Second memory/
もう一度、あの二番目に古い記憶の話をしようと思う。
広い花畑の前に座り、風に揺れる花を見つめていた思い出。
俺はまだ、あの原風景を追いかけている。
きっと、どれだけ数多くの場所に足を運び、美しい風景を見て、それをカメラで切り取っても、求め続けるのだと思う。
けど、それでいい。
あの原風景に縛られた不自由な人生だとしても、それを受け入れているから。
たとえ一人だとしても、誰とも感動を分かち合えなくても、俺はこの世界の一部を撮り続けるだろう。
ああ、でもひとつだけ。
もし、どんな願いでも叶えてくれる神様が目の前に現れるのならば。
あと少しでいい。どうか、あの子をもう少しだけ。
このファインダー越しに見る権利を。
記憶ではなく、そんな未来を────俺にください。
◇
とある日の放課後。電車に揺られて訪れたのは、春以来に足を踏み入れるあの公園。あの時に咲いていた花はどこにもない。その代わりに咲き乱れているのは、怖いくらいに鮮やかな赤い彼岸花。
世間ではよく不吉だと言われているけれど、個人的にこの花はかなり好きな部類に入る。ヒガンバナ、といういろんなものを連想させる名前の響きが綺麗だと思うし、どこか恐怖すら覚える見た目その見た目にも心を惹かれる。
だからこの時期になると、いつも俺はこの花が咲いている場所に来る。本当なら彼岸花が咲いていればどこでもよかったのだが、久しぶりにこの公園に来てみたいと思った。
夕方の公園は、春に来た時よりも閑散としていた。これだけ大量の彼岸花が一面に咲いていたら、普通の人はやっぱり怖いと思うのかもしれない。なのにわざわざ見に来るのは、俺のような変わり者くらいだろう。
そんなことを思いながら、彼岸花が植えられた花壇の間を歩いて行く。どこを向いても目に映るのは紅色だけ。
「…………ぁ」
そんな場所に、場違いな瑠璃色を見つけた。
後ろ姿だけですぐに分かる。沢山の人がいるこの広い東京の中だとしても、その姿を見間違うことはない。
反射的に声を掛けようとした。でもその前に、大量の彼岸花に抱かれる彼女のことを撮っておく。そうすればきっと、あの子は気づいてくれるから。
「あら?」
シャッターを切ると、それに反応してこちらを振り返る一人の女の子。そこにいる存在に気づいた彼女は、少し驚いたような表情をした。けれど、すぐにまたいつもの微笑を口元に浮かべる。
「ごめんなさい。花を見てる姿が綺麗で、思わず」
「ふふ、そう。でも、私の写真の使用料は高いのよ?」
「ああ。じゃあ事務所を通さなくちゃな。どこのモデルさん?」
「事務所を通してもダメよ。可愛い顔をしためずらしい名前の専属カメラマンに許可を撮らなくちゃ。彼、自分以外の人に私を撮られるとすぐ嫉妬しちゃうの」
「誰だよそれ。まったく、世の中には呆れたカメラマンもいるもんだ」
「あなたのことよ」
「さいですか。ていうか元専属カメラマン、な」
そんな軽口を交わし、俺たちは同時に笑い合う。
最後に会ってから一か月くらいしか経っていないのに、なんだかずいぶん久しぶりな気がした。写真や動画では見ていたけど、こうして顔を合わせると少し緊張する。それはきっと、俺自身が彼女に会いたがっていたからなのだと思う。
「元気にしてた? 光」
「おかげさまで。島から帰ってからなんかどうしても島寿司が食いたくなって、都内にある寿司屋を探して歩き回ってたよ」
「ふふ、そんなに気に行ってくれたのね」
「うん。でも、どの店も本場には敵わなかったな。だから、また来年にでも行こうと思う」
言うと、果林は一歩こちらに近づいてくる。
「じゃあ、その時は私も一緒に行ってもいいかしら。エマを連れて行きたいのよね」
「いいな、それ。じゃあこっちも一人、めちゃくちゃ行きたいっていうであろう子を連れて行くよ」
「む。それって誰かしら。もしかしなくても女の子?」
「まぁ、そうだな。ぶっちゃけると綾小路姫乃ちゃんなんだけど」
俺が言うと、なぜかちょっと不機嫌そうになった果林は納得するようにああ、と声を零す。
「あの子ならいいわね。でも、どうしてあなたとあの子って仲が良いの?」
「それは………………同じ学校同士、いろいろあんだよ」
果林の写真をあげたり、毎日のように果林の話を部室でしたりしてる、なんてことをカミングアウトしたら、俺と姫乃ちゃんは確実に通報される。これは隠しておくことにしよう。自分のためにも、姫乃ちゃんのためにも。
しかし、その安い誤魔化しが気に食わなかったのか、果林はむっとした表情でさらにこちらへ歩み寄ってくる。
「ふーん、私に隠し事をするのね。光って、そんなに冷たい人だったんだ」
「いや、言えないことのひとつやふたつは誰にだってあるもんだろ。それに、別に俺と姫乃ちゃんは仲良くないぞ。あれは────そう、腐れ縁ってやつだ」
「どんな関係なのよあなたたち。まぁいいわ。…………後輩の女の子になんて、私は負けないもの」
「? なんか言ったか?」
「別に。何でもないわ」
ボソッと果林が何かを言ったような気がしたのだが、軽く流されてしまった。特に重要なことでもないようなので、追及はしないでおこう。
「それで、果林の調子はどうなんだ」
「私も相変わらずよ。平日は賑やかにアイドルをやって、週末に淡々とモデルの仕事をしてるわ」
「へぇ。でも、今回の特集でまた人気が上がったりしたんじゃないのか?」
訊ねると、果林は足元に咲く彼岸花に一瞥をくれてから口を開いた。
「そうね。確かに反響は大きかったわ。学園の寮や事務所に来るファンレターの量が三倍くらいになったもの」
「すげぇな。ちなみに、その中の二割くらい同じ差出人から来てたりしてない?」
「どうして分かるの? もしかしてあれ、光が送ってたりしないわよね」
うちの学校にいる朝香果林狂を思い浮かべながら言うと、やっぱり当たってた。なんだってあの子の行動は変な方向ばかりに予想が当たるんだろう。部屋の中で文豪の如く果林へのファンレターを書き綴ってる綾小路姫乃の姿が目に浮かぶようだ。
「そういうのってよくあることだと思ってな。それで、仕事が増えたりとかはしてないのか?」
俺の問いに、果林は少し考えてから答えてくれる。
「実は、他の事務所からオファーが何件か来てるわ。それと、ファッション誌以外の仕事もね」
「え、マジか。よかったじゃん」
特に誇る様子もなく、果林は静かに語る。でも、それってかなりすごいことなんじゃないだろうか。読者モデルが特集され、その影響で他の雑誌から仕事がやってくるなんて、正社員じゃないバイトがとんでもない結果を出し、そのことが知れ渡って他の会社からバンバン仕事の依頼が来る、みたいなもんだろう。そんな優秀な人材が、本当に読者モデルのままでいいのだろうか。
「でも、まだ答えは出してないの」
「どうして。有名になれるならそれに乗らない手はないだろ」
果林の言葉が理解できずそう言うと、彼女は首を横に振る。
「…………だって、あれは私だけの成功じゃないもの」
「なに言ってんだ。果林が頑張ったから特集を組んでもらえて、それでまた人気が出たんなら、それはお前の成功だろ」
「違うわ」
当たり前のことを言ったのに、彼女はそれを真っ向から否定してくる。そして、こちらをジッと見つめてくる青い両眼。俺はその瞳から視線を外すことなく、黙って次の言葉を待っていた。
九月の中旬だというのに、遠くで蜩が鳴いている。どこからか吹いてきた風が、紺色の髪をふわりと揺らした。
「あれは、光がいたから」
十数秒、もしかしたらそれ以上の空白を開けてから、果林は言った。
「光とだったから、私は成功できた。あなたと一緒じゃなかったら、きっとあの仕事も上手くできなかった。だから」
彼女は言って、目線を前に固定したまま。
「光と一緒じゃなきゃ、新しい仕事なんて受けたくない」
首からカメラをぶら下げた男に向かって、そう告げた。
「……………………」
「夏休みが終わってからずっと、連絡しようか迷ってた。でもこうして会えたから言うわ。私は、光と仕事がしたい。あなたにだけ、最高の私を撮ってほしい」
真っ直ぐすぎるその言葉に、声が出せなかった。もしかしたらこれは夢のなのかもしれない、なんて、バカなことを本気で思ってしまうくらい、彼女の告白は嬉しかった。もしここが他の誰もいない世界の果てだったのなら、情けなく涙を流してしまうくらいに。
「いいのか、俺なんかで」
「私は、あなたがいいの。光が私を選んでくれるのなら、お願い」
この子にそう言われて、断れるわけがない。だってそれは、この一か月間、俺がずっと願い続けていたこと。あの契約が最後じゃなく、これからも続けていいというのなら、こちらから頭を下げてお願いするつもりだった。
チャンスがあるのなら、また君を撮らせてほしい。
俺はもう少しだけ、朝香果林を撮っていたい。
その純粋な想いを、彼女にぶつけたいとずっと願っていた。それを果林から頼まれることなど、予想できるわけがない。
俺はこれからも写真を撮り続ける。それはこの世界に明日が来ることと同じくらい間違いない。その理由は、あの原風景をもう一度見てみたいから。そんなバカみたいな夢を叶えるために、カメラに人生をかけようとしていた。
でも、この子となら。
これからも朝香果林を撮り続けることが許されるのなら。
俺がシャッターを切る理由はもう、それだけで十分だ。
「…………ああ。なら、よろしく頼む」
そう言って、俺は右手を差し出す。
彼女は綺麗な右手でその手を握ってくれた。
────夏の終わりに吹いた風が、周囲に咲く彼岸花を揺らす。どこにもないはずなのに、春にかいだフリージアの香りがした。それはきっと、あの島から届く、遠い春風が運んでくれたもの。
「こちらこそ、よろしくね」
そう言って優し気に笑う彼女に、きっと俺は。
いや、これ以上はまだ気づかなくていい。今はこの気持ちにわざと気づかないふりをしていよう。
そうしていれば、間違いも勘違いも起こらない。このまま一緒にいることができる。いつかは分からない。でも、今はそれだけでいい。この子を撮り続けることができるのならば、それだけで。
どちらからともなく手を離し、なんとなく恥ずかしくなって二人で笑い合う。
俺の顔が赤くなっているのは、たぶん彼女に気づかれている。でも、果林の頬が朱に染まっているのはきっと、夕日のせいだと思っておこう。
「言いたいことも言えたし、私は帰るわね」
「ああ、それじゃ」
手を上げて別れを告げる。
けれど、これが最後ではない。きっと小説にはならないちっぽけな話だけれど、ここからまた俺と彼女の新しい未来が描かれていくのだろう。
誰より美しく立つ彼女を、少し離れた場所で俺が切り取る。それだけの関係で構わない。
だって、互いの距離が近すぎてしまえば、良い写真を撮ることはできないのだから。
「そうだ、光」
公園の出口に向かって数歩歩いた先で立ち止まり、果林はこちらを向く。
顔を向けると、彼女は少し困った顔で言った。
「駅って、どっちだったかしら?」
その言葉を聞いて、俺はため息を吐く。それから呆れて笑ってしまった。
誰にだって、できないことはある。それはきっと、それぞれの人間が持つ
それでも、欠点を埋める方法は必ずある。本人がその手段を持っていないのだとしたら、近くにいる人間が手を差し伸べてやればいい。
「仕方ねぇな。じゃあ行こうぜ」
「うん。お願いね、光」
果林の隣に並び、駅に向かって歩き出す。
夜空に燦然と輝くあの一等星のように、彼女を導くことができるかは分からない。それでも、こうして隣を歩いて迷子にならないようにすることはできるかもしれない。むしろ、この子と一緒なら迷子も悪くはないと思える。
だからこれからも、遠すぎず近すぎもしない距離に浮かぶ星として、俺は撮り続けようと思う。
記憶の中で揺れる、あの瑠璃色の花のように。
色鮮やかに光り輝く────朝香果林を。
瑠璃色のフリージア
了