星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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21.黄金の絶望

 

 

 澪は自分の歪みについて、ある程度自覚的である。

 

 生来の環境が災いして情動が未発達で幼く、義父たちによって教育を施されてはいても限度があった。

 人生を半ばから周回しているような現在でも、記憶が全て塗り替えられているわけでもない。

 ところてんよろしく新しい記憶が入るたびに古い記憶が押し出されていればまた話は違ったのだろうが、精神は、魂は連結している。

 

 逃げられない。

 

 そもそも周囲に『まとも』で『普通』で『平凡』な人などいなかった。

 澪がこれまで出会ってきた誰にだって突出している部分があったし、同様に欠けているものもあった。

 最低限の倫理や道徳は理解しているが基準が分からないのだから、学びようがない。

 

 だから、ポルナレフにぶつけられた言葉には多少の衝撃は受けたものの怒りを抱くこともなければ、反駁もなかった。

 

 大きな納得と小さな痛痒。それから自己嫌悪に似た申し訳なさ。

 

 そんな感情が、今澪の中を占めているものだった。

 

「……」

 

 ただ──さっきからずっと、なんとなく意識がいつもより遊離して足元がふわっとしているような、そんな違和感がある。

 ホテルを確保して、夕食を食べて部屋に戻って愛用しているだっせぇジャージに着替えてもそれは消えなくて、なんだかもやもやする。落ち着かない。

 

 澪は時計で時間を確認して、ベッドを降りて部屋を出て廊下を歩き、目的の部屋をノックした。

 

「じょーたろー、起きてる?」

 

 コンコンコン、と遠慮ゼロでドアを叩くとしばらくしてから鍵の開く音がした。

 

「どうした」

 

 開いたドアの隙間から鼻腔を刺激する煙の匂い。どうやら煙草を吸っていたようだ。

 澪は気まずいような、居心地の悪いような心持ちで苦笑してみる。

 

「いーれーて」

「……」

 

 承太郎は一瞬微妙にイヤそうな顔をして、それから入れてくれた。優しい。

 澪は承太郎の部屋にあった机の前に置かれていた椅子にちょこんと腰掛ける。承太郎は小さくため息を吐いて、それからベッドに腰掛けた。

 

 夕方から出てきた鉛色の雲からは雨が降り出している。しとしと、と窓越しの音が聞こえた。

 

 お互いが小さい頃からの付き合いだから、沈黙は苦にならない。

 まして承太郎は元々口数の多い方ではないので、お喋りな時なんてほぼなかった。

 とはいえ明日に疲労を残すわけにはいかないから、目線で言いたいことがあるなら早く言いやがれと急かしている。

 

 ちょっと考えて、まぁいいか言ってみないと始まらないしと思って用件を口にした。

 

「一本、ちょーだい」

 

 机に置かれた灰皿をもう片方の手で示しながら、煙草をせびる。

 承太郎は一瞬驚いたように目をみはったが、すぐに眉を寄せて険のある表情になった。

 

「吸ったことあんのか」

「ないよ」

 

 素直に首を振る。

 承太郎の喫煙や義父が煙管をふかすのはよく見ていた光景だが、自分が吸ったことは一度もないしそのつもりもなかった。

 

 でも、

 

「お酒よりはいいかなと、思って」

 

 どちらも未体験なのだから、まだ一度で懲りるであろう方を選択したまでだ。

 たぶんジョセフたちにバレるとうるさいだろうけど、承太郎はそういうことをしないという確信があった。

 興味本位と言われたら否定はしないが、それよりも味わってみたいと唐突に思ったのだ。落ち着くという話も聞くし。

 

 気持ちの整理がついていないワケでもないけれど、それでも。

 

「……」

 

 承太郎はしかめっ面のまま何やら考えているようだ。

 おそらく、昼間の件と目の前の自分のことを考えているのだと思う。

 あの後、仲間たちの対応が変わったワケではないがそれは表面上だけのことであって、誰もが気遣ってくれているのは直感で理解していた。

 

 そんなに心配いらないのにな、とは思う。

 普通だね、なんて言われたことなんてないし、変人のレッテルなんていつものことだ。イカれていると口にしなかったポルナレフはまだいい方だ。

 

「……俺のは重いぜ。気をつけろよ」

 

 差し出された煙草の箱で、思考が引き戻される。確かにニコチン含有量の多いタイプの銘柄だった。

 

「ありがと」

 

 澪はためらいなく一本を引き抜き、口に咥える。吸い方はいつも承太郎を見ているから知っていた。

 無言で放られたライターをキャッチして、吸いながら火を点ける。

 

「げふッ」

 

 いがらっぽい煙でいきなり噎せた。辛い。

 がはげへごほと咳き込んでいたら承太郎が肩を竦めた。

 

「言わんことじゃあねぇ。やめとけ」

 

 澪は取り上げようと伸びてきた手と忠告を無視して、涙目で一度呼吸を整えてから──深く呼気を吐き出して、思い切り吸った。

 

「ッ」

 

 ぎょ、と承太郎が腰を浮かせた。

 煙草の先が熱を孕んでジリジリと焦げ付き、みるみる灰になっていく。

 ちり、と気管と肺が灼けるような感じがあって、肺腑の奥まで煙が満ちていくのが分かった。

 

「……!?」

 

 途端、くらりと目が廻って座っていることもできず真後ろにひっくり返った。口の端からひょろひょろと煙が出ていく。

 

「ッおい!」

 

 ベッドの傍だったのが幸いして、承太郎が腕を掴んで阻止してくれた。

 そのまま引っ張られ、ベッドの上に引き摺り上げて寝かせてくれる。

 意識が不明瞭でわんわんとする。天井が回っていて、吐き気すらしてきてうかつに動けない。

 なるほど強い煙草をいきなり吸うとこうなるのか、とぼんやり思った。

 

「うあーぐるぐるする。きもちわりぃー」

「当たり前だ、馬鹿が」

 

 窘める承太郎の声も、水の中の音のように遠い。

 くらくらとした目眩が取れず、しばらくは動けないだろう。

 蒼白になったまま身じろぎもできずに寝そべっていると、承太郎の手が伸びてきた。今頭を揺さぶられたら確実に吐く。

 

 内心戦々恐々としていると、彼の無骨な指先は予想に反してとても優しい手つきで澪の髪を梳き始めた。いつもとあんまり違うから逆に戸惑うレベルだ。

 

「ひょっとして、慰めてる?」

「んなワケねぇだろ」

「だよねぇ」

 

 即座に切って捨てるくせに撫でる手つきは柔らかく、止まることもない。

 

 ふと、その手つきで思い出す。

 

 ディオに撫でられた時のこと。

 

 大抵はこちらをからかう時で、髪型をぐしゃぐしゃにするのを楽しむような乱暴な手つきだった。

 底意地悪い笑みで、優しくないけど暖かかった。

 DIOがもし覚えていなくても、自分は覚えている。忘れられないし、忘れようとも思わない。それはそれでいいと思った。

 

 まぁ詰まるところ。

 

「びっくりしたんだよなぁ」

「あ?」

 

 訝しむ承太郎に口の端をほんのりと緩める。

 

 だってポルナレフに言われるまで、本当に思いつきもしなかったのだ。

 たとえばあの時、目の前でジョナサンやジョージが殺されていればまた違っただろう。

 けれど実際は自分が真っ先に死んでしまって、ジョナサンたちが亡くなったのはその後だ。その点については思うところがないではないが、やっぱり怨恨とは少し異なっている。

 

 日本なんて恨みと復讐と祟りに関しては一家言あるお国柄だ。

 幽霊、怨霊、復讐譚の逸話や昔話もいくらだってある。相手に殺すつもりがないのを理解していても、澪だってそうなっても何らおかしくなかっただろう。

 

 うらめしや、と。

 

 だけどいざ体感してみたところでこの体たらくだ。

 

 理不尽に命を摘み取られたことに一片の憤りすら沸かず、恨みも抱かない自分はきっとおかしいのだろう。でも、それを指摘して怒鳴りつけてくれた人がいる。

 

 もしかしたら、彼は自分の妹とほんの少し重ねてしまったのかもしれない。

 

 事情はまるで違うけど、病や怪我や寿命以外の理不尽で生を吹き消されたという点だけは一致しているから。

 

 恨んでもいいのだと、憎んでも構わないと、気付きもしなかった選択肢を教えられた気がした。

 

「ポルナレフさんは優しいね」

「……そうか?」

 

 罵倒されたくせにそんな事を言い出す澪に、承太郎は呆れたようだった。

 

「妹さんの敵討ちのためだけに国を出る人が、優しくないわけないでしょーが」

 

 そもそも、自分の死というものに実感が湧いていないのも要因のひとつかもしれない。

 確かに色んな意味でびびったけど、怖かったけど、今こうして生きてるし、あの時だってたまさか生き延びても死病に侵されていた身の上だ。長生きなんてできなかっただろう。

 

 なんだか不思議だ。当事者以外の方がよっぽど気に病んでいる。

 

 もろもろと思考していると、承太郎が撫でる手を止めて唐突に帽子を脱ぎ、澪の顔面にぱさりとかぶせた。何も見えない。

 

「俺でも、お前が殺されたら相手が誰だろうと──ぶっ殺すまで追いかける」

 

 暗闇の中で、おそろしいほど低い声が耳朶を打った。

 

「必ずだ」

 

 獣のような声だった。

 

 ぞわりと背筋が粟立った。本気の声だ。

 承太郎はやると言ったらやり遂げる。もし、自分が誰かに殺されでもしたら承太郎は本当に相手を殺すまで止まらないだろう。

 

 その宣言は澪の本能を直接貫く確信で、恐怖で──紛れもない脅迫だった。

 

「……それは」

 

 戦慄が身体を震わせ、唇がわななく。

 

 自分の行動如何で大切な幼馴染みが復讐鬼になると本人に明言されたのだ。どんな脅し文句より覿面に効く、もはや必殺技だった。

 

「僕が望んでいなくても?」

「関係ねぇな」

 

 ばっさりと切って捨てられる。

 それはそうだろう。自分だって承太郎が殺されたら、場合によっては相手を殺す。できるだけむごたらしく、凄惨に。そこに故人の意思など介在しない。ポルナレフと同じだ。

 だからこそ理解できるし、止められない。

 

 なんてずるいんだろう。退路を断たれた。

 

「……そう」

 

 目眩は収まっていたが別の意味でぐらぐらした。

 

 それでも起き上がり、怪訝そうにこちらを見つめていた承太郎にぎこちなく笑って帽子を返した。

 

「煙草ありがと、もう寝るね」

「おい」

 

 背中にかけられた呼びかけには答えず、ドアの前で一度振り返って、

 

「おやすみ、承太郎」

 

 挨拶だけを告げて扉を閉めた。

 

 こちらを睨み付ける承太郎を、見ないふりして。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 極力平静を装ったまま澪は割り当てられた部屋へと戻り、そのままトイレに駆け込んで口元に手を添えて。

 

「う」

 

 膝を折って、盛大に嘔吐した。

 

「ッぐ、え、うぇええ……」

 

 胃袋の中身が空になり、それでも足らずに胃液までたっぷりと吐いて身体を折って我が身を抱き締めた。

 空咳をすると喉の奥がびくびくと痙攣して全身が震える。

 心臓がおかしな脈を刻み、頭皮の締まるような感覚と脂汗でジャージが張りついて気持ちが悪い。

 

「はぁ、……ッう、ぅう」

 

 ようやく嘔吐感がおさまり、目尻の涙や口の端に垂れた涎を乱暴に拭って立ち上がる。

 

 洗面所で口をゆすいで、冷蔵庫から取り出したペットボトルを乱暴にこじ開けて一気に飲み干した。これは煙草のせいなんかじゃない。ただのストレスだ。

 半分ほどを残したミネラルウォーターを持ったままふらふらとベッドに倒れ込んで、目を閉じる。

 

「しんどい」

 

 口に出したら泣きそうになった。

 正直、ポルナレフに言われたことなんかまとめてぶっ飛ぶほどの衝撃だった。

 取り繕うのがやっとだった。きっと承太郎にはそんなつもりなんて欠片もなかったのだろうけど。

 

「ここは、ちがうんだ」

 

 そうだ、ここは今まで自分が身を置いてきた鉄火場ではない。

 殺し殺されることを是として鍔迫り合い、遺恨なく果てられるような世界じゃないのだ。

 そんなの許してもらえない。状況だけならばごく近いかもしれないが、承太郎たちは普通の高校生だったのだ。

 

 澪が培ってきた『常識』なんて、彼らにしてみればただの『非常識』である。

 

「……忘れてた」

 

 絶望にも似た響きだった。

 

 どうして忘れていたんだろう。

 遅きに失するにもほどがあるが、体感として理解できたのはこの時が始めてだった。

 ちっぽけな鉛玉にすら劣るはずだった自分の命が、信じられないほど重たくなる。枷を嵌められたような気分だ。

 

──全ての因縁が解消したら、承太郎たちは愛しい日常へと帰還する。

 

 火種の臭いのしない、なんてことのない、ごく平凡な生活へと。

 

 それは澪にとっても当たり前に存在する未来予想図で、力の及ぶ限り守らなければならない最低限の義務に他ならない。

 ジョナサンの姉として、彼が紡いだ尊い連なりを断ち切られるような真似は許せないし、夕凪澪としても、大切な仲間やあたら若い命を無駄に散らせるようなことだけは避けなければならなかった。

 

 それこそ、命を賭してでも──何が何でも果たさなければならない魂の責務だ。

 

 たとえ送り届ける瞬間が見られなくても構わない。

 自分の手が届く範囲にいる大切な人を、全身全霊で守ろうと決意していた。

 もし道半ばで倒れたとしても、承太郎たちにはきっと頼れる仲間が残っているはずだ。

 

 そんな希望と夢想を抱いたまま、報われたのだと勘違いして──満足して潰えることができた。

 

 なのに。

 

「どうして」

 

 けれど、承太郎の言葉で澪の中の前提は崩れ去った。

 

 澪の『生存』という条件がなければ、全てを精算したその後も承太郎は安穏とした日々に戻れない。

 否、戻ることを自ら放棄してしまう。報仇へと向かう承太郎をいくら止めたくても、そこに自分はいないのだ。

 

「どうして……ッ!」

 

 血を吐くような、呪詛めいた呟きが口の端から漏れる。噛みしめた唇から鉄錆の味がした。

 

 自分という存在で何より大切な仲間に、空条承太郎の人生に泥をつける可能性がある。

 

 それは澪にとって死ぬよりも辛い、堪え難いほどの恐怖だった。

 

「ごめん」

 

 胃がよじれるような不快感と罪悪感でおかしくなりそうだった。

 

「ごめんなさい」

 

 押し潰されてしまいそうな感情を謝罪として吐き出して、頭を抱えてうずくまる。

 

 恐懼に侵された青白い顔を引き攣らせ、まるで折檻を受け続けた子供のように。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 誰に対する謝罪なのかすら分からないまま、澪は一晩中謝り続けた。

 

 

 

 

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