星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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6.エア・サプレーナ島のとある夜

 

 

 ちょっとずつでも体力が向上しているのかそれとも別の理由か、ミオは人の姿を保てる時間が少しずつ増えていった。

 

 なので、その夜は人の姿を保ったままバルコニーの縁に座ってぼんやりしていた。ジャージではなく、仕事の時に用いる着流し姿。腰には愛刀を刷いたまま、淡海色に白い蝶を染め抜いた紗のように薄い衣を、肩から羽織っている。

 まんまるの月は僅かに滲んで、薄い雲がところどころに千切ったみたいに浮いている。月の光を吸って銀色にたなびくレースのような雲。光の強い星々が時々煌めき、夜の尊い飾りのようだ。

 

 月の光は眼下の海面に回廊を作り、それはひととき道筋になる。遠くまで。

 

 贅沢な夜だ。

 

「お、今日はそのままなんだな」

「ジョセフ」

 

 ひょいと顔を覗かせたジョセフの顔には、少しだけ翳りが見えた。

 

「眠れないの?」

「んー、タイミング逃しちゃったって感じィ?」

 

 飄々とした笑顔はいつも通りと言えばそうだが、やはり少しだけ憔悴の色があった。

 無理もない。彼の内臓には死の指輪が埋め込まれている。まだ溶解するまでは時間があるものの、不安感は常について回っているはずだ。

 そういう意味でのリサリサ先生の苛酷な修行は、ジョセフにとってかなり有効な気がした。何も考えられないくらい疲弊すれば、気絶するように眠れるだろう。

 

 ただ、どうしても眠れない夜はある。疲労よりも恐怖が先に立ってしまった時──或いは、悪夢を見た時だ。

 

 女性のように化粧でもするなら隠しようがあるのだろうが、ジョセフは男だ。日々波紋を練り、身体を鍛えていても心はそうはいかない。飄々としているからこそ、ふと憂いに沈む瞬間は誰よりも際だって見える。

 ミオの隣でバルコニーにもたれて海を見つめる横顔には、隠しきれない怯えのようなものが垣間見えた。

 

 その表情が、夢の中でできた可愛い弟が──不安で眠れないと訴えてきた時の表情に重なった。枕を抱き締めて、怖い夢を見たのだと。

 

 だからそのつむじ辺りに手を伸ばして、蒼い髪に指先を滑らせてくしゃくしゃ、と。

 

「……んだよ?」

 

 子供扱いされてるようなのが不服なのか、ジョセフが唇を尖らせる。

 ミオはそんなところにも微笑ましさを感じてしまい、緩んだ頬を隠すことなくそっと囁いた。

 

「──悪夢着」

「あ?」

 

 ジョセフには聞き馴染みのない言語で綴られる謎の響き。

 けれど、その声音には不思議な音律と、肌がそっとあたたかくなるような感覚があった。

 

「草木吉夢……成宝王」

 

 案外に短く言葉は終わり、ミオはへらりと笑う。

 

「夢違いの誦だよ。うちの国のおまじない」

 

 そういえば、前に日本に住んでいると聞いたことがある。

 

「今のを唱えると、何がどうなるんだよ」

「悪い夢との悪縁が絶てるって感じかな。平たく言うと、悪い夢は離れて良い夢は宝物になれーって意味」

「ふーん……?」

 

 曖昧に頷き、ジョセフは海に視線を固定したまま少し考える。飽くことなく撫でられる髪はそのままに。

 初めて会った時からミオは変な奴で、今でもその印象は変わっていない。半日くらい狸になるし。チビだし。

 

 だが、その見た目に反して卓抜した技術と膂力には舌を巻くことが何度もあった。

 どれだけの鍛錬と経験を重ねればあれだけの真似ができるようになるのか、ジョセフには想像もつかない。

 

 そして、不思議なことにジョセフはミオに対して敵愾心を抱いたことがなかった。警戒というものを覚えた試しがないのだ。

 地獄昇柱に自分たちが挑んでいた間にあった、リサリサとミオとの話の顛末は後で聞いた。ジョセフはリサリサに言われるまでミオが柱の男の刺客、などという可能性は頭になかった。

 結果的にそれは真っ向から否定されたわけだが、抜け目のないことに関しては一家言あるのに由々しき事態である。

 

 だが、こうして話をして触れている間に感じるものはひたすらに柔らかな、思慕とでも言うべき感覚だ。

 

 冬に春を偲ぶような、或いは自分に姉がいればこんな感じなのかもしれない。真冬のひだまりのように無条件に自分を受け入れてくれると分かる、絶対的な安心感。

 ジョセフ自身にも不可解な感情だが、何しろ抗いにくい。それに抗う必要もないと思っている。ミオはジョセフに危害を加えたりしないし、もう大切な仲間だ。

 

 いつの間にか離れていた手の平を惜しいと考えてしまうくらいには、絆されている。

 

「なぁ」

「んー?」

 

 見たことのない裾の長い服は、柔らかな風になびいてひらひらと揺れている。月光を透かして僅かに光を孕む雪色の髪は、まるで幻想の生き物めいた印象をジョセフに抱かせた。

 

「おねんねできないジョセフちゃんに、一曲歌ってくんない?」

 

 わざとこてんと首を傾げて悪戯っぽく笑えば、ミオもくすりと微笑んだ。

 

「あんまりうまくないよ?」

「そゆのは大事じゃねーんだって」

「あんま英語の曲知らないんだけどなぁ……うーん。あー、えー」

 

 少し考えてから、響いたのは玻璃のように澄んだ旋律だった。

 

「──Golden slumbers kiss your eyes,」

(金のおねむが、あなたのまぶたにキスをする)

 

 夜の静寂を揺らさぬように、ゆったりと紡がれるリズムは確かに子守歌だった。

 最初は照れが混じって調子っぱずれもいいところだったが、段々とそれも取れて、ただただ優しい響きにジョセフの心が震えた。

 

「Smiles awake you when you rise」

(めざめるときには、笑ってね)

 

 うっすらと細められた瞳はどこか慈しむような色に満ちて、鈴振るような声音が耳朶をくすぐり久しく訪れなかった眠気を誘う。

 

「Sleep, pretty loved ones, do not cry…」

(おやすみなさい、可愛い子よ、泣かないで…)

 

 不安が消えたわけではない。死への恐怖は拭い去れるはずもない。

 

 それでも、ただ、今だけは。

 

「And I will sing a lullaby」

(そうしたら、子守歌を歌ってあげますよ)

 

 ほろりととろける砂糖菓子のような、甘やかで優しく、ひどく慕わしい眠りの帳が引かれていく。

 

 ゆるゆると目蓋が落ちて、身体の力が抜けていく。極限まで重くなって、指先ひとつ動かすのも億劫だ。

 

「lullaby  lullaby  lullaby…」

(おねんね、おねんね、おねんねよ…)

 

 それが、ジョセフの覚えている記憶の限界だった。

 

 怒濤のように押し寄せる睡魔の雪崩に抵抗する気なんてこれっぽちもなく、ジョセフの意識は鉈ですっぱり切り落としたように途切れている。

 

 夢も見ずに墜落するような深い深い眠りと、疲労が溶け消えていく多幸感だけが残った。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「お、も、いぃ……!」

 

 ジョセフの腿の裏に手を通して両腕を持ち、ずっしりどころがどっしり来る負荷と背中のあたたかさにミオは呻いた。後頭部にマスクが当たる。

 

 子守歌なんて可愛いところもあるなぁ、と安請け合いしたらホントに寝やがった。それは構わないのだが、あの場で爆睡されてはこちらもどうすればいいのか分からないではないか。

 世にも幸せそうな顔ですぴょすぴょ寝息を立てるジョセフに庇護欲が沸かないでもないが、自分の体重とかを考えて欲しい。重い。きつい。

 

 叩き付けて起こしたいのは山々だが、最近よく眠れていなかったのは本当だろうし、せっかく眠れたならそっとしておきたい気持ちの方が強い。ただ、あんな場所で風邪を引かれては困る。

 かといって夜なので誰かを呼ぶのも気が引けた。なので、仕方なくこうしてミオがおんぶしているのだが、これがもう重い重い。筋肉と身長差で引き摺りそうだ。

 

 腕力に多少の自信はあるが、こんな規格外を背負って歩くことまでは想定していない。頑張って歩いてはいるがあっちにフラフラ、こっちにヨロヨロと不安定極まりない。

 

 それでも落とすのだけは可哀想だと踏ん張っているが、そろそろ本当にヤバい。鍛錬でへとへとになっていたのだから当然だ。ジョセフの部屋まで保つだろうか。

 

「ぎ、ぎっくり腰になったら……うらんでやるからな、くそう」

 

 汗の粒が額に浮かぶ。重量で腕が震える。膝が笑いそうだ。ぴんちだ。

 

「ジョジョ、こんな夜中、に……?」

 

 地獄に仏とはまさにこのこと。

 

「し、シーザぁー、へるぷ、みぃ」

 

 水でも飲もうとしてきたのか廊下を歩いていたシーザーに全力で助けを求めた。

 

「ジョセフ、寝ちゃって。バルコニーで。めっちゃ重い」

 

 ただ重すぎて頭があんまり働かない。単語のみの羅列になってしまった。

 

「よくそんな筋肉達磨をここまで……ミオ、お疲れ様」

 

 それでも内容を汲んでくれたらしいシーザーは労いの言葉をかけつつ、ミオの背中からジョセフを引き取ってくれる。

 

「ったくコイツは、おいジョジョ!」

「あ、待って待って」

 

 起こされてしまっては今までの努力が水の泡だ。ミオは慌ててシーザーの服を引っ張った。

 

「最近、あんまり眠れてなかったみたいだから……寝かせてあげて下さい」

 

 すぐさまジョセフを起こそうとしたシーザーだが、彼もジョセフが最近ろくに睡眠を取れていないことを察したのだろう。深々とため息を吐いた。

 

「俺の腕はシニョリーナを抱き締めるためのものなんだがな、仕方がない」

 

 なんだかんだと面倒見のいいシーザーはそのままジョセフを抱っこして歩き出す。どちらの顔も整っているので、写真でも撮ってその手の界隈の女性に売ったらボロ儲けできるんじゃないかなと思った。

 

「ありがとう、さすがに限界で」

 

 変につっぱらかってしまった腕や肩をぐるぐる回すと、シーザーは苦笑する。

 

「普通は背負うこともできやしないさ。よくやったよ」

 

 言外に女の子という枠を外されている気がしたがまぁいいか。

 で、ミオは伊達や酔狂で限界を訴えたわけではない。全身から力が抜けてがくんと視界が下がり、気付いた時には……。

 

「限界って……」

「キュゥ(そういうことです)」

 

 シーザーの呆れたような呟きが耳に痛い。

 

 こうやって無力な小動物になってしまうと、もうシーザーの足元しか見えなかった。

 しかし困った。なんせスージーQと寝室が一緒なもんだから、ぶっちゃけドアが開けられません。狸の時ならよっぽどのことがなければ風邪とか引かないから平気なんだけど。

 

「ミオ」

 

 諸々考えていると、シーザーがジョセフを抱えたまま苦労して腰を曲げ、視線で自分の肩へと促していた。

 いいの? と首を傾げてみる。

 

「ほら、ジョセフが落ちちまう」

 

 そう言われてはこちらも早く行動するしかない。というか今の台詞ちょっと録音したかった。某となりのトなんとかみたいじゃないですかー。

 ちょっとだけ勢いをつけてシーザーの身体をととんっと駆け上がって両肩に掴まって丸まった。

 

「よし」

 

 そのままシーザーは歩き出し、ジョセフの部屋のドアを器用に開けてベッドへと雑に放り投げた。それでも起きないのだから、どれだけ深い眠りに落ちているのやら。

 ミオはベッドの下の方に寄っていた毛布をくわえてずるずる引っ張り、なんとかジョセフを覆うことに成功した。

 

 そして丁度いいから一緒に寝ようと思って、てけてけとジョセフの枕元に座って尻尾をくるんと丸めようとしたら、

 

「おい、ここで寝るのか? 潰されるぞ?」

 

 と、止められた。

 

 そういえばジョセフは案外寝相が悪い。ヴェネツィアで泊まった時、適当にジョセフの枕選んだらベッドから落とされたし。

 

「ミオは先生に部屋を……ああ、スージーQと寝ているのか」

 

 こくこく頷き、そのままベッドから降りてドアを肉球でタシタシ叩いてみた。

 ミオのジェスチャーは正しく伝わったらしく、シーザーがなるほどと頷く。

 

「それじゃ確かに開けられないな。この時間にスージーQを起こすのも気の毒だし……ふむ」

 

 恋人でもないのに女性の部屋を夜に訪なう、というのはさすがにシーザーも憚られるらしい。

 

「……よし」

 

 少し考えてからシーザーはドア付近のミオをひょいと抱き上げて、ジョセフの部屋のドアをそっと閉めた。

 

「?」

 

 どうするつもりなのだろう、とシーザーを見上げて首を傾げると小さく肩を竦められる。

 

「どうせ、ほっといたらその辺で夜明かしするつもりだったんだろう」

「!」

 

 見透かされていたことに驚き、尻尾がぶわっと太くなる。隠しようもない証拠を見てやっぱりな、とシーザーが呆れ顔になった。

 

「自己管理も修行の内だ。今日は俺の部屋に泊まっていきな」

 

 男女というより男性とペット、状態なので色気もへったくれもない。

 ミオとしてもありがたい申し出なので尻尾をぱたん、ぱたんと動かして片方の肉球をぴ、と上げた。

 

 その様子が面白かったのか、シーザーがふ、と笑った。

 

「明日も修行なんだ。早く寝ようぜ」

 

 喋っている間に彼の部屋についた。ドアを開けてシーザーのベッドにそっと降ろされる。

 シーザーの部屋はジョセフの部屋よりずっと整理整頓されていて、見ていると気持ちがいい。ほんのりと漂う石鹸の香りと、テーブルには調合中らしいシャボン液の元らしい小瓶がいくつも置かれている。

 

 大きく作られた窓からは月光が差し込み、薄いカーテン越しのあえかな光がシーツに落ちていた。

 ミオはあまり邪魔にならないように、とやっぱりシーザーの枕元の辺りでくるんと丸くなる。

 

「そこでいいのか?」

 

 シーザーもごそごそとベッドに潜り込み、至近距離で尋ねられる。

 十分ですぜと頷くと、大きな手の平がミオの頭をぐりぐりと撫で、そのまま背中を撫でて最後に尻尾を堪能するようにむにむにされた。

 

「狸ってワリに、ミオは仔猫みたいな手触りだよな。ジョジョの台詞じゃねぇけど、もふもふだ」

 

 瞳を眇めて、柔らかく言われると反応に困る。褒められているとは思うけど複雑なのだ。

 意趣返しに肉球でシーザーのほっぺたにていっ、と触れる。ぷに、と感触。くすぐったそうに微笑むシーザーもそろそろ眠いのだろう、目蓋がとろとろと落ちていく。

 

 そして寝ぼけていたのか、ミオの伸ばした腕を指先でつまんで──肉球にちょんと唇を押し当てた。

 

「!」

 

 ぴょ、と肉球を引っ込めると、シーザーはまどろみの中にいると分かる曖昧な口調で囁く。

 

「おやすみ、ミオ」

「くるる……(おやすみなさい、シーザー)」

 

 ミオはお返しとばかりにシーザーの指先に鼻先を押しつけ、感謝のしるしにと手の平に猫のように頭をぐりぐりしてから体勢を整え、眠りに落ちた。

 

 

 

 




お借りした曲は17世紀のイギリスの子守唄『I Will Sing a Lullaby(T・デッカー/作詞)』です
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