セスナが離陸して早数十分ほど経過しただろうか。
空中の旅というのはパイロット以外は存外に退屈なもので、電車ではないが一定の揺れが睡魔を誘う。
ポルナレフと花京院は揃って眠いらしく船をこいでいた。
「なんか飛行機に乗ると眠くなってくるな……」
澪はといえば、残念ながらやっぱり眠気のねの字もないので大の男二人に挟まれて籠の中の赤ん坊を眺めている。
今のところ病状も安定しているのか、静かに眠っているようだ。
「この赤ちゃんいい子だねぇ、泣くのが仕事って言われてるくらいなのに全然泣かないよ」
「さっき泣いてたじゃねぇか」
「すぐ泣き止んでたし」
承太郎とそんな会話をしていると、いよいよ限界なのかポルナレフがあくびを噛み殺した。
「ジョースターさん、悪いが三十分ほど眠らせてもらうぜ」
「ああ」
返事を聞くなり、本当に寝入ってしまったらしい。
気付けば花京院からも寝息が聞こえてきた。
さて、そうなると本格的にやることがない。承太郎は口数が多い方ではないし、ジョセフは操作に集中させておかないとどうなるか分からない。
胸につけていたシーザーから借りた羽根飾りを無意味にいじっていて、ふと。
「赤ちゃんに関してならシーザーが得意なんだよなー」
「あいつ姉弟多かったからのう。ホリィの時も世話になったもんじゃ」
ジョセフがしみじみ相槌を打ってくれたのでつい話に乗ってしまう。
「え、スージーQは?」
「あいつも頑張っとったんじゃがなぁ。インフルエンザだの風邪だのをホリィに感染すワケにもいかんし、そういう時はピンチヒッターとしてシーザーが」
「おい何をしていた男親。あと先生」
「儂はちょうど不動産業が軌道に乗り始めとって海外を飛び回っとったんじゃ! あとリサリサは連絡つかなかっただけだからそんな目で見るんじゃあない!」
そういえばリサリサは再婚してジョセフたちとは別に住んでいたのだったか。見知らぬベビーシッターを頼むよりシーザーの方が信頼が置ける、というのはよく分かる。
運転に支障はないのか、ジョセフはわりと気軽に会話してくれた。
「なぁ、聞きそびれとったんじゃが」
「うん?」
「儂らの前から消えたあと、澪はどうしとったんじゃ?」
聞かれなかったからてっきり気にしていないと思っていたのだが、機会を逸していただけらしい。
どうしていたかと言われると、海賊ばかりが跋扈している世界でひとつなぎの大秘宝をめぐるあれやこれに巻き込まれて右往左往していたのだが、さてどう答えればいいのだろうか。
「……」
澪はちょっと考えて口を開きかけ、ぱくんと閉じて俯くと目元を指先でおさえてうんうん唸り始めた。
「澪?」
「ちょっと待って、今話せそうな部分抜粋するから。えーと、」
正確に言うと、信じてもらえそうな部分である。
身体がゴムのように伸び縮みする男とか、身体が火になるヤツとか、シルクハット被った骸骨だの二足歩行で喋る熊だの話してもたぶん信じてもらえないだろう。
紆余曲折を経て、自宅へは帰り着けたワケだが……全部説明しようと思ったらどれだけ時間がかかるか分からない。京極○彦一冊分くらいかかりそう。レンガ的な意味で。
「わざわざ抽出しないと話せないようなことなのかよ」
「うーん、わりと……狸という名の縛りプレイのせいで定職につけなくて賞金稼ぎやって荒稼ぎして、そんで海賊に友達できて、海軍に目ぇつけられて逃げ回ったり命の恩人助けに行って(マリンフォードで)死にかかったり(パンクハザードで)死にかかったり……あと(ドレスローザで)死にかかったりしてた」
「瀕死になりすぎだろ」
「どんだけ瀬戸際!? あと海賊ってなんじゃ海賊って!」
「ちなみに海賊ったってソマリア沖とかに出るやつじゃなくてもっと夢いっぱいの方ね。ヴァイキング的な、そこんとこは誤解のないように」
「き、聞きたいのはそこじゃあない!」
ドヤ顔をしたらめっちゃツッコミを頂いてしまった。
なんて話をしていると、機内につんと鼻をつく臭いが漂い始めた。これは赤ちゃんなら仕方がないですね。生理現象ですわ。
「ジョセフー、ちょっとおむつ替えるわ」
「おお、頼んだぞ」
言い置いて後ろの荷物をごそごそ漁るのだが、なぜかおむつが見つからない。
「おむつってどの荷物に入れたっけ?」
「確かポルナレフが運び入れておったな……起こして聞いてみてくれ。儂は手が離せん」
「手を離したらジョセフ以外が死ぬからな! 離すなよ絶対だぞ!?」
「どんだけ信用がないんじゃ!」
「当たり前だろジジイ。何回墜落したと思ってやがる」
「ってなわけでポルナレフさんウェーイクアーップ!」
某セーラー服美少女戦士アニメ風に呼ばってみたが、しかめっ面のまま起きないので澪はその脳天にチョップを入れた。どすどすどすどす。
「っぶぁ!?」
六回目辺りでようやくポルナレフが起床した。
額にはびっしりと脂汗が浮いており、目には恐怖の色がある。
「ポルナレフさん、
「あ、ああ……」
ちょっとふざけてフランス語で聞いてみたが、ポルナレフの返事はどうにも曖昧だ。顔色も悪い。寝起きのせいもあるかもしれない。
「赤ちゃんのおしめの入った荷物はどれじゃ? 早く出してやってくれ」
「分かったよ。……なんだが、すごく恐ろしい夢を見た気がするんだ」
ジョセフに頷き、ポルナレフは考え込むように呟きながら荷物を漁り始めた。
「夢?」
また『悪夢』だ。
「そうだ。でも、どんな夢だったか思い出せない……忘れてしまった」
「……ふむ」
朝方に花京院が言っていたことと全く同じだ。
これはひょっとすると、ひょっとするかもしれない。
妙な不安はあったがしかし、今はおしめである。
「そうか、おしめを出したらいくらでもドンドン夢の続きを見てくれ。もう起こさんよ」
ジョセフはそう言うが、続きでも悪夢を見るのは気の毒だと思う。
「こっちに入れてたんだよ、分かりにくかったな」
「ありがとうございます」
澪はポルナレフからおむつを受け取り、赤ん坊を籠から抱き上げる。
「あとポルナレフさんちょっと寄ってもらえます? 赤さんを一旦そっちに移しますんで」
「ああ、こうか?」
「ですです」
澪は空いたスペースに赤ん坊を寝かせ、慣れてはいないが淀みのない手つきでおむつを開き、尻周りの汚れを同梱されていた専用のウェットティッシュで拭ってやる。
「げっ、ウンチしてるぞ!?」
横から覗き込んだポルナレフが嫌そうな顔をして、澪はさらりと答える。
「出物腫れ物ところ嫌わず、ってやつですよ。むしろ出ない方が怖いです」
「お前、そんなガキの面倒見たことあるのか?」
承太郎がこちらを向いて、澪は首を横に振った。
「ないよ。でもベルさんに叩き込まれた」
「ベル?」
「ジョースター家のメイド長さん。仲良しだったんだ」
女性の大事な仕事の一環だから、と礼儀作法の他に教えてもらっていた。
乳母に任せるかもしれないが、知らないよりは知っている方がいいに決まっていると。
あの時代だから当然布おむつである。そういう意味では知識が生かせてよかったと感謝することしきりである。
「恥ずかしくないのかぁ? 大人になれよ、大人に」
「どーせ何年かすれば卒業できますよ。ハイハイもタッチもできない年齢にそんな期待しちゃ駄目です」
ポルナレフの言いたいことも分かるが、みんなこうして大きくなるのだ。別に急いで大人になる必要もない。
汚れたおむつは片付けて、新しい布おむつを適当な長さで切り、手早く巻いてやる。
「あ、ここんとこ押さえてくれます?」
「こうか?」
「そうそう、はい終わり。すっきりしたかな?」
おむつをピンで留めて慎重に籠に戻してやると、ようやく赤子は安堵したように息を吐いた。
「おむつ汚れるとフツー泣くって話だけど、ホントに泣かないコだなぁ」
「楽でいいじゃねぇか」
「それは、うーん……」
楽と言えばそうなのだが、どうにも腑に落ちない。
とりあえず籠を無意味にゆ~らゆ~らと揺すってみたりしていると──
「っう」
びくん、と隣の花京院の全身が痙攣した。
そして、
「っうわあああああッ!! やめろ! やめてくれぇええッ!!」
絶叫とともに狭い機内の中で盛大に暴れ始めた。
中空で両手を振るって拳を突き出し、座席が揺れる。
「うぉッ!?」
澪は咄嗟に籠を抱えてそのまま座席の下に潜り込む。安全第一だ。
「どうした花京院!?」
承太郎が問いかけるが、目は閉じたままなのでもしかしたら寝惚けているのかもしれない。だとしたらすごい寝相である。
「ポルナレフさん! 典明くんってこんな寝相したことあります!?」
「ねぇよ! こんなアクロバティックな寝相なんかあるわけ……ッ!」
「やめろォ!」
花京院が叫び、これまでの旅で鍛え上げられた強靱な脚が座席を越えてジョセフの顔面を強襲した。
「ぐぅおッ!」
ジョセフは頭から操縦桿に突っ込み、操縦桿が嫌な軋みを上げる。
「し、しまった!」
あっという間に機体は平衡感覚を失い、木の葉のように宙を舞い始める。
「軌道修正ができん!」
「おい、ひょっとして墜落するのか!?」
承太郎が怒鳴り散らすが、これはもう運命と思って諦めた方が早いのではないだろうか。
「あっ、でも今朝もこうだったんだよ!」
喚き散らしながらなおも暴れる花京院をなんとか押さえようとしているポルナレフが、慌ててそう付け加えた。
「おいジジイ、早く操縦桿を元に戻せ! 墜落するぞ!」
「墜落はしょうがないからせめて着陸……」
「不吉なこと言うんじゃあねぇ! 早く立て直せ!」
「騒ぐな! 儂はパニックを知らん男! 今やっとるだろーが!」
機内がパニックになる中、澪は籠の中の赤子を見つめる。
目は閉じているが妙な焦りを感じる。しかしやっぱり、泣き喚くということをしない。
人の感情に敏感に反応して泣くのが『普通』なのに。狂騒と混乱の坩堝であるこの状況下にも関わらず、だ。
「ん?」
ようやく動きを止めた、というよりも何かに拘束されたように硬直した花京院の手首にちらりと赤い筋が見えた。怪我? どこかにぶつけたのだろうか。
それとも。
「ジジイ! まだか!」
「ええい、『隠者の紫』で操縦する!」
玩具のように揺れまくる機体で痺れを切らした承太郎が檄を飛ばし、ジョセフが『隠者の紫』を操縦桿へと巻き付ける。
効果は覿面で、機材一切を掌握した『隠者の紫』の運転によって低空すれすれで機体は安定した。
澪は咄嗟に叫んでいた。
「最初っからやれよぉおお!」
「立て直したんじゃから文句を言うな! ふー、一安心といったところか」
「あっぶねぇ……」
ポルナレフが冷や汗を拭う。
「みんな見たかぁああ! どんなもんですかぃい!? 儂の操作はよぉ!」
「おい」
「ばか! 前!」
得意満面でガッツポーズを作るジョセフに、承太郎と澪は反射的に叫んだ。
「ん?」
立て直したとはいえ、猛スピードで目の前にそびえ立つ椰子の木に直撃すればセスナ機がどうなるか、なんて皆様お分かりでしょう。
「なむさん」
衝撃に備え、籠を守るようにぎゅっと抱き締めて澪は目を閉じたのだった。
☓☓☓☓☓
お約束、と言ってはいけないのだろうがジョセフの搭乗していたセスナは見事に墜落した。
赤ん坊を含めた全員が無事というのが奇跡に近い。機体は半壊したが、幸い爆発炎上も免れ荷物等も残っている。
落ちてしまったものは仕方がない。
今日はここで夜営をすることになり、かまどの準備や薪の確保。荷物の運び出しなどに時間を取られ、気付けば月が中天にかかるほどの夜になってしまった。
「死なんで済んだが、花京院! 一体どうなってるんだ! こうなったのはお前のせいだぜ!」
追加の薪を用意していたポルナレフが、少し遠い岩に腰掛けて項垂れている花京院に悪態をつく。
「厳密に言うと、ジョセフの詰めの甘さも要因だと思うけどね。あと椰子の木」
「これ以上ジジイをいじめないで!」
「それでも花京院が暴れさえしなけりゃ、ジョースターさんだって操縦ミスッたりしなかっただろ?」
「そりゃまぁ、そうですけど」
ちら、と花京院の様子を窺うと彼は深く項垂れたままひどく不安定な様子だった。
「……わからない」
少しだけ顔を上げ、花京院は滅多にない落ち込んだ様子で呟く。
「おそろしい夢を見たような気もするし、目が覚めた時、死ぬほど疲れているし……」
憔悴しきった顔つきで淡々と自分の状況を語りながら、やがて。
「僕は、おかしくなったのだろうか」
自分でも分からない煩悶を、吐き出そうとしているかのような自問自答だった。
「元気を出せ、きっと疲れすぎているんじゃ」
ぱき、とジョセフが小枝を折る。
「日本を出てほぼ一ヶ月経つし、敵はその間連続で襲ってきているのだから」
ジョセフの言っていることもあながち間違ってはいない。
日数が経過すればするほどスタンド使いはこちらを攻撃し、そのたびにこちらは疲弊していく。
「おい、赤ん坊の熱は下がったみたいだな」
赤ん坊の様子を見ていた承太郎が顔を上げた。
「おお、無事でよかったわい。澪もあの中でよく守ってくれたな」
「あそこで守らなかったら人非人じゃないですかやだー」
「確かにな。それに、何かあったら償っても償いきれんからな」
ジョセフがそう言って上機嫌になっている赤ん坊に駆け寄り、あやし始めた。
幸い、無線機は無事だったので赤ん坊のためにも救援要請をすることになった。
しばらくはジョセフに任せても大丈夫そうだったので、澪は籠のそばから立ち上がって花京院の方へ身体を向けた。
すると、花京院がちょうど夢遊病者のような足取りでこちらへと向かってきている。
「典明くん」
「あ、ああ、澪……」
その瞳に今までにない焦燥と混乱、そして疑惑と恐怖が揺らめいているのを見て取ると、澪はその袖を掴んで引っ張り、先程の岩場まで戻った。
大人しく引かれるがままの花京院が座ったことを確認すると隣に座り、夜空を見上げながらあえて軽い調子で尋ねた。
「今、何考えてる?」
「……ぼくは、いま、とても恐ろしい想像をしている」
そう言って、少しの迷いのあとに花京院は澪の前に自分の腕をさらけ出した。
腕に痛々しく刻まれた傷は文字の形を呈しており、『BABY STAND』と読めた。
そうして、澪へと縋るような視線で口にするのも辛いのか、途切れ途切れに。
「とても正気とは思えない質問なんだが……」
「うん」
「赤ん坊のスタンド使い、なんて存在するのだろうか」
「え、そりゃいるでしょ」
「……え?」
あまりにあっさりと肯定され、花京院は一瞬虚を突かれて真顔になった。
「ほ、本当にそう思うのかい? どうして?」
あまりに真剣に問いかける花京院に澪はきょとりと目を瞬かせ──やがて小さく吹き出した。
「どうしてって、くふ、ッあは、あははははッ!」
しかもなぜか大爆笑である。
セスナの方にいた面子がギョッとした様子で振り向いた。
お腹を抱えて笑い続ける澪にさすがに不快になったのか、花京院は細腕を強く掴んで大きく声を張る。
「なぜ笑うんだ! ぼくは真剣に……」
もう片方の手で岩をバシバシ叩いていた澪は、笑いの余韻に浸ったまま振り向いた。
「ッひー、典明くんがそれ聞くの?」
生理的に浮いてきた涙を拭い、そのまま指先で花京院の胸をとん、と突く。
「小学校で始めて会った時、典明くんはもうハイエロさんと一緒だったよね?」
忘れちゃった? と小首を傾げられる。
唐突に語られた昔の話に驚きながらも花京院は考えるまでもなく頷いた。
「あ、ああ」
忘れるワケがない。
あれほどの衝撃と喜びを。
「それでさ、物心ついた時からずっと一緒だったって教えてくれたじゃん」
そう、だからこそ花京院は孤立していたのだ。
自分にしか見えない『緑色のともだち』を理解してくれる人間がいなかったから。
「ならさ、生まれついてのスタンド使いなら遅かれ早かれの違いはあっても、自覚するときは来るってことでしょ?」
きっとここにいる仲間の中で、誰よりもスタンドに詳しいはずの花京院にこんなことを尋ねられてしまっては吹き出してしまっても仕方がないだろう。
「なんにも怖くないし、不思議でもないよ」
アドバンテージを抜きにしたって、動物のスタンド使いがいるのだから赤ん坊のスタンド使いがいたっておかしくない。
何より、
「典明くんって生き証人が目の前にいるのに、信じない理由がないじゃんか」
くすくすと柔らかい笑みを浮かべる澪の前で、花京院は肩から力が抜けて、揺らいでいた瞳がはっきりと自我を取り戻していく。
無条件で自分を信じてくれる人がいる。
それがこんなにも心を強く明るくするのだと、花京院は始めて知った。
「澪」
掴んでいた腕から手を離し、花京院は澪の手をそっと握った。あふれるような感謝を伝える術が思いつかなかった。
自分を信じてくれて。
不安を笑い飛ばしてくれて。
「──ありがとう」
とても深く、静かな感謝の言葉に詰まった沢山のものを受け止めて、澪はふにゃりと笑った。
「そのお礼は預かっておくから、この問題が解決したら改めてお願いします」
「……ああ」
力強く頷いた花京院の顔はいつもの理知的な表情に戻っていて、澪はとても安心した。