瑠璃色の迷子
Second memory/
まずはこれから、この人生に於いて二番目に古い記憶の話をしようと思う。
目の前に広がっている広大な花畑。左前方には茶色のレンガでできた風車があり、その右側には小高い緑の丘。そこには数匹の羊が放牧されているのが見えた。
よく晴れた日で、雲ひとつない青空には一本だけ描かれた飛行機雲。聞こえてくるのは、そよ風が色鮮やかな花々を揺らす静かな音だけ。
幼い頃の自分は一人でベンチに腰かけ、そんな素朴で美しい景色を見つめていた。
これがいつの頃の映像なのか。そもそもどこに行った時の記憶なのかは、両親に訊ねてみても分からなかった。
なぜ、こんな履いて捨てるほどある小さな記憶を鮮明に覚えているのかは知らない。もはやそれが実際にこの目で見たものなのかも断言はできない。でも、あの情景だけは忘れないということは言い切れる。
これからの人生は、あの記憶を原風景として生きる。
だからこそ、あの時と同じ景色をずっと探していた。
それを見つけるためにカメラを選び、写真を撮った。
そして、その最中に出会った美しい瑠璃色の女の子。
彼女と過ごす日々で、原風景と同じ何かを見つけた。
これは、そんな記憶の話から始まるひと夏の物語だ。
◇
The story begins/
小春日和の放課後。部活が終わった後、俺は一人電車に揺られて都内のとある公園へと向かった。
名前の知らない綺麗な花がちょうど見頃だと知り、愛機のカメラを首からぶら下げて行ってみようと思った次第。自分で調べなくとも、SNSをぼんやり眺めてるだけで情報が入ってくるこの時代に心からの感謝をしよう。
最寄り駅を出て、すぐ近くにある入場料がかからないその公園に足を踏み入れる。平日ということもあり、時間帯的にも人は疎ら。しかし、情報どおり公園内には可憐な花がそこら中に咲き乱れていた。
夕焼けの色も良い味を出している。これなら満足できる写真が撮れそうだ。雑誌の公募の期限も近かったし、今日はそれを狙ってシャッターを切ることにしよう。
そう思いながら公園の石畳を歩き、ベストなアングルを探す。白、赤、黄色と様々な色彩で春を彩っている花々。匂いを放つ品種なのか、周囲には甘い香りが漂っていた。もし俺が蝶々なら、どれだけ遠くで生まれてもここに引き寄せられてしまっていただろう。そして待ち構えていた凶暴な蟷螂に八つ裂きにされていたかもしれない。死んじゃうのかよ。頑張って生きろ、蝶々の俺。
「ん?」
そんな感じでバカなことを考えながら公園の中央に足を進めていると、花壇と花壇の間にある一メートルほどの通路に人影を見かけた。
制服を身に纏っているところからして、おそらくは女子高生。どうやらその子はそこにしゃがみ込み、足元に咲く紫色の花を見つめているようだった。
それだけのことだったならば、わざわざ歩みを止めることはない。だけど、彼女を視認した瞬間、なぜかこの足は自動的に動くことをやめた。
「…………え」
立ち止まった理由を一言で表すのならば、俺はその女の子に見惚れてしまった。いや、そうじゃない。その子と彼女の周りにある情景に、目を奪われた。
彼女の延長線上に浮かぶ夕日。その淡い光に照らされる名前も知らぬ美しい花。そして、周囲に咲く色彩よりも鮮やかな瑠璃色の髪をした女子高生。それらがあまりにもちょうどいい配合で混ざり合い、この水晶体を通過した。
それはどこにでもある光景だというのに、今の俺にはそう思えなかった。まるで、普通の家庭にあるありきたりな調味料だけで作り上げられた、三ツ星料理みたいに。
自分が息をしていないことに気づいたのは、首にぶら下げたカメラでその光景を切り取った後。この数秒間は完全に無意識に動いていた。声をかけるのも忘れるほどに、その情景に見入ってしまっていたんだ。
「あら」
シャッター音に気づいた女子高生がこちらを向く。
静かな春の公園内にはそれを遮る音など何もない。カメラから発された小さな機械音は、花壇の前にしゃがみ込む少女の耳に届いたようだ。
いや、
つまり、その子はかなり大人びた容姿をしていた。制服を着ているのだから、俺と同じ高校三年か、もしくは年下の可能性もある。全然見えないけれど。もし私服を着ていたりしたら、間違いなく年上に見えたことだろう。
「あ、えっと」
勝手に写真を撮ってしまったことを謝ろうとしたのだが、なぜか声が喉の奥から出てこない。
瑠璃色の髪をした女の子は立ち上がり、きょどって話しかけられない他校の男の方へ近づいてくる。怒っているのかと心配になったけれど、その表情は柔らかい。分かりやすい表現をするならば、子供のいたずらを笑って往なす大人の微笑。
「あなた、いま私のことを撮ったのかしら?」
その場に立ち尽くす男の数歩前で立ち止まり、その子は訊ねてくる。物的証拠であるカメラを抱えているのだから、弁明などできるわけもない。しかし、ここで逃げてしまったら明らかに犯罪的な行動になってしまう。ならば、いま俺にできるのはその言葉に正直に頷くことだけ。
「そう…………です。その、急に撮ってごめん」
後頭部をかきながら謝罪すると、意外にも瑠璃色の女の子は気にしないで、というような顔で言った。
「別にいいわ。撮られるのには慣れているから」
「? 慣れてる?」
「モデルをやってるのよ。読者モデルだけどね」
「ああ」
確かにそれっぽい見た目をしているから、そう言われても驚きはしなかった。
瑠璃色のウルフカットの髪に、青色の瞳。すらりと高い身長は男の俺とほとんど変わらないくらい。一目見ただけで普段からストイックに体形の維持に取り組んでいると分かる、高校生離れしたスタイルの良さ。人に見られることに慣れているのか、こうして俺が観察している時の佇まいも非常に落ち着いている。だからその素晴らしいプロポーションをじっと見てるわけじゃない。ほんとだよ?
「でも、どうして私を撮ったの?」
首を斜めに傾げながら訊ねられる。同じくらいの年だとは自覚しているものの、なぜか年上の綺麗なお姉さんと話している気分になるのはしょうがない。少し迷いながら、俺はその質問に答えた。
「あんまり綺麗な画だったから、思わずというか」
その言葉に興味を持ったのか、瑠璃色の女の子は「へぇ」と、言いながらこちらに数歩近寄ってくる。
「よかったら見せてくれるかしら、その写真」
「ああ、いいよ。ちょっと待って」
俺のような知らない奴であっても、撮られた出来が気になるのはモデルの性分みたいなものなんだろう。
俺は首に掛けたミラーレス一眼を操作し、先ほどの光景をディスプレイに映した。それから近くに来た瑠璃色の女の子にカメラを渡す。
「ぁ────」
すると、その写真を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。その反応の意味が分からず、黙って画面を見つめる整い過ぎた横顔を、傍らで数秒間眺めていた。
春の夕暮れに漂う空白。花に囲まれて立ち尽くす高校生の男女を、近くを舞う蝶々は何を思いながら見つめているのか、と答えの出ない命題を夢想した。
「どうかした?」
声をかけると、白昼夢から目覚めるようにカメラから顔を上げる瑠璃色の女の子。それからすぐに余裕のある表情に戻る。それを見て、今までの数秒は俺が見ていた幻なのではないか、と現実を少しだけ疑った。
「良い写真ね。なんだか」
そこで言葉は止まる。続きを促すことなく黙っていると、彼女はふっと息をついて口元に微笑を浮かべた。
「少し、故郷の景色を思い出しちゃったわ」
夕日に向けられた目線には、誰にも気づかれないほどの悲壮感のようなものが含まれている。その事実を、この世界中で俺だけが知っていた。
「そっか」
それだけ言って、俺は瑠璃色の女の子から差し出されたカメラを受け取る。それ以上を聞く権利など、初対面の男はふつう持ち合わせていない。
「写真を撮るの、上手なのね」
「まだまだだよ。そう言われるのは嬉しいけどさ」
「謙虚ね」
「謙虚さを失くしたら、そいつは人間として終わりだからな」
思ってもいないバカなことを口にすると、瑠璃色の女の子はクスリと笑ってくれる。少し居心地が悪くなったので、とりあえず話題を変えることにした。
「もしよかったら、この写真のデータあげようか?」
「本当? 嬉しいわ」
断られても別にいいか、と思いながら言ってみたらすぐに良い反応をくれた女の子。勝手に撮っておいて何もしてあげられないのも申し訳ないし。
Bluetoothで自分のデバイスに先ほどの写真を落とし、渡された紫色のスマートフォンにデータを送る。ここでしれっと連絡先を訊くのも可能だったが、甲斐性なしの俺にそんな高度なナンパ術を披露する勇気などあるわけがない。しかも相手が相手だ。もう少し普通な感じの女の子だったらアプローチを掛けていたかもしれないが、あいにくレベルが高すぎてそんな気にすらならなかった。
「写真撮るのが好きなの?」
「まぁね。実家がぼろい写真屋だから、小さい頃からカメラが近くにあったんだ。高校じゃいちおう写真部の部長をやってるよ」
「へぇ。その制服、藤黄学園よね」
「そうだよ。そっちは…………なんだっけ」
作業をしながら、瑠璃色の女の子へ顔を向ける。
彼女が着ている制服には見覚えがあった。中学の同級生が通ってた気がするんだけど、名前が思い出せない。そうやってその黒のブレザーや青いリボン、白いチェックスカートなんかをジロジロ見ていると答えを教えられた。
「虹ヶ咲学園よ」
「ああ、そうそう」
お台場にある、いま超人気の高校だ。いろんな専攻があって、試験にさえ受かれば在学中に違う学部にも行けるという、なんとも自由なことで有名な学校、だよな。その高校の制服を着る生徒のスタイルの良さに動揺してうっかりド忘れしちまったぜ。
写真のデータ送信が終わり、貸してもらったスマートフォンを返すと、それをブレザーのポケットに入れた瑠璃色の女の子はこちらを見て口を開いた。
「虹ヶ咲学園三年の朝香果林よ」
そうして自己紹介をされる。同級生でよかったと安堵しながら、こちらも名乗ることにした。
「藤黄学園三年、
俺が名乗ると目を丸くする女の子、もとい朝香果林。この反応には慣れている。たぶん、というか確実に俺の名前に驚いているんだろう。めずらしいからな。これまで何万回と同じリアクションを取られているから、今さら何も思わない。
「おとぎ話に出てきそうな名前なのね」
「よく言われるよ」
本当、なぜうちの親は息子にこんなヘンテコな名を付けたのだろう。苗字が星、なのは仕方ない。しかし、それが分かっておきながらどうしてわざわざ星と親和性の高い光、なんて名前を選んだんだ。
病院の受付とかで名前を呼ばれると待合室にいるみんなが一斉にこっちを見るんだぞ? あの時の居心地の悪さは異常。小学生の頃からクラスの奴らに『星の王子さま』と弄られ過ぎたせいで、もはや俺は本当に星から生まれ落ちた王子さまなんじゃないか、とアホみたいなことを考えていた中二の頃を思い出して唐突に死にたくなった。
俺のドライな反応に、朝香果林という女の子はまた大人びた微笑を口元に浮かべる。
「でも、とても綺麗な名前だわ。あなたに似合ってる」
そして急に予想もしない言葉を言われ、心が居場所を失くした。しかし、その反応を表に出さないように注意して、少し仕返しをするように言葉を返す。
「初めて会ったこんな綺麗な女の子に言われたんだ、十八年分の褒め言葉として受け取っておくよ」
「あら嬉しい。初めて会った可愛い見た目の男の子に褒められたわ。ありがとう」
「…………」
仕返しをしたつもりが一瞬で倍返しにされてしまった。高速で顔が赤くなっていくのを自覚する。どうやら俺は口先でもこの子に敵わないらしい。
動揺しまくってる俺を見ながらクスクス笑う朝香果林。まぁ、こんなハイレベルな子が笑顔になってくれるなら道化にでもなれるのが男って生き物だ。恥ずかしいことには変わりないが、良しとしよう。
「あなたはこの花を撮りに来たの?」
ひとしきり笑った後、朝香果林は俺たちの足元に咲く花に目を落としてそう訊ねてきた。
「そんな感じ。自然とか景色を撮るのが好きでさ、ちょうど見頃だって聞いたから。朝香さんは?」
「スタジオから寮に帰る途中で偶然見つけたのよ」
そう応えながら、彼女はその場にしゃがみ込む。
それから少しの沈黙。横顔を見ていたらまた写真に収めたい衝動に駆られたが、今度はちゃんと理性で耐えた。
「この花の名前、知ってる?」
「名前までは分からないな。菖蒲とか?」
開花までだいぶ早いが、この時期に咲く品種もあるのかもしれない。そう思い答えると、果林は口を開く。
「フリージア。私の故郷に、毎年この花が咲く頃に開かれる祭りがあってね。一面がいろんな色のフリージアで埋め尽くされるのよ」
「へぇ。そいつはいいな」
その光景をイメージした途端、あの二番目の記憶が蘇ってくる。あの時に見ていた花が何なのかまでは思い出せないが、きっとその景色は限りなくあの記憶に近いものなのだろうと想像した。
「あなたも行ってみるといいわ。きっと、良い写真が撮れると思うから」
朝香果林はそう言って立ち上がる。彼女が立つ方向から吹いた風が、フリージアの甘さとエレガントな香水を調和させた香りを、傍に立つ俺の鼻まで届けてくれた。
「分かった。いつか行ってみるよ」
俺の答えに微笑を浮かべる朝香果林。これで何度目かは分からないけれど、その表情に再び心の自由を奪われた。
「じゃあ、私は邪魔すると悪いから帰るわ。写真、ありがとう」
そう言い残し、立ち去ろうとする瑠璃色の女の子。
俺たちはここで偶然出会っただけ。それだけの関係なのだから、引き留める理由など存在しない。
だけど、心はそうすることを許さなかった。
「ちょっと待ってくれ」
その言葉に呼応するように、彼女は立ち止まる。
ここでただ別れることが許せないのなら、どうすれば心情は満足してくれるだろう。そう自問すると、答えは思ったよりも早く出た。
「もしよかったらでいい。もう一枚だけ、君の写真を撮らせてくれないか?」
頼りない勇気を出して俺は言った。
そうすればきっと、この心は彼女との別れを受け入れると思ったから。
「もちろん。その代わり、今度はちゃんと報酬をもらうわよ?」
「マジか。財布に三百円しかないんだけどいい?」
「冗談よ。ていうかなんでそれしか持ってないの?」
呆れるような仕草をする果林。だって本当に持ってないんだもん。バイトの給料日前だから仕方ないじゃん。
「本当に報酬は無くてもいいのか?」
「いいわ。さっきよりも良い写真を撮ってくれるなら、ね」
言葉とともに飛ばされる軽いウィンク。その悪魔的な可愛さにうっかり意識を失いそうになりながらも、何とか平然を保って言った。
「了解。なら、こっちに来てくれ」
「分かったわ。何かポーズはいる?」
「あー、その辺は自由でいい。朝香さんに任せるよ」
「そう。じゃあ」
言って、朝香果林という女の子は春風に揺れる瑠璃色の髪を片手で押さえるような格好と、こちらを振り向く半身の状態でその場に立った。遠くには沈み行く夕日に、周りには美しい彼女を飾るフリージア。その光景はまるで、春が見せる幻のように思えた。
出来る限り鮮明に、この現実を泡沫の夢と消えさせないために、祈るようにして俺はファインダーを覗き、一回だけシャッターを切った。
「本当に一枚だけでいいの?」
「ああ、これ以上は申し訳ないし」
「気にしないでもいいのに」
そう言ってポーズを解く果林。それからすぐ、彼女は続ける。
「あなたになら、いいわ」
その笑みと言葉にどんな意味が含まれているのかは、あえて想像しないように努めた。
「そういうことを言われると、すぐ調子に乗るからやめてくれ」
「照れ屋さんなのね、星くんは」
「そんなところにしといてくれ」
カメラを下ろし、張り詰めた集中の糸を緩めるみたいにふっと息を吐いた。
「撮らせてくれて、ありがとう」
「こちらこそ。また、どこかで会えるといいわね」
この広い東京で、そんな偶然が二度起きるとは思わない。そんなものが起きればそれは偶然などではなく、奇跡だ。だけど、それを願う自分がいる。
どうか、この出会いがこれで終わりませんように。なんて、あり得ない妄想を春の夕暮れに浮かべた。
手を上げて立ち去っていく瑠璃色の女の子。今度は声をかけることなく、その凛とした背中を黙って見送った。
「ああ、そういえば」
しかし、再び立ち止まる美しい体躯。その行動に訝しみ、首を傾げた。
瑠璃色の髪が揺れ、こちらを振り向く。空に似た青色の両眼が、数m離れた所に立つカメラをぶら下げた制服の男を捉えている。彼女はそいつに向かって、何かとても大事なことを言おうとしているように見えた。
放課後にたまたま訪れた公園。そこで見つけた、花に彩られる鮮やかな色。そして、その春の夕暮れ時。
「お台場に帰りたいのだけど、ここからどうやって行けばいいのかしら?」
「…………は?」
俺は、美しい瑠璃色の迷子に出会った。
◇
──────A host of golden freesia.
──────瑠璃色のフリージア──────
次話/学校のマドンナ