鬼滅の波紋 On Every Street (鬼滅の刃 X ジョジョ1部)   作:ヨマザル

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決着

 雪解け水が現れ始める季節。霧野村から函館へ向かう山道も、泥で覆われている。

 夜明け前の空はまだ色づかず、風も冷たい。

 

 霧野村から、函館へと逃げる村人たち。

 誰も話さない。誰も振り返らない。泥に足を取られながら、のろのろ進む。

 皆を逃がすためにツェペリが残ったことも、誰も口にしなかった。

 列の最後尾で歩くダイアーだけが、時折、後ろを見ていた。

 

「……」

 通詞が、前を行く母子に声をかける。

「足元、気をつけて。滑ります」

 母は頷き、子の手を強く握り直す。

 その子は、泣いていた。

 泥と涙で、顔が汚れている。

 ダイアーは、歩調を落としてその子の隣に並ぶ。

 何か言おうとするが、言葉が出ない。

 手を伸ばしかけて、引っ込める。

 そして、少しだけ前を向いたまま、ぽつりと言った。

「……寒いな」

 子は、顔を上げない。

 ダイアーは、もう一度言う。

「寒いと、涙も凍るって聞いたことがあるな」

 子は、少しだけ鼻をすする。

 

 ダイアーは、手袋を外して、自分の袖で子の顔を拭った。

 不器用な手つきだった。

 袖が少し汚れた。

「……ごめんなさい」

 子がようやく声を出した。

 ダイアーは首を振る。

「謝ることじゃない。泣いていい。泣いて、そして歩け」

 子は、頷いた。

 そして、母の手をつなぎ、チョコチョコと歩き出した。

 

 列の前方では、老女が泥に埋もれた岩に足を取られて転びかけた。

 周囲の者が支える。支えた者の腰が砕け、盛大に転んだ。

 母たちは荷を背負い、子を抱え、足元を確かめる余裕もない。

 誰もが、疲れていた。

 肉体も、心も。

 

「休める場所は……」

 通詞が言いかけて、ダイアーが首を振る。

「まだ早い。止まれば、追いつかれる」

 誰も反論しない。

 ただ、歩く。

 ただ、息を吐く。

 霧が濃くなってきた。

 遠くで、鳥の声が一度だけ響いた。

 それが、夜明けの合図だった。

 

◆◆

 

 霧が濃くなっていた。

 岩の縁がぼやけ、足元の土が湿っている。

 通詞が前を行く母子に声をかけながら、ふと立ち止まった。

「……この辺、熊が出るって聞いたことが……」

 ダイアーが後ろから歩いてきて、少しだけ眉を動かす。

「ヒグマ? まだ、眠っているだろ」

 通詞は答えず、ただ霧の奥を見つめていた。

 その時だった。

 

 岩陰から、低い唸り声。

 母熊が現れた。

 本土にいるツキノワグマではない。巨大なヒグマだ。

 毛並みは荒れ、目が赤い。

 その背後に、子熊がぴたりと張りついている。

 冬眠しているはずの時期だった。

 子連れの母熊は、危険だ。

 村人たちがざわつく。

 列が乱れ、子供が泣き出す。

 通詞が「下がって!」と叫ぶ。足元が滑べり、転びかける。

 母熊が吠える。

 地面がドンと鳴った。

 熊は村人の列に突撃しようとしかけ、不意に止まった。

 

 グルルルル……

 熊は頭を下げ、うなり声をあげる。霧の奥を、睨みつけている。

 

「……騒がしいな」

 熊が睨む霧の奥から、声。

 包帯姿の男が現れた。

 その後ろに、剣士風の男が控えている。

 二人とも、見覚えはなかった。

 

  ド ド ド ド ド ド ド ド ……

 

 ダイアーは、村人の前に立つ。

「誰だ」

 包帯の男は、熊を見たまま答える。

「通りすがりだ。熊か。斬りがいがあるな」

 その言い方に、どこか楽しげな響きがあった。

 後ろの剣士が一歩前に出る。

「待て志々雄。親子だ」

 包帯の男は肩をすくめる。

「桑島、うるさいな。親子でも、牙はある」

 ダイアーは、熊の前に出る。

「斬らなくていい」

 包帯の、志々雄と呼ばれた男が、ちらりと横目を向ける。

 その目が、一瞬だけダイアーを捉えた。

 異人の戦士。歴戦の気配。

 志々雄の目が、わずかに細くなる。

「……ほう」

 その声は、興味を含んでいた。

 ダイアーが手を上げて言った。

「眠らせる」

 志々雄の目が、すっと冷める。

「……そうか」

 手を止め、肩をすくめる。

「じゃあ、吠えさせておけ」

 桑島と呼ばれた剣士が、鼻を鳴らす。

「子連れの母熊に、理屈は通じん」

 

 志々雄が関心を失ったことを感じたのか、母熊が興奮し始めた。

 地面を叩く音が、霧の中に響く。

 子熊は背後に張りついたまま、動かない。

 村人たちがざわつき、列が乱れる。

 

 ダイアーは、ゆっくりと前に出た。

 足音を立てず、肩の力を抜いて。

 掌は構えない。

 ただ、母熊の目を見ていた。

 母熊が低く唸る。

 一歩、踏み出す。

 ダイアーは、さらに一歩近づく。

 その動きに、わずかな“間”があった。

 熊が反応する。

 前足が浮き、突進の構え。

 その瞬間、ダイアーの掌が動いた。

 フェイントをかけ、前後左右に動く。

 誘いに乗り、熊が踏み込む。

 ダイアーは踏み込みをかわした。

 母熊の横に回り、肩に手を添えた。

 波紋が熊に流れた。

 母熊の動きが止まり、足元が揺れる。

 そのまま伏し、目をつぶる。

 子熊も、母の背に近づいてきた。

 鼻を鳴らし、丸くなる。

 ダイアーは、もう一度掌を添えた。

 掌から柔らかく包むように波紋を流す。

 熊の親子は、安らかな寝息を立て始めた。

 

「すごい……」

「さすが、ダイアー様だ」

 村人たちは、波紋戦士に賛辞を贈った。

 そして、再び列を整え、歩き始めた。

 志々雄は、熊の方を見たまま言った。

「悠長な。斬ってしまえば早いモノを」

 ダイアーは、熊に背を向けながら言う。

「早いだけじゃぁ、足りぬ。あの場で熊を怒らせ、暴れさせれば、村人に危害が及ぶかもしれぬ」

 志々雄は、少しだけ笑った。

「なんだ貴様、そんな下らないことを気にするのか?」

 その笑みは、もう興味を含んでいなかった。

 志々雄は、霧の奥を見ていた。

「さぁて……。見込み違いだったぜ。ここには興味を引くものがねぇな……最後にあのガキの最後だけ覗いてくるか」

 その背を、桑島が見送る。

 だが、すぐには動かなかった。

 桑島は、村人たちの列を見ていた。

 母が子を抱え、老女が通詞に支えられている。

 誰もが疲れていた。

 足も、顔も、声も。

 志々雄の背が、霧に溶けかけていた。

 桑島は、刀の柄に手を添えたまま、動かなかった。

「……村は、もう片付いてた。キャンプを張っていたと聞いた釜の仙境にも、何も残ってなかった」

 ぼやくように口にした。

「無駄足だったな。あいつは、そういうの嫌いだが」

 ダイアーが、熊の方を一瞥してから言った。

「さっきの男、何者だ」

「人斬りだ。昔から、斬れるものは斬る。そういう男だ」

「……あんまり、話が通じる気がしない」

「通じない。だから、俺がついて観ている」

「アンタは誰だ?」

 ダイアーの問いに、桑島は自分の名前と所属、そして鬼を倒すという使命を語った。

「鬼……だと?」

「そうだ。我らは鬼を根絶やしにするために、命を懸けている……」

 そして桑島は、志々雄の後を追い、霧の中に消えていった。

 

◆◆

 

 歩き続けると、やがて霧が少しだけ晴れた。遠くの空が赤く染まり始めていた。

 函館の方角だった。

 風が、霧を裂いた。

 その向こうに、函館の街が見えた。

 空が赤く、煙が昇っていた。

 火の手は、五稜郭の方角だった。

 村人たちがざわつく。

「燃えてる……」

「函館が……」

「どうすれば……」

 通詞が前に出て、声を張った。

「落ち着いて。今は動かないでください」

 ダイアーも、列の中央に立った。

「ここから見える火は、遠い。今は、動くより、仲間を守る方が先だ」

 通詞が頷き、母子の間を回る。

 老女の手を取り、子供の頭を撫でる。

 村人たちが、少しずつ静かになっていく。

 誰もが、空を見ていた。

 

 ダイアーは、通詞の方へ歩いた。

「助かった」

 通詞は、少しだけ笑った。

「こちらこそ。あの熊には、驚きました」

 ダイアーは頷いた。

「……行こう。まだ俺たちには、やるべき義務が残っている」

 風が、火の匂いを運んできた。

 列が、再び動き出す。

 

────────────

 

 五稜郭

 

 風が、マドカの髪を揺らした。

 ひなたは、石垣の影から一歩だけ前に出た。

 足元はまだ不安定だったが、声はまっすぐだった。

「……もう、こんなことやめようよ」

 マドカは、袋を抱えたまま動かなかった。

「村に帰ろう。みんな、待ってる。元に戻ろう」

 ひなたの声は、震えていなかった。

 ただ、届くかどうかは分からなかった。

 マドカは、少しだけ顔を向けた。

「戻って、どうするの」

「生きる。普通に」

「普通って、何?」

 ひなたは、言葉に詰まった。

 マドカは、袋を握り直した。

 香りが、わずかに漏れた。

「終わらせたいの。全部」

「全部って……何を?」

「鷲津さんのことも、家のことも、あの夜のことも。ぜんぶ、終わらせたい」

 マドカの声は、少しだけ幼かった。

 ひなたは、眉を寄せた。

「……何を言ってるの?」

「わかんないなら、いい」

「わかんないよ。そんなの」

 マドカは、ひなたを見なかった。

 ひなたは、マドカを見ていた。

 

 その時だった。

 石垣の向こうから、足音。

 榊が現れた。

 顔色が悪い。目の焦点も、合っていなかった。

 

  ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 マドカが振り向く。

「蒼ちゃん……大丈夫?」

 榊は答えない。

「……鷲津さんを……よくも……」

 うつろな声。かすれていた。

「ぐびっ」

 榊は両手を地面につき、えづき始めた。

「ぐぴっ、ぐぴっッ……」

「蒼ちゃん…………」

「この人、どうしたの?」

 ひなたも、首を傾げた。

 

「うううぅ……ウギヤァあアアアアア────」

 突然、榊が叫びだした。

 体が、震え始めた。

 震えはドンドン大きくなる。

 胸元が膨らみ、皮膚が裂ける。

「ぎゃピッ」

 榊が、突っ伏した。

 

 そして……

 ノロノロと、頭をもたげた。

 声が響いた。

「ようやく、出られるか」

 その声色は、榊の口からでたものとはとても思えなかった。

 低く、湿った響き。

「この器、よく耐えた。だが、もう限界だな……」

 

「ギィィィイイイイイ──ッ!」

 榊の体が、裂ける。

 

 中から、赤黒い影が溢れ出す。

 裂けた榊の体から、腕が二本、もう二本。

 さらに頭が二つ。まろび出る。

 二つの声が、重なった。

 一つの頭は、黒髪。真っ白な肌。小柄な体形。だが、体中から、ボコボコと石柱のような突起が突き出している。

 

  ド ド ド ド ド ド ド ド ……

  ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 

「……しつこいぜお前ら。うっとおしいんだよッ……俺の名は返垢だ。ひれ伏せ、てめーら」

 もう一つの頭は、金髪。茶褐色の肌。大柄で均整の取れた体。日本にはない洋装。そして開いた口には牙。

「俺はモラーノ……へへへへ、久しぶりだなぁ。懐かしいぜぇ」

 

「……」

 鱗滝が、黙って刀を構え直す。

 一方、モラーノの名を聞いた瞬間、ツェペリの目は揺れた。握りかけた拳が、ほどける。

「……モラーノ……? お前、モラーノと言ったか?」

 声が、震えていた。

 

「おーいぇぇ。いい風吹いてるぜ。お前にまた会えたんだからなぁ……」

 モラーノが、ニヤリと笑った。

 

「嘘だ……あんたは……死んだはずだ……」

 モラーノは、笑った。

「死んだよ。船の上で。君の父の手で。見てただろ? ウィル・A・ツェペリく~ん」

 ツェペリは、拳をほどいた。

 指先が、わずかに震えていた。

「お前……あの夜、俺の行動を……知ってたのか」

「知ってるさ。だが、生きているとは思わなかったよ」

 モラーノは言った。

「あの夜、君は生き残った。俺は、喰われた。だが、おれも生きてるぜぇ……屍のままだから、『生きている』って言っていいか、ビミョーだがよぉお」

 

 鱗滝は、返垢の方を見ていた。

 その肉体は、異様に膨らみ、刃のような骨が突き出ていた。

「……鬼……なのか? だがかまわぬ。返垢……ようやく貴様を見つけたからには、斬る」

 返垢は、笑った。

「鬼狩りかよ。知っているぜぇ、オメェ俺の事をずっと追っかけてただろう。だが、見つけられなかったよなぁ──ッ。くくくく……」

 鱗滝は、普段のように刀を上段に構えた。

「だが、見つけた」

 返垢は、一歩踏み出した。

 

 マドカは、榊の残骸を見ていた。

 ひなたも、目を逸らせなかった。

 そのむごたらしさに、言葉が出なかった。

 風が、血の匂いを運んできた。

 函館の空が、赤く染まり始めていた。

 

◆◆

 

 返垢の肉体は、膨張と収縮を繰り返していた。

 骨が軋み、刃のような突起が空気を裂く。

 皮膚は硬質化し、関節が逆向きに折れながら再構成されていく。

 

 返垢が、右腕に骨の刃を出現させた。

 突然の攻撃。

 

 鱗滝が、受ける。

「水の呼吸──参ノ型、流流舞(りゅうりゅうまい)っ」

 流れるように返垢の攻撃を躱す。

 波のように押し寄せる連撃を放つ。

 返垢は、骨の刃で受け止めた。

 肉体が変形し、刃が軋む音が響く。

 鱗滝は、すぐに陸ノ型へ移る。

 足を滑らせ、刀を返す。

 返垢の肩を狙った一太刀。

 だが、肉が裂けず、骨が軋むだけだった。

 

「漆ノ型──雫波紋突きッ!」

 突きの連撃が、空気を震わせる。

 返垢は、腕を伸ばし、鱗滝の間合いを崩す。

 

 刀が返垢に通らない。

 それが、はっきりと示された。

 

 返垢は、笑った。

「水の呼吸の剣士か。だが、効かねぇなぁ……俺の肉は、鬼を超えている。ヴェルミリオ様の恩寵でなぁぁあああッ……その刀、通じんぞぉ〰“人間の技”ではなぁぁっ」

 鱗滝は、刀を構え直した。

 その動きに、動揺は見えない。

 だが、額に汗がにじむ。

 

 返垢が、両腕を広げた。

「つぎは俺の番だな。血鬼術──恐怖の波、喰らえッ」

 血鬼術──鬼が体内の血を変質させて放つ、異能の技。

 声と同時に、返垢の両手から、血霧が吹きだす。

 

 血霧が鱗滝に降りかかる。

 鱗滝の視界が、揺れた。

 遠い記憶の波が、鱗滝を襲う。

 

 仲間の顔が浮かぶ。

 任務の夜。

 血の匂い。

 刃を握る手が、震えていた記憶。

 ──あの夜、判断が一瞬遅れた。弟子は、喰われた。

 桑島は、今もあの晩のことを悔いている。

 実は鱗滝も、同じようにずっと悔いていた。

 

 足が、動かない。

 呼吸が、浅くなる。

 刀を握る手が、汗で滑る。

 

 返垢の肉体が、膨張しながら迫ってくる。

 

 鱗滝は、一歩退いた。

 その動きに、自分で驚いた。

「……俺が、退いた?」

 声にならない声が、喉の奥で震えた。

 

 返垢は、笑っていた。

「ハハハ、怖がったのか、お前。……いいねぇ……それじゃあ喰えるぞ、お前を。その迷いも、後悔も。全部。きっと旨いぃぃぃっ。楽しみだなぁ……ヒヒ」

 

「下らん……」

 鱗滝は、刀を構え直そうとした。

 腕が重かった。

 隈取が、滲んだ。

 汗で、線が崩れ始める。

 ならば……鱗滝は、目を閉じた。

 呼吸を整える。

 水の呼吸──肩の力を抜いて水をイメージ、水面のように静かな心を保ち──

 

 ちがう、そのやり方では届かない。

(こいつには……この思いを、感情をそのまま刃に乗せて……斬る)

 

 仲間の顔が、浮かんでいた。

 今は、体が動く。

 

 鱗滝は、目を開けた。

 刀を握り直す。

 足を踏みしめる。

「よし……この思いを乗せて……貴様を斬るッ」

 

 返垢は、笑った。

「はははぁッ。できないねぇ。俺が食っちまうからなぁ。その感情ごと」

 鱗滝は、隈取をぬぐった。

 素顔のまま、刀を構えた。

 風が、髪を揺らした。

「水の呼吸。捌ノ型──滝壺 断心(たきつぼ だんしん)!」

 一歩。

 上段を構えたまま、瀑布を落ちる激流のような怒涛の足さばき。

 鉄砲水のような爆圧の踏み込み。

 

 同時に、刀を振り切る。

 刃は、返垢の胴体を斜めに裂いた。

 水の流れのように、迷いなく、爆発したような一撃。

 

 バッシュッ! 

 両断された返垢の肉体が、崩れ始める。

 だが、完全には砕けなかった。

 上半身だけ、崩れずに地に残った。

 返垢は、笑っていた。

「思ったよりやるなぁ…………鬼より怖ぇぇ……だがよぉ……まだ終わらねぇぞぉ……喰ってやるぞぉぉ……」

 

 だが鱗滝は、返垢にはもう構わない。背を向けた。

 刀を振り、刃についた血を払い落とす。

 風が、血と水の匂いを運んでいた。

 空は赤く、函館の街が燃えていた。

 まだ終わっていなかった。

 

◆◆

 

 確かにモラーノの肉体は、屍生鬼(グール)に変わっていた。

 そして、まるで普通の市井の人間が旧友に話しかけるように、ツェペリに話しかけ続けている。

 声も──楽しげだった。

「覚えてるかァ? あの港町ッ!」

「最初に一緒に潜った遺跡ッ! 君は地図を読んで、俺は穴を掘ったッ!」

「毎日が冒険だったよなァ~~~ッ! 楽しかったよなぁぁ!」

 話しかけながら、攻撃も続ける。

 

「……」

 ツェペリは拳をほどいた。

 波紋の構えを解いた。

「……やめてくれ。モラーノ。まだ、戻れる。俺たちは、良い仲間だった。あの頃のままなら……」

 

「仲間ァ? 仲間だとォ~~~? 親友、冷めてぇなぁ……」

 モラーノの笑い声が、甲高く跳ねた。

「お前、『あの頃の』俺の全てを知っているだろぉ? ……なんたってよぉ~お前、俺の(はらわた)まで見ただろうがぁ」

「俺が喰われるのを、じぃーっと見ていたクセにィ~~~ッ! よぉく見ていた! そんなお前の様子を、俺も見てたんだぜぇ~~~」

 

 ズギャァン! 

 モラーノが腕を振る。

 手にしていたのは、ただの瓦。

 だが屍生鬼(グール)の剛力で投げつけた瓦は、兵器と化す。

 瓦は、超速で襲い掛かる。

 ツェペリは、避けきれない。

 肩を裂かれる。

 

 バチィッ! 

 血が滲む。

 

 モラーノが笑う。

「あの船で、俺は死んだぁああッ! だが、ヴェルミリオ様がいたァッ!」

「石仮面をかぶった彼が、俺を拾ったッ! 命を長らえさせてくれたッ!」

 

  ド ド ド ド ド ド ド ド ……

 

「……なんだと……」

 父の親友の名を聞き、ツェペリが眉をしかめる。

「何を言っている? 石仮面をかぶったのは、俺の……親父だった」

 

「ケケケケ……そう思っただろッ ちっがうぅぅううう──―。ホントは、ヴェルミリオ様が仮面の秘密を発見したんだよぉおお~。それで……自分が最初に仮面をかぶって、その後で『隊長』にも被せたんだよぉおお。ムリヤリよぉおお──」

 

「何だと……」

 

「おいおい、今は俺の話を聞けッ! ……俺はなぁ……それからずうぅぅっっ──―とぉ、ヴェルミリオ様と太陽の光を克服する術を探し続けたゼッ! 世界中を回ったッ!」

「そして、日本に来たァッ! 奇妙なものと融合させられ、俺は変わったァッ!」

「でもヴェルミリオ様は、俺を見捨てたッ! 俺は、捨てられたんだァ~~~ッ!」

 モラーノは、泣き始めていた。

 

ドグォッ! 

 モラーノの爪が伸び、ツェペリの腹を裂いた。

 波紋で受けきれず、地面に膝をつく。

「ぐぉっ」

 

「その間、君は、いったい何をしてたぁ~~~?」

 モラーノは、ツェペリの周囲を飛び回りながら、挑発する。

「『波紋』の修行? 無駄(ムウゥーダァ)──ッ。そんなものじゃ、俺たちにむごたらしく殺される“運命”は変わらないぜッ! ……運命だァ~~~ッ! 抗えないッ! お前は俺に、喰われるだけだァ~~~ッ!」

 

『運命』

 その言葉が、ツェペリの胸を突いた。

 ──予言:

 

「おのが自身はその傷を燃やし、しかるのちに残酷な死を迎えるであろうッ」

 

 あの夜の声が、耳の奥で響いた。

 

 モラーノが、血を振るう。

「もう一度だっ。血鬼術──記憶の波、喰らえッ!」

 

 ズバァッ! 

 空気が震え、地面が軋む。

 

 ツェペリの視界に、過去の光景が重なる。

 船上の嵐の夜。

 舵を取り、にやっと笑うモラーノ。

 モラーノが屍生人(ゾンビ)に襲われ、助けを求めた姿。

 ツェペリは、足がすくみ、動けなかった。

 足元の甲板を、冷たい波が、洗った。

 

 現実の戦場でも、足が止まる。

 波紋が乱れる。

 拳が、わずかに震える。

 呼吸が浅くなり、胸が痛む。

 肩と腹の傷が、熱を持って脈打つ。

 

「……ぐ……ッ」

 ツェペリは、地面に手をついた。

 波紋がうまく練れない。

 恐怖が、呼吸を乱していた。

 

 モラーノは、笑っていた。

「見ろよォ~~~ッ! 君は、あの夜から変わっていないッ!」

「選ばなかった者は、選ばれないッ! 選ばれたのは、おれぇ──ッ!」

 

 ツェペリは、顔を上げた。

 血の匂いが、鼻を刺す。

「……モラーノ」

 声は、かすれていた。

「俺を殺す前に、一つ教えてくれ……君もヒトを食べたのか?」

 

  ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……

 

 モラーノは、少しだけ黙った。

 そして、笑った。

「食べたさァ~~~ッ! 喰わなきゃ、生きられなかったッ! 君が見ていたあの夜から、俺は人間じゃないッ! ……この間も、喰ってやったさぁ……お前の後ろをチョコチョコついてきたガキをよぉ……」

「……モラーノ…………お前は……お前が……一郎の仇なのか……」

 ツェペリは、拳を握った。

「……なら、俺は選ぶ。君を止めるッ!」

「いいやムリだね。お前は俺に喰われる。親友……お前を喰えるなんて最高だゼぇ~」

 

 再び、恐怖を呼び起こす血霧がツェペリを襲う。

 次に浮かんだ光景は、子供のころの記憶。

 イタリアの実家で、父の親友に進路相談をした時だ。

 あの時、彼は実家の庭で『応援するよ』と言ってくれた……

 

 船上の夜だ。父の親友ヴェルミリオがいる。稲光が差し、手元を照らす。

 手には、発掘品の石仮面がある。

 彼は俺に「素晴らしいモノを見つけたな。お手柄だ……」と言った。

 

 船長室だ。ヴェルミリオがノックをして入ってくる。

 その手には、石仮面と、ナイフがある。

 彼は父に「ツェペリよ……俺と来てくれ……」

 そう言って石仮面をかぶり……

 

「やめろぉおおおお!」

 ツェペリは叫んだ。

 

「へぇ……声は出せたかよ」

 モラーノが一歩、近づく。

「だが、体が動かねぇだろ。俺の『血鬼術』は、恐怖で縛るからよぉッ」

 

(勇気を持て、恐怖を受け入れ、乗りこなせッ!!)

 近づくモラーノを睨みつけ、ツェペリは……

 

コォオオオオォオオ──―

 完璧な波紋を練る。そして、近づいてきたモラーノへ打ち込むッ

 

「うごぉおおおおおっ!」

 波紋が、モラーノの左腕を砕くッ。

 

 モラーノは、砕け、溶けていく腕を見つめた。

「……これが、君の選択の証かァ……やるじゃあないかッ。だが、残しておくわけにはいかないッ!」

 

 ズバァッ! 

 自らの腕を斬り落とす。しかし、完全には体の崩壊を押しとどめることは、出来なかった。

 モラーノは、崩れながら言った。

「君は、変わったなァ……」

 

 ツェペリは、静かに答えた。

「勇気……勇気を持つことの意味を、今心の底から理解したからな……お前から学んだことだ。ビート」

 

「ククク……そりゃ、光栄だねぇ……」

 

 風が、血と水の匂いを運んでいた。

 空は赤く、函館の街が燃えていた。

 

 まだ終わっていなかった。

 

────────────

 

 遺されていた榊の体が崩れた。

 肉が裂け、骨が砕け、血が地面に広がった。

 

 その中心に、マドカが膝をついていた。

 ひなたは、声が出なかった。

 榊の顔は、もう何も残っていない。赤い何かが、あるだけだった。

 

 マドカは立ち尽くす。

『榊の残骸』を、じっと見ていた。

 手を伸ばし、榊だったものに両手で触れた。

 風が吹いた。

 血の匂いが、蝋梅(ろうばい)とカヤの香りと混じった。

 

 ひなたは、マドカに近づこうとした。

 何故か足が、うまく動かなかった。

「マドカ……」

 

  ド ド ド ド ド ド ド ド ……

 

 マドカは、血に染まった両手を持ち上げた。

 その動きが、妙にゆっくりだった。

 祈るように、手を高く上げた。

 そして、正面に置いた仮面をひっかくようにした。

 仮面の表面に、指で赤黒い筋を描く。

 仮面の唇を、血で染めた。

 面が、赤さを増したように見えた。

 岩のような質感。

 木のような静けさ。

 眉がしかめられ、大口からは、牙が出ている。

 目と口は大きく開いている。

 その下から、マドカの目と口元がのぞいていた。

 面が、ポコッと動いたようにみえた。

 ほんのわずかに、呼吸のように。

 マドカの髪が、風に逆らうように揺れた。

 

 ひなたは、もう一歩踏み出した。

「マドカ、やめよう。もう、十分だよ」

 マドカは、振り向かなかった。

 面を見つめたまま、微笑んだ。

 その笑みに、感情はなかった。

 面の背後に、後光のような光が差した。

 だが、それは光ではなかった。

 黒霧が、逆光のように広がっていた。

 ひなたは、後ずさった。

「お願い……戻ってきて」

 

 マドカは、何も言わなかった。

 ただ、面を手に持ち、頬に当てた。

 その瞬間、音が消えた。

 風も、遠くなった。

 マドカの周囲だけ、何かが沈んでいた。

 面が、もう一度ポコッと動いた。

 

 今や仮面は、真紅に染まっていた。

 

 ひなたは、仮面をかぶったマドカに手を伸ばそうとした。

 だが、届かなかった。

 

 マドカは、もうマドカではなかった。

 

 面が、彼女の顔に溶けるように馴染んでいた。

 黒霧が、地面から立ち上がる。

 蝋梅(ろうばい)とカヤの実の香りが、周囲を満たしていた。

 

 ひなたは、立ち尽くしていた。

 手を伸ばすこともできなかった。

 ただ、見ていた。

 マドカが、遠くなっていくのを。

 

 そして、声が響いた。

「……ああ、ようやくいなくなった。マドカを、ようやく追い出せたぁ……嬉しいなぁ……」

 その声は、マドカの口から発されていた。

 だが、マドカではなかった。

 

 響きが深く、乾いていた。

「初めまして。今の私の名は残響賛歌(エコーズ・アンセム)

「マドカ……マドカ? 何を言っているの? わからないよ」

「わからなくていい……今、『開く』からな。この世界を、私の感情で満たすっ!」

 面が、ポコッと動いた。

 その瞬間、空気が爆ぜた。

 

 ズギャァン! 

 

 感情の波が、周囲を襲った。

 ひなたは、吹き飛ばされそうになった。

 胸が、締めつけられる。

 悲しみが、押し寄せる。

 ── 一郎の死。

 ──マドカの変化。

 ──自分の無力。

 涙が、勝手に流れた。

 

 だが、次の瞬間、笑いが込み上げた。

 可笑しくて、たまらなかった。

 何もかもが、滑稽に思えた。

「……あは……あはは……」

 ひなたは、笑っていた。その目からは、涙がこぼれている。

 

 次に、恐怖が来た。

 猛烈な恐怖。

 体が震え、視界が歪む。意識がかすむ。

 地面が、遠くなる。

 その時だった。

 

 屍生鬼(グール)たちが、集結してきた。人間ではない。鬼と屍生人が混ざった存在。

 感情の波に引き寄せられ、地面を這ってくる。

 

 と……

『返垢の残骸』が、動いた。

『モラーノの残りカス』が、蠢いた。

 屍生鬼(グール)が近づくと、二体はそれを捕食し始めた。

 

 ズバァッ! 

 バリバリバリ……! 

 

 肉が裂け、骨が吸われる。

 屍生鬼(グール)は、それを、恍惚の表情で受け入れている……

 

 一部の屍生鬼(グール)が、鱗滝とツェペリにも襲いかかる。

 二人は、感情の波に翻弄されながらも、刀と波紋で応戦する。

「……笑うな……泣くな……斬れ……」

 鱗滝の声が、震えていた。

 ツェペリも、波紋を流しながら、歯を食いしばっていた。

 

 屍生鬼(グール)が食われるたびに、返垢とモラーノの肉体が再構成されていく。

 ……そして…………二体は融合し……

 半分が、一つになった。

 

 目が、複数あった。

 骨が、外に突き出ていた。

 融合体が、笑った。

「俺は……ワレは……響垢鬼(きょうこうき):モラーノ・レヴカースッ!」

 

────────────

 

 一方、榊の近くに寄った屍生鬼(グール)が、死体を見て涎を流していた。

「死んでる……死んでる……」

 そして、榊の亡骸に覆いかぶさり……食い尽くした。

 

 その様子を見た面が、悶えた。

 ポコッと、面が跳ねた。

 マドカの顔が、一瞬だけ浮かんだ。

「……やめて……」

 その声は、確かにマドカだった。

 

 だが、すぐに面が主導権を奪った。

「感情は、喰われるべきだ……レヴカースよ、来たれ」

 響垢鬼:モラーノ・レヴカースが、ゆっくりと動き出す。

 マドカ──いや、残響賛歌(エコーズ・アンセム)は、五稜郭の屋根へと跳び上がった。

 

 黒霧が、彼女の足元を支えていた。

 街の明かりが、足音に広がる。

 マドカの顔の上で、面が静かに震えた。

 その震えが、街全体に響いていた。

 

────────────

 

 モラーノ・レヴカースが、瓦の上に立っていた。

 その姿は、いびつな阿修羅の様であった。

 腕が4本。

 左右非対称に伸び、関節が逆向きに折れていた。

 骨が外に突き出し、刃のように湾曲していた。

 皮膚は半透明で、内部の脈動が見える。

 顔は2つ。

 左に返垢の笑顔。

 右にモラーノのしかめ面。

 背中には、骨の翼。

 だが、飛ぶためのものではなかった。

 翼からは、揺れるたびに、黒い鱗粉のようなものが舞う……。

 

 瓦が軋む。

 

 モラーノ・レヴカースが、わずかに動いた。

 その内部で、声が交差した。

「良かったなぁ……まだ喰えるなぁ~」

 返垢の声。

「ああ、旨そうな肉袋がまだ残っている」

 モラーノの声。

「だが、食えるのか?」

「……あの刀、怖かったな」

「波紋も、ヤバいな。体が溶けちまう」

「俺たちが、喰えないものを持っていた」

「でもよぉ……せっかく奴らに会えたんだ。歓迎しないとなぁッ」

 瓦の上で、骨が軋む音がした。

 

 モラーノ・レヴカースが、瓦の上で跳ねた。

 

 ズギャァン! 

 4本の腕が空気を裂き、瓦が爆ぜる。

 黒霧が舞い、夜風が血の匂いを運ぶ。

 鱗滝が、左肩を押さえながら踏み込む。

 隈取は汗と血で滲み、半分剥がれていた。

 

 ツェペリが、腹を押さえながら拳を構える。

 波紋の呼吸が地面に広がる。

 呼吸は浅い。

 腹の部分が、赤く染まっている。

 

 モラーノ・レヴカースが、空中で回転する。

 骨の翼が広がり、2つの顔が同時に笑った。

「喰うぞォ~~~ッ!」

「感情も、覚悟も、全部だァ~~~ッ!」

 

 鱗滝が、刀を振るう。

 刀が、夜を裂く。

 

 モラーノ・レヴカースが、急降下。

 

 ズバァァァン! 

 瓦が砕け、黒霧が爆ぜる。

 

 鱗滝が、声を発した。

「返垢……あの美しい村を滅ぼした貴様に、相応の罰などないが……せめて、ここで殺すッ」

 ツェペリが、拳を握り直す。

「モラーノ……あの港町の夜、君が笑ってた顔、まだ覚えてるよ。あの頃の君は、もう何処にもいないんだろう……でも、俺は進む。君がいない道を、自分で選んで」

 モラーノ・レヴカースが、叫ぶ。

 

 ツェペリと鱗滝が、視線をかわす。

「日本の剣士よ。力を貸せっ」

「ああ……承知した。異国の拳士よ。タイミングは、俺に合わせろ」

「承知ッ!!」

 

 ヒュゥゥゥゥ──

 コォォォオオォ──

 

「水の呼吸 捌ノ型──滝壷・雷(たきつぼ らい)!」

「勇気を震わせ、燃え尽きるッ 太陽の波紋──波紋乱渦疾走(トルネーディ オーバードライブ)ッ」

 

 刀と拳が、同時に貫いた。

 波紋が、骨の奥まで届き、

 水の刃が、感情の核を断ち切った。

 

 モラーノ・レヴカースが、崩れる。

 二つの顔が、順に沈黙する。

 

 骨が、瓦の上に散った。

 夜風が、二人の髪を揺らした。

 瓦の破片が、月光を反射していた。

 

 鱗滝とツェペリは、並んでしゃがみ込んだ。

 血に濡れた隈取。

 波紋の残響。

 震える刀。

 破壊された瓦、岩畳。

 彼らは、力を果たし、風の中で、静かに呼吸を整えていた。

 その背中に、もう迷いはなかった。

 夜が、少しだけ澄んでいた。

 満月が、階下の函館の夜景と、城の屋根とを、照らしていた。

 

────────────

 

 瓦が砕け、夜風が血の匂いを運んでいた。

 五稜郭の屋根は、戦いの余波で崩れかけていた。

 ひなたは、その下に立っていた。

 目の前には、瓦の斜面。

 急角度。濡れている。滑る。

 登るには、手も足も使わなければならない。

 

「……行かなきゃ」

 声は震えていた。

 マドカが、あの上にいる。

 誰も、彼女に届いていない。

 ひなたは、瓦に手をかけた。

 指先が、すぐに痛んだ。

 瓦の縁が鋭く、皮膚が裂ける。

 足をかける。

 滑る。

 膝を打つ。

 息が詰まる。

「……マドカ……」

 名前を呼ぶたび、瓦が遠くなる。

 だが、止まらなかった。

 

 両手で這う。

 爪が割れる。

 膝が血に染まる。

 それでも、登る。

 途中、瓦が崩れた。

 体が滑り落ちる。

 背中を打つ。

 息が止まる。

 

 それでも、また登る。

 手を伸ばす。

 瓦の隙間に指を差し込む。

 腕が震える。

 肩が悲鳴を上げる。

 

「……マドカ……待ってて……」

 声は、届いていない。

 でも、言わずにはいられなかった。

 ようやく、屋根の端に手が届いた。

 引き上げる。

 腕が、限界だった。

 かろうじて、体を引き上げる。

 瓦の上に、体を投げ出す。

 夜風が、髪を揺らす。

 血と汗で、顔が濡れていた。

 

 そして、見えた。

 屋根の向こうに、マドカが立っていた。

 面をつけたまま、黒霧を纏って。

 ひなたは、立ち上がった。

 足が震えていた。

 でも、立った。

 

「……マドカ」

 声は、届いた。

 マドカが、ゆっくりと振り向いた。

 面が、ポコッと動いた。

 その奥に、マドカの瞳が、ほんの一瞬だけ見えた。

 ひなたは、もう一歩踏み出した。

 瓦が軋む。

 でも、足は止まらなかった。

「話をしよう。私たちの話を……あなたが、マドカであるうちに」

 

 瓦の上は、不安定だった。

 風が強く、夜の空気が肌を刺す。

 残響賛歌が放つ感情の波が、空気を震わせていた。

 

 ひなたは、瓦の上に立っていた。

 足元が滑る。

 風が髪を引き裂くように吹く。

 だが、目は前を向いていた。

 一歩。

 

 感情の波が、胸を打つ。

 ──昔、マドカと喧嘩した日。

 言いすぎた。謝れなかった。

 その後悔が、足を止める。

 

 でも、もう一歩。

 ──マドカが泣いていた夜。

 誰にも言えず、ただ隣にいた。

 その記憶が、背中を押す。

 瓦が軋む。

 風が、耳を塞ぐ。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の面が、こちらを向く。

 ポコッと、動いた。

 

 ひなたは、声を出した。

「マドカ……聞こえてる?」

 

 感情の波が、激しい笑いを押しつける。

 ひなたは、笑いながら泣いた。

「あなたが、どんなに変わっても……」

「私は、あなたを知ってる」

「だから、話したい。今のあなたと」

 瓦の上で、もう一歩。

 足が震える。

 

 でも、進む。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の面が、微かに揺れた。

 黒霧が、風に流れる。

 

 その奥に、マドカの瞳が、ほんの一瞬だけ見えた。

 ひなたは、手を伸ばした。

 まだ届かない。

 でも、もうすぐだった。

 その時だった。

 

 袋が、風に煽られて揺れた。

 口が、わずかに開いた。

 香りが、空気に広がる。

 甘く、懐かしい。

 マドカが好きだった香り。

 ひなたが選んだ香り。

 

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の面が、ピクリと動いた。

 風が止んだように感じた。

 マドカの指が、わずかに震えた。

 

 ひなたは、もう一歩踏み出した。

 瓦が軋む。

 でも、足は止まらなかった。

「マドカ……戻ってきて」

「あなたの声で、話してほしい」

 

 面が、ゆっくりと傾いた。

 その奥で、マドカの声が、かすかに響いた。

「……ひなた……?」

 

ズバァッ! 

 瓦が砕け、黒霧が唸る。

 マドカの面が跳ねるたび、空気が裂けた。

 感情の波が、ひなたの胸を打ち抜く。

 怒り。悲しみ。孤独。

 それが、刃のように突き刺さる。

 

 ひなたは、膝をついた。

 呼吸が浅くなる。

 胃が締めつけられる。

「……っ……う……」

 吐き気が込み上げる。

 口を押さえる。

 でも、止まらない。

 瓦の上に、嘔吐する。

 体が震える。

 視界が滲む。

 マドカの黒霧が、さらに爆ぜる。

 瓦が崩れ、ひなたの足元が滑る。

 

 体が傾き、屋根の端へとよろける。

「……っ、マドカ……!」

 声が震える。

 半分体が落ちかける。

 必至に手を伸ばし、匍匐前進する。

 肩が悲鳴を上げる。

 指先が裂ける。

 でも、登る。

 再び這い上がる。

 

 ひなたは、血と吐瀉物にまみれながら、瓦の上に戻る。

 

 マドカの面が、こちらを睨む。

 黒霧が、渦を巻く。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)が、叫ぶ。

「見ろ! 君はもう壊れてる!」

「誰にも届かない! 誰にも救えない!」

 

 ひなたは、涙を流しながら笑った。

「……それでも、私は選ぶ」

「あなたを、マドカとして選ぶ」

 マドカの体が震える。

 面が跳ねる。

 黒霧が、ひなたに向かって伸びる。

 ひなたは、立ち上がった。

 足が震えていた。

 でも、声は揺れていなかった。

「怒ってもいい。泣いてもいい。壊れてもいい」

「それでも、あなたを見てる」

 その瞬間、袋が風に煽られて揺れた。

 口が開き、香りが広がる。

 甘く、懐かしい。

 マドカが好きだった香り。

 面が、震えた。

 黒霧が、わずかに後退する。

 マドカの瞳が、はっきりと見えた。

「……ひなた……」

 

 その声は、確かに彼女のものだった。

 ひなたは、血と涙と吐瀉物にまみれながら、

 瓦の上で、マドカの目を見ていた。

 風が、静かになった。

 香りが、二人の間に漂っていた。

 

 瓦の上で、風が唸っていた。

 黒霧が渦を巻き、マドカの面が跳ねる。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の声が、マドカの声で響く。

「壊せばいい! 全部、壊してしまえ!」

「誰も、あなたを守らなかった!」

「誰も、あなたを選ばなかった!」

 ひなたは、血と吐瀉物にまみれながら、立ち上がった。

 顔は涙で濡れていた。

 でも、叫んだ。

「それでも、私は選ぶ!」

「あなたを、マドカとして選ぶ!」

 

 黒霧が爆ぜる。

 瓦が砕け、ひなたの足元が崩れる。

 体が傾き、屋根の端へよろける。

「マドカァ!!」

 怒鳴り声が、夜空に響いた。

 面が、ピクリと震えた。

 

 その奥で、マドカの声が漏れた。

「……ひなた……うるさいよ……」

 ひなたは、息を荒げながら叫ぶ。

「うるさいのは、そっちでしょ!」

「勝手にいなくなって、勝手に壊れて、勝手に終わらせようとして!」

 

 マドカの肩が揺れる。

 黒霧が、わずかに乱れる。

「……だって、私が終わらせなきゃ……」

「誰も、終わらせてくれないから……」

「それを勝手って言うの!」

 

「私に何も言わずに、全部背負って、全部壊して! ……ねぇ、私たちの関係はそんな水臭いもんじゃないでしょ」

 ひなたは言い募る。

「髪を結った日、覚えてる? 私の髪に、ヤマユリの花を挿してくれたよね!」

 面が、跳ねる。

 黒霧が、瓦の隙間に吸い込まれるように揺れる。

「……あの花、まだ押し花にして、持ってるよ」

「雨の日の縁側で、お団子食べながら書いた手紙も、全部覚えている」

 

 マドカの声が、震えながら漏れる。

「……やめて……それ、今言わないで……」

「言うよ!」

「だって、あなたがいなくなりそうだから!」

「祭りの夜に言ったでしょ、“選ばれたら、私が選び返す”って!」

 面が、ぐらりと傾く。

 黒霧が、風に引き裂かれるように散る。

「……私は、選ばれなかった」

「だから、応援するって……」

「違う!」

 ひなたは、叫ぶ。

「私は、選ぶ! あなたを、今、ここで!」

 風が止まった。

 面が、静かに震えた。

 

 その奥から、マドカの声が、はっきりと響いた。

「……ひなた……うるさい……でも……ありがとう」

 黒霧が、瓦の上で崩れた。

 面が、わずかにずれる。

 マドカの瞳が、はっきりと見えた。

 瓦の上で、二人は怒鳴り合いながら、

 ようやく、同じ場所に立っていた。

 

 マドカの瞳が、はっきりと見えた。

 面が、わずかにずれた。

 黒霧が、静かに後退していた。

 ひなたは、息を止めた。

「……マドカ……」

 その声に、マドカが応えようとした瞬間──

 

 面が、跳ねた。

 

 ズギャァン! 

 黒霧が爆発した。

 瓦が砕け、風が唸る。

 

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の声が、マドカの声を押しのけて響いた。

「感情は、喰われるべきだ……この街に、感情を解き放て」

 

 函館の街に、波が走った。

 見えない感情の波が、空気を震わせる。

 人々が、突然立ち止まり、笑い出す。

 泣きながら笑う者。

 怒りながら踊る者。

 叫びながら、誰かを抱きしめる者。

 街が、狂っていた。

 感情が、制御を失っていた。

 

 ひなたは、瓦の上で立ち尽くしていた。

 マドカの瞳は、もう見えなかった。

 面が、完全に戻っていた。

「……どうして……」

 声が、震えた。

「どうして、戻ってこないの……」

「さっき、届いたはずなのに……」

 

 黒霧が、ひなたの足元にまで伸びていた。

 瓦が軋む。

 空気が重くなる。

 ひなたは、袋を握った。

 でも、震えが止まらなかった。

「マドカ……お願い……」

「私の声、届いてたよね……?」

 街の遠くで、鐘が鳴った。

 それは、誰かが狂ったまま鳴らしたものだった。

 音が、笑い声と泣き声に混ざっていた。

 ひなたは、瓦の上で膝をついた。

 顔を伏せ、声を失った。

「……どうして……」

 風が、冷たくなっていた。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の面が、静かにこちらを見ていた。

 

────────────

 

 函館の街は、狂っていた。

 笑いながら泣く者。

 怒りながら踊る者。

 叫びながら、誰かを抱きしめる者。

 

 その中を、ダイアーが駆けていた。

 波紋を纏い、感情の波を裂くように。

 通詞は、村の皆をまとめていた。

「しづ! 避難はどうなってる!」

 しづは、薬屋の屋根に立っていた。

 髪が風に乱れ、目は冷静だった。

「子供たちは地下に。大人は……もう、止められません」

「波紋で鎮めるか? ……しかし、時間がかかるか……」

「感情は、薬じゃ抑えられない。これは……まるで毒よ……」

 ダイアーは、拳を握った。

「ならば……やはり波紋の結界を貼るッ!」

 しづは、静かに頷いた。

「選ぶのはあなたです」

 

◆◆

 

 五稜郭の屋根の上。

 瓦が砕け、風が唸る。

 黒霧が街を覆っていた。

 

 ツェペリは、拳を握ったまま立っていた。

 腹の傷が開き、血が滴っていた。

 だが、目は揺れていなかった。

 鱗滝は、剣を地面に突き立てていた。

 隈取は剥がれ、顔は素のままだった。

 肩が裂け、腕が震えていた。

「……街が、『感情の波』に飲まれている」

 ツェペリが呟く。

「まだ、立てるか?」

 鱗滝が問う。

「立つとも。勇気は、波紋の芯だ」

「なら、俺も斬る。感情を持ったまま」

 二人は、並んで立っていた。

 瓦の上で、風に逆らって。

 

◆◆

 

 函館の街が狂っていた。

 人々が泣き、笑い、叫びながら崩れていく。

 

 志々雄は、その中心に立っていた。

 炎の気配を纏いながら。

 だが、表情は変わらない。

 周囲に、ほとんど興味を持っていない。

「……くだらん」

 声は、誰にも向けられていない。

 感情の波が、彼の周囲を避けるように流れていく。

 まるで、彼には届かないと知っているかのように。

「壊すなら、もっと強く、熱く壊せ」

「こんなもの、ただのカラ騒ぎだ」

 感情の競争の中で、彼は、平然と立っていた。

 瓦の上でも、地面でもない。

 ただ、炎の中に。

 

◆◆

 

 桑島は、立ち去る志々雄をもう追わなかった。

 この街の混乱から玉を、子供たちを救うことが、最も大切だったからだ。

 目の前に、子供たち。三人。

 その背後から、屍生鬼(グール)が3体。

 

 桑島は、腰に手をやった。

 会津の山中で手に入れた、神速の抜刀術。

「……雷の呼吸、壱の型──霹靂一閃(へきれきいっせん)……」

 声は低く、誰にも届かない。

 瞬間、目の前の屍生鬼(グール)に向かって飛び込み、斬る。

 屍生鬼(グール)は後2体、子供の襲い掛かろうとしていた。

 

 桑島は、猛スピードで突っ込んだ踏み込みの勢いを殺す。

 すぐさま次の屍生鬼(グール)に、雷の呼吸、壱の型を放つ。

 

 そして、最後の屍生鬼(グール)も、同じく壱の型で、切り伏せた。

「…………3連ッ」

 刀を納めた桑島は、そっと子供たちを安全な場所への誘導を始めた。

 

◆◆

 

 函館の空が、赤く染まっていた。

 感情の波が、街を焼いていた。

 笑い声が、泣き声に変わり、叫びが火の手に変わる。

 建物が軋み、窓が割れ、

 人々が感情のままに火を放ち、

 街が、炎に包まれていく。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)の面が、瓦の上で跳ねた。

 

 黒霧が渦を巻き、マドカの体を包む。

 ひなたは、その傍らに立っていた。

 血と吐瀉物にまみれ、足元が崩れかけていた。

 声を振り絞って、叫ぶ。

「マドカ……お願い……あなたが壊れても、私は見てる……あなたが何を選んでも、私は隣にいる……!」

 黒霧が、ひなたの胸を打つ。

 感情の波が、再び襲いかかる。

 

 ──怒り。

 ──孤独。

 ──無力感。

 

 ひなたは、膝をついた。

 胃が痙攣し、喉が焼ける。

 涙が止まらない。

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)が、鼻で笑った。

「哀れだな。言葉で何が変わる。感情は、喰われるべきだ」

 だが、その声の奥から、マドカの声が漏れた。

「……ひなた……やめて……そんなふうに呼ばないで……」

 面が震える。

 黒霧がわずかに揺れる。

 

 だが、すぐに残響賛歌(エコーズ・アンセム)が押し戻す。

「黙れ。お前はもう、私だ」

 

 ひなたは、立ち上がった。

 足が震えていた。

 でも、叫んだ。

「マドカ……あなたがいなくなったら、誰が私を見てくれるの!」

「髪を結った日も、雨の日の縁側も、全部……全部、まだ私の中にあるのに!」

 

 黒霧が爆ぜる。

 マドカの肩が揺れる。

 面が傾く。

「……私も、覚えてる……でも、もう戻れない……」

「戻れるよ! 戻ってきて、マドカ!」

 

 残響賛歌(エコーズ・アンセム)が、笑う。

 面の口が、カクカクと動く。

「戻る? どこに? この街か? 故郷か? それとも、異国か? ……感情に飲まれた者に、帰る場所などない」

 マドカの声が、かき消される。

 黒霧が再び濃くなる。

 

 面が、ひなたを睨む。

 ひなたは、袋を握りしめた。

 香りが、風に乗って広がる。

 マドカが好きだった、あの香り。

「……お願い……あなたを、終わらせたくない……」

 

 マドカの体が、わずかに揺れた。

 面が、ピクリと跳ねた。

 そして──

 マドカが、面を外しかけた。

「……ひなた、ごめん……私、もう……」

 そのまま、瓦の端へと歩き出す。

 風が強く吹く。

 髪が舞い、黒霧が渦を巻く。

 

「マドカ!!」

 ひなたが叫ぶ。

 マドカが、身を投げようとした瞬間──

 振り返らずに、語りかけた。

「ありがとう。あなたがいたから、ここまで来られた。でも、私はここで終わる。それが、私の選択」

 

 ひなたが、走った。

 瓦が砕け、足が滑る。

 それでも、手を伸ばす。

「終わらせない!! あなたが終わるなら、私も終わる! だから、終わらせないで!!」

 

 マドカの腕を掴んだ。

 二人の体が、屋根の端で揺れる。

 黒霧が、風に引き裂かれるように散っていく。

 

 面が、瓦の上に落ちた。

 ポコッと、静かに跳ねた。

 風が、止んだ。

 街の遠くで、炎が静かに沈んでいった。

 ひなたは、マドカの腕を抱きしめていた。

 涙が、瓦に落ちていた。

 

◆◆

 

 瓦の上で、風が止んでいた。

 黒霧は消え、空気が澄んでいた。

 

 マドカは、ひなたの腕の中で静かに目を閉じていた。

「……ひなた……」

 その声は、もう残響賛歌のものではなかった。

 ただ、マドカの声だった。

 

 ひなたは、何も言わずに頷いた。涙が、マドカの髪に落ちた。

 街の遠くで、鐘が鳴った。誰が鳴らしたのかは、もうわからなかった。

 でも、その音は、静かだった。

 

 マドカから外れた面が、瓦の上を転がった。

 ポコッ、ポコッと音を立てて、 誰にも拾われることなく、風に流されていった。

 

 鱗滝とツェペリは、遠くの屋根からその様子を見ていた。

 互いに目を合わせ、ニヤリと笑う。

 

 しづは、薬屋の前で子供たちを抱きしめていた。 その横に、通詞の青年がいる。

 

 志々雄は、炎の残り香の中で一度だけ空を見上げた。 そして、何も言わずに背を向けた。

 

 瓦の上で、ひなたはマドカの手を握っていた。 その手は、温かかった。

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