星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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37.死神13についての一考察

 

 

 赤ん坊はもとより、ジョセフや承太郎たちに聞かれないよう少し離れた位置で、澪と花京院は夕食を取りながらひそひそと小さな会議を始めた。

 現在、花京院はポルナレフたちに精神不安定と見なされているようなので、何を口にしても信憑性に欠けると判断されてしまうだろう。

 澪はそんな花京院の押さえ役というか、カウンセラー風を装って傍にいる。

 

「まだ判断材料が少ないから思考ゲームみたいになっちゃうと思うけど、いい?」

 

 一応の念押しをすると、花京院は迷いなく頷いた。

 

「正直、まともに受け取ってもらえただけでありがたいよ」

 

 自分とてまだ半信半疑なのに、こうしてきちんと考えてくれているという事実が、どれだけの安心をもたらしてくれているのだろうか。

 

「ん、そんじゃ現状確認からいってみよっか」

 

 あくまで澪は気楽な様子で分かっていることを確認する。

 

「典明くんは生命危機を覚えるくらいの『悪夢』を二回連続で見た。ポルナレフさんも一回見てたっぽいね。でも、二人とも内容は覚えてない」

 

 今朝方に聞いた花京院の悲鳴と、セスナ機内での様子はまさに恐慌に駆られた人間のそれだった。

 特に異論はないのか花京院は黙って視線で続きを促す。

 

「でも二回目の『悪夢』から覚めた典明くんの腕には、自分でつけたと思しき真新しい傷ができていた。それが『BABY STAND』」

 

 ちなみに、砂が入っても困るので花京院の腕は簡易な治療を施してある。

 

「そして、今日から起こっている異変は赤さんが僕らに同乗していること。さて、ここまでで典明くんに質問」

 

 澪は持っていたスプーンを軽く上げてくるくると回す。

 

「?」

「僕のスタンド(?)はアレだからどうとも言えないけど、現段階で『精神世界に影響を及ぼし、最終的には肉体的な死へと至らしめるスタンド』が存在し、攻撃を受けていると思う?」

 

 花京院はしばらく俯いて黙考し、やがて頷く。

 

「イエス、だ。でなければ、ここまでぼくが危機感を覚えたりしない」

「夢の内容を忘れても恐怖はこびりついてたみたいだしね」

 

 間近に迫っている死への恐怖という、人間にとって最大限に逼迫した精神状態を無意識にでも感じ取っているなら疑う余地はないだろう。

 石橋は叩いて渡るのが吉だ。

 

「で、仮にそのスタンドの持ち主があの年端もいかない赤子と仮定すると……ちょっと問題が出てくるんだよなー」

「それは、ジョースターさんたちに信じてもらえないという意味で?」

「うんにゃ」

 

 澪は首を振り、食べ終わった食器を傍らに置くとリュックから小狐丸をずるずると引っ張り出し、鞘で地面にガリガリと円を描く。

 

「?」

 

 首を傾げる花京院に、考えていることを少しずつ開陳した。

 

「僕が問題にしてるのは、あの赤さんが意識的にスタンドを使ってるのか、それとも自立駆動っつーか()()()()()()()()()()()()()()()()()のか、ってこと」

 

 澪にとってはそこが問題点だった。

 先ほど花京院に自覚云々と言ったが、生まれついてスタンドがいるとしてもそれを動かすだけの意思があの赤ん坊にあるかどうかの判断がつかない。

 

「まぁ、あの赤さんがえらい早熟で自我もばっちりあって、無力な赤ん坊装ってるだけのスタンド使いの刺客として送り込まれてきたってんなら話は早いよ」

 

 そう言って、澪は自分の首を親指でかっ切る動作をしてみせる。花京院が青くなった。

 

「いくらなんでもそれは……」

「殺すまではやり過ぎだし、僕だって御免です。ただ説得するなり、場合によっては……相応の手段に打って出ることは可能でしょ?」

 

 澪は基本的に女子供や老人には極力優しくすべき、というのが信条だが、それはあくまで自分で全責任を負える立場であることが大前提である。

 自分に被害が来るのはともかく、仲間に危害を及ぼす存在は即ち『敵』だ。

 そこに年齢は絡まず、何を以てしても無力化、ないしは排撃しなければならない。

 

「僕が問題にしてるのは、もうひとつの方」

 

 ただ、今回の場合は相手が相手だ。

 明確に敵対意思を持ち、こちらの隙を虎視眈々と狙っているなら実力行使も厭わないが、そうとも言い切れないのである。

 

「赤ん坊──人間が最も無力な時期だね。発熱と見知らぬ他人に囲まれて砂漠越え、なんてキャパオーバーの事態による危機感でスタンド励起されちゃって『暴走』してる場合」

 

 こんこんこん、と地面に描いた輪を鞘の先で叩いてみせる。

 

「例えば赤さんの範囲何メートル、以内に入った人間の精神を無意識に攻撃しちゃう。もちろん赤さんは責められない。赤ん坊なんだから、力の制御なんて望むべくもないやね」

 

 これは承太郎が『星の白金』を悪霊と勘違いしている時を思い出しての想定だ。

 あの時期の承太郎はスタンドの扱いがままならず、ケンカだなんだと暴れまくって、最終的に自分で留置場に引きこもるという斜め上の発想で周囲を防衛しようとしていた。

 

 もし、あの赤ん坊に生まれつきスタンドが備わっているとして、今回の緊急事態を『主の危機』と認識して勝手に暴れ回っているとするとかなり困る。

 自我が稀薄でコントロールもままならないなら責められないし、言い聞かせることもできない。

 ほとんど防ぎようのない事故のようなものだ。

 

「確かに、もしそうだとすると対策が取りにくいな」

「止めるにせよなんにせよ、夢の中はなぁ……典明くんはハイエロさんと一緒だった?」

「いや、さっきも言ったように記憶には……あ、でも」

 

 花京院は迷うように自分の傷痕の部分を見つめてから、小さなナイフをポケットから出した。

 

「おそらく、傷はこのナイフでつけたのだと思う。『法皇の緑』が出せたなら、こんな迂遠な方法はとらないはずだ」

「なら、ハイエロさんは出せないのにナイフは持ってたってことか……となると、条件によっちゃハイエロさんも持ち込める、かも?」

 

 あくまで憶測の域を出ない。全て仮定の話で、現実感は薄い。

 

 自分は義父たちによるほんの少しのアドバンテージと、幼い頃からの花京院を知っているからこういう会話が成り立つが、承太郎たちはそうもいかない。

 時間が全てとは言わないが、突拍子もない思考を鵜呑みにするには、ジョセフやポルナレフたちは根が善良すぎるのだ。

 

「条件……」

 

 花京院も顎に指先を当てて考え始めたが、さすがに思考材料が足りない。

 せめてもう少し何かがあればまた変わるだろうが、今ある分ではここで手詰まりだろうか。

 つまりは、あの赤ん坊に関する要素が足りないのだ。……なんか段々考えるの面倒になってきた。

 

「もうさ、ちょっとカマかけしてみる? そんで典明くん反応観察」

「それは……危険じゃあないか?」

 

 おそらくは不安定な花京院の言葉を信じてしまうなんて、として周囲に否定されることを恐れているのだろう。

 

「んー、でもせめて赤さんの自我がどのくらいなのか……ッ!」

「!」

 

 言いかけた二人が同時に肩を跳ねさせる。

 視線の先では、籠に入っている赤ん坊が安全ピンでサソリを刺し殺している瞬間だった。

 

「ジョースターさん! ポルナレフ!」

「あ、ちょ」

 

 咄嗟に花京院は走り出してしまった。確信を得られたという事に昂揚してしまったのだろう。

 誰だって、居心地の悪い環境を打開できるチャンスを見つけたら、逃したくないと思う。

 

「んもう」

 

 それは分かるが、急ぎすぎだ。

 

「今のを見ましたか!? やはりこの赤ん坊、普通じゃあない!」

 

 突然の花京院の物言いに、離乳食を作っていたジョセフとつまみ食いをしていたポルナレフが同時に顔を見合わせる。

 

「今、サソリを殺したんです! あっという間にピンを使って、串刺しにしたんです!」

「花京院、ちょっと待て。何を言っておるんだ?」

「この赤ん坊はただの赤ん坊じゃない! 一歳にもなってないのにサソリのことを知っていて、そしてその小さな手で殺したんです!」

 

 花京院の訴えを不審そうに聞いていたジョセフが毒虫の存在で目の色を変え、慌てて赤ん坊を抱き上げた。

 

「サソリ!? どこに!?」

「この中です!」

 

 花京院は確たる証拠を探そうと籠の中を漁り始める。

 

「ピンで刺した、サソリの死骸が……」

「わあああジョセフ!その赤さん貸して!」

 

 そこへ走り込んできた澪が、慌ててジョセフに手を伸ばした。

 

「な、なんじゃ澪まで!」

 

 こちらにまで疑惑の目を向けようとするジョセフだったが、その形相からかなりの必死さを感じ取ってぎょっとする。

 

「その赤さん今なんか口入れてた! 膨らんでる! 早く吐き出させないと!ほら!」

「お、おお」

 

 捲し立てる勢いに気圧されておそると赤ん坊を渡すと、確かに頬は心なしぷっくりとしていた。

 澪は即座に赤ん坊をひっくり返しておなかの辺りを強く押し、その背中をばんばん叩く。

 

「おい! あんまり乱暴にするのは」

「馬鹿! 呑み込んだら死んじゃうでしょ!? 責任取れんのか!」

「すまん!」

 

 ポルナレフも怯み、その間にも赤ん坊はバシバシ背中を叩かれ、その重力と衝撃には耐えきれず、やがて観念したようにげろりと何かを吐き出した。

 黒い、いかにも毒を持っていますという感じのサソリの死骸だ。ただしピンは隠したのか見つからなかった。さすがに承太郎も息を呑む。

 

「サソリ!? サソリじゃ!」

「く、口の中に隠していたのか!」

 

 ジョセフが驚き、花京院が振り向いて赤ん坊に手を伸ばそうとしたが澪はそれをひょい、と避けた。

 そして僅かに首を振って、視線で訴えながら口を開いた。

 

「隠してたかどうかはともかく、お腹減ってて小さいもの口に入れちゃったみたい。口の中刺されてないかな?」

 

 ジョセフにそう言って赤ん坊を渡すと、さすがに慣れた手つきで口の中を確認してくれる。

 

「大丈夫、みたいだのう。目を離してすまんかったな」

「ごめんね子守失格で~! ジョセフ離乳食早くあげたげて」

「よし、任せておけ! 儂のはうんまいぞ~」

 

 そう言って、ジョセフは赤ん坊を抱いたままいそいそと離乳食の準備にかかった。

 

「おい花京院、ピンで刺したとか言ってたけどよ……」

「……いや、すまない。どうやら見間違えたようだ」

 

 ポルナレフに僅かに首を振り、花京院は澪の話に乗ってくれた。これ以上疑惑を増やしてもいいことはない。

 

「そういえば、昔ホリィがビー玉を呑み込んだ時があったな……ありゃ大変じゃった」

「へぇ、ガキって食っていいものと悪いものの区別もつかねぇのかよ、焦ったぜ」

 

 ポルナレフとジョセフは会話を始め、どうやら『サソリの死骸を食べようとする瞬間』を花京院が見間違えたのだろうという方面で決着したようだ。

 多少の消化不良は否めないが、最底辺まで信頼が落ちることはないだろう。

 

 そして、ジョセフの腕の中の赤ん坊が小さく安堵めいた吐息を漏らす瞬間を、澪は確かに見咎めた。

 

「にしても花京院、どんだけ疲れてんだよ。今日は早く寝ろよな!」

「ああ……そう、させてもらうよ」

 

 僅かに目を逸らす花京院の表情は苦々しく、かなり悔しそうだ。

 

 おそらく、自分たちは千載一遇のチャンスをふいにした。

 

 けれど、今この時に限れば花京院にとって分の悪い賭けだったことも確かだ。精神の疲弊どころか壊れてしまった、と思われるかもしれない。

 正義感が強く、善良なジョセフたちは無意識にでも無力な赤ん坊の方に気を割いてしまう。その中身がどうなっているのかは別にして。

 

 だから、あとはこれくらいがせいぜいだろうか。

 

 澪は離乳食を食べさせているジョセフの横にしゃがみ込み、

 

「あのさー、ジョセフ」

「なんじゃ?」

「その赤さんスタンド使いかもしんない」

 

 思い切り爆弾を投下した。

 

「ほう、そうな……はぁあ!?」

 

 驚愕するジョセフの腕の中、赤ん坊が思いきり離乳食を吹き出した。

 

「おい澪までなに言い出してやがんだ! しまいには怒るぜ!?」

 

 ポルナレフも烈火の如く怒り始めたが、澪はわざとらしく眉を寄せて肩をすくめる。

 

「言い方が悪かった? じゃあ、スタンド使いに()()()()()()かもしれない」

「どういう意味だ」

 

 今度は承太郎が問いかけた。

 

「さっき典明くんから話聞いてたんだけどさ、どうも夢の中で攻撃されたっぽいのね」

 

 事実と推測を織り交ぜて、ほんの小さな疑惑の種を。

 可能性のひとつとして考えているのだから満更、虚構というワケでもない。

 

「それがスタンド攻撃かどうかまではわかんないし、仮にそうであっても、その赤さんが犯人とは限らないワケだけど」

 

 あえて自分で否定要素を口にして周囲の疑惑を煽り、話を聞くように仕向け、彼らが憂慮しなければならない要素をばらまく。

 

「その赤さん()()出してたし、僕らみたいな他人に送られるなんて不安でしょ? ストレスだって相当溜まってるだろうし」

 

 高熱、という言葉でジョセフが僅かに反応を見せる。

 最も大切な娘が高熱を出した原因を消すために、彼は旅路を続けている。

 

「もしかしたら、そういう危機的状況で典明くんやポルナレフさんみたいに生まれつき備わってたスタンドが、勝手に赤さんを守ろうとして『暴走』してるのかも」

 

 暴走、という言葉で今度は承太郎が鼻に皺を寄せた。

 自らのスタンドを操作できず、苦い思いをしていた時期が彼にはあった。

 

 そこまで一息に話して、澪は神妙に赤ん坊を見つめる。

 

「典明くんと、もしそうだったらどうしようって心配してたんだよ」

 

 不審ではなく、憂慮。

 

 混乱ではなく、心配。

 

「普通じゃないって、そういうことだったのかよ」

 

 話を聞いて何か身に覚えがあるのか、ポルナレフが若干俯く。

 

「てっきり俺は花京院の精神が擦り切れちまったもんだとばっかり……悪かったな」

「いや……」

 

 曖昧に首を振る花京院とこっそり視線を見合わせる。

 こういうとアレだが、ポルナレフはわりとちょろい。

 

「夢の中に出るスタンドなんてあるのかよ」

 

 承太郎の疑問にはさすがに答えられない。

 

「さぁ、あくまで可能性の話だし、そこまではちょっと。でももしそうだとしたら、赤さんに言い聞かせるなんて無理だしさ。困るよねって」

「ふぅむ、この赤ちゃんがのう」

 

 心なしか冷や汗を流している赤ん坊をしげしげと眺め、ジョセフはため息を吐いた。

 

「……ないとは思うが、一応用心はしておくか」

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「見たかい?」

「ばっちり」

 

 注意喚起だけはなんとか成功したが、重要なのはそこではない。

 花京院と澪は赤ん坊たちから少し離れ、再び作戦会議である。澪があれだけジョセフたちの前でベラベラ喋ったのは、赤ん坊の反応を見るためだ。

 これで手持ちの札は出し尽くしてしまったが、収穫は得られた。

 

「ありゃ完全に自意識あるよ、めっちゃ睨まれたもん」

「ぼくはサソリはともかく、明確に目を反らされた」

 

 これで赤ん坊がスタンド使いであること、こちらに敵意を持っているということははっきりした。

 

 さて、そうなると必要なのは対策である。

 

 夢の中で殺される、なんてどんな用心もほぼ無意味だ。

 自分と花京院だけの身の安全を確保するなら揃って徹夜するだけで事足りる。

 だが、ジョセフたちも睡眠時を狙って襲われるのだとしたら、どちらかが対抗策をひねり出して出撃しなければならない。

 

「夢の中でスタンドを出す、なんてどんなウルトラCが必要なのやら……」

 

 さすがにスタンドに関してはド素人もいいところなので、こればっかりは分からない。

 

「ああ、それに関しては思いついたことがあるんだ。おそらく大丈夫だと思う」

 

 こともなげに花京院はさっきまで考えていた『条件』についての解釈を口にする。さすが抜け目のない男。頭脳の要。ずっと思考を巡らせていたらしい。

 彼が語ったのは身につけているものは持ち込み可、なのではないかということだ。

 

「じゃあ、ジョセフたちが寝た時の事はお願いするね。たぶんみんなノー装備だろうし」

 

 人間の最も無防備な時間につけ込み、攻撃するとすればおそろしいスタンドだ。

 花京院を死地に追いやるようでぞっとしないが、自分にできることは少ない。

 業腹ではあるが、ここまでだ。

 

「僕の友達と、戦友と、仲間を、守ってあげて」

 

 花京院はしっかりと頷いた。

 

「請け負うよ、任せてくれ」

 

 自然と互いに手を打ち合わせた。

 信頼と約束を重ねて、ぱん、と小気味のいい音が暗がりに響く。

 

「で、誰かがもし典明くんみたいにうなされたり、暴れたりしたら僕が叩き起こす」

 

 最後の最後の防波堤として、自分が現実世界に残る。どうせ今日は眠れないし、好都合だ。

 

 睡眠中、誰かに異変が起きたらとにかく起こせばいい。

 

 それしかできないが、セスナ機内でポルナレフが無傷だった理由が、あのおむつ交換の時に起こしたことが功を奏していたのだとすれば、命だけは守れるだろう。

 

「徹夜するつもりかい?」

「徹夜っていうか、どうせ今日僕寝れないから。利のいい保険だと思ってて」

「……眠れない?」

 

 怪訝そうな花京院に、澪は苦い笑みを浮かべて軽く手を振った。

 

「月イチくらいでね、そういう日があるの」

 

 月に一度という言葉と性別で、花京院は勘違いしたのか少しだけ頬を赤くして俯いた。

 

「そ、そうか。じゃあ頼むよ」

「うん、任された」

 

 さて、これだけの準備を整えてみたが本当は全部杞憂であるといい。望みは限りなく薄そうだが。

 

 寝袋の準備をするという花京院と別れ、澪は小狐丸を手にしたまま少し歩いた。

 

 足元に広がる紋様は、昨日の綾と今日の綾。きっと異なっている。でも、いくつもの昼と夜と越えて、人の痕跡を消すことだけは変わらない。

 自分がつけた足跡も風に散らされ、やがて消える。砂漠はこれからもずっとそうなのだろう。それでいいと思う。

 

 なんとなく空を見上げて、息が詰まるほどの藍の空に息が漏れる。

 星が集まりすぎて河のような銀河と、気持ちよさそうに瞬きを繰り返す星々。

 

 まだ夜明けは遠い。けれど時は有限で、刻一刻と進んでいる。

 

 空は冴え冴えと澄んでいて、深呼吸すればよく分かった。地上でこんなに清いのだから──ならば、空は、どれほど。

 

「……、あ」

 

 薄れていたはずの記憶が蘇る。

 それは熾火が風に煽られ、一息に噴き上がる火炎の如き苛烈さを伴って鮮烈に。

 靴の裏で感じる昼間の熱を孕んだ砂の感触。夜営。地虫の声。焚き火の弾ける音と、煙の匂い。

 

──似ている。

 

 ほんの一時、まぶたを閉じた。

 花京院の不安が少し感染ったのかもしれない、感傷に過ぎている。分かってはいたが止まれなかった。

 

 澪の頭には沢山の思い出がある。

 

 それらは普段パソコンのファイルよろしく圧縮され、記憶の棚にきっちり並べて鍵をかけている。

 どれも大事なものには違いがないが、思い出に囚われていては目の前の出来事に向き合えなくなってしまうからだ。

 けれど記憶とは厄介なもので、音や匂い、皮膚感触などがきっかけで厳重にかけていたはずの掛け金があっさりと外れてしまうこともある。

 

 たとえばそれは、こんな夜だ。

 

 記憶が呼び覚まされ、錯綜する。心の(ひだ)が夜の闇に透けて、浮き出てくるようだった。

 

 こんな砂漠で、夜を明かしたことがあった。

 

 窮状に喘ぐ百姓たちに請われるままに、刀を未だ腰に携えた人斬りたちが狂わんばかりに欲していた死出の旅へと同道した。

 己の力を真に活かせる地をのみ求め、歩く死人たちの向かう極上の晩餐。死に場所へ行くために生きる馬鹿の群れに、幼子と交わした約束をひとつだけ持ってついて行った。

 

 

 無策のままで、無謀な戦いに挑む──その決戦の前夜へと、心が回帰する。

 

 

 まぶたを開けて、()()()()()()()小狐丸を抱えるように座り込み、夜空を見上げて思いを馳せる。

 周囲の気配を探ろうとして、哨戒の必要はないのだと首を振った。

 

 あまりにも無謀で傲慢で、此の上なく真摯な頼み事だった。

 ひたすらに蹂躙されることに耐えかねた嗚咽と報仇の全てを、百姓たちは彼らに託していた。

 実際に命を賭すこととなった者たちにとって、それは目眩がするほどの陶酔をもたらしたことだろう。

 

 その証拠に誰も彼もが嬉々として自由意思で終結し、最後の最後の大勝負へと赴いた。忘我の極地で自らの矜持の残滓に酔いながら、目標に向かってひたすらに奔り抜け──そして。

 

 幾人かはそんな幸せの極みの最中で砕け散り、幾人かは生き残った。

 

 本懐は見事に遂げられ、最後に残ったものは──

 

「──ッ!」

 

 背後に立った気配に、身体が自動的に動いていた。

 

 心の臓から指先まで完全に『以前』の感覚に立ち戻っていた澪は生存本能にのみ頼り、立ち上がると同時に半ば無意識のまま振り向きざま、柄に指先を掛けて神速の抜き打ちを見舞っていた。

 

「ッ!」

 

 けれど、薄い刃先が相手の頸動脈を切り裂く──そのほんの髪ひと筋分の隙間で、正気に返った。

 驚いたようにこちらを見据えているのは、外洋の瞳。嵐のあとの凪の海だ。

 

「──殺す気かよ」

 

 呆れたような低い声音が耳朶を叩き、鼻腔に届いたのは珈琲の香気。

 それが契機となって澪の瞳に焦点が結ばれ、ざぁっと全身から血の気が引いた。

 

「ごめんなさい! 承太郎ごめん!」

 

 慌てて刃を引いて鞘におさめる。

 危ないところだった。立ち上がるモーションがなかったら振り抜いていた。

 自分の手で仲間を殺したとあっては目も当てられない。それこそ切腹ものだ。

 冷や汗をだらだら流しながら小狐丸を()()()()()米つきバッタみたいに頭を下げる澪に、承太郎は短く息を吐く。

 

「物思いに耽るのは結構だが、物騒なヤツだな。……やれやれだ」

「うええすいませんんん」

 

 半泣きで平謝りする澪に何を思ったのか、承太郎は珈琲のカップを持ったままその場に座り込み、夜空を見上げた。さっきの自分のように。

 

「……?」

「……何を見てた」

 

 本当に、どこまでこの幼馴染みは勘働きがいいのだろうか。怖いくらいだ。

 一種の超能力でも持っているのではないかと思うほど的確な質問に、澪の心臓がしくりと痛んだ。

 

 けれど、答えられるのはこれだけだ。

 

 懐古の念を押し込めて、口の端をほんの少しだけ上げる。

 

「空」

 

 そこに嘘はない。

 

 違う地を踏み、同じ空を見上げて、異なる景色を重ねていただけだ。

 かつての決戦の地。生と死が行き交い、血と機械油の中で死の舞踏を刻んだ──あまりにも美しい底のない棺桶。

 

「……」

 

 承太郎にとって満足のいく答えではなかったのか、じろりと睨まれてしまう。

 無言の追求があった。でも、ここから先はあまり聞かせたくない。

 むっつりと唇を引き結んでいる寡黙な様子に、ふと笑みが漏れる。そういえば『彼』もとても寡黙だった。

 澪の大切な仲間で、素敵な好敵手。互いに背を合わせ、鉄火場を駆け抜けたひと。

 

「あのね、承太郎」

 

 ほんの少し、少しだけなら。

 

 地平線を見つめる。空と砂の境を越えて、心を彼方へと馳せて。

 

「僕らは空で夢を見たんだ、ずっと前の話だけど」

「夢?」

 

 かつて自分が何者であったのかを思い出し、消え果てる。彼らの望んだ桃源郷に、自分はついていった。

 

 夜空を見上げて、手を伸ばして。

 

「でもね、僕は同じ夢を見られなかった」

 

 目的意識が違ったのだからどうしようもない。

 けれど、そんな夢のきざはしに乗せてもらうことはできた。

 伸ばした手が届くことはなかったけど、忘れ得ぬ追憶と、消えぬ傷痕をはなむけにもらった。それでよかった。

 

「だから──僕はここにいる」

 

 もしそのまま夢に誘われて、叶ってしまっていたら、澪はここにいない。

 きっと魂を風に乗せて荒れ野を駆け、果てることのない血染めの夢を見続けていただろう。ずっと、ずっと。

 

 だから、話はこれでおしまいなのだ。

 

「さっぱりわかんねぇ」

「わかんないように言ってるもん」

 

 ぶっちゃけ、気違い者の与太話のようなものだ。理解されても困る。

 からかわれたと思ったのか、仏頂面を隠しもせずに珈琲を啜る承太郎に澪は小さく笑って、その頭を帽子ごと両手でぐしゃぐしゃと撫でた。

 頓着していないくせに艶を失っていない黒髪は、案外指通りがよくて心地良い。

 

「おい」

「承太郎はさぁ、優しくてぶきっちょだよね」

 

 いくら力が強くてスタンドがチートでも、承太郎は高校生だ。大人ぶっていたって、その精神は成熟しきっていない。

 筋肉のように鍛えられない箇所の揺らぎを敏感に感じ取って、承太郎の頭をかき回す作業を止めると広い背中に回って唐突にぐにぐにと指圧を始めた。

 

「うわ、凝ってんねぇ。岩だよ岩」

「なにがしたいんだ、お前」

「ねぎらってるー」

 

 適当に返事をしてしゃがんで、肩胛骨の下辺りを重点的に親指でぐいぐい。義父に授けられし技術を総動員して承太郎の背中を揉みほぐしにかかっている。

 特に害はないと判断したのか小さく鼻を鳴らして、抵抗はない。大型の猛獣が懐いているような妙なおかしさのある光景だったが、本人たちは気にしてなかった。

 

 ガチガチに強ばっている首周りの筋肉を揉みほぐしながら、ぽつりと。

 

「そんな心配しなさんな、典明くんは大丈夫だよ。メンタルへたばってないし、むしろやる気はまんまんです」

 

 珈琲カップを持つ手がほんの僅か、震えるのが分かった。

 けれど澪はしらんふりをして、こともなげに続きを口にする。

 

「そりゃみんな多少疲れてるだろうし、イライラしてるだろうけど、それだけだよ。承太郎が気に病むことなんかなんもないよ。だいじょーぶ」

 

 たぶん、今回の花京院と赤ん坊のアレコレを一番深刻に受け止めているのは承太郎だ。

 

 なぜなら、花京院から『肉の芽』を除去して、彼が自分たちの旅に同行するきっかけを作った張本人だから。

 誰が悪いってもちろん植え付けたDIOが悪いのだが、花京院が承太郎に恩義を感じていることはおそらく間違いない。

 せっかく命を助けた人間を、自分たちの都合に巻き込んで死なせてしまったとあれば本末転倒だ。付け加えると承太郎はその気性から友達も少ないし、花京院もそれは同様だろう。

 

 要するに、貴重な男友達のぴんちでちょっとへこんでいるのだ。

 

 いつもより口数が減っているのもその辺の理由だと思う。ホリィのこともあるし、そういった精神的な負の要素が乗算されてしまっているのだろう。

 母のことを心配して、花京院のことを心配して、スタンド使いを警戒して疑心暗鬼になってじゃっかん疲れている。

 

「承太郎の悩みは尽きないだろうし、この先もしんどいだろうけどさ、ピンで張り切らないでよ。心配だし、寂しいじゃん」

 

 いつだって弱みを見せたりしないし、実際それをカバーするだけのくそ度胸と根性と理性を承太郎は持っている。

 

「なんでも背負うと潰れちゃうぞ」

 

 でも、長い付き合いで見えることもあるのだ。

 

「お前がそれを言うのかよ」

「じゃあお互い様だ」

 

 けらりと笑ったら、舌打ちが返ってきた。

 いい加減指先が痛くなってきたところで承太郎の背中を軽く叩いて適当に切り上げ、そのまま小狐丸を抱えて背中合わせに座り込む。

 背中越しに当たる硬い感触と暖かさ。頭上には満天の星。

 

 贅沢な夜だ。

 

「なんかあってもケツは持つからさ、好きなようにやってみなよ」

 

 もし承太郎がしくじっても、承太郎を含めてみんなを守るくらいならやってみせる。

 背負うのは無理でも支えられる。引き摺って逃げるくらいならできる。

 

 承太郎は何やら考え込んで、やがて深く息を吐いた。

 

「俺にそういうこと抜かすのは、澪だけだぜ」

「そりゃ、光栄ですなぁ」

 

 幾分かこわばりの抜けた声に安心を覚えて、裾をはたいて砂を落としながら立ち上がる。

 

 澪はそのまま何歩か重力感のない動きで砂を踏みしめ、夜空を抱き締めるように大きく両腕を広げる。

 そうして承太郎の前で風と遊ぶようにくるりと回転して、青い月光と星の煌めきを背に、口元にどこかいたずらな笑みを浮かべた。

 

「おやすみ、承太郎。いい夢が見られますように」

 

 

 

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