鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部)   作:ヨマザル

8 / 11
対峙

 袖をめくった。

 左腕は、悲惨なことになっていた。

 肌は真っ黒。皮がむけて、肉が出ている所もある。

 恐ろしいことに、殆ど痛みがない。

 まるで……昨晩見た、屍生鬼(グール)の肌の様だった。

(……わたし、大丈夫なのかな。どうなってしまうんだろう……)

 ひなたは、ぞっとしながら、傷口を見ていた。

 

 しづは、ひなたの腕を丁寧に洗い、もう一度軟膏を塗った。

 優しく触ってくれたはずの、しづの指先。

 ほとんど感じない。たまに、激痛が走る。

 

「……できることはしているけど……」

 しづが言う。ひなたは、努めて元気に返事をする。

「……鱗滝さんが連れてきてくれたお医者さんからは、最悪の場合、腕を斬り落とさなくてならないかもしれないと……」

「そう……」

「でも、そんなに怖くないですよ。鱗滝さんが言ってました。まったく痛みを感じさせずに、斬る技があるって……得意技だって、言ってました……」

 しづは怯み、袋の口を閉じながら、視線を落とした。

「この薬草は、お父さんの代からの秘薬なの。とっても効くのよ」

「そうですね。おかげで、前よりも全然楽です……治ってきているのかも……です」

 

「そうね……治そう」

 しづは、ぎゅっとひなたを抱きしめた。

「……あの子の時も、薬草だった。うまく調合できなくてね……でも、その後必死に薬を学び直したのよ。だから、今度こそ治して見せるわ……」

「はい」

 しづの声が、一瞬震えた。

「だって、間に合わなかったのよ。あの時は…」

「……」

「それで、あたしは、向こうに入った。旧幕府軍の負傷者をたくさん治したわ。何度かは、絶対助からない……って言われたほどの大怪我から、救うことも出来たの。だから大丈夫。信じて」

「もちろんですッ! ……しづさんは、その時には間に合わなかっただけ。今なら……」

 しづは、少しだけ笑った。

「そう言ってくれるの、あんただけだよ……でもありがとね。信じてくれて」

「当然ですよ」

 治療を終え、ひなたは、店を出た。

 しづは、手を振った。

 扉の音は、乾いていた。

 

◆◆

 

 路地は静かだった。

 夕暮れ。空は赤く、影が長い。

 ひなたは歩いていた。

 袋を持っている。足取りは、少しだけ重かった。

 何かの香りがした。

 甘く、冷たく、重い。

 ひなたは、立ち止まった。

 視線を上げた。

 路地の奥に、誰かがいた。

 

 黒い羽織を着て、刀を差した浪人のように見えた。

 目が、虚ろだった。

 動きが、少し変であった。手足の動きの、リズムがおかしい。

 浪人は、ひなたをじっと眺めている。

 

 ひなたは、歩みを止めた。

 浪人が、こちらへ向かってきた。

 無言だった。

 乾いた足音が響いた。

 近づくと、浪人の近くから蝋梅(ろうばい)のような香りがした。

 甘く、冷たく、重い。

 

 ひなたは、後ずさった。

 浪人が、刀を抜いた。

 言葉はなかった。

 

 「ひっ…」

 ひなたは、向きを変えた。歩いてきた方向に、走った。

 路地を曲がった。

 

 角を曲がった先に、子供がいた。

 転んでいた。

「ううっ……」

 ひなたの腰にも届かないほどの、小さな子。

 歯を食いしばり、泣くのを堪えていた。

 立ち止まり、子供に覆いかぶさった。

 

 浪人の足音が、近づいていた。

 

「大丈夫だよ……姉ちゃんが、守ってあげる」

 赤い子供の頬から、少し甘い匂いがした。

 頬を寄せると、子供の涙と鼻汁がひなたの襟元につく。

 ギュッと、強く抱きしめた。

 子供も、ひなたの肩に両手を回す。

 その手が強張る。

 

 影が動く。背後で、浪人が刀を振り上げたのがわかった。

 ひなたは、目を閉じた。

 

 鈍い音。

 だが恐れていた痛みはなかった。

 

「ひなたッ。良くやった」

 背後から鱗滝の声。

 屋根から、飛び降りてきた。

 ひなたと浪人の間に、立ち塞がっていた。

 

「ぐぅううううッ」

 浪人が叫ぶ。

 再び刀がぶつかり合う音。

 浪人の刀が、止まった。

 

 鱗滝の刃が、浪人の手を裂いた。

 浪人は倒れた。

 

 子供が、小さな声で泣き出した。

 その背を、トントンとなでる。

 

 鱗滝は、刀を収めていた。

 倒れた浪人の脈を、指先で探る。

 

 ひなたは、立てなかった。

 子供の手を握ったまま、膝をついていた。

 鱗滝が、ようやくこちらを見た。

 目は、細く開いていた。

 

 その隈取をみて、子供が声を立てて泣き始めた。

 ひなたは、子供の背をトントンと叩いた。

 うまくいかなかった。

 

 鱗滝が、歩いてきた。

「立て」

 声は、低かった。

 怒っているわけではなかった。

 優しいわけでもなかった。

 

 「助けてくれて、ありがとうございました」

 ひなたは、立った。

 子供の手は、まだ握っていた。

 

 「気にするな。お前は、良くやったよ」

 鱗滝は、もう背を向けていた。

 歩き出していた。

 振り返らなかった。

 

 と、倒れた浪人の手元に、白い封筒があるのを見つけた。

 封筒には、「ひなたへ」と書かれている。

 封を開ける。

 中には、短い手紙。

「話がしたい。市街地の外れの廃屋で」

 手紙の裏に、手書きの地図が、書かれていた。

 差出人の名前はなかった。

 でも、筆跡と言葉の調子で、すぐにわかった。

 

◆◆

 

 瓦屋根の端に、黒い影が立っていた。

 長い外套が、膝まで覆う。

 顔は隠れている。白い面。無紋。

 左手に、細い袋を持っていた。

 その袋の口を開け、香りを嗅いでいた。

 動かない。

 だが、視線だけが、下を向いていた。

 路地の奥。

 子供の手を握る女の姿。

 震えていた。だが、手を離していなかった。

 倒れた浪人の手元にあるモノを、拾っていた。

 そのものを確認し、女は驚いたように周囲を見ていた。

 屋根の上の人物は、袋の口を閉じた。

 

「坊や、怪我はない? どこの家の子?」

 女が、優しく子供に話しかけていた。

 

◆◆

 

 廃屋は、市街地の外れにあった。

 瓦屋根は崩れかけていて、壁は半分欠けていた。

 ひなたは、立ち止まった。

(どうして、こんな場所を選んだんだろう)

 ひなたは、息を整えた。

 扉は、開いていた。

 一歩、踏み入れた。

 

 廃屋の中は、静かだった。

 壁は崩れかけていて、床に瓦礫が散っていた。

 風はなかった。音もなかった。

 ひなたが、足を踏み入れた。

 

 マドカは、奥に立っていた。

 朱色の面をつけている。昔マドカに見せてもらった仮面に似ているが、あの仮面は白かったはずだ。

 外套の裾が、土に触れていた。

 

 距離は、七歩分。

 間に、割れた柱と瓦礫があった。

 ひなたは、立ち止まった。

 マドカは、動かなかった。

 互いに、何も言わなかった。

 

 ひなたは、マドカの姿勢を見ていた。

 肩の高さ。指の角度。

 昔と、あまり変わっていなかった。

 でも、動かない時間が長すぎる。

(酷い、全身傷だらけじゃない。元気そうには見えるけど……)

 

 マドカは、ひなたの目を見ていた。

 瞬きの間隔。呼吸の浅さ。

 昔と、ほとんど同じだった。

 でも、立ち方が少し違う。

(何か、意思を決めて来た顔ね……)

 

 ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 

 沈黙が、長く続いた。

 ひなたが、口を開いた。

「……髪、伸びたね」

 マドカは、少しだけ顔を傾けた。

「そっちこそ」

 ひなたは、笑わなかった。

 マドカも、笑わなかった。

 

「……こんな場所、よく見つけたね」

 マドカは、少しだけ視線をずらした。

「人が来ない」

「それが目的?」

「話すには、静かな方がいい」

 ひなたは、瓦礫を一歩だけ踏んだ。

 音は、乾いていた。

 

 ひなたは、もう一歩進んだ。

 瓦礫が崩れた音が、壁に吸われた。

「函館、慣れた?」

 マドカは、少しだけ間を置いた。

「寒いけど、静かでいい」

「……うん。とても寒くて、雪が降っていると空がどんよりしていて気が少し重いけど、落ち着く。街中は、にぎやかだけどね」

 マドカは、袋に触れなかった。

 

 ひなたは、視線を落とした。

「この前、文蔵さんに手紙出したよ」

 マドカは、少しだけ動いた。

「返事、来た?」

「うん。畑はまだ続けてるって。腰は悪いけど、元気そう」

「……あの人は、変わらない」

 ひなたは、マドカの言葉に少しだけ驚いた。

 マドカが、誰かのことを“変わらない”と言うのは、珍しかった。

「あと、さよちゃんも。子供が二人になったって」

「さよちゃんが? ……あの子、泣き虫だったのに」

「今は、強いよ。すごく。お母さんだもの」

 マドカは、何も言わなかった。

 沈黙が、少しだけ柔らかくなった。

 ひなたは、もう一歩進んだ。

 距離は、五歩分になった。

 

「さよちゃんが強くなったって、信じられない」

 マドカが、少しだけ首を傾けた。仮面を外し、額に乗せた。

 顔が、あらわになった。少しやせてはいるが、ひなたが良く知っている、マドカだった。

 

「さよ、泣き虫だったよね」

 ひなたが、笑いそうになって、こらえた。

「でも、あの子、私より先に小間物屋で値切ってた。メチャメチャな値段で、値切っていたよ」

「そんなことも、あったねぇ」

 マドカがクスリと笑った。

 

 この話題をきっかけに、二人の会話が一気に盛り上がった。

 二人は、子供のころの初恋の話(ひなたが好きになった子を、マドカが横恋慕した)や、髪を結い合った日(ひなたが不器用で、マドカの髪をぐちゃぐちゃにしたこと)、団子を分けた春の日(「甘いものは、分けるともっと甘くなる」とマドカが言ったこと)、手紙交換の約束(マドカの初めての手紙に「今日の月は、ひなたに似てた」と書かれていたこと)、獣の骨を拾った日(マドカが髪飾りにしようとして、ひなたが「怖い」と止めたこと)などを、次々と語り合った。

 言葉が重なり、間が短くなった。

 面の奥から、マドカの声がよく響いた。

 ひなたの声も、少しだけ高くなった。

 瓦礫の隙間に、声が吸い込まれていった。

 

 ひなたは、もう一歩進んだ。

 距離は、三歩分になった。

「覚えてる? 5歳の時、村の祭りで剣術の興行を見たの。風みたいに動く侍がいて、すごくカッコよかった」

「その人が言ったの。“刀は、選ばれなかった者が選び返すための道具だ”って」

「何それ? どういう意味?」

「……いまだにわからない。でも、カッコよかった。あんなふうになりたいって思ったな」

「それでアンタ、剣術をやりたいって言ってたの」

「そう。でも、あのクソ親父は入門させてくれなくてさ」

 マドカは、唇をゆがめた。

「あれは頭来たね。でも、だからって私を稽古相手にしなくても良かったでしょ」

「ああ、裏山でこっそり剣術修業をしたね。二人で。付き合ってくれて感謝しているよ」

「何が剣術修業よ。ただのチャンバラでしょ」

「あら、私は剣道場をこっそり見張って、あの親父の動きを良く見てたからね。それで覚えた動きを、アンタで練習させてもらってたのよ」

「そうだったの? でも、思いっきり叩かなくても良かったんじゃない? あの頃、体中青あざだらけだったんだから……」

「だから、悪かったって……今は私が、青あざだらけよ……じつはね、蒼ちゃんと毎晩、剣術稽古しているのよ。これはその時の傷」

「うわぁ……で、蒼ちゃんって、誰? んんん??」

「ちょっとやめてよ。変な詮索しないで」

「はいはい……蒼ちゃんによろしくね」

「だから止めてって、そんなんじゃないし」

 

 笑いが、少しだけ落ち着いた。

 ひなたが、瓦礫の上に腰を下ろした。

 マドカは、立ったままだった。

「左腕はどう?」

「痛いわよ……でも、大丈夫。しづさんに、治療してもらっているの」

「しづさん?」

「……そうよ……」

「じゃあ、しづさん、元気になったんだね。良かった」

「そうよ。アンタが壊したしづさん、元気になったよ」

「え? 私が、壊した?」

 マドカが首を振った。

「……違う。私は、助けた」

「何を言っているの? しづさんは、壊れかけてた。ずっと彼女のそばにいたから、知っているわ……でも、ようやく立ち直りそうよ」

「……壊れたものを、戻しただけじゃ、助けたことにはならないよ」

 

「何を、言っているの? アンタが壊しかけたしづさんを、癒したのは私」

「それは、あなたのためでしょ」

「違う。あの人のため」

 一刻、言葉が止まった。

 ひなたは、呼吸を整えようとした。

 うまくいかなかった。

「どうして、しづさんにあんなことをしたの」

「壊したんじゃない」

 少しして、マドカが言った。

「揺らしただけ。あの人は、お子さんの死から立ちなる必要があった! だから、思い出させてあげたのよ」

「それで……あの人は死にかけた」

「でも生きてる」

「それが目的だったの? 思い出させることが……」

「止まってたから」

 マドカの声が、少しだけ強くなった。

「動かない人は、腐る」

「腐ってなんか、なかった」

「あなたには、そう見えたんでしょ」

「……うん。そう見えた」

「でも、私は違った」

「違ってたから、壊していいの?」

「壊したんじゃない。見せただけ」

「何を?」

 

「自分の中に、何が残ってるか」

 

 ひなたは、立ち上がった。おでこに乗せた仮面を、再び被った。

 瓦礫が崩れた。

「それでも、あんなやり方じゃなくてよかった」

「じゃあ、どうすればよかったの?」

「……わからない。でも、あんなふうに泣かせたくなかった」

「泣いたから、また立ち上がれて、生きれるようになった」

「それ、あんたの正義?」

「それ、あなたの優しさ?」

 

 香りは、濃くなっていた。

 マドカは、袋を握ったまま、言葉を重ねた。

「私は、あの人を動かしただけ」

「誰も、見ないふりで、動かそうとしなかった。悪いことをしたとは、まったく思ってないよ」

 

 ひなたは、黙って聞いていた。

 でも、指が震えていた。

 

「それが、間違いだったって言うの?」

 マドカの声が、少し荒れた。

「じゃあ、あなたは何をしたの?」

 ひなたは、立ち上がった。

「私は、あの人の手を握った」

「それで、何か変わった?」

「泣いてた。苦しんでた。でも、生きようとしてた」

「それは、あなたが見たいものを見ただけ」

「違う。あの人が、見せてくれた」

「それでも、動かなかったら?」

「それでも、待つ」

「待ってる間に、腐る」

 

「腐るって、あんたはよく言うけど──」

 ひなたの声が、強くなった。

「人は、心が腐る前に、誰かに触れてほしいって思うんだよ! それで、助かるんだよ!」

 マドカは、袋を握り直した。

「触れるだけじゃ、何も変わらない」

「変わるよ。少しずつでも」

「それじゃ、遅い」

「遅くても、壊すよりマシ!」

「壊さなきゃ、変われないこともある!」

「それ、あんたの勝手な理屈でしょ!」

「それ、あなたの逃げでしょ!」

 

 声が、ぶつかった。

 瓦礫が揺れた。

「大体、あなたはいつだって──」

 ひなたの声が、少しだけ高くなった。

「人の気持ちなんて見ないで、勝手に動く!」

 マドカは、面の奥で目を細めた。

「団子のときもそう。私が買えなかったの、知ってたくせに、黙って半分だけ渡してきて」

「優しさみたいな顔して、何も言わないで」

「言ったら、受け取らなかったでしょ」

「そういうとこ!」

 ひなたの声が、荒れた。

「髪を結ったときも、私がぐちゃぐちゃにしたのに、笑ってたけど、あれ、本当は嫌だったんでしょ!」

「嫌じゃなかった」

「嘘!」

 

「じゃあ、あなたは? あの祭りの夜、蒼真が私にお花を渡したとき、何も言わなかったけど──」

「本当は、泣きたかったんじゃないの?」

 ひなたは、言葉を失った。

 でも、すぐに言い返した。

「あなたが、選ばれたからでしょ!」

「だから、選び返した」

「それが、ずっと、ずっと悔しかった!」

「じゃあ、言えばよかった!」

「言えなかったよ!」

「それは、あなたの問題!」

「そうだよ! でも、あなたはそれを知ってて、何も言わなかった!」

「言ったら、壊れると思ったから」

「壊れても、言ってほしかった!」

 

 マドカは、袋を開いた。

 香りが、強くなった。

 ひなたは、袋を握りしめた。

 指が白くなっていた。

 空気が、割れた。

 距離が、消えた。

 声が、荒れた。

 二人は、叫んでいた。

 

 声が、途切れた。

 瓦礫の上に、静けさが戻った。

 でも、空気は冷えていなかった。

 ひなたは、マドカに歩み寄った。

 三歩。二歩。

 距離が、なくなった。

 マドカは、袋を開いたまま立っていた。

 香りが、揺れていた。

 ひなたは、マドカの外套を掴んだ。

 指が、震えていた。

 でも、離さなかった。

 

「……なんで、そんなふうにしかできないの」

 マドカは、何も言わなかった。

 面の奥で、目を閉じた。

「壊すことしか、選べないの?」

 マドカは、ゆっくりと手を伸ばした。

 ひなたの手に触れた。

 掴まれた着物の上から、そっと。

「もう一度言うよ。壊すことでしか、変わらないものがあるからだよ」

 マドカの声は、静かだった。

 

 ひなたは、手を離そうとしなかった。

 でも、力が抜けていった。

 マドカは、そっと手をほどいた。

 ひなたの指が、着物から滑り落ちた。

「……もう、遅い」

 マドカが言った。

 ひなたは、何も言えなかった。

 マドカは、背を向けた。

 袋を閉じなかった。

 香りは、残っていた。

 ひなたは、立ち尽くしていた。

 手は、何も掴んでいなかった。

 距離は、戻らなかった。

 言葉も、戻らなかった。

 

 マドカは、袋を握りしめたまま、背を向けた。

 今度は、歩き出した。

 二人の接点は、なくなった。

 残ったのは、互いの距離だけだった。

 

 そのとき──

 マドカの背後に、微かな音が立った。

 ひなたは、気づいた。

 マドカの肩が、ほんの少しだけ震えた。

 マドカは、立ち止まった。

 振り返らずに、言った。

「その袋、次に会ったときは返して……今は、私が必要なの」

「どうして……」

「アンタには、関係がないよ。もう」

 そして、マドカは歩き出した。

 今度こそ、立ち止まらなかった。

 

────────────

 

 港の霧が立ち始めた夕刻。

 浜の倉庫跡には誰もいないはずだった。

 木造の骨組みだけが残ったその場所に、しづは一人で立っていた。

 周囲は、あっという間に暗くなっていく。しづは、懐から小さな提灯を取り出すと、灯をともした。

 薬草の袋を抱え、足元の湿った砂を見下ろしている。

 蟹が、足元を走る。

 

「遅かったわね」

 しづが言うと、提灯の明かりがともり、霧の向こうから男が現れた。

 村雨──志々雄一派の一人。黒い羽織に、無表情の顔。

「函館は風が読みにくい」

「マドカは、動いたわ」

「志々雄様は、すでに察している」

「……あの子は、本当は普通のいい子よ……そっとしておくことはできないの?」

「フン……お前も、お人好しなことだな……」

 

 そのとき、外から足音が近づいた。

 鬼殺隊の二人の剣士、鱗滝と桑島だ。倉庫跡の前に現れた。

「何と意外な。屍生鬼(グール)のうち漏らしがないか探る途中、ここに異常な気配があると感じてきてみれば……」

 桑島が言い、鱗滝は腕を組む。

「……まさか、知り合いとはな」

「私です。ここで仕事がありまして……」

 しづは穏やかに答えるが、桑島は眉をひそめる。

「しづ殿……なぜ嘘をつく。何故あなたが、ここに居る?」

「理屈に合わない……」

 鱗滝の声は低い。

「私は、客から呼び出されたのです」

 しづは、村雨を指さす。

「このご人から、取引場所を指定頂いたので……」

「……これはこれはお侍様がた……」

 村雨は、もみ手をしながら、笑いかけた。さきほどしづと話していた口調とは一変している。

「あんたは……」

「へい。あっしは道北の薬屋でして。とはいえ実は、薬を作る方はさっぱりでして。こうやって、しづ殿の所から、薬を仕入れて売り歩くと。こういうワケでして……」

「……」

 

 浜に打ち寄せる波の音が響いた。

 

 ザバッッ

 その瞬間、倉庫の奥に積まれたガラクタの山から屍生鬼(グール)が現れ、暴れ出した。

 皮膚は灰色にただれ、眼球は片方潰れていた。

 関節が逆に折れ曲がり、四つ足のような姿勢で床を這いながら、唸り声を上げて突進してくる。

「ひえぇッ」

 村雨が、肝を押しつぶされたような悲鳴を上げた。

「感は正しかったか……こんなところで、太陽の光を避けていたとはな……」

 鱗滝が構えようとした、その刹那。

 

「遅い」

 同じく物陰の中から、包帯姿の男が現れた。

 全身を包帯で覆った男。

 男は鱗滝が止める間もなく屍生鬼(グール)に駆け寄る。

 尋常ではない速度だ。

 そのあま、ためらうことなく、刀を横に払った。

 

 バシュッッ! 

 屍生鬼(グール)の首が、焼け焦げた音とともに落ちた。

 

「日輪刀じゃない……なのに……」

 桑島が呟く。

 

「ヌシは何者だ?」

 鱗滝の問いに、男は嗤った。

「ご挨拶だな……フン……俺の名は、志々雄真実。しづの客さ。このナリなんでな。薬を買いに来た……それに、情報もな」

 しづを見やる。

 しづは、コクリとうなずいた。

「そうか、これがあなたの『仕事』というワケか……」

 鱗滝は、改めて目の前の男を見た。

 

 全身を包帯で覆い、右手には奇妙な刀──刃全体がノコギリ状だ。

 ……脂が染み込んでいる匂いがする。恐らくは、人の脂……

 全身から、『只者ではない』手練れの気配が漂っていた。

 

 先ほど紹介された村雨が、片膝をつき、志々雄に頭を下げている。

 

 鱗滝は、言葉を返さない。

 志々雄は刀を納め、鱗滝に視線を向けた。

「鬼狩りか。まだ生き残っていたとはな」

 声は静かで、どこか楽しげだった。

 鱗滝は、わずかに眉を動かした。

「人斬りが、鬼を斬るとは珍しい」

「斬れるものは、斬る。それだけだ」

 

 志々雄は、しづに視線を戻す。

「マドカは、まだ未完成だ」

「誰を斬って、誰を残すか。マドカに選ばせてやるつもりよ」

 

「選ばせる……?」

 桑島が口を挟む。

 志々雄は、少しだけ笑った。先ほど切り捨て、体が崩れていく屍生鬼(グール)を、蹴とばす。

「こいつ等、下らねぇ……香りにつられて動く。虫かよ……俺には届かん……が、あのガキが何者になるか、ならねぇか──鷲津の奴から話を聞いて、暇つぶしにちょっと見に来ただけだ」

 

 しづは何も言わなかった。

 桑島は、わずかに顔をしかめた。

 志々雄は、霧の奥へ視線を向けた。

「使えるなら使う。使えないなら、斬るか、捨て置くだけだ」

 

「……」

 桑島は、しばらく黙っていた。

 そして鱗滝に目を向ける。

「こ奴、油断ならん。俺がしばらくついて、見張る」

 志々雄は、ちらりと桑島を見た。

 包帯の奥で、口元がわずかに動いた。

「チビ、おまえも鬼斬りかよ……人を斬らん連中にしては、よく喋りやがる」

「……」

「まあ、黙ってついてくるなら、邪魔にはならん」

 桑島は何も言わなかった。

 鱗滝は、わずかに目を細めた。

 そのとき、しづが口を開いた。

「私は、もう動かない」

「あなたのやり方には、ついていけない」

 志々雄は、ほんの少しだけ顔を向けた。

 そして、鼻で笑った。

「好きにしろ。風向きが変われば、また戻る」

 

 霧がまだ残っていた。

 焦げた匂いが、風に混じって漂っていた。

 志々雄は、包帯の奥で笑った。

 その笑みは、誰にも向けられていない。

「せいぜい励むことだ。ぼやぼやしていると、マドカが、あの子を喰らうぞ」

 しづは、何も言わなかった。

 ただ、鱗滝の隣で、薬草の袋を握り直した。

 鱗滝は、わずかに眉を動かした。

「ひなたの元へ急ぐ。お前はどうする」

 しづは、答えなかった。

 だが、足はすでに動いていた。

 志々雄は、背を向ける。

 

 桑島が、その背を見ていた。

「行くのか」

 志々雄は振り返らない。

 志々雄はそれ以上言わず、霧の奥へと歩き出した。

 倉庫跡には、焦げた匂いと湿った空気だけが残った。

「見ておけ。腐ってなければ、何か掴める」

 桑島は、鱗滝としづの背中を一度だけ見た。

 そして、志々雄の後を追った。

 霧が、音もなく割れていく。

 

────────────

 

 袋の口を結びながら、マドカはぽつりと言った。

「勝手に決めて、勝手に離れて……あの子はいつもそう」

 風が吹いた。

 縁側の木がきしむ。

 袋の中から、香りが少しだけ漏れた。

 マドカは手を止める。

 皆で、新選組・別動隊が隠れ場と決めた空き家に隠れていた。

 マドカは、その庭にある井戸のそばに座っていた。

 井戸の水面の向こうに、ひなたの笑顔が浮かんだ気がした。

「守られる記憶は、それだけ」

 マドカはそう言って、井戸に石を投げ込んだ。

 水面が乱れ、何も見えなくなった。

 

 ──風が戻ってきた。

 袋の口を結び直す。

 マドカは、何も言わずに立ち上がった。

 風が、袋の口を揺らす。

 香りが、空気に滲んでいく。

 彼女は、静かに目を閉じた。

 そろそろ、やらなくてはならない……

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)が、仮面の裏で脈打つ。

 何時ものように、酷い眠気が襲う。残響賛歌(エコーズ・アンセム)が動くとき、自分が、まるで夢の中の登場人物であるように、感じられる時がある。

 すべて覚えている。すべて、自分の考えで動かしたことのはずだ。だが酷く、現実感覚がない。

 夢の中のような感覚だった。そして、その『夢の中の自分』は、迷いなく、強い意志で物事を動かす。たとえ、後で振り返った時にどれだけ後悔するような行動だとしても……その時の自分は、完全に納得して行動している。その自覚はある。

 

 怖い……

 

 だが、仮面の欲するように、やればいい……

 

 ──来て。

 

 気づくと、呼びかけていた。その呼びかけに応えるように、地面が震えた。

 ボロをかぶった屍生鬼(グール)達が、あばら家から顔を出す。

 その後ろから、新選組の別働隊も姿を見せる。

 彼らは、何も言わずにツェペリを運んでいた。

 彼の意識はまだ戻っていない。

 包帯が風に揺れていた。

 ツェペリの体が、庭に放り出される。

 マドカは慌てて駆け寄る。ツェペリの意識のない体を支えた。

 

 鷲津が、最後に現れた。

 笑っていた。

「ついに呼び出したか……マドカよ、覚悟を決めろよ……」

「覚悟って?」

「俺達を『支配する』覚悟だ。おれは出来ているぜ。もう一人のお前に『支配される』覚悟がな……」

「鷲津さん、何を言っているのッ」

「……わかっているだろう。もう一人のお前は、俺たちの誰よりも強い……対抗できるのは『あの方』だけさ」

 鷲津は嗤い続ける。

「だがいいのだ。構わん。奴らにしかるべき報いを喰らわせられるのならば、俺の命など……自我など、不要ッ」

「鷲津さん……やめてよ」

「だからお前も、決めろ。お前の親友を喰らえ。骨まで残さず、食らいつくさせろ。こいつらに」

 屍生鬼(グール)が、ひなたに膝をつく。外はまだ明るいが、フードをかぶり、陽の光が直接当たらないようにしている。

「喰らうぞ……喰らうぞ……」

 声が、地面を震わせる。

屍生鬼(グール)や俺たちを完全に支配下に置くためには、あの子の袋の香料が必要なんだろ。今更、躊躇(ためら)うなよ」

 マドカは、後ずさった。

「イヤよ……そんなのやめて……やっぱり、やめて!」

「フン……」

 鷲津は嗤う。

 

ザシュッ! 

 鷲津は、隣の男の頸を跳ね飛ばした。

 首を飛ばされた体に、屍生鬼(グール)が飛びつく。

「鷲津さん……何を……」

 鷲津は、マドカの面、残響賛歌(エコーズ・アンセム)に手を伸ばす。

 頸を飛ばした男の血を、マドカの面になすりつける。

残響賛歌(エコーズ・アンセム)……再び目を覚ませよ……そうしないと、マドカごと屍生鬼(グール)に喰われちまうぞ」

 男を食い尽くした屍生鬼(グール)が、マドカをじっと見る。

 そしてゆっくり立ち上がり、ペロリと上唇を舐めた。

「うま、ウマ……」

「なっ!」

 

ドンッ! 

 マドカの香りが、空気を満たしていた。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)が、熱を帯びる。

 

 暴走しかけていた。

 

 屍生鬼(グール)の目が、赤く光る。

 鷲津の指が、ひなたを指していた。

 そのときだった。

 ツェペリが、マドカの腕の中で目を開けた。

 焦点はまだ合っていない。

 マドカは、彼の顔を覗き込んだ。

「ツェペリさん……戻ってきて……お願い」

 そうつぶやいた時だ。

 ツェペリが、何も言わずに立ち上がった。

 その動きは、静かだった。

 

 そして、屍生鬼(グール)が、ツェペリに気づいた瞬間。

 ツェペリは、何も言わずに手を上げた。

 その手には、毛糸。

 手を挙げた瞬間、屍生鬼(グール)に絡まっていく。

 屍生鬼(グール)の体が、音もなく崩れた。

 

 鷲津と榊が、呻き声を上げて膝をついた。

 

 マドカは、息を呑んだ。

 ツェペリは、マドカを見た。

 その目は、もうはっきりと彼女を捉えていた。

「……夢を見ていたよ……妻は、香りが好きな人だった。花の香りじゃあない。土と、火と、少しだけ柑橘」

 マドカは、黙って聞いていた。

「その香りが残ってると、父親らしくなれる気がしてな……でも、揺れる。子どもに向き合うと、すぐ揺れる。俺などが、人並みの幸せを追う資格があるのか……とな」

 マドカは、黙っていた。

 

 ツェペリは、マドカの肩を叩く。

「彼らには頼るな。だが、一人にはせんよマドカ。ワシが、お前についていってやろう」

 マドカは、何も言えなかった。

 ただ、涙がこぼれた。

 風が、香りを遠くへ運んでいった。

 

 その時、残響賛歌(エコーズ・アンセム)が再び熱を帯び始めた。

 マドカは、酷く、()()()()()()

 

◆◆

 

 函館の夜、裏街を歩いていた。

 石畳の隙間に、草が揺れている。

 木塀に、月明かりが当たる。

 

 マドカは、袋を抱えたまま歩いていた。

 ツェペリは、半歩後ろをついてくる。

 通常、裏街のこの辺りは少し治安が悪い。しかし先日の屍生鬼(グール)の襲撃のせいで、出歩くものはほとんど居なかった。

 

「もういちど、話すだけ……」

 マドカは、誰に言うでもなく呟いた」

「……たぶん」

 ツェペリは何も言わなかった。

 マドカの背を見ていた。

 風が吹いた。

 香りが、わずかに漏れる。

 マドカは、ひなたの居場所を知っていた。しづの所だ。

 あの子が、どこに身を置くか。

 どんな人の近くにいるか。

 そのすべてを、まだ覚えていた。想像できていた。

「怒ってるのは、私だけじゃない」

 マドカは、立ち止まった。

「でも、私の方が…………」

 ツェペリは、マドカの隣に立った。

「なら、行こう」

 マドカは、頷いた。

 二人は、静かに建物の影へと身を滑らせた。

 

 建物の影に、足音が響いた。

 マドカが振り返るより早く、榊が姿を現した。

「鷲津さんが、まだ目を覚まさない」

 声は、怒りで濁っていた。

 ツェペリは、マドカの前に出た。

 榊の目が、包帯の奥を睨んでいた。

「お前が何をした」

 ツェペリは、何も言わなかった。

 ただ、マドカの肩に手を置いた。

 榊は、刀を抜いた。

 鞘が石畳に触れて、乾いた音を立てた。

「目を覚まさせろ。今すぐだ」

「蒼ちゃん……やめて……」

「マドカ……悪いが、引っ込んでいろ」

「……なんですって……」

 ツェペリは、マドカの前から動かない。

 榊の刀が、風を裂いた。

 だが、ツェペリは受け止めなかった。

 いなした。

 刃が、彼の包帯の端をかすめた。

 榊の足が、石畳を滑った。

 マドカは、息を呑んだ。

 

 その音に、扉が開いた。

 ひなたが、姿を見せた。

 マドカとひなたの目が合った。

 睨みつけるように。

 

「ひなた──!」

 マドカの声が、空気を裂いた。

 袋が揺れ、香りが広がる。

 彼女は、ひなたに向かって走った。

 ひなたは、構えた。

 足を開き、手を前に出す。

 目は、マドカだけを見ていた。

「マドカ……どうしてここに……でも……」

 

 だが、その瞬間。

 ツェペリが、地面に拳を打ち込んだ。

 波紋が、石畳を走った。

 音はなかった。

 ただ、空気が震えた。

 ひなたの足が、わずかに痺れた。

 力が抜ける。

 構えが崩れる。

 マドカは、寸前で止まった。

 ツェペリが、彼女の腕を掴んでいた。

 

 そのとき、背後から声がした。

「止まれ」

 鱗滝だった。

 霧の中から、静かに現れた。

 だが、鱗滝の草鞋は、石畳にくっ付いていた。

 誰も動かなかった。

 マドカも、ひなたも。

 

 ツェペリだけが、マドカの腕を握っていた。

 鱗滝は、マドカを見ていた。

 その目は、何も言っていない。

 

 ツェペリは、マドカの手を引いた。

「行くぞ。ここは、一度引く」

 マドカは、振り返らなかった。

 ただ、走った。

 

 ひなたは、痺れた足を動かそうとした。

 だが、遅かった。

 鱗滝は、一歩だけ前に出た。

 だが、それ以上は追わなかった。

 マドカとツェペリは、霧の中へ消えていった。

 五稜郭の石垣が、遠くに見えていた。

 風が、香りを巻き上げていた。

 

◆◆

 

 五稜郭の中庭は、静かだった。

 石畳に苔が広がり、桜の枝が風に揺れていた。

 ツェペリは、マドカを背に隠していた。

 彼女は、袋を抱えたまま、石垣の影に身を潜めていた。

 

 鱗滝が、ゆっくりと踏み込んできた。

 足音は、石を選ぶように響いた。

 ツェペリは、動かなかった。

 包帯の奥の目が、鱗滝を捉えていた。

 風が、香りを運んだ。

 鱗滝の眉が、わずかに動いた。

「異国のものか」

 声は、低く、乾いていた。

 ツェペリは、肩をわずかにすくめた。

「ヤレヤレ、その質問に答えるのは、もう飽きた」

 鱗滝は、刀に手をかけた。

「何者でも構わん……鬼ではない、ただの人を斬るのは本意ではない。引け……その子をこちらに渡せ」

 ツェペリは、半歩だけ前に出た。

「それこそ無理な相談だな。そちらこそ刀を納めてくれないか」

 風が止んだ。

 対峙が、始まった。

 

 コォォオオ──―

 

 ヒュゥゥゥゥゥゥゥ

 

 互いが、呼吸を練り始めた。

 

◆◆

 

 マドカは、石垣の影にいた。

 袋を抱えたまま、動かない。

 ひなたは、少し離れた場所で立っていた。

 痺れているのか、足元がおぼつかない。

 

 鱗滝は、二人の少女を一瞥した。

 マドカの目は、戦う者の目だった。

 ひなたは、迷っていた。

 

 ツェペリが前に出た。

 包帯の奥の目は、鱗滝を捉えていた。

 構えはない。

 拳を握っただけだ。

 

 鱗滝は、刀を抜き、上段に構えた。

 上段の構えは、防御を捨てた攻めの構え。鱗滝の得意な打ち方だ。

「武器なしで、俺とやる気か……嘗められたものだ」

 声は、低く、乾いていた。

 

 ツェペリは肩をすくめた。

「刀は便利だが、当たれば死ぬ。こいつは、ちょいと小回りと、融通が利く」

 

 鱗滝は、間合いを測った。

 全集中、水の呼吸──著しく増強させた心肺により、一度に大量の酸素を血中に取り込む事で、血管や筋肉を強化・熱化させて瞬間的に身体能力を大幅に上昇させる。その上で、どんな形にもなれる水の如く変幻自在な歩法を元にした剣技を放つ。

 受けを重視した技だが、上段に構えることで、そこに一太刀で決めることのできる威力が加わる。

 

 ツェペリは、足の位置を変えた。

 太陽の波紋、仙道──体を流れる血液の流れをコントロールして血液に波紋を起こし、太陽光の波と同じ波長の生命エネルギーを生み出す。そのエネルギーを生物や、物体に流し込む技法だ。外部のエネルギーを取り扱うことが出来るその応用力は、無限大。

 

 ド ド ド ド ド ド ド ド ……

 

 ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 

バシッシィイイ―――ンッ!

 鱗滝は、ツェペリに突進し、初撃を放った。

 斜めの一閃。

 水面に稲妻が落ちるような、静かな斬撃。

 

 ツェペリは右手で、その斬撃をさばく。右袖に、波紋のエネルギーを流し、刃から身を守る。

「ほうッ……」

 渾身の一撃をさばかれた鱗滝は、感嘆の声を上げる。

 

「フンッ!」

 すかさず放ったツェペリの回し蹴りを、ギリギリ回避する。

 

「……妙な技だな」

 鱗滝は、刀を構え直した。

 足を半歩ずらし、左肩をわずかに落とす。

 八双の型だ。

 

 ツェペリは、拳をほどいた。

 指先が地面に触れ、石の温度を確かめるように動いた。

 

 風が、マドカの髪を揺らした。

 ひなたは、息を止めていた。

 

 鱗滝の足元に、小さな水たまりがあった。

 ツェペリの波紋が、そこに微細な振動を起こしていた。

 水面が、わずかに震えていた。

 

 二人の間に、誰も入れなかった。

 距離は五歩。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

 鱗滝は、間合いを詰めた。

 

 ツェペリは動かない。

 拳をほどいたまま、地面に触れていた。

 

 一歩。

 二歩。

 

 鱗滝は、トンと跳ねるように地面をけり、前方に飛び込んだ。

 水の呼吸・玖ノ型──水流飛沫 征(すいりゅうしぶき せい)、連続で地面を蹴り続け、加速、方向転換、死角からの飛び込みを行う。

 

 刀を振る。

 刃の軌道は、相手の肩を狙っていた。

 だが、刀がわずかに逸れた。

 空振りではない。

 軌道が、意図せず外された。踏み込んだ足が、地面に溜まった波紋によって弾かれたのだ。

 鱗滝は、すぐに次の型へ移る。

 玖から捌へ。

「水の呼吸、捌の型――滝壺ッ!」

 空中から、下方向への一撃。鱗滝得意の、上段からの打ち込み。

 ツェペリは、波紋を流した地面と、足を反発させた。殆ど足を動かさずに飛び上がり、トンボを斬って着地する。

「くっ。チョコマカと…」

 鱗滝は追撃しようとした。

 その瞬間、足元に違和感が走った。

 石畳が、足裏に再びくっつく。

 足の裏に、細かい振動が伝わってくる。

 動きが鈍る。

 

 鱗滝は、刀を止めた。すかさず草鞋を脱ぎ捨て、裸足になる。

 

 ツェペリは、まだ構えていない。

 ただ、地面に触れているだけだった。

 

「……驚くべきエネルギーだ……しかも、動きが読めん……」

 鱗滝は、低く呟いた。

 

 ツェペリは、笑った。

「波紋ってのは、そういうもんだ……それに、ヌシの技も、十分ケッタイだねぇ。なんてスピードの剣技だ……」

 

 鱗滝は、今度は刀を下げなかった。

 だが、次の一手を急がなかった。

 

 ツェペリとか言うこの外人の技は、人の理では測れない。

 驚くべきエネルギーを生み出し、自在に操る。地面を通して、体の内側に干渉してくる。

 自分の身体能力も、恐るべきものだ。

 

 それに、戦いをよくわかっている。

 刀の間合いを、崩してくる。

 

 鱗滝は、呼吸を整えた。

 水の呼吸──特殊な呼吸法で一度に大量の空気を取り込み、瞬間的に身体能力を高める。拾の型からなる剣技。

 だが、型だけでは届かない相手もいる。

 

 ツェペリの拳は、まだ開かれていた。

 次の動きは、読めなかった。

 

 ツェペリは、包帯の裂け目を指で押さえた。

 血は出ていない。

 だが、熱が残っていた。

 

 鱗滝は、刀を下げなかった。

 刃先は、地面と水平だった。

 構えを解くには、まだ早い。

 二人の距離は、五歩。

 踏み込めば届く。

 だが、どちらも動かなかった。

 次の動きの、読みあいになっていた。

 

 風が、マドカの髪を揺らした。

 ひなたは、石垣の影で息を潜めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。