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植物園を出た後も、俺は亮さんの車で島の様々な場所に連れて行ってもらった。
裏見ヶ滝、という名前のとおり滝を裏から見られる場所に、島富士の麓にある牧場。それから野生のウミガメが見られるスポットにも訪れたり、この島のソウルフードであるという島寿司を食べさせてもらったりした。てかヤバいだろあの寿司。甘さとほんのりとした辛味がマッチした独特の味があまりにも衝撃的で、東京に帰ってから普通の寿司を食えなくなるんじゃないか、と意味不明な恐怖を覚えてしまうほどに美味しかった。
そんな観光名所を巡りながら撮る果林の姿は、やはり東京にいる時よりも生き生きとしているように見えた。
今まで知らなかった彼女の一面を知ることができただけでも、この島に来た意味がある。まだ仕事用の写真は一枚も撮っていないのに。
「────はぁ、すごく綺麗ね」
気づけば日は傾き、俺たちは島で一番きれいに夕日が見られるという展望台にやってきていた。
亮さんが運転してくれる車から降り、海へと沈んで行く夕日を眺めながら文字通り黄昏ている果林。俺は彼女が立つ手すりから数メートル後ろにあるベンチに腰掛けて、美しいサンセットに当てられるその後ろ姿を見つめていた。
「どうだったかな、この島は」
後ろから声を掛けられ、そちらを振り返るとすぐそばに停めた車に背を預けて煙草を吹かす亮さんがいた。俺はまた視線を戻し、前に立つ女の子の背中を見て答える。
「そうですね。思ってたよりも広くて、良い所が多い場所だなって思いました」
口から零れていくのは、本当にテンプレな感想。
でもしょうがない。これ以上の言葉でここを語るのは無理だったから。
「はは。他の土地から来た人たちは、みんなそう言うよ」
そう答える亮さんはきっと、俺の言葉がポジティブな意味だけを含んでいるわけではないことを感じ取っていた。だから、そんな風に言ったのだろう。
藍色と橙色が交じり合う空を眺め、ひとつ息を吐く。
近くの渚に打ち寄せる静かな潮騒と、東京とは音色が違う蝉時雨に耳を傾けていると、自分が今どこにいるのか一瞬わからなくなった。そうしていると、以前から気になっていたことを聞きたくなった。
「亮さん」
「うん?」
「この島にいた時の果林って、どんな女の子だったんですか?」
この人ならそれを知っていると思い、問いかける。唐突な質問だったけど、同じ男の彼ならきっと答えてくれると信じて。
俺たちの会話は、離れた所に立つあの子には届かない。聞こえていたとしても、それだけは知りたいと思った。
そうだなぁ、という声がすぐ後ろから聞こえ、同時に煙草のにおいが鼻をくすぐった。
「俺もこの島にいなかったから、東京に行く直前の果林ちゃんを見ていたわけじゃないけど、あの頃と比べたら今の果林ちゃんはとんでもなく綺麗になったよ」
「昔はそうじゃなかったんですか?」
「いいや? 小学生の頃から他の子と比べても信じられないくらい可愛かったよ。この島にいるのがもったいないくらいにね」
そう言った亮さんはこちらに歩み寄り、俺の隣に座る。
彼は目を細めながら、夕日を眺めている彼女のことを見ていた。昔を懐かしむようなその横顔を見て、少しだけこの人のことをうらやましいと思ったのは、自分でも意外だった。
「じゃあ、なんであの子が東京に行ったのかは、わかりますか?」
考えてみればすぐに分かるような質問をする。これはただの確認。この島を数時間案内されただけで、その理由はだいたい理解できたのだから。
亮さんは息をつき、それからまた口を開いた。
「他の子と同じだよ。まぁ、俺とも同じかな」
「亮さんと?」
「俺も高校は島の外の学校でさ、それから結婚してこの島に戻ってくるまで、海外を旅してまわってたんだ」
「ああ、やっぱり」
その言葉を聞いて、彼がどこか日本人らしからぬ空気感を出していることに合点がいった。バックパッカーとかめっちゃ似合いそうだし。この島でゲストハウスをしているのも、おそらくその経験を活かしてのことなんだろう。
亮さんは携帯灰皿に煙草の灰を落とし、それから続きを語り出す。
「光くんも分かったと思うけど、ここは本当に狭いんだよ。いろいろ諦めればずっとここで生きていくこともできる。でも、それは籠の中の鳥と変わらないだろ?」
「…………はい」
「そう。だから俺は世界を知るために外へ出て言った。そしてその広さをだいたい理解して、また籠の中に戻ってきたのさ。そしたら、『ああ、ここもそんなに悪い所じゃなかったんだな』って思えるようになったんだ」
亮さんは茜色の空を見上げて、微笑みながら言う。そこまで歳は離れていないはずなのに、目の前にいるこの人がとんでもなく大人の人だと思えてしまった。
俺は東京生まれ東京育ちだから、本当の意味で彼の言葉を理解することはできない。でも、すべてが想像できないわけではない。この島を見て、彼女のことを知った今なら、少しだけ分かる気がした。
「そう、なんですね」
「うん。だから、果林ちゃんも同じなんだよ、きっと」
亮さんは言って、短くなった煙草の火を携帯灰皿で消した。
この狭い島でやりたいことをやるのは難しい。それどころか、やりたいことを見つけることすら困難だ。だからこそ、島を離れる人がいる。そうして地元を離れて世界を知り、成長してからまた戻ってくる。そうして大きくなった鳥は、籠の中が素敵な場所であったと初めて理解することができるんだろう。
数秒の間をおいて、隣から聞こえてくる声。
「果林ちゃんをよろしくね、光くん」
そして、予想していなかった言葉に驚いて横を見た。
「…………それは、どういう」
「君みたいな青年が近くにいてくれれば、あの子はきっと、道を間違えないで済むと思うから」
そう語る彼のどこか悲壮な表情を見て、今の言葉には様々な意味が含まれているのだと感じた。
俺が近くにいれば、きっと道を間違えないで済む。ということは、もしかしたらこの人は、その間違いを犯してしまった人なのかもしれない、と。
それが具体的にどんなものかは知らないし、訊かない。俺にできるのはただ、頭に浮かんだ事実を口にすることくらいだった。
「あんまり、期待しないでください。俺はそんなに出来た人間ではないんで。…………でも」
正面から吹いてきた潮風。それに揺れる瑠璃色の髪を見つめながら、俺は言った。
「俺自身もあの子の近くに居たいって思うので、都合はいいのかもしれません」
「へぇ、そうなのかい」
亮さんは何かを見透かしたかのように笑う。人生経験が豊富なこの人なら、俺の心の中身など簡単に知られてしまうのだろう。なんとなくバツが悪くなり、首に掛けたカメラに視線を落とした。
「…………俺、あの子を撮るようになってから、誰かを写真に収めることが楽しく思えてきたんです。景色の中に立つあの子を撮ると、それが自分で撮ったものだと思えない感じがして、それで」
「だから、光くんは果林ちゃんを撮るんだね」
その言葉に、俺は一度だけ頷いてみせた。
「そんなところ、ですかね。結局、俺とあの子がこうして一緒にいるのは現時点での利害が一致してるだけで、これからもずっとそうしていられる保証は無いのだけは確かなんです」
だから、約束はできない。夏休みの間だけ、という短期の契約が切れれば、俺と彼女が繋がる理由はなくなる。
偶然に偶然が重なって生まれたのが、今の俺と彼女の関係性。これ以上を求めるのはきっと、それを与えてくれた神様に対して失礼だと思う。
だけど、本当は。
「それでもいいよ」
横に座る亮さんはこちらを見つめてくる。果林と似た青い目に捉えられ、俺は黙ってその続きを待った。
「どんな理由でもいい。果林ちゃんのことを、よろしくね」
真っすぐな視線を思いに居心地が悪くなり、俺は誤魔化すようにカメラを構えた。
被写体はもちろん、数メートル先にいる瑠璃色の女の子。海に沈み行く夕日の温かな色彩が、美しい彼女を淡く彩っている。
果林のことをよろしく。その言葉がどれだけ重いものかちゃんと理解している。簡単に頷いていいものではない。だからこそ、俺は言葉では答えなかった。
ただ返事をする代わりとして、ファインダーを覗き、一度だけシャッターを切った。
次話/綾小路姫乃はやはり重い
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