ポルナレフとは別方向のクルーザーの着水している場所へ、承太郎と花京院は急ぐでもなくちんたら歩いていた。
南国の濃い緑の香り。靴裏で感じる砂と草の混じった感触。
「話ってなんだい、承太郎」
背中へ問いかけると、珍しく承太郎は少し沈黙した。風が流れて花京院の髪が揺れる。
「らしくねぇな、花京院」
「え?」
思いも掛けない返答で、束の間頭が白くなった。
いつの間にか承太郎がこちらを見据えていた。
強い、逸らすこと許さぬ圧力が含まれていて寸の間、花京院は気圧される。
「好きでも嫌いでも俺の知ったこっちゃねぇが、本人の前では取り繕え。へこんでるぞ」
「ッ!」
ずくりと心の臓が痛んだような気がした。
そっと逸らしていた問題を全力で突きつけられたようなものだ。
「それは……澪のことか」
「他に誰がいんだよ」
そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
『死神13』に見せつけられた、おそらくは澪が見ていた夢。身体が睡眠を拒否するほどの悪夢。本人すら無意識に忘却せざるをえないそれを、花京院は見せつけられた。
スタンドを所持したまま『死神13』の領域へ足を踏み入れた花京院は、その内容全てを覚えている。
知ってしまえば、もう戻ることはできない。
だが、変わるのは相手ではなく自分自身の心のありようだ。
「ぼくは、澪のことが嫌いなんじゃあないよ」
そこだけは、なんとしても否定しておかなければならない。
花京院にとって、澪ははじめて自分の友人を見つけて、受け入れてくれた恩人だ。
大切な幼馴染みで、守りたい親友で、失いたくないたったひとりだ。それは今でも変わっていない。
「むしろ……好きだから、大事だからこそ、自分自身が許せないんだ」
夢を覗いてしまったのは不可抗力だが、あの時花京院が感じたのは紛れもない恐怖だ。
惨憺と散らばる遺骸の中で、異形を従えるようにこちらを茫洋と見つめていた桜色の瞳。
全てに倦み疲れたような、擦り切れた老爺めいた雰囲気。
感慨も悲嘆もない、抜け殻にも等しい、あんな瞳で見つめられたことなどなかった。
澪であることは変わらないはずなのに、あの瞬間、花京院の目には人の皮を被った化け物に見えてしまった。
地獄そのもののような場所で平然としている存在に恐慌を起こし、怯えた。
肉の芽を植え付けられていた時分、承太郎に除去されてから霞の如く曖昧になっていた感覚が強烈な既視感を伴って蘇った。
それはDIOと相対した時に感じた恐懼と嫌悪に似ていた。
凡百の生死など歯牙にもかけず、無辜に散らしたところでなんの痛痒も覚えない。限りなく酸鼻で醜悪な、言うなれば
そんな感情をほんの一時でも澪に対して抱いてしまった自分自身が、許せなかった。間違っても、自分を救ってくれた者に覚えていいものではない。
周囲にスタンドを──自分の半身とも言える相棒を理解できる人間は長い間いなかった。
大人でも同年代であってもそれは同じ事で、無理解に溢れ、言葉が通じても共感を得ることはできなかった。
それが早熟な花京院には分かってしまったから、内に閉じこもるしかなくなった。
人付き合いを諦めていた幼い花京院が常に感じていた途方もない孤独と寂寥を、埋めてくれたのは澪だった。
ごく当たり前のように重くないのかと問いかけて、『法皇の緑』に挨拶をして、なんでもないことのように受け入れてくれた。
それがどれだけ花京院の心を救ってくれたのか、きっと澪は知らないだろう。
目が眩むほどに鮮烈で、世界が一気に色づくような──それは本当に、奇跡みたいな体験だったのだ。
そんな、自分をしあわせにしてくれた相手を、自らの手で穢してしまったようで、花京院は自分自身を嫌悪し、心底侮蔑した。
顔向けすることすら申し訳がなくて、ぎこちなさが抜けなくなってしまった。
「だから……」
全てを語るには言葉が足らず、唇を噛みしめたまま俯く花京院を見つめていた承太郎は、ポケットに手を突っ込んだまま呆れたようにぼやいた。
「案外面倒臭いんだな、お前」
「……は?」
つくづく、といった感じで言われて花京院はじゃっかん鼻白んだ。
それを知ってか知らずか、承太郎は淡々と口を開く。
「テメェの中の澪がどんだけ神聖なのかは知らねぇが、アイツはただのろくでなしだぜ」
「な、ろくでなしって……」
承太郎も自分と同じくらいの年数を澪と過ごしていたはずなのに、過小評価にもほどがあるだろう。底辺もいいところだ。
しかし承太郎の口は止まらない。
「俺が知ってる澪は、はしっこくて目端が利くくせにド鈍のあほだ。底抜けのお人好しのくせに極めつきの馬鹿で、貧乏くじばっか引いてやがる」
遠慮も容赦もなくズバズバと、珍しく饒舌に彼は語り続ける。
「ぼやっとしてるくせに喧嘩っ早くて、変なところ気にしぃで無駄に人の感情の機微に敏感なもんだからすぐへこんで悩みやがるしな。弱みを見せるのが嫌いで、本人に下手に誤魔化す力があるから始末に負えねぇ」
ああそれは当たってるかもしれないな、と思う。
「それで」
「まだあるのか」
まるで日頃の憂さを晴らすような口っぷりに、今度は花京院が呆れる番だった。
けれど、
「俺や、花京院や、ジジイたちを何より大事にしてる。下手すりゃ自分よりよっぽどな」
こともなげに言われた言葉が、意外なほど花京院の心の大事なところにすとんと落ちてきた。
承太郎はまっすぐにこちらを見つめて問うた。
「──それが分からないくらい、テメェは抜けちゃあいないだろ」
「ああ」
何も考えずに頷いた。
考えるまでもなかった。
澪は自分たちを大事にしている。害すくらいならきっと死んでしまう。
それはいつでも変わらない絶対の確信で、不文律で、言うまでもない周知の事実だ。
心に溜まっていた澱みのようなものが、するりと抜けたようで──呼吸すら楽になったような気がした。
視界が開けて、見えなかったものが今なら見える。
仮に『死神13』が仕掛けた悪辣な罠であっても、真実であったとしても変わらないことがある。
あの時、澪は──
「……やれやれだぜ」
表情の変化を見て取ったのか、承太郎が短く嘆息した。
「まだ悲愴ヅラするならぶん殴ってやろうかと思っていたが、必要なさそうだな」
「ああ、大丈夫だ。すまなかった承太郎、ぼくは少し混乱していたらしい」
「そういうことは本人に言え」
それはそうだ。
いっそ清々しいほどばっさりと切り返され、花京院はくすりと笑みを漏らす。
「承太郎も、ずいぶん澪を大事にしてるんだな」
「当たり前だろ」
恥も臆面もなく堂々と言われ、なんだか呆気に取られてしまう。
ただ当たり前のことを当たり前に言いました、という感じでそうですか、としか返せないような雰囲気だった。
「大体、ほっとくと大抵厄介ごとに首突っ込んで生傷作るからな。どっかでコロリと死なれたら寝覚めが悪くてしょうがねぇ」
「それには心底同意するよ」
気が抜けたせいか、そのままあーでもないこーでもないと澪への愚痴大会へと発展してしまった。
それは色艶とは無縁の、言ってみればやんちゃなクソガキを持ったカーチャン二人の子育て相談会のようなもので、間違ってもガタイの良い高校生たちがする内容ではない。
ここにポルナレフがいれば盛大なツッコミを入れてくれたのだろうが、生憎彼は現在この旅始まって以来の危機に直面しているため期待はできなかった。
「じょーたろー、のりあきくーん」
そうこうしている内に、澪がひょっこりと顔を出した。
話題の渦中の存在の登場で花京院は硬直し、承太郎は平然としている。
「どうした」
「ジョセフがそろそろ呼んでこいってんで、迎えに来た」
「そうか」
頷き、承太郎は花京院を目線で促した。
それを受けて、花京院も意を決して向き直る。
「あの、澪」
「ん?」
素直にこちらを見上げる澪。
口元は緩く笑ってはいるけれど、その瞳にはほんの少し心配や不安の色があって、まるでしょげた犬みたいだった。
ああ、自分はこんな顔をさせてしまっていたのだと理解して、なんだか苦しかった。
喉が貼り付いたようで、うまく言葉になるか不安だったが、それでも言った。
「妙に避けたりして、その、本当にすまなかった!」
ガバッと頭を直角に下げた花京院に澪は一瞬目を瞠り、それからごく素直に言った。
「仲直りしてくれるの?」
「ああ。仲直りの定義はよく分からないが、これまでと変わらず澪と向き合っていくよ」
それを聞いて、澪はほろんと笑みをこぼした。
「よかった」
嬉しさが心のコップからあふれたような、喜びをそのまま形にしたような微笑みだった。
そうだ、これが澪なのだと花京院は思う。
今まで自分と過ごしてきた彼女をどう思うか。
本当はそれだけでいいのだと、気付くのに随分と遠回りをしてしまった。
澪は雲を踏むような足取りで二人を先導して歩き始める。その小さな背中に、答えを期待せずに問いかけた。
「ねぇ、澪」
本当は問いたくなどなかったが、自分の中で踏ん切りをつけたかった。
「思い出すだけで辛いことって、あるかい」
承太郎の視線が一気に剣呑なものになったが、花京院は彼女の背中を見つめたままで気付かなかった。
「あるよ、沢山」
答えは、思ったよりずっとせいせいとしていた。
「……そんな時、どうする?」
澪はくるりと花京院を振り向いた。
「僕がしてきたことだもん。しょうがないよ」
桜色の瞳がみるみる透明になって、声音までが澄んでいるようだった。
「忘れないで、苦しんで、這いずっても生きて、生き延びて、時々夜中に飛び起きて、僕にできること全部やって、前を見て生きて──ちゃんと生きる」
その言葉には気負いがなくて、ひたすらに強かった。
自分の傷が膿んで腐るまで、ずっとずっと見続けてきた人だけが持てる声音なのだと思った。
「それが僕にできる精一杯の誠意で、償い……になるかは分からないな。自己満足だから」
自分の心の醜さや弱さから逃げずに向き合い、どれだけ眠れぬ夜を越えてきたのだろう。
けれど、そうだ、澪はあの夢の中で佇んでいた。目を反らすこともなかった。
周囲に散らばっていた全てが、おそらくは澪の罪で──彼女が一切を忘れていないことの証左だった。
「……そうか」
おそらくは心を抉るであろう質問に、彼女は真摯に答えてくれた。それで十分だった。
澪は少しだけ走って、両腕をおおきく広げて、まるで星をふりまくように。
「ほら、アヴドゥルさんが待ちくたびれちゃうよ!」
柔らかな風が真っ白な髪を揺らす。さんざめいて、雪を散らすように。
花が咲きこぼれるように、笑って。
「──、」
花京院は無意識に自分の胸元をぎゅう、と握った。
澪に会ってから、緩慢に過ぎる日々がどんどん色彩を増していった。笑顔を思い出すと、太陽が燃えるように綺麗に鮮やかに輝いて見えた。
億劫だった時間の流れがきらきらしているような気がした。それが澪へ届いていく時間だと分かったから。
ふと、いつかの春の宵が脳裏を掠めた。
街灯の横で春に降る雪と見紛うくらい幻想的に舞い散る夜桜が、ひどく美しくて、いとおしいものに見えた。
──そうか、きっと、これが
「ぼくは、きみに恋をしているんだね」
誰にも聞こえないような囁きは、自分の望み通り南国の風が攫ってくれる。
よろこびと、うれしさと、理解と、納得と、胸苦しくなるような多幸感と、潰れそうな切望がぐるぐるとかき混ぜられて、花京院の全身を浸して──我知らず頬が緩んでいた。