妙な沈黙が病室に落ちた。
気まずい、というほどではないものの、どことなくシーザーが緊張しているような雰囲気が伝わってきてそわそわする。落ち着かない。
ミオはカップに注がれた白湯を啜り(胃がビックリするからお茶は無理だった)、そういえばと呟いた。
「シーザーがイタリアに帰っちゃうと、あんまり会えなくなっちゃうね」
聞けばシーザーは現在休学中とのこと。先祖来の因縁と決着をつけた今、シーザーにしがらみはなにもない。
これからは、シーザーが望むように生きていくために勉強するのが本分というものである。それが当たり前とはいえ、せっかく仲良くなれた友人が離れてしまうというのは単純に寂しいことだ。
「お見送りする時までには、走れるくらいにならないと」
すっかり萎えてしまった身体を鍛え直さないといけない。
そんな努力目標を口にしているミオを尻目にシーザーは椅子に座ったまま何やら黙考していたが、やがて決然とした表情で顔を上げ、ミオの前に立った。
「ミオ」
「なに、シーザー?」
ミオが見つめる先、シーザーはまるで敬虔な信者のように膝をつき、そっとミオの左手を取った。
こちらを見つめる瞳には強い何かが宿っていて、捕まってしまったように目を離せない。その白皙の頬が僅かに紅潮しているのが分かって、心臓が落ち着かなかった。なんだろう。
長い睫毛が縁取る、宝石を閉じ込めたみたいに綺麗な瞳。深い、深いオリーブグリーンの底には誰にも負けない彼の信念があって、熱があって、自ら輝く恒星みたいだった。
こんな瞳の持ち主に敵意なく見つめられるということ自体が、奇跡的な幸運のように思える。
長い沈黙があって、ようやくその唇が動いた。
「──俺は、お前が好きだ」
「僕も好きだよー」
なんだそんなことか、という感じで即答されてシーザーの肩ががくっと落ちる。が、反射的に手を離してすっくと立ち上がり、ミオを睨み付けながら指差して居丈高に怒鳴った。
「そうじゃねぇよ! 愛してるってことだよッ!」
心なしかエコーすらかかって聞こえそうなほど全力の声量だった。
「ミオと付き合って、デートしまくって、あわよくば結婚まで持っていきてぇんだよ! 俺は! それくらい分かれボンクラ!」
ミオは勢いに飲まれてぱちり、と瞬きしてから相槌を打った。
「お、おう」
あまりに唐突かつストレートだったので何かを感じる暇もなかった。
是も否もないただの脊髄反射的な動作である。
「…………」
数秒の沈黙ののち、
「……あッ!?」
自分の失言に気付いたシーザーは一声上げて、温度計みたいに首から上をみるみる真っ赤にしてわなわなと震え出した。
そして咄嗟に両手でばちんっと自分の頬を叩いた。痛そうな音がした。そのまま顔面を隠そうとしたのだが、途中でギリギリ踏みとどまって勢いよく首を振り、もう一度ミオに向き直った。ほっぺたが真っ赤になってて痛そうだった。
一応は告白のはずだろうけど、罵倒まで混じっていたので反応に困った。
「……」
謝るのも変な気がしたし、何よりシーザーの目が、雰囲気が、全てが本気だと伝えていた。
ミオだってシーザーのことが好きだ。当たり前だ。寝食を共にして、死闘をくぐり抜けた戦友である。好きにならない方がどうかしている。ただ、すごく大事な人ということに変わりはないけれど、シーザーの抱いているそれとは温度が違うように思えた。
それに彼の夢を知っている。だから、気持ちの整理云々よりも疑問が口をついて出た。
「なら、シーザーの夢はどうするの?」
ごく素朴なミオの口調に、シーザーの瞳は見る間に色を変えていく。それまでの熱が一瞬で凍結してしまったような、悲しみのようなものが混じる。
傷つけた、と直感的に思った。
一瞬で猛烈に後悔したけど、もう撤回できない。でも謝ってはいけないと感じた。
だって、抱いた疑問は嘘じゃないから。
自分では、たぶん彼の夢を叶えてあげられない。そんな確信はミオの中に言うまでもなく埋まっていて、だから言葉を続けた。
「明るい家庭を築くのが夢、なんだよね」
彼の持っている素敵な夢を、自分のせいで叶えられないなんて冗談ではない。
「僕じゃ無理だよ」
「なんで無理なんだ」
なんで、と言われても。
単純な事実を伝えたつもりだったのに、返ってきたのは強い反駁だった。
ミオでは無理な理由。
それは。
ミオはまるで迷子になった子供のような気持ちで呟いた。
「だって、想像できないもの」
明るい家庭。
言葉面は綺麗だが、それはミオにとって限りなく遠いところにあるようなものだ。想像すらおぼつかないのだから、道筋すら見えない。
「分からないから、知らないから、いつか見たいと思ったから、だから見せてって……言ったのに」
それなのにシーザーは、正答の形すら見えないのを知ってるくせに問いを投げてきた。意地悪。
シーザーはミオの表情と言葉に、一度だけ強く目を瞠ってから開いて、柔らかく眇めた。氷結していた悲哀はとろけて、ただただ優しいだけの色合いに戻っている。
「いいんだよ、想像なんかできなくても」
片方の手でミオの髪を梳いて、穏やかに、ひとりごちるように。
「……俺は、ミオをしあわせにしたいと思った。ミオとしあわせになりたいと、思った」
口にできることが、そのまま幸福であるかのようにシーザーは語る。
とてもまっすぐで、まるで願うように紡がれる言葉たち。
「だから、答えを見せるんじゃなくて、一緒に作りてぇ」
ミオの素朴な願いの答えを二人で作りたいのだと、シーザーは言うのだ。
「俺と、ミオで」
まっすぐな言葉だ。これ以上ないほどに。ここで茶化すような返事をするのはいけないと強く思う。
シーザーの言葉は雨のようにミオの奥に沁みて、波紋がゆっくりと広がっていく。
「……あのね、シーザー」
ミオはそっとシーザーの手を今度は自分から握って、ぬくもりを感じながら言葉を紡いでいく。
大事に考えながら、少しずつ。
「僕ね、シーザーが好きだよ」
ぴく、とシーザーの肩が跳ねる。
きっと、シーザーの持っている気持ちと今は合致していないだろうけど、それだけは本当だから。
「でもね、ジョセフもリサリサ先生もスージーQもロギンズ先生もメッシーナ先生もシュトロハイム大佐も好きなの」
ミオは人の好意は分かる。自分が好意を抱くことも分かる。
「そこに上下はなくって、なんていうかな、愛とか、恋とか、僕にはあんまり理解できないの。……ごめん」
けれど、愛や恋といった感情は分からない。
どこまでが友情で、どこからが愛情なのだろう。
誰かが線引きしてくれれば楽だろうに、世の中そんな都合よく回ってはいない。
自分でも理解できていない部分をうまく伝えられるか不安でしょうがないけど、言葉しか伝えられる術が分からない。
なんて不便なんだろうとがっかりして、それでも伝えようと思った。
「でも、シーザーが言ってくれたことは嬉しい、と、思う。思った」
言葉はとても嬉しかった。そこに嘘はない。
生い立ち故にミオの感情は未成熟で拙く、敵意や殺意、拒絶や嫌悪といった感情には敏感だが、好意というものには未だに戸惑いがある。
好かれるのは嬉しいし、ありがたいことだと思う。大切にしたいと思う。守りたいと感じる。
けれど、愛や恋は決してそれだけの尊いものでも綺麗なものでもないと、誰もが言うのだ。
執着や憎悪にも近い時があるのに、真綿で包むようなものもあるという、複雑怪奇な感情。
なんて難しいんだろう。ちっとも理解できないのだから不安でしょうがない。
でも、シーザーは心を伝えてくれた。
なら、自分のできる精一杯で答えなければならない。
「だからね、シーザー。ありがとう」
「……?」
唐突な感謝に、若草色の瞳が揺れる。
構わずミオは言葉を続けた。
今、シーザーが自分にくれたものに返すには到底足りないけれど、精一杯の感謝を。
「好きになってくれて、愛してくれて、結婚したいって思ってくれてありがとう」
気持ちを伝えてくれて、選んでくれて、手を握ってくれて。
「ありがとう」
大好きな言葉を口にして、ちゃんと伝わってることがシーザーの顔を見れば分かったから自然に頬が緩んだ。
あたたかいひだまりのような、ようやく綻んだ花のような、それは本当に幸せそうな微笑みだった。
そんな風に笑んだまま、ミオはちょっぴりのわがままを口にする。
「だからね、ちょっとだけ時間をちょうだい?」
「……保留ってことか?」
泣き笑いのような表情をするシーザーに、ミオは首を振った。
自分が考える時間というのもあるにはあるが、そうではなくて。
「僕に、じゃなくてシーザーに」
「俺に?」
「うん、イタリアに戻って、学校に行って、色んな人と会って、ご飯食べて、寝て、遊んで、そんで、いっぱい考えてみて」
波紋や世界の趨勢なんか関係のない、普通の生活へと戻って、考えて欲しい。
シーザーの言葉が一過性だとは思わないけど、自分の存在が彼の本来掴めるはずだった幸せの邪魔をしては一大事だ。
だから時間が欲しかった。
なんてことのない日常の中で、向き合ってみてほしかった。
そんな風に過ごしていて、もしも。
「……それでも、僕のことを好きでいてくれたなら」
時間という最高の溶媒で薄めても、彼の中で自分の存在が揺らぐことも、褪せることもないというなら。
ミオはいたずらっぽく、小首を傾けて、
「その時は、シーザーが僕に恋を教えて」
ゆるく離した左手の小指を立てた。
いまだに知らない恋の味。もし、シーザーがミオの舌に乗せてくれる日が来るとしたら──少しだけ、楽しみだ。
シーザーは暫し呆然として、それからくつくつと喉の奥で笑った。
「ったく、そんな殺し文句。どこで覚えてくるんだよ」
そうして約束が絡まって、ペリドットの瞳に星屑のように何かが煌めく。
「必ず、惚れさせてやるから覚悟しろよ」
「うん、待ってる」
殺し文句を返されてミオは少しだけ頬に朱を差しながら、胸の奥から湧き上がる嬉しさと、とてもしあわせな気持ちで微笑んだ。
「Ti amo」
大切そうに言葉を口にして、シーザーは約束の小指と、薬指にそれぞれ唇を落として、とてもしあわせそうに笑った。
二人でいるというのは、こんなに心地良いものなんだなぁ、と──ミオは思った。