鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部) 作:ヨマザル
東北の山奥の道なき道を、日夜進み続けていた。
遠くで、叫び声がした。
と、桑島が動いた。
一息の間に、藪に飛び込む。
ギャアア…
藪の中で叫び声があがる。
桑島が戻ってきた。
その手には抜身の刀。
気づくと、鱗滝がひなたの前に立っていた。
やはり、刀を抜いていた。
「来るぞッ!右ッ」
鱗滝が叫ぶ。
ひなたには、何が右なのかさえ分からなかった。
ただ、真っ黒な衝撃がひなたに押し寄せる。
鱗滝が、目の前にいた。
ひなたの直前で、衝撃が止まった。
「がぁややぁああああッ」
黒い塊が、叫ぶ。
月明かりが差し、黒い塊を照らす。
野良作業に使う服を着た、普通の村男だった。
だが、月明かりに照らされたその顔は、血まみれで、肌は青白い。
顔は歪み、目は濁っている。
…知っている顔だった。
二つ隣の村の、若者だ。
「…いやだ…あなた……ゴロー君?」
ひなたが呟く。
鱗滝が刀を閃かせた。
その村男、ゴローだった屍が、どぅ と倒れた。
「知り合いだったか?残念だが
桑島が歯を食いしばる。
「奴ら、近くの村を襲ったのか…」
再び襲撃が始まった。今度は、数が多い。
ひなたは戦いから目を逸らした。
地に伏し、ときおりぴくぴくと体を震わせる、ゴローの屍を見ていた。
(ゴロー君、何年前だっけ?市が立った時に……たしか、マドカと一緒にいるところで、声をかけられたんだっけ…)
そんな場違いなことを思っている間も、
鱗滝と桑島が応戦する。
マドカは、倒れたゴローの屍を見つづけていた。
(ゴロー君…たしか、マドカの方が興味心身だった。私との会話に、割り込んできたっけ)
会話にマドカが割り込んで来た時、ゴローは少し迷惑そうな顔をしていた。それを、何故か覚えていた。
と、背中を強く、叩かれた。
鱗滝だ。隈取の顔が、怒っているように見えた。
「ぼうっとするな!自分の身は、自分で守れッ」
「はぃ!」
今は考えることは止めよう。
ひなたは自分で自分の頬を張った。
斬っても、斬っても、次が来る。
夜が深まるにつれ、襲撃は断続的に続いた。
その中には、ひなたの知っている顔が何人もいた。
だが幸い、故郷の村の者は、いなかった。
鱗滝が息を整えながら言う。
「夜明けまで持たせる。だが、陽が昇ったら──」
桑島が頷く。
「人のいない方へ逃げる。これ以上、無関係な村を巻き込めん」
ひなたは、袋を抱えたまま震えていた。この数日、原因不明の発熱があることもあり、体の震えを止めることはできなかった。
(もしかして、私のせいで…こんなことに…)
空が、わずかに白み始めていた。
風が冷たい。 地面に座ったまま、ひなたは袋を抱えていた。 指がかじかんで、力が入らない。
鱗滝が何かを言った。
聞き取れなかった。 桑島が頷いた。 二人が動いた。
斬って、跳んで、止まらない。 ひなたは、ただ見ていた。 何もできなかった。
袋が重い。 腕が痛い。 でも、離せなかった。
一体がこちらに向かってきた。 顔が崩れていた。 足が引きずられていた。
桑島が飛び込んだ。 雷のような音。 その影は、地面に崩れた。
ひなたは、声が出なかった。 涙も出なかった。
空が、少しだけ白んできた。
そしてついに、陽が昇った。
山の端から、光が差し込む。 木々の影が長く伸びる。周囲が色づいていく。
ひなたは、袋を抱えたまま立ち尽くしていた。 鱗滝と桑島の背中が、少しだけ緩んで見えた。
そのとき──
地に伏せていたゴローの頸が、ゴロンと向きを変えた。
ひなたの方を見た。 目が濁っていた。 でも、何かを言いかけたように口が動いた。
そして──
ザザザ… 皮膚が乾き、肉が崩れた。 音もなく、体が崩れていく。
服だけが残り、灰のようなものが地面に舞った。
ゴローだけではない。次々に、
ひなたは、ただ見ていた。
(死んだ…の? いや、あれは…生きてたの?)
風が吹いた。 灰が舞い、光に溶けた。
ひなたは袋を見た。 何も言えなかった。
(わからない…何も、わからない…)
そのとき、鱗滝が静かに言った。
「動くぞ。人のいない方へ…これ以上、被害者を増やすわけにはいかない」
桑島が頷き、地図を広げる。
ひなたは、ゆっくりと歩き出した。 足元の灰を踏みながら。と、よろめく。地面についた左手を見て、ひなたはぎょっとした。二の腕が、真っ黒だったのだ。
(いやだ、ウチミかなぁ…)
鱗滝は刀を背に収め、ゆっくりと歩き出した。
足取りは重い。 肩がわずかに沈んでいる。
桑島は地図を握ったまま、ひなたの隣を歩く。
額に汗が滲み、呼吸が浅い。 右腕の袖が裂けていた。
三人は、言葉を交わさなかった。 風の音と、足音だけが続いた。
空は淡い灰色に染まり、森の影が短くなっていく。
ツェペリは、狐の根付を受け取ると、掌の中で転がした。
「……これは、いい。旅の途中で、こういうものをもらうと、帰る場所が増えた気がする」 彼は笑って、一郎の肩を軽く叩いた。
「ありがとう。帽子の中に入れておくよ。落とさないようにね」
一郎が、少し照れたように笑った。
「大事にしろよ、一生懸命選んだんだから」
ダイアーは、鶴の根付を受け取って、しばらく見ていた。
「……鶴か。昔、母が刺繍でよく縫っていた。こういう形だった」
彼はそれを懐に入れ、静かに言った。
「ありがとう。一郎。これは、持っておく。……落とさないように」
一郎が、少しだけ胸を張った。
しづはその様子を見て、何も言わずに湯を注ぎ続けた。
湯気の向こうで、彼女の口元が少しだけ緩んでいた。
地面は湿っていた。 昨夜の戦いで踏み荒らされた草が、靴に絡む。 木々の間を抜けるたび、枝が顔をかすめた。
ひなたは袋を抱えたまま、ただ歩いた。 酷くぶつけた左腕は腫れており、多少の振動でも酷く痛む。ひなたの顔は伏せられ、目は動いていない。 何も聞かず、何も言わなかった。
桑島が一度だけ立ち止まった。 膝に手をつき、深く息を吐いた。
「…休める場所があればいいが」
鱗滝は首を振った。
「今は動く。奴らがまた来る」
その声に、ひなたが顔を上げた。 目は赤く、焦点が定まっていなかった。
三人は、再び歩き出す。
森の奥へ。 人の気配が薄い方へ。
陽は高くなっていたが、 空気はまだ冷たかった。
さらに二週間、探索を続けた。事件がすべて夜に起きている事を考慮して、ツェペリ達は見回りも兼ねて、聞き込みを日没後に行うようにしていた。
そして、ある日…
函館の郊外を探索していた日の帰り道。道中で雨が降り、一行は雨宿りをした。函館の街に戻った時には、陽が暮れていた。
裏街の、人気のない空き家が続くあたりを歩く。蒼一が少し離れた位置で立ち止まった。
「…誰か、見てます」
ツェペリがうなずく。
ダイアーがゆっくり肩を回す。
「お前も気づいたか…」
「来るぞ。構えろ」
蒼一は答えなかった。ただ、背後のマドカをちらりと見た。
マドカが、懐から小柄の木刀を取り出し、構えた。
「⁉ッ」
ダイアーとツェペリが、同時に動いた。
電気ショックを受けたような反射。
ツェペリは、マドカと一郎を突き飛ばす。
ダイアーは、蒼一としづを蹴り飛ばすッ!
だが――
辻影から、黒い影が飛び出すッ!
バッシュッ!!
「うわぁああっ!」
蒼一が、左手を押さえて地面を転げ回る。
「蒼ちゃんッ!」
「何ッ?見えなかった。まさか…」
「けッ!すっとろい奴らだと思ったのに、素早ぇえのがいるじゃぁねぇか!」
いつの間にか、陽はすっかり落ちていた。
月明かりに、黒い影が落ちる。
ゴゴゴゴゴゴゴ…
その姿が、露わになる。
人型――だが、異形。
肌は青白く、血管が浮き出ている。
目は赤く、瞳孔が細い。
口が耳まで裂け、牙が並ぶ。
爪は黒く、鋭く、地面を引き裂いていた。
「……人間じゃぁない……ッ!」
ツェペリが低く呟く。
「
ダイアーが構える。
黒い影が、首を傾げる。
ギギギギギ……
骨が軋む音が、空気を裂く。
「……喰ウ……喰ウ……喰ウ……」
声が、口から漏れる。低く、湿った声。
マドカが、震える声で呟く。
「……鬼……だよ……」
言いながら、手にした木刀を影に向ける。その手は、震えていた。
一郎が目を見開く。
「うそ……本当にいるのかよ……あれが……!」
しづが、静かに言う。
「夜に出て、人を喰う……太陽の光でしか死なない……昔からそう言われてる……でも、見たのは初めて……」
ツェペリが目を細める。
「なるほど……“鬼”か……」
ダイアーが拳を握る。
「喰われる気はねぇッ!」
鬼が、笑う。
「…喰ウ……喰ウ……喰ウ……」
その瞬間、三体目の鬼が壁の向こうから現れる。
「増えたッ!」
「囲まれるぞッ!構えろッ!」
ツェペリが波紋を練る。
ダイアーが前に出る。目の前の鬼に、突撃する。
「波紋が効くかどうか、試してみるしかねぇッ!」
ズバァッ!!
横薙ぎに払った手刀が鬼の顎を捉える――が、手応えが異常だ。
「硬ッ……!」
鬼の首が、逆方向に曲がる。
だが、笑っている。
首が、元に戻る。
「うわぁああああぁぁッ!」
一郎が悲鳴を上げた。
「再生してるッ!?こいつら、頸を落とされ、肉体が壊れても……!」
蒼一が叫ぶ。
「太陽じゃなきゃ死なないんだッ!それが鬼だッ!」
「だが、陽の登るのは待てぬッ!夜のうちに叩き潰すしかなぃッ!」
ツェペリが地面を蹴る。
波紋を練りながら、鬼の腹に掌底を叩き込むッ!
ズギャァン!!
鬼が吹き飛ぶ。
だが、地面に転がった瞬間、肉が蠢く。
再生が始まる。
「くそッ……波紋でも、殺しきれねぇのか……!」
「いや、効いてる……再生に時間がかかってる……!」
「ならば、連撃で止めるッ!」
ダイアーが叫ぶ。
その瞬間――
鬼たちが笑う。
「人間ハ脆イ……喰ラウ……今喰ラウ……」
ツェペリが、静かに言う。
「違うな……喰らうのは……お前たちの方だ……」
鬼が足を踏み出す。
ズズッ…
地面が、わずかに震える。
そのとき、鬼の脚が止まった。
ツェペリの足元から流された波紋が、鬼の脚を拘束していた。
「波紋……地面に……?」
ツェペリが目を細める。
「さっき地面を蹴った時、流しておいた。お前たちが“勝った”と思った瞬間に、動けなくなるようにな」
鬼の足が焼ける。
ジュゥゥ…
「ギィッ……!」
動きが止まる。
「今だッ!」
ダイアーが跳ぶ。
波紋を纏った回し蹴りが、鬼の胸に叩き込まれるッ!
ズバババッ!!
鬼が吹き飛ぶ。再生が追いつかない。
ツェペリが、最後の波紋を練る。
「波紋の連携で、再生を封じるッ!」
三体の鬼が、同時に崩れ落ちる。
「……喰ウ……喰ウ……」
鬼の声が次第にか細くなり、静寂が戻る。
マドカが、蒼一に駆け寄る。
「蒼ちゃん、大丈夫…?」
「……」
「蒼ちゃん!?」
「ああ、大丈夫だよ。マドカ…」
「そう…なら良かった」
しづが一郎を見て言う。
「ほら、無事だったじゃない」
一郎は震えながらも頷く。
「やっぱり……すげぇよ……あんたら……」
ツェペリが笑う。
「さて、宿に戻るか。腹が減った」
激流が谷を裂いていた。
鱗滝が先に渡り、寺島がひなたを背負って続く。
水は膝を打ち、岩は滑る。
袋を濡らさぬよう、ひなたは胸に抱え込んだ。
崖の反対側は急斜面だった。
苔と岩が混じり、指先が冷えた。
三人は無言で登り、ようやく洞へたどり着く。
ひなたは崩れるように座り込んだ。乾いた床が、嬉しかった。
足が震え、喉が乾いていた。
寺島が火を起こし、鱗滝は外へ出て鳴子を張る。
風の通り道、岩の裂け目、木の根元──すべてに目を配る。
ひなたは、すっかり腫れあがった左手を清流に突っ込み、ほっと息をついた。
(いやだ…もしかして、あの屍生人の毒が、傷口に入ったのかしら…)
左手は、治る気配がなかった。
気づくと、茶が湯気を立てていた。
寺島が差し出すと、ひなたは右手で受け取った。 焚き火の煙と、山の匂いが混ざっていた。
鱗滝と寺島が地図を広げる。
「尾根を越えれば人里は避けられる」
「夜は動かない。夜は奴らの時間だからな」
「昼間のうちに、奴らの襲撃を跳ね返すことが出来るような場所にたどり着いておくことだ」
「この地図で、先の地形は読めるか…この場所はどうだ?行きつけるか……」
ひなたは茶を飲みながら二人を見ていた。
(この二週間…)
崖を越え、獣道を進み、夜は眠れず、昼は歩き続けた。
背負われた背中の温度。 無言の判断。
(マドカなら、笑ってたかもしれない…『これくらい、山の挨拶だ』って)
故郷の村。
山の匂い。
鹿の足跡。
焚き火の煙。
(あの頃は、マドカと一緒に里山を歩いて冒険することを誇りに思っていたっけ…今は…守られてばかり)
(でもマドカ…かならずアンタを見つけ出すよ…)
茶が冷めていた。
袋は、まだ重かった。
小一時間の休息の後、三人は立ち上がった。
鱗滝が鳴子を回収し、寺島が火を消す。
ひなたは、袋を抱え直した。
風が、洞の奥から吹き抜けた。
再び、山へ。
宿の中庭に、湯気の残る風が通っていた。
戦いの痕はまだ身体の奥に残っていたが、誰もそれを口にしなかった。
縁側に腰を下ろしたマドカが、湯呑を見つめながら言った。
「……怖かったよ。
でも、誰かが顔に出したら、
それがこっちに襲いかかってきそうで。
だから、平気な顔してた。
……そしたら、もっと怖くなった」
一郎は庭の端で膝を抱えていた。
「見てたのに、足が動かなかった。
動けって思ったのに、動かなかった」
蒼一は柱の影から出てきて、少し間を置いて言った。
「……二人が怖がるのは、無理もない。
あんなの、普通じゃない。
俺たちは、死ぬ覚悟で動いてる。
それでも――背中が冷えた。……俺でさえ、な」
ツェペリは帽子を膝に置いたまま、静かに言った。
「奴らは自分たちが死ぬなど、まったく想定していない。……だから、あれほど無謀に動ける」
ダイアーは短く言った。
「無謀なだけじゃあない……力はある。知恵も回る。どう崩す…」
しづは湯を注ぎながら言った。
「今は少し息を抜きなさい。気を休めることも、大切よ」
その言葉のあとで、一郎が庭の隅にしゃがみ込んだ。
地面に落ちていた椿の種を拾い上げる。
「これ、椿の種かな。丸くて、音が鳴りそう」
マドカが少し呆れたように言った。
「こんな時に、種拾い?」
しづが微笑んだ。
「乾いたら、音が鳴るよ。……鳴ったら、教えてね」
マドカは湯呑を両手で包みながら、ふと笑った。
「……柿の種、って知ってる?」
一郎が顔を上げる。
「食べるやつ?」
「違うよ。ほんとの“種”。小さい頃、親友とよく拾ってたの。
それで、石段の上から転がして、どっちが遠くまで行くか競争するの」
「えっ、そんな遊びあるの?」
「あるよ。風が強い日は、すごく遠くまで行くの。
でも、ちょっとでも濡れてると、すぐ止まっちゃう」
しづが笑った。
「それ、うちの村でもやってた。柿じゃなくて、梅の種だったけど」
ツェペリが、少し懐かしそうに言った。
「俺の故郷では、ルーバ・バンディエラっていう遊びがあった。旗を真ん中に立てて、周りに子供たちが並ぶ。誰かが名前や番号を呼ぶと、呼ばれた二人が一斉に走って、旗を奪い合うんだ。
先に取った方が勝ち。……でも、勢い余って転ぶこともある」
一郎が目を輝かせた。
「おんなじだっ!日本でもやるよ!神社の境内で、兄ちゃんたちと旗を取り合って、転んだことある!」
マドカが吹き出した。
「それ、見たかったな」
ダイアーが、灯りの近くで言った。
「俺の故郷の遊びも紹介しよう。コレベという。目隠しをして、誰かを探す遊びだ。音を聞いて、風の動きを読む。……見えない方が、意外と周りの様子がわかることもある」
しづが頷いた。
「それ、日本にもある。“目隠し鬼”って呼んでた。
でも、風を読むなんて、聞いたことない」
一郎が笑った。
「僕、絶対ぶつかるやつだ!」
マドカが立ち上がった。
「じゃあ、やってみる?旗取り。庭、ちょうどいい広さだし」
ツェペリが目を細めた。
「名前で呼ぶのか?」
「うん。呼ばれたら、走る」
「やろうッ。俺、きっと強いぞ」
一郎がピョンピョン跳ねた。
しづが、手拭いを一本、棒に結んで持ってきた。
「これ、旗にしよう」
蒼一は、少し離れた柱の影から出てきた。
「……オレは、旗持ちをやる」
マドカが頷いた。
「じゃあ、蒼ちゃんが真ん中ね」
庭の竹が揺れた。
誰もが笑い、走り、転んだ。
一郎は、目をキラキラさせて喜んでいた。
夕暮れが谷を染める頃、三人は深い切り立った岩壁の間に足を踏み入れた。
狭い峡谷の一角、背後は絶壁、前方は緩い傾斜だけが逃げ道。
鱗滝が息を吐きながら言う。
「ここで受ける。背後を背にして逃げ場を切り捨てる」
寺島が頷きながら辺りを見回す。
転がる小石を小さな
ひなたは崖の足元にしゃがみ込み、袋を抱えたまま二人の動きを見つめた。
風が渓流の匂いを運び、山の冷気が肌を刺す。
彼女は小さく胸を打ちつける鼓動を感じながら、耳を澄ませた。左腕の痛みはこの数日で耐え切れないほどになっており、集中するのが酷く難しかった。
そして…
岩の裂け目から、三体の異形が現れた。
さらにその背後から、ゆらりと現れる
初めに現れた3体には、見覚えがあった。
「貴様らか…しつこいな…」
鱗滝が舌打ちをした。
中央の巨躯が笑いながら岩を砕く。
「
背は異様に高く、腕は太く、骨が浮き出ていた。
その隣、顔の皮膚が薄く透けた女が、喉を震わせる。
「
声を出すたび、首筋の血管が浮き上がる。
最後に、口元が裂けた男が、低く呻いた。
「……テル…………ダ……」
独村テル(ひとむら・てる)。その目は焦点が合っていなかった。
三体のうち、前に出たのは大木だった。
「じゃ、いっちょ暴れっかァ!」
岩を持ち上げ、鱗滝に向かって投げつける。
鱗滝が跳び、斬り払う。
「水の呼吸・弐ノ型──水車」
渦のように全身を回転させながら放つ斬撃が、岩を砕き、大木の肩を裂く。
「いってぇなァ……でも、まだまだァ!」
大木が突進する。
寺島がひなたを庇い、後方へ下がる。
鱗滝が再び踏み込み、斬撃を叩き込む。
大木の胸が裂け、笑い声が止まった。
「……次は、俺たちの番ね…力を合わせるダ…」
千秋が前に出る。
テルが低く呻く。
「……ガガガァアアッ!…………」
屍生人 三体が並び、同時に叫ぼうとする。
その瞬間──
「雷の呼吸・壱ノ型。
桑島が跳び、千秋の右腕を斬り落とす。
「水の呼吸・壱ノ型──水面斬り」
鱗滝の一撃が、大木の腰から下を断ち切る。
「うわァァァッ!?」
大木の上半身が地面に転がる。
桑島がすかさず、テルに斬撃を放つ。
「雷の呼吸・伍ノ型──
テルはよろめき、かろうじて下から打ち上げられた斬撃をかわす。
「あちッ………ムリ…ムリムリィィッ……」
言葉にならない声を漏らし、岩陰へ逃げ出す。
「ちょっとォ!置いてかないでよ!」
千秋が大木の上半身を担ぎ、後を追う。
「おいおい、俺まだ動けるってばァ!」
三体は岩の裂け目へと消えていった。
残されたのは、村人の屍生人たち。
服はそのまま、顔だけが崩れていた。
「……あの人……」
ひなたが呟いた。
その瞬間、一体の
寺島がすかさず前に出て、爪を弾き返す。
鱗滝が横から踏み込み、斬撃を叩き込む。
二人の動きは無駄がない。残った
静寂が戻る。 風が抜け、崖の奥で水音が響いていた。
ひなたは袋を抱えたまま、そっと息を吐いた。
崖の奥では、水の音だけが残っていた。
宿の広間には、春の夕光が差し込んでいた。 畳の上に膳が並び、湯気の立つ豆腐、焼き魚、漬け物が静かに香っていた。
マドカは、湯呑を手に取りながら、ツェペリの箸使いをじっと見ていた。
「それ、逆。豆腐が逃げるのは、箸が甘いから」
ツェペリが眉を上げる。
「甘い箸とは、初耳だ」
「力が入りすぎ。豆腐は、押すんじゃなくて、寄せるの」
一郎が得意げに箸を構えた。
「オッチャン、こうやるんだよ。ほら、豆腐、逃げないでしょ?」
ダイアーが小さく笑った。
「……食事の時だけ、妙に器用だな」
「食事は命だから!」
蒼一は、膳の端に座り、静かに湯を飲んでいた。 マドカが彼に目を向ける。
「蒼ちゃん、豆腐は強いよね?」
蒼一は少しだけ間を置いて、答えた。
「……ええ。崩れやすいけれど、芯がある。熱に耐えるし、冷たくても形を保つ」
一郎が首をかしげた。
「それって、豆腐の話?」
マドカが笑った。
「たぶん、蒼ちゃんの話でもある」
ツェペリが湯呑を持ち上げる。
「この国の食事は、面白いな。味もいいが、まず見た目だ。見た目の美しさが先に来る」
ダイアーが頷いた。
「トルコでも、チベットでも、食事は味と香りを楽しむもの。賑やかで、速い。……こことは違うな」
マドカが、膳の中央に箸を置いた。
「今日はいろいろあったけど、誰も酷いケガをしなかったし、誰も泣かなかった。それだけで、十分いい日じゃない?……なんか、こういう夜って、嬉しいかも」
彼女は湯呑を見つめたまま、しばらく黙っていた。その後で、思い出しちゃうな…と、ぽつりと言った。
「弟がいたのよ。大好きだった。静かな子。あんまり喋らないけど、私が怒ると、そばに来て黙って座ってた。それだけで、ちょっと嬉しくなった。
……私があの子を守ってるつもりだったけど、あの子、私の顔ばっかり見てた。
泣きそうな時も、怒ってる時も。
……なんか、今思うと、あの子の方が、私のこと気にしてたのかも」
「弟が、いた?」
「そう…少し前にね、ウチの一族の持病みたいなやつで、死んじゃったよ…」
しづは、湯を注ぎながら、少しだけ間を置いて言った。
「マドカは、強い子よ。でも、強い子ほど、誰かを守ろうとして、そのぶん、自分の痛みを誰にも見せなくなる。
……弟さんのこと、ずっと心にあるんだね。それを話せたのは、マドカが優しいからよ。ちゃんと、覚えてるってことだから」
マドカは何も言わず、湯呑を両手で包んだまま、目を伏せていた。
しづは天井をぼうっと眺め、ふぅっ…と息を吐いた。
その沈黙の中で、蒼一が湯呑を持ち直した。
「……痛っ」
顔をゆがめる。左手の傷から、血が滲んでいた。
マドカがちらりと目を向ける。
「ツェペリさんに、波紋、使ってもらえばよかったのに」
蒼一は苦笑して、短く答えた。
「いや、いい。直してもらわなくて」
一郎が首をかしげる。
「なんで?」
「忘れないようにだ」
「…忘れられないことは、誰にでもある」
ツェペリが、独り言のように言った。
しづは、日本語に訳さなかった。
その夜は、静かに、でも確かに、温かく終わった。
翌朝、ツェペリとダイアーは、血相を変えたしづに叩き起こされた。
夜が更けていた。
星が、手の届きそうなほど近くに見えた。
峡谷を抜けた三人は、海岸線を歩いていた。
人里は遠く、潮の匂いだけが風に混じっていた。
漁村の船着場は静かだった。
木製の渡し舟が二隻、波に揺れていた。
片方は貨物船。もう片方は、客と簡易車両を載せる旅客舟。
船板がきしむたび、潮風がひびいた。
寺島が船頭に声をかける。
「函館行きはどちらですか」
船頭は一瞬、荷物満載の貨物船を指しかけたが、やがて小型の方を示した。
「一晩中動いてるのはこっちだけだ…津軽海峡をぬけるにゃ、ちょっと小っちゃく見えるかもしれねがぁ……でぇじょうぶ。オラの腕、信じろ」
「もちろんです。3人、函館まで連れて行ってほしい」
船頭はうなづき、早く乗れと、3人を促した。
ひなたは袋を抱え直した。
左腕の痛みは少し収まっていた。だが、じんとした嫌な感覚の痺れが残っていた。
袖の内側が湿っている。
(……まだ熱がある。でも、こんな怪我がなんだ)
裂けた傷は浅い。問題ないハズなのだ。
誰にも言わず、袖を戻した。
鱗滝が頷いた。
寺島が小さく笑う。
ひなたは二人の顔を見て、何も言わずに船へ向かった。
(マドカ。私、ここまで来たよ。今行くよ…)
遠ざかる陸地。
波間に揺られながら、三人は函館の灯りを目指した。