◇
道幅が車一台分ほどしかない坂道を上る。既に日は落ち、涼し気な空気が辺りを包み込んでいた。
「はぁ、っ」
息は切れるけれど、立ち止まることはない。それどころか、坂を駆け上がっていくにつれて全身を巡る血液は熱を帯び、足を前へ前へと進ませてくれる。もし、何の目的もなかったのなら脳は身体に止まれと指示を出してきただろう。でも、今は違う。脳がこの坂を一気に上れと命令してくる。だから、俺は黙ってそれに従うことにした。
左右に広がるのは暗い雑木林。星空荘の前にある道路が一本道でよかった。この林の中に逃げ込まれていたのなら困るけれど、さすがにその可能性は無い。とにかく、この道を上って行けばいつか追いつくはずだ。
そうして舗装路がなくなり、道は不整地へと変わる。夜は深まり、街灯などあるはずもない周囲の景色は黒へと染まっていく。方向音痴のあの子のことだから、たとえここが地元の道だったとしてもどこか予想もしない場所に行ってしまわないか。こんな時にそんな心配をした。たとえ迷子になっていたとしても、必ず見つけ出して見せる。
しばらくすると、また整備された道路に出る。右に行けば上り坂、左は下り坂。何となくだけど、ここまで坂を上ってきてさらに上に行くとは考えにくい。だから、その推理のとおり俺は左を選んだ。
「…………あ」
車通りも灯りも何もない、その二車線の道路を進む。途中でふと空を見上げると、そこには思わず息を呑んでしまうほど美しい星空が広がっていた。
東京では絶対に見ることができない無数の星の瞬き。こんなものは写真でしか目にしたことがない。自分の名前の由来を教えてもらったことはないけれど、もし両親がいま見ているような夜空を仰ぎ、俺にこの名を付けたのなら、その気持ちをよく理解できたに違いない。
でも、それに目を奪われている場合じゃない。今はとにかくあいつを探さなきゃ。
そうしてさらに坂道を下って行くと、ガードレールしかなかった道の左側に、小さく拓けたスペースを見つける。そこには手すりが設置され、一台のベンチが置かれていた。どうやら海を眺めるための展望台のようだ。
そして、そこには一人の女の子が腰掛けている。
「…………」
何も言わず、彼女に近づき、その数歩後ろに立つ。
そこからはこの島の隣に浮かぶ小島と、遥か彼方に伸びている水平線が望めた。太陽は既に沈んだというのに、まだ水平線の向こうはほんのりと赤みを帯びている。たぶんそれも、あと数分の内に夜の海へと溶けていくのだろう。そんな、素朴で美しい景色を、彼女は一人で眺めている。
橙が残る藍色が完全に侵食されていく光景を、しばらくの間ふたりで黙って見つめていた。
◇
「私ね、自分を変えるためにあの学校に入ったの」
そして、唐突に聞こえてくるその言葉。
それは、遠くから聞こえる潮騒のように、耳を傾けなければ取りこぼしてしまいそうな声音。だから、少しでもよく聞こえるように一歩だけ前に足を踏み出した。
「本当はこの島の中でもよかった。でも、ここじゃ私は変われない。だから、東京に出てやりたいことを見つけて、今までの私じゃない私になろうとしたの」
少しの静寂をおいて、言葉の続きが届く。
「誰よりも輝いて、何かで一番になろうとした。頑張れば東京だけじゃなく、日本で一番になれるって、あの頃は本当に信じてた」
呆れるようなため息。でも、その意味はよく理解できた。
二日間とはいえ、この島を巡ればすぐに分かった。俺のような凡人がここで生まれたのなら、どこにも行かずにいても人生に納得できたのかもしれない。
ただ、彼女は違う。その美しさと可憐さはこの島では手が余る。それは誰が見ても明らかだ。だからこそ、広い世界に出ることを選んだのだろう。
「学校の先生も、友達も、家族も。みんな背中を押してくれたのよ。好きなことをしなさい、って。あなたらできる、って。私も、私なら絶対にできるって思って島を出た。頭の中では完璧だったの。…………でも」
そこで果林は一度言葉を止め、辺りにまた深い静けさが落ちる。
たぶん、その先を口にしたくないのだろう。プライドの高い彼女が、自分自身を嘲る。その行為が許せないのかもしれない。だから、俺は黙って次を待った。言いたいなら言えばいい。言いたくないのなら言わなくてもいい。その気持ちを、無言という言葉で伝えるために。
「でも、それは勘違いだった。東京は私が思っていたよりもずっと広かった。私なんかよりも綺麗で、才能がある年の近い子が沢山いて、十五年間狭い島の中で何もしていなかった女なんかが一番になれる余地なんて、どこにもなかったわ」
果林は俯きながら紡ぐ。その仕草だけで、今の言葉に含まれた思いは痛いほど伝わった。
「そもそも、手段が分からなかった。何をすれば輝けるのか。自分が他人より優れているものが何なのか。そういうことも分からないまま、私は東京で一番になるって言っていたのよ?」
笑えるわよね。なんて、自嘲する彼女は本当に
けどだからこそ、その言葉が本音なのだと分かった。
「しばらくいろんなことをやってみて、やっと読者モデルの仕事と出会えた。私はようやく自分が輝ける舞台を見つけられた。…………だけど、やっぱり一番にはなれなかった。それなりに人気が出て、島の友達からも雑誌を見たとか連絡が来たりしたけど、それだけじゃ全然満足できなかったの」
「…………」
「読者モデルの仕事は、私が特別な何かをしたから人気が出たわけじゃない。島から出てきた時の私のまま、そこまでは行けたの。本当に、何の努力もしていないの。頑張ったのは、お金のことを考える大人たちだけ。私はあの人たちに従って、カメラの前で笑えばよかった。ほら、それって私がすごいわけじゃないでしょう?」
俺が知らない朝香果林のことを、彼女は自ら教えてくれる。その残酷な話を聞いていて、また心がチクリと痛んだ。
「だから、私は努力をした。誰よりも輝ける読者モデルになってやろうと思った。けど、どうしても限界はあるのよ。それなりに人気になったら、それ以上はどう頑張っても何も変わらなかった。仕事は増えないし、減りもしない。どうすればその状態を変えられるのかな、って考えて、考えて、考えて。ようやく見つけたのが、読者モデルとは別の道」
「スクールアイドル、か?」
果林はこくりと頷く。そしてまた口を開いた。
「スクールアイドルを選んだのはそれだけが理由じゃないけれど、ほとんどがそういうことなのよ。そこでなら、新しい私が見つかるんじゃないかって。ステージの上なら、一番になれるんじゃないかと思って。だから」
そこまで来てようやく、話に出てくる朝香果林が俺の知っている彼女とつながった。なぜスクールアイドルになろうとしたのか。やっと知ることができた。そして、その理想がどれだけ高く、今の彼女と乖離しているのかも。
「本当はね、昔の私と別人になるまではここに帰ってくるつもりはなかった。私を知っている人たちに、何も変わってないって、思われたくなかったの」
「だから、逃げたのか?」
その言葉に、藍色の髪が弱々しく縦に振られる。その姿を見て、俺は初めて朝香果林という女の子のことを理解したのだと思った。
本音を言えば、嬉しかった。プライドの塊みたいなこの子が、俺みたいな奴に自分の生い立ちを語ってくれるとは思わなかったから。
でもたぶん、それを言ったのはただ俺のそれを語りたかったからじゃない。彼女は、何かを求めている。その事実を知った人間から伝えられる、本当の言葉を。
だからこそ、俺は考えた。何を言うべきか。どんな言葉をかけるべきなのか。
正論だけを並べて、一方的に傷つけることは簡単だ。けど、それじゃ彼女が俺を選んだ意味がない。近くで見ていたからこそ、何百枚と彼女の写真を撮ってきた俺だからこそ、言える言葉があると思った。
「そうか」
彼女の横を通り、手すりの所まで歩いて行く。
そして振り返り、手すりに背を預けながら、頭上に広がる満天の星空を見上げた。そんな俺を見ていた果林も、それに倣うようにして空を仰ぐ。
この島に来てから見る、初めての星空。その無数の光の粒は、まるで幻のように綺麗だった。
綺麗なものにはみんな目を向ける。他の何かより輝いているものには興味を持ってくれる。だから、彼女もそうなりたいと願ったのだろう。この夜空のように、誰もが見つめてくれる存在に。
だったら、俺はそんな彼女にとっての星になってみたい。
彼女がこれ以上、迷子にならないように。
◇
「他人の目って気になるよな。分かるよ。これまでいろんなものを撮ってきたから」
星空を見上げながら、俺は前に座る果林に向かって言う。彼女は黙って聞いてくれている。それを確認して、続きを語ることにした。
「他人にカメラを向けるとさ、大体の人間は一番いい自分を撮ってほしいと思うんだよ。そういう必死な姿を見てるといつも、人間っていうのは他人からどう思われてるのかに縛られてる生き物なんだって思わされる。当たり前だよな、そんなの」
都合のいい優しさなんかいらない。俺は、俺が言えることだけを言ってやる。それでこの子に嫌われるなら、その時はその時だ。どうせ後悔するのなら、言って後悔をしたい。それが、今の俺の願い。
「だから、他人の目を気にすんな、なんて言わない。お前自身が他人のために変わりたいんならそうすればいい。ただ、」
そこまで言って、俺は視線を落とす。
そこには、真剣な眼差しをこちらに向けてくる瑠璃色の女の子がいた。その姿を見るとまた、嫌われたくない、という弱虫が鳴き声を上げる。でもダメだ。それじゃ、俺がここにいる意味がなくなってしまう。
だから。
「果林が一番輝いてるのは、果林が果林らしくしてる時だってことは忘れんな」
俺はその虫を握りつぶし、青い瞳と真っすぐに向き合った。
「…………私が、私らしくしてる時?」
「そうだ。お前はお前だ。他の誰かじゃない。だから、誰かと同じ土俵で一番になることだけに縛られて生きんな。
「でも、それじゃあ」
何も変わらないじゃない、と。言葉にならない言葉が聞こえた気がした。それに答える前に、俺は一度深く息をついた。
「そもそもさ。人間が変わったなんて、どうやって証明すりゃいいんだろうな。見た目? 性格? それとも頭の良さとか? どれでもないだろ」
この言葉は他の誰にも言えない。この子のことを知っている俺だけが吐ける台詞。だから自信を持て。果林が頼ってくれるのなら、青臭いド正論だって言ってやる。
「自分が変わったことに他人が気づくのなんて、結局は他人の受け取り方次第だ。自分では変わってないと思っていても、他人からすれば別人になったように見えるかもしれない。その逆だってある。そういうもんだろ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「簡単だ。今の自分自身が一番輝けると思う姿を、そいつらに見せてやればいい」
この言葉を紡いだ瞬間、果林の目が見開かれるのが暗闇の中でも分かった。
「昔のお前のことは知らないよ。だけど言ってやる。朝香果林が一番輝いてるのは、やりたいことをやってる時。自分らしくしてる時だ。それだけは間違いない」
それも、俺だから分かることだ。
「…………やりたい、こと」
「ああ。だから、それを見せたい人に見せてやればいい。今のお前が一番やりたくて、その瞬間だけは自分らしくなれることをさ」
そういうものがちゃんとあるのなら、それを見せるべきだ。どんな形であっても。
これ以上は何も言えない。説教みたいになってしまったけれど、言いたいことは言えた。それで果林が何を思うのかは彼女次第。何をするのかも、すべて彼女が決めればいい。
数秒間の沈黙。その間、俺はまた夜空を眺めていた。それは本来、東京で見るものと何ひとつ変わらないというのに、場所を変えるだけでここまで美しく見える。人間にだって同じことが言える。
他の場所なら輝けないかもしれない。それでも、輝ける場所は必ず存在する。人は皆、そういう所を選んで生きるべきなんだ。だからこそ、俺はカメラを構える。そこが、自分を最も輝かせてくれる居場所だから。
ベンチから立ち上がる果林。それと同時に、彼女の後ろにある道路に亮さんの車が停まった。あの人もきっと、俺たちを探しに来てくれたんだろう。それなら一言言っておけばよかったな、と少しだけ反省してみる。でも、こうしてすぐに見つけられたのだから良しとしよう。
「なんだか、ちょっと楽になったわ」
「…………そっか」
そうして果林は伸びをして、そう言ってくれる。車のヘッドライトで明らかになったその表情は、確かに晴れやかな感じに見えた。
「あと、明日の予定なんだけど、少し変えてもいいかしら?」
「え? まぁ、果林がいいなら俺は構わないけど」
突然の提案に少し戸惑いながら答える。明日は日中に果林の母校へ行き、それから夜にある夏祭りの写真を撮る予定を立てていた。でも、彼女が変更したいというのならそれに従おう。
「じゃあ、明日は夜までフリーにしましょう。祭りが始まったら、カメラを持って役場の駐車場に来てちょうだい」
それだけを言って、果林は振り返る。
本当に唐突な話だが、この一件で彼女が何かを閃いたのは間違いない。だったら口出しする必要はないだろう。俺の仕事は、魅力的な彼女を撮ること。それを見せてくれるのなら、東京から何マイル離れた島だろうがどこだろうが、ついて行ってやる。
「光」
「ん?」
亮さんの車に近づいた果林は立ち止まり、こちらを振り返る。
そして、優し気に微笑みながら彼女は言った。
「ありがとう。一緒に、この島に来てくれて」
それから逃げるように車に乗り込む果林。その姿を見送って、どういたしまして、と聞こえないはずの言葉を口にした。
次話/第二章 最終話
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