌の感触をたどっていると、途中、まるで継ぎ目のようなぎざぎざが指先に当たる。
「……おそろい、だ」
それはDIOの傷痕にそっくりで、なんだか笑えてしまった。
きっと傷を見る度思い出す。忘れることはできない。それはきっと、自分の人生が終わりを告げるその日まで。
ディオの言ったこれが
向こうからバタバタと音が聞こえる。
医者であろう男の、落ち着いて下さいだのまずは精密検査をだのという声にかぶせるようにうるせぇそんなの後回しだと怒鳴りつける声が響き渡った。
ああこれぜったい怒られるやつだ、と澪はげんなりした。
げんなりして、それから笑った。
「はは、ッげほ」
すぐ咳き込んでしまったけど、涙が出てきてしまったけど、笑い続けた。
「澪ッ!」
ドアが吹っ飛ぶような勢いで開いて、確認する間もなく抱き締められた。やさしい、石鹸の匂いがした。
逞しい腕の力で身体がみしみしいって、正直苦しかったけど自分も頑張って腕をのばした。
「お前、お前ってヤツは、本当にッ──、……」
自分から動けたことに気付いたのか、彼の言葉が詰まって、洟を啜り上げる音がした。
身体があつくて、矜持高い彼がどれだけの思いを募らせていたのかが伝わってくるようだった。
「シーザー」
弾かれたように上げられた顔は頬が赤くて、高い鼻からちょっと鼻水が出てた。でもペリドットの瞳ははちきれそうなほどの幸福と、なにか、とても豊かな感情で潤んでいた。
「澪」
本当に、本当に嬉しそうにシーザーは言葉を紡いだ。
少しだけ離れて、伸ばした指先が頭皮をすべって、頭を両手で抱え込まれて、瞳を覗き込まれた。
「おかえり。──待たせすぎだ、スカタン」
そうして押し当てられた額のあったかさが、泣きたくなるほど尊かった。
おかえりと、言ってくれた。
じゃあ、言って、いいんだ。
望まれているということ。ゆるされているということ。
すとんと腑に落ちて、自然に声が出た。
「ただいま」
やっぱり掠れて、ひどい声だった。
でも、シーザーは満足そうに頷いてくれたから、大丈夫だと思った。
──もし、もしもこれが、しあわせだと、いうのなら。
胸苦しくなるような慕わしさと、途方もない安堵と安心。泣きたくなるようなこの気持ちが、そうなら。
──ぼくはとっくにしあわせだったんだね、ジョナサン
☓☓☓☓☓
DIOの血液とSPW財団の医療技術力で生存に成功した澪の目が覚めたのは、あれから五年もの月日が経ってからだった。一時期は覚醒が絶望視されていた時期もあったそうだ。
首周りにはDIOと同じ傷痕が残ってしまったけれど、幸いなことに吸血鬼にはならなかった。
それは、蘇生成功時点で施された人工透析とシーザーの波紋、そして澪の義父たちによってスタンド能力を超向上させたンドゥールのおかげだった。
人工透析と『ゲブ神』で血液内の不純物を取り除き、澪の生命を脅かさない範囲での微弱な波紋を流しながら全身に血液を循環させた。
細心の注意を払っての作業は困難を極め、それでも五年もの間誰も諦めることなく、こうして澪は意識を取り戻した。
それは、これまで澪が成してきた奇跡が形を成した瞬間だった。
とはいえ、人外の影響をもろに受けてしまった澪はジョセフと異なり、弊害が残ってしまった。
波紋戦士とスタンド使いの不断の努力によって吸血鬼化は阻止されたものの、全ての影響を取り除くには至らず、早い話が不死ではなく不老になってしまったのだ。
怪我はするし、代謝もある。けれど細胞が老いを忘れている。
──時に、置き去りにされる。
それは、ある意味では傷痕ともどもDIOの呪いと言えた。
とはいえ、澪がそういう諸々の事実を知るのは、これから開催される長い長い説教が終わってからの話。
まだまだ時間はかかるだろう。なにせ誰も彼もが五年分の言葉と感情を溜め込んでいるのだ。
それが終わって、ようやく澪はこの奇妙な冒険に終止符を打てる。
ひとつのさようなら、と、たくさんのありがとうを、告げられるのだ。
第三部 完