鬼滅の波紋 On Every Street   作:ヨマザル

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The Bug

 ギィ……

 

 鉄張りの船体がきしむ音がした。

 塩の結晶が雪のように窓枠にこびりついていた。その奥に大海原が広がり、水平線上には美しい山が見える。山頂は白く、左右に広がる山裾は完璧に均斉がとれた格好で水平線まですっと伸びている。

『ほう、これが噂に聞く富士山か、美しいのう』

 窓にしがみつくようにして外を見ていたウィル・A・ツェペリは、感嘆の声を上げた。

 

『だがまだ港にはつかぬ。あと2日は船を出れんぞ。我らが行くのはさらに北の地だからな』

 

 ツェペリの背後から不機嫌そうな声がした。

 振り返ると、狭い船室の天井にさかさまにぶら下がった男がいた。

 ツェペリの十年以来の親友、ダイアーだ。

 ダイア―は船室の中で体がなまらないように、部屋の中で宙づりになって鍛錬をしていた。朝から頭を下にしたまま腹筋運動をしたり、スクワットをしたり延々と体を鍛えている。

 ダイア―が吊られている床の上には、吹き出た汗が水たまりのようにたまっていた。

 ツェペリはその様子をチラリと見て、また窓に顔を押し付けた。

 

『わかっている。だがワシは元々世界を旅することを夢見てきた男。神秘の国日本の霊山を拝む機会を逃す訳にはいかぬ』

 

 そう言って、ツェペリは熱心に富士山を見続けていた。

 

 

◆◆

 

 石段は長い年月を経て中央がへこんでいる。昼間の熱で溶けた雪がそこにたまり、夜の寒さで凍り付く。氷の上には風に吹かれた雪が積もっており、ちょっとでも気を抜くと簡単に滑ってしまう。こんな急階段の途中で足を踏み外したら、下までまっしぐらだ。

 妙 ―鱗滝が小鬼から助けた少女― は一歩一歩必死に階段を上っていった。村が壊滅し行き場もない彼女は、鬼への復讐のために、鱗滝の旅に勝手についてきたのだ。 前を行く鱗滝が時折足を止め、妙が追いつくのを待ってくれている。だが妙にはそれ自体が―鱗滝の足を止めさせていることが―我慢ならなかった。

 余計な口を利かず、息を切らせ、必死に足を運んで急な石段をひたすら上る。その先に目指す神社はあった。

 

 上がり切った先の光景を見て、妙はがっかりした。よくある普通の神社だったからだ。

 

「ねぇ。結局ここ、ただの神社じゃない?」

「そうだな。だがもう少し調べたい」

 鱗滝はそう言うと、地面に這いつくばり神社の境内を舐めるようにしながら熱心に調べ始めた。

 妙はため息をついた。境内をぶらつき、何か気になるようなものがないか見てみる。だが何度見ても、普通の神社にしか見えなかった。

 それから2時間ほどして、鱗滝が探索をやめ立ち上がった。

 

 妙はとっくに探索をあきらめ、木刀の素振りをしていた。鱗滝が立ち上がったのを見て木刀をおろし、手ぬぐいで汗と手のひらに染み出た血を拭った。まだ刀を振りなれていないため、少し長く刀を振ると手のひらから出血してしまうのだ。そして再び、素振りを再開する。

 

 鱗滝は妙の素振りをじっと見ている。

 妙のホホが赤くなる。自分の素振りがひどいものであることは、自覚していたのだ。

 

「しっかり握って、振り続けなさい」

 鱗滝が言った。

「握りに気を付け、一振り、一振りをおろそかにせず振っていけば、やがて束が手になじむ」

 実際のところ、鱗滝は妙の技が少しづつ習熟していることに、大変満足していた。剣の道は一息には極められない。少しづつ進むしかないのだが、妙は一歩一歩、着実に前進していた。

 いまのままでも、すでにある程度なら剣をふるえている。

 

 鱗滝の言葉に、妙はコクリとうなずいた。そしてさらに何度か素振りをしたところで、突然手を止めた。

 目の前の藪から、とつぜん何人もの男達が姿を現したからだ。

 

 男たちは獣の毛皮で作った肩掛けをまとい、背中に猟銃を背負っていた。

 きっとマタギと呼ばれる男たちだ。聞くところによると彼らは深山に入り、兎や鹿、クマなどを狩うことを生業としているらしい。

 妙は手にした棒をそっと下におろした。

 すっと鱗滝が妙の前に立った。

 マタギ達がにやっと笑う。

 

「我らは北に向かって旅をするもの……途中でこのお社を見つけたので入ってみたのだが。もしや、ここはお主らの管理するお社であったか?」

 マタギ達は黙ったままだ。だがその笑みはいっそう大きくなった。

 マタギ達はニタニタした笑みを顔に張り付けたままのっそり動き、鱗滝と妙の周りを囲んだ。そして二人に“ついてこい”と手真似をした。

 二人がいくら話しかけても、ただ笑うだけだ。

 

 やむを得ない。

 鱗滝と妙はマタギ達に囲まれたまま山の中に入った。

 山中にはうっすらと分かる細い道がつけられていた。その道をどんどんと進んでいく。かなりの速足だ。妙はすぐに息が切れ始めた。

 マタギ達は妙の様子を見ても足を止めようとはしてくれなかった。そして、二人がどんなに話し始めてもただニタニタと笑っているだけだ。

 

 どれほどこの森の中を歩いたのだろうか。二人がすっかり方向感覚をなくしたころ、不意に山の中の開けた場所に出た。広場の中心には小さなあばら家が立っていた。

 

 二人が広場に入ると、あばら家の戸がガラッと開いた。

 戸を開けたのは、大柄な壮年の男であった。鱗滝より頭一つ分は背が高い大男だ。

 ほっとしたことに、大男は二人にちゃんと話しかけてくれた。

 

「おぉ……こんなところまで来てくれて悪いっす。せまっ苦しいところだがちょっと中に入っちゃあくれませんか。お茶ぐらいは出すっスから」

 

 鱗滝は肩をすくめ、大男に促されるままあばら家に入った。妙もその後に続く。

 あばら家の中は乾燥して、温かかった。申し訳程度の土間の奥に、ムシロを敷いた6畳ほどの狭い空間があった。部屋の隅にはクマの毛皮や鉈、猟銃、その他雑多なものが積み上げらえている。部屋の中央には小さな囲炉裏がしつられてあり、火にかけられたヤカンから湯気が吹いていた。

 大男は土間で雪を落とし、一足先に部屋に戻ると部屋の隅から湯呑を3つ、取り出した。囲炉裏にくべられたヤカンを降ろし、中の液体を湯呑にそそぎ、まず妙に渡した。

 湯呑の熱が、かじかんだ妙の指を温めた。

「ありがとうございます」

 

「あっついから、気を付けて飲んでください」

 男は思いのほかやさしい、どことなくとぼけた口調で妙を気遣った。

 

 妙は少しドキッとしながら湯呑を口に近づけた。すーっとした香りが鼻を抜ける。

 

「クロモジって知っています? あの爪楊枝の材料にする木っス。この辺じゃぁ、そいつを煎じて茶にするんすよ」

 中々いけるっしょ。

 男は妙が茶を飲み干すのを待って、もう一杯、たっぷりと妙の持つ湯飲みにお茶を注いでくれた。だがその途中でうっかりヤカンの中の湯を自分の指にかけてしまい、男は大声を上げて指をしゃぶった。少しおっちょこちょいな男のようだ。

 

 さて……男は姿勢を改め、自分のことをノリスケだと自己紹介した。

「姓を言うのはカンベンしてくれッス。この件は家の長老たちには内緒なんで、ちょっと言いたくないんすよ」

 

「ワシは鱗滝左近次、こちらの娘は妙だ」

 鱗滝の声は固い。警戒を緩めていないのだ。その証拠に、渡されたクロモジ茶に口をつけるそぶりさえ見せない。

 

「始めまして」

 ヘラっとした口調で話しかける男を、鱗滝は冷めた目でにらみつけた。

 

「ワシらに何の用だ?」

「アンタに力を貸してほしいんすヨ」

「力を? お見受けしたところ、貴殿はすでになかなかのお力をお持ちのようですが」

 このあたりのモノを束ねる有力者とお見受けしますが……鱗滝の言葉を、ノリスケは手を振って止めた。

「いやいや、俺らはこんな辺境の地にへばりついてかろうじて生きているだけの一族っす。アンタみたいなおっかない人たちとは違うッすよ……鬼殺隊のおかた」

「……鬼殺隊をご存じで」

 

「まぁ、山に暮らしていれば 色々聞きたくないことも耳に入ってくるっすよ」

 耳をふさいでいてもね。ノリスケは悲し気に笑った。

「本題に戻りましょう。鬼殺隊は『鬼』ッつーヤツを狩っている人たちのことだと聞いているッス。で、あんたは鬼殺隊のなかでもけっこー偉い人だ。違いますか?」

 

「ワシなど偉くもなんともないが、鬼殺隊の働きについてはいかにも……」

 

「やっぱりそうかッ。いや助かった。鬼殺隊のお方ぁ、アンタたちに相談してぇことがあるんすよ〰」

 ノリスケの声が明るくなった。

 バンッ と、ノリスケはぶしつけに鱗滝の肩をたたいた。

「いや、ちょうど困っていた時にアンタたちが来てくれたのは本当にらっきぃッス」

 そういうと、ノリスケは自分たちの問題をまくしたてた。

 

「俺たちの生業はマタギ、クマ撃ちっす。俺らは先祖代々クマを撃っては薬を作ったり肉や毛皮を売ったり、代々まぁまぁ愉快にやってました……でも最近山をうろつくクマの奴の様子がおかしいんすよ。それだけじゃねぇ、『奇妙な』事件が急に起きてるんす」

 そういうと、ノリスケは最近山々で起こった不思議なことを話し始めた。

 誰もいない神社の灯篭の灯がともったり、頻発する地震、雪崩、吹雪。

 深夜急に空が紅く染まったこと。

 極め付きは、この時期は冬眠しているハズのツキノワグマがなぜか外をうろつき、しかも群れを成して行動していること。その一部の群れが狂暴化して村を襲う事件が起こったこと。

 さらには、原因不明の失踪事件が何度も起こっているのだという。

 

「姿を消した原因がさっぱりわからないんすよ。被害者は全員、近くにいた連中がほんのちょっぴり目を離した瞬間に姿が消えて、それっきりです」

「ふむ……面妖な事件だな」

 

「そうっす。もうこのあたりの住民はみんな怖がっちまって、大変です。俺らも鉄砲持ってから、みんなから頼まれてね。このあたりの村の見張りで大忙しっすよ」

 ノリスケは頭をかいた。

「理由は解んねぇっすよ。でも最近この『六壁神社』の周りの土地を買うって奴らが何度も来て、うるせぇんすよ。で、断ったらこうなったと。俺が思うに、その『商人』どもがあやしいぃんす。俺は疑っているんすよ。その『商人』どもがなんかしてこのあたりに悪さを働いてるんじゃないかって」

 

「なるほど、でアンタたちは我らに何をしてほしいのだね」

 

「アンタたちに俺を『雇って』欲しいんすよ。そうしないと関所を超えて『蝦夷地』に入れねえんでね」

「蝦夷地?」

「奴らは蝦夷地の『函館』に本店があるんす。こうやって考えているだけじゃどうしようもねぇっすからね。奴らを直接問いただそうかと……」

「この者たちをみんな連れてか?」

「いや、仲間にゃこのあたりの村を守る仕事を続けてもらうッすよ。行くのは俺一人っす」

「……いいだろうノリスケ。函館に行ってみるか。今までの話を聞くに、ワシが『探している』ものの手がかりも函館で見つかりそうである」

 

「話が早えッす」

 ノリスケはにやっと笑って鱗滝に向かって右手を差し出した。

「妙さんも、よろしくなぁ」

 

 なんだ。この人もついてくるということか? 

 妙は戸惑いながらノリスケと握手した。その手はゴツゴツしていたが、なんだか温かかった。

 

 

◆◆

 

『なんだぁこの国はッ! 遠路はるばるやってきたっていうのに、自由に動けるのはこのちっぽけな町の中のみ。しかも、どこに行くにも日本政府の了解と、お目付の役人の動向が無ければ許されんとはッ! 我らのことを犯罪者扱いしおって』

 ダイア―がイライラと言った。

 

『そう言うな。まずは情報収集に行くぞ』

 ツェペリはアタリをあちこち見まわした。

 

 二人の背後を、お目付け役の侍(国王付きの騎士のようなものらしい)が無表情でついてくる。大真面目な顔こそしているが、侍はそれは奇妙な髪形をしていた。頭頂部をそり上げ、後頭部にそり残した髪を結わえてその頭にちょこんと載せているのだ。初めて見たときは吹き出しそうになった。だがその腰に二本差している刀の切れ味を知っていたので、吹き出すのを必死に我慢したものだ。

 

 二人のお目付け役と同じような髪形をした男たちが、この街にはたくさん歩いていた。ハコダテ。それがこの港街の名だ。

 

 ツェペリもこれまでの半生で世界各国をめぐってきたが、ハコダテ(あるいは日本ではどこもそうなのか)は他とは本当に違う港であった。道行く人は皆小柄な『日本人』だ。男も女もキモノと呼ばれる体の前で閉じ合わせ、派手な色を使ったロープのような服を着、足先が二つに割れた白や黒色の靴下だけをはいて道を歩いている。

 その道は、これまた良く掃き清められている、板がかぶせられている道の中央の排水溝までもが、すこぶるきれいだ。噂に聞く古きローマ帝国時代の街道もカクヤというほどに手入れが行き届いている。

 風が吹くと幽かに匂うこの香りは、『ショウユ』という調味料の匂いらしい。『ショウユ』を観させてもらったが、見た目はあの『恐るべき食の未発達地帯:イギリス』のソース、『ウスターソース』にそっくりだ。イギリス人ときたら、まぁまぁ広い国の中でたった一つのソースしかもっていない恐るべき味音痴の人間どもだ。ということは……

 美食の国イタリア育ちのツェペリは、恐るべき想像をして思わず体が震えた。

 

 道の両側には1-2階建ての木造の家屋が並ぶ。屋根の上には頭サイズの石が並べられている。(大風で屋根が飛ぶのを防いでいるのだろうと、ツェペリは想像した)

 知らないところを歩くのは旅のだいご味だ。ツェペリはニコニコしていた。

 一方のダイア―はまだブツブツと文句を言っている。ツェペリはダイア―を黙らせようと、強引にその肩に手を回し、肩を組んで歩きだした。

 

『なぁダイア―。楽しみだのう……』

『何を悠長なことを言っている?』

『こういう港町には、かならずゴロツキどもの巣くう酒場があるはずよ。まずはそこに行き、裏社会と渡りをつければ何とかなろう』

『はっ、そんな酒場が本当にあるのか? あるとして、我らのような外国人がそんな場を見つけられるのか?』

『ダイア―よ。わかっていないのぉ……』

『なんだと?』

 

『だからここよ。ここで情報を集め、裏社会への道筋を探すッ』

 

 そう言うと、ツェペリはダイアーの肩をなれなれしくたたいた。

 そして肩を組み、目にした中で一番派手な暖簾が下がった店の敷居をくぐる。

 入ってすぐのところは、屋根があるだけで床も貼られていない小さな庭のような空間であった。隅には薄暗い紙製のランタンが掲げられ、周囲をぼんやりと照らしていた。二人が店に入ると、すぐに目の前の薄紙製の大きな窓が音もなく開き、中から美しく着飾った女性が二人、膝をついた姿勢で顔を出した。濃厚な日本の香料の香りが、その奥から漂っていた。

 

 タイアーの目が、落ち着か投げにキョロキョロと動いた。

『なっ、なんだと。オイ、まて。こっ、ここは』

 

『そうじゃ『麗しいご令嬢たちがいる店』よ』

『ちょとまて、なぜそうなる?』

『なぜなら、ここが我らガイジンと裏社会へのたった一つ合法的に許されている接点だからよ』

『ほっ、ほんとうか?』

『うるさいのぉ、いくぞ。ダイアー。おお、美しいお嬢さんッ!!』

「♡♡♡♡♡ッ!」

『まっ、マテ。ツェペリッ。う、うぉぉぉおおっ!!』

「♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥」

『うぉ……うッ……』

『……うるさい男じゃのぅ……』

 

 二人(ダイアーは目を白黒させていたが)は美女をわきに侍らせて、彼女たちとの会話や歌、舞いを愛で、そして異国の酒や食べ物を腹いっぱい堪能した。美しい着物を着ていい香りのする『ゲイシャ』に促されるまま『サケ』と呼ばれる日本製のすきっとしたワインや、『ショウチュウ』と呼ばれるやはりすきっとしたブランデーを楽しみ、あっという間に酔ってしまった。

 ほっとしたことに、『ショウユ』をつけていただく『サシミ』と呼ばれる日本料理はイタリア料理に慣れたツェペリの舌にも、本当に美味と感じられた。(だが、魚がほとんどとれない中央アジア出身のダイア―は、まったく『サシミ』に手を付けなかったが)

 

 二人のお目付け役の侍は、はじめのころこそどんちゃん騒ぎする二人から離れ、二人の様子を冷めた目で見ていた。だがすぐに『ゲイシャ』たちに囲まれ、無理やり大量の酒を飲まされ、すっかり出来上がった様子であった。

 

 そのお目付け役の様子を確認してから、ツェペリはゲイシャの一人一人に、町のうわさを聞いて回った。

 その結果、いくつか気になる話が聞けた。

 徘徊する幽霊の噂、この函館の地まで戦乱が来るかもしれないこと、最近町を荒らす強盗団の話、近くの貿易商を営む店が突然焼け落ちた話など……

 興味深かった。一つ一つ調べていけば、何か石仮面につながる話が出てくるかもしれない。

 

 そうやってツェペリは密やかに情報収集を行い、同時に、深夜遅く酔いつぶれるまでどんちゃん騒ぎを繰り広げたのであった。

 

 

◆◆

 

 そして丑三つ時。

 寝静まった遊郭の広間で、ツェペリはむっくり起き上がった。

 しばらく周囲に気を配っているとやがてスリスリ……と衣擦れの音が部屋の外から聞こえてきた。衣擦れの音はツェペリたちがいる部屋の前で止まる。そして障子の端がそっと開かれた。

『異人様……こちらでござんす』

 まめ衣(まめきぬ)という名の芸者が、障子の隙間から顔を出した。

 

 まめ衣は障子の隙間から細い手を差し込み、チョイチョイ……と手招きした。ツェペリはそうっと立ち上がると、静かに障子をあけ廊下に出た。

 

 『出てきてくださって、ありがとうございます。ずいぶん飲まれていましたので、少し心配しました』

 『なに、途中からサケの代わりにこっそり水を飲んでおったのでな』

 『あらまぁ、なかなか食わせ物のお客様でありんす……でも、だからこそ頼りにさせてくださいまし……こちらへ……ああ、ここの床はふむ場所を間違えると大きな音がします。妾がふんだところをよく見て、その上に足をのせて進んでおくれなさい』

 『承知した……』

 『では、こちらへ』

 

 そう言って、まめ衣はツェペリを連れて妓館の薄暗い廊下を進んでいった。

 先のどんちゃん騒ぎの中で、ツェペリが見せた『ちょっとした手品』が気になったまめ衣が、『相談事がある』と言ってツェペリを呼びだしたのだった。

 

 薄暗い、香の立ち込める妓館の廊下を右に折れ、下に下り、左に進み……あちこち歩いた末に、まめ衣は粗末な馬小屋の前で足を止めた。

『……ここでありんす』

 まめ衣のつたない英語にうなずいて見せ、ツェペリは馬小屋の中に入っていった。さすが日本。そこは西欧の一等地とさほど変わらない、機能的な馬小屋だった。

 そこに血だらけの若者が一人しゃがみこんでいた。下を向き、苦し気にあえいでいる。

 まめ衣がツェペリの袖をつかんだ。

『異人様、駒三郎さまを助けて』

『任せておきなさい。美しいお嬢さんよ』

 ツェペリは慇懃に会釈すると、そっとまめ衣の手をはずした。そして若者の服をはだけ、傷を改めた。おそらくは刀傷なのだろう。適切に手当てはされているようではあったが、傷は深かった。このままほっておけば、おそらく後2、3日の命だろう。

 

 ツェペリは"奇妙な呼吸"を始めた。

 コォォォォォオオ──────

 

 すると、ツェペリの手がぼんやりと光りだした。温かみのあるオレンジ色の光だ。その光る手をそっと若者の傷口に当てる。

 すると、オレンジ色の光がツェペリの手から若者の傷口に向かって伸び、傷口に入り込んでいく……ツェペリは15分ほどそのまま若者の傷口に手を当て、じっとした後で立ち上がった。

 まめ衣が若者の傷口をそっと拭う。すると傷口はすっかりふさがり、血が止まっていた。真っ青だった若者の肌にもほんのりと赤みがさしている。

 苦しそうだった若者の呼吸も、いつのまにか落ち着いた寝息に代わっていた。

 

『異人さまっ、これは?』

『だいぶ深い刀傷であったが、もう大丈夫だろう……がんじょうな若者だのう』

 ツェペリはにこりと笑った。そしてガラリと口調を変える。

『で、そろそろ出てこんかいな。そこのお人よ』

 そう言って部屋の片隅の衝立を指さした。

 

『へぇ……わかっていたのか』

 衝立の奥から流ちょうな英語の応えが返ってきた。ぱたんと衝立が倒れる。その背後には、どっかりと座っている男がいた。黒髪をオールバックにまとめた、鋭い殺気を放つ男だ。

 そそくさと、まめ衣が男の横に移動する。

 

『初めまして。ウィル・A・ツェペリ殿。俺の名は……シシオだ』

 まだ若い。20歳ぐらいだろうか。

『駒三郎の命を取り戻してもらって、礼を言う』

 そういうと、シシオはぐっと立ち上がり駒三郎を蹴り飛ばした。

「起きろ」

 

「ッ!」

 シシオは、ついさきほどまで気絶していた駒三郎を片手で締め上げる。駒三郎の足が宙に浮いた。

 

 駒三郎の目が開いた。そして目の前にシシオがいることに気が付き、その目がおよぐ……

 

「駒……このお方を例の場所に案内してやれ。お前の命を救っていただいた恩人だ。礼を逸せぬように、丁寧にな」

 

 片手で首を締め上げられたまま、駒三郎がカクカクとうなずく。

 

 シシオは駒三郎を壁にポンと投げつけると、再びツェペリの方を見た。右手が刀の束に向かってピクリと動く。眉間にしわを寄せる。

 そして、恐ろしいまでの殺気がシシオから発せられた。

 

『……』

 ツェペリはすっと下がり、シシオの殺気をいなした。

 

「へぇ……」

 シシオが嗤う。

『アンタ、面白いじゃあないか。名前を覚えとくぜ。いつかアンタと一緒に暴れられるといいな』

 流ちょうな英語でそういうと、シシオは馬小屋を出て行った。

 

 男が出て行ってから数十分後、ツェペリは握りしめていた拳を解いた。その手は汗でびっしょりになっていた。

 

 

◆◆

 

 翌晩

 あきれるダイアー(とお目付け役の侍) をむりやりいざなって、ツェペリは翌日もそのままどんちゃん遊びを続けた。

 

 そしてまた女郎部屋で眠りについた。

 

 再び女郎屋で目を覚ましたツェペリが階下におりると、女郎屋の入り口に二頭立ての馬車が止まっていた。駒三郎が手引きしたものだ。ツェペリは馬車に入ると、床板を外し座席の下に潜り込んだ。そこには、人ひとりかろうじて入れるほどの隠れ場所があった。

 駒三郎は余計な口は利かず、ツェペリが手ハズ通り隠れ場に身をひそめると、すぐさま馬車を出発させた。

 その後関所らしきところで簡単な取り調べを受けた後、馬車は町の外に出る。

 頃合いを見て、ツェペリは隠れ家から顔を出した。

 

「これからお連れする場所には、血に飢えた我らの元仲間たちがいます」

 ツェペリに向かって、駒三郎が日本語で言った。駒三郎の隣にはべっていたまめ衣が、それをツェペリが理解できるように英語に訳していく。

 

「我らがそこに封じました」

『ほう……どういうことかな?』

「長い話になります。あれは、そうですね。半年前になります。俺たちは“とある理由”によって、仙台藩にいました」

 駒三郎がぶるっと身を震わせた。

「戊辰戦争の直前のことです。俺たちは新政府軍として仙台藩との交渉の任に当たる使節団の護衛をしていました。そのとき『奇妙』な噂を聞きました。みちのくのさらに奥、北海道の地に生ける屍……つまり『屍生人』がいるというのです」

『ほぅ……』

「もちろん俺たちはその話を笑い飛ばしました。だがシシオ殿がその話に興味をひかれましてね……で、函館を探索に行ったんです。その時には幕府軍が最後の砦として函館の地を要塞化しているという話も耳にしていました。だから、密偵を出すことにしました。この地を調べれば『奇妙な噂』の真偽も確かめられるし、『敵』の動向もわかる、一石二鳥って奴です」

 

 その後シシオは、手筈通り密偵を侵入させた。

 そして探索拠点として砦を建てさせた。

 

 だが、その砦が『屍生人』の群れに襲われ、密偵たちは駒三郎を除いて全員惨殺されたのだと言う。

 

 駒三郎は『屍生人』に襲われたとき、偶然飛んできた木片のあたり、砦の外に落ちた。幸運なことに、駒三郎が落ちた先は馬小屋であった。

 

 板葺きの屋根を突き破り、まぐさに突っ込んだおかげで、駒三郎は致命的な損傷をうけずにすんだのだ。だが落下した衝撃は大きく、気を失った。

 その結果、『屍生人』の目から逃れ、生き延びることが出来たのであった。

 

 シシオは逃げ帰ってきた駒三郎をねぎらうでもなく、すぐさま砦に案内させた。

 

 そこでシシオが見たのは、かつての仲間たちが『屍生人』となって襲い掛かってくる姿であった。

 

「その時は……シシオ殿と側近の方々が夜じゅう奮闘して、『屍生人』と戦ってくれました。そして、夜明け前になると『屍生人』どもはみな大慌てで砦の陰に逃げていきました……逃げ切れなかった奴らは、太陽の光に焼かれて灰になりました……一晩中戦ったシシオ殿たちは、その場で大の字になって眠られました」

 

『ほう……』

 

「で、起きていた俺たちがまた、砦に入ろうとしたんです……でもダメでした。日のささない建物の中には『屍生人』どもがまだ潜んでいて、中に入り込んだ俺たちの仲間の一人が殺られました」

 

『だろうな』

 

「そして暗くなったら、また砦からぞろぞろ出てきやがるんです。それをシシオ殿達がまた止めて……キリがなかったです」

 

「そんな時に道案内に連れてきていたその地の長老の一人が、『屍生人』には藤の花の匂いがキク……と聞いたと言い出しましてね。それで試しに藤の花や、藤でつくったお香を砦の周りを囲む堀の中に撒いてみました……そうしたら、次の夜にまた出てきた『屍生人』どもは、堀を超えて出れなかったのです。で、今は堀の中に香炉を置いて、そして藤のお香を焚いて砦をいぶし続けています……」

 

 

 ツェペリは身震いした。藤の花のくだりを除けば、それはまさに、石仮面をかぶった吸血鬼や、吸血鬼が作り出した『屍生人』の所業に近かったからだ。

 そして、数人の手練れとともに生身で『それ』に対抗したシシオという男は、驚異的であった。

 

 

 さらにしばらく走った後、馬車が止まった。

「つきました」

 

 馬車の扉を開ける。

 

『ッ!』

 

 その瞬間、濃厚な藤の花の香がツェペリの鼻に香った。そしてその中に血の匂いが混じっている……

 

「お前たちはここにいるんじゃっ!」

 

 ツェペリは二人にそういい捨てると、馬車から飛び出た。血の匂いのするほうに向かってまっすぐ走る。

 目の前に堀があった。その穴に藤の花からとった香が立ち込めている。

 ツェペリはひとっ飛びで堀を飛びこえ、足を止めた。

 

 ド ド ド ド ド ド ド ド ……

 ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 

 目の前に刀を下げた男が一人立っていた。

 その周囲に無数のヒトが倒れている。

 足元には倒れた人々の血がプールのようにたまっている。

 男がツェペリの方を向いた。

 ……面妖な面をかぶっている……

 

 目の前にいるのは、血まみれの木製の仮面の男だ。

 石仮面ではない、だがここは木と紙の国……

 

 ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 

『貴様っ』

 ツェペリは波紋を込めた足に力を籠め、地面をけり上げた。

 波紋を帯びた土くれが、"仮面の男"を襲う。

 

 ツェペリは同時に、"仮面の男"の足元に向かってスライディングをかける。

 

 "仮面の男"は体を地面に対して平行にして、ツェペリが蹴り飛ばした土くれをよけた。体を回転させ、地面ぎりぎりを飛び込んでくるツェペリに向かって刀を振るうッ

 

『くッ』

 ツェペリは、今度は血だまりを蹴飛ばした。

 波紋が入った血の礫が、仮面をかぶった男に跳ぶっ! 

 

 

◆◆

 

 ゴオッ

 

 強烈な攻撃を受け、鱗滝は吹っ飛ばされた。

 

『奇妙』だった。『珍妙な帽子をかぶった西洋人』が投げつけてきた血で負傷したのだ。液体のはずの血が弾丸と化して鱗滝の体に食い込んだのだ。もし身にまとっていたのが防御力が高い『隊服』でなかったら、今の一撃で致命傷を受けていたかもしれない。

 

(なんだこれは……血気術かッ?)

 

 弱い鬼の爪程度なら容易に防ぐことができるほどの防御力を誇る『隊服』を突き破るとは、侮れない威力だ。

 

 立ち上がろうとした鱗滝は、自分の体がしびれているのに気が付き、戦慄した。

 慌てて全集中の呼吸を行い、大量に吸い込んだ酸素を全身に送りこむ。そして血管の一本一本にまで気を送り込み、しびれの影響から体を回復させる。

 それまでの動きを、鱗滝はほとんど一呼吸つくまでの間でやってのけた。

 

 体の自由を取り戻すと同時に、すぐさま流れるような足運びで『西洋人』の追撃をかわす。

 そしてかわしざまに刀を水平に薙いだ。

 放ったのは、水の呼吸 壱ノ型と称される水面斬り(みなもぎり)という名の技だ。

 

 幾多の鬼を屠ってきたこの技を、『西洋人』は奇妙なアクロバティックに体を逸らすことで避けた。

 『西洋人』が地面に手をついた。

 鋭い蹴りが鱗滝を襲うッ。

 

 その足が赤く発光しているのを見て取った鱗滝は、ガードしようとしていた手を降ろし、体をねじって宙に飛んだ。

 「陸ノ型(ろくのかた)、ねじれ渦(ねじれうず)……昇ッ」

 体をひねって回転した速度を利用して、高く飛び上がる技だ。宙を舞い、立ち木を強くけって水平に飛ぶ。

 そして『西洋人』と距離を取り直した。

 

 強敵だ。

 全力を尽くす必要がある。

 

 ヒュゥゥゥッ

 

 鱗滝は深く独特なリズムをきざみながら深く、早く呼吸を続けた。

 一呼吸、一呼吸ごとに肺から大量の酸素が取り込まれ、体の細胞が目を覚ましていく。体の奥から力と熱がしみだしてくる感覚だ。一方で、呼吸するたびに水面のように静かに精神がさえていく。

 それが水の呼吸だ。

 

 と、鱗滝は自分と呼応する形で、目の前の『西洋人』もまた『奇妙』な呼吸を行っているのに気が付いた。

 

 コォォォォォオオ──────

 

 『西洋人』が一呼吸するたびにその体に力がみなぎってくるのがはっきりと感じられる。『西洋人』の呼吸方法は、鬼殺隊の剣士が使う呼吸と似てはいる。だが明らかに違う呼吸、違う力だ。

 『西洋人』は背中に差していた棒を引き抜くと手慣れた風に構えた。その棒に『西洋人』の呼吸が生み出した『力』が伝わっていくのが感じられる。

 

 相手は、一呼吸ごとにどんどん力を増している。長引けば不利かもしれない。

 懐に飛び込み、一気に蹴りをつけるべきか。

 

 そう考え、鱗滝が構えを変えた瞬間、逆に『西洋人』が飛び込んできた。

 直前まで、『西洋人』は膝を伸ばした、前に進むことなど決して出来ない姿勢をとっていた。なのに『西洋人』は飛び上がり、驚異的な速度で鱗滝に突っ込んでくる。

 

 だが鱗滝も幾多の鬼と戦い続けた歴戦の剣士。人の能力・予想を超えた動きを見せる敵とは戦いなれている。

 瞬時に腰を落とし、迎撃の姿勢をとる。

 

「漆ノ型 雫波紋突き(しちのかた しずくはもんづき)……」

 

 水の呼吸 最速の突き技だ。

 突き出した切っ先と鍔が空気を押し出し、前方に空気の塊による【波紋】を作り出す。

 

(男が振り下ろしてきた棒をはじき、逆に突きをくらわしてやる)

 そう考えた鱗滝の日輪刀と、『西洋人』の棒が激突し、すれ違う……

 

 互いの武器がぶつかった瞬間

 強い衝撃が互いの持ち手を襲うッ

 

「クウッ」

『!ッ』

 

 弾き飛ばされる二人。

(なんだ今のは? だがもう一度だッ)

 とっさに体勢を立て直し、二人は再び互いに向き合った。

 

 その時、タァーンッという音がして、二人のちょうど中間点の土が突然爆ぜた。

 ピストルによる狙撃だ。ということにはすぐ気が付いた。

 二人はさらに一歩後ろに飛びのき、地に伏せた。

 土煙の立った角度から狙撃方向を推定し、睨みつける。

 

 果たしてその方向に、人影が二つあった。

 

『……お二人、そこまでにしないっスか?』

 驚くことに、それは海外の言葉であった。そしてとぼけた口調で現れたのは、仙台地方のマタギのリーダー。ノリスケであった。

 ノリスケの背後には妙の姿も見える。あれほど鱗滝がついてくるなといったのに、無理やりついてきたのだ。

 

「おぬし、異人の言葉が話せるのか」

 鱗滝は驚いた。なぜ山奥に住むマタギの男が、はるか海の向こう側に住む偉人の言葉を話せるのか。

(こ奴、やはり信用できぬところがあるな……)

 

「ちょっと齧っただけですがねぇ」

 ノリスケはボリボリと頭をかいた。

 

「そうか、おぬしは伊達藩のものか。伊達藩は討幕の志を捨てず、密かにに異国と交易して力を蓄えているという噂があったが……その噂は真実であったか」

 

「いえいえ、俺はただのマタギっすよ」

 

「……そういうことにしておく」

 不敵に笑うノリスケを観察しつつ、鱗滝はゆっくり立ち上がった。


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