星と水底のおとぎばなし   作:小日向ひより

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43.女教皇②

 

 

 酸素量が減れば当然機内の空気も薄くなっていく。

 

 二酸化炭素で室内温度が徐々に上がり、湿気がまとわりつくようで不快だ。じりりと首筋が粟立って、死の気配を感じる。

 澪は泳げないこともあって、水場では大抵安全を期しているためこういった場面には不慣れだった。少しずつ足元の水位が上昇して、正直未知の恐怖で足が竦む。

 

「花京院……スタンドのやつ、どの計器に化けたか目撃したか?」

 

 承太郎が計器板を睨み付けたまま問いかけ、花京院は少し考えてから一点を指差した。

 

「た、確か、この計器に化けたように見えたが……」

 

 承太郎は軽く手を振って花京院たちを下がらせ、腕から『星の白金』を現出させる。

 だが、さっきからあちこち場所を変えて飛び出すようなスタンドが、果たして呑気に同じ場所で滞留しているのだろうか。

 

 澪はようやく再起動した頭でそこまで考え、周囲に視線を走らせる。

 

 アヴドゥルの言う通り、スタンドの気配は掴めない。

 殺意や敵意を探ろうにも、この室内には既にそれらが飽和していてうまく探知することができないのだ。

 

「ちがうッ、承太郎!」

 

 先に気付いたのはアヴドゥルだった。

 花京院の背後で明滅していた非常灯が突然ぐにゃりと曲がり、水銀のようにとろけた。

 

「ッ!」

 

 咄嗟に振り向いた花京院は『法皇の緑』を出して応戦したが、対象が小さいぶん『女教皇』は機敏な動きでそれらをかいくぐり花京院へと肉薄する。

 

 だが、『女教皇』が花京院の首筋を切り裂くよりも早く、壁を蹴飛ばして距離を稼いだ澪が小狐丸を鞘ごと全力でフルスイング!

 

「ホォッムラーンんんッ!!」

『ピギッ!』

 

 ぱがんッ、と異音が響き『女教皇』が壁に叩きつけられそのまま溶け消える。

 しかしそれで分かった。

 『女教皇』は自分の体表面をカメレオンの如く変色させて壁中を移動しているのだ。潜水艦は金属の塊に等しい。化けるのは容易だろう。

 

「やべっ」

 

 取り逃がしたことで思わず青ざめる澪だが、花京院は傷を負わずに済んだはずだ。

 

「典明くん、怪我は!?」

「いや、ないよ。助かった」

 

 ならば、それで良しとしておくべきだろう。

 水中で止血もせずに血液が垂れ流しになってしまったら、失血でショック症状を起こす可能性もあるのだ。

 

「皆、ドアの方に寄れ! いつの間にか、機械の表面を化けながら移動しているんだッ!」

 

 アヴドゥルも同じ結論に達したのか、声を張り上げた。

 

「この部屋にいると、全員どんどん怪我をしてダメージを受けるぞ! 皆、隣の部屋に行くんだ!」

 

 どうやらこの部屋自体を閉鎖して『女教皇』をこの中に閉じ込めるという方策らしい。

 だが、果たしてそう上手くいくのだろうか。

 

「金属管を伝えばどこでも入れちゃうんじゃないですか!?」

 

 金属製ではない部屋があるならまだ別だが、この潜水艦にそんな場所はないだろう。

 

「ここで手をこまねいているよりは試してみるべきだろう!」

 

 アヴドゥルがドアへと走り寄り、ハンドルを両手で掴んで回そうとした──瞬間。

 

『ブッギィィイイ~!』

 

 甲高い奇声とともに『女教皇』がハンドルと半ば同化するように姿を現した。

 すでに壁伝いに移動して攻撃のチャンスを狙っていたのだ。こちらの動きを読まれている。

 

「しまッ……」

 

 先程ジョセフの義手を一刀両断にした爪先がアヴドゥルに襲いかかろうとしたが、伸びてきた青い腕がその細い手首を掴み、ハンドルから引っぺがして両手で挟むように拘束する。

 『星の白金』だ。

 

「やった! 捕まえたぞ!」

 

 承太郎のナイスプレイにポルナレフが喜び、アヴドゥルが浮いた冷や汗を拭った。

 

「あ、危なかった……」

「『星の白金』より素早く動くわけにはいかなかったようだな」

 

 キイキイと甲高くわめく『女教皇』を無表情で捕らえたまま、承太郎は少しずつ『星の白金』に力を込める。

 

「こいつをどうする?」

「承太郎! 躊躇してんじゃあねぇッ! 情け無用!」

 

 ポルナレフが即答した。

 

「早く首を引き千切るんだ、早く!」

「アイアイサー」

 

 軽く請け負ってしまう辺り、承太郎も大分この旅で色々麻痺してきたような気がする。頭を潰したら本体の頭はどうなるのだろう。グロいオブジェになりそうだ。

 承太郎が『星の白金』に力を込め、水風船でも破るように文字通り『女教皇』を引きちぎった──のだが。

 

「ぐぅッ!」

 

 ぼたぼたっ、と両手から血液が溢れ出し水面に落ちていく。

 承太郎の手の平はあちこち傷だらけになっていて、苦悶の表情も相まってかなり痛そうだった。

 

「承太郎!」

 

 澪が引きつった声を漏らし、承太郎が開いた手の中にはてらりと銀色に光る薄刃。

 

「や、野郎……ッ!」

 

 憎々しげな呻きだった。

 

「剃刀に化けやがった!」

 

 『女教皇』の能力はなにも金属に溶け込むことではなく、自身を任意の金属へと変化させられることこそが真骨頂だったのだ。

 剃刀はそのまま意思を持った刃物として承太郎の手から跳ね上がり、ジョセフを背負っていたポルナレフの頬すれすれを掠めて天井へと突き刺さった。

 

「うぉ!?」

『ケケッ、ハハハハ! アッハハハハ!』

 

 驚いたポルナレフがジョセフを取り落とし、『女教皇』はこちらを馬鹿にするような哄笑をきゃたきゃたと響かせる。

 この面子とスタンドにとって『女教皇』はとてつもなく相性の悪い敵だった。

 更にロケーションも最悪だ。金属の内部ではあのスタンドの胎内にいるのと同義である。さすがに対抗策が思いつかない。

 

「こいつ、強い……!」

「承太郎に一杯食わせるなんて、なんて敵だ……」

 

 アヴドゥルと花京院が唖然と呟き、後ろで水の冷たさに驚いたのかジョセフが意識を取り戻して飛び起きた。

 

「こ、この状況は……なんかよくわからんが、ひょっとしてピンチ!?」

「大ピンチだよ!」

「黙れジジイ」

 

 状況をろくに理解していないジョセフに、澪と承太郎が同時に吼えた。

 相手は自ら金属加工できるスタンドなので、『魔術師の赤』の炎も『銀の戦車』の刺突もいまいち効果が薄い。

 

「ヤツの姿が見えている内が、退き時じゃな」

 

 しかしさすがに亀の甲より年の功。すぐに状況を把握して退避命令を下した。

 続々と廊下へメンバーが脱出するが、なぜか承太郎は『女教皇』を見上げたまま動かない。

 

「承太郎?」

「構うな承太郎! また化け始めるぞ! 澪も早くしろ」

「はい!」

 

 アヴドゥルも廊下に出てしまい、『女教皇』も金属質な高笑いを響かせながらまた天井へと溶ける。

 その様子をまざまざと目に焼き付けた承太郎は、低く、静かに。

 

「てめーはこの空条承太郎が、じきじきにブチのめす」

 

 それは宣戦布告だった。

 

 これまでの所行がよほど腹に据えかねたのだろう。

 怒りの気配を滲ませていた承太郎は、ぼやっと様子を見ていた澪の腕を強く引いて、勢いよくドアを閉めた。

 

「なんじゃと!?」

 

 廊下を走り抜けながら、話を聞いたジョセフが承太郎を睨み付ける。

 

「承太郎! お前スージーからの電話に出たのか! ったく、余計なことしおってからに!」

「でも、スージーQ二回も電話してきたんだよ?」

 

 祖母思いの孫なら出ても仕方がないだろう。

 

「む……まぁいい! とにかくこの窮地を脱してからだ! 儂に任しておけ!」

「何か、策でもあるのか」

「ああ、とっておきのやつがな!」

 

 堂々と言い切るジョセフだが、澪はイヤな予感しかしなかった。

 窮地に追い込まれたジョセフが取る最終手段を、自分は経験から知っている。

 

「ジョセフ、ひょっとして……」

 

 ここにスモーキー・ブラウンがいないのが悔やまれる。彼ならきっと渾身のツッコミを入れてくれただろうに。

 

「このジョセフ・ジョースター! このような状況は今までに何度も経験しておる!」

 

 何度も経験して生き延びているのは、確かに凄い。普通なら三回くらい死んでいる。

 

「これからどうする!? 奴か、我々か……閉じ込められたのはどちらか分からんが……遅かれ早かれあの部屋から何かに穴を開けてここまで来るぞ!」

 

 花京院の焦りにアヴドゥルが答えた。

 

「この機械だらけの密室の中では圧倒的に我々の不利! この潜水艦はもう駄目だ、捨てて脱出するのだ!」

 

 今捨てたらタタリ神に……ならないな。機械だから。命の方が大事です。

 思考回路が麻痺しそうになっている澪は、半ば自動的に走りながらどうでもいいことを思った。

 

「とにかくエジプトへ上陸だ!」

「しかしここは海底40メートル! そんなに深くは無いがどうやって海上へ!?」

 

 その答えは決まっているが、考えたくなかった。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「こッ、今度はスキューバダイビングかよ! 俺、経験ないんだよね、これ……」

 

 アクアラングやゴーグルなどの機材を眺めながらポルナレフが苦笑する。

 

「す、スキューバ……」

 

 そして澪はといえば、予想通り最悪の展開に死相の浮かんだ顔色で慄いていた。

 

 どう考えても泳げない人間にはハードルの高すぎる難関である。というか、下手するとしぬ。

 動けなくなってしまった潜水艦にいたってどのみち命はないので、エジプトに上陸を果たすためには選択肢などないのだがとても怖い。

 

 実のところ、無駄に経験が多い澪は今回の旅路で決定的な緊急事態というものを体感していなかった。

 大体の鉄火場を知恵と工夫で乗り越えてきていたため、切羽詰まった状況に不慣れなのだ。

 

 そんなワケで、

 

「おい、ゴーグルと酸素ボンベだ」

「うん」

 

 承太郎から受け取り、機械的にコチリと頷く。

 

「大丈夫かい?」

「うん」

 

 花京院の問いかけに、機械的にコチリと頷く。

 

「澪、悪いが手伝ってくれんか?」

「うん」

 

 ジョセフの言葉に、機械的にコチリと頷く。

 蝋のような顔色で固まった澪は、できのいい人形のように身じろぎひとつせず棒立ちである。

 

「……おーい、一たす一は?」

「うん」

 

 ポルナレフの問いに機械的にコチリと以下略。

 

 

──あ、こりゃだめだ。

 

 

 全員がそう思ったという。

 

 ぎくしゃく、と関節が固まった人形みたいな動きで装備をつけようとしている澪を見かねた花京院とアヴドゥルが手伝い、なんとか準備が完了する。

 

「この中でスキューバ・ダイビングの経験のある者は?」

 

 「ない」「ない」「ありません」と全員が否定した。澪は言うまでもない。

 

「隣の部屋から『女教皇』が襲ってくる! 早く潜り方を教えて下さい!」

「慌てるなアヴドゥル」

 

 焦るアヴドゥルを諫め、ジョセフは噛んで含めるように言った。

 

「いいかみんな。まず、決して『あわてない』。これがスキューバの最大注意だ」

 

 慌てる以前に緊張で思考停止しているのは問題外かもしれない。

 話はたぶん聞いているのだが、詰め込むので精一杯らしい澪は穴が空きそうな勢いでジョセフを注視している。

 海上の気圧が一気圧で、海底であるここでは人間の身体にはおよそ五気圧の負荷がかかっている。10mで大体一気圧ずつ加圧されるのだ。

 身体を少しずつ気圧に慣らしながら浮上しないと、肺や血管が気圧の変化に耐えきれず膨張、破裂してしまう。

 

「エジプト沿岸が近いから、海底に沿って上がっていこう」

 

 そう言って、ジョセフが注水のハンドルを回した。

 

「では、水を入れるぞ」

 

 ハンドルを回すごとに太いパイプからどぼどぼと海水が入り込み、いよいよ澪は身体を強ばらせた。

 今日び無人島ゼロ円生活ですらウェットスーツくらい支給されるというのに、まさかの私服スキューバである。ぶっちゃけ死ぬほど怖い。海水と一緒に自分の寿命も削られていくようでぞっとしない。まさかこんな局面で生死の危機に直面しようとは夢にも思わなかった。

 

「これがレギュレーターだ。中が『弁』になっていて、息を吸ったときだけタンクの空気が来る仕組みになっている。吐いた息はこの左のところから出て行く」

 

 ジョセフの説明を聞きながら試しにぐっとくわえてみる。

 なるほど、呼吸しようとすると酸素が送り込まれてくる。唾や痰のような液体は横の部分から排出されるそうだ。

 

「それと、当然のことながら水中では喋れない。ハンドシグナルで話す……簡単に二つ覚えろ」

 

 そう言って、ジョセフは親指と人差し指でわっかを作る。

 

「『大丈夫』の時はこれを出す。オーケーだ」

 

 そして今度は親指と小指を少し立てて手の平をゆらゆらと。

 

「やばい時はこうだ」

「ジョースターさん、我々ならスタンドで話をすれば?」

 

 アヴドゥルの言葉にジョセフは「その手があったか」という顔をした。

 

「それもそうだな……」

「なぁんだ、ハンドシグナルなら俺もひとつ知ってるのによぉ~」

 

 ポルナレフがなぜか残念そうに肩を竦めた。

 そして、ぱん、と両手を打って、Vサインを出し、○を作って遠見の姿勢。これは多感な時期の小学生男子とかがよくやるサインですね。

 

「パン、ツー、まる、見え」

「YEAAAAA!!」

 

 花京院の正答に我が意を得たりとばかりにポルナレフが快哉を上げ、二人は手を打ち合い拳を会わせピシガシグッグと共通の何かを理解しあっている。男の友情というやつだろうか。

 

「襲われて死にそうだっていうのにくだらんことやっとらんで、行くぞッ!」

 

 とはいえ、ジョセフのツッコミは最もだった。

 

「それと澪! お前さんはスタンドで喋れないんじゃから、ハンドサインはきちっと覚えておけよ!」

 

 こく、と頷いた澪は手でオーケーサインを作った。顔は引きつったままである。

 

「……お前さんのそんなビビッた顔、始めて見たわい」

 

 怯えた小動物みたいな状態にジョセフは苦笑するしかなかった。

 

「……」

 

 ひたすら無言でこの世の終わりみたいな顔つきのまま、じりじりと上がっていく水位を見つめている澪に、承太郎がため息を吐いた。

 

「澪」

 

 のろのろと不安げに見つめてくる澪に、承太郎は当然のように手を出した。

 

「来い」

 

 いざとなったら守る。

 その言葉通り、来てしまった『いざ』という時に承太郎が動かないはずがなかった。

 

「……すいません」

 

 しょんぼりと謝りながら、逞しい腕に抱っこちゃん人形よろしくしがみつく。

 身長差のせいで一足早く不安定になり始めた細身の身体を小脇に抱えて、承太郎は小さく鼻を鳴らした。

 

「テメェが泳げねぇのは今に始まったことじゃあねぇだろ」

「仰る通りです」

 

 返す言葉もない。

 

「俺が守る。それでいいだろ」

 

 それは出発前に告げられた言葉と重なって、澪は信頼を込めてぎゅっと腕を握った。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 潜水艦からの脱出でいきなり一悶着がありましたが、なんとか抜け出すことには成功しました。

 『女教皇』がポルナレフさんのレギュレーターに化けて彼の喉奥に潜り込んだ時はどうしようかと思ったけど、典明くんとジョセフがそれぞれのスタンドをポルナレフさんの鼻の穴から挿入し、見事に一本釣りにした。

 鼻から入れる胃カメラみたいだったというのは、彼の名誉のために黙っておこうと思う。

 

 剃刀どころか水中銃なんて文明的なものにも化けられる『女教皇』の攻撃を辛くも避けつつ、僕らはなんとか海に泳ぎ出た。

 ポルナレフさんはいきなりレギュレーターを失ってしまったので協議の結果、彼に僕のレギュレーターを渡して承太郎と僕とでタンクをシェアすることになった。

 なんせ僕は動けないので、最善の方法だと思ったけど承太郎がやたら不機嫌そうで怖かった。すいません貴重な酸素を。

 

『助かったぜ、Merci beaucoup』

 

 スタンド越しだと言ってることは理解できるけど、お返事できないのが申し訳ない。とりあえずポルナレフさんにオーケーサインを作って笑ってみせた。

 泳げない僕は海中ではクソの役にも立たないので、完全に承太郎の手荷物扱いである。昔からだけど、なんで浮かばないんだろうなぁ。

 

 朝方なので徐々に光が差し込み、色鮮やかな熱帯魚が周囲を回遊している。

 あちこちに群生している珊瑚も宝石が散らばっているみたいで美しく、ポルナレフさんがレジャーで来たかったという気持ちがよく分かる。

 たぶん僕は二度と見れない光景だろうから、目に焼き付けておこうと思った。

 

『見ろ! 海底トンネルだ……ついにエジプトの海岸だぞ!』

 

 そうして泳ぐ(引き摺られる)ことしばらく、アヴドゥルさんが前方を指差してはしゃいだ声を上げる。

 ゴツゴツとした岩肌に穴のようなものが二つ。これを伝って海岸に行くのか。感慨深いような、実感が湧かないような。

 

「……」

 

 ……ん?

 

 そういえば、海底ってレアアースの宝庫とか言うよね? 岩って鉱石? 鉱物じゃね!? もしそうなら……とんでもなくヤバい。

 慌てて承太郎に伝えようと思ったけど、僕、喋れない! スタンド(?)、使えない! ど、どどどうしよう!

 

『? どうした……ッ!?』

 

 パニックを起こしかかってる僕を承太郎が不審がったのと、海底がみるみる姿を変え、岩肌が露出して顔のようになったのは同時だった。

 

 現実離れした、巨岩でできた顔面である。

 

 奇妙に有機的で、ぞろりと生え揃った歯がアトラクションのようにみるみる開いて、掃除機のように水流ごとみんなを吸い込んでいく。

 『女教皇』が擬態していたのだ。でっかい! めっちゃでっかい!

 

 吸引の力はもの凄く、濁流の中では人間なんて流される木の葉と同じだ。もみくちゃにされてろくな抵抗もできない。

 必死で承太郎にしがみついていたのだが、錐揉み回転した一瞬でずるりと嫌な感触が走った。運が悪かったといえばそれまでだが、指先が水を切り、びん、とレギュレーターのチューブが犬のリードのように張る。

 

 

 そして──

 

 

『澪ッ!』

 

 珍しく焦ったような承太郎がこちらに手を伸ばそうとしたタイミングを見計らったように、目の前でガシャンと歯が噛み合わさってしまった。

 

 閉店ガラガラ、である。

 

 ぶつんとイヤな音を立ててチューブがちぎれ、レギュレーターから海水が入ってきたのでその場で口からボンベを引き抜いて捨てた。口の中がびりびりする。

 

 ほんの少しの間、完全に茫然自失していた。

 

 かつてないピンチである。

 まだ息は止めていられるが、アスリートでもない自分があとどれだけ生きられるのだろうか。

 身体は思うように動かない。浮かばない。衣服が絡みついて邪魔だ。水を蹴っても身体が上昇しない。沈んでいく一方だ。

 冷たい海水が内臓すら凍りつかせていくようで、孤独感とこれ以上ないほどの逼迫感が僕を打ちのめす。

 

「~~ッ!」

 

 起こしかけた恐慌を拳を噛んで押さえつけた。痛みで自意識を取り戻す。

 パニックを起こしても、諦めても、その時点で死ぬ。

 

 苦しい。でもまだ生きている。鼓膜がじんじんして脳髄が痺れる。

 

 岩一枚を隔てた向こう側に仲間がいる。ぎっちりと閉じられている歯の僅かな隙間に指先を突っ込んで力任せにこじ開けようともがいた。

 たった7mでも、僕にとっては絶望的だ。浮かべないなら合流するしかない。

 

「ッい!」

 

 がりっ、と嫌な感触とともに爪先に激痛が走り、口からごぼりとあぶくが漏れた。

 

 身が竦む。こわい。苦しい。ひたひたと死が迫っている。

 

 酸欠で頭ががんがんする。目の前が霞んで力が入らない。さむい。肺が痛い。どうしよう、どうすればいい?

 迷う時間すら惜しい。こんなところで死にたくない。だって、まだなんにもできてない。悔しい。なんで泳げないんだろう。

 

 苦しい。

 

 苦しい。

 

 くるしい。どうしよう。とどかない。

 

 

──心臓の奥がずきんと痛んで、目の前が真っ暗になった。

 

 

 

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