鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部)   作:ヨマザル

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襲撃

 朝──

 小窓から差し込む光が、鉛色に沈んだ廊下を薄く描いていた。

 空気は冷え、畳の目が静かに浮いていた。

 襖がギィと軋む。

 

 しづが駆け込んできた。

 息は切れていた。肩で荒い呼吸を刻んでいる。

 

「……なんじゃぁ、しづ殿、紳士の寝室に……」

 ツェペリは、しづの顔を見て、口にしかけた軽口を飲み込んだ。

 しづの眼は、真っ赤に充血していた。血の気のない肌。震える唇。

 手には、乱暴に丸められた草紙。

「……これを」

 声は震えていた。

 紙を差し出す細い手。

 ツェペリが黙って受け取り、首を振る。

「……日本語はまだ読めぬ……」

 しづは、震える唇を開いた。

「一郎が……今朝、裏路地で……」

 言葉がつまる。

「死んでいたの。異形の爪痕が……」

「馬鹿な……」

 ツェペリの掌から、血の温もりが引いていった。

 視界の端が滲む。

 ダイアーは目を逸らした。

 床の畳目をじっと見つめる。

 肩先が、小刻みに震えていた。

 しづの嗚咽だけが、冷たい空気を揺らしていた。

 廊下の向こうで、鳥が一声、飛び立った。

「一郎が……ばかな、昨晩はあんなに元気に……楽しそうに……」

 ツェペリの声は、喉の奥で引き裂かれたまま。

 言葉にならなかった。

 短い沈黙。

 

 襖の外から、重い足音。

 格子の向こうに、役人の影が揺れていた。

「異邦の方々か。話を聞かせてもらおう」

 冷たい声だった。

 朝の静寂が、再び硬く閉じられた。

 

◆◆

 

 函館・五稜郭──午前

 

 石畳の道を、ツェペリとダイアーは歩かされていた。

 両脇に役人。前後に足音。

 通りの人々は目を逸らしていた。

 五稜郭が見えてきた。

 星形の輪郭が、空に浮かんでいた。

 石造りの壁。幾何学的な角度。

 門をくぐる。

 松の枝が木陰を作る。風が止まる。

 中庭には、兵がいた。訓練の声。木刀の音。

 二人が通り過ぎると、訓練の手を止め、皆が睨みつけた。

 

 取り調べ室は、以前と同じだった。

 木机。硯。壁に掛けられた地図。

 通詞がいた。

 若い男。

 前回も顔を合わせていた。

「また来ましたね」

 丁寧な口調。声は同じだった。だが、声が固い。

 ツェペリは、椅子に座った。

 ダイアーは、立ったままだった。

「昨夜、裏路地で子供が死にました。あなた方が関係していると、町の者が言っています」

 ツェペリは、目を伏せた。

「……違う。俺たちは、関係ない」

 通詞が訳す。

 役人が筆を走らせる。

「前回は、騒ぎだけでした。今回は、死者が出ています」

 ダイアーが口を開いた。

「俺たちは、町の仲間と事件を追っている。だが、あの子には……」

 

 役人は、通詞を介して質問を続けた。二人の名や職業、日本への訪問目的、宿、これまでにどこに行ったか、誰と話したか等を尋ね、帳面に書きつけた。

 そして、何故子供を殺したのか 尋ねた。

 二人が否定する。役人は続けて、なぜ函館の街に何日もいるのか、裏町をうろつている理由は何か、滞在中不審な男達を見かけなかったか…等を質問した。

 そして再び、なぜ子供を殺したのか。と尋ね、もう一度同じ質問を繰り返した。

 5,6回は同じ質問を繰り返したところで、役人は筆を止めた。

「しばらく、ここで待ってもらいます」

 通詞の言葉に、ツェペリが顔を上げた。

「わしらは、まだ疑われておるのか?」

 通詞は答えなかった。ただ、目を逸らし、うなづいた。

 廊下を抜け、階段を下りる。

 空気が湿っていた。板壁に、苔が張りついていた。その一室に、ツェペリとダイアーは押し込まれた。

 牢は狭かった。鉄格子。土の床。小窓から、光が一本だけ差していた。

「……おって沙汰があるまで、ここに居よ」

「まて、大使館は知っておるのか?」

「すでに使者を走らせておる。だが簡単に出られると思うなよ」

 役人はそう言い捨てると、通詞をつれて、早々に立ち去った。

 

 ツェペリは、壁に背を預けた。

 ダイアーは、床に座った。

「……困った事じゃのう……」

 ツェペリが言った。

「……何をのんきな……俺たち、ハラきりの刑になるかもしれんぞ」

 ダイアーが答えた。そして、腹立ちまぎれに鉄格子を殴りつけた。

「だが、クソっ誰が一郎を……」

「あんなにいい子を……許せぬ……」

 外では、風が動いていた。

 だが、ここには届かなかった。

 

◆◆

 

 函館の北西──港に近い倉庫街の裏手。

 最初に聞こえたのは、木箱が砕ける音だった。次に、屋根瓦が滑り落ちる音。そのあと、何十もの足音が、石畳を叩くように響いた。夜の倉庫街が、突如として騒音に包まれた。

 

「……なんだ?」

 夜番の男が提灯を掲げた瞬間、風が吹き抜けた。いや、風ではない。群れだった。

 木箱が砕け、屋根瓦が滑り落ちる。

 

 その隙間を縫うように、異形の群れが駆けていた。倉庫の屋根を踏み抜き、長屋の壁を裂き、悲鳴を上げる者を振り払うように、一直線に進んでいた。

「……ドゥ……ドゥゥ……」

「ギィ……ギギギ……」

 喉の奥で泡立つような、意味を持たない声。

 耳に残る。耳障りな音。

 人間の声帯では出せない、湿ったうなり。

 

「止まれ! 誰だ!」

 侍の叫びがむなしく響く。

 返事はない。逃げ惑う町人も、叫ぶ侍も、目に入っていない。

 群れは、邪魔するものだけを弾き飛ばす。

 犬が吠え、馬が暴れ、提灯が次々に吹き飛ぶ。

 火の粉が舞い、屋根が軋み、函館の街が、音を立てて崩れていく。

 群れは一直線に進む。ただ、五稜郭へ。

 壁を裂き、土埃を巻き上げながら、外堀へと到達する。外堀が見えた瞬間、群れは速度を上げた。

 

「止めろ! 撃て!」

 見張り櫓から火縄銃の閃光が走る。

 砲手が叫び、侍が槍を構える。

 

 ドンッ! ドンッ! 

 

 火薬の音が夜を裂く。

 だが、群れは止まらない。

「ギ……ギャ……ギャアア……」

 一体が水面を蹴り、石垣を爪で裂く。

 鉄門が軋み、槍がへし折られる。

 

「なんだ……こいつら……」

 砲手の声が震える。

 門が砕け、白壁が裂ける。

 瓦が落ち、火薬庫の屋根が揺れる。

 

 外堀を越えた異形の群れは、白壁の下で一瞬だけ動きを止めた。

 その姿は、かろうじて人の形をしていた。

 だが、皮膚は裂け、筋肉がむき出しになっている。 腕は左右非対称に肥大し、片方は百足のように節くれ立っていた。 顔は笑っていた。

 だが、口の端が耳元まで裂け、歯列が二重に並んでいた。

「ギ……ギャ……ギャアア……」

 声は、笑いとも呻きともつかない。 その瞳だけが、赤く、濁っていなかった。

 一体が壁を蹴り、詰所の屋根へと跳び上がる。 瓦が砕け、火の粉が舞う。

 その瞬間、五稜郭は地獄へと変貌した。

 

◆◆

 

 仮牢の中は、石と木だけで構成された簡素な空間だった。格子窓から差し込む光は、すでに赤みを帯びている。

 遠くで鐘が鳴った。

 何かが壊れる音と、悲鳴が聞こえた。

 ツェペリは壁にもたれ、目を閉じていた。ダイアーは腕を組み、足音に耳を澄ませている。

 

「……来るな」

 ダイアーが低く呟いた。

 ほぼ同時に、廊下を走り、複数の男達が近づいてくるのが見えた。

「……よお……助けに来てやったぜ」

 顔見知りの男が顔を出した。鷲津だ。

 仮牢の前。 鷲津は格子を見下ろす。

「起きているな」

 

 ツェペリは壁にもたれたまま、目を開ける。ダイアーはすでに立ち上がっていた。

 鷲津は鍵を差し込み、格子を開ける。

「時間がない。外は騒しいが、脱獄すれば流石にばれる」

「牢番たちは?」

「処理済みだ」

 鷲津は微かに笑った。その笑みは、表面だけだ。

 

 格子を抜け、廊下へ。

 ツェペリはまず、廊下の匂いに気づいた。

 鉄と血。

 墨と火薬。

 そして、死。

 ダイアーが、一歩踏み出す。

 足元に、倒れた牢番の死体。

 喉元に深く刃が入り、目は見開いたまま乾いていた。

「処理とは、こういう事か…………やったな」

 ツェペリが低く言う。

 さらに進むと、帳簿の前に座ったままの役人。

 背中から血が流れ、墨が滲んだ紙が机に貼りついている。

 

「ううっ……」

 通詞の青年だ。壁際で震えていた。

 顔は青ざめ、手は縛られていない。

 鷲津が振り返る。

「通訳は必要だ。殺していない」

 青年はツェペリと目を合わせ、かすかに頷いた。

「……協力します……ですから、命だけは……」

 ツェペリは通詞を見つめ、うなづく。

「安心するのだ。君を傷つけさせはしない」

 ダイアーが続ける。

「鷲津よ……この所業、我らは承知せぬ。だが後で話そう。今は、外だ」

 鷲津は無言で頷き、黒羽織の裾を翻す。そのまま、官舎の奥へと歩き出す。

 

 官舎の裏口。マドカが立っていた。

 

 月明かりが、彼女の片目だけを照らしている。

 着物の裾が風に揺れ、腰の短刀がわずかに光る。

 頭には、いつも通り、面を引っかけている。能面とも違う、奇妙な面だ。

 だが、いつもとは少し違って見えた。口元がわずかに開き、頬のあたりに音符のような彫り込みが見え、少し赤く色づいている。

 それが、髪の間から半分だけ覗いていた。

 

 彼女の周りには、隊士たちが控えていた。先日怪我をした榊蒼一も、元気に控えていた。

「良かった……ちゃんと助けられたんだね。見張りは片付けといたよ。今なら抜けられる」

「良し。計画通りだな」

 鷲津が満足そうに言った。

「でも、外は酷いことになっているよ……」

「先日、俺たちを襲ったのと似たような奴らが、ここにも来ました」

 マドカの言葉に、榊が付け加えた。

 

「承知の事だ。出るぞ」

 鷲津の言葉に、マドカはうなずいた。

 それから、ためらった末にツェペリの手にそっと、手を触れた。

「一郎の……イチの事は聞いたよ……昨晩はあんなに元気で、楽しそうだったのに……」

「……残念だった……」

「イチも、このままじゃ浮かばれないよね……せめて仇を……」

「マドカよ、思いつめるな。一郎が、かたき討ちを望んでいるかはわからんぞ……」

 なぜか、隣で榊蒼一が鼻を鳴らしたような気がした。

 マドカが、扉を開けた。

 

♦♦

 

 五稜郭・官舎裏口──

 扉を抜けた先、そこはまさに地獄絵図であった。

 瓦が割れていた。

 焦げ跡が残り、端はまだ熱を帯びている。

 白壁には、泥と血が混じった飛沫が乾きかけていた。

 詰所の窓は割れ、その隙間から、血が流れ出ている。

 ツェペリは足を止めた。

 ダイアーが瓦礫の隙間に目を凝らす。

 異形の腕が、石垣に引っかかっていた。

 爪が五本。節が七つ。皮膚は裂け、骨が露出している。

 焼け焦げた痕が、腕の付け根に残っていた。

 焦げた瓦の匂い。

 血の混じった泥。

 獣とも人ともつかない、焼けた臭気。

「……火薬か。よくここまで焼いたな」

 ダイアーが低く呟く。

 

 だが、倒された異形は、それほど多くない様だった。

 裏口のある角を曲がり、石垣で囲われた空間──曲輪(くるわ)にでた。

 そこではまだ、激しい戦闘が続いていた。

 

「ギ……ギャ……ギャアア……」

 

「ぐぉおお!踏ん張れッ」

「うわぁああッ」

「痛いッ…母上ッたす…」

 

「ギュワアアアアッッ!」

 

 五稜郭に詰める侍たちは、必死に戦っていた。

 しかし、異形の怪物たちは、侍を簡単に薙ぎ倒し、殺し、喰らっていた。

 

 鷲津が振り返る。

「よし、この隙に逃げるぞ」

 隊士たちが無言で頷き、マドカも躊躇しながら一歩踏み出す。

 

 だが、ツェペリとダイアーは動かなかった。

「……逃げる?」

 ツェペリが静かに言う。

「なぜだ」

 ダイアーが続ける。

 

 鷲津は足を止め、振り返る。

「新政府の奴らが死のうが生きようが、俺たちの知った事か」

 

 その瞬間、遠くの瓦礫が崩れた。

「ギィ……ギャアア……」

 異形の一体が、火薬庫の影から跳び出す。 腕が節くれ立ち、爪が石を裂く。 白壁を蹴り、詰所の屋根へ。

「来るぞ」

 ダイアーが言う。

 ツェペリは一歩前へ。

 足音はない。

 

 ズッ……

 

 異形が屋根から跳び、槍を持った兵士の目の前に降りる。

 その瞬間、ツェペリの掌が動いた。 指先が風を裂き、袖が一瞬だけ膨らむ。

 

 パシュッ!

 

 異形の胸元に、ツェペリの手刀が突きつけられる。

 指先が胸元にそっと触れただけ。

 だがその接点の少し奥で、何かが小さく爆ぜた。

 

「ガァアアァツ」

 異形の体が膨れ、蒸発する。

 

「チッ」

 鷲津は舌打ちし、少し後ろに下がった。

「あ……あああっ」

 九死に一生を得た兵士が安堵し、逃げ出した。腰をついた格好のままだ。

 

 その時、詰所の屋根がさらに崩れた。

 再び、異形の者達が姿を現す。

 節くれだった腕、裂けた口、歪んだ瞳。

 その顔が、こちらを見た。

「……マド…………アア……」

 声が漏れる。

 言葉ではない。

「……くう…くぅ…マド……」

 節くれだった腕を振り、兵士の死体を蹴り飛ばす。

 その動きは、速い。重い。

 だが、直線的だ

 

 ツェペリは眉を寄せた。

「…本能のままに暴れているようだな…」

 ダイアーは目を細める。

「たしかに、隙だらけだな。間合いをつめ、懐を狙うか…」

「了解」

 

 ダイアーが地面に落ちていた刀を拾う。

「侍の武器か、良く斬れそうだな。試してみるか……」

 

 異形が跳ぶ。

 爪が石を裂き、瓦礫が飛ぶ。

 

「コォオオォォ…… ふんッ!」

 ダイアーが斬りかかる。

 刃が異形に触れた。

 瞬間、刃から波紋が弾ける。

「!?……ッ」

 刃が弾かれた。

 異形も、後方に弾き飛ばされる。

「何だこれは? 全く斬れん」

 ダイアーは、刀を捨てる。

 

「遊ぶな、ダイアー」

 ツェペリが前へ出る。

 掌を構え、指先をわずかに開く。

 コォオオォォ――――

 

 異形が突進する。

 その動きは速い。

 だが、直線的。

 ツェペリが左へ跳び、

 ダイアーが右へ回る。

「今だッ」

 ツェペリの掌が閃く。

 指先が異形の胸元に触れる。

 波紋が走る。

 

パシュ!

 

 肉が裂け、骨が砕ける。

 異形が崩れる。

 

 次の一体が、詰所の窓から這い出る。

 腕が二本、脚が三本。

 顔は裂け、歯列が二重に並ぶ。

「……ナマ……ナマ……ナマ……」

 ダイアーが踏み込む。

 掌打ッ

 

 鷲津が眉をひそめる。

「……やれやれだな」

 榊が、マドカに目配せする。

 マドカは答えず、面の位置を少し直した。

 ツェペリとダイアーは、再び前を向く。

 背後の鷲津たちには、一顧もしない。

 

♦♦

 

 さらに、異形が群れを成して現れた。

 屋根の上、瓦礫の隙間、詰所の影──

 節くれだった腕、裂けた口、歪んだ瞳。肉を求めて這い寄る。

 

「追い払うぞッ」

 侍大将が吠える。

 だが侍たちは後退していく。

 槍を構えるが、震えている。

 火縄銃の火皿が湿り、火がつかない。

 

 ツェペリが掌を構える。

「来るぞ」

 ダイアーが並ぶ。

「数は多いが、動きは粗い」

 異形が跳ぶ。

 ツェペリが左へ跳び、掌打。

 波紋が走る。

 

 パシュ

 

 胸元が裂け、異形が崩れる。

 顎が砕け、首が折れる。

 

 侍たちが見ている。

 動けない。

 

 ツェペリとダイアーが、猛攻をかける。

 異形が次々に崩れる。

 掌打、指突、回し蹴り、連携。

 波紋が肉を裂き、骨を砕く。

 最後の一体が、詰所の影から這い出る。

 

 ダイアーが踏み込む。

 ツェペリが並ぶ。

「終わりだ」

 二人の掌が同時に閃く。

 波紋が交差し、異形が爆ぜる。

 ズバッ

 

 最後の異形が倒れた。

 侍たちが、ゆっくりと歩み寄る。

 顔には、恐怖と敬意。

 ツェペリとダイアーは、ゆっくりと構えを解いた。

 

 鷲津がそれを見て、肩をすくめる。

「……お人好しが……新政府軍のくず共を助けやがって」

 マドカは面を直しながら、黙ってその背を見ていた。

 

♦♦

 

 異形の残骸が地面に散らばっていた。

 肉は裂け、骨は砕け、血は乾き始めている。

 侍たちが、ゆっくりと歩み寄る。

 顔には、恐怖と敬意が浮かんでいる──ように見えた。

 

 一人の侍が、ツェペリの前に立つ。

 口を開く。

「脱走兵だッ!」

 声が、夜に響いた。

「この混乱を機に、牢を破って逃げたぞッ!」

「官舎を襲撃したのは、こいつらだッ!」

 ツェペリが目を見開く。

 ダイアーが一歩、足を止める。

「……我らが、貴殿らを守ったのだが」

 ツェペリの声は低い。

 侍たちは聞かない。

 槍を構え、距離を詰める。

 足取りは不安定。

 腰は引けている。

 だが、包囲の形は取っている。

 ツェペリとダイアーは、互いに目を合わせる。

 どうするべきか……

 

 その様子を、マドカが見ていた。

 無言で、面を持ち上げる。

 額に当て、紐を引く。

 面が顔を覆い、視線が隠れる。

 鷲津が肩をすくめる。

 隊士の一人が鼻で笑う。

 もう一人は、槍の柄を地面に突いていた。

 侍たちは、震えながらも包囲を狭めていく。

 ツェペリとダイアーは、まだ動かない。

 侍たちが、へっぴり腰で包囲を狭めていた。

 

 その時──

 詰所の影から、異形が跳び出した。焼け焦げた皮膚、裂けた口、歪んだ瞳。まだ生きていた。

 いや、死に損なっていた。

「ギャァアアアッ!」食ってやるぅうううう!」

 三体が、侍の背後から襲いかかる。

 

 槍を持った侍が叫ぶ。

「うわッ、うわああああッ!」

 包囲が崩れる。

 

 ツェペリとダイアーが動こうとした、その瞬間──

 

 マドカが、面をかぶった。

 香りが、広がった。

 甘く、焦げたような匂い。

 

 その匂いを嗅いだ者は、動きを止めた。

 異形も、動かない。

 

 最初に反応したのは、新選組の隊士たちだった。

 眉が緩み、肩の力が抜ける。

 

 鷲津は、マドカの背後に一歩下がり、

 面をつけたままの彼女に、恭しく頭を垂れた。

 隊士たちも、槍を下げ、マドカの周囲に控える。

 誰も言葉を発さない。

 ただ、香りの中心に立つ者を守るように動く。

 

 次に、異形がわずかに動いた。

 裂けた口が閉じ、瞳が揺れる。膝をつく。

「……マ…マ…?」

 その声は、幼児のようだった。

 だが、爪はまだ濡れていた。

 

 侍たちが、槍を落とす。

 一人が膝をつき、泣き出す。

「……母上……」

 もう一人は笑いながら、瓦礫を拾って頬に当てる。

「……これが、これが……」

 香りが、さらに広がる。

 

「これは、どういうことだ?」

「まさか…マドカが何かやったというのか?」

 ツェペリが眉をひそめる。

 ダイアーが掌を構える。

 

 だが、次の瞬間──

 ツェペリの指が震えた。

 掌が開ききらない。

 目が泳ぐ。

「……これは……いや、これは……」

 言葉が、まとまらない。

 

 記憶が混ざる。

 視界がぼやける。

 過去の情景が、浮かんでくる。

 兄弟の声。

 雪の夜。

 航海。

 父……威厳ある冒険家の父。いつも、博物学者の親友と一緒だった。

 石仮面をかぶった、血に飢えた父……

 親友の彼も、その手にかけたのだろうか……

「なんだ、これは…」

 ツェペリの視界が、真っ赤に染まりだす……

 

 その隣で、ダイアーが一歩踏み出す。

 顔が怒りに歪む。足元が定まらない。

 ブツブツと、小さい声で呟いている。

「……許せんッ……いや、違う……違う……師が言っていた……俺は『強大な敵との戦いの果てに死ぬ』……そのために生きている……強敵に挑む……」

 そう言いながら、頭をかきむしる。

 

 マドカは、面をつけたまま立ち止まった。

 皆の中心に立ち、両手を広げた。

『みんな。思い出そう! 将軍様が薩長の田舎侍共に城を明け渡した、あの屈辱をッ』

 

 皆の脳裏に、その呼びかけが直接響く。

 

 鷲津は吠えた。

「マドカの言うとおりだ。今こそ仇を撃つぞッ!」

 隊士たちも、マドカの周囲に控えている。

『侍を殺そう! 奴らは許せないッ』

 榊が、ニヤリと笑みを浮かべた。

 

 ツェペリは動けない。

 掌は震えている。

「……彼らは……誤解して……いや、違う……」

 言葉が、歪む。

 抵抗はある。

 だが、言葉にならない。

 

 侍たちは泣き、笑い、叫んでいる。

 異形は、瓦礫を抱えて震えている。

 

 ダイアーが、ツェペリの肩に手を置く。

 指が、ツェペリの肩に食い込む。

 

 マドカは、面の奥で視線を動かした。

 苦しむツェペリとダイアーを見つける。

「あらら……頑張るのね……」

 声色はマドカの物。だが、見知らぬ他人の声に聞こえた。

 

♦♦

 

 五稜郭・官舎裏──

 

 香りは、まだ広がっていた。

 焦げた甘さが、記憶を揺らす。

 

 侍たちは泣き、笑い、叫んでいる。

 異形は、瓦礫を抱えて震えている。

 ダイアーが、しゃがみ込んだ。

 掌は地面に触れている。

 だが、力が入らない。

 

「……兄上……」

 声は、誰に向けたものでもなかった。

 目は開いているが、焦点は定まらない。

 ツェペリは、立っていた。

 だが、肩が震えている。

 拳が、わずかに握られていた。

 

 目の前には、通詞がいた。

 今は、膝をついている。

 顔は涙で濡れていた。

「……母上……父上……」

 

 ツェペリは、一歩、近づいた。

 拳が、さらに握られる。

 掌の中で、波紋がわずかに走る。

「……許せん……した……」

 声が、歪んでいた。

 怒りと悲しみが混ざっていた。

 もう一歩、近づく。

 

 通詞は顔を上げない。

 

 ツェペリの拳が、肩の高さまで上がる。

「……許せぬ……殺してやる…………」

 ツェペリは、拳を構えたまま、動かない。

 目は、通詞を見ていた。

 だが、焦点は揺れていた。

 

 コォオオオォオー

 

 波紋の呼吸ッ!

 

 深く息を吸い込んだツェペリの目が、焦点を取り戻す。

「……いや……だが……」

 拳が、下がった。

「……だがそこには理が無い」

 

 通詞は、顔を上げた。

 

 マドカは、面の奥で視線を動かした。

 香りは、まだ揺れていた。

「……感心した。でも、ここまで見たいだね…」

 

 鷲津は、マドカの背後で頭を垂れたまま動かない。

 ツェペリは、拳を下げたまま、通詞の前に立っていた。

 ダイアーは、まだしゃがみ込んでいた。

 隊士たちが、ツェペリとダイアーを抱え上げた。

 二人は、ピクリとも動かなかった。

 

────────────

 

 函館港・岸壁──

 

 渡し船が岸に触れた。

 木の船底が石に擦れ、鈍い音を立てる。

 ひなたは、先に立っていた。

 海風が髪を揺らす。

 潮の匂い。

 だが、冷たい。

 鱗滝が無言で船を降りる。

 寺島が荷を背負い、後に続く。

 港は、騒がしかった。

 叫び声が、風に乗って届いてくる。

 男の怒鳴り声。

 女の悲鳴。

 子供の泣き声。

 街灯の下を、数人が走り抜けていく。

 荷を抱えたまま、振り返らずに。

 一人は転び、立ち上がれない。

 

「……何が起きてる?」

 桑島が言う。

 ひなたは、街の方角を見ていた。

 灯りが揺れている。

 火が走っている。

「行こう」

 

 三人は、港を離れ、城下へ向かって走り出す。

 石畳を踏む音が、夜に響く。

 街に入ると、混乱はさらに濃くなっていた。

 人が走っている。

 誰かを呼びながら。

 だが、誰も立ち止まらない。

 一軒の店が燃えていた。

 火はまだ小さい。

 だが、煙が路地に流れている。

 負傷者がいた。

 肩を押さえ、壁に寄りかかっている。

 顔は血で濡れていた。

 地面には、荷物が散らばっている。

 米袋、薬箱、子供の草履。

 

 桑島が足を止める。

「……これは、戦場だ」

 鱗滝は答えない。

 ただ、前を見ていた。

 ひなたは、走りながら見ていた。

 この街は、襲われている。

 誰が、何を、なぜ──

 

♦♦

 

 函館城下・南通り──

 

 火の粉が、夜風に舞っていた。叫び声が遠ざかり、刃の音が近づく。

 桑島が駆け巡る。

 鱗滝が一撃を放つ。

 敵は、異常な動きで応じていた。

 これまでひなた達を襲ってきた屍生人(ゾンビ)と似ているようで、違う敵だった。だが、鬼でもなかった。

 

 ひなたは、動けなくなっていた。

 足は地面にある。だが、力が入らない。

 腕が熱い。 袖の内側が、じっとりと濡れていた。

(……汗じゃない)

 そう思った。だが、確かめるのが怖かった。

 視界が、少しだけ揺れていた。

 音が遠くなったり、急に近づいたりする。

 誰かの声が聞こえた気がした。 だが、誰もいなかった。

 指先が痺れていた。袋を抱える手が、わずかに震えていた。

 焦点が合わなかった。

 

 寺島の動きが、少し遅れて見えた。

 鱗滝の刃が、空を裂いた瞬間も── 何が起きているのか、すぐにはわからなかった。

(……見えてるのに、見えてない)

 目の前で、戦いが起きている。 だが、手は震えていた。

「……何もできない」

 声にはならなかった。

 寺島が叫ぶ。 鱗滝が跳ぶ。

 敵が崩れる。 だが、また立ち上がる。

 

 ひなたは、見ていた。

 それだけだった。

「怖い」

 それは、事実だった。否定できなかった。

「役に立たない」

 それも、事実だった。誰にも責められていない。だが、自分で自分を責めていた。

 

 その時──

 瓦礫の向こうから、三人が現れた。

 異形。

 だが、見覚えがあった。

 中央に立つのは、口元が裂けた男。

「……居なかったッ! あのお方は……ヴェルミリオ様は居ねぇッ! 出ていったッ。モスキーノ様もだぁぁあああッ! 報告しようとしたのにぃィいイイ」

 ブツブツと、言葉が漏れ続けていた。

 

 その背後に、顔の皮膚が薄い女。

 喉が震え、血管が浮き出る。

 悲鳴を上げていた。

 

 最後に、背の高い男。

 骨格が肥大し、笑いながら瓦礫を持ち上げる。

 

 テルは、屋根から飛び降りた。着地の音が、石畳に響く。

「ここで……決着……せめて、貴様らを血祭りにぃぃいいいいいいいっ!」

 

「……来るぞ」

 寺島が低く言った。

 

「喰らえ! わたぁしぃぃの音をっ、愚憐魔怨(グリーン・マン)ッ!」

 女が絶叫する。

 高音が、鼓膜を破る。

 寺島がよろめく。

 ひなたが耳を塞ぐ。

 

 鱗滝が跳ぶ。

 陸ノ型——ねじれ渦

 ねじれから生む衝撃波が、女の口を強引に閉ざす。

 

 破亜我(パワー)──

 大木が笑いながら、瓦礫を投げる。

 

 地面が砕け、寺島が跳ぶ。

 参ノ型——聚蚊成雷(しゅうぶんせいらい)

 大木の周囲を回りながら、連撃を放つ。

 だが、大木は止まらない。

 

 鱗滝が背後から斬る。

 刃が背骨を裂く。

 大木が崩れた。

 

「……烈怒天愚流(レッド・エンジェル)ども、突っ込む……ダ……」

 後方にいるテルが、配下の屍生人達に怒鳴りつけた。

 屍生人達が、雄たけびを上げる。

 

 その瞬間、寺島が踏み込む。

 肆ノ型——遠雷(えんらい)

 4連撃。

 テルの両膝、右肩、左手首……そして首を斬り飛ばす。

 

 テルが倒れる。

 口元が震えていた。

「オ・オレ……ダ……ニィ……モスキーノ……さ……ま……たす……」

 

 ひなたは、ただ見ていた。

 怖かった。

 動けなかった。

 何もできなかった。

 だが、目は逸らさなかった。

 

 鱗滝が刃を収める。

 寺島が息を整える。

 火の粉が、夜風に舞っていた。

 

 三人の屍生人(ゾンビ)は、倒れていた。

 中央に、口元が裂けた男。

 その隣に、喉を焼かれた女。

 最後に、背骨を砕かれた巨躯の男。

 誰も動かない。

 誰も、声を出さない。

 

 ひなたは、見ていた。

 その姿。

 その静けさ。

 

 そして──

 肉が崩れた。

 音はなかった。

 皮膚が乾き、骨が沈み、形が消えた。

 煙のように。

 熱のように。

 匂いだけが、残った。

 

 寺島が一歩、後退する。

 鱗滝は、目を伏せた。

 ひなたは、まだ見ていた。

 

 それが、何だったのか。

 誰だったのか。

「……消えた」

 声は、誰のものでもなかった。

 ただ、空気の中にあった。

 地面には、何も残っていなかった。

 血も、肉も、衣も。

 ただ、熱だけが残っていた。

 

 ひなたは、胸の奥で何かが揺れていた。

 それは、ただ、空虚だった。

 

────────────

 

 函館城下・南通り──

 地面には、何も残っていなかった。 血も、肉も、衣も。ただ、熱だけが残っていた。

 走る鱗滝の背中を見ながら、ひなたは足を止めた。

 しゃがみ込んだ。

 疲労で膝が崩れたのではない。

 手が震えていた。 視界は揺れていた。

 病んだ左腕の熱が、全身を巡っている。

(イヤだ……怖すぎる。もう……無理だ)

 

 その時──

 足音が、近づいてきた。

 重くはない。地面が揺れる。

 懐かしい匂いが、鼻をついた気がした。

 ひなたが顔を上げる。

 黒羽織の、仮面をつけた少女が、立っていた。

 マドカだ。

 彼女の背後には、多くの人がいた。同じく黒羽織の侍たち、雑多な服を着た異形の人、それに、奇妙な格好の異人がいるのが見えた。

 だが、誰も声を出さなかった。黙って立ち止まり、マドカを見ている。

 

 マドカは、ひなたを見ていた。

 仮面の奥から、笑っているのがわかる。

 口元は見えない。

 だが、声が漏れていた。

「……ひなた……来てくれたんだね」

 その声は、柔らかかった。

 マドカの声色。

 だが、まるで赤の他人が、マドカの声真似をしているように聞こえる。

「やっと……会えたね……うれしい……」

 確かに笑っていた。

 

 だが……

 ひなたは、動けなかった。

 その声に、懐かしさを感じなかった。

 

 マドカは、ひなたを見下ろしていた。

「……ずっと、見ていたよ。あれ、返してね。私の分はほとんど全部使っちゃったから……」

 

 ひなたは、自分の喉が塞がっているのを感じた。

 声が出ない。

 不意に、左手が爆発したように感じた。

 左手はちゃんとある。

 だが、まるで熱した鉄に押し付けられたかのようだ。

 猛烈な痛み、熱。

 

 ひなたは絶叫を上げた。

 眼の隅に、鱗滝が刀を手に駆けよってくるのが見えた。

 

 マドカは、絶叫するひなたを笑ったまま見ていた。

 そして、背を向けた。

「……行こう」

 誰に言ったのかは、わからなかった。

 足音が、再び遠ざかっていった。

 

 ひなたは、まだ地面にいた。

 マドカのその笑みだけが、胸の奥に残っていた。

 左手の痛みは、急速に収まっていった。

 

────────────

 

 函館城下・北路──

 

「……なぜもっと早く言ってくれなかった」

 ひなたの左手の袖をめくり、鱗滝が言った。

 ひなたは答えなかった。答えられなかった。

 袖の下に現れた皮膚は、もう普通の傷ではなかった。

 腫れはなくなった。代わりに、焼け焦げたような、黒い水膨れのような皮膚が、左腕を覆っている。

 

 鱗滝は眉をひそめた。

「これは……鬼への変化ではない。だが、鬼の血を摂取した症状に近い……いや……」

 彼の声は低く、ひなたにではなく、自分に言い聞かせるようだった。

 

 ひなたは、ようやく口を開いた。

「……マドカが……“返して”って言った……」

「返す? 何をだ」

「……わからない……でも、あの声……マドカじゃないみたいだった……」

 風が、北路の石畳を吹き抜けた。 遠くで鐘の音が鳴った。

 鱗滝は懐から薬を取り出し、ひなたの左腕に塗り付けた。

 なにも、感じなかった。

 

「……ひなた、お前が苦しんでいる事に気が付かず、済まぬ……」

 鱗滝の顔を彩る隈取が、周囲の炎の照り返しを受けて、まるで泣いているように見えた。

「俺には、この傷は治療できぬ……だが鬼殺隊の医療班ならば、もしや……」

 

「連れていきますか?」

 隣にいた桑島に、鱗滝は首を振った。

「呼び寄せよう。文を、飛ばしてくれ」

「御意……」

 

 ひなたは、左手を見つめていた。

 その皮膚は、わずかに脈打っていた。

 まるで、何かが目覚めようとしているかのように。だが、どうでもよかった。今重要なのは、マドカだ。

 

 鱗滝は、静かに刀を鞘に収めた。

「行くぞ。仮面の少女を追う。あれはもう、お前の友達ではないかもしれん」

「……マドカは、私の親友です」

 ひなたは立ち上がった。

 

 夜はまだ終わっていなかった。火の粉は収まり、叫び声は遠ざかっていた。

 新政府の面々が、町の通りを走っていた。 負傷者の保護。 火元の封鎖。老人、子供の避難。

 

 鬼殺隊所属の鱗滝は、別の道を進んでいた。

 目的は一つ。情報屋に会うこと。

 情報屋の女性は、かつての仲間だった。

 今は、新政府と旧幕府軍の動向を探るべく、動いていたはずだ。接触できれば、次に打つべき手がわかるかもしれぬ。

 いや、やり手の彼女ならば、かならず、この事態について情報を持っているはずだ。

 

 寺島が後ろを守る。

 ひなたは、まだ言葉を発していなかった。

 

 情報屋が営む店の、近くまで来た。

 路地の奥で、声が聞こえた。泣き声。

 鱗滝が足を止める。

 寺島が警戒する。

「……しづ」

 店の前、灯りの下に、情報屋の女がいた。

 髪は乱れ、顔は濡れていた。

 声にならない嗚咽が、喉から漏れていた。

 

「しづ…どういうことだ?何があった?」

 

 鱗滝の問いは、しづの耳に入っていない様だった。

「……あの子が……あの子が……」

 しづは、地面に座り込んでいた。

 手には、短刀。だが、握り方が通常と違っていた。

 

 刃先は、胸元に向いていた。

 

 涙は止まらず、声が割れていた。

「……あの子が、笑ったの……」

「……私を、見てたの……」

 

 鱗滝が一歩、踏み出す。

 桑島が腰を落とす。

 ひなたは、少し遠くで立ち尽くしていた。

 

 その時──

 桑島が動いた。

 

 静かに、だが速く。

 しづの背に回り、腕を掴む。

 

 短刀が、地面に落ちた。

「……もういい」

 声は、低かった。

 だが、届いた。

 しづの肩が震えた。

 膝が崩れ、地面に座り込む。

「……でも……でも……」

 

 桑島は、しゃがんだ。

 目線を合わせた。

「泣いていい」

 それだけだった。

 

 しづは、顔を覆った。

 涙が、指の隙間からこぼれた。

 鱗滝が、静かに近づいた。

 桑島が、短刀を拾い、袖で拭った。

 

 ひなたは、まだ動けなかった。

 その場に近づけなかった。

 

 灯りの向こうから、足音が近づいた。

 二人の男。

 町の役人だった。

 一人が、鱗滝を見て、頭を下げた。

「……鬼殺隊、水柱の鱗滝様ですね」

 声は、震えていた。

 だが、敬意があった。

 鱗滝は、顔を上げた。

 夜風が、髪を揺らした。

「状況は、収束に向かっています」

 役人が言った。

 桑島は、しづの肩に手を置いたまま、うなずいた。

 ひなたは、地面を睨みつけていた。

 

────────────

 

 函館・西側の町屋──翌朝

 

 陽が、瓦屋根の端に触れていた。

 空気は冷たく、静かだった。

 夜の火の粉は消え、煙の匂いだけが残っていた。

 ひなたは、縁側に座っていた。落ち着かない気分で、足元を見ている。

 

 情報屋のしづが、隣に座っていた。

 ひなたの左手の傷をみていた。

 顔をこわばらせ、軟膏を手に取り、ひなたの肌に塗りこめている。

 

 軟膏は傷にしみたが、ひなたは努めて平気な顔をしようと努力した。

 あれだけ取り乱した後なのに、しづはとても美しい外見をしていた。隣にいて、少し気後れする。

 

 しづの髪はまだ乱れていたが、表情は少しだけ落ち着きを取り戻していた。

 目の下に、涙の跡が残っていた。

 しばらく、何も言わなかった。

 風が、庭の草を揺らしていた。

 

「……昔ね」

 包帯を巻きながら、しづが言った。

 

 ひなたは、顔を上げなかった。

 ただ、耳を傾けていた。

 

「息子がいたの。小さな子だった」

「よく笑う子でね。よく泣く子でもあった」

 声は、静かだった。

 だが、奥に何かが残っていた。

「病気で、あっという間だった」

「何もできなかった。何も、してあげられなかった」

 

 ひなたは、指先を握った。

 しづの声が、胸に刺さっていた。

 

「それからずっと、何かを探してた」

「何か、埋められるものを」

 風が、縁側を通り抜けた。

「マドカに会った時、あの子と同じ目をしてると、思ったの」

「違うって、わかってた。でも……」

 しづは、言葉を止めた。

 

 ひなたは、顔を上げた。勇気を出して、見知らぬ、悲しんでいる人を支えようとする。

「……それでも、見てしまったんですね」

 

 しづは、頷いた。

 涙は、もう出なかった。

「ごめんね。巻き込んで」

 

 ひなたは、首を振った。

「彼女は……ひなたは私の親友なんです。私の方こそ、ごめんなさい」

 少しだけ、二人の目が合った。

 朝の光が、縁側に差し込んでいた。

 それは、まだ冷たい光だった。

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