マライアさんと別れ、こっそりホテルの部屋に戻って手早く歯を磨いてから服もそのままにベッドへ倒れ込む。虫歯怖い。
幸いなことに誰も部屋に来なかったらしく、乱れた様子もない。
先程までの会話を反芻して、ぽつりと呟いてみる。
「スタンド、かぁ」
今まで自分のスタンド(?)についてを考えたことは何度かあったものの、明確な答えを出せた試しがない。そもそもスタンドかどうかすらも怪しいし。
相手の攻撃に敵意、もしくは害意があれば自動的に無力化し、副作用は一定時間体重が極端に減少すること。
それだけなら防御特化、という意味で納得できるのだけど、親分のスタンドをぶつけられると狸になってしまうところまで考えると、もうよく分からない。相手が動物、というのがポイントなのだろうか。
そも、スタンドとは本体の精神力そのもの。
魂に寄り添う、形あるちから。
だからスタンドが傷つけば本人も傷を負うし、本人が弱ればスタンドも弱体化する。
自分の魂の端っこに狸時代のアレソレが残っている、と想定すれば動物化も不思議ではない……のか?
けれど疑問はまだまだある。
そういえば、僕は承太郎やポルナレフさんのように立体的なキャラクターとしてのスタンドが発現したことがない。
まぁジョセフのように蔦状のスタンドがあるのだから、人型でなくとも問題はないのだけれど、自らの意思ではなく自動発動なので操っているとも言い難い。なにしろ名前すらついていないのだ。
やっぱりこれ、スタンドじゃないんじゃね?
そんな結論に達しそうになるものの、そうなると僕がみんなのスタンドを目視できることの説明がつかないワケで。
「……ダメだ、わからん」
元々そこまで頭が良くない自分では、ここまでが限界だ。眠くなってきたし。
全てが面倒になった僕は上掛けをめくってその中に潜り込むとフテ寝を決め込んだ。
現段階で困ってないのだからそれでよかろうなのだ、である。
☓☓☓☓☓
さて、明けて翌日。
澪はめっちゃ寝坊した。
おそらくは昨夜物思いに耽ったまま寝落ちしたせいなのだろうが、ぼへーっとしたまま何の気なしに飾られた時計を確認した瞬間に完全に覚醒。同時に血の気が引き、デジャヴを感じた。
朝食を抜くぐらいなんてことはないが、何故誰も起こしてくれなかったのだろうか。
バタバタ準備を進めていると視界の端に白いものがちらついた。ドアの方へ近寄ると、下からメモが差し込まれていたので引き抜く。
筆跡からして承太郎だろう。
『起きねぇから先に行く』
なんとも簡潔な文章である。
ドアを壊しもせず中に入ってこなかった辺り紳士的だ、と評価してもいい。
しかし、澪としてはそうも言ってられない事態に直面してしまった。片手のメモをぐしゃりと握りしめ、苛立ち紛れに壁を蹴飛ばし吠える。
「どこにだよ!」
せめて集合場所のひとつも記入! しろ!
承太郎の団体行動が苦手なところがこんなところで発揮されるとは思わなかったガッデム。一体いつ差し挟まれたメモなのか分からないが、現在時刻はチェックアウトギリギリである。澪はなるべく急いで身支度を整えてから荷物をまとめ、部屋を飛び出した。
廊下に出ると、なにやら壁に穴が空いていたり、清掃員らしき人が数人がかりで瓦礫のようなものを片付けているが、何があったのだろう。予想はつくが想像したくないのでスルーした。
そして曲がり角の前で少し考えてからロビーへ繋がる方向ではなく、もう片方へ曲がって階段を駆け上がり、屋上へ出ると落下防止の塀の上に飛び乗ると額に手を当てて周囲の景色を観察する。
しばらくキョロキョロと見渡していると、
「お」
眼下の景色に広がる街の風景に、ふたつほど妙なものが見えた。
片や、電線トラブルか火花を散らしてぶっつり千切れている黒いチューブ。
そしてもう片方は……宙を舞っているオッサンである。なんだろうあれ。
遠目でよくわからないが、妙に頭のでかい変なオッサンが、血しぶきをまき散らしながら錐揉み回転しつつ生垣に頭から突っ込んでいくのが見えた。
さて、どちらに向かうべきだろうか。
おそらくは両方ともスタンド戦によって起きたことだろうから、どちらに向かっても誰かしら合流できるはずだ。たぶん。
「うーん……」
電線トラブルの方は、下手すると行き違いになってしまうかもしれない。
吹っ飛ばされている男の方は、彼が敵のスタンド使いならば誰かがとどめを刺しに来るかもしれない。
「よし」
そんなワケで、澪は吹っ飛ばされたオッサンを追うことにした。
既にとどめを刺されたから吹っ飛ばされた、という可能性を考慮に入れるのを失念したまま。
☓☓☓☓☓
「うわ」
生垣に頭を突っ込んでいる男は、端的に言えば用がなければ近付きたくないタイプのちんぴらっぽかった。
許されるならAAで『へ、変態だー!』と叫びたいくらいである。
逆三角形みたいな髪型に、自己主張の激しすぎる鈴が連なっており、目つきも服装も相まってぶっちゃけ見なかったことにしたい。
付け加えるとすれば、男はけちょんけちょんのボロ雑巾のような状態で、これは承太郎もしくはジョセフたちにトドメを刺されたあとかもしれない。
だとすれば、ここにいても合流は難しい。叩き起こして詳細を尋ねても、たこ殴りにされている間の記憶なんて曖昧だろう。
「……いっかい、ホテルに戻ろうかな」
迷ったら戻るのは鉄則である。しかし本当に不便さを感じるのはこういう時だ。携帯電話が欲しい。
ため息を吐き、てきとうに止血くらいはしてやろうかと男に足を踏み出す。
仲間にやられた(暫定)のだから、多少の責任というか自己満足である。
だが、それが致命的な隙だった。
澪の背中がぞ、と粟立ったのはその瞬間。
背中に燦燦と照りつける陽光の下、穴のように黒く穿たれた影が不自然な形で伸び上がり、ぎょろりとした目玉がこちらを睨め付ける。
「ッ!?」
本能的に感じ取った危険信号に従い、半ば反射的に影から跳び退るが、距離が甘かったせいか影は更にこちらを追いかけてくる。
影を踏むたび、澪の中の何かがごっそりと抉られていくような虚脱感が重なっていく。
「──ひひっ」
失神していると思っていた男が含み笑いを漏らした、ような気がした。
「アンタだけでも礼金はもらえる! 治療費使ってもたんまりだ!」
男の下卑た笑いが遠く聞こえる。
四肢が縮み、視線が下がっていく。
狸になってしまう時とは明らかに違う、怖気すら感じるほどの違和感があった。
同時に、澪の中にあった『だいじなもの』がなくなっていく。
落ちていく。消失する。恐怖する。萎縮する。
それは澪には止めようがなくて、どうすればいいのかもわからなくて。たまらない寂寞が胸を侵していく──否、それは臓腑をごっそりと収奪されるようなどうしようもない喪失だった。
戸惑っても、抵抗しようとしても、思考がどんどん鈍磨して、摩滅していく。
例えば、どうして自分がエジプトにいるのか、とか。
例えば、誰のために自分は頑張っていたのか、とか。
例えば、自分の大事な『ともだち』は──どうしてここにいないのか、とか。
そんな、あたたかくて、尊くて、忘れてはいけない思い出が剥離していく。ぺらり、ぺらりと。
積み上げて、しがみついて、ようやっと馴染んできたたくさんの感情が、こぼれていく。ぽろぽろ、と。
みんなが必死で繋ぎ止めてくれていたものが、音を立てて、刮げて、水を吸った角砂糖みたいに──さらさら。
そうして、あっという間に澪が必死で抱えてきたものをぜんぶ喪って。
そうして、澪には、どうしようもないものしか残っていなくて。
そうして、なくしてしまったものがわからなくて、大嫌いだけど捨てられなかったいやなもの。それしか残っていないことにすら気付けなくて。
だから、澪は血だらけでにやにやとこちらを見下ろす男を、まるで穴のような瞳でぼうやりと見つめて──
☓☓☓☓☓
「……俺ってば、偉いねぇ」
欠けてしまったサングラスをかけ直し、アレッシーは呟いた。身体のあちこちが痛むが、今だけは無視できた。
なにせ、目の前の『子供』をDIOの元に連れていけば承太郎たちを倒すと同等、もしかしたらそれ以上の礼金が貰えるのだ。
治療費に使ったとしても残りの一生を豪遊して過ごすことができるくらい、それは莫大である。
彼のスタンドである『セト神』の影を踏んだ対象は若返る。そのスピードは影を踏めば踏むほど速まっていく。
無防備に近寄ってこようとしたDIOの義姉に気付いた瞬間、ここで逃してなるものかとアレッシーは全力でスタンドを発動した。
それは先程のポルナレフ戦で巻き添えにした女以上に強烈なもので、下手をすれば胎児に戻っているのではないかとアレッシーは危惧を覚えた(だとしても、調整すればいいだけの話ではある)、の、だが。
「んん~?」
目の前でぼんやりと座り込んでいるのはただの子供で、胎児にはなっていなかった。
少しばかり違和感を覚えたが、もしDIOの義姉という点が頭に引っかかっていて、自分では全力のつもりでも反射的にスタンドを加減したのだとすれば、理解できないワケではない。
「……」
ちいさな子供になってしまった澪はサイズの合わない服に埋まってしまいそうで、ぱっちりとした桜色の瞳は無感動にこちらを見つめている。
それは昆虫のように無機質で、どこか自分を観察されているようでアレッシーはぞっとしなかった。しかし下手な態度に出るとDIOの機嫌を損ねかねない。
アレッシーは自分にできる精一杯で朗らかな表情を作って澪へと近付いていく。
「お嬢ちゃん、大丈夫ぅ?」
「……?」
澪はじっとアレッシーを見つめたまま、ぎこちなく首を傾けた。
ぎし、ぎし、と金属の軋る音が聞こえそうな、作動不良気味の機械のような動きだった。
しかし、アレッシーは平素の澪を知らないため、そんな様子に疑問を持つこともなくぺらぺらと捲し立てる。
「俺ぁね、怪しいモンじゃあないよぉ? ただね、お嬢ちゃんに会いたいってお人がいるから、お迎えに来たってワケ。わかる?」
しゃがみ込み、目線を合わせても、澪から反応らしい反応は返ってこなかった。
茫洋としたまま、まじまじとアレッシーを見つめ、次に周囲を見回した。現状を確認しているのか、単に物珍しいのかは彼には判断がつかない。
建物を見て、生垣を見て、太陽を見上げ、視線を落として、自分の手を見つめて。握って、ひらいて。
「……ああ、そっか」
そうして、澪はようやく得心入ったとでも言うように頷き、もう一度アレッシーを見上げた。
小さなくちびるが、動く。
「あなたの、おなまえは」
問いの言葉も平坦で、興味があるかも怪しい。
単に必要があるから聞いた、という方がしっくり来る。
アレッシーは内心目の前の澪に僅かな疑問を覚えつつ、答えた。
「ああ、アレッシーってんだ」
答えてしまった。
「よろしくねェ、お嬢ちゃん」
それがいけなかった。
「そうですか」
にぃ、と笑うアレッシーは澪の変化に気付かなかった。
名前を聞いた途端、その瞳が冷淡さを帯び、無感情のまま、肉食性の昆虫が獲物を見つけた時のように、情動のない殺意を放ったことを。
瞬間、だった。
「ッ!!??」
アレッシーは最初、何が起こったのかすら分からなかった。
目の前には子供の姿。
子供の小さな顔の向こうには抜けるような青空。
そして首を締め付ける、強烈な圧迫感。
今、何が起こっている? 何が起きた?
座り込んでいた子供がかき消えるような俊足で自分を蹴倒して馬乗りになり、ベルトで首を絞めている。そう理解するのに寸の間を要した。
だが、見上げた澪の表情は、地を這う虫けらを観察する子供のそれだ。
それがこなさないといけない宿題なのだ、とでもいうように渋々とした、面倒そうな。
いつ死ぬのだろう、早くして欲しいなぁ、そんな感情だけが垣間見える。
全身の毛穴が開き、どっと冷や汗が吹き出す。
混乱と恐懼がアレッシーの全身を支配した。
今、自分は致命的に『ヤバい』選択をしてしまったのだと本能的に理解した。
だが、抵抗しようともがこうとしても、澪の位置取りが巧みなのか微動だにできない。
みるみる酸素が足りなくなり、顔に血液が集中する。肺がきりきりと痛み、気管から絞り出すようにぜい、と喘げばますます締め付けが激しくなった。
「な、んで」
稀少な酸素を浪費して、かろうじて吐息に混ぜた問いの言葉。
どうして自分が殺されなければならない? アレッシーに殺意がないことくらいは分かっているはずなのに。それ以前に子供の反応にしては異常に過ぎる。
──これは、
目の前の子供は桜色の瞳を揺らめかせることもなく、かく、と首を傾けるだけだ。
「なんで、って」
澪は面倒そうにぼやいた。
「だって、あなたは、名乗ったよ」
子供特有の金属質な声で、喋ることに慣れていないのか舌をもぐもぐ、と動かして。
「
澪の記憶はアレッシーの能力によって体躯とともに巻き戻されていた。
それは承太郎たちとの記憶を越え、テニス部の皆と過ごした暖かい時間を通り越し、義父たちと出逢った記憶すら素通りに──ただ、ひたすらに殺すことのみに特化され、罪の意識すらなく人骨を踏みしめていた、機械のように生きている『人形姫』の時分へと。
だから、澪は目の前にいるひとが今日の『お願い』だと理解して、名前を聞いて、名乗られたから、殺すのだ。
熱意もなく、正義もなく、大義もなく、ひたすらに役目をこなすために。
それが自分の存在意義であると、無意識に理解して。
いつものように。
「……い、意味、わかん、ねぇッッ!!」
だが、そんな澪の黒歴史をアレッシーが知るはずもない。口角から泡を飛ばし、必死で叫ぶ。
彼が分かるのは、自分がしくじったということ。このままだと確実に死が待っていること。
目の前の子供は──得体の知れない、おぞましい
「が、ぁ──ッッ!」
アレッシーの酸素はそれで品切れのようだった。
もはや僅かながらにできていた呼吸すらままならない。スタンドを解除するという概念すら浮かばなかった。死にかけの金魚のように口を開閉させ、目玉がぐるりと裏返る。
思考が徐々に黒く塗りつぶされていく。このまま意識がなくなれば、二度と戻ることはないだろう。
緞帳が落ちるように意識が途切れる、その刹那。
「それ以上はいけないよ、小さな、愛らしい、俺の
洒脱な雰囲気の、信じられないほど甘ったるく、気障ったらしい男の声を聞いた。
馬乗りになっていた男から自分をいともあっさりと持ち上げて回収し、着ていた上着でぐるりと巻いて抱っこしてきた青年に澪は軽く混乱した。
青年の瞳には敵意も害意もなかったからだ。
ただひたすらに熱くて、とろけそうに甘い彩のかかる、宝石よりも美しいと思えるイブニングエメラルド。
そんな風に自分を見つめてきたひとは、今までいなかった。
だから戸惑った。不安すら覚える。誤作動を起こした機械のように凍り付いた。これは誰だろう。
陽光を撚り合わせたような金糸の髪がさらりと揺れて、目元の痣が不思議な魅力を醸し出していた。
無意識に全身を緊張させる澪に、青年は困ったように眉尻を下げる。
「怖がらないでくれないか、後生だから」
舌が痺れるのではないか、と錯覚するような甘い囁きで無理な注文を出す男である。
澪にとって目の前の人物は不可解で、不思議で、奇妙で、とにかく意味のわからない存在だ。敵意がなくても、わからないものは不安で怖い。
未知というのは、ひとつ間違えるだけで死に直結するということを澪は学んでいる。
「むり」
なので、反射的に答えてしまったのは仕方がないことだろう。
「……そうか」
あからさまにしょんぼりされても困るのだ。
澪がアレッシーのように青年を攻撃しないのは、目の前の男を判じかねているからだ。
標的ならば殺している。敵意があっても同じこと。
だが、彼からは一切それがない。
目撃者だから消してもいいはずなのに、頭のどこかでそれを拒絶している自分がいることに驚く。
ただ、一点のみ見過ごすことのできない点があるとすれば。
「離して、ください」
「なぜ?」
「ころせないでしょう?」
そう、それだけだ。
名乗りを上げたアレッシーの息の根を止める。それを邪魔した点のみが許せない。
だから早く自由にして欲しい。自分はアレッシーを殺して、帰って、報告をしなくてはいけないのだから。
でないと──
「すまないが、それはできない」
澪の思考は青年の言葉で寸断された。
彼の抱擁は、緩むどころか強くなる。苦しいほどだ。
自分以外の人間の体温などほとんど感じたことのない澪は、その熱さに不快を覚えて身をよじる。
しかし青年の鍛え上げられた体躯からは逃れられない。
むぎゅむぎゅとぬいぐるみのように抱き締められているこの状況が、いたたまれない。
なんだか胸がぎゅうぎゅうして、落ち着かないのだ。
「どうして? アレッシーはあなたの仲間?」
それならば納得する。そして、アレッシーの次に青年を殺さなければならない。
それは澪の中で当然の論理で帰結だった。
「いいや、違う。むしろ敵さ」
苦笑交じりの呟きは、ますますもって澪を困惑させた。しかしそれなら今すぐ離して欲しい。
そうすれば澪はアレッシーを殺せる。青年は敵が減る。互いに利のある条件だ。
頭上に疑問符を大量生産している澪を見て、青年がやんわりと口の端を緩める。
それは苦笑のように見えたが、どこか韜晦の滲む──不思議な表情だった。
「いいんだ、もう、そんなことをしなくて」
慈しむような瞳で、そう、何かを堪えるように絞り出された言葉は、やっぱり澪には理解が及ばなかった。
ただ、自分の存在意義をそんなこと呼ばわりされたことに理不尽な怒りを覚えた。
だって、自分にはこれしかないのに。
さすがに抗議を上げるべく口を開こうとすると、青年が自分の顔を覗き込んだ。
「、ッ」
言葉が喉の奥で止まった。
その深緑の瞳の奥で熾火のように煮えたぎる何かが、澪の言葉すべてを封殺してしまう。
「何度でも言う。そんなこと、しなくていい」
慈しみとも哀切ともつかない、けれどひたすらに真摯だった。
「今の澪には難しいかもしれない。だが、覚えておいてくれ。そんなことをしなくたって澪は愛される、必ずだ」
「──ッ!?」
その言葉は、銃弾のように澪の心の一番柔らかい箇所を貫通した。
凄まじい衝撃が痺れるように伝播する。
「それは澪が望む相手じゃあないかもしれない。『今』でもないだろう。でも、でもな、絶対にいるんだ。欲得なしで、無償の好意を捧げてくれるひとが」
絶対の確信の籠もった声音で蕩々と語られるものは、澪にとっては望外の極地とも言えるほどの夢物語だ。
考えたこともなかった。想像の埒外にある幻想だ。
「うそ」
だから、信じられるわけがなかった。
「うそだよ」
「本当さ」
幼子そのままにうそ、うそと呟く澪に青年は律儀に本当だ、と返す。
「なんせ、俺がその筆頭だからな」
そんな、はにかみ混じりの優しい声が降ってきて、顔を上げる前にまた抱き締められる。
そっと後頭部に手の平が添えられて、ぎこちなく髪の上を滑っていく。
「澪はよく頑張ってるよ。頑張りすぎるくらいだ」
褒められて、頭を撫でられて。
「偉いな、本当に……えらい」
何度も。何度も。繰り返し。
それは、澪がずっとずっと欲しかったものだ。
切望しても得られないから諦めていたものだ。
「あ、う」
口がうまく動かない。血液が逆流するような感覚。顔があつくて、胸がぎしぎし音を立てる。鼓動がやかましい。なんだろう。
未知の感覚が全身を支配して、指先ひとつ動かせない。思考もまとまらない。
そんな様子をつぶさに観察していたらしい青年が、ふいにくすりと笑った。
「ずっとこれが言いたかったんだ。こどもの、おまえに」
心底満足そうに、そしてひとかけらの罪悪感を滲ませて青年は懺悔のように言葉を紡ぐ。
「不謹慎っちゃそうだし、叶うわけねぇから諦めてたけど、叶っちまった。敵スタンドのせいっつーのが皮肉だが……」
そうしていたずらっぽく片目を瞑り、指先で澪の前髪をそっと払うと、
「未来でお前に恋する野郎が少なくともひとり、確実にいる」
幸福を願うように、小さな額に柔らかく唇を押し当てた。
「──だから、生きてくれ」
心よ、届け。
触れた唇から、そんな思いが流れ込んでくるようだった。
澪は彼の言葉の全ては理解できなくとも、とても大切なことを伝えてくれているのだと、それだけは分かったから。
「……うん」
ひとつだけ、頷いた。
それを聞いた青年が安堵の吐息を漏らし、床に転がっていたアレッシーが完全に意識を失ったのはちょうど同時だった。