腹をにぶい衝撃を喰らって覚醒した。
「ぐぶふッ!?」
胃袋が思い切り押し込まれ、ごろごろ転がりながらたっぷり飲んでいたらしい海水が食道からせり上がって口から噴出する。
がはげへごほと激しく噎せると口の中がじゃりじゃりした。これは……砂?
太陽の熱さを感じる。光が網膜を焼くようだ。空気が甘い。酸素が肺に入っていく感覚が気持ちいい。押して寄せる音は潮騒だ。
生きている。砂浜だ。でもなぜだ?
「ぶざまねぇ」
なにも考えられなくて転がったままぼんやりしていたら、どうやら自分を蹴り飛ばしたらしい人が立っていた。
「DIO様の義姉とは思えないわ。やせっぽちの、泳げもしないただの小娘」
侮蔑と嘲弄の混じる、けれど妖艶な声だ。
声音が現すように艶麗な美貌をした、ブルネットの女性である。煉瓦色の肌に水色のドレスはマーメイドラインを描いて美しく、澪はなんだか場違いに見とれた。
彼女が、おそらくは『女教皇』のスタンド使いのミドラー、だろう。こんな朝っぱらにひとりで突っ立ってる女性など他にたぶんいないと思う。
ミドラーは澪を憎々しげに睨み据え、口を開く。
「あたし、あなたが嫌いよ」
真正面からぶつけられる嫌悪と悪意。
いちおう、敵対関係にあるのだから害意をぶつけられるのは範疇内と言える。曖昧な納得があった。はぁそうですか、という感じだ。
「嫌い、きらい。だーいっきらい」
あんまり連呼されると逆に可愛らしく見えてくるのだから不思議なものだ。澪は基本的に女性が好きである。
だが、それならなぜ助けてくれたのだろう。ほっとけば数分で死んでいたのに。
口ぶりから推察する限りでは、彼女が『女教皇』で引っ張り上げてくれたのだろう。
「でもね、死なれるともっと困るの」
そんな澪の疑問を見透かすように、ミドラーは腕を組んで小鼻を鳴らした。
「わざと見殺しにしてDIO様に厭われるのだってイヤだし……あなたが死んだら、DIO様の中であなたは美しいまま残ってしまう」
その口ぶりで、なんとなく分かってきた。
DIOとしては会う前に澪が死んだら困る。だから『生け捕り』が条件のめんどくさい捕縛命令を出しているのだ。
かといって、DIOに心酔している部下たちにとっては面白くない。女性なら尚更だ。
明確に敵側に立っているようで実のところはよく分からない、目的意識がはっきりしない上に邪魔ばっかりしてふらふらする目の上のたんこぶである。
「心のどこか、あたしですら触れられないところで、宝石みたいな思い出に。そんなのイヤだわ」
しかしDIOが執着している、という事実があるためスタンド使いたちはヒャッハー死ね! とは出られない。たまさか殺してしまった場合、もっと始末の悪いことになる。
死者には勝てないとはよく言ったもので、DIOの中の澪は『ミオ・ジョースター』としての脳内補完バリバリの美しい思い出として永遠に残ってしまう。それは覆せない。
当人が没していれば死人に口なし。生者にすらそれは適用されてしまう。
だからミドラーは澪が死なないギリギリまでいじめて、嬲って、回収したというワケだ。
「あなたはこんなに無様でみじめったらしくて不細工ってことをDIO様に知ってもらわないと、我慢ならない」
一言であらわすなら──嫉妬である。
「おわかり?」
まっすぐに、偽りひとつなく自分が気にくわないと宣言するミドラーを澪は身体を起こしてじっと見つめ、つくづくと呟いた。
「可愛い人ですね、ミドラーさんって」
「……は?」
とんちんかんな返答である。
しかし澪の中では特に筋は間違っていない。
DIOが好きで好きでしょうがないから、邪魔者になりそうな自分を排除したい。でもDIOに嫌われたくないから意地悪に留めて、牽制している。
なんて分かりやすくて可愛いんだろう。変な思惑なんかよりよっぽど好感が持てる。こういうひたむきさが澪は大好きだ。
自分にはない感情だから憧れて、尊敬する。
「DIOを大好きでいてくれてありがとうございます、ミドラーさん」
「あ、当たり前でしょ! あなたに言われるまでもないわ!」
にこにこ笑って頭を下げられてしまえば、ミドラーもどう答えればいいのか分からないらしい。
調子が狂うとばかりに指先で髪の先をつまんでいじり、それでも意地なのか豊満な胸を張って高々と。
「まぁ、助けたのはあたしだし? せいぜい媚びへつらってご機嫌を取りなさいよ、ふん、変な娘」
「はい、あのままだったらほんとにおっ死ぬところでした。助かりました」
死ぬような原因を作ったのは紛れもないミドラー本人なのだが、助けてくれたことで相殺である。
腹を蹴られたのはアレだが、海水を吐けたのはよかったし。死ななかったのだから、別にいい。
「ミドラーさんみたいに綺麗で一途で可愛い女性を部下にしてるなんて、DIOは幸せものですねぇ」
腕を組んでしみじみと頷きながら呟く澪を、ミドラーは呆気にとられたように見つめた。
しかし、どうやら本気で言っているということが分かったのか、暫く視線を彷徨わせ深くため息を吐いた。
「そ、それで」
そして何やらそわそわ、と
「DIO様はどういった趣向のお衣装を?」
どうやらスタンド越しにしっかりと聞いていたらしい。
これは、ファン心理に近いかもしれない。
腹心の部下というのを横に置いて、アイドルを崇め敬いながらも自分だけしか知らない彼のプライベートエピソード☆を覗き見したい乙女心である。
澪はちょっと考えて、悪戯っぽく口の端を上げた。
「ついでにクリスマスにはいてたぱんつの色とか、どうです?」
ガッ、と硬い握手が交わされた。
ミドラーの歯が一本残らず爆裂四散する数分前の出来事である。
ちなみに澪はその瞬間をばっちり目撃してしまい、楳図○ずおの漫画みたいな顔になって悲鳴を上げた。
☓☓☓☓☓
『頭のトロイ奴らよのう! 石や岩も鉱物なら、海底も広く鉱物ということに気がつかなかったのか!?』
わんわんと『女教皇』の嘲弄が響き渡る。
承太郎たちが吸い込まれた先は、あまり広くもない空間だった。
床も壁もぬるぬるとした赤黒い塊で、よくよく見ると人間の口腔に酷似しているのが生理的嫌悪を煽る。
足場も肉なので柔らかく、踏ん張りがきかない。空気を逃さないためか、はたまた別の理由か、先程まで開いていた歯列はがっちりと閉じられ牢屋の格子も同義だった。
「澪!」
だが、承太郎はそれどころではなかった。
途中で切れて力なくたれ下がっているチューブは、自分のボンベと彼女を繋いでいた証だった。それが途切れた。
澪が泳げないのを、承太郎はよく知っている。誰かが引っ張りでもしなければ、本当に浮かばないのだ。
泳げない。酸素もない。浮かべないならこの壁を突破して──なんとしても合流しなければ、さもないと。
考えたくもない想像が頭をよぎる。
小さな頃から一緒だった。
幼い頃、承太郎が人知れずへこんでいる時、心がめげて動けなくなっている時、不思議と澪は傍らにいた。
慰めるわけでもなく、それでも離れることはなく。ただ傍にいて、時折零れる承太郎の弱音を拾い集め、受け止めてくれた。
受け皿があるということそのものが、承太郎にとって救いだったのだ。
大事な家族のような、妹のような、親友のような、不思議だが大事な幼馴染み。こんな局面であっけなく失うなど冗談ではなかった。
守ると言った。澪はよろしくと答えた。
それを──違えてしまった。最悪のかたちで。自分への怒りで腹の奥が煮え立つようだ。
「くそッ、今すぐ開けろ!」
焦りと苛立ち紛れに閉ざされた巌の如き歯をぶん殴る。
びりびりと歯に振動が走るが、破れる様子はない。
「承太郎、落ち着くんじゃ!」
「ジジイも知ってんだろ! 澪は浮かべねぇんだよ!」
噛みつくような切り返しにジョセフも黙る。
確かに、修業時代から確かに澪は泳げなかった。
カナヅチ、というよりは本当に浮かばないことが問題なのだ。海でも沈む。
この場にいる誰もが澪の安否を心配していた。誰も仲間の土左衛門を見つけたくなどない。
ましてや、自分が守ると宣言して抱えて移動していた承太郎の受けた衝撃は、並大抵のものではないだろう。彼とてただの(と言うと語弊があるが)高校生なのだ。
「承太郎、おそらく澪は大丈夫だ」
そこへ、花京院が承太郎の肩を強く掴んで殊更静かに告げた。
「理由は」
獣めいたやぶ睨みにも屈することなく、花京院はまっすぐに外洋色の瞳を見つめ、自分の推察を述べる。
「DIOは澪を欲しがっている。ぼくらと違って
ならば、澪をこの場で死亡させてしまうような愚は犯さない。
彼の執着を花京院はこのメンバーの中では誰よりも理解している。
もし部下のスタンド攻撃で澪が命を落としてしまったら、その部下は制裁を免れない。おそらく憎悪を込めて殺される。
まして、彼女に懸けられている懸賞金は莫大だ。肉の芽で忠誠を誓うものたちはもとより、金目当ての連中も積極的に殺しにかかるような奴らはいないはずだ。
生きていなければ、価値がなくなってしまう。
「……ッ」
ぎり、と承太郎は唇を噛みしめた。
犬歯が端をかみ切り、鉄錆の味が口の中に広がる。
『さすが花京院ね。そうよ、DIO様の義姉君ならあたしが保護しているわ、丁重にね』
こともなげに響いた『女教皇』の声。
『死んでしまったら、あたしはDIO様に嫌われてしまうもの。当然でしょ?』
「そ、そうか……それだけはよかったぜ」
ポルナレフが心から安堵の吐息を漏らした。
彼女のアクアラングを借り受けたのは自分だったのだから、その罪悪感は半端ではなかった。
『あたしはそこから7m上の海岸に澪サマといるよ! しかし、お前らは『女教皇』の中ですり潰されるからあたしの顔を見ることは……出来ない!』
勝利を確信したようなミドラーの声。
『ヘイ、承太郎!』
突然の名指しで承太郎が顔を上げる。
『承太郎、お前はあたしの好みのタイプだから心苦し……え?』
だが、なぜかその声は途中で途切れた。
『あら、うん、そうなの? ……やだ、DIO様かーわーいーいー! それでそれで?』
「混線!?」
「なんだこのスタンド戦に掠りもしない女子力高めの会話は!?」
アヴドゥルが驚愕の声を漏らし、花京院がどうでもいい部分をツッコんだ。
しかし、ミドラーの近くに澪がいるということは、これでほぼ確定した。
おそらく『恋人』戦の時のように適当な話でもして彼女の気を反らせているのだろう。
ひとしきりきゃあきゃあ騒いで、途中で気を取り直したのか咳払いなんぞしつつミドラーは続ける。
『こほん、あたしのスタンド、『女教皇』で消化しなくっちゃならないなんて……きゃあん! 刺激的すぎる! ああんもう最高ですわDIO様ぁ!』
声からだけでも身悶えしているのが伝わってくるようだった。ぜんぜん興味のないアイドル語りというか、萌え話を勝手に聞かされているようなものだ。
要するに、こちらは面白くもなんともない。
「なに話してんだアイツ……」
「おいDIOの何が刺激的なんじゃ!? 存在か!?」
承太郎が呆れ、ジョセフがややずれた事を叫んだ。
『お前を殺ればDIO様に褒めて頂けるの! 悪く思わないでねぇん?』
標的と定められた承太郎は、けれどひっそりと口の端を上げた。
最大の問題が解決した今、遠慮する必要など欠片も存在しないからだ。
守り切れなかったことを悔しくないといえば嘘になる。
だが、生きているならそれでいい。自責も自罰もあとだ。それは澪に任せるべきだ。
ポルナレフが妙な提案をしてきたのは、その直後のことである。
☓☓☓☓☓
お喋りしていたら、相手の歯がいきなり爆裂した経験がある人なんてたぶんいないと思う。
「おごッ、あ、あぁ……ッ!!」
ばらばらと砂の上に血混じりの歯の欠片がこぼれ落ち、ミドラーさんは口から大量出血して仰向けにひっくり返った。
白目を剥いて、痛みのせいかびくびくと手足を痙攣させ、どうやら意識を喪失しているらしい。
「うわぁ、ミドラーさん……」
おそらくスタンド戦で承太郎たちが勝ったのだろう。
それにしても容赦がない。明日から彼女は一生入れ歯生活である。可哀想に。
とりあえずできる限りの応急処置を施し、ピルケースから痛み止めの錠剤を出してミドラーさんの手に握らせ、そのまま正座でじっとしていた。さすがに放置は寝覚めが悪い。
「……ん?」
ふと、海の方から馴染んだ気配を感じた。
膝に手を当てて立ち上がり、気配を辿っていくと浜辺から仲間たちが朝陽を背に上陸を果たしたところだった。
「皆さん、無事ですか!?」
「澪! よかった!」
「ッ!」
ぶん、と大きく手を振ると花京院やジョセフたちが喜色を浮かべ、目をかっ開いた承太郎が無言のまま、猛牛の如き勢いでこちらへと突進してきた!?
「ひぃッ!?」
澪はその凄まじい勢いに怯み、魂消て──身を翻して全力で遁走した。
「おい逃げるな!」
「ごめん、つい!」
承太郎があまりにもこちらを殺しにくるような速度と迫力で迫ってくるから、澪の長年培われし危機回避本能が「あ、逃げなきゃ殺される」と勝手に反応してしまったのだ。
砂浜を蹴立てて走り回る様子は、傍から見れば恋人同士の追いかけっこに見えないこともないかもしれないが、どちらかというと獰猛な熊に追い回されている小動物といった風情でロマンチックもへったくれもなかった。生存競争である。
しかし澪と承太郎では足のコンパスが違うのであっという間に追いつかれ、後ろからぐいっと引き寄せられ、そのままぎゅうっと抱き締められた。
生きていることを確かめるように強く、強く。骨が軋みを上げるような抱擁だ。ベアーハグである。
背中から伝わってくる熱い体温と、早い鼓動。
「……承太郎?」
こんなに腕の力は強いのに、痛いくらいなのに、なぜだろう──承太郎があまりにも脆く感じた。
やがて、絞り出すように言葉が紡がれる。
「悪かった」
低く、
そうか、と思う。
きっとずっと気に病んでいたのだ。守ると言ってくれたのに、約束を果たせなかったことを心底悔しがっている。
澪はお腹に回されている承太郎の腕を宥めるようにぽん、ぽん、と叩く。
「僕もごめんね」
「なんで澪が謝るんだよ」
「上手に守ってもらえるように、できなかったから」
きっと、もっと上手く立ち回れば承太郎にこんな思いはさせなかった。
それが申し訳なくて、せつない。
「おまえは悪くねぇだろ」
「承太郎だって悪くないよ?」
何が悪いって潜水艦をチョイスしたジョセフとミドラーもとい『女教皇』が悪いのであって、べつに承太郎に咎はない。ちょっと巡り合わせが悪かっただけだ。
「だからいいんだよ。それでも気になるってんなら、お互い下手こいて両成敗ってことで」
さばさばと言って、澪は承太郎の腕からするりと抜け出して柔らかく両手を取る。
あの状況で治療ができず、まだ傷の目立つ手の平。甲にもいくつか擦過傷があって、自分をどれだけ心配してくれていたのかが分かる。
「ありがとうね、承太郎」
持っていた消毒液を容赦なくぶっかけ、砂などを洗い流して軟膏を塗って包帯を巻いていく。この旅ですっかり救護班みたいなことが板に付いてしまった。
「生きててくれて、よかった」
強さに関しては信頼しているが、それと心配とは別の話だ。だから仲間たちが海から上がってきた時、心底安堵した。
承太郎は包帯だらけになった手をじっとみつめ、やがて、ぽつりと。
「……俺もだ」
それだけを言ってくれた。じゅうぶんだった。
こうして、誰一人欠けることなく澪たちはアフリカ大陸の土を踏むことができた。
エジプトまで、DIOのもとまでは──もうすぐだ。