鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部) 作:ヨマザル
ひなたは、自宅の囲炉裏の脇に座っていた。
墨の香りが、鼻に残る。
「ごめんなさい、ここを出ます。しばらく帰りません」
一行だけ。
それ以上は書けなかった。
手紙を畳み、棚の隅に置く。筆に残る墨をぬぐう。筆をケースにしまい、立ち上がった。
この家の奥に、世話になっている叔母と妹たちが寝ていた。穏やかな寝息が聞こえる。
ひなたは父親の弟の家で、世話になっていた。両親は、3年前にはやり病で亡くしている。
自分の血を分けた子供でもないのに、叔父も叔母も、本当に良くしてくれた。義理の兄弟も、皆いい子達だった。
(起こしたくない)
ギシ……
障子を開ける。
外はまだ暗い。
空の端が、わずかに白んでいる。
足音を忍ばせて、庭へ出る。
柿の木が、葉を落としていた。
井戸の縁に霜がついている。
ひなたは村を見渡す。
屋根の並び。
畑の跡。
犬の鳴き声が遠くで響く。
(マドカも、こうやって出ていったのかな)
思い出す。
夏の日。
マドカが、川で魚を掴もうとして転んだ。
笑いながら、服のまま泳いでいた。
「ひなたもやってみなよ」
その声が、今も耳に残っている。
(なぜ、私が狙われたんだろう)
(マドカが選ばれた理由と、同じなのかな)
カッ。
背後で足音。
鱗滝が立っていた。
「お別れは言えたか……では、いくぞ」
「はいっ」
ひなたはうなづき、蝋梅の袋を懐にしまう。
桑島が地図を巻き、背負い直す。
三人は、村を背に歩き出した。
ザクザク……
霜を踏む音が、夜明けの空に溶けていった。
函館の夜は、春の風に包まれていた。
表通りの喧騒が遠ざかると、裏町の一角にある小さな酒場が静かに灯っていた。
暖簾をくぐると、木の香りが鼻をくすぐる。
奥の座敷では、三人の影が酒を酌み交わしていた。ツェペリ達がしづと出会い、函館の街の探索に乗り出してから、3日が経っていた。
しづは、徳利からサケをお猪口に注いだ。
「焚き火跡の話、どう思う?」
ツェペリが、自前のワイングラスに注いだ酒を飲みほし、尋ねた。
「酒は口を軽くする。あの男たちも、一緒に一杯やってから、ようやく口を開いた」
ダイアーが短く言う。
「だが、話の半分は煙のようだった。真偽は不明」
しづが、少しだけ眉を動かす。
「廃寺の裏で“おかえり”の声が三日続いて、四日目に人が消えた……でしたか?」
ツェペリが頷く。
「港の倉庫では、干からびた死体。路地では、声に呼ばれて戻った少女が、感情を失って死んだ」
「奇妙な話ばかりだ。だが、共通点がある。どれも“声”が絡んでいる」
しづが、静かに言う。
「この街は、戦が終わっても静かじゃない。侍同士の斬り合いも、昨日あったばかり」
「秩序の再構築には時間がかかる。だが、異常は待ってくれん」
しづが肩をすくめた。
「そういえば、一郎は、今夜は外よ。団子屋に行くって言ってた」
ツェペリが頷く。
「よく食べる子だ。団子を見つけると、目が輝く」
ダイアーが箸を手に取り、焼き魚の骨に苦戦しながら言った。
「……この道具、どうにも馴染まん。魚の身が逃げる」
しづが笑いをこらえながら、匙を差し出す。
「無理せず、こっちを使ってもいいのよ」
「いや、慣れる。これも修行だ」
彼はようやく一口分を口に運び、噛みしめた。
「……ふむ、中々うまいな。これは……炭か?」
「ええ。備長炭。香りが立つの」
「なるほど。トルコでは、魚は香草と一緒に煮る。だが、こういう焼き方も悪くない……俺には少し、素朴すぎるが……」
しづが目を細める。
「トルコって、どんなところ? そこの出身なの?」
「乾いた風と砂。石の街。夜は静かで、星が近くに見える。……人情のある熱い人が多い」
そして、ダイアーは少しだけ間を置いて、湯を口に含んだ。
「13の年に、トルコを抜けてチベットに来た。……チベットにも、川魚を紙に包んで、やはり香草で蒸す料理があるな」
「色々な国を旅しているのね」
「最近はチベットにいることが多いが……独りで多くの国を見て回った」
しづは、湯呑を両手で包み込むように持った。
「……独り……ね。一郎は、ああ見えて、よく人の顔を見てるの。笑うとき、誰かが笑ってるか確かめてから笑うのよ」
ツェペリが帽子のつばを持ち上げる。
「それは、孤独の癖か。誰かの反応を見てから、自分の感情を出す」
「そう。あの子は、誰かがいる場所を選ぶ。ひとりにならないように」
ダイアーが静かに言った。
「……それは、よくわかる」
しづが彼を見たが、ダイアーはもう湯呑を見ていた。
外では、風が暖簾を揺らしていた。
春の夜は、まだ冷たい。 だが、酒場の灯りは、静かに温かかった。
ザクザク……
霜が薄くなり、土の感触が足に伝わる。
峠道は緩やかに登っていた。
ヒュウゥ……
風が吹き抜ける。
冷たく、そして澄んでいる。
ひなたは立ち止まる。
息が少し荒い。
足が重い。
(こんなに歩いたの、いつぶりだろう)
前方が開けていた。
谷が広がっていた。
幾重にも重なる山の稜線。
雲が低く、陽が差し込む。
川が銀色に光っていた。
「……すごい」
声が漏れた。
(マドカも、ここを見たのかな)
(あの子なら、もっと騒いでたかも)
カサッ。
後ろで桑島が足を止める。
地図を見たまま、顔は上げない。
「峠を越えれば、函館までの道が開ける」
それだけ言って、また歩き出す。
鱗滝は無言。
視線は足元だけを追っている。
(誰も、景色を見ないんだ……)
ひなたはもう一度、谷を見渡す。
遠くで鳥が鳴いた。
風が髪を揺らす。膝が少し笑う。
背中の荷がずっしり感じられる。
ザク……ザク……
二人の足音が遠ざかる。
ひなたは、蝋梅の袋を握り直して、歩き出した。
春の朝は、まだ街の輪郭をぼんやりと包んでいた。
裏町の石畳は夜露で濡れ、陽が差す前の空気はひんやりとしていた。
しづが先を歩き、ツェペリとダイアーがその後ろを静かに進む。
一郎は、少し離れて、あちこちを覗き込みながら歩いていた。
「ねえ、ここ、昨日より灰が増えてる」
一郎が焚き火跡の前でしゃがみ込み、指先で地面をなぞる。
「誰か、夜のうちにまた火を焚いたんじゃない?」
しづが立ち止まり、目を細めた。
「……灰の色が浅い。確かに、今朝のものかもしれない」
ツェペリが膝を折り、灰を指先でつまんだ。
「湿り気がない。火は、夜明け前まで燃えていたな」
ダイアーが周囲を見回す。
「足跡がある。三人分。片方は、引きずったような跡だ」
一郎が、瓦礫の隙間を覗き込む。
「ねえ、これ……?」
彼が引っ張り出したのは、焦げた布の切れ端だった。
しづが受け取り、手のひらで広げる。
「若い女性が着そうな帯ね。焦げてるけど、模様が残ってる。……豪奢だわ」
ツェペリとダイアーが顔を見合わせた。
「……そう言えば、結納間近の娘が行方不明になった事件があったな……」
「偶然にしては、できすぎている。関連しているかもしれん」
一郎が、瓦礫の上に立ち上がり、遠くを見た。
「ねえ、あっちの路地、なんか変な感じする」
しづが彼の視線を追う。
「……あそこは、廃寺の裏手。昨日、声が聞こえたって話を聞いた場所」
ツェペリが立ち上がる。
「行ってみよう。朝のうちに、できるだけ見ておきたい」
一郎が先に駆け出す。
「よーし、探検隊、出発ー!」
ダイアーが小さく息をついた。
「……あの子、朝から元気すぎる」
ツェペリが笑う。
「だが、助かる」
路地の奥へ進むにつれ、町からにぎやかさが消え、埃っぽくなっていく。
陽が差しているはずなのに、壁の影が濃く、音が吸い込まれていく。
しづが足を止めた。
「……待って。一郎、戻って」
だが、一郎はすでに角を曲がっていた。 ツェペリとダイアーが後を追う。 路地を抜けた先、廃寺の裏庭に出た瞬間──
「動くな」
声が、四方から降ってきた。
黒羽織の男たちが、瓦礫の影から現れた。
刀を抜いた者、手を懐に入れた者、睨みつけて来る者。
一郎が、動きを止めた。
ツェペリとダイアーは、腰を落とし、足を半歩引いた。
しづは、静かに息を吐いた。
「……囲まれたね」
路地の奥から、足音。両端の路地に、人影。
黒い羽織、無言の足取り。 しづが前に出ようとした瞬間、男のひとりが声を上げた。
「動くな」
ツェペリが帽子のつばを持ち上げる。
「動くなと言われると、動きたくなるな」
舌打ちをして、男が一歩踏み出す。
その瞬間、ダイアーが動いた。
懐に飛び込みざま首筋へ手刀。無駄のない一撃。
男の膝が崩れ、地面に沈む。
ツェペリが手を振る。
「一人目……どうする。つづけるかね?」
二人はしづと一郎を間に挟むように立った。 左右に構え、視線は路地の両端。
一郎が息を呑む。
「オッチャンたち、すげぇ……かっこよすぎる……」
黒羽織の男たちが、無言で構えを取る。
しづが周囲を見渡す。
「囲まれてるわ。十人以上……あら?」
しづが一人に向かって声をかけた。
「あんた、まだ生きてたのね。あの時、港で倒れてたじゃない」
男が目を細める。
「……薬屋の娘か。あの時の」
「なんと、知り合いかね。どこまでも顔が広いご人じゃのぉ……」
ツェペリがふっと笑った。
「どうする。このまま続けるか? それともお話をするかね」
ダイアーが冷静に言う。
「包囲は、対話の形としては不適切だが」
男たちの動きが、わずかに止まった。
その時、路地の奥から声が響いた。
「しづ姉ぇ──っ!」
一郎が振り返る。
「あ、あいつ……!」
一郎と同い年ぐらいの少女が駆けてくる。 羽織の裾を翻し、息を切らしながらしづの前に立った。 亜麻色の髪の、派手で見栄えの良い少女だ。
その隊服には金糸で何やら刺繍が施され、特別仕様に見える。華やかであった。
「マドカ、何してんだよ」
「イチ? アンタみたいなチビこそ、異人さん達の後を追いかけて、何してんのよ」
「!? オマエこそ、なんだその服、新選組ごっこかよ」
ハイハイ……と、マドカと呼ばれた少女は一郎をあしらった。そして、息を切らせてしづに話しかけた。
「姉ぇ、こんなとこで何してんの! 囲まれてるじゃん!」
しづが少しだけ眉を上げる。
「マドカ、あんた、また勝手に動いて……」
黒羽織の男たちがざわめく。
「なんだ、マドカの知り合いか……」
「しづ……ああ、薬屋のあの人か……」
もうひとりが肩をすくめる。
「ひとまず、手は出さん。話を聞こう」
ツェペリが帽子のつばを軽く持ち上げる。
「助かったな。第三幕は回避された」
「俺は、第三幕があっても一向にかまわんかったがな……」
ダイアーが隊列を崩さず、視線を保つ。
マドカがしづの横に立ち、男たちを睨む。
その時、隊の奥から低い声が響いた。
「マドカ、下がれ」
マドカが振り返る。
「え、でも姉ぇが──」
声が少しだけ鋭くなる。
「下がれ」
マドカが舌を鳴らし、小さく頭を下げた。
「はいはい、わかったよ」
彼女はしづに軽く手を振ると、隊の背後へ回った。
隊の中央から、一人の男が前に出る。
羽織の襟を整え、肩をすくめる。
「おめぇさん、腕が立つそうじゃねぇか」
ツェペリが帽子のつばを持ち上げる。 男は続けた。
「ウチの若いもんが世話になったと聞いたぜ。寺の裏で、何かあったとか」
ダイアーが一歩前に出る。
「情報を求めて動いただけだ。戦う意志はない」
「そうかい。なら、話は早い」
男が笑う。
「名乗っとこうか。俺は鷲津。新選組の別動隊、今はこの辺りの調査を任されてる」
ツェペリが帽子のつばを持ち上げる。
「ウィル──」
鷲津が手を上げて遮る。
「知ってるぜ。ウィル・A・ツェペリ。役人には“民間の医者”って話してるらしいな。だがあんた、腕っぷしの方もそうとうヤルだろ。わかるぜ」
ダイアーが口を開きかける。
「我が名はダイアー──」
「こっちも聞いている。ダイアー・グラント。日本に到着早々、町のゴロツキどもと揉めたってぇのも、耳に入ってる」
ツェペリが少しだけ眉を上げる。
鷲津が肩をすくめる。
「まぁ、そんな表向きの話には興味はねぇが……だが、それ以上は聴いても話しちゃくれなそうだな」
ダイアーが静かに頷く。
「察しが早い」
鷲津が焚き火の方をちらりと見る。
「最近裏町で起きている変な事件な。消えた人間。動かぬ死体。夜の叫び声。どれも、俺たちの管轄じゃぁねぇが……放っとくと面倒になる」
ツェペリが少しだけ首を傾ける。
「あんたたちも、何かを探してるようだな」
「ああ、情報交換と行こうじゃねぇか」
ツェペリがふと、しづの横顔を見る。
彼女は何も言わず、ただ前を見ていた。
その目は、さっきまでの冷静さとは違っていた。 肩が硬く、呼吸が浅い。
ツェペリは帽子の影から、静かに彼女を観察する。
(しづ殿、あの男を見てから、呼吸が荒くなったな……ふむ……)
ツェペリは、これまでの聞き込みの成果を英語で簡潔に伝えた。
しづがそれを日本語に訳し、鷲津に伝える。
鷲津はうなずき、時折短いが的を得た質問を返した。
薬屋に来た少年の件は、鷲津にとっても初耳のようだった。
鷲津がとがめるようにしづに何か言い、しづも短く返答していた。
そのやり取りは、ツェペリとダイアーには訳されなかった。
密偵の失踪についての話を聞くと、鷲津はニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ、その件は問題ない……俺たちが処断した。隊則違反だ」
一郎が息を呑む。
「ほう……」
ツェペリが、鷲津の顔を改めて見つめた。
しづが少しだけ身を乗り出した。
「……被害者は北信流の達人だったはず……」
「しょせんは道場剣法だ。何の問題もない」
鷲津は答えた。
「死んで当然の奴だ。忘れろ」
「……」
その後、鷲津もいくつか情報を渡してくれたが、さほど役に立つものはなかった。
現場に見たことがない形の爪痕が残っていた、という話だけがツェペリの関心を引いた。
だが、それがどんな形だったのか、細部の記録は残っていないようだった。
ツェペリは火を見ながら、何かを思案していた。
ダイアーは一言も発さず、視線だけを鷲津と隊員に向けていた。
鷲津が言った。
「しかし良くここまでの情報を集めたな。外国人の身で、短期間で、これだけの情報を引き出すとは」
ツェペリが帽子を押さえた。
「人が話すのは、火の前と酒の後だ」
「なるほど……ちがいないな」
少し間を置いて、鷲津が火を見ながらつづけた。
「昨夜、新しい件が出た。寺の裏を奥へ、山の斜面でな」
ツェペリが顔を上げる。
「死体か?」
「ああ。年寄りが一人……首が無かった。だが、記録には残っていない。闇に葬られた」
ダイアーが言う。
「誰が見つけた?」
鷲津は後ろを振り返った。
「マドカだ。役人が検分している所を、偶然通りかかったらしい。一人じゃぁない。もう一人ついていた」
少しだけ間を置いて、名を告げた。
「榊蒼一。剣士だ。若いが舐めるなよ。こう見えて、強いぞ」
一行の中から、若い男が一歩前に出た。
二十歳前後。髪は短く、羽織の下に剣帯。
無理に威圧する様子はない。
「榊蒼一です」
声ははっきりしていたが、どこか緊張が混じっていた。
マドカの方をちらりと見たが、すぐに視線を戻した。
「案内をつけよう」
鷲津の提案に、ツェペリが火を見ながら言った。
「その二人か」
鷲津が頷いた。
「マドカが同行する。現場まで案内させる。蒼一はマドカのボディガードだ」
三人の間に、異論はなかった。
鷲津は頷いた。マドカと蒼一をよび、簡単な指示を出す。
「……この件はしばらくお前たちに任せる。しづとツェペリ殿と共に、捜査に当たれ。報告は毎晩、いつものやり方でだ」
「わかったわ」
マドカは、うなづいた。
「……二人とも、俺の信頼を裏切るなよ」
鷲津はうなづく。今度はしづとツェペリにむかってしばらく調査にマドカと蒼一を同行させることを一方的に伝え、一行に背を向けた。
別動隊の一行は、音もなく路地に消えていった。
マドカが荷物を背負い直しながら近づいてきた。
蒼一は少し遅れて並ぶ。
「よろしくね……じゃ、行こうか。山の方、ちょっと歩くよ」
ツェペリが頷いた。
「案内、頼む」
しづはマドカの足元を見て、何かを確認するように一瞬だけ視線を落とした。
ダイアーは最後に焚き火を一瞥し、歩き出した。
ツェペリはふと、足を止めた。
先に行くマドカの手足、首元、そして指先、擦り傷や打ち身だらけであった。
(……虐待を受けている? いや、これは……違うか?)
ツェペリは、眉をしかめた。
連れていかれたのは、裏町にある廃寺であった。色々崩れかけ、瓦の隙間から雑草が生えている。
ひなたは、廃寺の片隅に転がっていた地蔵を立て直し、手を合わせた。
「……お地蔵さんも、泥だらけじゃかわいそうだからね……」
蒼一がひなたを立たせ、一行を廃寺の裏手へと連れて行った。
山の斜面は、寺の裏手から少し登った先にあった。
マドカがしゃがみ込み、土を指でなぞりながら口を開いた。
「昨日の朝、寺の裏を通ってたの。山道の方に用があって、ちょっと近道しただけ。そしたら、斜面の上に役人がいて……何かを囲んでたの。最初は、倒れた人かと思った。でも、近づいたら……首がなかったの。地面は乾いてて、血の跡もほとんどなかった……変な感じだった」
彼女の指先が、土の表面をなぞる。
「ここ、何か落ちてたみたい。誰かが拾った跡がある。小さなもの……道具か、紙か……何か痕が残ってた。蒼ちゃん、どう思う?」
蒼一が少し間を置いて補足する。
「遺体は、斜面の上の岩の近くにありました。マドカが見たのは、検分の終わり際。役人は、何も言わずに布をかけて、すぐに立ち去ったそうです」
マドカが頷く。
「誰かが拾った。何かを。だけど、何を拾ったかはわからない。役人も、見て見ぬふりだった気がする」
彼女の声は静かだったが、言葉の端に、わずかな震えがあった。
「……でも、誰が拾ったかはわかんないね」
蒼一は少し間を置いて答えた。
「……拾ったって、何をですか?」
「それを考えるのが、調査ってやつだよ」
マドカは軽く笑ったが、目は地面を見ていた。
蒼一が立ち上がり、ツェペリの方を見た。
「……そんなにじっと見て、何がわかるんですか?」
ツェペリは答えず、四つん這いになって地面を見ていた。
しづが横に立ち、何かを探すように視線を動かす。
ダイアーは斜面の端に立ち止まり、木の配置と傾斜を見ていた。
「……地面が乱れてる。踏み荒らされたような跡だ」
ダイアーが低く言う。
蒼一が近づこうとしたが、ダイアーが手で制した。
「踏むな。痕跡が消える」
蒼一は黙って一歩下がった。
ダイアーが斜面の端にしゃがみ込んだ。
土の表面に、踏み跡のような凹みが並んでいた。
歩幅は不規則。片足だけ深く沈んでいる箇所もある。
人間の歩き方ではなかった。
ツェペリが隣に屈み、指先で土をなぞった。
「……引きずっている。足を引きずったまま、斜面を登っている」
しづが周囲を見渡す。
「でも、ここだけ枝でならされてる。誰かが跡を消そうとした」
枝の先端が折れていた。
土の表面には、均された痕が残っていたが、下層の乱れは隠しきれていなかった。
蒼一が少し離れた位置で立ち止まった。
「……誰かが痕跡を消した……人間がやることに見えます」
「つまり、これは鬼によるものではないという事かしら……」
しづの言葉に、蒼一がうなずいた。
「わかりません。でもその可能性は高いです。もう少し調査を続けましょう」
ザクザク……
道は細く、斜面に沿って続いている。
石が転がり、靴の底を叩く。
ひなたは時折、振り返る。
谷の景色はまだ見えていた。
陽が少し高くなり、雲が動いている。
(あんなに綺麗なのに……)
前を行く桑島は、地図を見たまま。
足取りは一定。
景色には目もくれない。
「この道は、明治の初めに開かれた。軍用だったらしい」
説明口調でぽつりと呟く。感情はない。
鱗滝は黙っていた。
肩の動きが重い。刀の柄に手を添えたまま。
ヒュウゥ……
風が吹く。
ひなたの髪が揺れる。
「ねえ、あの谷……見た?」
声をかけてみる。
桑島はちらりと横目を向ける。
「見た」
それだけ。
鱗滝は答えない。足音だけが返ってくる。
(誰も、何も感じないのかな……私だけ、浮いてるみたい)
道はさらに細くなる。
木々が近く、空が狭くなっていく。
ひなたは、椿の袋を握り直した。何日も歩き詰めの足は、重かった。
(進むしかない。頑張ろう……)
道が下りに転じる。木々の間に、人工の直線が見えた。
桑島が立ち止まる。
「建物だ」
カサッ……
鱗滝が前に出る。
手を刀の柄に添えたまま、目を細める。
木造の山小屋。屋根は苔に覆われ、壁は灰色にくすんでいる。
扉は閉まっていた。
「使えるかもしれん」
鱗滝が言う。
桑島が周囲を一周する。
「火は使われていない。人の気配もない」
扉を押すと、軋んだ音が響いた。中は暗い。
埃の匂い。棚に茶碗が並んでいる。一つ、伏せられていない。
(誰かが、最近までいた?)
ひなたは足を踏み入れる。
床板が鳴る。冷たい空気が足元を這う。
「ここで一晩、休もう」
鱗滝が言う。
桑島は地図を広げ、火打石を取り出す。
ひなたは椿の袋を懐にしまい、壁際に座る。気が抜けたのか、疲労が一気に広がった。
ヒュウゥ……
外の風が、隙間から入り込む。小屋の中は静かだった。
(少しだけ……眠れるかもしれない)
ひなたは目を閉じた。
路地の奥に、古びた井戸端があった。
昼下がりの陽が差し込む中、洗濯物を干す女たちが、桶を囲んで話していた。
マドカが、軽く頭を下げて近づく。
「こんにちは。昨日の夜、何か変わったこと、ありませんでしたか?」
女たちは一瞬黙ったが、マドカの笑顔に押されるように、ぽつぽつと話し始めた。
「猫が騒いでたよ。裏の廃寺の方でね」
「声がしたって人もいた。誰もいないのに、“おかえり”って」
「黒羽織の連中が、朝方に通ったよ。何か探してるみたいだった」
一郎が、桶の縁に手をかけて身を乗り出す。
「“おかえり”って、誰に言ってたの?」
女の一人が笑った。
「さあね。誰もいないのに、声だけが聞こえたって話よ」
「じゃあ、幽霊かな。でも幽霊って、団子食べるのかな」
マドカが吹き出しそうになりながら、手で口を押さえた。
「一郎、それは聞かなくていい」
蒼一は、少し離れた柱の影に立っていた。
目を伏せ、何かを考えているようだった。
ツェペリが彼に目を向ける。
「君は、何か感じたか?」
蒼一は、少しだけ間を置いて答えた。
「……風が、昨日より重いです。音が、遠くに沈んでいるような」
ダイアーが眉を寄せる。
「詩的だな」
マドカが、蒼一の方を見ずに言った。
「蒼ちゃんは、そういう子なの」
女たちが洗濯物を取り込み始める。
「気をつけなさいよ。廃寺の裏は、昔から変なことが起きるから」
「黒羽織の連中も、あんたたちを見てたよ。気にしてるみたいだった」
マドカが、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。気をつけます」
一郎が、路地の奥を指さす。
「ねえ、あっちの壁、昨日より黒くなってない?」
しづが目を細める。
「確かに。……ちょっと、調べてみよう。もしかしたら血痕かも……」
ツェペリが帽子を整えながら言った。
「……やるなぁ、一郎」
ギィ……
扉が風に揺れた。
ひなたは目を開ける。
火は消えていた。小屋の中は、ほの暗い。
ザザザ……
外で、何かが擦れる音。
桑島が起き上がる。地図を畳み、刀に手を伸ばす。
「ひなた……動くな……口をきくな……」
鱗滝の声が低く響く。
ギィ……
扉が、ゆっくりと引かれた。
ヒュウゥ……
冷気が流れ込む。どぶ川のような腐臭が混じっていた。
影が三つ、扉の向こうに立っていた。
人の形。だが、歪んでいる。
月明かりが一体の顔を照らす。 白い皮膚。沈んだ目。
「俺の名前は独村テル。こいつ等の親分ダ」
声は乾いていた。
その背後に、十数体の異形が揺れていた。
ひなたは息を呑む。
(やっぱり人じゃない……死んでいる。屍が、動いている……)
二体目が跳ねるように前へ。顔は笑っていた。目は笑っていなかった。
「私はちぃ───あきぃッ! 歌がじょおずな女の子ぉォっ!」
声が高く、耳に刺さる。
ひなたは耳を塞いだ。
(頭が……割れそう……)
三体目が踏み出す。 肩幅が異常に広く、腕が裂けていた。
「俺は坂活野だぁ。潰すッ。以上」
朗らかな声が、地面を揺らす。
背後の異形たちが叫ぶ。
腐れた声。崩れた顔。人だったもの。
ひなたは袋を抱きしめた。
(逃げなきゃ……でも、足が動かない……)
鱗滝が刀を抜く。
桑島が窓を蹴破る。
何か叫んでいる。
聞き取れなかった。
ドンッ!
坂活野が壁を叩き壊す。
木片が飛び散る。
ひなたは、間一髪で小屋を飛び出した。
外は山小屋前の広場。月が地面を青白く照らしていた。
現実感が無い。
地面が、揺れる。
屍が、たくさん立っていた。
ひなたに向かって駆け寄ってくる。
その動きが、酷く緩慢に見える。
だが、ひなたも体が動かせない。
(これは……夢じゃない。死ぬかもしれない。夢じゃないッ!)
ギャアア……
ひなた目掛け、飛びかかってくる。
鱗滝が前に出る。
「任せろ」
ザシュッ──
一閃。
一体の首が、音もなく飛んだ。
先ほど、ちあきと名乗った
ゴトン……
頭が地面に転がる。
ひなたは息を呑む。
グググ……
首の断面から、浅黒い紐が這い出す。 いや、紐ではない……血管だ。
血管が紐状にでろりと出て、地面を這い、胴体へと伸びていく。
ズズズ……
肉が引き寄せられ、血管紐が胴に巻きつく。
べちょっ。
首が胴に戻った。
「あははははぁッ!だいじょぶだよぉおおん!」
ちあきが、甲高い声で嗤う。
「うううわぁああああ!」
ひなたが絶叫する。
「怖いのぉ? ひなたチャン。怖いのぉおお? かわいぃぃッ」
「……なんだ、これはッ!」
桑島が斬りかかる。
ザシュッ、ザシュッ。
腕が飛ぶ。足が裂ける。
だが──
肉が蠢く。
骨が音を立てて戻る。
「斬っても、止まらない……だとっ!」
鱗滝の刀が胴を裂く。
肉が飛び、骨が砕ける。
だが──
グググ……
肉が繋がる。
腕が戻り、足が立ち上がる。
「何だとッ」
「こいつら……鬼じゃない。血鬼術もない。だが……」
桑島が叫ぶ。
鱗滝は、一体を斬り伏せながら答える。
「反応は鈍い。斬れる。だが──」
言葉を切る。 目が、わずかに細まる。
「切り口を無理やり繋いで、立ち上がってくる。鬼の回復力には及ばないが、頸を切っても再生する……厄介だな」
桑島が一体の首を落とす。
雷の呼吸──壱ノ型。
首が転がる。
だが、
数歩よろめき、倒れる。今度は、動かなかった。
「呼吸の技は、通じるようだ」
桑島が言う。
「うまく斬れば、再生は止まる」
鱗滝が頷く。
だが、その目はわずかに揺れていた。
「……だが、これは鬼の使う“術”じゃない。理屈が通らん」
桑島が刀を構え直す。
「俺が護衛に回る。お前が前でかき回せ」
ドンッ!
坂活野大木が突進する。
鱗滝が宙を舞う。
「水の呼吸──捌ノ型。
水の軌跡が、広場を切り裂く。
ギャアア……
屍生人たちが叫び、動きが乱れる。
桑島はひなたの背に回る。
「動くな。俺がいる」
鱗滝は前へ。
「分断するぞ──今だ!」
「あの娘を捕まえるダニッ」
テルと名乗った
ザザッ。
屍生人が散った。
広場の端から、ひなたへ向かって弧を描く。
腐臭が風に乗る。
足音が増える。
歪んだ影が伸びる。
桑島はひなたの背に回り、肩を押す。
「右の山道へ。走れ」
鱗滝が前へ出る。
切り込み、間を作る。
ザシュッ。
短い斬撃。首が落ちる。
だが、血管紐が這う。繋がる。
ひなたは袋を抱え、尾根を下る山道へと駆け込む。
道は狭く、暗い。
月明かりと勘を頼りに走る。
足が滑る。
膝が折れかける。
肺が、焼けるように痛い。
(転んだら──終わる)
視界が揺れる。
腕が痺れる。
熱い。
背後で、骨が軋む音。
ギチギチ……
一体が立木を蹴り、肩から突っ込んでくる。
ひなたは身を捩り、崖際へ。
肩が擦れる。
痛みが走る。
(怖いッ! 怖いぃイイッ)
角を曲がる。
岩が転がっている。
ザッ。
足が引っかかり、ひなたは倒れかける。
桑島が腕を掴んで引き上げる。
「立て。前だけ見ろ」
短く、強い声。
ひなたは頷けない。
ただ、足を動かす。
喉が塞がる。
胸が痛い。
耳鳴りがする。
顔が崩れ、笑っている。
ひなたに向かってかけより、手を伸ばす。
大きく広げた口から、乱杭歯がのぞく。
鱗滝が斬り込む。
「水の呼吸、捌ノ型──
ザシュッ
猛烈な上段打ち。受けた腕ごと両断し、突進が止まる。
もう一体はよろめく。
だが、斬り痕から血管紐が伸びる。
鱗滝の刃が再び落ち、繋がりを断つ。
ギャアア……
頭上の断崖から、別の
ひなたの前へ、手が伸びる。
爪。
ザシュッ!
桑島の刃が横から入り、
「苦しかろうが、足を止めるなッ」
ひなたは一歩、後退する。
踵が石を踏み損ね、転びかける。
上り坂……
肺が焼けきれるほど必死に走り、坂を上り切る。
山頂、小さなお堂が建っている。
腐った声。
湿った空気。
ひなたは止まる。
足が動かない。
(逃げなきゃ、でも何処に……もしかして……うそでしょ、これで……これでおしまい?)
こんな時になぜか、頭の中で、マドカの声が浮かんだ。
故郷の裏山で、こっそり剣の稽古をしていた。拾った木を振り回し、立ち木を叩いていた。
「ひなたもやってみなよ」
(こんなことになるのなら、もっとまじめに稽古すればよかった)
山で笑っていた声。今は、何もかも遠い。
寺島がひなたの前に立つ。
鱗滝が右へ出て、刃を振るう。
短い呼吸。
連続の斬撃。
ザシュ、ザシュ、ザシュ!!
繋がる前に、落とす。
断つ。
間を作る。
ひなたは一歩も動けず、その様子をただ見ていた。
「……テル」
鱗滝の視線がお堂の屋根を掠める。
そこには、口元の裂けた男が立っていた。
「もういい。
音が途切れ途切れに伝わる。
「半分以上やられた……ここまでダ……“あの方”に、報告……ダニ……」
内本千秋が肩を押さえ、笑いながら下がる。
「ひなたちゃぁん、またねぇ」
坂活野大木が半身を引きずり、瓦礫に乗る。
「テル、わかったよ」
テルは、鱗滝と桑島を一瞥し、首だけ動かす。
「……情報は得た。これ以上は……不要ダ……」
主格の三体は影に吸い込まれ、夜へ消えた。
残った下っ端が二、三体。両手を広げ、鱗滝達の行く手を阻もうとする。
鱗滝が一歩。
桑島が一歩。
ザシュッ
短い断ち切り。音は小さい。
遺された敵はあっけなく倒れた。腐臭だけが残る。
風が戻る。
ひなたは袋を抱えたまま、石の縁に座り込む。
息が荒い。
指が痺れていた。
喉が乾いていた。
声は出ない。
寺島がそっと背に手を置く。
「よくやった。今は、休め」
ひなたは頷けない。
ただ、目を閉じる。
腕の奥で、熱がゆっくり脈打っていた。
息が荒い。 手が震えている。
(終わった……の?)
そのとき、左腕に鈍い痛みが走る。 袖をめくると、浅く裂けた傷が赤く滲んでいた。
(……いつの間に……)
爪がかすったのだろうか。だが、血はもう乾きかけていた。
(……大丈夫)
誰にも聞こえないように、ひなたは小さく呟いた。 袖を戻し、袋を抱え直す。 肩に力を入れ、何事もなかったように立ち上がった。
鱗滝が刀を納めた。
風が山頂のお堂を抜ける。
月は高く、雲が薄い。
夜は、まだ深い。
マドカと蒼一がツェペリ達の捜索に加わってから、2週間ほどが経っていた。
朝から晩まで聞き込みを続けた一行は、函館の街に数多くの不審な事件が起こっている事を、突きとめていた。
だが、調査の結果わかったのはそこまで。犠牲者の共通点はほとんどない。
その日の聞き込みも空振りだった。黒くなった壁は確かに血痕によるものだったが、良く聞き込むと、先日そこで鶏を絞めたことが判明した。壁の血痕は、鶏のものであったのだ。
5人はガックリ来て、へとへとになって宿に帰った。
夕暮れの光が、瓦屋根を赤く染めている。
宿の前には、すでに人だかりができていた。
「先生たち、帰ってきた!」
子供が叫ぶ。
「今日も診てくれるよ!」
笑顔が広がる。 腰を曲げた老人、赤子を抱いた母親、咳き込む男、足を引きずる女。 誰もが、嬉しそうだった。一斉にツェペリ達に話しかける。
「先生、今日は母が来ました」
「昨日の薬、よく効きました」
「赤子の咳が止まったんです。今日もお願いできますか」
ツェペリは帽子を外し、軽く頭を下げる。
「コンニチハ。オマチドウサマ」
片言の日本語に、町の人が笑う。
「先生、発音うまくなったね」
ダイアーは湯を沸かしながら、手拭いを整える。
「アシ、イタイ? ──スワッテ、ミテミル」
膝をさする男に、静かに声をかける。
広間の畳に布が敷かれ、しづが湯を運び、マドカが手拭いを並べる。
一郎は、順番札代わりの木片を配る。
ツェペリは、赤子を抱いた母親の前に膝をついた。
「コンニチハ。ダイジョウブ、ネ」
母親が緊張した面持ちで頷く。
ツェペリは、赤子の胸に指先を添えた。
波紋が、掌から静かに流れる。赤子の鼓動に合わせて、温かさが広がっていく。
赤子が、小さくくしゃみをした。
そのあと、ふぅっと息を吐いて、腕の中で静かになった。穏やかな寝顔だ。
ツェペリが、柔らかく微笑む。
「アタタカイ……ネ。ネムレル、ヨ」
母親が目を見開いた。
「……咳が、止まった……」
声が震えていた。
「昨日からずっと泣いてて、眠れなかったのに……」
ツェペリは、そっと赤子の額に手を添えた。
「ネツ、モウスコシ。アシタ、モット、ヨクナル」
母親は、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……本当に……」
その隣でダイアーは膝をつき、足が痛いと訴える男の膝に手を添えていた。
「ココ──イタミ ヘル」
波紋が流れると、男の表情がふっと緩んだ。膝を動かしながら、驚いたように笑う。
すぐに次の患者が現れる。
ダイアーはしゃがみ込み、歯が痛いと訴える子供の顔をそっと覗き込む。
ツェペリとダイアーは、ひっきりなしにやってくる患者に、笑顔で対応し続けた。こうやって、夕方から、宿で体調の悪い人たちを見始めてから、10日は経っていた。
湯気の向こうで患者に向き合うツェペリたちを見つめながら、マドカがぽつりと口を開いた。
「……あの人たち、すごいね。毎日、たくさん歩いて聞き込みした後で、すぐにこんなにたくさんの人に向き合って。疲れてるはずなのに」
しづが、湯を運ぶ手を止めて頷いた。
「ええ。あの二人が来てから、おかげで街の人の顔が明るくなった」
一郎が、木片を並べながら言った。
「オッチャンたち、ぜんぜん嫌な顔しないよね。 “マイニチ、ダイジョウブ”って、ちゃんと言ってくれるし」
マドカは、少し笑ってから、蒼一の方を見た。
柱の影に立っていた彼は、腕を組んだまま黙っていた。
「蒼ちゃんは、どう思う?」
蒼一は、少しだけ間を置いて答えた。
「……まぁ、努力はしているよな」
マドカは、視線をツェペリたちに戻した。 湯気の向こうで、赤子の額に手を添えるツェペリの姿が見えた。
「……二人に何か、渡したいな。お礼っていうか、気持ちを形にしたい」
「あら、いいわね」
しづが賛成した。
宿近くの帳場の隅に、小さな土産棚があった。
木彫りの根付、和紙のしおり、藍染の手ぬぐい、竹の筆置き。
しづが、棚をのぞき言った。
「このお店、小さいけれど職人さんの腕がいいから、おすすめなの」
一郎が、棚の前にしゃがみ込んで、じっと見ていた。
「この根付、狐だ。かっこいい。でも、こっちは鶴……うーん、どっちが好きかな」
マドカが、藍染の手ぬぐいを手に取った。
「これ。模様が控えめ。使えるし、しまえる」
一郎が首をかしげる。
「でも、模様が見えないと、つまんないよ」
「見えない方が、長く使える。飽きないから」
一郎は、鶴の根付を見つめながら言った。
「母ちゃんが、昔、もらい物の包み紙で鶴を折ってくれたことがある。ちょっと光ってて、きれいだった。……亡くなる前、それを棚の上に飾っててさ。今も、そのままにしてある」
マドカが、手ぬぐいを棚に戻した。
「母ちゃん手折りの鶴か。……いいじゃん、それ」