星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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11.一難去ってまた一難

 

 

「ジョセフ、僕もついてっていい?」

「旅にか? それは……」

 

 ジョセフが言い淀み、シーザーが硬直し、承太郎がこちらを振り向いた。

 その瞳がぎらつき、常にない威圧に晒される。

 

「いいのか」

 

 その視線に込められた意味は、痛いほどに分かる。

 

 彼らの旅の目的は、ホリィを助けること──DIOを殺すこと。それはイコールで結ばれていて、違えられることはない。

 

 そこに同行するということは、DIOの殺害を容認するに等しい。承太郎にとってホリィがかけがえのない母であるなら、DIOは澪にとってかけがえのない弟である。

 

 その命を天秤にかけ、なおホリィを選んだということなのか。

 

 澪はまっすぐに承太郎を見つめ返し、口を開く。

 

「よくはない」

 

 家族を殺されることを肯定など、できるはずがない。

 承太郎の眉間に険が寄る。

 

「なら、」

「でも、行かないと一生後悔する。それだけは分かる」

 

 もし、シーザーたちと一緒にホリィの回復を空条家で待っていたとして、首尾良く承太郎たちが宿願を為したとする。

 そうしたら、自分は素直に喜べるだろうか。帰ってきた彼らを笑顔で迎えられるだろうか。

 

「それしか……分からない」

 

 当然、ノーだ。

 

 同様に、承太郎たちが不首尾に終わってDIOが勝利をおさめたら、やっぱり澪はそれを笑顔で受け入れるなんてできない。

 頑とした気持ちを隠さず、澪はただ思ったことを伝える。

 

「僕は、DIOも承太郎も恨みたくない」

 

 どちらが勝ったとしても、澪にはしこりの残る戦いだ。

 それならば、せめて自分の目で見届けなくてはならない。でなければ、ここにいる意味もなくなってしまう。

 そして、もし、旅の途中で自分にできることが見付けられたなら──全力でそれをしたい。

 

「だから、連れてって」

 

 悲愴とも言える覚悟と、譲れない思いを瞳に込めてはったと見据える澪に承太郎は何を感じたのだろうか。

 承太郎は僅かに嘆息し、軽く帽子を下げた。

 

「駄目だと言っても、どうせ勝手にエジプト行きやがるだろ」

 

 さすが幼馴染み。その辺のことはよく分かっていらっしゃる。

 

 澪はにっこり笑って頷いた。

 

「SPW財団じゃなくたって、航空会社はあるよね」

「……やれやれだ」

 

 承太郎は無造作に近付いて、手の平で澪の頭をバレーボールぐらいの気安さで掴んでぐりぐりした。

 

「いいぜ、ただし突っ走るなよ。面倒見切れねぇ」

「ありがとう!」

 

 ぐらんぐらんしながらお礼を言っていると、いつの間にか戻ってきていた花京院が指先を口に当てながら何やら悩み顔をする。

 

「しかし、いいのかい。危険が伴う旅になるが……」

「そもそもDIOの刺客がバシバシ来てるってんなら、危険はどこでも同じだと思う」

 

 現在が義父セコムが働いているから実質的な被害は出ていないが、時間の問題だろう。隙なんて探せばいつかは見つかってしまう。

 

「まぁ、お前さんならステゴロでも十分戦力にはなるじゃろ。まだ若いし」

 

 元気そうに見えてもジョセフはそれなりに年を取っている。最盛期とは比べるべくもないだろう。

 そして、澪の実力はシーザーとジョセフも知るところだ。スタンド無効の能力もあることだし、考えようによってはかなり有用な戦力になれる可能性は高い。

 

「ジョースターさんが良いのであれば、私にも異存はありません」

 

 アヴドゥルは澪の因縁や能力諸々を鑑みて冷静に判断したようだった。

 そんな風に話がまとまりかけたところで、澪の同行発言に驚きすぎて茫然自失していた男が状況のダウンロードを終了してようやく再起動した。

 

「だ、ダメだ! 俺は反対だ!」

 

 シーザーだった。

 

 シーザーはつかつか歩み寄って、承太郎から澪をひったくるように引き剥がすとぬいぐるみぐらいの勢いでぎゅうううと抱き締める。

 それは小さい頃になくした宝物をようやく見付けたような──或いは、母猫が仔猫を守ろうとする様子に似ていた。

 

「え、あ、シーザー?」

 

 昨日から驚きと困惑の連続だったが、これはこれでびっくりした。むぎゅむぎゅされると胸板が硬くてじゃっかん痛い。さすがシーザー、鍛錬を怠るような真似はしなかったのだな。

 現実逃避気味にぼんやりしていると、ジョセフが戸惑いがちに片手を振った。

 

「おいおい、シーザーもそいつの実力知っとるじゃろ。下手したら今の儂らなら伸されるかも……」

「うるせぇ! そういう問題じゃねぇだろ!」

「ごめんなさい!」

 

 貧民街テンションの一喝を喰らって反射的に謝るジョセフだった。修行中時代の上下関係を未だに引き摺っているらしい。

 不穏なものを野生の勘的なもので察知したらしい高校生二人と占い師は部屋の隅に避難しつつ「えっ、澪って戦えるの?」「あいつ俺の骨折れるぜ。やり返したがな」「……まさか、去年の謎の入院って」「ホリィさんの前であまり騒ぐのは……」などと会話していた。最後の台詞が一番常識的だ。

 

 怒鳴ったことで多少冷静さは戻ったのか、しかし抑圧されたテンションが返って声に凄みを与えていた。

 

「すまないが、俺には到底賛成できない」

 

 顔を引き攣らせ、苦虫を噛み潰したようにシーザーの表情が歪む。

 

 基本的に全員身長が高いので、シーザーに楽々抱っこされてしまった澪は足が届かず抵抗もできなかった。いや、するつもりもないけれど。

 自分が知る限り、シーザーは女性に優しいし、その希望を最大限尊重しようと努力してくれる人だ。そういう気質の彼がわざわざ反対の意を表しているなら、それなりの理由があるだろう。

 

「……そのココロは?」

 

 多少の羞恥はもちろんあるがそれよりシーザーの方が心配なので、両手でその金髪の頭に指先を差し込んでぐしゃぐしゃしてみた。修行時代にやったように。

 セットが乱れたが、その仕草に、感触に、シーザーは泣きそうに目を細める。

 

「俺が、澪に傷ついて欲しくないからだ」

 

 それは、聞きようによってはただの我が儘にも聞こえる言葉だった。

 けれどその声音は僅かに震えていて、単なる我が儘とは到底思えない。

 

「今回の旅に澪がついて行っても、行かなくても、お前は絶対に傷つく。身体だけじゃなく──心が」

 

 あまりにもきっぱりと断言される。

 

「俺たちイタリア人は一族を思う気持ちがどの民族より強い。俺には弟妹もいたからな……だからこそ、澪、きみが抱えるものの一端を誰より理解できるつもりだ」

 

 誇りを受け継ぎ、それを脈々と次代へ繋げてきたツェペリ家。

 シーザーの胸にもその誇りは埋まり、今なお宝石のように煌めいている。

 

「きみが進んで歩こうとしている道は、自分を挽肉にする機械に飛び込むようなものだろう」

 

 義理の弟と、実の弟が紡いだ血族の末が相争う。

 それを間近で見届けようとしているのだから、シーザーの言っていることはなるほど的を射ている。

 

「この旅でどこに行って何を見ようと、澪は必ず傷つく。必ずだ」

 

 その言葉には、不思議なほどに実感が伴っていた。

 

「心に消えない瑕疵が増えていって、いつか押し潰されてしまうかもしれない。もし、澪自身がそれを望んでいたとしても──それを看過できるほど、俺は人間ができちゃいねぇんだ」

「シーザー……」

 

 ペリドットの瞳にはただ純粋な心配と熱が籠もり、目を反らすことができない。

 

「俺を恨んでくれていい。堪えきれないほどなら俺の心臓を抉ってくれ。澪が泣くより、ずっといい」

 

 痛切なほどの、それはもはや哀願だった。

 

「だから俺と一緒にホリィさんを看病して、スージーQを守って、ジョジョたちを待っていて欲しい」

 

 その結果、もたらされるのが吉報であろうと凶報であろうとやっぱり澪は傷つくだろう。けれど、間近で見るよりずっとそれは軽いはずだ。

 そして、澪がこの先抱えるであろう自責も懊悩も悔恨も、怒りも怨恨も悲嘆も、シーザーは受け入れる覚悟があった。

 

 50年の間に醸造された澪への感情は、異性へ向ける思慕と、戦友としての信頼、父性のような庇護欲、そして祖父のように孫娘を慈しむような気持ちがない交ぜになっていて、シーザー本人でさえ言い尽くせない。

 突如として行方知れずになって、こうして会えたのはもはや奇跡だ。

 それなら、内臓から突き上がるような衝動を抑えることなどできようはずがなかった。50年は長すぎた。

 

「たのむ」

 

 華奢な身体に回している腕に力が籠もり、言葉以上に雄弁に物語る。

 澪はシーザーを撫でていた手を止めて、瞳から目をそむけたりなど決してせずに──微笑んだ。

 

「シーザー、あのね、ありがとう」

 

 痛いような、笑みだった。

 

「でも──」

 

 そして、澪が何か言葉を口にしようとした直後──地面が揺れた。

 

『!?』

 

 全員に動揺が走る。最初は地震かと思った。

 建物が縦に震動し、澪の腹まで震えが走る。

 

「な、なんじゃ! 地震か!? これだから日本は!」

 

 しかし、ジョセフの予想が外れていたことはすぐに分かった。

 

 間髪入れずに爆撃してきたのは耳を弄するような轟音。鼓膜が破れてしまいそうな音に思わず耳を塞ぐ。何かが崩落するような不吉な打撃音、擦過音、漂ってきた土埃が鼻の奥を刺激する。

 澪はもはや第六感とも呼べる感覚に、まるで引っ張られるように中庭へと視線を引かれた。

 

「──え」

 

 そして、見慣れたはずの景色にとてつもない違和感を覚え、その正体を理解した瞬間には既にシーザーの手から脱出して走り出していた。

 

「澪!」

「どこ行くんじゃ!」

 

 答える余裕もなかった。

 

 中庭を素足で突っ切り、塀を跳び越え、全速力で最短距離でひた走ったその先に待っていたのは──悪夢のような光景だった。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「うそ……」

 

 呆然と立ち尽くす澪の前で──我が家が見事に倒壊していた。

 

 なぜか壁という壁が穴ぼこだらけで、発破解体でもされたような瓦礫の山だ。修復も不可能なくらいの木っ端微塵具合である。

 慌ててついて来てくれたらしい面子も、あまりの異常事態に絶句せざるを得ない。

 ずっと暮らしてきた、大好きな我が家が見る影もなくぶっ潰れているという事実は、澪にとって耐え難いほどの衝撃を与えた。

 しかも、まずい事に今日はどちらの義父も家にいたはずだ。空也は休診日だし、宵丸はほぼ家政夫みたいな生活だし。

 

 だとすれば──

 

「……父さん」

「うん、呼んだかの?」

 

 悲痛な呟きに返ってきたのは、あまりに呑気な返事だった。

 

「!?」

 

 慌てて視線を巡らせると、大きな瓦礫のひとつに優雅に腰掛けた義父その2──空也が煙管をふかしながらぼんやりしていた。

 

「空也! 大丈夫!?」

「儂らはべつに大丈夫。大丈夫じゃないのは我が家だの、はは」

 

 適当すぎる返事に若干イラッときた。

 

「笑い事じゃないよ! 何が起こったの?」

「あー、それなら……ほれ」

 

 親指で空也が示す先では──なぜか宵丸が誰かの尻を執拗に蹴り飛ばしていた。

 まるで全身が脂肪でできているかのような中年の男である。その身体をボンレスハムよろしく拘束して、一方的に蹴って蹴って蹴りまくっている。

 

「どうしてくれるわけ? 澪の部屋なくなったじゃん。馬鹿なの? 死ぬの? 楽に殺してあげないよ?」

 

 靴を選んでいる暇がなかったのか、いつだったかおふざけで買ったピンヒールのレザーブーツで蹴るわ蹴るわ。「貴様ぁ、このお」「え、豚が人間の言葉喋っていいと思ってんの」ドコドコドコ「ぐへぇッ!」「え、叫んでいいと思ってんの?」バキバキバキ「あぅんッ!」「気持ち悪いなぁ、豚の鳴き声も知らないんだ」ブスブスブス「ぶ、ぶう、ぶうぶう……」もはやどっかのプレイみたいだった。

 

 教育にすごく悪い公開リンチしている二人から目を反らし、ジョセフが尋ねた。

 

「あー、不躾な質問なんじゃが。あの男は一体……」

「あれ? 刺客に決まっとるじゃろ」

「よーしディオころす!」

 

 爽やかな笑顔で言い切る澪。DIOへ明確な殺意が生まれた瞬間だった。

 

「シロアリのスタンド? らしくてな、ちと後手に回ってしもうた。おかげでこのザマよ、ふううう」

 

 紫煙を吐き出し、気怠そうにぼやく。

 

「うちの預金通帳とか実印とかどうしてたっけ?」

「あれなら今日銀行行くつもりだったから診療所に置いとる。寝泊まりもそっちですれば当座はしのげるからの、不幸中の幸いよ」

 

 そんなことを言っている間にも中年男性のHPはガンガン目減りしていっている。もはやちょっと可哀想なくらいだ。

 

「てか、僕の靴とかどうしよう。発掘できるかなぁ……」

「ああ、それなら、宵丸! そんな産廃物の相手しとらんでこっち来い!」

「そうだね」

 

 あっさり男を見限り、澪の前まで歩み寄ってきた宵丸はどこに持っていたのか服やら靴を取り出した。

 

「はいこれ服と靴ね。承太郎ん家で着替えさせてもらいなよ」

 

 抜け目のないことに、澪の服や何やらはちゃんと持ち出していたらしい。

 

「わ、ありがとう! よかった!」

「あとこっちは荷物、パスポートとかその他必需品は全部入ってるから。ぜーんぶ」

 

 ぽんと渡されたのは愛用している小さめのリュックサックだった。

 

「うん、ん?」

 

 予想外の荷物を渡され、困惑顔をしていると宵丸が首を傾げた。

 

「旅行、行くんでしょ?」

「あ、いや、そのつもりだったんだけど……なんで知ってるの?」

「父親の勘」

 

 勘とか言われたら反論のしようがない。

 

「絶対反対されると思ってたよ」

 

 何せ澪至上主義な義父たちなのだ。反対されない方が不自然なほどに。

 

「え、だって」

 

 義父たちは揃って承太郎に視線を移し、同時に言った。

 

『承太郎がいるし』

「え?」

 

 どういう意味だろう。

 承太郎も怪訝な顔で義父たちを見ている。

 

「色々大変かもだけどさ、もう、最悪の場合は承太郎の服の間にでも入ってじっとしてればなんとかなるから」

「なるの!?」

「なる」

 

 なぜか断言する義父ふたりである。

 

 うちの父達の間では承太郎はどんな扱いになってるんだろう。核シェルターだとでも思っているのだろうか。

 宵丸はそのまま承太郎の前に立ち、珍しく、本当に珍しく頭を下げた。

 

「うちの娘、よろしくね」

「ああ」

 

 しっかりと承太郎も頷く。

 

 とりあえず澪は風邪を引かない内に着替えるべく空条家へと取って返した。シーザーを伴って。

 

「ところで、あのスタンド使いは……」

 

 アヴドゥルがおそるおそる、といった体で問いかけると、宵丸がしれっと答えた。

 

「あの汚物ならこれからごうも……男と男の話し合い(物理)を駆使して「ぶうぶう」と「ありがとうございます」しか言えないくらいにしてから、知り合いが人材探してたからそこにぶっ込むつもりだけど?」

「そこ、とは……」

 

 宵丸はちょっと考えてから、気持ち悪いくらい爽やかな笑顔でこうのたまった。

 

「そうだね、映画で例えるなら『変態村』みたいなところ」

 

 ※良い子は検索しない方が懸命です。

 

「そうですか」

 

 そしてアヴドゥルは考えるのをやめた。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 和室のひとつを借りて、障子を閉めて着替えを始めた。

 宵丸が取っておいてくれたのは、お気に入りの服だった。

 

「どうあっても行くつもりなんだな」

 

 障子越しに聞こえるシーザーの声。

 

「うん、ごめんねシーザー。でもDIOのあん畜生は五、六発殴って叱り飛ばさないと気が済まない」

 

 人の家壊しやがってあの野郎。

 

 無体な真似をした弟を叱るのは姉の役目である。もしかしたら本人に意図はないかもしれないが、それでも問い質すくらいは権利の内だと疑いなく思う。

 靴下を履いて、パーカーを羽織る。

 

「……シーザーの言うとおり、僕はただ傷つくだけかもしれない」

 

 障子の向こうで息を呑む気配が伝わった。

 

 それでも言葉を止めようとは思えなかった。今しか言えないことが本能で分かったから。

 

 ジョセフは人の思考を読み解くことには長けているが、心の機微に疎いところがある。承太郎と花京院はまだ若く、アヴドゥルと澪では縁故が浅い。

 だから、これを口にできるのはシーザーの前だけだった。

 

「僕の知ってるディオは、今のDIOとぜんぜん違うかもしれない」

 

 人は成長する。良くも悪くも。

 まして相手は百年以上を過ごしてきた人ではないものだ。過去の記憶と合致しない部分があったとしても当たり前だ。精神は連続していても、生きている以上必ず変化がある。不安でないわけがなかった。

 

「思ってることが、ちゃんと伝わらないかもしれない。言葉が届かないかもしれない」

 

 それでも時間は待ってくれないから、容赦してくれないから、強がり吐いて踏ん張っているのだ。

 

「それでも、会わないと──始まる前から終わっちゃう。それは駄目なんだ」

 

 それだけは駄目だと強く思う。そちらの方が、今抱いている不安よりもなお重い。

 言葉が続かなくて躊躇っていると、シーザーが言葉を発した。

 

「入っていいか?」

「あ、うん」

 

 思ったよりずっと優しい声に、自然と障子を開けていた。

 澪の記憶よりも少しだけ皺が増えて、それでもシーザーの眼差しは変わらなかった。

 

「澪」

 

 シーザーは名前を呼んで、そのまま両腕を伸ばして澪を抱き締めた。

 さっきのような力は入っていなかった。

 シーザーの身体は染みるように暖かくて、ほんのりと香る石鹸のそれは変わらない。ゆっくりと背中を滑る手はただ優しかった。

 

「止めねぇよ」

 

 囁くように耳に響く声も、柔らかかった。

 

「もう止めねぇ。だから、言え」

 

 命令みたいな言い方なのに、頑是無い子供を諭すような声だった。意地っ張りの子供を宥めるような、弱音を堪える妹を心配するような、そんな。

 

 背中を滑っていた手が、頭を撫でる。

 

「大丈夫だ、ここには俺しかいないから」

 

 その言葉がとどめになって、澪は逞しい腕にしがみついて、胸元に顔を押しつけて。

 

「──ほんとうは、こわいよ」

 

 くぐもった声で、弱音を漏らした。

 

 そうだ、本当は怖い。びびりまくりだ。

 

 シーザーの言葉にほんの少しでも心が揺れなかったと言えば嘘になる。

 抱き締められる腕に力が入る。守ってくれてるみたいだった。そうしたらもう、止まれなかった。

 

「僕はディオが大事だよ、かぞくだから」

「ああ」

「でも、ホリィさんも好きなの。優しくて、あったかくて、ほんとに、すき」

「分かってる」

「どうするのが正解なのか、わかんないよ。ディオに会いたい、でも会うのだって怖くてたまらない。みんなに幸せになって欲しいのに、方法も分からない。──誰にも死んで欲しくなんて、ないのに」

 

 声が震える。シーザーはただ相槌を打ってくれていた。

 

「どうすればいいのかなんて、ひとつも分かってない。けど、わかんないまま放置したら一生しんどい。動かなかった僕を、僕は許すことができないから」

 

 そうなってしまえば、おそらくは、澪自身が澪という人格を殺してしまうだろう。後悔という名の泥濘に沈んだまま、二度と浮かぶことなどできない。

 それが分かっているから、澪は進むしかないのだ。

 例え辛酸の海に浸かり、茨に身体を蝕まれる痛苦の道であったとしても。

 

 血を吐くような独白がそこで途切れ、やがて小さな声が聞こえた。

 

「……ごめん、ごめんねシーザー。ごめんなさい」

「なんで謝るんだ?」

 

 苦笑を含んだ声は飴玉のように甘くて、それがなんだか胸に痛い。

 堪えきれない嗚咽のように、言葉は続く。

 

「ぼく、シーザーの優しさにつけ込んでる。受け止めてくれるの分かってるから、捌け口にしてる。だからごめん。弱くてごめん、選べないのに、それでもシーザーに頷けなくて、ごめんなさい」

 

 情けなさで顔が上げられない。解決法も見出せないことをぐだぐだ言って困らせるだけなんて、最低じゃないか。

 けれど聞こえてきたのは、小さく吹き出すような音だった。

 

「つけ込ませてるのは俺だろ? 下手人に向かって謝ることなんてひとつもねぇよ」

「でも」

 

 思わず顔を上げると、苦笑しているシーザーの人差し指がふに、と澪の唇に当てられる。

 

「いいんだよ」

 

 内緒話のように、シーザーの言葉が紡がれる。

 

「阿呆で、無鉄砲で、底なしに優しいのが俺の知ってるお前だ。だったら、悩みも葛藤も抱えたままでいいから遮二無二突っ込んで来い」

 

 それでも、とシーザーが続けた。

 

「もし、どうしようもなく動けなくなって、芯から絶望したら……戻って来たっていいんだ。誰も咎めねぇし、咎めるような野郎はこのシーザーが許さねぇ」

 

 シーザーの手が繊細な動きで頬を包む。ごつごつしてるけど、温かい、優しい手だ。

 鮮やかな翡翠めいた瞳の奥に見える、強い輝き。

 

「俺はずっと傍にいる」

 

 それは物理的な距離のことを言っているのではないと、すぐに分かった。

 

「お前の涙も、苦悩も、丸ごと全部担いだって潰れやしねぇよ。何しろ五十年越しなんだ、離れる気なんて毛頭ないから安心して──行ってこい」

 

 そして、シーザーは自分の羽根飾りをひとつ取ると、澪の服にそっとつけた。胸元でふわりと存在を主張する、シーザーの羽根。

 

「貸してやるから、とっとと返しに来いよ」

 

 茶目っ気混じりにウィンクをひとつ。

 

Non vedo l'ora di incontrarti.(君に早く会いたくて仕方ない)

 

 それでようやく澪の緊張も薄れた。

 

「うん、ちゃんと、大事に持ってる」

 

 託された想いの証に指先で触れて、澪はほんのりと笑った。幸せそうに。

 

「あのね、さっきの言葉、本当に嬉しかった。さっきも言ったけど、ありがとう」

 

 澪は両手を懸命に伸ばしてシーザーを抱き締め返した。なんだか苦しくて、泣きそうで、でもいやな気持ちではなかった。

 泣きそうな顔で、それでも嬉しそうに、ただ思ったことを唇に乗せる。

 

「ここにいてくれて、生きててくれて、また会えてよかった。ありがとう、ありがとうね──大好きだよ」

 

 その言葉に、一瞬シーザーは困ったように眉を寄せ、誇らしげに呟いた。

 

「俺なんか愛してるぜ。凄いだろ」

 

 そうして、シーザーは実に自然な動作で澪の両頬に手を添えて軽く持ち上げると、その額に柔らかく唇を落とした。

 

 まるで神聖な儀式めいた、小羽のような口付けだった。

 

 そして、そのままお互いの額をくっつけたまま、祈るように囁く。

 

「──In bocca al lupo」

 

 

──きみに幸運を

 

 

 

 

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