今でもシーザーの脳裏に焼き付いて離れない光景。
ミオがワムウに引き摺られてすぐ追いかけなかったのは、メッシーナに制止されたことと、内部から響き始めた轟音のためだ。
最初は激しい闘争が繰り広げられていると思ったのだが、すぐに違うと分かった。見る間に壁に亀裂が走り、あちこちの窓が砕け散って、瓦礫の崩落するような振動が絶えず地面を揺らした。
電撃的なまでの直感だった。
あるいは、修行期間に積み重ねてきた絆の訴えだった。
ミオがしていたのは確かに戦いだった。だがそれはワムウを相手取ってしているものではなく、ただひたすらに自分たちへの支援だった。
伊達や酔狂で発破解体などと言い出したのではなかったのだ。ミオは大真面目だった。戦慄すら覚えるほどに。
波紋もろくに使えない。自覚しているから知恵を絞って、工夫して、似合わない火器なんて隠し持って、身体を張ってシーザーたちにとっての『邪魔なもの』をぶっ壊した。
ミオは無鉄砲でひたむきだった。愚かなほどに。
挙げ句の果てにはボロ雑巾みたいになって転がり出されて、柱の男たちには『害獣』なんて呼ばれて。血と埃まみれの顔をしてそれでも、満足そうに後を託した。
そんな、馬鹿なくせに無鉄砲で小知恵ばっかり回る底抜けにお人好しな少女は、その規格外にはちゃめちゃな行動力故に敵視されてしまったのだ。
「ミオといったか。あの小娘、危険だな」
カーズと相対した時、ワムウが重々しく口にした言葉はシーザーたちに奇妙な確信をもたらした。
「ああ、どういう意味だよ?」
ジョセフが尋ねる様子も、どこか芝居じみていた。分かっていて尋ねている、それがありありと伝わってきた。
「ジョジョ、貴様と同じよ。だが、波紋がろくに使えない分その発想には齟齬がある。人間としての力を駆使して、このワムウの小指を落としたのだ」
根元からすっぱりと切れている小指。ミオとの戦闘で失ったのだという。再生できるのにしなかった、ということこそに意味が透けて見えるようで、ぞっとしない。
「分かるか? 小娘がおれを翻弄し、波紋使いでなくとも傷をつけられると証明したのだ。そんな存在を許せるはずもあるまい」
どんなにちっぽけでも、柱の男に傷を与えた。成し遂げた瞬間、ミオは人間を餌程度にしか認識していなかった彼らにとっての確かな脅威になった。なってしまった。
カーズはカーズで、一度赤石を目の前でかっ攫われた上に谷底に落とされた恨みがある。ほぼジョセフのせいなのだが、煮え湯を飲まされた事実は変わらない。
「ふん、生きているなら決戦へと連れて来るがいい。座興の戯れに引き裂いてやる」
カーズの物言いは、それこそただの害獣を駆除すると言わんばかりに無感動だった。
全員が本気だと理解した。決戦に連れてくれば、ミオは殺される。虫けらのように無慈悲にだ。
ただでさえ万全の状態ではないのだから、それは赤子の手をひねるより簡単だろう。
許せるはずがなかった。あんまりだろう。自分の身体にすら構うことなく、仲間のために頑張った少女にされていいことではなかった。
そんな理不尽は断じて阻止しなければならない。それはそこにいた人間全員の思いで、赤石を取りに行く道中でジョセフとも相談して決めた。
「ミオは連れて行かねぇ。てか、行けねぇよな」
「当たり前だろ」
惨殺宣言されている場所に生け贄をわざわざ運んでやる理由など皆無である。
シーザーが病院に来たのは、メッシーナやジョセフだと説得されかねないからだ。いっそ昏睡状態の方がよかった。深い眠りに落ちている間に全てを終わらせることができれば、最善だった。
でもミオは、まるで分かってるみたいに目を覚ましていて当然のように一緒に行くつもりで、こうして全力でごね倒している。
かと言って、柱の男たちの言葉を伝えるつもりはなかった。どうせ言っても無意味だからだ。
むしろ売られた喧嘩は買うタイプなので奮起すらしかねない。そういう意味で、ミオはどうしようもないほど馬鹿で頑固で融通のきかない阿呆なのだ。
「ミオ」
シーザーは目の前のミオを見つめ、言葉を紡ぐ。
あの時感じた、強烈な感情の名前。
「俺は後悔したよ」
血気に逸って暴走した自分を咎めもせずに当然のようについてきて、質問とささやかな願いごとを口にして、ワムウに引きずり込まれて奇跡的に生還したがボロボロになった。
ミオの痛みも、負った傷も、全てが自分の責任だとシーザーは思う。
あの瞬間、確かに時が止まった。
砕けた壁と爆風。熱波と衝撃。
血の尾を引きながら紙切れみたいに宙を舞った仲間。
後悔と自責の念が怒濤のように押し寄せて呼吸すら忘れた。
シーザーの仲間で、友人で、たいせつな妹みたいな女の子が、まるで壊れたおもちゃみたいに雪の上を転がって四肢を投げ出したままぴくりとも動かない。
悪夢だった。我に返って駆け寄って、まだ息があることに心底安堵を覚えた。薄目を開けてこちらを見て、意識を失っていないことが奇跡みたいだった。
咄嗟に謝罪したらちょっとだけイヤそうな顔をして、ああそんな言葉を望んでいないのだと本能的に理解した。
そうしてミオは血と泥で汚れた手をふらふらと上げて、自分がずたぼろになった原因に向けて交替の合図を。
弾けた手の平へと託されたものの重さに、目眩すら覚えた。
本当はなじられたかった。お前のせいだどうしてくれると泣いて縋って怒鳴り散らされた方がマシだった。
失態を謝罪する機会すら奪って、言い訳もさせず、楽にしてくれないのがミオだった。
なのにシーザーの心だけは、ちゃんと掬い上げて送り出したのだ。自分の成果を無駄にしないことが一番の報いである、みたいな訳知り顔で。
なんて自分勝手でお人好しで、優しいのに優しくない、イヤな奴。ミオ。惚れないワケないだろうが。馬鹿じゃないのか。
シーザーはミオを死地に追いやるなんてまっぴらだった。本人たっての希望でも聞くつもりなんてない。
「だから、もう、ミオに傷を増やして欲しくねぇ」
自らの死すら厭わず仲間のために献身するミオは、いっそ狂信的なほどだ。
だが、それはミオの根幹にある部分で、きっとどうしようもないところだ。
だったらシーザーが歯止めになればいい。ミオが傷つくことが自分の傷より痛いと感じる人間もいるのだと、教えてやりたい。いくら時間がかかってもいい。それでもいつか。
シーザーの声は震えて、懇願のようだった。
「僕も、同じなんだけど」
ミオは心底困った、という顔になる。
「行かなかったら、僕が後悔してたよ」
しあわせになって欲しいのは、しあわせにしたいのは、同じなのだ。
「……そんな身体で、何ができるんだよ」
さっきと同じような問いが違う温度でこぼれた。
満身創痍なことは誰もが知っている。医者からも聞いた。平然と話をできるのが不思議なほどだ。
ミオはシーザーの顔をきょとんとした顔で見つめ、それから笑った。
「なんでもできるよ」
花が咲きこぼれるような、微笑みだった。
「ジョセフと、シーザーと、先生たちのためならなんでもできる。お望みとあらば空だって飛べるよ、きっとね」
そうだろう。きっとミオはなんでもする。
自分たちのために戦って、骨身を削って、たとえ粉になっても満足するだろう。確信があった。
だが、それでは駄目なのだ。
だから、だからこそ。
「……そうか」
ミオを連れては、行けないのだ。
シーザーは覚悟を決めて、そっとミオの頭に手を置いた。繋いだ手はそのままに。
「──これはリサリサ先生の頼みで、ジョセフの願いで、俺のわがままだ」
ゆっくりと語りながら、シーザーは波紋を調節して流し込んでいく。
リサリサに薫陶を受けた波紋での催眠。一晩眠らせるくらいなら造作もない。疲労も相まってすぐ落ちるだろう。
「しー、ざ、……?」
効果は覿面で、ミオの顔がみるみる眠たげになる。こくり、こくり、と頭が揺れる。
「ミオ。怖いお化けは俺たちがやっつけるから」
シーザーは耳元に唇を寄せて小さな子共をあやすような、優しい、甘い声音で囁いた。
「ゆっくり、おやすみ」
手の平でミオの両目を覆い、そっと動かすともう目蓋が閉じていた。細い寝息が聞こえる。
これで大丈夫だ。ミオは死なないで済む。殺されない。あとは自分たちが生き残るだけだ。
「……」
シーザーはそっとミオの前髪を払いのけて、包帯越しに口付けた。
「ま、これぐらいはな」
満足げに頷いて、そのまま親指で薄い唇をなぞって、自分のそれへと押し当てる。触れたところが熱いような気がした。
「起きたら教えてやるよ」
ぴん、と指でおでこを弾く。
こんな状況なのに、信じられないくらい心が弾んだ。頬が緩んで止まらない。
「イタリア男はな、芯から惚れたらそれまでなんだぜ」
大切な友人で、気の置けない仲間で、世界でいちばんいとしい少女を置き去りにして、シーザーは己の戦場へ向かった。
☓☓☓☓☓
「やられた!」
ミオが意識を取り戻したのは、夕方もほど近い時間だった。
催眠の波紋はリサリサの専売特許だと思っていたが甘かったらしい。とんだ失態である。
このぐらいの時間で起きられたのは多少でも波紋が使えたからだ。無意識に反発したらしく、目が覚めた。
即座に状況を理解したミオは着替えもなかったので愛刀だけ持って入院着のまま病院から飛び出し、夜の街を走っていた。
たぶん、説明をしてくれたのはこちらを油断させるためだったのだ。くそ、やられた。
走れ走れ走れ。
今は何時だ? 分からない。それでも走る。他にできることがない。地図は見せて貰ったから辿り着ける。でも間に合うか分からない。
月と星だけがミオの味方だ。足道を照らして、続く先を教えてくれる。
「ジョセフ」
靴底で砂利が転がる。早く早くもっと早く! あ、傷開いたかも。かまうもんか。
「リサリサ先生」
吐く息が白い。
身体の芯は熱いのに指先は冷え切っている。
汗が噴き出て背中に張りついて不快だった。
「メッシーナ先生」
守りたい人がいる。
彼らの名前を呟きながらとにかく全力で走った。自転車とかないかな。あとで返すから。ああでも無理かも。ロードレース用でもないと山昇れない。
「シーザー」
身体中の至る所が軋みを上げている。波紋効果で治癒効果を高めたって限界がある。痛くないわけがなかった。痛かったがどうでもよかった。
自分の息と足音だけが聞こえる。汗が流れて目に入って痛い。思ったより体力を消耗している。
みんなを守るって言った。誓ったのに。まだ果たされてない。なのに置いていかれた。ひどい。
本当は分かってる。みんなは本当に自分を心配して、気遣って、だから置いていった。これ以上怪我しないで、と言われているようだった。
理屈は分かる。でも納得なんかできない。
わがままって言うなら、これが僕のわがままだ。みんなを守る。守るんだ。そうでなくちゃ、意味がない。なんでもするから。だからだからだから。
迷い込んだ先で奇跡的に出逢えた尊敬できる人々。彼らのために動けない自分になんの価値がある。後方支援なんだ。やり遂げる。絶対だ。
「馬鹿にすんな」
獣のような声が出た。
怪我なんて平気だ。動けるんだ。助けられるかもしれないんだ。待ってて後悔するだけなら、何が何でも辿り着く。何もできない自分なんて生きてないのと同じだ。そんなことも分かってくれないのか。
「馬鹿に、すんなぁ!」
悲しみを怒りに変えて夜空へ解き放ち、スピードを上げる。
不意に、エンジン音が耳についた。
背後から光。車だ。止めて、乗せてくれないかな。貸してくれないかな。やっぱり返せるかは分からないけど。
そんな事を考えている間に、いつの間にか横に車が並走していた。爆音めいた唸りを上げる装甲車だった。たぶん軍の。え、どうして。
小さな窓が開く。
「そこのお嬢さん」
聞き馴染みのある声に驚いて顔を上げると、見知った顔があった。
「よければ乗っていかないか?」
特徴的な頭部。片目にモノクル。ナチス軍服から漂う機械油と金属の匂い。
ミオは心の底から快哉を叫んだ。
「シュトロハイムさん!」
ミオの心のアイドル──シュトロハイム大佐堂々の帰還だった。