鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部) 作:ヨマザル
雪解け水が現れ始める季節。霧野村から函館へ向かう山道も、泥で覆われている。
夜明け前の空はまだ色づかず、風も冷たい。
霧野村から、函館へと逃げる村人たち。
誰も話さない。誰も振り返らない。泥に足を取られながら、のろのろ進む。
皆を逃がすためにツェペリが残ったことも、誰も口にしなかった。
列の最後尾で歩くダイアーだけが、時折、後ろを見ていた。
「……」
通詞が、前を行く母子に声をかける。
「足元、気をつけて。滑ります」
母は頷き、子の手を強く握り直す。
その子は、泣いていた。
泥と涙で、顔が汚れている。
ダイアーは、歩調を落としてその子の隣に並ぶ。
何か言おうとするが、言葉が出ない。
手を伸ばしかけて、引っ込める。
そして、少しだけ前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……寒いな」
子は、顔を上げない。
ダイアーは、もう一度言う。
「寒いと、涙も凍るって聞いたことがあるな」
子は、少しだけ鼻をすする。
ダイアーは、手袋を外して、自分の袖で子の顔を拭った。
不器用な手つきだった。
袖が少し汚れた。
「……ごめんなさい」
子がようやく声を出した。
ダイアーは首を振る。
「謝ることじゃない。泣いていい。泣いて、そして歩け」
子は、頷いた。
そして、母の手をつなぎ、チョコチョコと歩き出した。
列の前方では、老女が泥に埋もれた岩に足を取られて転びかけた。
周囲の者が支える。支えた者の腰が砕け、盛大に転んだ。
母たちは荷を背負い、子を抱え、足元を確かめる余裕もない。
誰もが、疲れていた。
肉体も、心も。
「休める場所は……」
通詞が言いかけて、ダイアーが首を振る。
「まだ早い。止まれば、追いつかれる」
誰も反論しない。
ただ、歩く。
ただ、息を吐く。
霧が濃くなってきた。
遠くで、鳥の声が一度だけ響いた。
それが、夜明けの合図だった。
霧が濃くなっていた。
岩の縁がぼやけ、足元の土が湿っている。
通詞が前を行く母子に声をかけながら、ふと立ち止まった。
「……この辺、熊が出るって聞いたことが……」
ダイアーが後ろから歩いてきて、少しだけ眉を動かす。
「ヒグマ? まだ、眠っているだろ」
通詞は答えず、ただ霧の奥を見つめていた。
その時だった。
岩陰から、低い唸り声。
母熊が現れた。
本土にいるツキノワグマではない。巨大なヒグマだ。
毛並みは荒れ、目が赤い。
その背後に、子熊がぴたりと張りついている。
冬眠しているはずの時期だった。
子連れの母熊は、危険だ。
村人たちがざわつく。
列が乱れ、子供が泣き出す。
通詞が「下がって!」と叫ぶ。足元が滑べり、転びかける。
母熊が吠える。
地面がドンと鳴った。
熊は村人の列に突撃しようとしかけ、不意に止まった。
グルルルル……
熊は頭を下げ、うなり声をあげる。霧の奥を、睨みつけている。
「……騒がしいな」
熊が睨む霧の奥から、声。
包帯姿の男が現れた。
その後ろに、剣士風の男が控えている。
二人とも、見覚えはなかった。
ド ド ド ド ド ド ド ド ……
ダイアーは、村人の前に立つ。
「誰だ」
包帯の男は、熊を見たまま答える。
「通りすがりだ。熊か。斬りがいがあるな」
その言い方に、どこか楽しげな響きがあった。
後ろの剣士が一歩前に出る。
「待て志々雄。親子だ」
包帯の男は肩をすくめる。
「桑島、うるさいな。親子でも、牙はある」
ダイアーは、熊の前に出る。
「斬らなくていい」
包帯の、志々雄と呼ばれた男が、ちらりと横目を向ける。
その目が、一瞬だけダイアーを捉えた。
異人の戦士。歴戦の気配。
志々雄の目が、わずかに細くなる。
「……ほう」
その声は、興味を含んでいた。
ダイアーが手を上げて言った。
「眠らせる」
志々雄の目が、すっと冷める。
「……そうか」
手を止め、肩をすくめる。
「じゃあ、吠えさせておけ」
桑島と呼ばれた剣士が、鼻を鳴らす。
「子連れの母熊に、理屈は通じん」
志々雄が関心を失ったことを感じたのか、母熊が興奮し始めた。
地面を叩く音が、霧の中に響く。
子熊は背後に張りついたまま、動かない。
村人たちがざわつき、列が乱れる。
ダイアーは、ゆっくりと前に出た。
足音を立てず、肩の力を抜いて。
掌は構えない。
ただ、母熊の目を見ていた。
母熊が低く唸る。
一歩、踏み出す。
ダイアーは、さらに一歩近づく。
その動きに、わずかな“間”があった。
熊が反応する。
前足が浮き、突進の構え。
その瞬間、ダイアーの掌が動いた。
フェイントをかけ、前後左右に動く。
誘いに乗り、熊が踏み込む。
ダイアーは踏み込みをかわした。
母熊の横に回り、肩に手を添えた。
波紋が熊に流れた。
母熊の動きが止まり、足元が揺れる。
そのまま伏し、目をつぶる。
子熊も、母の背に近づいてきた。
鼻を鳴らし、丸くなる。
ダイアーは、もう一度掌を添えた。
掌から柔らかく包むように波紋を流す。
熊の親子は、安らかな寝息を立て始めた。
「すごい……」
「さすが、ダイアー様だ」
村人たちは、波紋戦士に賛辞を贈った。
そして、再び列を整え、歩き始めた。
志々雄は、熊の方を見たまま言った。
「悠長な。斬ってしまえば早いモノを」
ダイアーは、熊に背を向けながら言う。
「早いだけじゃぁ、足りぬ。あの場で熊を怒らせ、暴れさせれば、村人に危害が及ぶかもしれぬ」
志々雄は、少しだけ笑った。
「なんだ貴様、そんな下らないことを気にするのか?」
その笑みは、もう興味を含んでいなかった。
志々雄は、霧の奥を見ていた。
「さぁて……。見込み違いだったぜ。ここには興味を引くものがねぇな……最後にあのガキの最後だけ覗いてくるか」
その背を、桑島が見送る。
だが、すぐには動かなかった。
桑島は、村人たちの列を見ていた。
母が子を抱え、老女が通詞に支えられている。
誰もが疲れていた。
足も、顔も、声も。
志々雄の背が、霧に溶けかけていた。
桑島は、刀の柄に手を添えたまま、動かなかった。
「……村は、もう片付いてた。キャンプを張っていたと聞いた釜の仙境にも、何も残ってなかった」
ぼやくように口にした。
「無駄足だったな。あいつは、そういうの嫌いだが」
ダイアーが、熊の方を一瞥してから言った。
「さっきの男、何者だ」
「人斬りだ。昔から、斬れるものは斬る。そういう男だ」
「……あんまり、話が通じる気がしない」
「通じない。だから、俺がついて観ている」
「アンタは誰だ?」
ダイアーの問いに、桑島は自分の名前と所属、そして鬼を倒すという使命を語った。
「鬼……だと?」
「そうだ。我らは鬼を根絶やしにするために、命を懸けている……」
そして桑島は、志々雄の後を追い、霧の中に消えていった。
歩き続けると、やがて霧が少しだけ晴れた。遠くの空が赤く染まり始めていた。
函館の方角だった。
風が、霧を裂いた。
その向こうに、函館の街が見えた。
空が赤く、煙が昇っていた。
火の手は、五稜郭の方角だった。
村人たちがざわつく。
「燃えてる……」
「函館が……」
「どうすれば……」
通詞が前に出て、声を張った。
「落ち着いて。今は動かないでください」
ダイアーも、列の中央に立った。
「ここから見える火は、遠い。今は、動くより、仲間を守る方が先だ」
通詞が頷き、母子の間を回る。
老女の手を取り、子供の頭を撫でる。
村人たちが、少しずつ静かになっていく。
誰もが、空を見ていた。
ダイアーは、通詞の方へ歩いた。
「助かった」
通詞は、少しだけ笑った。
「こちらこそ。あの熊には、驚きました」
ダイアーは頷いた。
「……行こう。まだ俺たちには、やるべき義務が残っている」
風が、火の匂いを運んできた。
列が、再び動き出す。
五稜郭
風が、マドカの髪を揺らした。
ひなたは、石垣の影から一歩だけ前に出た。
足元はまだ不安定だったが、声はまっすぐだった。
「……もう、こんなことやめようよ」
マドカは、袋を抱えたまま動かなかった。
「村に帰ろう。みんな、待ってる。元に戻ろう」
ひなたの声は、震えていなかった。
ただ、届くかどうかは分からなかった。
マドカは、少しだけ顔を向けた。
「戻って、どうするの」
「生きる。普通に」
「普通って、何?」
ひなたは、言葉に詰まった。
マドカは、袋を握り直した。
香りが、わずかに漏れた。
「終わらせたいの。全部」
「全部って……何を?」
「鷲津さんのことも、家のことも、あの夜のことも。ぜんぶ、終わらせたい」
マドカの声は、少しだけ幼かった。
ひなたは、眉を寄せた。
「……何を言ってるの?」
「わかんないなら、いい」
「わかんないよ。そんなの」
マドカは、ひなたを見なかった。
ひなたは、マドカを見ていた。
その時だった。
石垣の向こうから、足音。
榊が現れた。
顔色が悪い。目の焦点も、合っていなかった。
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……
マドカが振り向く。
「蒼ちゃん……大丈夫?」
榊は答えない。
「……鷲津さんを……よくも……」
うつろな声。かすれていた。
「ぐびっ」
榊は両手を地面につき、えづき始めた。
「ぐぴっ、ぐぴっッ……」
「蒼ちゃん…………」
「この人、どうしたの?」
ひなたも、首を傾げた。
「うううぅ……ウギヤァあアアアアア────」
突然、榊が叫びだした。
体が、震え始めた。
震えはドンドン大きくなる。
胸元が膨らみ、皮膚が裂ける。
「ぎゃピッ」
榊が、突っ伏した。
そして……
ノロノロと、頭をもたげた。
声が響いた。
「ようやく、出られるか」
その声色は、榊の口からでたものとはとても思えなかった。
低く、湿った響き。
「この器、よく耐えた。だが、もう限界だな……」
「ギィィィイイイイイ──ッ!」
榊の体が、裂ける。
中から、赤黒い影が溢れ出す。
裂けた榊の体から、腕が二本、もう二本。
さらに頭が二つ。まろび出る。
二つの声が、重なった。
一つの頭は、黒髪。真っ白な肌。小柄な体形。だが、体中から、ボコボコと石柱のような突起が突き出している。
ド ド ド ド ド ド ド ド ……
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……
「……しつこいぜお前ら。うっとおしいんだよッ……俺の名は返垢だ。ひれ伏せ、てめーら」
もう一つの頭は、金髪。茶褐色の肌。大柄で均整の取れた体。日本にはない洋装。そして開いた口には牙。
「俺はモラーノ……へへへへ、久しぶりだなぁ。懐かしいぜぇ」
「……」
鱗滝が、黙って刀を構え直す。
一方、モラーノの名を聞いた瞬間、ツェペリの目は揺れた。握りかけた拳が、ほどける。
「……モラーノ……? お前、モラーノと言ったか?」
声が、震えていた。
「おーいぇぇ。いい風吹いてるぜ。お前にまた会えたんだからなぁ……」
モラーノが、ニヤリと笑った。
「嘘だ……あんたは……死んだはずだ……」
モラーノは、笑った。
「死んだよ。船の上で。君の父の手で。見てただろ? ウィル・A・ツェペリく~ん」
ツェペリは、拳をほどいた。
指先が、わずかに震えていた。
「お前……あの夜、俺の行動を……知ってたのか」
「知ってるさ。だが、生きているとは思わなかったよ」
モラーノは言った。
「あの夜、君は生き残った。俺は、喰われた。だが、おれも生きてるぜぇ……屍のままだから、『生きている』って言っていいか、ビミョーだがよぉお」
鱗滝は、返垢の方を見ていた。
その肉体は、異様に膨らみ、刃のような骨が突き出ていた。
「……鬼……なのか? だがかまわぬ。返垢……ようやく貴様を見つけたからには、斬る」
返垢は、笑った。
「鬼狩りかよ。知っているぜぇ、オメェ俺の事をずっと追っかけてただろう。だが、見つけられなかったよなぁ──ッ。くくくく……」
鱗滝は、普段のように刀を上段に構えた。
「だが、見つけた」
返垢は、一歩踏み出した。
マドカは、榊の残骸を見ていた。
ひなたも、目を逸らせなかった。
そのむごたらしさに、言葉が出なかった。
風が、血の匂いを運んできた。
函館の空が、赤く染まり始めていた。
返垢の肉体は、膨張と収縮を繰り返していた。
骨が軋み、刃のような突起が空気を裂く。
皮膚は硬質化し、関節が逆向きに折れながら再構成されていく。
返垢が、右腕に骨の刃を出現させた。
突然の攻撃。
鱗滝が、受ける。
「水の呼吸──参ノ型、流流舞(りゅうりゅうまい)っ」
流れるように返垢の攻撃を躱す。
波のように押し寄せる連撃を放つ。
返垢は、骨の刃で受け止めた。
肉体が変形し、刃が軋む音が響く。
鱗滝は、すぐに陸ノ型へ移る。
足を滑らせ、刀を返す。
返垢の肩を狙った一太刀。
だが、肉が裂けず、骨が軋むだけだった。
「漆ノ型──雫波紋突きッ!」
突きの連撃が、空気を震わせる。
返垢は、腕を伸ばし、鱗滝の間合いを崩す。
刀が返垢に通らない。
それが、はっきりと示された。
返垢は、笑った。
「水の呼吸の剣士か。だが、効かねぇなぁ……俺の肉は、鬼を超えている。ヴェルミリオ様の恩寵でなぁぁあああッ……その刀、通じんぞぉ〰“人間の技”ではなぁぁっ」
鱗滝は、刀を構え直した。
その動きに、動揺は見えない。
だが、額に汗がにじむ。
返垢が、両腕を広げた。
「つぎは俺の番だな。血鬼術──恐怖の波、喰らえッ」
血鬼術──鬼が体内の血を変質させて放つ、異能の技。
声と同時に、返垢の両手から、血霧が吹きだす。
血霧が鱗滝に降りかかる。
鱗滝の視界が、揺れた。
遠い記憶の波が、鱗滝を襲う。
仲間の顔が浮かぶ。
任務の夜。
血の匂い。
刃を握る手が、震えていた記憶。
──あの夜、判断が一瞬遅れた。弟子は、喰われた。
桑島は、今もあの晩のことを悔いている。
実は鱗滝も、同じようにずっと悔いていた。
足が、動かない。
呼吸が、浅くなる。
刀を握る手が、汗で滑る。
返垢の肉体が、膨張しながら迫ってくる。
鱗滝は、一歩退いた。
その動きに、自分で驚いた。
「……俺が、退いた?」
声にならない声が、喉の奥で震えた。
返垢は、笑っていた。
「ハハハ、怖がったのか、お前。……いいねぇ……それじゃあ喰えるぞ、お前を。その迷いも、後悔も。全部。きっと旨いぃぃぃっ。楽しみだなぁ……ヒヒ」
「下らん……」
鱗滝は、刀を構え直そうとした。
腕が重かった。
隈取が、滲んだ。
汗で、線が崩れ始める。
ならば……鱗滝は、目を閉じた。
呼吸を整える。
水の呼吸──肩の力を抜いて水をイメージ、水面のように静かな心を保ち──
ちがう、そのやり方では届かない。
(こいつには……この思いを、感情をそのまま刃に乗せて……斬る)
仲間の顔が、浮かんでいた。
今は、体が動く。
鱗滝は、目を開けた。
刀を握り直す。
足を踏みしめる。
「よし……この思いを乗せて……貴様を斬るッ」
返垢は、笑った。
「はははぁッ。できないねぇ。俺が食っちまうからなぁ。その感情ごと」
鱗滝は、隈取をぬぐった。
素顔のまま、刀を構えた。
風が、髪を揺らした。
「水の呼吸。捌ノ型──
一歩。
上段を構えたまま、瀑布を落ちる激流のような怒涛の足さばき。
鉄砲水のような爆圧の踏み込み。
同時に、刀を振り切る。
刃は、返垢の胴体を斜めに裂いた。
水の流れのように、迷いなく、爆発したような一撃。
バッシュッ!
両断された返垢の肉体が、崩れ始める。
だが、完全には砕けなかった。
上半身だけ、崩れずに地に残った。
返垢は、笑っていた。
「思ったよりやるなぁ…………鬼より怖ぇぇ……だがよぉ……まだ終わらねぇぞぉ……喰ってやるぞぉぉ……」
だが鱗滝は、返垢にはもう構わない。背を向けた。
刀を振り、刃についた血を払い落とす。
風が、血と水の匂いを運んでいた。
空は赤く、函館の街が燃えていた。
まだ終わっていなかった。
確かにモラーノの肉体は、
そして、まるで普通の市井の人間が旧友に話しかけるように、ツェペリに話しかけ続けている。
声も──楽しげだった。
「覚えてるかァ? あの港町ッ!」
「最初に一緒に潜った遺跡ッ! 君は地図を読んで、俺は穴を掘ったッ!」
「毎日が冒険だったよなァ~~~ッ! 楽しかったよなぁぁ!」
話しかけながら、攻撃も続ける。
「……」
ツェペリは拳をほどいた。
波紋の構えを解いた。
「……やめてくれ。モラーノ。まだ、戻れる。俺たちは、良い仲間だった。あの頃のままなら……」
「仲間ァ? 仲間だとォ~~~? 親友、冷めてぇなぁ……」
モラーノの笑い声が、甲高く跳ねた。
「お前、『あの頃の』俺の全てを知っているだろぉ? ……なんたってよぉ~お前、俺の
「俺が喰われるのを、じぃーっと見ていたクセにィ~~~ッ! よぉく見ていた! そんなお前の様子を、俺も見てたんだぜぇ~~~」
ズギャァン!
モラーノが腕を振る。
手にしていたのは、ただの瓦。
だが
瓦は、超速で襲い掛かる。
ツェペリは、避けきれない。
肩を裂かれる。
バチィッ!
血が滲む。
モラーノが笑う。
「あの船で、俺は死んだぁああッ! だが、ヴェルミリオ様がいたァッ!」
「石仮面をかぶった彼が、俺を拾ったッ! 命を長らえさせてくれたッ!」
ド ド ド ド ド ド ド ド ……
「……なんだと……」
父の親友の名を聞き、ツェペリが眉をしかめる。
「何を言っている? 石仮面をかぶったのは、俺の……親父だった」
「ケケケケ……そう思っただろッ ちっがうぅぅううう──―。ホントは、ヴェルミリオ様が仮面の秘密を発見したんだよぉおお~。それで……自分が最初に仮面をかぶって、その後で『隊長』にも被せたんだよぉおお。ムリヤリよぉおお──」
「何だと……」
「おいおい、今は俺の話を聞けッ! ……俺はなぁ……それからずうぅぅっっ──―とぉ、ヴェルミリオ様と太陽の光を克服する術を探し続けたゼッ! 世界中を回ったッ!」
「そして、日本に来たァッ! 奇妙なものと融合させられ、俺は変わったァッ!」
「でもヴェルミリオ様は、俺を見捨てたッ! 俺は、捨てられたんだァ~~~ッ!」
モラーノは、泣き始めていた。
ドグォッ!
モラーノの爪が伸び、ツェペリの腹を裂いた。
波紋で受けきれず、地面に膝をつく。
「ぐぉっ」
「その間、君は、いったい何をしてたぁ~~~?」
モラーノは、ツェペリの周囲を飛び回りながら、挑発する。
「『波紋』の修行?
『運命』
その言葉が、ツェペリの胸を突いた。
──予言:
「おのが自身はその傷を燃やし、しかるのちに残酷な死を迎えるであろうッ」
あの夜の声が、耳の奥で響いた。
モラーノが、血を振るう。
「もう一度だっ。血鬼術──記憶の波、喰らえッ!」
ズバァッ!
空気が震え、地面が軋む。
ツェペリの視界に、過去の光景が重なる。
船上の嵐の夜。
舵を取り、にやっと笑うモラーノ。
モラーノが
ツェペリは、足がすくみ、動けなかった。
足元の甲板を、冷たい波が、洗った。
現実の戦場でも、足が止まる。
波紋が乱れる。
拳が、わずかに震える。
呼吸が浅くなり、胸が痛む。
肩と腹の傷が、熱を持って脈打つ。
「……ぐ……ッ」
ツェペリは、地面に手をついた。
波紋がうまく練れない。
恐怖が、呼吸を乱していた。
モラーノは、笑っていた。
「見ろよォ~~~ッ! 君は、あの夜から変わっていないッ!」
「選ばなかった者は、選ばれないッ! 選ばれたのは、おれぇ──ッ!」
ツェペリは、顔を上げた。
血の匂いが、鼻を刺す。
「……モラーノ」
声は、かすれていた。
「俺を殺す前に、一つ教えてくれ……君もヒトを食べたのか?」
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……
モラーノは、少しだけ黙った。
そして、笑った。
「食べたさァ~~~ッ! 喰わなきゃ、生きられなかったッ! 君が見ていたあの夜から、俺は人間じゃないッ! ……この間も、喰ってやったさぁ……お前の後ろをチョコチョコついてきたガキをよぉ……」
「……モラーノ…………お前は……お前が……一郎の仇なのか……」
ツェペリは、拳を握った。
「……なら、俺は選ぶ。君を止めるッ!」
「いいやムリだね。お前は俺に喰われる。親友……お前を喰えるなんて最高だゼぇ~」
再び、恐怖を呼び起こす血霧がツェペリを襲う。
次に浮かんだ光景は、子供のころの記憶。
イタリアの実家で、父の親友に進路相談をした時だ。
あの時、彼は実家の庭で『応援するよ』と言ってくれた……
船上の夜だ。父の親友ヴェルミリオがいる。稲光が差し、手元を照らす。
手には、発掘品の石仮面がある。
彼は俺に「素晴らしいモノを見つけたな。お手柄だ……」と言った。
船長室だ。ヴェルミリオがノックをして入ってくる。
その手には、石仮面と、ナイフがある。
彼は父に「ツェペリよ……俺と来てくれ……」
そう言って石仮面をかぶり……
「やめろぉおおおお!」
ツェペリは叫んだ。
「へぇ……声は出せたかよ」
モラーノが一歩、近づく。
「だが、体が動かねぇだろ。俺の『血鬼術』は、恐怖で縛るからよぉッ」
(勇気を持て、恐怖を受け入れ、乗りこなせッ!!)
近づくモラーノを睨みつけ、ツェペリは……
コォオオオオォオオ──―
完璧な波紋を練る。そして、近づいてきたモラーノへ打ち込むッ
「うごぉおおおおおっ!」
波紋が、モラーノの左腕を砕くッ。
モラーノは、砕け、溶けていく腕を見つめた。
「……これが、君の選択の証かァ……やるじゃあないかッ。だが、残しておくわけにはいかないッ!」
ズバァッ!
自らの腕を斬り落とす。しかし、完全には体の崩壊を押しとどめることは、出来なかった。
モラーノは、崩れながら言った。
「君は、変わったなァ……」
ツェペリは、静かに答えた。
「勇気……勇気を持つことの意味を、今心の底から理解したからな……お前から学んだことだ。ビート」
「ククク……そりゃ、光栄だねぇ……」
風が、血と水の匂いを運んでいた。
空は赤く、函館の街が燃えていた。
まだ終わっていなかった。
遺されていた榊の体が崩れた。
肉が裂け、骨が砕け、血が地面に広がった。
その中心に、マドカが膝をついていた。
ひなたは、声が出なかった。
榊の顔は、もう何も残っていない。赤い何かが、あるだけだった。
マドカは立ち尽くす。
『榊の残骸』を、じっと見ていた。
手を伸ばし、榊だったものに両手で触れた。
風が吹いた。
血の匂いが、
ひなたは、マドカに近づこうとした。
何故か足が、うまく動かなかった。
「マドカ……」
ド ド ド ド ド ド ド ド ……
マドカは、血に染まった両手を持ち上げた。
その動きが、妙にゆっくりだった。
祈るように、手を高く上げた。
そして、正面に置いた仮面をひっかくようにした。
仮面の表面に、指で赤黒い筋を描く。
仮面の唇を、血で染めた。
面が、赤さを増したように見えた。
岩のような質感。
木のような静けさ。
眉がしかめられ、大口からは、牙が出ている。
目と口は大きく開いている。
その下から、マドカの目と口元がのぞいていた。
面が、ポコッと動いたようにみえた。
ほんのわずかに、呼吸のように。
マドカの髪が、風に逆らうように揺れた。
ひなたは、もう一歩踏み出した。
「マドカ、やめよう。もう、十分だよ」
マドカは、振り向かなかった。
面を見つめたまま、微笑んだ。
その笑みに、感情はなかった。
面の背後に、後光のような光が差した。
だが、それは光ではなかった。
黒霧が、逆光のように広がっていた。
ひなたは、後ずさった。
「お願い……戻ってきて」
マドカは、何も言わなかった。
ただ、面を手に持ち、頬に当てた。
その瞬間、音が消えた。
風も、遠くなった。
マドカの周囲だけ、何かが沈んでいた。
面が、もう一度ポコッと動いた。
今や仮面は、真紅に染まっていた。
ひなたは、仮面をかぶったマドカに手を伸ばそうとした。
だが、届かなかった。
マドカは、もうマドカではなかった。
面が、彼女の顔に溶けるように馴染んでいた。
黒霧が、地面から立ち上がる。
ひなたは、立ち尽くしていた。
手を伸ばすこともできなかった。
ただ、見ていた。
マドカが、遠くなっていくのを。
そして、声が響いた。
「……ああ、ようやくいなくなった。マドカを、ようやく追い出せたぁ……嬉しいなぁ……」
その声は、マドカの口から発されていた。
だが、マドカではなかった。
響きが深く、乾いていた。
「初めまして。今の私の名は
「マドカ……マドカ? 何を言っているの? わからないよ」
「わからなくていい……今、『開く』からな。この世界を、私の感情で満たすっ!」
面が、ポコッと動いた。
その瞬間、空気が爆ぜた。
ズギャァン!
感情の波が、周囲を襲った。
ひなたは、吹き飛ばされそうになった。
胸が、締めつけられる。
悲しみが、押し寄せる。
── 一郎の死。
──マドカの変化。
──自分の無力。
涙が、勝手に流れた。
だが、次の瞬間、笑いが込み上げた。
可笑しくて、たまらなかった。
何もかもが、滑稽に思えた。
「……あは……あはは……」
ひなたは、笑っていた。その目からは、涙がこぼれている。
次に、恐怖が来た。
猛烈な恐怖。
体が震え、視界が歪む。意識がかすむ。
地面が、遠くなる。
その時だった。
感情の波に引き寄せられ、地面を這ってくる。
と……
『返垢の残骸』が、動いた。
『モラーノの残りカス』が、蠢いた。
ズバァッ!
バリバリバリ……!
肉が裂け、骨が吸われる。
一部の
二人は、感情の波に翻弄されながらも、刀と波紋で応戦する。
「……笑うな……泣くな……斬れ……」
鱗滝の声が、震えていた。
ツェペリも、波紋を流しながら、歯を食いしばっていた。
……そして…………二体は融合し……
半分が、一つになった。
目が、複数あった。
骨が、外に突き出ていた。
融合体が、笑った。
「俺は……ワレは……
一方、榊の近くに寄った
「死んでる……死んでる……」
そして、榊の亡骸に覆いかぶさり……食い尽くした。
その様子を見た面が、悶えた。
ポコッと、面が跳ねた。
マドカの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
「……やめて……」
その声は、確かにマドカだった。
だが、すぐに面が主導権を奪った。
「感情は、喰われるべきだ……レヴカースよ、来たれ」
響垢鬼:モラーノ・レヴカースが、ゆっくりと動き出す。
マドカ──いや、
黒霧が、彼女の足元を支えていた。
街の明かりが、足音に広がる。
マドカの顔の上で、面が静かに震えた。
その震えが、街全体に響いていた。
モラーノ・レヴカースが、瓦の上に立っていた。
その姿は、いびつな阿修羅の様であった。
腕が4本。
左右非対称に伸び、関節が逆向きに折れていた。
骨が外に突き出し、刃のように湾曲していた。
皮膚は半透明で、内部の脈動が見える。
顔は2つ。
左に返垢の笑顔。
右にモラーノのしかめ面。
背中には、骨の翼。
だが、飛ぶためのものではなかった。
翼からは、揺れるたびに、黒い鱗粉のようなものが舞う……。
瓦が軋む。
モラーノ・レヴカースが、わずかに動いた。
その内部で、声が交差した。
「良かったなぁ……まだ喰えるなぁ~」
返垢の声。
「ああ、旨そうな肉袋がまだ残っている」
モラーノの声。
「だが、食えるのか?」
「……あの刀、怖かったな」
「波紋も、ヤバいな。体が溶けちまう」
「俺たちが、喰えないものを持っていた」
「でもよぉ……せっかく奴らに会えたんだ。歓迎しないとなぁッ」
瓦の上で、骨が軋む音がした。
モラーノ・レヴカースが、瓦の上で跳ねた。
ズギャァン!
4本の腕が空気を裂き、瓦が爆ぜる。
黒霧が舞い、夜風が血の匂いを運ぶ。
鱗滝が、左肩を押さえながら踏み込む。
隈取は汗と血で滲み、半分剥がれていた。
ツェペリが、腹を押さえながら拳を構える。
波紋の呼吸が地面に広がる。
呼吸は浅い。
腹の部分が、赤く染まっている。
モラーノ・レヴカースが、空中で回転する。
骨の翼が広がり、2つの顔が同時に笑った。
「喰うぞォ~~~ッ!」
「感情も、覚悟も、全部だァ~~~ッ!」
鱗滝が、刀を振るう。
刀が、夜を裂く。
モラーノ・レヴカースが、急降下。
ズバァァァン!
瓦が砕け、黒霧が爆ぜる。
鱗滝が、声を発した。
「返垢……あの美しい村を滅ぼした貴様に、相応の罰などないが……せめて、ここで殺すッ」
ツェペリが、拳を握り直す。
「モラーノ……あの港町の夜、君が笑ってた顔、まだ覚えてるよ。あの頃の君は、もう何処にもいないんだろう……でも、俺は進む。君がいない道を、自分で選んで」
モラーノ・レヴカースが、叫ぶ。
ツェペリと鱗滝が、視線をかわす。
「日本の剣士よ。力を貸せっ」
「ああ……承知した。異国の拳士よ。タイミングは、俺に合わせろ」
「承知ッ!!」
ヒュゥゥゥゥ──
コォォォオオォ──
「水の呼吸 捌ノ型──
「勇気を震わせ、燃え尽きるッ 太陽の波紋──
刀と拳が、同時に貫いた。
波紋が、骨の奥まで届き、
水の刃が、感情の核を断ち切った。
モラーノ・レヴカースが、崩れる。
二つの顔が、順に沈黙する。
骨が、瓦の上に散った。
夜風が、二人の髪を揺らした。
瓦の破片が、月光を反射していた。
鱗滝とツェペリは、並んでしゃがみ込んだ。
血に濡れた隈取。
波紋の残響。
震える刀。
破壊された瓦、岩畳。
彼らは、力を果たし、風の中で、静かに呼吸を整えていた。
その背中に、もう迷いはなかった。
夜が、少しだけ澄んでいた。
満月が、階下の函館の夜景と、城の屋根とを、照らしていた。
瓦が砕け、夜風が血の匂いを運んでいた。
五稜郭の屋根は、戦いの余波で崩れかけていた。
ひなたは、その下に立っていた。
目の前には、瓦の斜面。
急角度。濡れている。滑る。
登るには、手も足も使わなければならない。
「……行かなきゃ」
声は震えていた。
マドカが、あの上にいる。
誰も、彼女に届いていない。
ひなたは、瓦に手をかけた。
指先が、すぐに痛んだ。
瓦の縁が鋭く、皮膚が裂ける。
足をかける。
滑る。
膝を打つ。
息が詰まる。
「……マドカ……」
名前を呼ぶたび、瓦が遠くなる。
だが、止まらなかった。
両手で這う。
爪が割れる。
膝が血に染まる。
それでも、登る。
途中、瓦が崩れた。
体が滑り落ちる。
背中を打つ。
息が止まる。
それでも、また登る。
手を伸ばす。
瓦の隙間に指を差し込む。
腕が震える。
肩が悲鳴を上げる。
「……マドカ……待ってて……」
声は、届いていない。
でも、言わずにはいられなかった。
ようやく、屋根の端に手が届いた。
引き上げる。
腕が、限界だった。
かろうじて、体を引き上げる。
瓦の上に、体を投げ出す。
夜風が、髪を揺らす。
血と汗で、顔が濡れていた。
そして、見えた。
屋根の向こうに、マドカが立っていた。
面をつけたまま、黒霧を纏って。
ひなたは、立ち上がった。
足が震えていた。
でも、立った。
「……マドカ」
声は、届いた。
マドカが、ゆっくりと振り向いた。
面が、ポコッと動いた。
その奥に、マドカの瞳が、ほんの一瞬だけ見えた。
ひなたは、もう一歩踏み出した。
瓦が軋む。
でも、足は止まらなかった。
「話をしよう。私たちの話を……あなたが、マドカであるうちに」
瓦の上は、不安定だった。
風が強く、夜の空気が肌を刺す。
残響賛歌が放つ感情の波が、空気を震わせていた。
ひなたは、瓦の上に立っていた。
足元が滑る。
風が髪を引き裂くように吹く。
だが、目は前を向いていた。
一歩。
感情の波が、胸を打つ。
──昔、マドカと喧嘩した日。
言いすぎた。謝れなかった。
その後悔が、足を止める。
でも、もう一歩。
──マドカが泣いていた夜。
誰にも言えず、ただ隣にいた。
その記憶が、背中を押す。
瓦が軋む。
風が、耳を塞ぐ。
ポコッと、動いた。
ひなたは、声を出した。
「マドカ……聞こえてる?」
感情の波が、激しい笑いを押しつける。
ひなたは、笑いながら泣いた。
「あなたが、どんなに変わっても……」
「私は、あなたを知ってる」
「だから、話したい。今のあなたと」
瓦の上で、もう一歩。
足が震える。
でも、進む。
黒霧が、風に流れる。
その奥に、マドカの瞳が、ほんの一瞬だけ見えた。
ひなたは、手を伸ばした。
まだ届かない。
でも、もうすぐだった。
その時だった。
袋が、風に煽られて揺れた。
口が、わずかに開いた。
香りが、空気に広がる。
甘く、懐かしい。
マドカが好きだった香り。
ひなたが選んだ香り。
風が止んだように感じた。
マドカの指が、わずかに震えた。
ひなたは、もう一歩踏み出した。
瓦が軋む。
でも、足は止まらなかった。
「マドカ……戻ってきて」
「あなたの声で、話してほしい」
面が、ゆっくりと傾いた。
その奥で、マドカの声が、かすかに響いた。
「……ひなた……?」
ズバァッ!
瓦が砕け、黒霧が唸る。
マドカの面が跳ねるたび、空気が裂けた。
感情の波が、ひなたの胸を打ち抜く。
怒り。悲しみ。孤独。
それが、刃のように突き刺さる。
ひなたは、膝をついた。
呼吸が浅くなる。
胃が締めつけられる。
「……っ……う……」
吐き気が込み上げる。
口を押さえる。
でも、止まらない。
瓦の上に、嘔吐する。
体が震える。
視界が滲む。
マドカの黒霧が、さらに爆ぜる。
瓦が崩れ、ひなたの足元が滑る。
体が傾き、屋根の端へとよろける。
「……っ、マドカ……!」
声が震える。
半分体が落ちかける。
必至に手を伸ばし、匍匐前進する。
肩が悲鳴を上げる。
指先が裂ける。
でも、登る。
再び這い上がる。
ひなたは、血と吐瀉物にまみれながら、瓦の上に戻る。
マドカの面が、こちらを睨む。
黒霧が、渦を巻く。
「見ろ! 君はもう壊れてる!」
「誰にも届かない! 誰にも救えない!」
ひなたは、涙を流しながら笑った。
「……それでも、私は選ぶ」
「あなたを、マドカとして選ぶ」
マドカの体が震える。
面が跳ねる。
黒霧が、ひなたに向かって伸びる。
ひなたは、立ち上がった。
足が震えていた。
でも、声は揺れていなかった。
「怒ってもいい。泣いてもいい。壊れてもいい」
「それでも、あなたを見てる」
その瞬間、袋が風に煽られて揺れた。
口が開き、香りが広がる。
甘く、懐かしい。
マドカが好きだった香り。
面が、震えた。
黒霧が、わずかに後退する。
マドカの瞳が、はっきりと見えた。
「……ひなた……」
その声は、確かに彼女のものだった。
ひなたは、血と涙と吐瀉物にまみれながら、
瓦の上で、マドカの目を見ていた。
風が、静かになった。
香りが、二人の間に漂っていた。
瓦の上で、風が唸っていた。
黒霧が渦を巻き、マドカの面が跳ねる。
「壊せばいい! 全部、壊してしまえ!」
「誰も、あなたを守らなかった!」
「誰も、あなたを選ばなかった!」
ひなたは、血と吐瀉物にまみれながら、立ち上がった。
顔は涙で濡れていた。
でも、叫んだ。
「それでも、私は選ぶ!」
「あなたを、マドカとして選ぶ!」
黒霧が爆ぜる。
瓦が砕け、ひなたの足元が崩れる。
体が傾き、屋根の端へよろける。
「マドカァ!!」
怒鳴り声が、夜空に響いた。
面が、ピクリと震えた。
その奥で、マドカの声が漏れた。
「……ひなた……うるさいよ……」
ひなたは、息を荒げながら叫ぶ。
「うるさいのは、そっちでしょ!」
「勝手にいなくなって、勝手に壊れて、勝手に終わらせようとして!」
マドカの肩が揺れる。
黒霧が、わずかに乱れる。
「……だって、私が終わらせなきゃ……」
「誰も、終わらせてくれないから……」
「それを勝手って言うの!」
「私に何も言わずに、全部背負って、全部壊して! ……ねぇ、私たちの関係はそんな水臭いもんじゃないでしょ」
ひなたは言い募る。
「髪を結った日、覚えてる? 私の髪に、ヤマユリの花を挿してくれたよね!」
面が、跳ねる。
黒霧が、瓦の隙間に吸い込まれるように揺れる。
「……あの花、まだ押し花にして、持ってるよ」
「雨の日の縁側で、お団子食べながら書いた手紙も、全部覚えている」
マドカの声が、震えながら漏れる。
「……やめて……それ、今言わないで……」
「言うよ!」
「だって、あなたがいなくなりそうだから!」
「祭りの夜に言ったでしょ、“選ばれたら、私が選び返す”って!」
面が、ぐらりと傾く。
黒霧が、風に引き裂かれるように散る。
「……私は、選ばれなかった」
「だから、応援するって……」
「違う!」
ひなたは、叫ぶ。
「私は、選ぶ! あなたを、今、ここで!」
風が止まった。
面が、静かに震えた。
その奥から、マドカの声が、はっきりと響いた。
「……ひなた……うるさい……でも……ありがとう」
黒霧が、瓦の上で崩れた。
面が、わずかにずれる。
マドカの瞳が、はっきりと見えた。
瓦の上で、二人は怒鳴り合いながら、
ようやく、同じ場所に立っていた。
マドカの瞳が、はっきりと見えた。
面が、わずかにずれた。
黒霧が、静かに後退していた。
ひなたは、息を止めた。
「……マドカ……」
その声に、マドカが応えようとした瞬間──
面が、跳ねた。
ズギャァン!
黒霧が爆発した。
瓦が砕け、風が唸る。
「感情は、喰われるべきだ……この街に、感情を解き放て」
函館の街に、波が走った。
見えない感情の波が、空気を震わせる。
人々が、突然立ち止まり、笑い出す。
泣きながら笑う者。
怒りながら踊る者。
叫びながら、誰かを抱きしめる者。
街が、狂っていた。
感情が、制御を失っていた。
ひなたは、瓦の上で立ち尽くしていた。
マドカの瞳は、もう見えなかった。
面が、完全に戻っていた。
「……どうして……」
声が、震えた。
「どうして、戻ってこないの……」
「さっき、届いたはずなのに……」
黒霧が、ひなたの足元にまで伸びていた。
瓦が軋む。
空気が重くなる。
ひなたは、袋を握った。
でも、震えが止まらなかった。
「マドカ……お願い……」
「私の声、届いてたよね……?」
街の遠くで、鐘が鳴った。
それは、誰かが狂ったまま鳴らしたものだった。
音が、笑い声と泣き声に混ざっていた。
ひなたは、瓦の上で膝をついた。
顔を伏せ、声を失った。
「……どうして……」
風が、冷たくなっていた。
函館の街は、狂っていた。
笑いながら泣く者。
怒りながら踊る者。
叫びながら、誰かを抱きしめる者。
その中を、ダイアーが駆けていた。
波紋を纏い、感情の波を裂くように。
通詞は、村の皆をまとめていた。
「しづ! 避難はどうなってる!」
しづは、薬屋の屋根に立っていた。
髪が風に乱れ、目は冷静だった。
「子供たちは地下に。大人は……もう、止められません」
「波紋で鎮めるか? ……しかし、時間がかかるか……」
「感情は、薬じゃ抑えられない。これは……まるで毒よ……」
ダイアーは、拳を握った。
「ならば……やはり波紋の結界を貼るッ!」
しづは、静かに頷いた。
「選ぶのはあなたです」
五稜郭の屋根の上。
瓦が砕け、風が唸る。
黒霧が街を覆っていた。
ツェペリは、拳を握ったまま立っていた。
腹の傷が開き、血が滴っていた。
だが、目は揺れていなかった。
鱗滝は、剣を地面に突き立てていた。
隈取は剥がれ、顔は素のままだった。
肩が裂け、腕が震えていた。
「……街が、『感情の波』に飲まれている」
ツェペリが呟く。
「まだ、立てるか?」
鱗滝が問う。
「立つとも。勇気は、波紋の芯だ」
「なら、俺も斬る。感情を持ったまま」
二人は、並んで立っていた。
瓦の上で、風に逆らって。
函館の街が狂っていた。
人々が泣き、笑い、叫びながら崩れていく。
志々雄は、その中心に立っていた。
炎の気配を纏いながら。
だが、表情は変わらない。
周囲に、ほとんど興味を持っていない。
「……くだらん」
声は、誰にも向けられていない。
感情の波が、彼の周囲を避けるように流れていく。
まるで、彼には届かないと知っているかのように。
「壊すなら、もっと強く、熱く壊せ」
「こんなもの、ただのカラ騒ぎだ」
感情の競争の中で、彼は、平然と立っていた。
瓦の上でも、地面でもない。
ただ、炎の中に。
桑島は、立ち去る志々雄をもう追わなかった。
この街の混乱から玉を、子供たちを救うことが、最も大切だったからだ。
目の前に、子供たち。三人。
その背後から、
桑島は、腰に手をやった。
会津の山中で手に入れた、神速の抜刀術。
「……雷の呼吸、壱の型──
声は低く、誰にも届かない。
瞬間、目の前の
桑島は、猛スピードで突っ込んだ踏み込みの勢いを殺す。
すぐさま次の
そして、最後の
「…………3連ッ」
刀を納めた桑島は、そっと子供たちを安全な場所への誘導を始めた。
函館の空が、赤く染まっていた。
感情の波が、街を焼いていた。
笑い声が、泣き声に変わり、叫びが火の手に変わる。
建物が軋み、窓が割れ、
人々が感情のままに火を放ち、
街が、炎に包まれていく。
黒霧が渦を巻き、マドカの体を包む。
ひなたは、その傍らに立っていた。
血と吐瀉物にまみれ、足元が崩れかけていた。
声を振り絞って、叫ぶ。
「マドカ……お願い……あなたが壊れても、私は見てる……あなたが何を選んでも、私は隣にいる……!」
黒霧が、ひなたの胸を打つ。
感情の波が、再び襲いかかる。
──怒り。
──孤独。
──無力感。
ひなたは、膝をついた。
胃が痙攣し、喉が焼ける。
涙が止まらない。
「哀れだな。言葉で何が変わる。感情は、喰われるべきだ」
だが、その声の奥から、マドカの声が漏れた。
「……ひなた……やめて……そんなふうに呼ばないで……」
面が震える。
黒霧がわずかに揺れる。
だが、すぐに
「黙れ。お前はもう、私だ」
ひなたは、立ち上がった。
足が震えていた。
でも、叫んだ。
「マドカ……あなたがいなくなったら、誰が私を見てくれるの!」
「髪を結った日も、雨の日の縁側も、全部……全部、まだ私の中にあるのに!」
黒霧が爆ぜる。
マドカの肩が揺れる。
面が傾く。
「……私も、覚えてる……でも、もう戻れない……」
「戻れるよ! 戻ってきて、マドカ!」
面の口が、カクカクと動く。
「戻る? どこに? この街か? 故郷か? それとも、異国か? ……感情に飲まれた者に、帰る場所などない」
マドカの声が、かき消される。
黒霧が再び濃くなる。
面が、ひなたを睨む。
ひなたは、袋を握りしめた。
香りが、風に乗って広がる。
マドカが好きだった、あの香り。
「……お願い……あなたを、終わらせたくない……」
マドカの体が、わずかに揺れた。
面が、ピクリと跳ねた。
そして──
マドカが、面を外しかけた。
「……ひなた、ごめん……私、もう……」
そのまま、瓦の端へと歩き出す。
風が強く吹く。
髪が舞い、黒霧が渦を巻く。
「マドカ!!」
ひなたが叫ぶ。
マドカが、身を投げようとした瞬間──
振り返らずに、語りかけた。
「ありがとう。あなたがいたから、ここまで来られた。でも、私はここで終わる。それが、私の選択」
ひなたが、走った。
瓦が砕け、足が滑る。
それでも、手を伸ばす。
「終わらせない!! あなたが終わるなら、私も終わる! だから、終わらせないで!!」
マドカの腕を掴んだ。
二人の体が、屋根の端で揺れる。
黒霧が、風に引き裂かれるように散っていく。
面が、瓦の上に落ちた。
ポコッと、静かに跳ねた。
風が、止んだ。
街の遠くで、炎が静かに沈んでいった。
ひなたは、マドカの腕を抱きしめていた。
涙が、瓦に落ちていた。
瓦の上で、風が止んでいた。
黒霧は消え、空気が澄んでいた。
マドカは、ひなたの腕の中で静かに目を閉じていた。
「……ひなた……」
その声は、もう残響賛歌のものではなかった。
ただ、マドカの声だった。
ひなたは、何も言わずに頷いた。涙が、マドカの髪に落ちた。
街の遠くで、鐘が鳴った。誰が鳴らしたのかは、もうわからなかった。
でも、その音は、静かだった。
マドカから外れた面が、瓦の上を転がった。
ポコッ、ポコッと音を立てて、 誰にも拾われることなく、風に流されていった。
鱗滝とツェペリは、遠くの屋根からその様子を見ていた。
互いに目を合わせ、ニヤリと笑う。
しづは、薬屋の前で子供たちを抱きしめていた。 その横に、通詞の青年がいる。
志々雄は、炎の残り香の中で一度だけ空を見上げた。 そして、何も言わずに背を向けた。
瓦の上で、ひなたはマドカの手を握っていた。 その手は、温かかった。