鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部) 作:ヨマザル
1868年(慶応4年)。
日本列島の本島東北部、現在のM県S市が、まだ杜央庄と呼ばれていた頃。
杜央庄の北のはずれ、海沿い。断崖の上に、ひとつの館が立っていた。その館を目指して、二人の漢が藪をかき分け、進んでいた。
その一人、
顔立ちは整っていて、どこか柔らかい印象が残る。
顔立ちのせいか、駆け出しの頃は鬼に侮られることが多かった。それを嫌ってか、鱗滝の顔には、隈取がおどろおどろしく施されていた。 紅と墨の線が、頬から額へとうねっている。
隈取のせいで、表情は読めない。
もう一人、
体は引き締まっていて、足さばきは獣のように軽い。髪は短く、額に汗が浮いていた。 顔つきは地味だが、眉が太く、意志の強さを感じさせる。
二人は、並んで歩いていた。
言葉は少ない。
だが、呼吸は揃っていた。
やがて、建物が良く見えるようになった。
和洋折衷の建物。
瓦屋根の上に、錆びた風見鶏。木製の窓枠は、普段見慣れた大きさではない。異国の寸法で切られているためだ。
玄関の扉は重く、蝶番が軋んだ。
扉を開け、室内に入る。そこは、20畳はあろうかという板張りの広間だった。
屋根からは、蜘蛛の巣が張ったシャンデリアがぶら下がっている。
壁には一面の薬品棚。
鱗滝左近次は、隈取の顔をわずかに動かした。
桑島慈悟郎が、瓶を一つ、手に取った。蓋を開けると、強い匂いが立ち上る。
「……ここが、例の館ですか」
「そのはずだ……しかし……」
鱗滝は、床の軋む音に眉をひそめた。
「このあたりも、荒れたな」
「戦の影響ですかね」
「かもしれぬ。春先に、杜央藩の周辺で新政府軍の動きがあった。まだ火蓋は切られていないが、ガラの悪い浪人崩れがアチコチうろついている」
「……鬼より、人の方が怖い時もありますね」
「その通りだ。憎しみが積もれば、鬼より深くなる……だがここが人の手で荒らされたのかは、わからぬ」
「世が荒れた時こそ、鬼も活動しやすくなる。鬼の犠牲者が目立たなくなるから……」
「そうだ。だからこそ我らの使命は鬼を斬ることのみ、人の世には介入せぬ……」
鱗滝と桑島は、荒れ果てた室内をみまわした。
床は湿っていた。
海風が、扉の隙間から入り込んでいる。 薬品の匂いと、潮の匂いが混ざっていた。
薬品棚の隅に、数々のノート、本。ノートの文字は混ざっていた。一部は漢字、一部はアルファベット。
『記憶』『混合』『制御』──そんな単語だけが、かろうじて判読できた。
桑島が、棚の縁に手を添えた。
「……異国の手が入っていますね」
鱗滝はろくに返事もせず、探索を続けていた。その手が、不意に止まった。
「これは何だ」
鱗滝は、壁の棚の異国の言葉で書かれた本の隙間に、手を入れた。
棚の奥に、手書きの図が残されていた。
紙は黄ばみ、端が焦げている。
異国のぐにゃぐにゃした筆跡。
人体の断面図。 その周りを、細かい線と点がたくさん書き込まれている。
二人の人物が縛り上げられ、洞窟に転がっている絵があった。
桑島が目を細めた。
「……鬼の仕業とは思えませんね」
鱗滝は頷いた。
「ああ、ここにいたのは……学者か?」
「そうかもしれませんね。でも、ならばどうしてこの館へ繋がる情報を、鬼が持っていたのか……」
桑島が、棚の縁に手を添えた。
あの村では、声を失った者が大勢いた。
大きな、美しい村だった。そこに鬼が潜んだ。人の体に潜み、声をまねる鬼であった。
村人は、家族の声を真似る鬼に、呼ばれて出ていった。
だが戻ってきたのは、記憶が抜けた体だけだった。生きる力を失った、抜け殻。
鱗滝達が村に着いた時には、鬼の依り代にされ、気がふれた老人が、一人嗤っていた。話す事が出来る村人は、彼しか残っていなかった。
鬼は、
どこかで。
誰かの声を使って。
全力で鬼を追った。
鬼の遺留品に、西洋から輸入された小さな刀があった。輸入元をたどると、この館の情報が出てきた。
だからここに来た。
悲劇の連鎖を断つために。
階段を降りた先は、狭い地下室だった。 壁は湿っていて、天井が低い。 薬品の匂いが、まだ残っている。
床に、黒ずんだ液体。血ではない。何らかの薬品の刺激臭が、かすかに残っていた。
桑島が、足元を見た。液体の縁に、微かな擦れ跡。 何かが這ったような痕。
その時だった。
天井の隅から、埃が落ちた。一粒。
鱗滝は、隈取の下で視線を上げた。刀の柄に、手を添える。
桑島も、刀に手をかけた。足を半歩引き、重心を落とす。
「……いますかね」
「ああ。生かして、捕まえよう。何か情報を持っているかもしれん」
「了解です」
天井の梁が、きしんだ。
埃が、さらに落ちる。
棚の奥。
暗がりの中で、何かが動いた。
ギギギ……
湿った音。
喉の奥で、石を砕くような鳴り。
影が、這い出る。
五体。
どれも腕が長い。関節が逆に曲がっている。
──鬼。人を喰らう異形。夜に現れ、常人では太刀打ちできない力を持つ。その回復力は、ほぼ無尽蔵 。
鬼殺隊は、彼らを討つために存在する。
一体が飛び込み、カギ爪を振り下ろした。
人間ではありえない、俊速の攻撃。
だが攻撃は空振り、壁を粉砕した。
木片が飛ぶ。
薬品瓶が砕ける。
液体が飛び散る。
匂いが、急に濃くなった。
鱗滝と桑島は、背中を合わせた。
鬼が、同時に動いた。
五体が、四方から襲いかかる。
桑島が、先に動いた。
「雷の呼吸、壱ノ型──
シィィィィッ
独特な呼吸音を立てながら、小柄な体が床を滑るように走る。
一体の鬼の懐に潜り込む。
足を止めず、刃を振る。
踏み込みと同時に、斬撃。
雷のような速さ。
刃が、鬼の肩から胸へと走る。
浅い。
だが、鬼は崩れ落ちた。
鱗滝は、動かない。
一体の鬼が、正面から突進してくる。
彼は、刀を構えたまま、足を半歩引いた。
鬼の腕が振り下ろされる。
鱗滝は、受けた。
刃の背で、腕を弾く。
体を沈め、視線を上げる。
「水の呼吸、捌ノ型──滝壷・断」
瞬時に構えなおした上段からの一撃。
刃が、鬼を両断する。
動きは少ない。
だが即断。
一瞬の剛力。
「貴様らッ!」
残る4体が、同時に襲いかかる。
しかし、鱗滝と桑島の敵ではなかった。
すべての鬼を倒し、屋敷はふたたび静かになった。
薬品の匂いが、まだ残っている。
床には、鬼の残骸。 血は、すでに乾き始めている。
ググ……ギ……
鬼たちの体が、崩れていく。
桑島が、息を整えた。
「……五体でしたね」
鱗滝は、隈取の下で目を細めた。
「数は関係ない。動きが読めれば、斬れる。だが、生かして捕えることはできなかったな」
桑島は、壁の裂け目を見た。
「……あの時は、俺は動けませんでした。今でも思い出します」
それは5年ほど前の話。桑島が鱗滝の後方支援として初めて任務に出た時の事だ。
今と同じように、5体の鬼に囲まれた。
ひとり、子供を助けそこなった。桑島が動けなかったからだ。
何年も前の事。だが桑島は今も忘れていない。
鱗滝は答えなかった。
ただ刀を納めた。
地下室を抜けると、広大な洋風の離れ屋についた。
床はレンガで覆われ、窓がほとんどない暗い部屋。だが、部屋の一辺を覆う分厚いカーテンとその下の引き戸を開けると、ガラス張りの温室があった。大きな温室だ。
硝子越しに、霧が見えた。
温室の硝子は曇り、外の光がぼんやりと差し込んでいた。
鱗滝は、棚の前で立ち止まった。
隈取を縁取った顔をこする。
棚の奥に、乾いた血の跡。
洋風の大きな机があった。異国の言葉で書きつねられたメモ、壊れた洋琴、そして、ヒノキの板で長方形に仕切られた平箱が何枚もあった。
その仕切りの中には、ピンでとめられた、岩のような、木のような素材の塊がある。
その塊は昆虫のような、植物のような、貝のような形をしていた。
どれも、半分以上は崩れていた。気のせいか、幽かに動いているモノがある。
その隣には、裂けた記録帳。
墨が滲み、文字が読みづらい。墨の走らせ方は、見たことがないものだった。
桑島が、眉間にしわを寄せながら、読んでいく。
「これは……香料の配合表。 その隣に、これはなんだ? 実験体の反応記録? “怒り/恐怖/従属”──香りに対する感情の分類……どういうことだ?」
桑島は、眉をひそめた。
「……香りをかがせて、反応を見ていた。なぜだ?」
鱗滝は、紙の端に“マドカ”の名を見つけた。 筆跡は、他と違っていた。
誰も、声を発さない。
「探索を、徹底的に。この奇妙な物には直接触れるな」
鱗滝が言った。
桑島は、温室の奥で空を見ていた。
「春の星は、よく揺れますね」
鱗滝は答えない。
桑島は、少し笑って言った。
「温室の探索は、完了いたしました……不思議なものはない。香りの強い植物が大量に植えられていたようです。今は全て、枯れています」
鱗滝が、ゆっくりと頷いた。
その時、
小さな袋だった。
干からびたカヤの実と
布地は古く、だが丁寧に縫われていた。異国風の、豪奢な刺繍が入った袋だ。
鱗滝は、それを受け取った。
仮面の下で、嗅覚がわずかに震えた。
甘い匂い。
懐かしいような、遠いような。
「この匂い……」
さらに、手書きの小さな手紙が見つかった。
墨で、こう書かれていた。
「ひなたへ。今晩は月が綺麗だった。君は、どうしてる? 私は、何日も陽の光を見ていないよ」
その他に、年頃の少女が友達に向けて伝えるような、色々な思いが書きつねられていた。
鱗滝は、紙を見つめた。
「……この子を探す。まだ、この藩にいるはずだ」
桑島は頷いた。
もういちど、袋を丁寧に調べた。
手縫いの布。藤色。
神社のお守り
干からびたカヤの実と、
香りが、風に乗って広がった。
「この香り……ずいぶん強いですね」
桑島は、少し顔をしかめた。
「天然の香りではありませんね。精油され、調合されたもののようです」
袋の裏を広げた。
刺繍があった。
岩のような模様と、細い印。
隠の一人が、静かに言った。
「この印、山間のマタギが使うものです。そして、この家紋……M藩南方の、香西家のものかと」
「つまりこの子は、香西家が率いているマタギの手の者……か」
「そう考えるのが自然かと」
「この袋の出所を探せるか?」
「……地域は絞れます。あとはしらみつぶしに探していけば、必ず見つけられるかと……おや、待ってください。このお守りは
「詳しいな」
「じつは、『杜王庄』の近くの生まれなんです」
桑島に向かい、隠が、胸を張った。
鱗滝は、まだ手紙を見ている。
「やはりこの子に、会う必要がある」
「探しますか?」
「ああ、すぐ行くぞ」
その時、棚の奥にもう一枚、紙片が落ちていた。
桑島が拾い上げる。
「取引状ですね……送り先は函館。大量の香料をそこへ送ったようです……香西家の印もある……」
鱗滝は、隈取の下で目を細めた。
「函館か……」
「どちらに行きますか?」
「まずは、杜王庄の捜索にあたる」
「了解です」
風が、少しだけ向きを変えた。
温室の硝子が、わずかに鳴った。
霧は、もう晴れていた。
道が見えていた。
雪がまだ残っていた。
陽は高いのに、風は冷たい。
ひなたは、手にした包みを抱えながら、村の坂を駆け下りていた。
朝の手習いの後、隣村へのお使いの帰り道。
いつも通るはずの道が、今日は違って見えた。
理由はすぐわかった。
村の家が壊れていた。
屋根が裂け、柱が折れ、土壁が崩れていた。
血痕などは、ほとんどない。
人の声は少ない。
風が村を抜ける音が、響く。
「……ただいまッ!」
誰も返事をしなかった。
ひなたは、包みを胸に抱いたまま、足を止めた。
村の広場には、倒れた桶や、割れた障子が散らばっていた。
子供たちの姿は見えない。
ドキン……
ひなたの胸がうずく。
村に何があったのか。飢えた山賊どもに襲われたのか……
「!?、ひなたちゃんッ」
声をかけたのは、隣の家の奥さんだった。
顔に傷があり、手にはほうきを持っていた。表情に力が無かった。
「無事だったのね。よかった……」
ひなたは、頷いた。
「……何が、あったんですか」
奥さんは、ほうきを握り直した。
「……お……鬼が来たの。けど、何かを探してるみたいで……人は襲わなかったのよ。でも反抗した人は……」
言葉が途切れた。
「鬼?」
「……そうよ。あれはヒトじゃぁない。鬼よ……」
「鬼ッ!叔母さん達はッ!!」
「落ち着きなさい。アンタの家族は全員無事よ。アンタの事、心配していたわよ」
「…良かった…ねぇ、村の他の人たちは……」
「ほとんどが無事よ。みんな、自分の家に閉じこもって、隠れているわ……」
ひなたは、包みを下ろした。奥さんに断って、片づけを手伝い始めた。
桶を立て直し、障子の破片を集める。
手が震えていた。
「ごめんなさい……」
誰に向けた言葉かは、わからなかった。
ただ、口からこぼれた。
そのとき、包みの中から袋が落ちた。
小さな、手縫いの袋。
干からびたカヤの実と、
ひなたは、それを拾い上げた。
指先が、少しだけ冷たかった。
香りが、ふわりと広がった。
懐かしいような、怖いような匂い。
ひなたは、袋を握りしめた。
「……マドカ」
そう言った。そのときだった。
足音がした。
雪を踏む音。
静かで、重い。
ひなたが顔を上げると、男が立っていた。
黒い羽織。
腰に刀。
目は、まっすぐだった。
「失礼、マドカとは誰だね」
声は低く、抑えられていた。
だが、怒っているわけでもなさそうだった。
冷静な口調だ。
ひなたは、少しだけ袋を握り直した。
「親友です」
「この村の者か?」
「……はい。今は、いません」
男は一歩、近づいた。
「申し遅れた。俺の名は斎藤一。仙台藩の隊士だ。主に治安維持をお役目としている……この度、藩に通報があった。この村で、夜にむごたらしい事件が起きたと。だから検分に来た」
ひなたは、黙って聞いていた。
「その袋。
「……マドカのです。お守り代わりに、借りています」
斎藤は、袋を見ていた。
雪が、また一枚、袋の上に落ちた。
藩士は、立て続けに質問をぶつけた。
「昨夜、何か異常はありませんでしたか」
「物音でも、雰囲気でも、何でも構いません」
「え、いや……」
村人は口ごもった。
斎藤は、ゆっくりと歩き出した。 藩士のそばを通り過ぎる。 何も言わなかった。 藩士は、頭を下げた。
斎藤は、井戸のそばにしゃがみ込んだ。 地面の染みを見て、土をすくった。 匂いを嗅いだ。
「血だな」
すぐそばの家の戸が、わずかに開いた。
中から、年配の男が顔を出した。 斎藤は、その目を見て、静かに言った。
「昨夜、何か見たか」
男は、少しだけ戸を開いた。
「音がしました。遅い時間に……」
「人か? 獣か?」
「……わかりません。風の音かと思いましたが、何かが走ったような……」
斎藤は目を細めた。
「蝋梅の香りを嗅いだ者はいるか」
男は、戸の奥を振り返った。
「そういえば……娘が、何か匂うと言っていました。朝方です」
斎藤は、少しだけ間を置いて言った。
「その娘に、話を聞かせてもらおう」
男は、戸の奥を振り返った。
「今は、外に出ています。すぐ戻るはずです」
斎藤は頷いた。
「戻ったら知らせてくれ」
一歩、下がった。
深くではないが、はっきりと頭を下げた。
「協力、感謝する」
男は、少し驚いたように頷いた。
戸を静かに閉めた。
斎藤は振り返った。
隊士が、少し離れた場所で控えていた。
斎藤は、村人からの聞き取りを終えると、隊士にいくつか指示を残した。 記録の整理、痕跡の確認、娘の所在の報告。
それだけ言うと、井戸の染みを一瞥し、村の奥へ向かって歩き出した。
隊士は、筆記具を持ったまま、斎藤の背を見送った。そしてすぐ、あれこれと働き始めた。村人を捕まえて質問したり、何やらスケッチしたり、忙しそうだ。
村人達は、戸を閉め始めた。
囲炉裏の火が、少しだけ揺れた。
その時、門の方から、二人の男が歩いてきた。
一人は、歌舞伎役者のような隈取をつけていた。
肩に厚手の外套をかけ、腰には短い刀を下げていた。
もう一人は、浅黒い顔に皺を刻んだ男で、背は低く、足取りは確かだった。
どちらも、雪を払うことなく歩いていた。
斎藤が、井戸のそばで足を止めた。
隊士の一人が、刀に手をやり、二人を制した。
「所属を聞く」
斎藤の声は低かった。
隈取の男が立ち止まった。
浅黒い男が一歩前に出た。
「鬼殺隊の鱗滝左近次。こちらは桑島」
斎藤は、少しだけ目を細めた。
「藩命による検分中だ。協力を願う」
隊士たちは、井戸の周辺と村の外れを調べていた。
地面の染み、折れた枝、残された足跡。
記録を終えると、斎藤のもとに戻った。
「報告、済みました」
斎藤は頷いた。
「出るぞ」
隊士たちは荷をまとめ、馬を引いた。
馬に乗る前に、斎藤は立ち止まった。そして、ひなたの方へ向き直った。
「椿の香りをつけた娘が、北へ向かったという証言があった」
「函館。2月ほど前、関所を通ったと」
「……マドカですか」
「名は出ていない。だが、特徴は一致している」
ひなたは、袋を握ったまま、頭を下げた。
「ありがとうございます」
斎藤は少しだけ間を置いて言った。
「行くなら、夜は避けろ。わかっていると思うが、新政府軍と旧幕府勢力の争いの影響で治安が悪化している。今は質の悪いチンピラが、この辺りの街道をうろうろしているからな」
ひなたは、頷いた。
斎藤はそれを見届けると、馬の方へ向かった。
斎藤と名乗る、藩の役人達が村を出ていった。
門の方で馬の足音が遠ざかっていった。
ひなたは、囲炉裏のそばにいた。
袋は、胸元にしまったまま。
火は小さくなっていた。
井戸の近くに、二人の剣士が残っていた。
隈取の男は、地面を見ていた。
もう一人は、村の外れの方を見ていた。
「お前が、袋を持っていたな」
隈取の男が言った。
声は低く、抑えられていた。
「はい。友人のものです」
「蝋梅の香りが残っていた」
「……そうです。彼女が使っていました」
桑島が、井戸の縁に手を置いた。
「ご友人に最後にあったのは、いつだ」
「三月前の夜です。家の裏で。何も言わずに出ていきました」
「行き先は?」
「わかりません。斎藤さんが、函館へ向かったと教えてくれました」
鱗滝が、息を吐いた。
「斎藤?」
「ええ。藩のお役人です」
少しだけ間があった。
「ああ、先ほどの……江戸幕府の亡霊か」
桑島が口元を歪めた。
「生き残りは、どこにでもいます」
ひなたは、黙って頷いた。
その後、村は静かだった。
雪は止み、風もなかった。
夜になった。
囲炉裏の火は落ちていた。
犬が、一度だけ吠えた。
夜は、静かだった。
風が、少しだけ強くなっていた。
家々の隙間を、冷気がすり抜ける。
そのとき、影が動いた。
屋根の上。
木の間。
地面の下。
ひなたは、外に出て、家の裏手にいた。
薪を集めるつもりで、1、2本薪を手に取ったところだった。
その時、風が、変わった。何かひどく嫌な臭いが、混じっていた。
腐ったような、焦げたような匂い。
それが、鼻の奥にまとわりついた。
「何? ……いやだよ」
声は出た。でも、誰にも届かない。
家の中にいる家族は、ぐっすり眠っている。
周囲は静か。家の中にいる叔父のいびきが、聞こえる。
しばらく周囲を観察していたが、何の物音もしなかった。
何も見えない。ただ、酷い悪臭がする。
ひなたは、懐に手をやった。お守り代わりにしているニオイ袋を引っ張り出し、香りを嗅ぐ。
その時、屋根の上で、何かが動いた。
木の間で、何かが笑った。
鬼だった。
鬼、それは「めでたし、めでたし……」で終わる昔話に出てくるような呑気なものではない。人を無惨に食い殺す、バケモノだ。
形が、いびつに崩れていた。
皮膚が裂け、骨が見え、皮膚はぼこぼこ。
それなのに、ひなたを見て、笑っていた。
「うわぁああああッ!」
ひなたは、逃げようとした。
だが、足がもつれた。
転んだ。
雪が冷たかった。
袋が、懐から落ちた。
鬼が、止まった。
目が、袋を見た。
そして、ひなたを見た。
「やっぱりか、見つけたゾぉ……ひなたぁぁ……」
声は、耳の奥に直接響いた。
ひなたは、震えながら袋を拾った。
逃げなきゃ。
でも、どこへ?
家の裏に、古い物置があった。
ひなたは、震える足を必死に動かす。
物置へ走った。
扉を閉める。
鍵はない。
ただ、息を殺す。
鬼の足音が近づいてくる。
雪を踏む音。
壁をなぞる音。
「……マドカ……助けて……」
ひなたは、袋を抱きしめた。
涙は出なかった。
ただ、心臓が痛かった。
そのとき、外で何かが割れた。
足音が、もう一つ増えた。
鱗滝は、屋根の上から状況を見ていた。
鬼の動きは、異常だった。
人間を襲うのではない。
人間を観察し、何かを探している。
「……生け捕りにしようというのか?」
桑島が、隣で息を呑んだ。
「この子が、目的……?」
鱗滝は、物置の扉を見ていた。
中に、気配がある。
屋根から飛び降り、鬼をけん制した。
物置に居たのは、昼間に話をした少女だった。
震えている。
「動けるか?」
桑島が、少女を助け起こした。
鱗滝は、雪を踏みしめた。
刀を抜いた。
鬼が、振り返った。
目が、笑っていた。
鱗滝は、隈取の下で息を整えた。
「なぜ、この子を狙う……?」
声は低く、風に混じった。
雪が、静かに舞っていた。
次の瞬間、一撃で鱗滝に首を狩られた鬼が、白い雪に倒れた。
夜は、まだ終わっていなかった。
鱗滝は、広場の隅に立っていた。
刀は納めていたが、隈取は落としていない。
桑島が、少し離れた場所で黒子と話していた。
「今夜の鬼……」
桑島が言った。
「動きが、異常でした。襲うでもなく、食うでもなく」
鱗滝は頷かない。
ただ、地面の跡を見ていた。
「腐臭と焦げの混じった気配。鬼とも、人間の屍とも違う」
鱗滝は、腕を組んだ。
「だが、弱い。気持ち悪さだけが残る。それなのに、執着が強すぎる」
そのとき、家族に伴われ、ひなたが近づいてきた。
ひなたは、鱗滝の元に近づく前に、足を止めた。
強い口調で、家族と少し言い争っている。
その後、ゆっくりと二人に近づいてきた。
家族は、不満げにその場に残っている。
ひなたは袋を握っていた。
近づくにつれ、カヤの香りが、風に乗って広がった。
「……あの鬼、私を見て笑っていました。私の名前を呼びました」
声は小さかったが、震えていなかった。
鱗滝は、ひなたを見た。
「何か、思い当たることはあるか」
ひなたは、少しだけ考えた。
「……袋のニオイを嗅いだら、私を襲ってきました。これは……親友のものです」
桑島が、袋の刺繍を見た。
「香西家の印。そして、マタギのしるし。この子が持っている理由は……」
鱗滝は、言葉を切った。
「なぜ、この子を狙う……?」
遠くで音がした。
屋根が軋む音。
木が裂ける音。
雪が毛散らされ、周囲が白く染まる。
「ひぃいなたぁぁんっ! みいつけたッ」
いびつに歪んだ人型の影。
鬼だった。
「アイツに、会わなきゃ。ひなたぁッ!!」
ひなたの名を呼ぶ。
名を呼びながら、走ってくる。
三度目の襲撃。
形は崩れ、皮膚は剥がれ、骨が軋んでいた。
ひなたの家族はしゃがみ込み、ただ叫んだ。
鬼は、彼らには目もむけない。
彼らの横を通り過ぎ、ひなたに向かって、駆けてくる。
鱗滝は、すでに動いていた。
刀が、雪を裂いた。
桑島が、
村人たちが、家の影に逃げ込む。
鬼は唇をゆがめ、牙をむきだした。
ザシュッ!
鱗滝が斬った。
防御を捨てた上段斬り。鬼は、崩れた。
鱗滝は、刀を納めた
「この子を、連れていくべきです」
桑島の声は、静かだった。
鱗滝は、ひなたを見つめた。
「そうだな」
ひなたは、何も言わなかった。
ただ、袋を握っていた。
雪の下に、椿の花が落ちていた。
その香りは、もう弱かった。
でも、まだ残っていた。
鱗滝は、村の方を振り返った。
桑島が、控えていた
ひなたの家族が立ち上がり、ひなたに近づいてきた。
ひなたは家族を見つめながら、袋を胸に抱いた。
「今の私にとって、守るってことは、動くことだと思います」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「あの人たちに迷惑はかけられない……鱗滝さん、桑島さん、私を函館に……マドカの所へ、連れていって下さい」
鱗滝は、何も言わずに頷いた。
桑島が、少しだけ笑った。
雪が、静かに降り続けていた。
ポタリ
血が雪に垂れた。
鱗滝の二の腕に、軽いひっかき傷がある。
(……あの程度の敵に……油断したのか?)
鱗滝は、自分の呼吸に注意を向けた。普段は意識しない、寝ても覚めても常に続けている呼吸のリズムだ。
ヒュゥゥゥゥ
流れるようにつづく、水の呼吸。使い手の身体能力を劇的に高める。
呼吸により取り込まれた酸素は肺に溜まり、血を巡り、左手に流れ、二の腕に到達する。血管を渡る血液が、筋肉に浸透した。そして ひっかき傷から流れる血を止めた。
ヒュゥゥゥゥゥ──ッ
水の呼吸。その力を高めるために、水面のように静かな心が必要とされる。
鬼殺隊を支える柱の一本、水柱の鱗滝は、静かに呼吸を紡ぎ続けた。