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昨日と変わらず、本日も気持ちの良い夏晴れが広がっている。時間が早いからか、それともそういう場所を選んだからなのか、果林が撮影ポイントとして選んだ浜辺は俺たち以外の人影は見えない。後で加工すればどうとでもなるので、別に他の海水浴客がいてもよかったのだが、撮影する側としては他人の目が無い分都合が良い。
「お待たせ。じゃあ始めちゃいましょうか」
「そうだな。じゃ、手はず通り頼む」
更衣室で藍色のビキニに着替えてきた果林が砂浜に戻ってきて、早速仕事に取り掛かることにする。
今回は何種類かの水着の写真が欲しいらしく、その辺も考えて撮影を行わなければならない。同じポーズや構図が被らないよう、カメラマンとして気を使う必要がある。どうでもいいが、なんか果林の水着姿にも慣れてきた気がした。あくまでも気がするだけ。
こんなところまで来て思うのも今さらかもしれないけど、趣味でやっていたはずの写真がいつの間にか仕事になってしまっている。いつかそんなことができたらいいな、と頭の中で思っていたことが、気づいた時には既に叶っていたかのような。とても不思議な感覚だった。
少し前までは良い写真を撮れば誰かに見てもらえる立場にしかいなかったのに、今の自分は誰かに見られることが確定している写真を撮ろうとしている。本来、そこに行けるのは本当に腕のいいプロのカメラマンだけ。でも、俺はそうじゃないのにそこに立っている。それは間違いなく、俺ではなくこれから撮るモデルのおかげ。
今日はその感謝をしながら、彼女が初めて特集されるページの素材を撮ることにしよう。プレッシャーとかは特に感じない。金にならなければ切り捨てられる実力主義の世界が相手だとしても、彼女の写真ならば大人たちを黙らせられる自信があった。こんなことを口に出せば子供が何を調子に乗ってるんだ、と大人には思われるかもしれない。でも、この感覚だけは真実だ。そして、シャッターを切ればそれは確信へと変わる。瞼の裏にあるだけの幻想なんかじゃない。朝香果林という女の子を撮る時だけ、このカメラは世界を色鮮やかに写してくれる。だから大丈夫。
「まずはこの辺でいいかしら?」
「そうだな。濡れるとあれだし、海の方は後にしよう」
海の家で借りたパラソルの下に座り、遠くへと視線を向ける果林。初めはそんな彼女を撮っていく。今回は場所が海ということもあり、その背景を活かしながら朝香果林の魅力を引き出さなくてはいけない。
海ばかりを上手く撮ろうとすると視点が主役に行かず、かと言って逆でもいけない。もし、他の土地だったのなら気にしなくてもよかったのかもしれないが、ここは果林の故郷だ。そこにいる彼女と景色が持つ魅力の両方を切り取るのが、今回俺に与えられた仕事。あいにく、そのどちらも撮り慣れているので特に心配はない。
「次は椅子に座ってみるか。なんというか、都会の喧騒から解き放たれた田舎出身のOLが、久しぶりに海に来た感じの雰囲気でよろしく」
「分かったわ。光の指示って独特だけど結構わかりやすいのよね」
「そりゃよかった。…………ああ、うん。いいね、そんな感じ」
俺の頭に浮かんでいるぼんやりとしたイメージを伝えると、果林はそれを上手く飲み込んでくれる。それも、彼女のモデルとしてのスキルが高いからこそ簡単にできるのだろう。別の子にこんな指示をしたら間違いなく真顔ではぁ?って言われる自信がある。
理論よりフィーリングを大事にする俺と、抽象的な言葉を理解するのが早い果林は、やっぱり仕事仲間として相性がいいのだろう。じゃなければこんなに淡々と作業は進まない。
思った以上に滞りなく仕事は進み、果林の水着を変えてからまた違う構図の撮影に入った。
今度は白地にハイビスカス柄が入ったロングタイプのパレオ。エレガントな印象のその水着は、普通の女子高生であれば着こなすことすら無理なのだろうが、朝香果林にかかれば完全に自分のものとしてしまえるようだ。そんな彼女の姿に若干見惚れながら、俺は思ったことを言うために口を開く。
「果林には似合わない服が無いのか?」
「そんなのあるに決まってるじゃない」
「ふーん、例えば?」
「ロリータ系とか、ガーリーなファッションは無理よ。着てる自分を想像もしたくないわ」
「あー、それなら分かるかも。でも、一回チャレンジしてみればいいのに。意外と似合うかもしれないぞ?」
「嫌よ。光の頼みでも絶対に着ないわ」
渋い顔で腕組みをしながらそう断言する果林。ファッションに詳しいこの子がそこまで言うのなら、それらは余程似合わないと思っているのだろう。もしかしたら試したことがあるのかもしれない。
「えー。見てみたかったのになぁ」
冗談と本音の半々くらいの気持ちでそう言うと、果林は不機嫌そうにボソッと何かを呟く。
「…………ああいうのは、可愛い子が着るから可愛く見えるのよ」
それからプイッと視線を逸らされる。
その口ぶりからして、どうやら自分はそうじゃないと思っているようだ。本当に、何を言ってんだかこの子は。
「可愛くなかったら、似合いそうだなんて言わないっつーの」
「え…………?」
丸くなった青い両眼がこちらを見つめてくる。しかし、今度は言った側が居心地悪くなり、目線を海の方へと向けた。そして、それ以上は何も言わないことにした。この子が自分をどう認識していようが関係ない。
ただ、俺から見た朝香果林は今まで会ってきたどんな女の子よりも可愛い。以上、それだけ。
しばらくの間、砂浜に微妙な空気が流れる。打ち寄せては離れていく小さな波の音だけが耳に届いてくる。なんだこれ。普通に死にたい。
「…………っ」
「…………!」
ちらっと果林の方を向くと、彼女もちょうどこちらを見ていて、うっかり目が合ってしまった。同時に再び目線を外す俺たち。一瞬だけ目に入った彼女の顔は、似合わない桃色に染まっているように見えた。
こういう時に何を言えばいいのか分からない自分が嫌になる。いや、この空気感を作り出したのは俺なので自業自得なのかもしれないが、それにしても早くこの状況をどうにかしてほしい。
そうして痒くもない頭や鼻をかいたりしながら時が過ぎるのを待っていると、すぐそばから小さな声が聞こえてきた。
「…………ありがとう」
そのらしくない言葉を耳にして、よく分からないけれどまた顔が熱くなった気がする。頼むから、それは気のせいであってほしかった。
◇
それから二人で気を取り直して撮影を再開し、少し休憩を取ることにした。時間が経つにつれて徐々に海水浴客は増えてきたが、さほど影響はない。天気も良いし、撮れ高は上々。後は小道具を入れて、実際に海に入っている果林を撮ればここでの撮影は終了する。
「良い感じだな。この調子じゃ残りもササッと撮れるんじゃないか」
「そうね。じゃあ早く終わったら光も泳ぎましょ。せっかく水着持ってきてるんだから」
「そうだな。こんな綺麗な海そうそう来られないし、そうするか」
パラソルの下に体育座りをする果林に自販機で買ってきたミネラルウォーターを渡し、その隣に腰掛けてからそんな話を交わす。実家からは持ってこなかったが、昨日の夜に亮さんから使っていない新品の水着をもらえたので、いちおうそれをバッグに入れてきている。使わないままってのももったいないし、ありがたく泳がせてもらおう。
目前に広がる青い水面を眺めながら、ペットボトルの炭酸水をひとくち煽る。それから空を見上げると、太陽の周りを円を描くように飛んでいる一羽の鳥がいた。そして、波打ち際で遊んでいる子供連れの家族の声と、ささやかな潮騒が聞こえてくる。
そんな美しい八月に包まれたこの小さな島。そこにいることを自覚すると、またあの記憶が蘇ってくる。俺の脳裏に刻まれた、二番目に古い思い出。ここにいると何度もあの記憶を思い出す。どうしてなのかは知らない。あの花畑がある場所は、ここではないのに。
「…………綺麗だよな」
ポロリ、と自然に零れ落ちたその言葉。
陽光に煌めく海も、白い砂浜も、離れた所に見える緑の小島も。視界に入るすべての情景がこの心を打つ。少しだけ、この島で生まれた果林がうらやましいと思った。東京が汚れているとは思わないけれど、ここと比べたらだいぶその色は霞んで見える。何でもある広い世界で生きる人間と、この狭い島で息をする人。そのどちらが幸せかなんて、今の俺では答えなど出せるはずがなかった。
「そうね。私もそう思うわ」
主語のない俺の言葉に、そんな反応を返してくれる果林。その言葉を聞いて、俺はどうしても訊きたくなった。
「なぁ、果林」
「うん?」
「その、お前さ」
「────あの。もしかして、読者モデルの朝香果林さんじゃないですか?」
俺の声に被さるように、近くから聞こえてくる言葉。
視線を前に向けると、そこには水着姿の女の子二人組が立っていた。たぶん、俺たちより少し年下の学生だろう。果林にそういう話しかけ方をする時点で、地元の子ではないことは分かった。それに、何となく違う土地から来た感じがする。
「ええ、そうよ。あなたたちは?」
果林がそう答えると、その二人の女の子は顔を見合わせて嬉しそうな声を上げた。どうやらこの子たちは果林のファンらしい。こういう現場に居合わせたことが無かったので、俺は何も言わずぼんやりと彼女たちのやり取りを見つめていた。
「えっと、私たち旅行でここに来てて」
「それで、さっき朝香果林さんを見つけて声をかけてみようって」
「私たち果林さんのファンなんですっ」
「いつも雑誌見てますっ。あ、あとスクールアイドルの方の果林さんも大好きですっ!」
興奮の色を隠さず、早口で語るその顔は感激に染まっている。憧れの読者モデル兼スクールアイドルにばったり出くわして、勇気を出して声を掛けたら反応をもらえた。それが嬉しくないわけがない。
「ふふ、ありがとう。そう言ってもらえて、私も嬉しいわ」
「あの、それで。もしよかったら私たちと一緒に写真を撮ってもらえませんか?」
スマートフォンを握りしめる女の子の一人にそう言われ、果林はすぐに立ち上がる。
「ええ、いいわよ」
「やったっ。それじゃあ…………」
「光、お願い」
「あいよ」
そういうことならカメラマンが必要だろう。どうせなら俺のカメラでハイレベルな写真を撮ってあげたいと思ったが、彼女たちが求めているのはそういうものじゃない。話に入り込んでその喜びの邪魔をする気にはなれなかったので、俺はスマートフォンを借りて三人で並ぶ女の子たちの前に立った。
どうでもいいけど、今どきのスマホってめちゃくちゃ良い写真撮れるんだよね。写真をやってるからこそ、それがよくわかる。下手なコンデジとかを買うよりは高性能なスマートフォンで撮影テクニックを少し齧って、アプリとかでちょっと加工すればビックリするほどの写真が撮れるのでおすすめ。
果林と旅行客という二人の女の子の写真を撮り、俺はその一人にスマートフォンを返す。彼女たちには伝わらないかもしれないが、そこら辺の奴じゃなく俺に任せて正解だったと思う。普通に撮るよりはクオリティは間違いなく高いはずなので、インスタとかに載せれば秒でバズることだろう。どうせならカメラマンの名前とか載せてくれないかなー。フォロワーが数十人しかいない俺のアカウントをもうちょい盛り上げてほしい。それはどうでもいいとして。
「ありがとうございますっ!」
「これからも応援してますっ、頑張ってください!」
「ええ。あなたたちも、旅行楽しんでね」
果林がそう言うと、きゃいきゃい言いながら去っていく二人組。その後ろ姿を見送る果林は、いつもと何も変わらない様子だった。
「やっぱり、人気があるんだな」
「まぁね。でも、地元で声をかけられるとは思わなかったわ」
またシートに座る果林。俺はそこで水を飲む彼女に向かって、さっき言いかけた質問とは別の問いを投げた。
「他人に憧れられるって、どんな感覚なんだ?」
果林は数秒の間を空けて、海の方へと視線を向けながら口を開く。
「そうね。ありきたりだけど、プレッシャーと嬉しさを感じるわ」
そう言ってから両手を後ろにつき、果林は夏空を見上げながら続きを語る。
「期待に応えなくちゃ、って思うのと、きっと期待に応えたからこの子たちは私に声をかけてくれているんだ、っていうその二つ。どっちにせよ、もっと頑張らなくちゃって思わされるわ」
「そっか。すごいな」
率直な感想を言うと、彼女は前に立っている俺に視線を向けてくる。
「あなただって、誰かに憧れられてるかもしれないでしょう?」
「それはないよ。俺に憧れを抱くくらいなら、この世に無い幻想を妄想してた方がマシだ」
「またそういうことよく分からないこと言う。自意識が低いのも考えものね」
「ほっとけ。てか、事実なんだからしょうがないだろ」
そう言ってみせると、果林は何故かふっと笑んだ。
「本当にそうかしらね。まぁ、別にいいけれど」
「あ? どういうことだよ」
「知らないわ。自分で考えなさい」
なんて、意図の読めない言葉を吐きながら立ち上がる果林。それから彼女は海の方に足を向けた。
「ほら、早く続きを撮るわよ。終わったら光も海に入るんでしょ?」
そうして振り返り、そう言ってくる。
俺は頷き、彼女に応えた。
「ああ、そうするか」
俺の言葉を聞いて、果林は先に波打ち際へ歩いて行く。その背中を見ながら、少し考えた。
他人に憧れを抱かれるのは、彼女のように何か秀でた才能を持った人間だけ。それが現時点での俺の認識だ。おそらくそれに間違いはないし、その事実に変化が訪れることもないだろう。
だからこそ、俺は誰かに憧れを抱かれるあの子に憧れているのかもしれない。いつか、自分もそういう存在になりたい、と。
「…………?」
そうして一歩、足を踏み出した瞬間、ふと脳裏にある記憶が描かれた。それは、いつもの様々な色の花が咲いている映像とは違う。
いま見えたのは、
なんでそんなものが思い出されたのかは、いまの俺に分かるはずもなかった。
次話/帰らない意味
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