ジョナサンの目に、ミオは茫然自失として見えた。
大切にしていた家族が逮捕されそうになり、死んで、生き返って、超人的な化け物になった。
しかもディオはミオをすら自分の仲間にするつもりらしい。失神していないだけで大したものだ。
自分の研究対象であった石仮面で起きた悲劇。ジョナサンはそう思い、責任は自分が取らなくてはならないという覚悟を決めた。
ここでディオを倒さなければ、野に解き放ってはいけないと本能が訴えている。相打ちになったとしても構わない。ジョナサンには彼を殺す義務と動機があった。
だからこそ、ミオには逃げて欲しかった。
優しい姉に弟たちが相争う姿を見せたくなかった。ディオの仲間になんてなって欲しくなかった。愛しい姉が人を貪り食らう姿などジョナサンには耐えられない。もし、ミオまでそんな化け物になってしまっても――自分では彼女を殺せない。
だから、どうか。
「姉さん! 逃げろ! 逃げてくれ!」
ジョナサンの決死の訴えに、ミオはまるで迷い子のように自分とディオとを見比べる。
そして、幽鬼のように立ち上がると、くしゃりと顔を歪ませて。
「――ばかぁッ!!」
怒号とともにどん、と床が鳴動した。
「!?」
ジョナサンには何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
けれど気付けばディオとミオとの間にあった距離が吹っ飛び、瞬足で跳躍した矮躯がディオに肉薄していた。ディオすら反応が遅れた。まさか彼女が行動を起こすとは思わなかったのだろう。
その顔面に、渾身の力で膝蹴りが叩き込まれる!
「ぐ、ぅ!?」
膝がディオの鼻を潰し、僅かな血が雨粒のように舞う。予想外の攻撃にディオが体勢を崩し、天井から落下する。
そのまま頭を両手で掴んだミオは真上に飛翔、天井を蹴って器用に体勢を立て直し更に追撃する。
「ばか、ばか、ばかぁ! ディオのばかッ!」
子供じみた罵声とは裏腹に、その膂力は驚異的ですらあった。
あの華奢な身体にどれだけの力が込められているのか頭部をけたぐり、延髄めがけて踵を落とし、殴られそうになれば回避行動。ただでさえひらひらする寝間着ですそを結んでいたから普通にぱんつが丸見えになっていたが気に留める者はいなかった。
繰り出す攻撃に迷いはなく、迅速で、明らかに戦闘経験を積んだ人間にのみ許される動きだった。着地と同時に信じられない脚力で床を蹴り、距離を稼いで猟犬さながらの低い姿勢でディオを睨め付けた。
ジョナサンには目の前で繰り広げられる光景が信じられず、ただ呆然と成り行きを見守るしかなかった。
「ミオ、貴様ぁ……なにを」
「うるさぁい!」
ずどん。
さっき殺された警察官から拾ったのか拳銃を容赦なくぶっ放した。
どこで習ったのか的確に銃弾はディオの膝頭に直撃し、即座に回復というワケにいかないらしくがくりとバランスが崩れる。死なないのが分かってるとはいえ、びっくりするほど手加減がなかった。
ジョナサンにもスピードワゴンにも、もちろん警官にも手出しができない、それはミオの独壇場だ。
「は、はぁっ……」
使い物にならなくなった拳銃を未練無くポイ捨て、さすがに疲れたらしく短く息を切らし、それでもぐっと力を込めて息を吸い込む。
「ディオ!」
「う、くそッ」
まだ自分の身体能力の把握しきれていないためか、片膝をついたディオの前につかつかつかっと走り寄りジョナサンが止める間もなく――ミオは飛びつくようにしてディオのほっぺたを両手で掴んで思い切り引っ張った。
「なんでいきなり人間やめちゃうの!」
ぐみょっとディオの顔が歪んだ。
「……はァ?」
間抜けに広がったディオの口の端から思わず、といった声が漏れる。周囲の人間も同じ気持ちだっただろう。
それでもミオは止まらない、ぐいぐいほっぺっをつねくりながら癇性な駄々っ子のように眉を寄せる。頬には赤みが差し、桜色の瞳が心なしか潤んで。
「あーもう牙なんか生やしちゃって! 吸血鬼か! しかもパパさんに毒盛って、更にジョナサン殺そうとするなんてそりゃ止めるよ! 叱るよ! 怒るよ怒髪天だよ激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームだよ!」
最後の意味はよく分からなかったが、とりあえずミオが怒っているというのは全員理解した。
「家督と財産ぶんどるならもっとスマートな方法あったでしょ!? ディオは頭いいんだから! 主に悪知恵特化だけどね! それを、こんなおおごとにしちゃって……」
声が、指先が震え、ようやくディオのほっぺたを解放して、それまでの火の点いたような勢いはどこへやら。ミオはひどく消沈した様子で弱々しく。
「でも、生きててくれたのは、嬉しかった。ほっぺたがあったかくてよかった。すごく安心した。ぶっちゃけ泣きそうです」
愚直に、つまりはただ素直に思ったことを訥々と。
「ッ!」
ディオの深紅の瞳が驚きと、僅かな戸惑いに見開かれた。
それに気付いているのかいないのか、ミオはディオの胸辺りを苛立ち紛れかぼっすぼっす叩く。
「もう、人間やめちゃったのはしょうがないし、ディオがディオなら僕はいいんだけど……」
いやよくねぇよ、と言いたいスピードワゴンは空気を読んで黙っていた。命は惜しい。
「……」
ミオの八つ当たりめいた殴打など蚊ほども効いていないのか、ディオは特に反撃することなく話を聞いている。
そう、つまるところミオはディオが化け物になったことに対してはほぼ無関心だった。
人外の力を得ても、人を主食にする化け者に成り果てたとしても、それはミオにとってなんの障害にもならない。
人でなくなっても、家族は家族だ。
それはミオの中で絶対に覆ることのない真理だった。彼女にとってのこの状況は『馬鹿な弟が変なことをやらかした』に過ぎない。
だから、彼女の一連の行動はディオを糾弾するためのものでも、まして倒すためのものでもなくて。
「これからどうすんのさ。人を殺したんだからこの先はお尋ね者で、ずっと日陰者になっちゃう」
困惑と不安に揺れる声音が途切れ、ディオのコートを掴んだままミオは俯く。そこには嫌悪も恐怖も悪意もなく、ただただどうしたらいいのか分からないと困り果てた様子だった。
「家族でいられなくなっちゃう」
それは不器用な姉が弟にできる精一杯の叱責で、声なき嗚咽だった。
「どうしよう、ディオがひとりぼっちになっちゃうよう……」
正義の味方なんかじゃないジョースター家の異端児は、ただ可愛い弟が人をやめてしまったことを嘆いて、心配しただけだったのだ。
「……ふ、」
水を打ったような静寂の中、不意にディオが口の端に笑みを刻んだ。
「ふふ、はははは、はははははッ!!」
喉も割れよと言わんばかりの呵々大笑が浪々と室内に響き渡り、ディオは衝動のままにミオを抱き締めた。
「ぅぎゅッ」
「そうだ! それでこそミオだ! 俺に、俺にこそ相応しい、ただひとりの女! ああ、姉さん、そんな心配は無用のものなのだよ!」
やけ芝居がかった台詞でディオは恍惚の笑みを浮かべた。
「言っただろう、ミオは俺の世界へ、俺の統べる夜の世界へ連れて行くと!」
そう言って、ディオがもう片方の手を閃かせる。握られていたのは、いつの間にか回収していた石仮面。
「ディオ、やめろぉおおおおお!!」
いち早く状況を察したジョナサンが吼え、それでもディオは止まらない。
「ミオ、お前の全てはこのディオのものだぁああッ!」
抵抗する間もなくミオは頭をディオに頭を鷲掴みされた挙げ句に視界が真っ暗になった。
「!?」
「愛する姉への供物は当然、最愛の弟であるべきだよなぁ、ジョジョぉお?」
「くそっ、姉さん早くその石仮面を外すんだ!」
ここで、ひとつの誤算があった。
実のところ、ミオの身体は既に労咳に侵され余命幾ばくもなく、残り少ない命を燃やし尽くすようにディオへと突貫した。
魂に蓄積された全ての技量を喚起して、肉体以上の力を引き出して、限界を超えて酷使した肉体は既に疲弊し尽くしていたのだ。
だから、
「――ぅぐっ」
石仮面の中で我慢し続けていた咳が出てしまうのは仕方がないことだった。
そして、それが咳どころか喀血であったとしても、仕方がないことだった。
「か、はッ」
内部から付着した血液に当然石仮面は反応し――ミオの頭部全体に衝撃が走った。
茨の棘もかくやという骨芯めいた管が頸椎を砕き、頭蓋骨を貫通し脳髄へと潜り込む感覚がいやでも分かってしまう。
そこにはディオの言うような超人への変貌などではなく、明確な死の予兆だけがあった。ミオにはそれがおそろしいほどに理解できてしまった。抵抗も何もない、断頭台の綱が切れたも同じだ。
虜囚にできるのはただ椿の花のように、落ちるときを待つのみ。
だから、きっとそれは奇跡だった。
何かの間違いで生まれてしまった自分が、それでも慈しみ育ててくれた愛しい家族へ向けることができる最後のはなむけ。
許されているのは断ち切られた首が数度、瞬きをするだけの刹那。
ほんのひとことだけでいい。ひといき。それだけでいいから。
伝えたいことがある。
「、な」
動け、口。
「ながいき、してね」
響け、こえ。
「たのしかった」
とどけ、ことば。
「いままで、ありがと」
貪り尽くされようとしていた最後の命のひとかけら。
石仮面の中でひっそりと笑って、暗闇の中で目を閉じる。声が届いたことを祈りながら。
「――ねぇさぁあああん!!」
ジョナサンの絶叫が、なぜか遠い。
「おのれ、ディオぉおおお!!」
「ははははッ、ようこそミオ! 俺たちの夜の世界へ!」
ジョナサンの怨嗟の声とディオの高笑いが重なって響き渡り、ミオの意識は痛みすら感じる間もなく、ブレーカーでも落とすように漆黒よりなお暗い色に塗り潰された。
けれど、不思議なことに仮面が輝きを放つことはなかった。
「――」
ディオの腕の中で唐突に、だらりとミオの全身から力が抜ける。いつまで経っても復活の気配は微塵もない。
弛緩した身体はディオの拘束から容易く滑り落ち、華奢な身体がごろりと投げ出され、役目を終えた石仮面が転がり落ちる。
拘束から抜け落ち、ようやく晒された、かおは。
「ねぇ、さ、……ッ!」
縋るように声を上げ、見てしまったジョナサンの表情がみるみる硬直し、引きつり、直後――割れんばかりの慟哭が室内を満たした。
「あ、あああ、ああああッ!!」
ジョナサンの眼球が限界まで見開かれ、涙が零れ落ちる。
そこにあったのは超人でも吸血鬼でも、屍人でもない、頭部のいたる場所から血液を滂沱と流しながら物言わぬ肉の袋と成り果てた、ただの亡骸だった。
もう、ジョナサンには喉も潰れよと叫ぶしかなかった。
「ばか、な」
そしてそれは、目論見の外れた下手人も同じで。
「……こんな、馬鹿な。馬鹿なぁああ!!」
ディオが恐慌を起こしたように天へ向かって雄叫びを上げる。
身体が既に死病に侵されていたからか、それとも頭のサイズが合わなかったのか、或いは――その魂が石仮面を拒否したのか。
過剰なまでの破壊力は脳細胞から脳幹に至るまでを粉砕し、幸か不幸かミオは石仮面の力で再び目覚めることなく絶命した。
そして、
「おのれ、ディオおおおおお!! 貴様は、貴様だけはぁああ!」
ジョナサンの心は愛する姉を失った怒りと悲しみの生み出す比類無き劫火に焼かれ、
「UUURRRRYYY!!」
ディオは初めて恋した少女を自らの手でぶち殺してしまったという衝撃と、ほんの僅かな懊悩が心に消えぬ瑕疵となって刻まれたのだった。
☓☓☓☓☓
ミオの亡骸はジョースター家の火災に巻かれて骨も残らず消えて失せ、同時に写真等のミオの痕跡全ては跡形もなく焼失してしまった。
彼女が死病に侵されていたことをジョナサンとエリナが知ったのは、全てが終わったあとのことだった。
ジョナサンはディオへの怨嗟と正義を以て波紋を会得し、死闘の末にディオを倒すことに成功する。
敗北を喫し、首だけとなったディオはジョナサンの肉体を奪うことに成功するも石棺の中で長い長い眠りにつく。
そして百年の旅が始まる。