星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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閑話.ねがいごとのよる

 太陽と入れ替わりに浮かぶ月は丸く輝き、星々が彩りを添える。

 その明かりを吸って発光している薄い雲。

 

 風が髪を乱し、船の進む音がする。

 

 あちこちから寝息が聞こえた。救命ボートの上で、起きているのは澪とジョセフだけだ。

 数日とはいえ、漂流中にはそんな夜があった。

 

「ねぇ、ジョセフ」

 

 波を見つめてぼんやりしていた澪は唐突に、ジョセフに声をかけた。

 

「どうした?」

 

 潮風の匂いと満天の夜空。

 想起される思い出に浸りながら、澪はボートにもたれて、猫のように笑う。

 

「僕ねぇ、うた、覚えたよ。あれから」

「うた?」

 

 自分にとってはほんの少し昔でも、ジョセフにとっては遠い過去。

 思い出をたぐるように、言葉を足していく。

 

「ん、子守歌。英語のやつ」

「こも、あ、ああ~~~~」

 

 ジョセフの顔が、瞬間湯沸かし器みたいに真っ赤になったのが暗闇でも分かった。思い出したのだろう。

 修行中、ジョセフは澪に子守歌をねだったことがあった。内臓に仕掛けられた毒入りの指輪という時限爆弾。

 

 いつとも知れぬ死への恐怖に怯え、眠れぬ夜があったのだ。

 

「……頼む、忘れてくれ」

 

 がっくりと項垂れ、まるで黒歴史と言わんばかりだった。

 

「それは難しいなぁ」

 

 ほのぼのと笑って、瞳にうっすらと翳りが差す。それが懐古の色だとジョセフには分かった。

 

 いつでも空は空で、夜は夜だ。

 

 ジョセフと出会うよりもずっとずっと昔の、思い出の欠片が針のように輝く星に刺激されて、浮かび上がる。

 

「……昔、ジョナサンが歌ってくれたやつも思い出したよ」

 

 それは、まだ澪が『ミオ・ジョースター』だった頃。

 

 ミオ自身が病を得て寝付いてしまっていた頃、寝過ぎて眠れないとぼやいたらジョナサンが歌ってくれた。

 不器用で、調子っぱずれで、困ったように、優しい声で。

 

「そうか」

 

 ジョナサン・ジョースター。

 

 ジョセフの祖父で、ミオの弟。

 

「うん」

 

 それきり言葉は途絶え、苦にならない沈黙が満ちた。

 

 月の前を薄い雲がたなびき、紗幕を隔てたようにぼうやりとしている。

 降り注ぐ光は、しらしらと明るい。

 

 夜空を見上げたジョセフは、ごく素直に問いかけた。

 

「澪、DIOに会ったらあいつを倒せるか?」

「どうかなぁ」

 

 澪も暗闇にだからだろう、素直に答えた。

 

「叱りたいとか殴ろうとか、ホリィさんのこととか、色々考えてるけど……とりあえずは会いたい、かな」

 

 義弟が生きているなら、会いたい。とても単純な動機だ。

 

 澪の記憶に残るディオは、可愛くない義弟で、家族を手に掛けようとしたハイテンションな吸血鬼。

 

 あの時、ディオは自分を夜の世界へと誘った。

 ようこそ、と口にされた言葉は期待と歓喜に満ちあふれて、本当に嬉しそうだった。それは結局、叶わなかったけれど。

 

 今でも彼はひとりぼっちなのだろうか。

 

 彼の称した夜の世界で、たったひとり、孤独な王者として君臨しているのだろうか。

 

「会って、話して……あとのことは、その時にならないと分からないや」

 

 その言葉に、口調に、ジョセフはなぜか違和感を覚えた。

 

 当たり前のことを言っている。そのはずだ。

 だが、過去に紡がれた戦友としての絆とも言うべき部分が何かを必死に訴えていた。

 

「……澪、何か考えてねぇ?」

 

 つい、口調が過去に引き摺られてしまう。

 

「考えてるよ」

 

 さらりと答えられた。

 

「何をだよ」

「それはだーめ、ひみつ」

 

 唇の前で人差し指を交差させて×印を作って、いたずらっぽく。

 

「でもね、大丈夫、僕はホリィさんを助けるよ」

 

 祈りを捧げるように星空を仰ぎ、謳うように。

 

「みんなを守って、必ずDIOの元に辿り着く」

 

 その声音に、瞳に、表情に、ジョセフの背筋が強烈な既視感で震えた。

 

「それだけは──約束できる」

 

 澪は約束を守る。必ずだ。

 それはジョセフの過去に裏打ちされた純然たる事実で、魂の底にまで刻まれた確信だ。

 

 だが、だからこそ。

 

「澪」

「んー?」

 

 ジョセフはまるで願うように告げた。

 

「澪が俺たちを守りたいのと同じくらい、俺らだって澪を守りてぇって思ってるんだぜ」

 

 過去も今も、仲間は違えど思いは同じなのだと伝えたかった。

 

「それは、忘れんなよな。頼むから」

 

 細い、どこか縋るような口調だった。

 桜色の瞳がまるで大好きなお菓子でも見るように細められて、月光を孕んだ雪色の髪がふわりと揺れる。

 

「うん、絶対忘れない」

 

 心の底から幸福だと、見るだけで伝わるような微笑だった。

 

「ありがとう、ジョセフ」

 

 けれど、まるで繊細な飴細工のような、あまりにも脆く、儚い笑顔のようにジョセフには思えた。

 

「ところで、澪はまだ寝んのか?」

「? 睡眠は昼に取ってるじゃんか」

 

 言われてみると、漂流中の澪は昼間なぜかずっと寝ている。どんだけ寝る気なんだコイツはと承太郎が零していたが。

 

「お前さん、もしかして」

「星が出ないと方向が分からなくなっちゃうからね、不寝番は必要でしょ?」

 

 当たり前のように言って、細い指先が藍の空へと伸ばされた。

 

 行く先は星が教えてくれる。

 

 レスキューを待つにしても、ある程度目的地を目指している方が探しやすいし、救助も早まるだろうというのは当然の帰結である。

 

 昼間は他の面子が起きているからいいが、夜になるとそうもいかない。錨を降ろして休むという手もあるが、なるべく早く目的地に着きたいのだから多少の無茶も必要だ。

 かと言って海流に流されるまま、風の向くままでは危険どころの話ではない。ある意味、最も旅慣れている澪は自然とそういう役目についていた。

 

 ぽかんとするジョセフが面白かったのか、澪はくすくすと笑いながら。

 

「ほら、ジョセフもねんねして。いい子だから」

 

 幼い子供をあやすように、甘い声音で。

 

「明日も頑張ろうね」

 

 そんな言葉を、口にするのだ。

 

 なんとなく逆らう気になれず、ジョセフはそのままうとうとと眠りかかった。

 

 ジョセフがこの夜に感じた違和感の正体を知るのは、まだまだ時間を待たなくてはならない。

 

 噛み合っているようで肝心なところが噛み合っていないような違和感。ほんの小さな齟齬。脆い微笑み。

 

 

 その意味の全てを、長い長い旅の果てで──彼は知ることになる。

 

 

 

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