鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部) 作:ヨマザル
濃い霧が、長大な岩の割れ目から湧き上がっていた。割れ目の底は、霧で見えない。
下からは、激流が岩にぶつかる音が、響き渡っている。
頭上を見上げれば、切り立った岩がそびえ立っていた。
そして前方には、ゆったりとした奇妙な動きで岩場を舞う男がいた。友、ダイアーだ。
コォォォォ……
ダイアーの呼吸が、渓谷に響く。
と、ダイアーは軽くジャンプした。
待ち受けるツェペリに向かって、飛び込んだ。
ゆったりとした、軽やかな動き。
だが、ツェペリに接触する直前、動きの質が変わる。
ダイアーは、体をねじり……
目にもとまらぬ早い蹴りを放った。
その瞬間、ツェペリの掌が閃いた。
波紋が走る。
ダイアーの蹴りが弾かれ、吹き飛ぶ。
岩肌に足を取られそうになり、ダイアーは体勢を崩した。
「まだ甘い」
ツェペリの声は低く、苛立ちを隠そうともしなかった。
「その程度の緩急のかけ方では、俺の意表はつけないぞ、もっと工夫しろよ」
「……チッ……」
ダイアーは歯を食いしばり、再び構えを取る。
と、ツェペリの呼吸を読み、息を吐いた瞬間に突進する。
だが、ツェペリが地面に流した波紋の振動が、ダイアーの足元を乱す。
踏み込みの角度が、わずかに狂う。
「のぉおおおッ。何のこれしきッ」
三度目の交差で、ツェペリの掌がダイアーの胸元に触れた。
パシュ
波紋が走り、ダイアーの体が後方へ跳ねる。
岩に背を打ち、息が漏れた。
「……くそ」
ダイアーは拳を握ったまま、立ち上がらなかった。
波紋は力強く練れている。
だが、ダイアーの技が、ツェペリに届かない。
ツェペリは岩の上に立ち、眉をひそめた。
掌が熱い。
「ダイアー……もっと気合を入れてくれよ。これでは稽古にならん」
ツェペリは背を向け、岩場を降りた。
ダイアーは拳をほどき、静かに後を追った。
谷の下では、通詞が焚き火の準備をしていた。
鷲津がその傍らで腕を組み、二人の稽古を黙って見ていた。
「なんじゃ、見世物じゃないぞ」
ツェペリの言葉を、通詞がおずおずと訳した。
「いやスマン。大した腕前だな……と感心していただけだ。俺の態度が気に障ったのなら、許せ」
鷲津が頭を下げた。
野営地は、切り立った渓谷の中腹に残る、岩に囲まれた狭い広場だった。
霧が、野営跡を深い影ごと包み込んでいた。張り崩れた半張りのテントが、灰に埋もれかけている。枯れ枝が足元で軋む。その音が、谷の静寂を少しだけ乱した。
ツェペリは焚き火の残り火に腰を下ろし、掌を火面にかざした。
指先が朱く染まるのを、不機嫌に睨みつける。
(おかしい……奴らのやることなす事、すべて許せぬ……なのになぜ、彼らに強烈な好意を、感じるのだ? ……彼らを何とかして助けてやりたいと、強く、心から思うのだ……)
ダイアーはツェペリに背を向け、岩の上で座禅を組んだ。
目を閉じ、呼吸を整えようとする。だが、呼吸は乱れ、なかなか波紋が練れない。
鷲津が岩場を踏みしめて近づいてきた。
擦り切れた羽織の新選組別動隊の隊士たちが、そのあとに続く。鷲津は、ダイアーに声をかけた。
「アンタ、派手にやられたな」
「やられておらん。ただの組み手だ」
「そうか、アンタ、タフだな」
「だから、やられておらぬ……何なら貴様、試してみるか?」
「へぇ……」
鷲津の顔から笑みが消えた。
「異人さんよぉ……うちらの大将になにを絡んでるんじゃぁ」
鷲津の背後にいた隊士たちが、ダイアーを取り囲んだ。
先頭の男は、槍を肩に担ぎながら歩いていた。額に包帯、片目が腫れて開かない。
その隣の若い隊士は、羽織の袖を裂いたまま、血の乾いた手で柄を握っている。
後方の男は、草履を片方失い、裸足で岩を踏みしめていた。顔は無表情だが、呼吸が荒い。
皆、目つきが険しい。
武具に手をやり、いつでも抜ける構えを取る者。
刃をダイアーに突きつける者。
ダイアーは、舌打ちをした。
突きつけられた刃を、手刀で叩き落す。
霧の中で、槍の柄が岩を打った。
「何しやがるッ! 異人が偉そうにしてんじゃねえッ」
先頭の隊士が、ダイアーを睨みつける。
「偉そうに? 口だけは達者だな。貴様らが守れなかったものを、俺たちは命懸けで止めた」
ダイアーの声は低く、だが鋭かった。
「
若い隊士が一歩踏み出す。
「ああ? 口だけだぁ? 上等だよ。いじめちゃうぞぉ」
「試してみるか」
ダイアーが立ち上がる。
隊士たちは色めき立ち、腰の刀に手をかけた。
その瞬間──
「わぁおッ、みんな揃ってるね!」
マドカの声が、霧の中に弾けた。
岩場の上からひょいと、マドカが姿を現す。
皆の真ん中に飛び降りた。
そして、着物の裾を揺らしながら、ダイアーの背にぴたりと寄り添った。
「ダイアーさん、怖い顔しないで。そんな顔じゃみんな逃げちゃうよ」
「……こいつらが先に仕掛けた」
「うんうん、でも鷲津さんがちゃんと見てるから、大丈夫だよ。みんなホントは優しいよ」
マドカは鷲津の袖を軽く引いた。
「ねぇ、鷲津さん。隊のみんな、ちょっと疲れてイライラしているだけだよね?」
鷲津は一度だけ隊士たちを見回し、静かに答えた。
「……一旦引け」
隊士の一人が鼻を鳴らした。
「大将と姫さんに言われちゃ、引くしかねえな」
「異人さんよぉ。おめー結構度胸あるな」
「ふっ……」
ダイアーは微笑みを浮かべ、隊士の一人と拳を軽くぶつけた。
ツェペリは焚き火の前で一度深く息を吐き、
「やれやれ……ほっとけないな……」
と呟いて立ち上がった。そして、ゆっくりと一行に合流した。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
いつの間にか、陽が落ちていた。霧は薄まり、渓谷の岩肌が夕闇に沈んでいく。
焚き火の周りに、茶の香りが漂っていた。
隊士たちは湯呑を手に、肩の力を抜いていた。
ダイアーも、マドカの隣で静かに湯を啜っている。
北海道のこの辺りは、極寒の世界だ。皆、暖を取っていた。
ツェペリだけが、湯呑に手を伸ばさない。ツェペリはただ、火面を睨んでいた。掌は膝の上で硬く握られている。
(……彼らの希望は守ってやりたい。だが……あのモノ共は……滅さねば……)
マドカが、鷲津の隣に腰を下ろす。
「”彼ら”も落ち着いているよ。ね?」
鷲津は頷き、マドカの視線を追う。
彼女が指さしたのは、渓谷の反対側に口を開けた洞窟だった。
岩に囲まれたその奥から、かすかに呻き声のような音が漏れていた。
ツェペリが立ち上がる。
「……鷲津よ、やはり、あのようなモノを、生かしておくわけにはいかぬ。俺に滅させろ……」
鷲津は湯呑を置き、静かに言葉を返す。
「あれは兵器だ。新政府軍と戦うには、あれが必要になる」
「兵器……? あれは思い通りに動かせるような代物じゃぁないだろう」
「……たしかにな。だが、制御する方法はある」
鷲津の視線が、焚き火の向こうに座る少女へ向く。
マドカが、湯呑を両手で包みながら微笑んだ。
「信じて。ちゃんと、私が見てるから」
焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。
その直後、渓谷の反対側に開いた洞窟の奥から、重い足音が響いた。
霧を押し分けるように、一体の異形が姿を現す。
皮膚はまだらに裂け、骨の継ぎ目が不自然に膨らんでいた。
眼窩の奥に、赤黒い光がちらついている。
「なんの用じゃ」
ツェペリが即座に立ち上がり、掌を構える。
隊士の数名も槍を手に、岩場の縁へと身を寄せた。
「へへへ……」
異形は、唇をゆがめた。ペロリ……と舌で、自分の牙を舐めて見せる。
「待て」
鷲津が声を発した。立ち上がった者の肩を押さえる。
他の隊士もそれに倣い、刃を下ろした。
ダイアーは焚き火の傍にしゃがみ込んだまま、異形を睨みつけていた。
小さく、波紋の呼吸を再開していた。
異形は、鷲津とひなたの前まで歩み寄ると、
肩を揺らしながら言った。
「狩り……行く。食う」
マドカは湯呑を置き、静かに頷いた。
「人間はダメだよ。絶対に」
異形は、口の端を裂けるほどに歪めて笑った。
「へいへい。わかっているよ」
そして、森の奥へと消えた。
ツェペリは鷲津を睨みつけている。
「あんなモノを使おうなど……許せぬ」
鷲津は嗤った。
「はっ……正義の味方って奴か……だがよ……正義ってなんだ? 奴らが、正義か?」
「……ヌシには判らぬ……」
「お前にも俺の思いは判らないさ……あの春、S藩の城下で俺の弟が斬られた。新政府の巡察隊が、“旧幕府の残党”だと決めつけてな」
鷲津は大声を上げ、拳を岩壁にたたきつけた。
「弟は何もしていなかった。ただ、城の桜を見に来ただけだ。それだけで、斬られた」
鷲津の目は燃えていた。
「俺は、あの時に決めた。人の正義なんぞ、信じない。俺たちの正義は、俺たちで作る。だから、あの異形共を……
「……俺は、許せぬ」
「フン……勝手に言ってろ。綺麗ごとを、延々とな」
鷲津は肩をすくめた。
しばらくして、谷の向こうから枝を折る音が響き、
異形の
肩には、血の気を失ったヒグマが一体。
その巨体を軽々と担ぎ、谷の反対側へと跳躍した。
岩を蹴り、霧を裂いて、洞窟の奥へと戻っていく。
鷲津が焚き火の前で立ち上がり、「俺たちも補給が必要だな」と呟いた。
マドカが頷き、地図を広げる。
「近くに村がある。名は、
「よし。その村で、少し補給が出来るか、試してみるか」
翌朝。
棚田の縁を踏んで、ツェペリ、ダイアー、マドカそれに榊蒼一と通詞の5名が、村に入った。
他の者達は、村を見渡せる高台で歩みを止めた。
霧は薄く、水面に夕光が差していた。
炭焼き小屋の煙が、山の斜面をゆっくり登っていく。
薪の匂いが風に混じり、鼻をくすぐった。
子供たちが小道で遊んでいた。
竹の棒を振り回し、笑いながら駆ける。一人が転び、他の子が手を差し出した。
ツェペリの顔を見て、一瞬足が止まる。
子供のひとりがじっと見つめた。
「うわぁあ! スゴイ。異人さんだぁああああ!」
不意に叫んだ。飛び跳ねるように走りだし、村の奥に駆け込む。
子供たちがざわめき、5人を取り囲んだ。みな、好奇心で目がキラキラしている。
「ほりゃ、おめーら。去ね。お客さん、困っとるじゃろーが」
村人が一人、一行に近づいてきた。若者だ。
「こりゃおどろいた。外人さんかい……何しに来た?」
通詞が、一行を代表して口を開く。
「旅の者です。宿を探していて」
村の若者が頷いた。
「ほうか……まずは、村長に挨拶をしてけろ」
うわぁっと、周囲を囲む子供たちが歓声を上げた。
村人に案内された村長の家は、さほど大きくはなかった。
榊が戸を軽く叩いた。 返事はなかった。
戸を開けると、部屋の中には老人が一人、ただ座っていた。
長老はゆっくりと顔を上げた。 薄暗がりの縁側で、彼の細い瞳がツェペリを捉えたまま離れない。 白髪の額に、ほんのわずかな驚きの皺が刻まれる。
長老は歯茎をきゅっと噛みしめてから、杖を横に置いた。
土壁の縁側に古い提灯が吊るされている。 畳は日焼けし、障子の隅には小さな破れ。 柱には寄せ書きの掛け軸が色褪せずに残っていた。
榊が縁側でひと息つき、名を告げた。
「拙者は榊蒼一。数日前、函館で調査に携わっておりました」
長老は眉をわずかに上げ、静かに頷く。
ツェペリが低い声で続けた。
「ツェペリと申します」
ダイアーは一拍置いてから口を開く。
「ダイアーです」
マドカは前髪にさした仮面を手に、軽く礼をして言った。
「マドカです。よろしくお願いします」
長老は四人の名を呟くように繰り返し、杖で一同を示した。
榊が頭を下げ、滞在を願い出る。
「一晩、この村に泊めていただけますか」
長老は杖を傍らに置き、ゆっくり手を広げた。
「かまわぬ。あの道の先に宿がある」
五人はそろって応えた。
「ありがとうございます」
縁側に腰掛けた長老は、背中を丸めて小さく呻いた。 深い皺が腰まで一本の線のように走っている。
「……腰がのう。若いころの無理が、今になって出る」
「ご老人、ならば……」
ツェペリは静かに立ち、長老の背後で手を翳した。
指先から波紋を老人へ流し込んでいく。
老人のうめき声が止まり、長老の身体がわずかに震えた。
熱が、掌のひらから伝わる。
長老の背中が、ふっと伸びた。
肩の力が抜け、長老は小さく息を漏らす。
驚きで、声がかすかに震えた。
ツェペリはゆっくり息をつき、指先をそっと離した。
揺れる提灯の灯が、波紋の振動をかすかに映し出す。
長老は目を見開き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「これは……?」
村人たちが戸口に集まり、声を潜めて囁く。
「見たか」
「何しよったね」
榊が長老の手を優しく支え、笑みを浮かべた。
「もう、大丈夫です」
村の若者が道の脇で立ち止まり、手招きした。
「こちらにどうぞ」
通詞が軽く頭を下げ、目を細めた。
「お世話になります」
若者は、一行を村はずれの家に連れて行った。
古い木造の家屋へ足を踏み入れると、土間から井戸水の匂いが立ち上っていた。囲炉裏の鍋が時折小さく揺れている。
子供たちが駆け寄ってきた。
「お姫さまみたい!」
マドカは裾を広げて、くるりと回った。
「そう? ありがと。でも、こんなに傷だらけのお姫様はいないよ。私は剣士。強いんだよ!」
「ほんとかな?」
「あら、試してみる?」
子供たちが、マドカに相撲を挑んだ。
マドカは、子供たちのトッシンを正面から受けた。
と、みせかけて、巧みに体をかわす。
そして、怪我をさせないように注意しながら、地面に転がした。
「ねぇちゃん、すげぇ!」
「よし、オレもだ」
「ウチもッ」
子供たちが、順番にトッシンしてくる。
マドカはそれを受け止め、同じように子供たちを地面に転がし続けた。
だが、ふと息をついたタイミングで、3人の子供に同時にトッシンされ、たまらず地面を転がった。
「いったぁ──い。やったなッ」
笑い声が広がった。
老婆が囲炉裏端で立ち上がり、火箸を揺らした。
「今夜は鹿の煮込みだよ。美味しいんだよ。蒼一くんとか言ったっけ? 食べておくれ」
榊蒼一は微笑み、薪をくべる手を止めた。
「楽しみにしていました。ありがとうございます」
老婆がマドカの目をのぞき込む。
「マドカちゃんも、運動して疲れたろ。こっちへおいで」
マドカは、ニコやかに頷いた。
「ありがとうございますッ!」
老婆はツェペリとダイアー、それに通詞に向き直り、
「あなたたちも一口どうぞ。道中ご辛かったでしょう」
ツェペリはゆっくり前へ出て、小さな鉢を受け取った。
ダイアーと通詞も、その後に続いた。
試しに口に入れ、目を丸くする。鉢に口をつけ、食べ始める。
囲炉裏の火が赤く揺れ、木の匂いと鹿の煮込みの香りが混ざった。
村人が一斉に集まる。無邪気に目を輝かせ、次々に問いかけた。
「どこから来たの?」
「函館からって本当?」
「あんた、どうやって村長の腰を?」
村の若者が手を挙げた。
「そこのお兄さんは、どこから来たんだい?」
ツェペリはゆっくり膝を折った。
「イタリアのルッカという町です」
別の童が駆け寄り、ダイアーを指差す。
「あなたも外国人? どこの国の出身?」
ダイアーは目を伏せたまま答えた。
「トルコのイスタンブル近郊です。母方はギリシャ系でした」
「ほんで、マドカちゃんは、そんな若くて、どうして旅をしているの?」
マドカは匙を持つ手を止めた。
「私は……新政府の任で、とある事の調査に……」
少年が興奮して声を上げる。
「新政府の任務? かっけぇ! 本当かよッ」
榊が傍らから答える。
「……詳細は秘密です。お察しください」
村人たちは目を輝かせ、さらに質問を重ねた。
「村に害はないのか」
「何日くらい滞在するのか」
「なぜ、異人さんが一緒に来ているの?」
ツェペリは渋い笑みを見せ、ダイアーはわずかに首を振った。
榊は柔らかな声で答え続けた。
日が落ち始め、棚田の水面が黒い鏡のように沈む。
村人たちは満足げに帰路につき、集落に明かりがひとつずつ灯った。
残された四人が縁側に並んだ。
焚き火の小さな炎が、顔を赤くゆらめかせる。
マドカは仮面を手に取り、そっと撫でた。
「ふぅ……みんな、良い人たちだねぇ。結構面白い人もいたよ。子供たちも、かわいかったな」
そう言って、瞼をこすった。
「あの子達とあそんでたら、イチの事、思い出しちゃったよ……」
榊は遠くの山影を見つめ、静かに頷いた。
「そうか……」
焚き火の小さな炎が、顔を赤くゆらめかせる。
マドカが、ぽつりと言った。
「……こうやって火を見ていると、落ち着くね」
ダイアーが視線を巡らせ、小さく笑った。
「土の匂いと木の音。久しぶりだ」
マドカは仮面を額に寄せ、そっと撫でた。
「でも、やっぱり静かすぎて……少し嫌かも」
榊は頷く。
「案外、俺も同じだ」
ツェペリは薪を拾い、火にくべた。
「……マドカよ……その仮面……しまったらどうだ?」
「どうして?」
「そんなもの、持ってない方がいい」
マドカは、おでこに着けた仮面を手に取った。仮面は桃色に染まり、歯をむき出しにして笑っているように見える。
「……そうね。それもいいかな……」
榊が、眉を上げる。
「でも……ちょっと無理かも。これはもう、『私』そのものだからね~」
マドカは再び仮面を頭に乗せた。目尻を下げる。
「眠くて……今日はもう、休ませて」
榊が手で示した。
「寝室はあちらだ」
マドカは軽く頷き、縁側から寝室へ消えた。
残された三人の間に、短い静寂が流れる。
焚き火の火が、三人の顔を斜めに照らす。
「……マドカの仮面は、彼女の一族の宝だと聞いた……」
薪がはぜる音の合間に、榊が言った。
「お前たちが、余計なことをいうな……」
「……フン」
ツェペリが、鼻を鳴らす。
ダイアーが口を開いた。
「牢獄からの脱出に手を貸してくれたことには、礼を言う」
一拍置いて、声が低くなる。
「しかし──そのために
榊の目が細くなった。
刀帯に添えた指が、わずかに動く。
「
ダイアーは黙ったまま、火を見つめる。
榊の声が、焚き火の音に重なるように続いた。
「奴らは、俺たちの仲間を処刑した。名も、志も、何もかも踏みにじった」
「俺たちが何を守ってきたか、貴様らにわかるものか」
ダイアーの拳が膝の上で固まる。
「それでも、殺していい理由にはならん」
「我が国のことなど何も知らぬくせに、綺麗ごとを……」
榊は壁に寄りかかり、目を閉じた。
「そもそも、俺はお前たちを助けることに反対だった」
ツェペリは何も言わず、火箸で灰を崩した。
火の粉が、静かに宙を舞った。
翌朝──
朝の霧が棚田の水面に残り、村の空気は湿っていた。囲炉裏の灰が薄く舞い、細い煙が天井へと昇っていく。朝の光が差し込む土間。 鍋を焦がした灰の匂いと、湯沸かしの湯気が混ざる。
宿の前には、どこかしら具合の悪い村人たちが次々に列を成していた。
ツェペリと榊は、村長の家に向かっており、すでにいない。
ダイアー、マドカ、そして通詞の3人で、訪れた村人にあたる。
ダイアーは
傍らには通詞が立ち、村人の問診を訳しながら、薬草と包帯を渡す。
マドカは水をくみ、藥缶から冷たい布を取り出して、次の患者へと手を伸ばした。
ダイアーの前には五、六人の村人が列を作っていた。腰をさする老人、咳を払い続ける若者。そして、我が子を抱えた母親が一歩前に出る。
母親が言葉を詰まらせ、通詞が通訳する。
「この子は、夜になると高い熱が出るんです」
ダイアーは膝をつき、静かに波紋を当てる。
掌の下で微かな振動が広がり、子の額の熱はみるみる引いていった。
母親は息をつき、深く頭を下げる。
マドカは隣で薬草の包みを開いた。透き通る水で煎じた液を小さな椀に注いだ。
通詞が母親に向かって説明する。
「このお茶を少しずつ飲ませると、熱がさらに下がります」
子供がマドカの頭頂部の面を見上げ、指先を伸ばした。
「その面、かっこいいね」
マドカは軽く頷き、仮面の縁をそっと撫でる。
「山の祭りで使う、ただのお守りよ」
マドカの瞳が、一瞬だけ遠くを見つめる。
治療がひと段落すると、マドカは囲炉裏端に腰を下ろした。火箸を手にぽつりと語り始める。
「香西家は、山の棟梁。マタギの名士として村を仕切ってきた家系なの。私は“姫”と呼ばれて、嫁ぎ先も古くから決められてたし、村の祭事にも、村人に触れることすら許されなかったわ」
マタギなんて、大した身分でもないのに、気取っちゃってね……
マドカは鼻を鳴らした。
ダイアーは薪をくべながら、静かに聞き入る。
「……それは孤独だっただろう」
マドカは焔を見つめ、目を伏せたまま続ける。
「堅苦しかったな。私はこんな性格だから、結構反抗もしたけどね……秋祭りの夜、親友と一緒に、禁じられた山の境界を越えたっけ。そこで、剣の修行を始めたのよ。といっても、立ち木を叩いていただけだど……猪の足跡を追いかけて、夜の山を走った事もあったな。あの
ダイアーは手を止め、彼女の背中に視線を落とす。
「俺の故郷でも、人は血筋や宗教で分断された。オスマン帝国下のギリシャでは、教会が焼かれ、隣人が連行されるたびに“正義”と叫ばれていた。命は何度も、何度も踏みにじられた」
「……なんだよ、お前も俺達と似たような思いを持っているじゃぁねぇか」
榊が鼻を鳴らす。
「……だが、俺はオマエたちのやり方を認めぬ」
「……はっ。せいぜい、いい子ちゃんでいろよ」
囲炉裏の火が皆の影を揺らす中、マドカは仮面を軽く撫でた。
静寂のなか、通詞の声だけが次の患者を呼ぶ。
「入れ」
木戸を開けると、紋付姿の村長が畳に坐していた。
「待っていたぞ」
榊とツェペリは跪いて頭を下げる。
「腰の具合はどうですか?」
「楽になった。ヌシのその波紋とやら、大したもんだ。生き返るようじゃった」
ツェペリは首肯し、医道具の袋から包帯を取り出す。
「もう少し治療を続ければ、日暮れには痛みも引いているでしょう」
榊はツェペリから包帯を受け取り、「村人たちも助かりました」と続ける。
口元が、かすかに歪む。
「……鷲津殿も、師の信を裏切らぬ覚悟をお持ちのようで」
村長は楓を見上げて穏やかに頷く。
「若輩ゆえ未熟だが、志だけは曲げぬ……思う事はあるが……恩人じゃ」
ツェペリは村長の腰に手を当て、くったくなく笑う。
「恩は返すもの。今度は私たちが尽力しましょう」
昨晩……
深夜の部屋。畳の上に、地図が広げられていた。
その地図を、鷲津が覗き込む。
夜の闇をついて、鷲津は村長の家に入っていた。
指先で幾つかの屋敷をなぞり、村長は細く息をつきながら頷いた。
「飢饉の年、我が家は蓄えのほとんどを切り崩して村を支えた。外からの圧迫で田は荒れ、子らの未来がない。もう一度村を守るには、別の道しか残されておらぬと覚悟したのだ」
鷲津は地図を畳み、冷たい声で要点だけを言った。
「まず命を絶ち、血を入れる。生きたままでは制御できぬ。血が足りなければ、制御を失った鬼になるだけだ。だが大丈夫だ。かならず『
榊の目が小さく瞬いたが、鷲津は続けた。
「合図は一つ。マドカが面を顔につけた時だ。榊、納得しろ……」
榊は黙って視線を落とし、夕闇が藪の縁を黒く染めていくのを見た。遠くで犬が吠え、村の方角から低いざわめきが聞こえた。次の瞬間に何が起きるかを思い、彼の指先がわずかに震えた。
「正義を語る者ほど、誰かに不正義を働くことが多い……そういうモンだ」
鷲津はそう言って、遠くの火を見ていた。
夕刻──
「今日はずいぶん手際がよかった。村人たちも助かっただろう」
榊は手拭いで汗をぬぐいながら、視線をマドカの手元へ滑らせた。
面の縁に触れるマドカの指先が、わずかに揺れる。
「闇夜の山道で、襲われかけた私を助けてくれたのは、あの人だった。気づけば隣で「共に行動しろ」と告げられ、私は隊の一員になっていた……」
陽光を受けた稲穂のざわめきに、榊は小さく頷いた。
「鷲津殿は、お前を信じておられる」
「この村は、ダメだよ……みんな、幸せそう。壊す必要はないよ」
「……確かにな」
「鷲津さん、判ってくれるよ。あの人は、良い人だもの」
縁側の影が長く伸びる。マドカは面の縁を撫でるだけで、指が小刻みに震えた。ハッ、ハッと浅い呼吸。
祭りの夜が一瞬、胸を殴る。
裸足で駆けた路地、はしゃぐ声。
地面に転がされた子供たちのはしゃぐ声が、マドカの脳裏に浮かぶ。
「……マドカ……」
「何? 呼び捨てにしないでよ」
「……すまぬ……」
ドンッ
榊の手が伸びる。マドカは肩を引くが、掴まれる。
「蒼ちゃん、どうしてッ!」
「だから、済まぬといったッ!」
ギシッ
カチッ
金具が触れ合う音。
面が滑り落ち、頭を覆う音。
ガサッ
仮面の重さが首にのる。マドカの視界が狭まる。音が絞られ、世界は布と影の断片だけになる。目の端に光の裂け目が走る。
息が一拍止まる。
濃厚な甘い香りが、マドカの肺を満たす。
マドカの内側で、いつもの自分がズルリと滑り落ちるのを感じた。
何かが奪われていく——何かが、与えられていく——
チリチリと、肌が痛む。
「……でも、もう一人のお前は、壊したがっている……」
榊の声が、薄れゆく意識に幽かに聞こえた。
黒い影のような霧が、周囲に飛び散った。
土の匂いが裏庭に渦巻く。子供の瞳がカァッと見開き、母がギュッと抱き寄せる。老男は杖に力を込め、歯を鳴らす。
草が揺れる音が不穏に続く。
影が群れ、地がドンと唸る。
最初に倒れたのは、村長だった。
喉を、自ら短刀で突いた。
取り巻き達も懐から短刀を取り出した。刃を胸にあて、次々に地面に倒れ込む。
キャアッ!
母たちの叫びが空を引き裂く。子らはワアワアと逃げ惑い、足が絡まる音がする。
黒い霧を吸い込んだ男たちの顔が、引き締まる。互いの目が合い、うなずきあう。父が子の頭をポンと撫で、刃を帯びた手がグッと前へ出る。
「父ちゃんッ!」
子供の見ている前で、男達が自らの首を、斬る。
いつの間にか、村に黒羽織の新選組・別動隊が全員侵入していた。
鷲津の声が冷たくコトリと降る。「手順通りだ」
一行に混ざっていた
しばらくすると、倒れた村長がギクッと体を震わせ、起き上がった。
瞳にジロリと白い光。
つづけて、
そして、一度倒れた男たちが、再び立ち上がる。
「ギュァアア……」
再び立ちあ上がった男達は、焦点が合わない目で、意味のない音を口に出し続ける。
その目に、すでに家族は映っていない……
「うわぁああああああ!」
「おとーちゃん。おとーちゃんッッ!」
「いやぁあああああ!」
子供たちが、妻たちが、若者たちが叫ぶ。
目の前の現象は、それ自体が凶器のように衝撃を投げつけた。
それでも男たちは前へ出る。刃がカンッと光り、家族に一度だけ視線を返す。
そして、自らの命を絶つ。
「何だ……これは……」
ダイアーが戸惑う。
縁側を見ると、マドカが立っていた。面が顔を覆い、目はトロンと虚ろだ。風がヒラリと裾を翻し、彼女はまるで操られた人形のように、ポツンと立ち尽くしている。
──ザザッ
夜が村を飲み込む。
ツェペリが前に出た。
コォォオオオ────ッ
波紋の呼吸を練りながら、腰に巻いたロープをほどく。
あまりの事に半狂乱になっている村人たちにロープをかけた。
「
ロープに、蝶のように揺らめく波紋が走る。
「!ッ」
波紋の衝撃を受けた村人が、一瞬我に返る。
ツェペリが叫んだ。
「危険だ。まだ生きている村人を連れて、ここを離れろッ!」
ダイアーはすぐに動く。
通詞が叫びながら家々を回り、母子を掻き抱く。
動揺している家族には、波紋をそっと流し、気を落ち着かせる。
縄と布を手渡し、まだ無事だった男たちが、それを張る。
縄が張られる音がザッ、ザッと続く。
子の手が慌てて縄を掴む。母が唇を噛む。
ツェペリは掌を縄に向け、波紋を短く流す。
ビシッと空気を裂く音とともに、縄が微かに震え、
砂が舞う。
ダイアーと通詞はその間に村人の列を作る。
通詞が子を抱え、老女を支え、ダイアーは腕で列を押すように進ませる。
ロープで通路を囲い、波紋の流れる縄を低く張る。
人々はその中を走らされる。
足音がドタドタ、泣き声がワアッと割れる。
再び、
ツェペリは波紋を再び縄に打ち込む。縄が震え、
だが
ツェペリの肩に血の色が差し、息が短くなる。掌が軽く震える。
彼の声は低く、ただ一言──
「早く行け」
男たちが子らを押し出す。
女たちが幼子を背負い、歩き出す。
村人たちの、避難は進む。
ツェペリはさらに大きく波紋を叩き込む。縄がクッと光り、
ビリビリと空気が裂け、土が浮く。
ツェペリがさらに一歩、前に出る。掌を開き、構える。
「ダイアー、村人を頼むッ……この場は、俺が止めるッ!」
ダイアーは即座に動いた。
通詞が叫びながら家々を駆け、母子を掻き抱く。
縄がバサッと投げられ、男たちがそれを柱に巻く。
ザッ、ザッ、ザッ!
縄が張られる音が村の空気を切り裂く。
ツェペリの掌が縄に触れる。
「
ビシィィィッッ!!
波紋が縄に走り、光がパチパチと弾ける。
縄がブルブルと震え、
その隙に、ダイアーは母子の列を押し出す。
通詞が老女を支え、子供が泣きながらダイアーの袖を掴む。
「泣くな……走れッ!」
ダイアーの声が鋭く響き、子の手が離れる。
縄の内側へ、村人たちがドドドッと走る。
村人たちを、
コォォオオオ──
ツェペリは綱を握り、波紋の波紋を練りつづける。
ドンッ!
ビリリリリッ!
縄が光り、
だが数は減らない。
ツェペリの肩に血が滲み、息が荒くなる。
「まだだ……まだ、通すッ!」
一部の男たちが家族に一瞥をくれ、無言で
刃を帯び、顔は決まっている。
ツェペリの横を通り過ぎ、縄をくぐる。
だが、すぐに
「お父うッ!」
父の名を呼ぶ子供の声が、響く。
綱が揺れ、波紋が響く。
通路は塞がれ、避難は続く。
ツェペリは波紋を流し続ける。
ビシィィィッ!
縄が光り、空気がバチバチと裂ける。
ダイアーは最後に子供の肩を叩き、通詞が耳元で囁く。
子供の小さな手が袖を離れる。
「ダイアー、俺がしんがりを務める」
「……承知」
ダイアーが避難した村人たちをいざない、闇に消える。
「さて……どこまで時間を稼げるかのう……」
一人、
ビシィィィッ!
縄が震え、
縄を超え、入ろうとしてきたものを蹴り飛ばす。
どれほど、そうやって
やがて、
そして、
「なんだと……貴様……裏切ったのか」
「裏切り? 違うね。彼らは自ら望んで、こうなったのだ。新政府軍共を根絶やしにし……そして異人どもを追い払い、再びこの国に平和をもたらすためにな」
「……どういうことだ?」
男たちが、ゆっくりと立ち上がる。 皮膚が裂け、骨が軋む音が響く。
ギギギギ……ギィィィ……
目が赤く染まり、牙が覗く。 彼らは、もう人ではない。
だが見覚えがある。先ほど自ら綱を潜り抜け、
「彼らはもう選んだ。自ら
「覚悟だと……?」
ツェペリは一歩、後退する。
だが、
そのとき──
ヒュウウウウ……
と風が吹く。
ツェペリの前に、一人の影が立つ。
マドカだった。
面をつけたまま、静かに立っている。面は朱色に染まっている。
衣の裾がヒラリと揺れ、風が彼女の周囲を巻く。
ツェペリは目を見開く。
「マドカ……!」
だが、彼女は何も言わない。
ただ、掌をゆっくりと上げた。
その動きは、波紋戦士のそれに似ていた。
スゥ……と香りが広がる。
甘く、懐かしく、胸の奥をくすぐるような香り。
それは、波紋ではない。
ツェペリの足が、わずかに震えた。
「この香り……っ」
マドカの声が、面の奥から響く。
低く、感情のない声。
「
その瞬間、ツェペリの胸が爆ぜた。
過去の記憶が、怒涛のように押し寄せる。
師の死、仲間の犠牲、守れなかった村人の顔——
ドクンッ!
ドクンッ!
呼吸が乱れる。
掌が震え、膝が崩れそうになる。
「う……うぅ……ッ!」
鷲津が、口元に笑みを浮かべる。
「合図は、整ったようだな」
ギギギギ……ギィィィ……!
皮膚が裂け、骨が軋む。
目が赤く染まり、牙が覗く。
空が、わずかに白み始める。
東の山際に、かすかな光が滲む。
鷲津がちらりと空を見上げる。
「……時間がないな」
ツェペリは、感情の奔流に呑まれながら——
マドカの面を、ただ見つめていた。
面は、コトコトと揺れている。その淵から、光が漏れ出しているようにも見える。
……面をかぶったマドカの姿は、石仮面をかぶった、父の姿に重なった。
そして、夜が終わる前に——
ウィル・A・ツェペリは意識を失った。