☓☓.水底でみるゆめ
夜かな、と思った。
その次は夢だな、と思った。
暗くて、何もなくて、足元は真っ白な砂。頭上から耳鳴りのような音が轟いている。
ふわふわ、と足元がおぼつかない。素足を踏み出すと砂がゆらりと踊って、パジャマが揺れる。
小さく息を吐くと、こぽり、あぶくがひとつ。
深海だ。月明かりも届かないこの世界の、無人の荒野。
足元は海底で、石ころひとつ見当たらない。漆黒の暗闇では何も見えないはずなのに、なぜかちょっとだけ周りが見える。夢だからだろう。
目のない魚が行き交って、時々すれ違う。異形の白い甲殻類が見えた。
──さびしいところだ。
漠然とそう思って、爪先で柔らかく砂を蹴ってみる。ほんのひととき砂が舞って、沈んで落ちる。
いつの間にか音も聞こえなくなった。無音。何も聞こえない。頭の奥がしん、とした。
なんだか、たまらない孤独感が足元からじわじわと這い上がってくる。冷たい海水が肺腑の奥まで浸透して、心を内側から凍らせていくみたいだ。
追い立てられるように進んで、泳いで、ふと──
誰かがいた。
忽然と、最初からそこにいたのかもしれない。よく分からない。
砂を寝床に、海水を褥に、ひとりの男性が眠っているようだった。
真っ暗の、虚無めいた永遠の夜の中でまどろむひと。
非人間的なまでの石膏めいた白い肌に、緩やかにたなびく豪奢な金髪。
鍛え上げられた体躯はまるで彫刻みたいで、体温を感じられない。それこそ屍蝋のようだ。
でも、人だと思った。
だって、うなされているから。
うなされている、と言うと正確じゃないかもしれない。端整な顔立ちなのに眉を思い切りしかめて、おむずがりの子供みたい。
そんな拗ねたような表情には、不思議と懐かしさがあったのだけど。頭の中も闇にとろけてしまったみたいにおぼつかなくて、はっきりとは分からなかった。
でも、悪夢にうなされているような男の人をほうってはおけなくて。どうにかしなければと、義務感が湧いてきて。
せめて少しでも伝わればいいなと、そっとつめたい頬に触れて、頭を持ち上げて間に両膝を滑り込ませた。
青年に起きる様子はちっともなくて、どれだけ頭を揺さぶっても起きてはくれない気がした。
どうしよう。
迷って、辺りを見回しても役に立つようなものなんて当然見つからない。あるのは自分の身体と、男の人だけ。
それなら、と。
「──」
またあぶくがひとつ、ふたつ。こぽり。こぽこぽ。
喉の奥が震えて、音が紡がれる。残念だけど自分には聞こえなかった。
それでも精一杯、うたった。それしかできることが思いつかなかった。
小さな子共をあやすように、どうかこの人に柔らかな眠りが訪れますように、悪い夢なら食べてあげるから、と。
だってこの人はぼくの__だから。
歌が届いたのか、それとも単に深く眠ったのか。
やがて、青年の眉がゆるゆるとほどけていくのが分かった。しかめっつらが緩んで、冷艶な美貌が露わになる。
綺麗な人だ。こわいくらいに。
だけどなんだかすごくほっとして、思わず金糸の髪に指を滑らせてしまう。
さらさらと流れる指通りは気持ちがよくて、笑ってしまった。
と──
茫漠とした闇の中に、ほんわりと。
小さな光が浮かんだ。
儚い、蛍のような淡い輝きが花弁めいて重なって、深淵のなかでたったひとつ煌めいて。
ふわふわ、きらきらと星屑が散るように燐光が弾けて、それは、一輪の花になった。
まるで、星の光のひとしずく。
そんなあたたかで優しい花灯りが、いつの間にか、暗闇の中から差し出されていた。
差し出しているのは知らないはずの、ごつごつした男の人の手だった。逞しい指先が不器用に、でもとても丁寧に花を摘まんでこちらへ向けていた。どうぞ、というように。
つられて顔を上げると、深い蒼色の髪の青年が微笑んでいた。
泣きそうな、嬉しそうな、慈しむような、どれともつかない複雑な顔で。
感じたのは、胸苦しくなるような慕わしさ。
だから花じゃなくて、彼の頭にうんと手を伸ばして、ごく自然に髪に触れて。
よしよし、という感じで。
「 」
なかないで、と口にしたのに意地悪な気泡が漏れるだけだった。
青年はびっくりしたように目を見開いて、魚みたいに口を何度か開閉して、それからくしゃりと笑った。
見ているこちらが切なくなるほど、清廉で、あったかくて、うつくしい顔だった。
懐かしく、愛しいものを見る瞳だった。
彼は僕の髪を掬うように指先を滑らせて、手にした花を飾ってくれて。
「わらって、ねぇさん」
そう、言ってくれた。
「ぼくがまもるから」
それで、僕は全部分かって。
膝で眠っていたお寝坊さんがうっすら目蓋を持ち上げて──
──ぷつんと、途切れた。
今回より三部開始となります
引き続き、楽しんで頂ければ幸いです