時刻は既に夕方。
いましも海に溶け落ちようとしている太陽に照らされる甲板は、全てが橙色に染め上げられて美しい。
花京院の奮闘むなしく、船内には誰一人として自分たち以外の人間を発見することはできなかった。
となると、この船で自分達以外に生き物と呼べるのは、人間ではないものの、その進化の樹形図がごく近い動物が一頭きり。
「……」
少し考えてから澪は承太郎の肩を軽く叩いた。
「承太郎、僕さ、あのオランウータンもっかい見に行きたいんだけど」
「いいぜ」
短く了承してくれたことに安堵して、大人しく背後霊している澪だった。
「なんつーか、後ろから見ると背後霊っつーよりガキ背負ってる父親みたいだな」
ポルナレフの言葉に花京院も頷き、苦笑する。
「澪の髪が白いせいか、わたしには姥捨て山のように見えてしまったよ」
「ウバステ?」
どうやら聞き馴染みのない言葉だったらしく、ポルナレフが首を傾げる。
「日本の……そうだな、悪い因習さ。年老いて、もはや動くこともままならなくなった老人を山に捨てる。口減らしのためにね」
「げ、ひっでぇ話だな」
「今はない、ただの昔話だよ。そう見えてしまった、というだけのことだ」
外見はともかく、係累で考えれば澪は一応承太郎の曾祖伯母に当たるので、あながち間違ってはいないのかもしれない。
一方、彼らがそんな話をしているとは露知らず、澪と承太郎はオランウータンが入っていたはずの檻を凝視していた。
「あのエテ公、どこに行きやがった」
彼の言う通り檻は錠前が外されており、中は空っぽ。どう考えても不在です。
中にはリンゴは分かるとしてなぜか成人向け雑誌と煙草。それに使用済みのマッチなどが乱雑に入っている。
澪はずっと抱えていた懸念をつぶやいた。
「オランウータンでもスタンド使いって可能性、あるかな」
承太郎は落ちていた錠前を握り、憎々しげに眉をつり上げる。
「お目にかかったことはねぇが、そう考えるのが妥当かもしれねぇな」
二人はそのままオランウータンを探すべく更に船内の探索を始めた。
警戒しつつ薄暗い廊下を歩いていると、ふと澪の頭にどうでもいい不安が浮かぶ。
「そういえばさぁ、僕どうやって寝たらいいんだろうね」
船内のあらゆるものに触れない現状、寝っ転がって惰眠を貪るなんて夢のまた夢だ。
「最悪、誰かを下敷きに寝させてもらうしか……!」
これが本当の肉布団。
「誰かの腹にひもでも繋いでりゃいいだろ」
「ヒモ!? 犬か! 僕の扱いひでぇなホントに!」
一晩バンジーでもしてろと言うのか。
「しかもそれめっちゃ苦しいよ。寝るどころの話じゃない……」
「冗談だ。べつに、俺の上で寝りゃいいだろ」
上で寝るとか言うと外聞が非常に悪い。
「わぁリアルトト口じゃーん」
そんな気の抜ける会話もここまでだった。
「キャアアアアアッ!!」
突然響き渡った絹を裂くような悲鳴は紛れもない密航少女のものだ。
「アンちゃん!? ヤバい、急げ承太郎初号機!」
壊れたテレビを直すように承太郎の頭をべしべし叩く澪である。
「テメェ、俺のこと便利な乗り物だと思ってやがるな」
「人聞き悪いこと言うな! 僕が走れるならそうしてるわ!」
承太郎はぼやきながらも野生の獣のように走り出し、悲鳴の発生源であるシャワー室へと駆け込んだ。
すると、探していたオランウータンが今にもアンへと襲いかかろうとする瞬間だった。
「おい」
承太郎は床を蹴り割るような勢いでオランウータンに肉薄、持っていた錠前でナックルよろしく思い切りその顔をぶん殴った。
「ギィッ!?」
「ジョジョ! それに澪も!」
アンが驚いている間にも顔面から血液を噴出し、慌てて逃げようとした巨猿へと承太郎は更に追撃。錠前をピンポイントで投擲する。
「テメーの錠前だぜ、これは」
「うわああアンちゃんまさかの半裸!?」
承太郎と巨猿の対決などには目もくれず澪は悲鳴を上げた。
アンはせっかく身体を洗えたのにまた水没してしまったためか、シャワーを浴びていたらしく全裸にタオルを巻いたきりだ。
「もしかして襲われたの!? このクソ猿許すまじ!」
澪が怒りを燃やす中、承太郎の放った金属製の錠前は狙い違わず巨猿の頭部にぶち当たったものの、衝撃に耐えた巨猿は承太郎の胸ぐらに掴みかかった。
その瞳は他の動物ではありえない、人間的な怒りの感情がにじみ出ている。
「このエテ公、ただのエテ公じゃあねぇ……ひょっとすると、やはりコイツが」
「ギィイッ!」
巨猿は奇声を上げ、その身体に見合わぬ恐るべき俊敏さで承太郎に蹴りを放とうとするが、それを承太郎の『星の白金』が迎え撃った。
青い豪腕がその足先を受け止め──その刹那、船室の背後で静かに駆動していたファンが突然外れ、意思持つ機械のように承太郎の肩を強襲する。
が、そこには今の状況だとかなり頼もしい背後霊がひっついたままだ。
ぽぉんッ!
「ッ!?」
巨猿が目の前の状況が理解できず、黒目を外れそうなほどに瞠って驚愕しているのがありありと伝わってきた。
「引っ付けてて正解だったな」
肩へと突き刺さるはずだったファンは澪に触れるか否かのギリギリでポン菓子みたいな音を立てて大きなハート型の葉っぱへと姿を変え、承太郎は無傷である。
「……澪、お前のそれは暴走でもなんでもねぇようだ」
「だね」
合点がいった澪も頷く。
相手の害意あるスタンドを平和的に無効化するのが、現時点で分かっている自分のスタンド(?)だ。
「扇風機を外したのがこのエテ公なら、スタンド使いはこいつで間違いねぇ」
船体のあらゆるものにも触れなかったのも当然である。相手はこちらを虎視眈々と狙っていたのだ。
つまり、敵意があった。
「そしてこいつのスタンドは──この貨物船だ!」
この貨物船そのものが罠であり、テリトリーであり、スタンドだったのだ。
だから、澪には触れることができなかった。疑問の氷解した澪はとりあえず一番大事なことを言った。
「アンちゃん早く着替えておいで!」
「う、うん!」
「承太郎はあのクソ猿の両目を重点的に潰して下さい!」
嫁入り前の乙女の柔肌を見た罪は重いのだ。
澪は慌てて着替えに戻ったアンのあとを追いかけようとしたのだが、なぜか承太郎がその腕をがっしり掴んで再び背中に乗せた。
「ちょ、なんで!? アンちゃんがぁあ!」
「エテ公潰すのが先だ。危害加えるヤツがいなくなるだろうが」
「なるほど!」
「おまえは大人しくひっつき虫してろ!」
言うが早いか、承太郎は『星の白金』とともに再び突貫。
「ホォオッ!」
巨猿の叫びで窓硝子が砕け、それらは鋭利な刃物となって承太郎へと飛来する。
「澪!」
「おす!」
澪が承太郎の両肩を押さえて前に出れば、それらもパパパンッと爆竹のような音を立てて白い花弁と化して散華した。
障害のなくなった『星の白金』は今度こそ巨猿の腹めがけて砲弾のような一撃を放とうとした、が。
「あっ」
「クソッ、逃げ込みやがった!」
巨猿が背にした壁はまるで彼を守るようにその壁を隆起させ、包み込んだ。『星の白金』のパンチで大きく壁が凹んだものの、猿には当たらなかったようだ。
スタンド使いがスタンドと一体化してしまっては、気配が探れない。
同時に、ガクンと船体が大きく揺れた。
転覆、ということはないだろうが縦揺れの地震にも似た激しい振動だった。
「あんのクソ猿! 上でもなんかしてるみたい!」
「……チッ」
「ジョジョ!」
着替えを終えたアンがこちらの傍に戻り、承太郎は油断なく周囲を警戒する。
澪も警戒を解くことこそなかったが、承太郎の背中からふんわり落ちてアンの手を握った。
「アンちゃん、大丈夫? 怖かったよね、助けに来るの遅れてごめんね」
「大丈夫よ、ありがとう。それより澪、あなたなんでそんなに軽いの!? まるで風船みたい!それも手品なの!?」
「ウンソウダヨ!」
「なんで片言なの……」
それがいけなかった。
突如として承太郎の背後から循環用のパイプやホースが不自然に伸び上がり、承太郎と『星の白金』両方を壁に縫い付けてしまったのだ。
折悪くアンがそのパイプの一本にぶつかって澪ともども承太郎から距離が空いてしまう。
「離れるなっつったろうが!」
振り解こうともがきながら承太郎の怒号が響く。心なし『星の白金』の目も非難がましい。
「ごめん、ごめんーッ! 今ほどくか、らッ!?」
一気に蒼白になって米つきバッタみたいに頭を下げていた澪の背後──壁からにゅう、と伸びた剛毛の目立つ巨腕がその華奢な腕を掴んで、ひねり上げた。
こうして見るとオランウータンと呼ぶのもおかしいほど巨大で、威圧感すら感じる。
「いって……ッ!」
「澪!」
アンが悲鳴を上げ、ずるずると壁から湧き出すように姿を現したオランウータンは、なぜか船長服を纏っていた。
相手はスタンド使いでも生身の動物。スタンドそのものではないのだから、澪でも消すことはできない。
仮にこの場で無理矢理離れられたとしても、床が陥没して落下は免れない。この状況では助けなど期待できないから溺死してしまう。
それらをこれまでの攻防で理解しているのか、巨猿は心なし優越感に満ちたような目でもう片方の手に持っていた辞書をこちらへと見せつけてきた。
そのページには、
『Strength』
1、Force(力)
2、Energy(元気)
3、Power(勢い)
4、Aid(助け)
:
:
9、タロットで8番目のカード。
挑戦、強い意志、秘められた本能を暗示する。
という文字の羅列。
要するに、このオランウータンのスタンドは『力』ということだろうか。
しかしさすが人間の五倍はあるという巨猿の腕力。澪の力ではふりほどけない。まして、平素でも難しいのだから今の重量ではほぼ不可能だ。
そして巨猿は、勝者の余裕なのか無害なアンへと視線を定め、口の端をにんまりと引き上げる。どうやら彼女がお気に入りらしい。
成人向け雑誌があったということは、この猿は人間の女性が好みなのだろうか。
「──ッ!」
それを理解して、澪の頭に血が上る。
それまでの雰囲気から一変、猛火のような怒気を纏って腕をひねり上げられたまま、拘束されていないもう片方の手を伸ばして巨猿の頭部をわし掴んだ。
握りつぶしても構わないという勢いで力を込めて、接近し、グリッとこちらを向かせて視線を合わせ、肉薄し、
「おい、猿」
殺意にぎらつく双眸を隠しもせず、まるで心臓に氷柱を撃ち込むように。
「アンちゃんになんかしたら──挽肉にして鮫の餌だ」
脅した。
「ヒ、キャアアッ!」
怯み、脅え、未知の恐懼に駆られた巨猿は、本能が訴える絶対的な命令に従い──それまでの余裕をかなぐり捨てて、自分を脅かす恐怖の原因を突き飛ばしてしまった。
澪の矮躯はポォン、と放り投げられて中空でゆるく弧を描き、そこへ伸びてきた二本の青い指へと溺れた人のようにしがみつく。
「スタプラさんファインプレイ!」
『星の白金』の伸びた指が元に戻り、澪がそのまま『星の白金』の身体に抱きつけば全ての拘束が無害な植物へと変化して彼を解き放ち、隣の承太郎へと同じように飛びついた。
触れた端から拘束はひょろひょろと蔓植物へと姿を変え、あっという間に承太郎はぶちぶちとそれらを千切って自由の身になった。
「やれやれ、ようやく躾の時間だな」
こきり、と承太郎が肩を鳴らす。
もう、彼らを阻む障害はなにもない。
「覚悟しろよ、エテ公」
そして繰り出された『星の白金』の驟雨の如きパンチは、壮絶すぎて引き合いに出せるものがなかった。
──敢えて言うなら、百裂拳だろうか。
精密射撃のような拳の乱打を全て喰らったオランウータンはボロ雑巾と化し、意識を喪失。
同時に彼のスタンドで構築されていた貨物船はボロボロと崩れ始め、ジョースター一行は乗ってきた救命ボートで再び漂流することを余儀なくされた。
「なるほどのう、澪のスタンド(?)が出た時にもっと疑うべきだったわい」
「ぼくも、身体が壁の間にめり込んだ時にようやく気付きました」
どうやら甲板の方では、ジョセフやアヴドゥルを圧死させるべく床が彼らを呑み込んでいたらしい。
花京院の『法皇の緑』も壁の内部で掴まってしまい、手も足も出なかったとか。
「暴走じゃなくて安心したよ。あと早く気付けてよかった」
明日まで攻撃されなかったら、夜が大変だった。
「……承太郎の肉布団とか硬そうだし」
「肉布団?」
首をひねるポルナレフに、澪は曖昧に笑って手を振った。