鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部)   作:ヨマザル

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変異

 濃い霧が、長大な岩の割れ目から湧き上がっていた。割れ目の底は、霧で見えない。

 下からは、激流が岩にぶつかる音が、響き渡っている。

 頭上を見上げれば、切り立った岩がそびえ立っていた。

 

 そして前方には、ゆったりとした奇妙な動きで岩場を舞う男がいた。友、ダイアーだ。

 

 コォォォォ……

 ダイアーの呼吸が、渓谷に響く。

 と、ダイアーは軽くジャンプした。

 待ち受けるツェペリに向かって、飛び込んだ。

 ゆったりとした、軽やかな動き。

 だが、ツェペリに接触する直前、動きの質が変わる。

 ダイアーは、体をねじり……

 目にもとまらぬ早い蹴りを放った。

 

 その瞬間、ツェペリの掌が閃いた。

 波紋が走る。

 ダイアーの蹴りが弾かれ、吹き飛ぶ。

 岩肌に足を取られそうになり、ダイアーは体勢を崩した。

 

「まだ甘い」

 ツェペリの声は低く、苛立ちを隠そうともしなかった。

「その程度の緩急のかけ方では、俺の意表はつけないぞ、もっと工夫しろよ」

 

「……チッ……」

 ダイアーは歯を食いしばり、再び構えを取る。

 と、ツェペリの呼吸を読み、息を吐いた瞬間に突進する。

 だが、ツェペリが地面に流した波紋の振動が、ダイアーの足元を乱す。

 踏み込みの角度が、わずかに狂う。

「のぉおおおッ。何のこれしきッ」

 三度目の交差で、ツェペリの掌がダイアーの胸元に触れた。

 

 パシュ

 

 波紋が走り、ダイアーの体が後方へ跳ねる。

 岩に背を打ち、息が漏れた。

「……くそ」

 ダイアーは拳を握ったまま、立ち上がらなかった。

 波紋は力強く練れている。

 だが、ダイアーの技が、ツェペリに届かない。

 

 ツェペリは岩の上に立ち、眉をひそめた。

 掌が熱い。

「ダイアー……もっと気合を入れてくれよ。これでは稽古にならん」

 ツェペリは背を向け、岩場を降りた。

 

 ダイアーは拳をほどき、静かに後を追った。

 谷の下では、通詞が焚き火の準備をしていた。

 鷲津がその傍らで腕を組み、二人の稽古を黙って見ていた。

 

「なんじゃ、見世物じゃないぞ」

 ツェペリの言葉を、通詞がおずおずと訳した。

「いやスマン。大した腕前だな……と感心していただけだ。俺の態度が気に障ったのなら、許せ」

 鷲津が頭を下げた。

 

 野営地は、切り立った渓谷の中腹に残る、岩に囲まれた狭い広場だった。

 霧が、野営跡を深い影ごと包み込んでいた。張り崩れた半張りのテントが、灰に埋もれかけている。枯れ枝が足元で軋む。その音が、谷の静寂を少しだけ乱した。

 

 ツェペリは焚き火の残り火に腰を下ろし、掌を火面にかざした。

 指先が朱く染まるのを、不機嫌に睨みつける。

(おかしい……奴らのやることなす事、すべて許せぬ……なのになぜ、彼らに強烈な好意を、感じるのだ? ……彼らを何とかして助けてやりたいと、強く、心から思うのだ……)

 

 ダイアーはツェペリに背を向け、岩の上で座禅を組んだ。

 目を閉じ、呼吸を整えようとする。だが、呼吸は乱れ、なかなか波紋が練れない。

 

 鷲津が岩場を踏みしめて近づいてきた。

 擦り切れた羽織の新選組別動隊の隊士たちが、そのあとに続く。鷲津は、ダイアーに声をかけた。

「アンタ、派手にやられたな」

「やられておらん。ただの組み手だ」

「そうか、アンタ、タフだな」

「だから、やられておらぬ……何なら貴様、試してみるか?」

 

「へぇ……」

 鷲津の顔から笑みが消えた。

 

「異人さんよぉ……うちらの大将になにを絡んでるんじゃぁ」

 鷲津の背後にいた隊士たちが、ダイアーを取り囲んだ。

 先頭の男は、槍を肩に担ぎながら歩いていた。額に包帯、片目が腫れて開かない。

 その隣の若い隊士は、羽織の袖を裂いたまま、血の乾いた手で柄を握っている。

 後方の男は、草履を片方失い、裸足で岩を踏みしめていた。顔は無表情だが、呼吸が荒い。

 

 皆、目つきが険しい。

 武具に手をやり、いつでも抜ける構えを取る者。

 刃をダイアーに突きつける者。

 

 ダイアーは、舌打ちをした。

 突きつけられた刃を、手刀で叩き落す。

 

 霧の中で、槍の柄が岩を打った。

「何しやがるッ! 異人が偉そうにしてんじゃねえッ」

 先頭の隊士が、ダイアーを睨みつける。

「偉そうに? 口だけは達者だな。貴様らが守れなかったものを、俺たちは命懸けで止めた」

 ダイアーの声は低く、だが鋭かった。

 

()()なかった? ()()なかっただ。ボケ」

 若い隊士が一歩踏み出す。

「ああ? 口だけだぁ? 上等だよ。いじめちゃうぞぉ」

「試してみるか」

 ダイアーが立ち上がる。

 隊士たちは色めき立ち、腰の刀に手をかけた。

 

 その瞬間──

「わぁおッ、みんな揃ってるね!」

 マドカの声が、霧の中に弾けた。

 岩場の上からひょいと、マドカが姿を現す。

 皆の真ん中に飛び降りた。

 そして、着物の裾を揺らしながら、ダイアーの背にぴたりと寄り添った。

「ダイアーさん、怖い顔しないで。そんな顔じゃみんな逃げちゃうよ」

「……こいつらが先に仕掛けた」

「うんうん、でも鷲津さんがちゃんと見てるから、大丈夫だよ。みんなホントは優しいよ」

 マドカは鷲津の袖を軽く引いた。

「ねぇ、鷲津さん。隊のみんな、ちょっと疲れてイライラしているだけだよね?」

 

 鷲津は一度だけ隊士たちを見回し、静かに答えた。

「……一旦引け」

 隊士の一人が鼻を鳴らした。

「大将と姫さんに言われちゃ、引くしかねえな」

「異人さんよぉ。おめー結構度胸あるな」

「ふっ……」

 ダイアーは微笑みを浮かべ、隊士の一人と拳を軽くぶつけた。

 

 ツェペリは焚き火の前で一度深く息を吐き、

「やれやれ……ほっとけないな……」

 と呟いて立ち上がった。そして、ゆっくりと一行に合流した。

 その顔には、笑みが浮かんでいた。

 

◆◆

 

 いつの間にか、陽が落ちていた。霧は薄まり、渓谷の岩肌が夕闇に沈んでいく。

 焚き火の周りに、茶の香りが漂っていた。

 隊士たちは湯呑を手に、肩の力を抜いていた。

 ダイアーも、マドカの隣で静かに湯を啜っている。

 北海道のこの辺りは、極寒の世界だ。皆、暖を取っていた。

 

 ツェペリだけが、湯呑に手を伸ばさない。ツェペリはただ、火面を睨んでいた。掌は膝の上で硬く握られている。

(……彼らの希望は守ってやりたい。だが……あのモノ共は……滅さねば……)

 

 マドカが、鷲津の隣に腰を下ろす。

「”彼ら”も落ち着いているよ。ね?」

 鷲津は頷き、マドカの視線を追う。

 彼女が指さしたのは、渓谷の反対側に口を開けた洞窟だった。

 岩に囲まれたその奥から、かすかに呻き声のような音が漏れていた。

 

 ツェペリが立ち上がる。

「……鷲津よ、やはり、あのようなモノを、生かしておくわけにはいかぬ。俺に滅させろ……」

 鷲津は湯呑を置き、静かに言葉を返す。

「あれは兵器だ。新政府軍と戦うには、あれが必要になる」

「兵器……? あれは思い通りに動かせるような代物じゃぁないだろう」

「……たしかにな。だが、制御する方法はある」

 鷲津の視線が、焚き火の向こうに座る少女へ向く。

 マドカが、湯呑を両手で包みながら微笑んだ。

「信じて。ちゃんと、私が見てるから」

 

 焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。

 その直後、渓谷の反対側に開いた洞窟の奥から、重い足音が響いた。

 霧を押し分けるように、一体の異形が姿を現す。

 皮膚はまだらに裂け、骨の継ぎ目が不自然に膨らんでいた。

 眼窩の奥に、赤黒い光がちらついている。

 

「なんの用じゃ」

 ツェペリが即座に立ち上がり、掌を構える。

 隊士の数名も槍を手に、岩場の縁へと身を寄せた。

「へへへ……」

 異形は、唇をゆがめた。ペロリ……と舌で、自分の牙を舐めて見せる。

 

「待て」

 鷲津が声を発した。立ち上がった者の肩を押さえる。

 他の隊士もそれに倣い、刃を下ろした。

 ダイアーは焚き火の傍にしゃがみ込んだまま、異形を睨みつけていた。

 小さく、波紋の呼吸を再開していた。

 

 異形は、鷲津とひなたの前まで歩み寄ると、

 肩を揺らしながら言った。

「狩り……行く。食う」

 マドカは湯呑を置き、静かに頷いた。

「人間はダメだよ。絶対に」

 異形は、口の端を裂けるほどに歪めて笑った。

「へいへい。わかっているよ」

 そして、森の奥へと消えた。

 

 ツェペリは鷲津を睨みつけている。

「あんなモノを使おうなど……許せぬ」

 鷲津は嗤った。

「はっ……正義の味方って奴か……だがよ……正義ってなんだ? 奴らが、正義か?」

「……ヌシには判らぬ……」

「お前にも俺の思いは判らないさ……あの春、S藩の城下で俺の弟が斬られた。新政府の巡察隊が、“旧幕府の残党”だと決めつけてな」

 鷲津は大声を上げ、拳を岩壁にたたきつけた。

「弟は何もしていなかった。ただ、城の桜を見に来ただけだ。それだけで、斬られた」

 鷲津の目は燃えていた。

「俺は、あの時に決めた。人の正義なんぞ、信じない。俺たちの正義は、俺たちで作る。だから、あの異形共を……屍生鬼(グール)を使ってやるのさ。兵器として。新政府に、俺たちの“声”を聞かせるために」

「……俺は、許せぬ」

「フン……勝手に言ってろ。綺麗ごとを、延々とな」

 鷲津は肩をすくめた。

 

 しばらくして、谷の向こうから枝を折る音が響き、

 異形の屍生鬼(グール)が再び姿を現した。

 肩には、血の気を失ったヒグマが一体。

 その巨体を軽々と担ぎ、谷の反対側へと跳躍した。

 岩を蹴り、霧を裂いて、洞窟の奥へと戻っていく。

 

 鷲津が焚き火の前で立ち上がり、「俺たちも補給が必要だな」と呟いた。

 マドカが頷き、地図を広げる。

「近くに村がある。名は、霧野(きりの)。場所は、谷を越えて西に半日」

「よし。その村で、少し補給が出来るか、試してみるか」

 

◆◆

 

 翌朝。

 

 棚田の縁を踏んで、ツェペリ、ダイアー、マドカそれに榊蒼一と通詞の5名が、村に入った。

 他の者達は、村を見渡せる高台で歩みを止めた。

 

 霧は薄く、水面に夕光が差していた。

 炭焼き小屋の煙が、山の斜面をゆっくり登っていく。

 薪の匂いが風に混じり、鼻をくすぐった。

 子供たちが小道で遊んでいた。

 竹の棒を振り回し、笑いながら駆ける。一人が転び、他の子が手を差し出した。

 ツェペリの顔を見て、一瞬足が止まる。

 子供のひとりがじっと見つめた。

「うわぁあ! スゴイ。異人さんだぁああああ!」

 不意に叫んだ。飛び跳ねるように走りだし、村の奥に駆け込む。

 子供たちがざわめき、5人を取り囲んだ。みな、好奇心で目がキラキラしている。

 

「ほりゃ、おめーら。去ね。お客さん、困っとるじゃろーが」

 村人が一人、一行に近づいてきた。若者だ。

「こりゃおどろいた。外人さんかい……何しに来た?」

 

 通詞が、一行を代表して口を開く。

「旅の者です。宿を探していて」

 村の若者が頷いた。

「ほうか……まずは、村長に挨拶をしてけろ」

 うわぁっと、周囲を囲む子供たちが歓声を上げた。

 

 村人に案内された村長の家は、さほど大きくはなかった。

 榊が戸を軽く叩いた。 返事はなかった。

 戸を開けると、部屋の中には老人が一人、ただ座っていた。

 長老はゆっくりと顔を上げた。 薄暗がりの縁側で、彼の細い瞳がツェペリを捉えたまま離れない。 白髪の額に、ほんのわずかな驚きの皺が刻まれる。

 長老は歯茎をきゅっと噛みしめてから、杖を横に置いた。

 土壁の縁側に古い提灯が吊るされている。 畳は日焼けし、障子の隅には小さな破れ。 柱には寄せ書きの掛け軸が色褪せずに残っていた。

 

 榊が縁側でひと息つき、名を告げた。

「拙者は榊蒼一。数日前、函館で調査に携わっておりました」

 長老は眉をわずかに上げ、静かに頷く。

 ツェペリが低い声で続けた。

「ツェペリと申します」

 ダイアーは一拍置いてから口を開く。

「ダイアーです」

 マドカは前髪にさした仮面を手に、軽く礼をして言った。

「マドカです。よろしくお願いします」

 

 長老は四人の名を呟くように繰り返し、杖で一同を示した。

 榊が頭を下げ、滞在を願い出る。

「一晩、この村に泊めていただけますか」

 長老は杖を傍らに置き、ゆっくり手を広げた。

「かまわぬ。あの道の先に宿がある」

 五人はそろって応えた。

「ありがとうございます」

 

 縁側に腰掛けた長老は、背中を丸めて小さく呻いた。 深い皺が腰まで一本の線のように走っている。

「……腰がのう。若いころの無理が、今になって出る」

 

「ご老人、ならば……」

 ツェペリは静かに立ち、長老の背後で手を翳した。

 指先から波紋を老人へ流し込んでいく。

 老人のうめき声が止まり、長老の身体がわずかに震えた。

 熱が、掌のひらから伝わる。

 長老の背中が、ふっと伸びた。

 肩の力が抜け、長老は小さく息を漏らす。

 驚きで、声がかすかに震えた。

 ツェペリはゆっくり息をつき、指先をそっと離した。

 揺れる提灯の灯が、波紋の振動をかすかに映し出す。

 長老は目を見開き、ゆっくりと背筋を伸ばした。

「これは……?」

 

 村人たちが戸口に集まり、声を潜めて囁く。

「見たか」

「何しよったね」

 

 榊が長老の手を優しく支え、笑みを浮かべた。

「もう、大丈夫です」

 

◆◆

 

 村の若者が道の脇で立ち止まり、手招きした。

「こちらにどうぞ」

 通詞が軽く頭を下げ、目を細めた。

「お世話になります」

 若者は、一行を村はずれの家に連れて行った。

 古い木造の家屋へ足を踏み入れると、土間から井戸水の匂いが立ち上っていた。囲炉裏の鍋が時折小さく揺れている。

 

 子供たちが駆け寄ってきた。

「お姫さまみたい!」

 マドカは裾を広げて、くるりと回った。

「そう? ありがと。でも、こんなに傷だらけのお姫様はいないよ。私は剣士。強いんだよ!」

「ほんとかな?」

「あら、試してみる?」

 

 子供たちが、マドカに相撲を挑んだ。

 マドカは、子供たちのトッシンを正面から受けた。

 と、みせかけて、巧みに体をかわす。

 そして、怪我をさせないように注意しながら、地面に転がした。

「ねぇちゃん、すげぇ!」

「よし、オレもだ」

「ウチもッ」

 子供たちが、順番にトッシンしてくる。

 マドカはそれを受け止め、同じように子供たちを地面に転がし続けた。

 だが、ふと息をついたタイミングで、3人の子供に同時にトッシンされ、たまらず地面を転がった。

 

「いったぁ──い。やったなッ」

 笑い声が広がった。

 

 老婆が囲炉裏端で立ち上がり、火箸を揺らした。

「今夜は鹿の煮込みだよ。美味しいんだよ。蒼一くんとか言ったっけ? 食べておくれ」

 榊蒼一は微笑み、薪をくべる手を止めた。

「楽しみにしていました。ありがとうございます」

 

 老婆がマドカの目をのぞき込む。

「マドカちゃんも、運動して疲れたろ。こっちへおいで」

 マドカは、ニコやかに頷いた。

「ありがとうございますッ!」

 老婆はツェペリとダイアー、それに通詞に向き直り、

「あなたたちも一口どうぞ。道中ご辛かったでしょう」

 ツェペリはゆっくり前へ出て、小さな鉢を受け取った。

 ダイアーと通詞も、その後に続いた。

 試しに口に入れ、目を丸くする。鉢に口をつけ、食べ始める。

 

 囲炉裏の火が赤く揺れ、木の匂いと鹿の煮込みの香りが混ざった。

 村人が一斉に集まる。無邪気に目を輝かせ、次々に問いかけた。

「どこから来たの?」

「函館からって本当?」

「あんた、どうやって村長の腰を?」

 村の若者が手を挙げた。

「そこのお兄さんは、どこから来たんだい?」

 ツェペリはゆっくり膝を折った。

「イタリアのルッカという町です」

 別の童が駆け寄り、ダイアーを指差す。

「あなたも外国人? どこの国の出身?」

 ダイアーは目を伏せたまま答えた。

「トルコのイスタンブル近郊です。母方はギリシャ系でした」

 

「ほんで、マドカちゃんは、そんな若くて、どうして旅をしているの?」

 マドカは匙を持つ手を止めた。

「私は……新政府の任で、とある事の調査に……」

 少年が興奮して声を上げる。

「新政府の任務? かっけぇ! 本当かよッ」

 榊が傍らから答える。

「……詳細は秘密です。お察しください」

 

 村人たちは目を輝かせ、さらに質問を重ねた。

「村に害はないのか」

「何日くらい滞在するのか」

「なぜ、異人さんが一緒に来ているの?」

 ツェペリは渋い笑みを見せ、ダイアーはわずかに首を振った。

 榊は柔らかな声で答え続けた。

 

◆◆

 

 日が落ち始め、棚田の水面が黒い鏡のように沈む。

 村人たちは満足げに帰路につき、集落に明かりがひとつずつ灯った。

 残された四人が縁側に並んだ。

 焚き火の小さな炎が、顔を赤くゆらめかせる。

 

 マドカは仮面を手に取り、そっと撫でた。

「ふぅ……みんな、良い人たちだねぇ。結構面白い人もいたよ。子供たちも、かわいかったな」

 そう言って、瞼をこすった。

「あの子達とあそんでたら、イチの事、思い出しちゃったよ……」

 榊は遠くの山影を見つめ、静かに頷いた。

「そうか……」

 焚き火の小さな炎が、顔を赤くゆらめかせる。

 マドカが、ぽつりと言った。

「……こうやって火を見ていると、落ち着くね」

 ダイアーが視線を巡らせ、小さく笑った。

「土の匂いと木の音。久しぶりだ」

 マドカは仮面を額に寄せ、そっと撫でた。

「でも、やっぱり静かすぎて……少し嫌かも」

 榊は頷く。

「案外、俺も同じだ」

 ツェペリは薪を拾い、火にくべた。

「……マドカよ……その仮面……しまったらどうだ?」

「どうして?」

「そんなもの、持ってない方がいい」

 マドカは、おでこに着けた仮面を手に取った。仮面は桃色に染まり、歯をむき出しにして笑っているように見える。

「……そうね。それもいいかな……」

 榊が、眉を上げる。

「でも……ちょっと無理かも。これはもう、『私』そのものだからね~」

 マドカは再び仮面を頭に乗せた。目尻を下げる。

「眠くて……今日はもう、休ませて」

 榊が手で示した。

「寝室はあちらだ」

 マドカは軽く頷き、縁側から寝室へ消えた。

 

 残された三人の間に、短い静寂が流れる。

 焚き火の火が、三人の顔を斜めに照らす。

「……マドカの仮面は、彼女の一族の宝だと聞いた……」

 薪がはぜる音の合間に、榊が言った。

「お前たちが、余計なことをいうな……」

「……フン」

 ツェペリが、鼻を鳴らす。

 ダイアーが口を開いた。

「牢獄からの脱出に手を貸してくれたことには、礼を言う」

 一拍置いて、声が低くなる。

「しかし──そのために無辜(むこ)の者に手をかけたことは、許さん」

 榊の目が細くなった。

 刀帯に添えた指が、わずかに動く。

無辜(むこ)の者だと? 新政府の役人どもが?」

 ダイアーは黙ったまま、火を見つめる。

 榊の声が、焚き火の音に重なるように続いた。

「奴らは、俺たちの仲間を処刑した。名も、志も、何もかも踏みにじった」

「俺たちが何を守ってきたか、貴様らにわかるものか」

 ダイアーの拳が膝の上で固まる。

「それでも、殺していい理由にはならん」

「我が国のことなど何も知らぬくせに、綺麗ごとを……」

 榊は壁に寄りかかり、目を閉じた。

「そもそも、俺はお前たちを助けることに反対だった」

 ツェペリは何も言わず、火箸で灰を崩した。

 火の粉が、静かに宙を舞った。

 

◆◆

 

 翌朝──

 

 朝の霧が棚田の水面に残り、村の空気は湿っていた。囲炉裏の灰が薄く舞い、細い煙が天井へと昇っていく。朝の光が差し込む土間。 鍋を焦がした灰の匂いと、湯沸かしの湯気が混ざる。

 宿の前には、どこかしら具合の悪い村人たちが次々に列を成していた。

 ツェペリと榊は、村長の家に向かっており、すでにいない。

 ダイアー、マドカ、そして通詞の3人で、訪れた村人にあたる。

 

 ダイアーは(おこり)に苦しむ青年の額を押さえ、手早く波紋を流す。

 傍らには通詞が立ち、村人の問診を訳しながら、薬草と包帯を渡す。

 マドカは水をくみ、藥缶から冷たい布を取り出して、次の患者へと手を伸ばした。

 

 ダイアーの前には五、六人の村人が列を作っていた。腰をさする老人、咳を払い続ける若者。そして、我が子を抱えた母親が一歩前に出る。

 母親が言葉を詰まらせ、通詞が通訳する。

「この子は、夜になると高い熱が出るんです」

 ダイアーは膝をつき、静かに波紋を当てる。

 掌の下で微かな振動が広がり、子の額の熱はみるみる引いていった。

 母親は息をつき、深く頭を下げる。

 

 マドカは隣で薬草の包みを開いた。透き通る水で煎じた液を小さな椀に注いだ。

 通詞が母親に向かって説明する。

「このお茶を少しずつ飲ませると、熱がさらに下がります」

 子供がマドカの頭頂部の面を見上げ、指先を伸ばした。

「その面、かっこいいね」

 マドカは軽く頷き、仮面の縁をそっと撫でる。

「山の祭りで使う、ただのお守りよ」

 マドカの瞳が、一瞬だけ遠くを見つめる。

 

 治療がひと段落すると、マドカは囲炉裏端に腰を下ろした。火箸を手にぽつりと語り始める。

「香西家は、山の棟梁。マタギの名士として村を仕切ってきた家系なの。私は“姫”と呼ばれて、嫁ぎ先も古くから決められてたし、村の祭事にも、村人に触れることすら許されなかったわ」

 マタギなんて、大した身分でもないのに、気取っちゃってね……

 マドカは鼻を鳴らした。

 ダイアーは薪をくべながら、静かに聞き入る。

「……それは孤独だっただろう」

 マドカは焔を見つめ、目を伏せたまま続ける。

「堅苦しかったな。私はこんな性格だから、結構反抗もしたけどね……秋祭りの夜、親友と一緒に、禁じられた山の境界を越えたっけ。そこで、剣の修行を始めたのよ。といっても、立ち木を叩いていただけだど……猪の足跡を追いかけて、夜の山を走った事もあったな。あの瞬間(とき)は、自由だった。誰も私を縛ることができない……って、思えたっけ」

 ダイアーは手を止め、彼女の背中に視線を落とす。

「俺の故郷でも、人は血筋や宗教で分断された。オスマン帝国下のギリシャでは、教会が焼かれ、隣人が連行されるたびに“正義”と叫ばれていた。命は何度も、何度も踏みにじられた」

「……なんだよ、お前も俺達と似たような思いを持っているじゃぁねぇか」

 榊が鼻を鳴らす。

「……だが、俺はオマエたちのやり方を認めぬ」

「……はっ。せいぜい、いい子ちゃんでいろよ」

 囲炉裏の火が皆の影を揺らす中、マドカは仮面を軽く撫でた。

 静寂のなか、通詞の声だけが次の患者を呼ぶ。

 

◆◆

 

「入れ」

 木戸を開けると、紋付姿の村長が畳に坐していた。

「待っていたぞ」

 榊とツェペリは跪いて頭を下げる。

「腰の具合はどうですか?」

「楽になった。ヌシのその波紋とやら、大したもんだ。生き返るようじゃった」

 ツェペリは首肯し、医道具の袋から包帯を取り出す。

「もう少し治療を続ければ、日暮れには痛みも引いているでしょう」

 榊はツェペリから包帯を受け取り、「村人たちも助かりました」と続ける。

 口元が、かすかに歪む。

「……鷲津殿も、師の信を裏切らぬ覚悟をお持ちのようで」

 村長は楓を見上げて穏やかに頷く。

「若輩ゆえ未熟だが、志だけは曲げぬ……思う事はあるが……恩人じゃ」

 ツェペリは村長の腰に手を当て、くったくなく笑う。

「恩は返すもの。今度は私たちが尽力しましょう」

 

◆◆

 

 昨晩……

 

 深夜の部屋。畳の上に、地図が広げられていた。

 その地図を、鷲津が覗き込む。

 夜の闇をついて、鷲津は村長の家に入っていた。

 指先で幾つかの屋敷をなぞり、村長は細く息をつきながら頷いた。

「飢饉の年、我が家は蓄えのほとんどを切り崩して村を支えた。外からの圧迫で田は荒れ、子らの未来がない。もう一度村を守るには、別の道しか残されておらぬと覚悟したのだ」

 鷲津は地図を畳み、冷たい声で要点だけを言った。

「まず命を絶ち、血を入れる。生きたままでは制御できぬ。血が足りなければ、制御を失った鬼になるだけだ。だが大丈夫だ。かならず『兵器(それ)』にしてやる」

 榊の目が小さく瞬いたが、鷲津は続けた。

「合図は一つ。マドカが面を顔につけた時だ。榊、納得しろ……」

 榊は黙って視線を落とし、夕闇が藪の縁を黒く染めていくのを見た。遠くで犬が吠え、村の方角から低いざわめきが聞こえた。次の瞬間に何が起きるかを思い、彼の指先がわずかに震えた。

「正義を語る者ほど、誰かに不正義を働くことが多い……そういうモンだ」

 鷲津はそう言って、遠くの火を見ていた。

 

◆◆

 

 夕刻──

 

「今日はずいぶん手際がよかった。村人たちも助かっただろう」

 榊は手拭いで汗をぬぐいながら、視線をマドカの手元へ滑らせた。

 面の縁に触れるマドカの指先が、わずかに揺れる。

「闇夜の山道で、襲われかけた私を助けてくれたのは、あの人だった。気づけば隣で「共に行動しろ」と告げられ、私は隊の一員になっていた……」

 陽光を受けた稲穂のざわめきに、榊は小さく頷いた。

「鷲津殿は、お前を信じておられる」

「この村は、ダメだよ……みんな、幸せそう。壊す必要はないよ」

「……確かにな」

「鷲津さん、判ってくれるよ。あの人は、良い人だもの」

 

 縁側の影が長く伸びる。マドカは面の縁を撫でるだけで、指が小刻みに震えた。ハッ、ハッと浅い呼吸。

 祭りの夜が一瞬、胸を殴る。

 裸足で駆けた路地、はしゃぐ声。

 地面に転がされた子供たちのはしゃぐ声が、マドカの脳裏に浮かぶ。

「……マドカ……」

「何? 呼び捨てにしないでよ」

「……すまぬ……」

 

 ドンッ

 榊の手が伸びる。マドカは肩を引くが、掴まれる。

 

「蒼ちゃん、どうしてッ!」

「だから、済まぬといったッ!」

 

 ギシッ

 カチッ

 金具が触れ合う音。

 面が滑り落ち、頭を覆う音。

 

 ガサッ

 仮面の重さが首にのる。マドカの視界が狭まる。音が絞られ、世界は布と影の断片だけになる。目の端に光の裂け目が走る。

 息が一拍止まる。

 濃厚な甘い香りが、マドカの肺を満たす。

 マドカの内側で、いつもの自分がズルリと滑り落ちるのを感じた。

 何かが奪われていく——何かが、与えられていく——

 チリチリと、肌が痛む。

 

「……でも、もう一人のお前は、壊したがっている……」

 榊の声が、薄れゆく意識に幽かに聞こえた。

 

◆◆

 

 黒い影のような霧が、周囲に飛び散った。

 土の匂いが裏庭に渦巻く。子供の瞳がカァッと見開き、母がギュッと抱き寄せる。老男は杖に力を込め、歯を鳴らす。

 草が揺れる音が不穏に続く。

 影が群れ、地がドンと唸る。

 

 最初に倒れたのは、村長だった。

 喉を、自ら短刀で突いた。

 取り巻き達も懐から短刀を取り出した。刃を胸にあて、次々に地面に倒れ込む。

 

 キャアッ! 

 母たちの叫びが空を引き裂く。子らはワアワアと逃げ惑い、足が絡まる音がする。

 

 黒い霧を吸い込んだ男たちの顔が、引き締まる。互いの目が合い、うなずきあう。父が子の頭をポンと撫で、刃を帯びた手がグッと前へ出る。

「父ちゃんッ!」

 子供の見ている前で、男達が自らの首を、斬る。

 

 いつの間にか、村に黒羽織の新選組・別動隊が全員侵入していた。

 鷲津の声が冷たくコトリと降る。「手順通りだ」

 一行に混ざっていた屍生鬼(グール)が、村長の死体に追いかぶさり、喉笛に食らいつく。

 

 しばらくすると、倒れた村長がギクッと体を震わせ、起き上がった。

 瞳にジロリと白い光。

 つづけて、屍生鬼(グール)達が倒れた他の男に覆いかぶさる。

 そして、一度倒れた男たちが、再び立ち上がる。

「ギュァアア……」

 再び立ちあ上がった男達は、焦点が合わない目で、意味のない音を口に出し続ける。

 その目に、すでに家族は映っていない……

 

「うわぁああああああ!」

「おとーちゃん。おとーちゃんッッ!」

「いやぁあああああ!」

 

 子供たちが、妻たちが、若者たちが叫ぶ。

 目の前の現象は、それ自体が凶器のように衝撃を投げつけた。

 それでも男たちは前へ出る。刃がカンッと光り、家族に一度だけ視線を返す。

 そして、自らの命を絶つ。

 

「何だ……これは……」

 ダイアーが戸惑う。

 縁側を見ると、マドカが立っていた。面が顔を覆い、目はトロンと虚ろだ。風がヒラリと裾を翻し、彼女はまるで操られた人形のように、ポツンと立ち尽くしている。

 

 ──ザザッ

 夜が村を飲み込む。

 

 ツェペリが前に出た。

 

 コォォオオオ────ッ

 波紋の呼吸を練りながら、腰に巻いたロープをほどく。

 あまりの事に半狂乱になっている村人たちにロープをかけた。

黒蝶波紋疾走(ブラックバタフライ オーバードライブ)ッ!」

 ロープに、蝶のように揺らめく波紋が走る。

 

「!ッ」

 波紋の衝撃を受けた村人が、一瞬我に返る。

 ツェペリが叫んだ。

「危険だ。まだ生きている村人を連れて、ここを離れろッ!」

 

 ダイアーはすぐに動く。

 通詞が叫びながら家々を回り、母子を掻き抱く。

 動揺している家族には、波紋をそっと流し、気を落ち着かせる。

 

 縄と布を手渡し、まだ無事だった男たちが、それを張る。

 縄が張られる音がザッ、ザッと続く。

 子の手が慌てて縄を掴む。母が唇を噛む。

 ツェペリは掌を縄に向け、波紋を短く流す。

 ビシッと空気を裂く音とともに、縄が微かに震え、屍生鬼(グール)の足が一瞬止まる。

 

 砂が舞う。

 

 ダイアーと通詞はその間に村人の列を作る。

 通詞が子を抱え、老女を支え、ダイアーは腕で列を押すように進ませる。

 ロープで通路を囲い、波紋の流れる縄を低く張る。

 人々はその中を走らされる。

 足音がドタドタ、泣き声がワアッと割れる。

 

 再び、屍生鬼(グール)達が押し寄せる。

 ツェペリは波紋を再び縄に打ち込む。縄が震え、屍生鬼(グール)を弾いた。

 だが屍生鬼(グール)の数は減らない。

 ツェペリの肩に血の色が差し、息が短くなる。掌が軽く震える。

 彼の声は低く、ただ一言──

「早く行け」

 男たちが子らを押し出す。

 女たちが幼子を背負い、歩き出す。

 村人たちの、避難は進む。

 ツェペリはさらに大きく波紋を叩き込む。縄がクッと光り、屍生鬼(グール)の群れを押し返す。

 ビリビリと空気が裂け、土が浮く。

 

 ツェペリがさらに一歩、前に出る。掌を開き、構える。

「ダイアー、村人を頼むッ……この場は、俺が止めるッ!」

 ダイアーは即座に動いた。

 通詞が叫びながら家々を駆け、母子を掻き抱く。

 縄がバサッと投げられ、男たちがそれを柱に巻く。

 ザッ、ザッ、ザッ! 

 縄が張られる音が村の空気を切り裂く。

 ツェペリの掌が縄に触れる。

波紋疾走(オーバー・ドライブ)ッ!」

 ビシィィィッッ!!

 波紋が縄に走り、光がパチパチと弾ける。

 縄がブルブルと震え、屍生鬼(グール)の足が一瞬止まる。

 

 その隙に、ダイアーは母子の列を押し出す。

 通詞が老女を支え、子供が泣きながらダイアーの袖を掴む。

「泣くな……走れッ!」

 ダイアーの声が鋭く響き、子の手が離れる。

 縄の内側へ、村人たちがドドドッと走る。

 村人たちを、屍生鬼(グール)が迫る。

 屍生鬼(グール)の群れが地を這う。

 

 コォォオオオ──

 ツェペリは綱を握り、波紋の波紋を練りつづける。

 

 ドンッ!

 ビリリリリッ!

 縄が光り、屍生鬼(グール)が弾かれる。

 だが数は減らない。

 ツェペリの肩に血が滲み、息が荒くなる。

「まだだ……まだ、通すッ!」

 

 一部の男たちが家族に一瞥をくれ、無言で屍生鬼(グール)たちの方へ戻る。

 刃を帯び、顔は決まっている。

 ツェペリの横を通り過ぎ、縄をくぐる。

 だが、すぐに屍生鬼(グール)たちに囲まれ……姿が見えなくなった。

「お父うッ!」

 父の名を呼ぶ子供の声が、響く。

 

 綱が揺れ、波紋が響く。

 通路は塞がれ、避難は続く。

 ツェペリは波紋を流し続ける。

 ビシィィィッ! 

 縄が光り、空気がバチバチと裂ける。屍生鬼(グール)が吹き飛び、土が舞う。

 

 ダイアーは最後に子供の肩を叩き、通詞が耳元で囁く。

 子供の小さな手が袖を離れる。

「ダイアー、俺がしんがりを務める」

「……承知」

 ダイアーが避難した村人たちをいざない、闇に消える。

 

「さて……どこまで時間を稼げるかのう……」

 一人、屍生鬼(グール)の前に残ったツェペリが、波紋の呼吸を続ける。

 

 ビシィィィッ! 

 縄が震え、屍生鬼(グール)が弾かれる。

 縄を超え、入ろうとしてきたものを蹴り飛ばす。

 どれほど、そうやって屍生鬼(グール)たちを食い止めていたのか。

 やがて、屍生鬼(グール)たちが動きを止めた。

 そして、屍生鬼(グール)たちを押しのけ、鷲津が顔を出した。

「なんだと……貴様……裏切ったのか」

「裏切り? 違うね。彼らは自ら望んで、こうなったのだ。新政府軍共を根絶やしにし……そして異人どもを追い払い、再びこの国に平和をもたらすためにな」

「……どういうことだ?」

 

 男たちが、ゆっくりと立ち上がる。 皮膚が裂け、骨が軋む音が響く。

 

 ギギギギ……ギィィィ……

 目が赤く染まり、牙が覗く。 彼らは、もう人ではない。

 だが見覚えがある。先ほど自ら綱を潜り抜け、屍生鬼(グール)共に囲まれた男達だった。

「彼らはもう選んだ。自ら屍生鬼(グール)となることで、村を守ると。君の“正義”は、彼らの“覚悟”を否定するだけだ」

「覚悟だと……?」

 ツェペリは一歩、後退する。

 だが、屍生鬼(グール)は止まらない。

 

 そのとき──

 ヒュウウウウ……

 と風が吹く。

 ツェペリの前に、一人の影が立つ。

 

 マドカだった。

 面をつけたまま、静かに立っている。面は朱色に染まっている。

 衣の裾がヒラリと揺れ、風が彼女の周囲を巻く。

 ツェペリは目を見開く。

「マドカ……!」

 だが、彼女は何も言わない。

 ただ、掌をゆっくりと上げた。

 その動きは、波紋戦士のそれに似ていた。

 スゥ……と香りが広がる。

 甘く、懐かしく、胸の奥をくすぐるような香り。

 それは、波紋ではない。

 ツェペリの足が、わずかに震えた。

「この香り……っ」

 マドカの声が、面の奥から響く。

 低く、感情のない声。

残響賛歌(エコーズ・アンセム)……」

 

 その瞬間、ツェペリの胸が爆ぜた。

 過去の記憶が、怒涛のように押し寄せる。

 師の死、仲間の犠牲、守れなかった村人の顔——

 

 ドクンッ!

 ドクンッ!

 呼吸が乱れる。

 掌が震え、膝が崩れそうになる。

「う……うぅ……ッ!」

 鷲津が、口元に笑みを浮かべる。

「合図は、整ったようだな」

 屍生鬼(グール)と化した男たちが、呻きながら立ち上がる。

 

 ギギギギ……ギィィィ……! 

 皮膚が裂け、骨が軋む。

 目が赤く染まり、牙が覗く。

 空が、わずかに白み始める。

 東の山際に、かすかな光が滲む。

 鷲津がちらりと空を見上げる。

「……時間がないな」

 屍生鬼(グール)たちが、最後の咆哮を上げる。

 ツェペリは、感情の奔流に呑まれながら——

 マドカの面を、ただ見つめていた。

 面は、コトコトと揺れている。その淵から、光が漏れ出しているようにも見える。

 ……面をかぶったマドカの姿は、石仮面をかぶった、父の姿に重なった。

 

 そして、夜が終わる前に——

 ウィル・A・ツェペリは意識を失った。

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